夜が明けて、陣幕の外が騒がしくなってきた。
それでも、孝寿は微動たりともせず、静かに目を瞑っていた。
「ご報告いたします!」
陣幕の入り口から、物見に出していた男が飛び込んできた。
「動いたか?」
目を閉じたまま、孝寿は静かに尋ねる。
「はっ、敵は陣払いを開始した模様」
片膝を突き、男は報告する。「追い討ちいたしますか?」
「そうだな……。その姿勢だけ見せるとするか……」
「は?」
その返事に不思議そうな表情を見せる部下に対し、
「なに、こちらも嫌がらせのように出陣させられたのだ。だったら、向こうにもその苦労を与えるべきであろう」
と、静かに告げると、刀を杖代わりに立ち上がる。
「はっ!」
男は平伏し、「如何動きましょうか?」と、尋ねてきた。
「そうだな。嫌がらせに徹するのだから、陣太鼓や陣貝を鳴り響かせ、岩を落とせ。敵が算を乱し逃走を始めたら、そのまま整然と進軍。矢を射掛け、更に逃げ出したくなるようにせっついてやれ。あとは、敵の陣で旗指物の類を奪い取って、勝ち鬨(どき)を上げる。それでこの戦は終わりだ」
孝寿は今後の行動を素早く決める。
「直ちに陣触れを……」
慌てて陣幕から飛び出そうとする男を、
「まあ、待て。山頂の砦に詰める隊はこの陣で後詰めをさせるように。あと、兵には朝食を取らせよ。その程度の時間はあるはずだ。それと主立った部将を集め軍議を開く。直ちに伝令を飛ばせ。あと、軍議に参加する者たちの朝食も用意させるように。腹ごしらえしながら、軍議をするぐらいの余裕はあろうからな」
と、追加の指示を出す。
「承知しました」
慌ただしく陣幕から飛び立った男を眺めながら、
「それで、若は見事やり遂げられたのだな?」
と、誰にともなく尋ねる。
「はっ、【妖術士】の策を全て防がれました」
夜半に現れたのと同じ男が、同じ場所で片膝を付き、頭を下げていた。
「そうか。ならば一安心だな」
苦笑しながら、「やれやれ。我が君の博打よりも心臓に悪かった」と、呟く。
「血筋でございましょう」
「そう思うかね、【月影】殿?」
「おや、気が付かれておいででしたか」
男は一切悪びれるところ無く、覆面を外す。「やれやれ、割りと自信があったのですがな」
「私の【結界】内にいつの間にか入り込める技量を持った者などそう数はいないからな。最初から気付いていた」
「なるほど。騙しきるなら、態(わざ)と見つかるべきでしたか」
親爺は肩を竦め、苦笑する。
「それに、師匠のお供をしていた頃、あなたには何度も騙されている。流石に、手口は覚えたよ」
孝寿は快活に笑い、「それで、今から戻られるのかね?」と、尋ねる。
「いえ、向こうは若い者に任せてありますので、今暫くは、右近様にお付き合いするつもりですよ」
「それはありがたいな。早速で申し訳ないが、敵陣の様子を探ってきて貰えないかね? 【妖術士】のことだから無理をせずに退くだろうが、置き土産までは貰いたくないのでね」
「なるほど。そう云うことでしたら、お任せあれ。直ちに調べて参りましょう」
親爺は一礼すると、一陣の風となって姿を消す。
孝寿は一つ息をつき、床机に腰を下ろして軍議の準備が始まるのを待つのだった。
火の手が上がるのを見て、疲労困憊ながらもやり遂げた者特有の笑みを浮かべた二人は、背中合わせにしゃがみ込んでいた。
「何で、ここまで苦労しなければならなかったんだ?」
法念は呆然と火柱を眺めながら、思わず呟く。「酒を飲みに来ただけだぞ?」
「まあまあ、旦那。【羅刹】の火葬なんて、そうそうお目に懸かれるもんじゃありませんぜ」
豺蔵は肩で息をしながら、火柱の根本を見る。「それにしても、良く燃えますなあ」
「あれだけ油を掛ければ当然だろうが」
息を整えながら、法念は律儀に返事をする。
「まあ、多少掛けすぎた気もしやすな」
火元の周りには、油壺の成れの果てが数え切れないほど転がり落ちていた。「さてはて、誰があの油代を払うんですかねえ」
「少なくとも、俺たちじゃねえのは確かだ。こんだけ苦労して、その上油代だと? 報酬貰って当然の立場の人間にんなもん請求する莫迦は何処(どこ)の何奴(どいつ)だ?」
一息で啖呵を切った後、法念は荒い息で深呼吸を繰り返す。
「旦那、とりあえず、回復してからにしやしょうぜ、愚痴を云うのも喜ぶのも」
「そうだな……」
豺蔵の提案に一も二もなく飛び付き、法念は刀を杖代わりにして立ち上がり、火柱から蹌踉(よろ)めきながら遠ざかる。
豺蔵もまた、同じように歩き出す。
「咽渇いたな、糞ッ」
「無駄に痛くなるだけですぜ、旦那」
苦笑しながら、「孫、水ッ!」と、掠れた叫び声で豺蔵は指示する。
縁側でぐったりと倒れ、流石に法念は荒い息だけする。
孫四郎から水を受け取った豺蔵は、貪るように飲みながら、身振りで法念に水を持ってくる様に伝える。
直ぐに悟った孫四郎は、慌てて追加の飲み水を取りに行く。
「旦那、大丈夫ですか?」
とりあえず、水を飲み干した豺蔵は法念に声を掛ける。
法念は俯(うつぶ)せから引っ繰り返ると、
「水飲んだ奴には訊かれたくねえな……」
そう言って、恨めしそうに見る。
「すみませんね。こっちもちっとも飲んでませんでしてね。そこまで気が回りませんでしたよ」
だろうなと言う表情を浮かべ、法念は苦笑する。
お互い余裕がないのは承知の上だった。
寄せ手の将は運良く火矢を用意していたのだが、【羅刹】に火矢を射掛けることに躊躇した。表向きは、白鶴楼の正体を知る者としての常識論であったが、後から聞いたところに寄れば、知る者ぞ知る白鶴楼の常連客であったため、遊び場を無くしたのを嫌ったのではないかと邪推されていた。
その報告を聞いた豺蔵は、現場を孫四郎に任せて自ら交渉に行き、被害の少ないところまで誘き出した上で、燃えやすいように油を掛け、動けない状態にしてから射掛けるという安全策にすることで納得させた。
それをほとんど一人で【羅刹】相手に足止めをしていた法念に伝えた。これ以上【羅刹】相手をしたくない法念を宥(なだ)めながら、油壺の準備が終わるまでまたもや足止めをする。全ての準備ができた後、所定の位置まで誘導し、油塗(まみ)れになった【羅刹】を滅多斬りにして、再生する前に火を掛ける。一瞬の内に火柱となった【羅刹】は再生する暇もなく、あっと言う間に灰と化していく様を見て、限界を超していた二人は互いを背にしゃがみ込んだのである。
どちらも限界近くまで動いた上、火柱の側にいた所為で咽は焼け付く様に渇いていた。
水を飲んだ豺蔵でさえ咽がひりつくのに、まだ潤していない法念の状況は想像するに容易かった。
「部下が今持ってきやすから、暫しお待ちを」
隣に座った豺蔵に対し、法念は何の反応もせず、ただ荒い息だけをついていた。
そこに、
「おや。必要なのは水でしたか」
と、竹筒を持った六兵衛が現れる。
「ン、元町の……」
「新徴組の旦那方が御無事そうで何より」
法念を見て、「で、こちらの旦那は?」と、尋ねる。
「さあ? 良くは知りやせんが、雷刃様の知り合いらしいですぜ?」
「おやまあ。そいつは不確かなことで」
六兵衛は苦笑する。「とりあえず、杯の用意でもしてきましょう」
「別にそんなお上品に飲まないでも良いんじゃないのかい?」
「酒に悪いですよ。上物なんですから」
六兵衛は真面目腐った顔で答え、そのまま近くの座敷に姿を消す。
入れ替わる様にやってきた孫四郎が、零(こぼ)れんばかりに水を注いできた水桶を二人の間に置く。
「旦那、水が来ましたぜ」
法念に声を掛け、豺蔵は柄杓(ひしゃく)を手渡す。
よろよろと立ち上がって柄杓を受け取ると、法念は水を零しながら飲み続ける。
「ふぅ。やっと一息付けたぜ」
「そいつは宜しゅうございましたな」
猶も火勢衰えぬ火柱を見て、「やれやれ。何も考えずに火矢を射掛けていたら、今頃どうなっていたんでしょうかねえ?」と、豺蔵は苦笑する。
「さあな……。辺り一面暴れ回る【羅刹】の所為で火焔地獄だったやもしれんな」
法念は苦笑する。
「何が火焔地獄だって?」
その場に居るはずもない人物でありながら、居て当然とも思える男の声を聞き、二人は同時にそっちを見る。
そこには、アヤメを抱き抱えた雷刃が呆れた表情で立っていた。
「何さ、あの火柱は?」
「【羅刹】の成れの果てで」
「そいつはまあ……思い切った始末の仕方だな」
豺蔵の答えに、呆れて良いのか感心して良いのか困った表情を浮かべる。「流石の俺でも、そのやり方は思いつかなかった」
「では、旦那はどうやって片付けたんで?」
「ん? 俺か?」
暫し考えた後、「そりゃ、神刀流の技で、一刀両断よ」と、げらげら笑いながら答える。
「あの、雷刃様? いい加減降ろしていただけないでしょうか?」
対応に困った表情で、アヤメは尋ねる。
「降りたいなら自力で降りればいいだろう? くのいちなんだからさ」
あっさりと答える雷刃に、
「できればそうしています」
と、アヤメは拗ねる。
「ま、腰を痛めているのに無理して歩くことはないだろう」
「無理じゃありません!」
「何、無理じゃなければ、自力で抜け出しているだろうが。さっき、そうやって人の制止を振り切って【闇風】を追いかけていったのは誰だったかねえ?」
「そ、それは……」
口ごもるアヤメを更にからかおうとした雷刃は、ふとにやにやした顔で見ている二人に気が付く。
「云いたいことがあったら、はっきりと云ってくれた方がありがたいんだがねえ?」
「いえいえ。別にあっしは何にも云いたいことなんざありやせんぜ、旦那」
にやにやと笑い続けながら、豺蔵は隣の法念を見る。
「そうだな。別に【狂王】配下のくのいちといつの間に仲良くなったんだなんて考えてもいないぜ?」
やはりにやにやと笑い続けながら、豺蔵に目配せをする。
「やだやだ。男の嫉妬は怖いね。……それよりも、いつの間に仲良くなったんだい、二人とも?」
不思議そうな表情で雷刃は二人を眺める。「都鄙名誉(とひめいよ)の悪党と、新徴組の総長の息が合うなんて、世も末だねえ」
「ああ、道理で【神刀流】を使いこなすわけで」
「新徴組の総長? 道理で、【羅刹】や【鬼】のあしらいが上手い訳だ」
二人同時に納得すると、見合ってから腹を抱えて笑い出す。
「何だ、知らなかったのか」
唖然(あぜん)とした表情の雷刃を後目(しりめ)に、
「悪党、悪党。道理で、道理で」
「月の狩り手。そいつには敵わん」
と、互いを指で差しながら笑い続けていた。
「付いていけん」
溜息をついて、どうした者か悩んでいる雷刃に、
「おや、若」
と、六兵衛が声を掛ける。
「あ、親分。手数を掛けたね」
「いえいえ。こちらこそ、若のお陰で大事にならずにすんで、何よりです」
六兵衛は深々と一礼する。「鵜ノ沢の者が無事なのが、あっしには何よりも嬉しいですから。ところで若。師匠が好きだった、【竜殺し】を持ってきたんですが、一献如何ですか?」
「お、そいつは良いね。俺も好きだよ、【竜殺し】は」
雷刃は嬉しそうに親父の後に続く。
「まあ、待て。俺もそいつを飲む資格はある。なにせ、雷刃。俺はあんたと飲みに来たんだからな」
いきなり真顔で立ち上がると、法念は後を追う。
「あ、あっしを置いていくなんて酷いですぜ、旦那方。そんな良い酒を逃すわけにはいきませんぜ」
豺蔵は慌てて立ち上がる。
「どうでも良いんですが、雷刃様。いい加減、わたくしを抱き上げ続けるの疲れたんじゃありませんか?」
「アヤメちゃん、それは新手の嫌がらせかい? そういう云われ方をすると、ますます降ろす気がなくなるじゃないか」
にやにや笑う雷刃に対し、
「それでは降ろさないでくださいまし。酒盛りの間中」
と、アヤメはにっこり笑い返す。
「いや、ちょっと待て、待って下さいよ、アヤメちゃん」
動揺して雷刃はしどろもどろになる。
「嫌です、待ちません。わたくし、雷刃様の腕の中の居心地が気に入りましたから」
それを聞いて、他の三人が腹を抱えて笑い出す。
杯を受け取ったアヤメは、六兵衛に酒を注いで貰う。
「だったら、アヤメちゃんに飲ませて貰うまで」
何とか平静を取り戻し、笑いかける雷刃に、
「実はわたくし、【竜殺し】好物ですの」
と、アヤメは止めを刺してから、一気に飲み干す。
「嘘……だよなあ?」
衝撃から立ち直り、何とか声を絞り出した雷刃に、
「嘘付いてどうするんですか?」
と、けろりとした表情でアヤメは告げる。
その間に、他の三人は【竜殺し】を順調に飲んでいた。
「親分、もしかして、【竜殺し】それしかない?」
雷刃は恐る恐る六兵衛に竹筒を指差して尋ねる。
「そりゃ、高い酒ですから、それしかありませんよ」
何を莫迦なことを聞くと言った表情で六兵衛は答える。「アヤメさんと云ったね。お代わりはどうだい?」
「あ、頂けますか?」
満面の笑みを浮かべ、アヤメは杯を差し出す。「【竜殺し】は本当に久しぶり……」
雷刃は暫く惚けた表情でアヤメを見つめる。
「えっと……【竜殺し】はあげませんよ?」
牽制するようなアヤメに首を振り、
「いや、お前さんもそんないい顔で笑えるんだと思ってびっくりしてね」
と、雷刃は呟く。
「え?」
「ん、久々に酒より良いもので酔えた。好きなだけお飲み」
きょとんとしたアヤメに対して、打算も作為もない澄んだ笑顔を向ける。「ああ、良い夢を見ることができそうだな」
それを見て、六兵衛は驚きの余り杯を落とす。
その笑顔は、雷刃が鵜ノ沢に帰ってきて以来、いや、雷刃と二世の契りを交わした娘が死んで以来、浮かべることがなかった自然な笑顔であった。
六兵衛は気付かれる前に杯を拾い上げ、手酌で酒を注ぐ。
一人、座敷から抜け出し、火柱の向こうから昇ってきている朝日を眺める。
「今日も、暑くなりそうだねえ」
座敷の喧噪を後に、六兵衛は静かに杯を傾けるのだった。