豊四季小かぶ
恩田藤太郎氏が大正10年8月”豊四季小かぶ”の栽培確立を発表した(柏市史年表 S55)これが定説となってるが、疑問説、複数説もなくもない。
富里移動後、近所仲間で栽培グループを作ったかも?栽培の確立、命名が大正10年だが、その数年前から栽培、採種していたと思われる。
この背景に多年にわたる利根川、江戸川、出水氾濫がある。恩田藤太郎氏が分家、独立した現在の東葛飾高校あたり国道寄りの畑か?
その後大正13年東葛飾中学建設により立ち退き現在の富里一丁目に移転畑は緑ヶ丘方面にあったと云う。租父藤太郎の話(恩田孔人氏)
金町小かぶ、福神漬の材料として契約栽培、切りかぶ泥かぶ、その後葉付きの洗いかぶの方が高く売れるとの情報で市場出荷に。
何かよい現金収入になる利口な作物はないものか、模索していた。偶々、諏訪神社の例大祭(8月22、23日葛飾一の賑やかな祭礼)の帰路、
日光例幣使街道を歩いていた金町の漬物商の、天野某に出会い、かぶの有利性を聞き、栽培を勧められた。本人からの聴取(西川述夫)
東京上野辺りの漬物屋の委託栽培 祖母の話(長沢寿昭)当時再々江戸川が氾濫して、漬物の材料”金町小かぶ”の畑が水没流失して、
品不足で高値になったと思われる。東京上野の漬物商は酒悦で福神漬の元祖、金町に下漬工場があった(東京漬物事業組合 酒悦長谷馨氏)
福神漬が日露、日清戦役で軍用達となっていたので納入不可欠、品不足、高騰による入手難から新たな栽培地、契約農家が必要になった。
かぶ(蕪)
呼び名の由来
形が人の頭に似ていたから。
頭=かぶり、頭に被るもの=かぶと、かぶりもの
春の七草=せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、(根の形が鈴に似ているところから) すずな=かぶ
『日本書紀』(720年)持統天皇の条に「ひのえうまの日にみことのりして、あめのしたをして、桑、紵、 梨、栗、蕪菁らの草木を
うえすすめうえしむ。これを五つのたなつものをたすくとなり」
蕪菁は葉をアオナ、根はカブラと呼んでいた。 今でも関西ではカブラと呼んでいる。