陣幕の中、その男はただ一人床机(しょうぎ)に腰掛け、体の前に突いた刀の柄の先端に両手を置き、瞑想するかの如く静かに目を閉じていた。
風を感じた瞬間、目を見開き、
「始まったか」
と、いつの間にか陣幕内で片膝を突いて頭を下げている男に声を掛ける。
「白鶴楼に敵が総力を挙げ襲撃して参りました。それがしは、近衛府の旗本が十重二十重に白鶴楼の包囲を完了するのを確認し、急ぎ参った次第」
「御苦労。これから戻るのかね?」
「はっ、お頭に右近様に報告したと伝えに戻ります。何か、御伝言でも?」
右近と呼ばれた孝寿は、暫く悩んだ後、
「いや、今はない。こちらの状況を報告するのならば、動きはあれど、未だ表立たず、だ。若の云う伏兵を山の民が片付けたのならば、敵は鵜ノ沢の状況次第で動くだろう」
と、告げる。
「承知仕りました。それでは、御免」
男は、音もなく姿を消す。
再び静寂の訪れた陣幕内で、孝寿は目を閉じ、静かに時を待つのだった。
一人と一匹が完全に立ち去った後。
「まあ、啖呵は切ったがねえ」
法念は苦笑しながら、【羅刹】二匹と相対する。「モドキとはいえ、【羅刹】二匹に、【鬼】との闘いに慣れていない近衛府の武士のお守り……。やれやれ、ただ飲みに来ただけのはずが、【鬼】退治とは……付いていないねえ」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、法念は刀を抜き、八相の構えを取る。
そのまま、【羅刹】に向かって躙り寄り、目にも止まらぬ早業で右腕を切り落とす。返す刃で、切り上げ、左上半身がどうと地面に落ちる。
「ふむ、さほど強くはないか。問題は……」
法念は、後ろに跳び退りながら、斬った【羅刹】を観察する。「あの増殖能力に【瘴気】を発する力……。人外のものとの闘いに慣れた【神刀流】剣士があと十数人いれば問題ないが、今の状況ならば、一つ誤った時点で地獄絵図を実現することとなりそうだな……」
法念は、長年の経験から【瘴気】をさほど怖れてはいなかった。
死者や無防備なものならば兎も角、気を張っている人間には多生動きを鈍くさせる程度で、さほど恐れるものではなかった。
ただ、一度でも恐怖に負けた者がいる場合は異なる。
【瘴気】に対する抵抗を失い、【鬼】となり易くなっているからである。
その様な者が【鬼】となり、周りに動揺が走ると、【鬼】に堕ちる者が連鎖していき、最後には雪崩を打って全ての者が【鬼】と化す。
今のところは、誰も怖れてはいないが、【羅刹】が致命傷を負った度に立ち上がり、切り捨てた部位が新たなる【羅刹】となって【瘴気】を撒き散らせば、遅かれ早かれ気を挫かれ、【鬼】に堕ちる者が出てきてしまう。
そうなれば、あとは転がり落ちるのみである。
「そうなる前に……何とか勝負の糸口を見つけねば、な……」
無傷の【羅刹】を牽制しながら、再生中の【羅刹】を再生する度に斬りつけ、足止めしながら、法念は心の中で溜息をつく。(問題は、俺自体、【羅刹】と相手した経験が無いと云うことだな。幸い、昔やり合った【鬼】よりは弱いが、この再生能力は流石に嫌になる……)
鳴弦のまじないが鳴り響く中、突如、聞く者の胆を鷲掴みにするような唸り声が轟く。
それまで辺りを充満していた【瘴気】が波が引くように【羅刹】の周囲だけに集まる。
「……?! 退魔の遠吠えだと?」
意外な成り行きに、法念は思わず驚きの声を上げる。「莫迦な。天狼がこの街にいるはずもない」
「別に天狼だけの十八番(おはこ)って訳じゃありやせんがね」
独特のくぐもった低い唸り声の主が後から法念に話しかけてきた。
「なるほど、狼人か。それならば、納得はいくな……」
苦笑しながら、法念は同意する。「【月女神】が眷属に与えた退魔の秘術、それが退魔の遠吠えであったな」
「よく御存知で」
驚いた表情で、狼人は法念を見る。
「これでも、古の盟約を伝えている民の長なんでな。その程度のことならば知っているさ」
法念はやってきた狼人を見る。「で、そう云うお前さんは何者だい?」
「あっしですか? 旦那と同門の剣士ですぜ?」
「同門、な。なるほど、如何にも。【神刀流】剣士でありながら、【剣鬼】の弟子となった同門と云ったところか……」
「分かるんで?」
「そりゃあなあ。あの方は、人に悪い影響を与える達人だったからな。喋り方や、動作で分かるさ。そうだろう?」
「そこまでお見通しで。いやはや、恐ろしいですなあ」
ちっとも恐ろしいと思っていない口調で、狼人は笑う。
「ほう、これはこれは。急に楽になってきたな」
法念は思わずにやつく。
彼らが【羅刹】に気をつけながら雑談している内に、近衛府の武士達は後に下がり、手練れの狼人達が退魔の遠吠えを謡いながら、【鬼】を容赦なく斬り捨てていっていた。
「ま、若様の御命令ならば、火の中、水の中、で。近衛府の連中よりは、うちの連中の方が【鬼】退治には慣れておりますしな」
軽口を叩きながら、狼人は牽制のために太刀を振る。
「若様、ねえ。お前さんは、柴原雷刃が誰なのか、知っているのかい?」
【羅刹】の攻撃を避けながら、法念は狼人に尋ねる。
「さあ? あっしは、上から云われたことにへいへい従うだけの存在でしてね。旦那こそ、何か知っているんじゃありやせんか?」
狼人は【羅刹】の攻撃を避けた次の瞬間、重い斬撃で深傷(ふかで)を与える。
「さあなあ。師匠の孫ってことしか知りはしないよ」
【羅刹】を相手にしながら、法念と豺蔵は世間話を続ける。
「そいつは残念。で、こいつらはどうしましょうかねえ?」
折角斬った部位がたちまち回復するのを見て、狼人は流石にげんなりとした表情を浮かべる。
「斬っても斬っても増えるだけだからな。いっそ、燃やすか?」
にやりと笑いながら、法念は良い考えだとばかり提案する。
「まあ、燃やすのもありかもしれやせんな。こんな斬り甲斐のないもんとやり合っても虚しいだけで」
狼人も、その話を聞いて、一も二もなく乗る。
「ならば、決まりだな。火矢の用意、できるかい?」
「あっしたちにはありやせんが、近衛府の連中ならば」
狼人はそう言うと、「孫! 外でまじないしている近衛府の大将に火矢がないか聞いてこいや。あるんなら、出来損ないの【羅刹】に向かって射込めって頼み込んでこい」
「承知しやした、お頭ッ!」
【鬼】の相手をしていた狼人の一人が大声で返事を返すと、急いで外へと駆け出す。
「で、用意してあると思っているのかい?」
低い、相手にしか聞こえない声で法念は呟く。
「まあ、若様は用心深い方みたいですから、あるんじゃないんですかねえ?」
流石に、【羅刹】を長い時間相手するかしないか次第で周りの士気が変わってくると理解しているらしく、狼人もまた、側にいる者にしか聞こえない声で返事をする。
「ま、無くても俺たちが凌いでいる内に調達するか。気が楽になったな」
狼人の集団のお陰で、【鬼】を押し始めているのを見てから、開き直った口調で呟く。
「左様で」
「応。……ところで、お前さんは、物事楽に片付けるのと、収拾が付かなくなりそうになるのとどっちが好きなんだい?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべ、法念は狼人に尋ねる。
「あっしとしては面白い方が好きなんですがね、立場上そうもいかないんでしてねえ」
いかにも残念そうに溜息をつくと、【羅刹】を斬り飛ばさずに、傷つけるのみに抑えた狼人がつまらなそうに答える。
「そうか、ならば、このまま足止めするだけに止めておくか」
多少残念そうな口調で、法念は肩を竦める。
「その方が利口だと思いますぜ、旦那」
「ま、そうだな」
法念は相槌を打ち、「俺は責任とって、こっちの二匹とそこの腕だけのを相手にするから、お前さんはそっちの一匹を頼む」と、指示を飛ばす。
「合点承知でさあ」
低い唸り声のような獰猛な笑いを漏らし、新徴組総長柏尾豺蔵は【羅刹】に向かって突進していった。