親爺が出かけた白鶴楼は妙に静かであった。
雷刃は誰もいない座敷で、一人、静かな佇まいで三味線を弾いていた。
不思議と雷刃の三味線の音色からは常日頃の不貞不貞しさは消え、安らぎと慈愛に満ちた響きであった。
一人静かに聞いていたアヤメは、ほぅと思わず息をつく。
「おや、どうしたい?」
雷刃は撥(ばち)を持つ手を止めると、アヤメを見る。
「いえ、雷刃様がこれほどの腕をお持ちとは思いもよりませんものでして……」
夢見心地と言った表情で、アヤメは再び溜息をつく。
「なに。手慰みだよ」
雷刃ははにかむ。
「そのようには思えませんでしたけど?」
謙遜する雷刃を、アヤメは慌てて否定する。
「剣術を習い始めた頃は、すぐに挫折してねえ。その度に俺はいじけていたんだな。それを見かねた姉さんに『気晴らしになるなら、教えてあげるわよ』と、無理矢理仕込まれてねえ。何もかもが嫌になったとき、これに全てを叩き込む勢いで爪弾くと気がなんだか安らいでね。ただいじけていたよりはすぐに剣に没頭できるようになるから、心の赴くままに引いていたのさ。まあ、そのうち、剣の方がどうしようもなく面白くなって、心に蟠りやら、澱が積もったり、気が晴れないときに、己の心を見る道具として使っていてねえ。こいつを糧として使っている人間から見れば、邪道も邪道よ」
珍しく自嘲の笑みを浮かべながら、雷刃は三味線を仕舞う。
それを見ながら、しばし迷いを見せてから、
「その方が、雷刃様の心を縛られている方ですか?」
と、アヤメは怖ず怖ずと尋ねる。
遠い目をしながら何かを確認し、
「縛る、ねえ。確かに、ある意味で縛られてはいる、かな? あの人は、俺にとって、全てだったからねえ」
と、雷刃は呟く。
「どんな方だったかと、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「そうだねえ。ある意味でアヤメちゃんみたいな人だったよ。ただ、アヤメちゃんほど優しくはなかったかな。……残酷な女性(ひと)さ。俺を置いていったくせに、幸せそうな顔で逝くんだものな……」
一つ大きな溜息をついてから、「さて、辛気くさい話は終わりだ。せっかく来て貰ったお客様のために一曲爪弾いたのに、そのあと待たせるのも悪いからねえ」と、アヤメが捧げ持っていた【紫電丸】を受け取るや腰に差し、そのまま大胆でありながら隙がない歩みで欄干を飛び越し、二階から飛び降りる。「さあ、御立会い。我が剣舞に組み伏されたいのは誰からだい?」
雷刃の呼びかけに答えるかのように、塀の向こう側から闇がいくつも飛び出してくる。
それを見ても、驚きも慌てもせず、雷刃は【青嵐】を腰から抜くと、ゆっくりと一歩歩いてから、姿を消した。
次の瞬間、それまで雷刃がいた場所に闇から放たれた手裏剣がいくつも地面に刺さる。
「はっ、楽しいねえ!」
手裏剣を放ち、着地しようとした闇の一つに、いつの間にやら近づいていた雷刃が目にも止まらぬ早業で首筋に【青嵐】を叩き付ける。
闇が崩れ落ちるときには既にその場にはおらず、他の闇から再び投ぜられた手裏剣はむなしく宙を裂くだけであった。
「悪くはないが、青い、青い」
冷笑を浮かべ、雷刃は手裏剣を投げた瞬間の闇を一人叩きのめし、今一度手裏剣を投げようとしている闇を【青嵐】の一閃で昏倒させる。
そのまま、崩れ落ちる頭を蹴り飛ばし、
「さて、そろそろ招かれざる客が誰かって事ぐらい、教えようという優しい奴はいないのかね?」
と、辺りを見渡す。
しかし、それには誰も反応せず、手裏剣を諦め、次の武器を手にしている者が大多数であった。
「鎖鎌か。良かろう、試してみるが良いさ」
にたにた笑いながら、雷刃は【青嵐】でぴしゃぴしゃと肩を叩く。
それを合図としたかのように、数名が一斉に鎖鎌の分銅を雷刃向けて投げ飛ばす。
それに対し、雷刃は投げた一人に対し、地面を擦るかのような低い走りで駆け寄る。
迫り来る分銅を【青嵐】で叩き落とし、
「勢っ!」
と、気合い声とともに、低い跳躍のような飛び込みで一息に間合いを詰め、その勢いのまま、鳩尾に【青嵐】を突き込む。
直後、仲間もろとも雁字搦めにしようと襲い来る分銅の嵐を倒したばかりの闇を突き飛ばすことでいくつか叩き落としたが、それでもなお、圧倒的な分銅の嵐は雷刃に向かって容赦なく襲いかかってきた。
雷刃は慌てず、闇を突き飛ばした方に倒れ込むかのように転がり、その反動で起きあがるや否や、闇に分銅を当ててしまった者たちが立て直す前に【青嵐】での強烈な一撃を見舞い、包囲の一角を完全に切り崩す。
相手がほんの一瞬動揺したのを感じた雷刃は、直ぐ様次の行動に移っていた。
そのまま、突っ切って逃げ去るような気配と動きを見せてから、実際には、その正反対の行動を取ったのだ。
即ち、切り崩した方向の正反対に躍り込み、慌てて追いかけようとしていた連中を状況に気が付く前に一人でも多く叩き伏したのである。
流石に、一呼吸の間に状況を把握し直した闇であったが、それでも雷刃にとっては、十分な時間であった。
再び雷刃を包囲した闇であったが、明らかに、先ほどより見劣りがする穴のある布陣であった。
「で、先ほどとは違う攻めを見せてくれるのかね?」
にやにや笑いながら、雷刃は隙だらけの体を周りに見せつける。
流石に、雷刃のやり口が分かったのか、闇は無理に仕掛けようとせずに、分銅をいつでも投げられる構えのまま十重二十重に囲む。
「何だ、つまらん。面白味のかけらもないぞ?」
一つ大きな溜息をつくと、雷刃は何も考えずに前に進む。
包囲の輪の大きさを変わらぬように間を取りながら、闇は再び一斉に分銅を投げつけた。
【青嵐】を腰に差し、【紫電丸】で居合いの構えをとり、
「覇ッ!」
と、気合い一閃、飛来した分銅を全て斬り裂いた。
そのまま、【紫電丸】を納刀し、
「人を斬るのは好きじゃないが、爺さんより受け継ぎし隕鉄を鍛え上げた【斬奸刀紫電丸】に斬れぬものはないよ?」
と、柄をぽんと一回叩くと、そのまま無造作に前に進む。
それを怖れたのか、囲んでいた闇は、間をあけるためにではなく、反射的に後ずさる。
興ざめした表情で、雷刃は大きな溜息をつく。
「さて、そろそろ出てきたらどうだい? せっかく作った隙なんだから、上手く使って貰えないとつまらないんだがねえ」
肩を竦ませ、ある一点に【青嵐】を突きつける。「いい加減、出てきたらどうだね?」
【青嵐】が指し示した方向には、何もなく、ただ闇が蟠(わだかま)っているだけであった。
雷刃は、左手にいつの間にか握っていた小柄を躊躇(ちゅうちょ)せず投げつける。
何もない空間を貫き、虚空をどこまでも駆け抜けるはずの小柄が、突如空で静止する。
いつもの笑みを引っ込め、無表情の雷刃が、それを見る。
何もない宙に、怖気立つ闇が凝縮していた。
そこにいるだけで、全身が粟立つ、そんな殺気を放った存在が、雷刃を見下ろしていた。
「なかなか面白い手品だねえ」
いつも通り飄々とした口調でありながら、値踏みするかのように雷刃は冷え切った眼差しを宙に向ける。
「……そうでもあるまい……」
鬼の面をした男は、底冷えする声色で返事をし、音もなく地に立つ。
「忍びの者とは幾度かやり合ってきたが、お前さんほど底が見えない相手は初めてだがね」
雷刃は間合いを計りながら、摺り足で間を詰める。
「誉め言葉と受け取っておこう、柴原雷刃」
相変わらず気配を断ったまま、男は奇妙な構えを取る。
「通り名ぐらい聞いておきたいんだがね」
「……【闇風】……」
男は名乗った次の瞬間、雷刃の背後より右の貫手を首筋向けて繰り出す。
それを、【青嵐】で受け流し、素早く反転すると、そのままの流れで薙ぎ払う。
しかし、その攻撃は空を切り、【闇風】は音も気配もなく、雷刃の一足長の間合いから外れていた。
「鰻のような男だね、全く」
苦笑しながら、雷刃は構えを変える。
「……? 巫山戯(ふざけ)ているのか?」
【闇風】が訝(いぶかし)る程、その構えは不格好であった。腰を低く落として右足に重心を掛け、左足を前に出す。明らかに、動きにくそうな窮屈な構えであった。
「いや、至って本気さ。奥の手を見せてやるよ、特別に──な!」
腰を落とした不格好な構えからは想像も付かない神速の踏み込みで、低い姿勢のまま一気に【闇風】の真下まで移動すると、躊躇無く【青嵐】を顎に向けて突き上げた。
鈍い感触が腕に伝わってきた瞬間、それを振り払うかのように雷刃は腕を振り切り、【闇風】を豪快に吹き飛ばす。
「神刀流奥義の歩法が一つ、【坤竜】。地を這う竜を捕らえることなど不可能さね」
吹き飛ばした【闇風】に、雷刃は言葉を掛ける。「巫山戯ている余裕がないものでね。悪いが、遊びは抜きにさせて貰ったよ。……まあ、この程度で終わるなら気が楽なんだがねえ」
溜息をつきながら、ぼそりと雷刃は呟く。
「……なるほど。神刀流……侮るべからず、と云ったところか……」
何事もなかったかのように、【闇風】は立ち上がると、再び構えを取る。
「はっ。やはり、人間相手の技では効かぬか……」
【青嵐】を腰に戻し、腰間の【紫電丸】を音もなく抜き放つ。「修羅道に堕ちた【鬼】相手に、容赦はしないぜ」
「…………」
【闇風】はそれには答えず、怖気立つ気配をふりまき、凍てつく殺気を辺りに撒き散らす。
それに対する雷刃は、水鏡の如き穏やかな構えで全てを受け流していた。
互いに間合いを詰めながら、場の緊迫は刻一刻と高まっていく。
それが限度まで高まろうとした時、【闇風】は地面に何かを叩き付けた。
次の瞬間、【闇風】の足下から焦臭い臭いとともに、辺りを覆う煙が生じる。
「ちっ、目眩ましかッ! 狗狼、遠吠えだ!」
雷刃は辺りに気を配りながら、愛犬に呼びかける。
──オオオオオオオオオオンンンンンンッ!!
狼の遠吠えもかくやと言うべき通る鳴き声で、狗狼の遠吠えは辺りに鳴り響いた。
すぐに、大勢の人の気配と、煙の中に強い光と弱い光が照り込んでくる。
雷刃は【紫電丸】を鞘に収めると、用心深く煙の外に出て辺りを見渡す。
外には近衛府の紋が入った提灯と龕灯(がんどう)が幾重にも張り巡らされ、白鶴楼から撤退しようとしていた忍び達と完全武装した武士が斬り合いをしていた。
やや呆然としている【闇風】を見かけ、
「おいおい。この程度の罠ぐらいは予測していたんだろう? せっかくの趣向に驚いて貰えたのは嬉しいが、驚かれると勘ぐりたくなるんだがねえ?」
「……近衛府だと……?!」
あり得ないとばかりに強く首を何度も横に振る。「出陣して、鵜ノ沢にはいないはず!」
「ん、北面の武士がこの辺に潜んでいたのがそんなに不思議かい? 本当は、こちらに回り込んでいる伏兵に当てようと思っていたんだが、自滅してくれたみたいなんでねえ。治安維持のために回しただけさ」
けらけら笑いながら、雷刃は【闇風】に一歩一歩近づいていく。
「莫迦な……。あの方の策を読み切っていたというのか!」
それこそあり得るはずがないといった口調で、雷刃の方を見る。
「さて、どこまで読めば読み切ったといえるかは分からないが、手を打てる範囲で全て打っただけのことだよ。単純な策の積み重ねを破るには、それら一つ一つを機能させなくするしかあるまい?」
にやにやとさも当たり前のように雷刃は言い切る。「今回は【妖術士】が手を抜いてくれたお陰で、自分が考えていたより完璧に策を返せたようだな。全くもって重畳、重畳」
「くっ、お主、何者だというのだ!」
鬼の面の所為で表情は見えないものの、明らかに激昂した口調で腕を振る。
「何、【剣鬼】の仇を討とうと画策しているただの一剣士さ。少しばかり、顔が広い、な」
肩を竦ませ、雷刃は答えた。
「戯(ざ)れ言をっ!」
「戯れ言結構。【鬼】になんと云われようが、痛くも痒くもない」
雷刃は人には決して向けはしない殺気立った瞳で【闇風】を睨み据える。「人を已(や)めてまでして、何を得た、【鬼】がっ!」
雷刃が激しく怒り狂うのにも理由があった。
人が人たらしめるのは、人としての心を持つが故である。
地祇が人を作り賜いし時、それを定め、自らの眷属として作り上げた。
寄って、人が人の心を如何なる理由であれ捨てた時、人は人でなくなる。
特に、闘いや殺戮といったものがもたらす狂気に身を委ねた者を修羅道に堕ちた【鬼】と称する。
人の形を取ってはいても、その中にある魂は既に異質のものと成り果てていた。中には、その魂に形が引きずられ、角が生えたり、歯が牙と変化する者もいた。姿形が似ていようとも、既に違う存在──それも人の天敵である。
かつて人であった者が、人にとって最大の脅威となり、人の命を脅かす。それは、森羅万象の理から見てもあってはならないことであった。
そこで、そのような存在を、速やかに断つ力を天神の一柱である【太陽神】は人に授けた。
それが【神刀流】の成り立ちである。
柴原刃雅の開いた神刀流が、その流れをくむものでは無かろうとも、理念は受け継いでいた。
それ故に、
「人を斬り、神を滅し、魔を降す。そが我が神刀流なり!」
と、公言していたのだ。
その刃雅に一から仕込まれた雷刃の中にも、【鬼】に対する激しい敵愾心は強く燃え立っていた。
それどころか、人を愛し、好むが故に斬人を断っている雷刃にとって、人の天敵たる【鬼】こそ激しい敵意を抱かせる存在となっていた。
「……ならば、お主の命だけでも貰い受ける……」
底冷えする声で、淡々と【闇風】は告げる。
「やれるのかい?」
一つ大きく深呼吸をし、雷刃は【青嵐】を手に取った。
「そのような玩具で傷つけられるとでも思っておるのか?」
【闇風】はそれを見て、嘲弄(ちょうろう)する。
「さて、やってみなければ分からんさ」
何か確認した後で不敵な笑みを浮かべ、雷刃は自然体のまま【闇風】に相対す。
【闇風】もまた、膝を曲げ、猫背気味の構えを取る。
辺りの喧噪は激しさを増し、忍びが一人、また一人と倒れていく。
それでも、二人は猶(なお)も動かず、互いに相手が隙を作るのを待つ。
じりじりと間合いを詰め、雷刃の一足長の間合いに入ろうとした直前、突如、【闇風】がその場から姿を消した。
雷刃はそれと同時に【闇風】がいた場所まで一気に駆けると、振り返り、気配を頼りに【青嵐】を投げつける。
逃げ出した雷刃を追おうとしていた【闇風】は飛来してきた【青嵐】を慌てて弾き飛ばす。
次の瞬間、一陣の風が通りすぎたかの如く、雷刃が脇を通り過ぎ、弾かれた【青嵐】を右手で受け止めていた。
【闇風】が雷刃の方を向こうとした時、静かに上半身と下半身が腰の辺りに生じた緩やかな傾斜に従って、ずるずると落ちていった。
「一丁上がり、と云ったところかね」
にやにや笑いながら、【青嵐】で一つ肩を叩く。「あ、そろそろ出てきて良いよ、アヤメちゃん」
「折角、ご助力しようと控えていたのですが、いらぬ節介だったみたいですね」
いつの間にか濃緑色の忍び装束に身を包んだアヤメが、前触れもなく突然現れる。
「そうでもないさ。どうにも、そこの御仁は隠れている気配を割りと気にしていたようだからねえ。お陰で、俺の下手な演技も気付かれずにすんだみたいだよ」
アヤメに対して朗らかな笑みを浮かべ、雷刃は【青嵐】で【闇風】を指す。
「そうですか」
あまり面白くなさそうな表情で、アヤメは相槌を打つ。
「まあ、そんな顔をしなさんな。俺は美女が血塗れで敵討ちの本願成就した姿を見て悦に入る趣味はないんでねえ」
「雷刃様に無かろうと、私の思いは私のものです」
不機嫌を隠そうともせず、アヤメは強い非難を口にする。「今日まで生き恥をさらしてきたのは、この手で【里】のみんなの仇を討つためだけだったのですから……」
「己の望みは己のもの。そんなのは当たり前だ。だからといって、アヤメちゃんの願いが俺の流儀を曲げる理由にはならん。それにな、【鬼】に勝てる人間はそうはいないって事だ」
面白くもなさそうに、雷刃は吐き捨てるかのようにそう言い切る。
「【鬼】……」
多少驚いた表情で、【闇風】を見る。
「そう、【鬼】。人でありながら、道を外れ人を已めた外道。悪いが、今のアヤメちゃんじゃあ一矢報いることすら不可能だ」
雷刃の言葉を悔しそうに唇を噛んだままアヤメは受け入れる。
アヤメも、【鬼】が人を已めた代わりに得る力を知っていた。
並の武器では傷一つ付かず、人の理の内にある技では一切合切通じることはない。
【鬼】を斬ることができるのは、神により与えられた【金(かね)】で作り出された武具か、人の理の外にある力を用いることである。
そして、アヤメはそのどちらも持ってはいなかった。
「知っての通り、この【斬奸刀紫電丸】は隕鉄にて鍛え上げられた【流星剣】。天より贈られた【金】を鍛え上げた一品だ。まあ、神から直接与えられたという【陽緋色金(ひひいろかね)】の得物には劣るが、【鬼】退治には神より授かった退魔の剣たる【神刀流】の技と【流星剣】が合わされば十分さね」
雷刃は朗らかに笑いながら、ぽんと【紫電丸】の柄を叩き、「それに、【鬼】は俺の宿敵なんでな。誰にも譲る気はない」と、険しい表情で呟く。
「何か仰有いまして、雷刃様?」
「いや、なんでも」
呟きを聞き返された雷刃は、一瞬だけ垣間見せた険しい表情が夢だったのかと思えるぐらい穏やかな表情で否定する。
「それにしても、あっさりと討ちましたね」
上下に真っ二つに斬り裂かれた【闇風】を見て、アヤメは淡々と告げる。
「まあ、正攻法でやっても勝てたんだが、長引かせるといろいろまずそうだったんでねえ」
まだ騒がしい辺りを見回しながら、雷刃は苦笑する。「多少小細工を労し過ぎた気もするがね」
「そうなのですか?」
「そう思うがね。相手に気付かれないように何日も掛けて孝寿配下の旗本達を葦原に潜ませ、親爺を自ら盗人宿の襲撃に出張らせ、相手の目をわざわざ俺に釘付けにさせる。襲撃させてからも、敵に慢心させることに専念し、逃がさぬよう一人で戦い続け、全てを罠に引き込んでから罠の口を閉じる。まあ、【鬼】がいたことは計算外だったが、何とかなるもんだねえ」
からから笑いながら、雷刃は説明する。
「そう云えば、雷刃様。一度【紫電丸】を抜かれましたよね?」
「ああ、抜いたねえ」
「何で、納められましたの? 雷刃様なら、そのまま斬り合いしても数合の内に終わったのでは?」
「まあ、そうなんだがね」
雷刃は苦笑する。「その数合が曲者でねえ。【闇風】とやらは、真っ正面から斬り合う主義の輩じゃない。相手の死角から死角を狙い続け、集中力が切れたところで一気呵成に勝負を駆ける型の相手と見たんでね。真っ向勝負をするにはちいとばかし考えさせられる相手だったんさあね。そこで、相手を一瞬でも良いから油断させるか慢心させるかして、一撃で勝負を付ける方が良いと思ったんでねえ」
「それで、【青嵐】を使った?」
「そう、その通り。さっきも云ったとおり、【鬼】には並の武器は通じない。そこで、【紫電丸】ではなく、【青嵐】を構えることで、相手に油断と慢心を植え付けたのさ。如何なる【神刀流】でも、流石にただの鉄扇じゃあ【鬼】は調伏できないからねえ。後は見ての通り、【青嵐】で討たれることはないという慢心を上手いこと作り出すことぐらいはできたのさ」
会心の笑みを浮かべ、雷刃は【闇風】の方に顔を向ける。「それに、最初から屁をこける相手にこの俺が苦戦する理由がないってものさね」
「……なるほど、確かに、これは慢心か……」
突如、地面に横たわった上半身の首が予測外の曲がり方をし、悍(おぞま)しい哄笑を上げる。
流石の雷刃もそれを見て一歩下がり、アヤメを庇う位置に立つ。
誰から見ても、その動きは異様であったし、上半身とか半身を分断され生きている生物など存在するはずがない。
殺生を厭う雷刃ですら、自分の刀、自分の腕、自分の体を突き抜けた手応えに勘違いがあり得ないと確信していた。
あれは死んでいなければならない、それも如何なる生命反応があってはならない存在であった。
例え、人が【鬼】に堕ちたとしても、越えられない何かがこの世界の理には存在している。
その中の一つが、死であるはずなのだ。
「ハハハハハ、不思議か、不思議か、若造? なぜ、この儂が死なぬか、不思議か!」
「疑問として残しておきたかったり、信じたくないだけだ」
苦虫を口中で何百匹も噛み潰したかのように、雷刃の表情は隠しようもないほど厳しいものとなっていた。「お前さん、心だけではなく、全てを売ったというのか!」
「如何にも。儂は祝子須様のお力で、新たなる存在へと革新したのだ。脆弱な人の体などに何の未練もなかったわ!」
「【羅刹】」
雷刃は苦々しく呟く。
「【羅刹】?」
流石にそれは知らないらしく、不思議そうな声でアヤメは鸚鵡返しする。
「そうだよ、アヤメちゃん。あれは、【鬼】すら已めた悪鬼羅刹の類だ。この世界を否定し、冥府魔道に生きたまま堕ちた最凶最悪の存在。【鬼】はまだこの世への執着を持つが故に、人の形を保っていたが、あれはこの世を捨てたが故にこの世界の理より抜け出し、冥府魔道の理で生きるこの世ならざるモノ、【魔】だ」
仇敵を睨み据える目で、雷刃は【闇風】と対峙する。
「流石は【神刀流】剣士よ。そこまで知っておるとはな」
聞くもの全てに恐怖を撒き散らす悍しい声色で、【闇風】は答えると、上半身だけの姿で立ち上がり、宙に浮く。
「たかが【鬼】如きでその様なモノになれるわけがないとは思っていたが……逆に納得がいく。かの【妖術士】……いや、【魔王】が一枚噛んでいるのならば、な」
吐き捨てるかのように呟くと、一歩前に出る。
「ま、まさか、あの御方の正体を……」
【魔王】と聞き、【闇風】は驚愕の声を上げる。
「知らぬでか。俺は、神刀流正統後継者にして、【剣鬼】柴原刃雅の孫ぞ。世界の理を守る【守護者】の一人として、その程度のことを知らぬはずもあるまい」
「……なるほど。道理であの御方がお主の抹殺を最優先とされたはずだ。……お主は、危険すぎる……」
「お褒めにあずかり恐悦至極だね」
雷刃は無表情のまま【紫電丸】を抜く。
「ふ、儂にその様なものが通じると思っておるのか?」
耳障りな音で哄笑し、【闇風】は両手を広げる。「斬るが良い、好きなだけ斬るが良い! 斬れば斬るほど、お主を追いつめることになろうぞ!」
その言葉に耳を傾けることなく、雷刃は躊躇無く【紫電丸】で【闇風】を斬り裂く。
猶も、追い打ちを掛けようとした瞬間、
「?!」
全身に走った悪寒を信じ、雷刃はその場から直ぐさま退く。
雷刃が退いた直後、下半身だけの存在が剣呑な蹴りを雷刃の頭があった空間に向けて放っていた。
驚きを心の奥底に強引に飲み込み、無理矢理平静を保つ。
粟立つ肌を無理矢理知覚の外に追いやり、悍しい光景がもたらす恐怖を殺す。
強引に心の中で巻き起こっている動揺という名の漣の嵐を噛み殺し、平常心という名の明鏡へと力業で磨き上げる。
「ほっ。動揺の余韻をあっさりと握りつぶすとは、流石は【神刀流】正統後継者殿と云ったところかの。あの御方の命を遂行したいが、儂では敵わぬかも知れぬな。ならば、罰を受けるやも知れぬが、最低限の働きを為すとしよう」
袈裟切りにされ、既に首と右半身の一部だけしか残っていない【闇風】はけたけたと笑い出す。「さあ、起きるが良い、僕達よ!」
【闇風】の宣言とともに、【闇風】の体だったものからおどろおどろしい気配を持った気が染み出してきた。
その気に触れた倒れ伏していた【闇】は、激しく痙攣し始め、固まったかのように硬直した後、虚ろな瞳で立ち上がる。
「【鬼】だと?」
怪しい気配を感じた途端、アヤメを両腕で抱き上げ、届かぬ距離まで退いていた雷刃が驚愕の声を上げる。「まさか、【瘴気】か?!」
「如何にも。彼岸とこちら側を横切る三途の川に揺蕩(たゆた)いし、こちらのものを彼岸のモノへと変化させる悪気。本来の役目は、魂魄が迷い出ることのないよう彼岸のモノに変化させるものじゃが、生きておる者には如何なる変化をもたらすものかの?」
長広舌を振るいながら、己の姿を徐々に変化させ、【闇風】は見る者の吐き気や嫌悪感をもたらす悪鬼羅刹の姿へと変わり果てていた。
それと同時に、切り離された体の部位も【瘴気】を放ちながら、悪鬼羅刹の姿へと変化していく。
「化け物が」
「如何にもその通り。儂は化け物じゃよ。お主らから見るとの。老いさらばえた体より、この姿の方がなんと落ち着くことか。さて、儂の分身だけでもこの街を現世の地獄となす事ができよう」
切り離された二つの体を起き上がらせ、己の盾とし、【闇風】は雷刃から間合いを取る。
「待て、逃げる気か!」
「まだ、あの御方に報告しとらんでの。忌々しい結界の所為で、あの御方と思うように連絡が取れん。この姿に戻ればとも思ったが、将軍宮め。死んでも忌々しきことよ……」
【闇風】はその巨体からは信じられない瞬発力で、都の中心街へと身を翻す。「そうそう、追ってきても良いぞ? まあ、儂の分身の【瘴気】でそこら中の者が【鬼】と化しても良いのなら、じゃがな」
「待ちなさいッ!」
雷刃の腕の中から抜け出したアヤメがそれを追う。
「待て、アヤメちゃん! お前さんじゃ絶対に敵わん!」
雷刃の制止を振り切り、アヤメは闇へと消えていった。「狗狼、吼え続けて【瘴気】を吹き飛ばせ」
雷刃は手短にいた近衛府の武士を捕まえ、
「神刀流の者はそのまま忍びと【鬼】を相手にするよう伝えてくれ。他の者はここより待避して、残っている街の衆の誘導に当たらせるように。弓を携えている者は鳴弦(めいげん)のまじないで【瘴気】を食い止めさせるように指示して回ってくれ。あと、新徴組の者を急ぎ呼んでくるように。あの者達の【神刀流】と退魔の遠吠えが必要になる」
と、阿賀の紋が入った書状を見せる。
「はっ、承知仕りました。貴方様は?」
「阿賀右近様の親族で、此度の一件の始末を任されている者だ。聞き及んでいると思ったが?」
雷刃は堂々と、予め決めていた符丁を口にする。
「これは申し訳ありませんでした。急ぎ伝えてきます」
符丁を確認した近衛府の武士は、一礼するや否や伝令としてその場を離れていった。
「早めに頼む」
【闇風】の分身二匹を見据えながら、早口で答え、「こんな事なら、新徴組の狼人達を何人か回しておくべきだったな。狗狼の遠吠えと同じ力が見込めたものを……」と、思わずぼやいていた。
その所為か、後ろから来る気配への反応が瞬時遅れた。
「全く、下界とは騒がしいところよ。そうは思わんか、柴原雷刃?」
「お前さんは!?」
雷刃が振り返った先にはこの場にいるはずもない男がそこに立っていた。「次木法念!」
「それにしても、珍しいもんがいるねえ。【鬼】の群れに【羅刹】もどきか。いやはや、下界とは恐ろしい世界だ」
無造作に【羅刹】に近寄っていく法念に、
「【瘴気】に気が付いていないのか?!」
と、思わず叫んで注意する。
「ん? ああ、これか……」
身にまとわりつく【瘴気】を、「鋭ッ!」と、気合い一閃、抜刀すると何を思ったのか直ぐさま鞘に刀を収め、甲高い鍔鳴りの音を響かせる。
途端、体にまとわりついていたものとともに辺りの【瘴気】が全て吹き飛ぶ。
「【神刀流】奥義、【鳴響の秘太刀】。師匠から習っていないのか?」
多少不思議そうな表情で、法念は顔だけ雷刃に向ける。
「いや、習ってはいるが……。まさか、その様な使い方があるなどとは……」
雷刃は素直に驚く。
「まあ、柴原神刀流の技ではなく、本来の【神刀流】の技で、下界に伝わる【神刀流】は狼人の伝えるものだから、この技が必要なかったのだろうな。その為、技自体が廃れ、使い道まで教わっていないのは不思議ではないな。我ら、山の民に伝わる【神刀流】には今でも伝わっているものさ。何せ、山は神の座に近い一方、【魔】にも近い故に、【瘴気】が漂うこともしばしばある故に、な」
肩を竦め戯(おど)けて見せながら、法念は淡々と答える。「ま、それは兎も角、追いたい相手がいるなら追ってきたらどうだい? 気が散って心ここにあらずという奴が側にいると、邪魔で仕方ないからねえ」
「しかし……」
雷刃の反論を制し、
「迷っている暇はないと思うがねえ? それに、刃雅先生に習わなかったのかい? 悩む前に動けってな」
「心を動かすな、迷うな、そうなる前に行動せよ。動揺と迷いは剣を惑わす。惑えば死あるのみ、か……。確かに、やりたいことが決まっている以上は、それを為すべきだな」
雷刃は苦笑する。「確かに、邪魔か」
「分かって貰えたようで何よりだねえ。だったら、さっさと行け。悩みながら戦う小僧をあやしながら【羅刹】や【鬼】を滅ぼしていくほど余裕はないんでね」
法念は気負うところもなく、【羅刹】二匹に向かって悠々とした歩みで進んでいく。
雷刃は、それを見送ると、
「狗狼、付いてこい!」
と、相棒に一声掛け、急いで【闇風】が消えた方に駆けだしていた。