桂雀三郎師匠との出会い

1997年3月15日
サンケイホール・桂雀三郎独演会のプログラムより引用
(一部割愛しています)

まんぷくブラザーズへの道

雀三郎落語に惚れて

本日の主役、桂雀三郎師匠に初めてお会いしてから早十年。思えばあの運命の日からの色々な出来事を思い出すにつけ、僕は師匠に随分と大きくして頂いたなあと実感する今日この頃です。

僕はマンガ家とロックバンドをやりながらフリーターをしていましたが26歳を過ぎたある日、自主製作の8ミリ映画「七度狐の逆襲」を作ろうと思った僕は、その企画を相談させて頂くため、どうしてもプロの落語家さんにお力添えをお願いしなければならなくなり、友人の誘いもあって神戸で行われた雀三郎師匠の独演会を見に出掛けたのです。その時見た三つの雀三郎落語「饅頭怖い」「寝床」「明るい悩み相談室」のそのどれもがオモロイのオモロナイの!とにかくそれまではテレビの枝雀寄席やレコードの米朝落語くらいしか馴染みのなかった僕にとってはまさに衝撃的熱笑! 失礼ながらそれまで知らなかった落語家の落語のその面白さに目からウロコが飛んで出たのです。そしてその瞬問目の前がボヤけてしまい、飛んで出たのはウロコではなくコンタクトレンズだったと気づきました。

師匠の落語に接するうち僕は、雀三郎落語そのものに惚れてしまいました。そして「これは僕が世の中に広げなあかん」「この人と一緒に活動できたら楽しそうや」という直感的楽観的な思い込みだけで言わば弟子入りに近い気持ちで、勝手に雀三郎落語の会の世話人をしたりお手伝いをし始めたのです。当時すでにいた嫁と二歳の子供とお腹のヤヤを道連れに…。そんなんでどうやって生活すんねん! 食えるんか? そのへんのところはさておき、落語会の荷物を運ぶときは免許持ちの嫁に嫁の車を運転してもらっていたのですが、それではあまりに情けない…。僕は一生涯取らないつもりでいた自動車免許を師匠のために?!取得し晴れて自動車乗りとなったのです。

アルカリキッド

その後も師匠とのお付き合いは落語会を中心に進んで行きましたが、ある時師匠に「一度活弁をやって見たい」と言われたのをきっかけに僕の眠っていた創作の虫が蘇ったのです。そしてかねてから自分なりに持っていたプロットを師匠のご要望にそうかたちでまとめて監督させて頂いた、第一回桂雀三郎主演映画・8ミリ冒険活劇「アルカリキッド・トンで火に入る夏の豚」では、 1989年度伊丹映画祭「第六回グリーンリボン賞」銅賞を頂き、続編の「アルカリキッド2・3」は、共に翌年、翌々年の同映画祭の招待作品となったのです。

ヨーデル食べ放題

1989年頃、僕は、小さいながらライブ活動を始めました。するとそのことで僕がギターを弾けると見た雀三郎師匠が「一度その、ギターが弾きたい」、まるで「はてなの茶碗」の関白みたいなことをおっしゃるので、僕は“雀三郎師匠の、ギターの師匠”を謹んでお引き受けしたのです。そしてどうせやるなら誰の真似でもないオリジナルレパートリーを練習したほうが良いでしょうと言うことで「やぐら行進曲」「アルカリ落語会のテーマ」から大 ヒット曲「ヨーデル食べ放題」まで、さまざまな唄を作っては日々の稽古を始めました。

話は変わりますが、僕の好きな言葉に「継続は力」というのがあります。僕はこの言葉を誰よりも雀三郎師匠に捧げたい。継続して続けたからこそ「下手の横好き」がいつか「好きこそものの上手なれ」に変わり、「寝床」音楽と言われた歌も東芝EMIからCDになって全国発売されるという偉業へと結び付いたのです。


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