【港の街より愛を込めて】



作:藤和 価格:2500円 文庫サイズ 354ページ

ここはとある港町。この街では昨今貿易が盛んで、国から貿易の独占特許状を授けられた富豪や貴族達が、 他国から様々な物を輸入し、また輸出していた。
これは、貿易を生業とするとある貴族と、それに仕える使用人のお話。

--本文サンプル--

 そこはとある館の廊下。壁には華やかだけれども上品な、アラベスクの壁紙が貼られ、 大きな窓からは鮮やかな光が差し込んでいる。夜は灯が点される真鍮の燭台が、鈍く光を照り返して暖かだった。
 その廊下を、固い足音を立てて歩いている背の高い男性がひとり。針葉樹よりも深い緑色の、 翠銅鉱の様な髪を、三つ編みにして肩に垂らしている。着ている服は、使用人の物とは言え上質で、 この館の使用人の中では位が高いのであろうというのがうかがえる。
 彼が持っているのは、何枚もの紙が挟まった、革張りの分厚いノート。
 ふと、大きな扉の前で立ち止まる。樫の木で出来た重々しい扉、その向こうにむかい、彼が声を掛ける。
「マリユスでございます。只今参りました」
 すると中から、入れ。と、若い男性の声が聞こえた。マリユスはドアノブを捻り、中に入る。それから、 中に居る人物に背を向けないように気をつけながら扉を閉め、中で待っていた男性の方を向き、一礼をする。
「ソンメルソ様、書類をお持ち致しました」
「ご苦労。見せてくれ」
 扉と同じように硬さを感じさせる机に向かい、しっかりとした作りの倚子に座っているのは、この館の主人の息子で、 名をソンメルソという。顎のラインで切りそろえた赤茶色の髪を目から避けているソンメルソに、マリユスが応える。
「こちらでございます」
 マリユスが持っていたノートを両手で差し出すと、ソンメルソはそれを受け取って中身をじっくりと見ている。
「……ふむ、今回はクローブの入荷量が少ないな」
 ぽつりとそう言うソンメルソに、マリユスはこう返す。
「オランダでの需要が増えていて、こちらまでなかなか回ってこないようですね。
その代わりと言ってはなんですが、メースの入荷量が少々増えております」
「クローブが不作だからその代わりに仕入れたのか? それとも、それ以外に何か」
「スパイス諸島では無く、チャイナの方から入ってきた物が有るようです」
「ああ、なるほど」
 元々この家は貿易の仕事をしているのだが、 数年前にそれをソンメルソが全て継いだ。それ以前から仕事の補佐をしているマリユスは、今でもなお、 アドバイスをソンメルソから請われることがある。
 難しい顔でノートと書類を見るソンメルソを、マリユスは感慨深そうな顔で見る。まだ仕事を継いだばかりの頃、 ソンメルソは貿易の仕事に慣れたマリユスが驚くようなことを言った。
「奴隷貿易は一切辞める」
 何故そんな事を言ったのか、何故そう思ったのか、マリユスは当然疑問に思ったし、 父親もそれを聞いて反対した。けれどもソンメルソは決して譲らず、 今まで一度も一人たりとも奴隷を売り買いする事は無かった。
 ある時のこと、それを疑問に思ったマリユスが、奴隷貿易をしない理由をソンメルソに訊ねた。すると、 帰って来た答えはこういう物だった。
「奴隷だって、人間だ」
 それは一体どう言うことなのか、やはりマリユスにはよくわからなかった。奴隷はあくまでも奴隷で、 自分達とは違う物だと信じて疑っていなかったのだ。
 きっとこれは自分には理解の出来ないことだけれど、理解が出来なくとも、 ソンメルソのやり方で仕事はそれなりに上手く行っている。だから、今は無理に奴隷の売買をさせる必要もないだろうと、 マリユスは思っている。
「輸出用の石鹸は足りているか?」
 丁度輸出品の品目の書類を見ているソンメルソが訊ねてきた。
「次の出荷までに十分な数は用意出来るでしょう」
「そうか。我々の主力商品だから、決して足りないなどと言う事が無いように」
「承知致しました」
 奴隷の代わりに売っているのは、石鹸とワインと、毛織物。特に取引先で喜ばれているのは石鹸だ。
石鹸を使って身を清めると病気にかかりにくくなると言う触れ込みで売り出したところ、 各地の交易ディアスポラで買い求められるようになったのだ。
 この人ならば、貿易の新しい何かを出来るのではないか、マリユスはそう期待している。
 奴隷を売買するのは厭だと泣いたあの時の子供が、今では頼りないながらも自分の脚で立っているのだから。

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