夜半になって、静かに降り出した雨とともに、雷刃は白鶴楼に戻ってきた。
江州屋の名が入った番傘を勝手口で禿(かむろ)に渡し、そのまま親爺の部屋に向かった。
「おや、若。どうしましたか?」
「ん? なに、ちょっと聞きたいことがあってね」
そう言うと、襖を開け、座布団を取り出し、その上に座る。
「では、今少しお待ち下さいませ。この帳面だけは確認いたしたいので」
もはや自分の部屋にいるかのように立ち振る舞う雷刃を気にすることもなく、本当に確認取れているのかと他人が疑うような速度で捲(めく)っていく。
「相変わらず、親爺の速読はすごいねえ」
「何、年の功って奴ですよ。骨さえ掴めば、若にもできます」
「親爺ほどは上手くいかなかったけどね」
「おや、もう試してみたので?」
帳簿から目を上げると、親爺は雷刃に尋ねる。
「ん。いつか役に立つかも知れないと思って、何度か気晴らしにやってみたけど、頭に入ってこなくてね。それでも、普通に読むよりは早くやれるようにはなったけど、すぐに根がはてらあ」
「昔、ちょっと骨を教えただけで、真似ることができる若の方がどうかしていると思いますがね」
再び、帳面に目を移しながら、親爺は苦笑する。「ふむ、世の中並べて事も無し、っと。さて、見終わりましたよ。で、若。何のご用で?」
「ここで聞いても問題ないかねえ?」
子細ありげに、雷刃は部屋を見渡す。
「流石に、自室にはその程度の細工はしてありますよ」
雷刃の過剰なまでの用心深さに面白味を覚え、親爺は吹き出す。
「では、遠慮無く。【狂王】の動きは寸分遅れずに確認取れているのかい?」
親爺の態度に怒りもせず、雷刃は親爺に確認を取る。
「当然でございましょう。若が御存知かは知りませんが、私はこれでも【狂王】から追われる身でしてね。注意は常にしておりますよ」
分かり切ったことをを聞くといった表情で、親爺は即座に答えた。
「山向こうの軍に動きは?」
「特に。増えてもいませんが、減ってもいませんな。やる気は失われていないようで」
湯飲みを手に取り、親爺は一服する。
「他の攻め口は?」
「相変わらず、こっちの兵を分断させる程度の陽動としか思えぬ置き方をしておりますな。だからといって、相手をしなければ、そこを起点にしてくるでしょうが」
多少鋭い目つきで、親爺は何を求めているのかと聞きたげに雷刃を見返す。
「あくまでも緋科谷に拘っているのか……。何の意図を持って拘っているかが気になるところだな……」
そんな親爺を無視し、雷刃は腕を組んで考え込む。
「ご冗談を。既に見透かしている意図を分かっていない振りをしても面白くも何ともありませんぞ?」
怪訝そうな表情を隠さずに、親爺は肩を竦める。
「【妖術士】の意図までは見透かしていないさ。緋科谷にいる連中は、確かに分かり易いがね」
真面目な表情のまま、雷刃は立ち上がると、部屋を行ったり来たりし始める。
「おやまあ」
呆れて良いのか、感心して良いのか困った顔で、親爺は雷刃を見守る。
「【狂王】は失敗を許さない。一度あの地から攻めろと命ぜられた以上は、それしかできまい。確かに、結果として成功すれば功を認められるが、成功しなかった場合の独断はどんな莫迦にでも想像できる。攻め手の大将がかの出頭人(しゅっとうにん)萱原十兵衛昌吉(かやはらじゅうべえまさよし)ならば悩みもするが……」
立ち止まり親爺を見ると、「緋科谷の大将は萱原十兵衛じゃないよな?」
「おや、あの【猿面冠者】殿ですか」
意外そうな表情で親爺は雷刃を見返す。
【猿面冠者】萱原十兵衛昌吉。
【狂王】は以下の武将の中でも、群を抜いた早さで頭角を現した男である。職にあぶれていたところを【狂王】に見初められ、その引き立てがあったとは言え、あれよあれよという間に一廉の部将となり、気が付けば一軍を率いていた。
特に奇抜というわけでもないが、堅実かと聞かれれば首を捻る作戦を立て、時には幻惑し、時には真っ向勝負を挑む変幻自在さに朝廷方の武将は惨敗した。小さな失敗はするが、大きな戦功で【狂王】の怒りを常に買わない希有な男であった。
ある時、彼にしては大きな失敗をした際、怒り狂う【狂王】の前に【猿面】を被り、剽(ひょう)げた態度と踊りでたちまち上機嫌とさせ、
「我が猿は人の言葉を解するか」
と、処分を保留にさせた事柄から、【猿面冠者】と呼ばれるようになった。
当然、その後直ぐに戦功を立て、叱責や処罰どころか、要地である豆州(ずしゅう)を与えられている。
「ここだけの話、こと戦に関するならば、あの男が一番怖い。所詮【狂王】も【妖術士】も力押しが多いからな」
ライジンにしては珍しく、苦笑を浮かべながら、【青嵐】で首筋をぴしゃぴしゃと叩く。「【猿面冠者】殿は如何なる手を使ってくるか分からない分、手立てが取りにくい。だからといって、おとなしく負ける気はないがね」
「その点はご安心を。萱原豆州は蓬莱島の【狂王】のお守りをしていますから」
「【猿面冠者】殿と【妖術士】は反りが合わないからな。お陰で、当面の敵が【妖術士】と分かるのはありがたいね」
雷刃はにやりと笑い、【青嵐】を開いて仰ぎはじめる。
【妖術士】祝子須在鬼(ほうりすありき)はしばしば【狂王】の意志を確認せず、独断で動く。一方、【猿面冠者】萱原豆州はどこかで【狂王】の意志を忖度しており、独断で動いているように見えるが決して【狂王】をないがしろにはしない。それどころか、【狂王】の第一の忠臣と言っても良いほどである。そのため、この二人の相性は悪く、【妖術士】と【猿面冠者】が同じ戦場で動くことは決してなかった。
「それにしても、暑いねえ」
縁側まで出ると、雷刃は雲一つない夜空を見上げる。
「梅雨前の初夏ですからなあ」
親爺もそれに続き、星空を見る。
「流石に、梅雨の江州を攻めるには、向こうの手は足りないからな。ここを凌げば、暫くは静かになるか」
雷刃は、空を見上げたまま独りごちる。
「確かに。梅雨の江州は水かさが増した数多の川や、泥沼と化した街道の所為で思うように動けませんからな。妙仙湖の水運を握っている近衛府の方が有利でしょうな」
雷刃の言葉の意図を見誤らず、親爺は返事をする。
山間のこの地が江州と呼ばれるのは、金鰲山脈を水源とする数多の川が注ぎ込む扶桑最大の湖、妙仙湖を有しているところから名付けられた。
妙仙湖とそれに流れ込む川や東の大海へと流れ行く川の水運により、鵜ノ沢は栄えていた。
それ故に、鵜ノ沢は【水郷(すいごう)】とも呼ばれ、水運に対する備えには敏感であった。
独自の【水師(すいし)】により、川や湖に住まう賊を退治し、敵対勢力を全て武力でもって排除してきた。
鵜ノ沢の街が今もなお保っているのは、近衛府の努力もあるが、この【水師】の力に寄るところが大きかった。
「と、なれば、だ。これだけの策を動かしている以上、梅雨が来る前に勝負をつける気だろう。少なくとも、今月の内に全てが終わる策を立てているはずだ。俺ならば、そうする」
ぱちんと大きな音を立て、雷刃は鉄扇を閉じる。
「それで、若はこの爺に何をお求めですかな?」
雷刃が本題に入ったと悟り、親爺はにやりと笑う。
「うん。一芝居打ってみようと思うわけだ。そこで、親爺の力を借りたい」
雷刃は親爺を手招きし、寄ってきた親爺の耳に【青嵐】で口元を隠して何事か呟く。
「それは、また……」
思わぬ提案に、親爺は思わず絶句する。
「ま、時間がないんだ。やってみる価値はあるさ」
いつも浮かべるどこか悪戯めいたにやにやとした笑みで、雷刃は返事をした。
アヤメが呼び出された部屋は、白鶴楼でも一二を争う値段の部屋であった。
その部屋に、雷刃は一人胡座をかき、酒を楽しんでいた。
「およびですか?」
襖障子を閉め、アヤメは入り口近くで平伏する。
「そんな遠くじゃ、話しにくいったらありゃしない。もちょいと近寄ってくれ」
雷刃は上機嫌に笑いながら、自分の隣を手で叩く。
「はい」
アヤメは一礼すると、楚々とした立ち振る舞いで、雷刃の隣に座る。
「すまないねえ」
雷刃はそう言うと、アヤメに杯を持たせ、酒を注ぐ。「いけないわけじゃないんだろう?」
「はい。お言葉に甘えまして」
アヤメは杯に注がれた酒を少しずつ干す。「それで、御用件は何でしょうか?」
「何、少し確認したいことがあっただけさ」
雷刃はアヤメから返された杯を突き出す。
「なんでしょう?」
艶やかな科を見せながら、アヤメは杯に酒を注ぐ。
「ん? おまえさんがどうして俺を見張っているか、だ」
一気に飲み干し、雷刃は再び杯を突き出す。
「あらいやだ。そんなことはないと──」
いつも通りの返事をさせる前に、
「腹の探り合いはやめよう。お互いにそんな時間がないことは知っているはずだ」
と、鋭い目つきでアヤメを睨み据える。
「なんのことやら……」
その視線を受けてもたじろがず、アヤメは笑みを崩さずにいた。
「単刀直入に聞かせて貰う。【妖術士】は、俺の爺さんを気にしていたのか、母親を気にしていたのか?」
「どういうことですか?」
唐突の質問に、アヤメは意味が分からないといった表情で返事をする。
「悪いが、はぐらかされている暇もない。無粋な真似はしたくないが、時間がない以上は手段を選べない。おまえさんが今や敵じゃないのは分かっている。最初から二股をかけていた。それは良い。俺もよく使う手だ。二股をかけていれば本心を見せることはできなくなる。その上、媚蠱の術をも使いこなすときている。今一度云わせて貰えば時間がない。お互いに、だ。俺に賭ける気になったか、これからも二股をかけたいならば、答えてくれ。それ次第で、相手が何を恐れているかが見え、今回の件を如何に利用すればいいかが決まる」
それまで、一度たりともアヤメには見せたことがない雷刃の真剣でいて、なおかつ一分の隙もない真っ直ぐな眼差しで射るように見つめる。意に沿わぬ行動を取れば次の瞬間に首が飛びそうな圧迫感でありながら、その眼差しに引き込まれ、逆らうなどといった考えすら持つことができなくなる不思議な強制力を持った何とも居心地が悪いのに全てを委ねたくなるそんな取留めのない思いにアヤメは支配されていた。
もし、アヤメでなければ、恐怖であれ、思慕であれ、己のその強い感情に突き動かされ、すぐに自分の知っていること全てを白状しただろう。ただ、アヤメはそれがどうして自分の心の内で生まれ、突き動かされようとしているのかをよく知っていた。なぜならば、その【術】はアヤメが最も得意とするものであったからだ。【媚術】と呼ばれる異性を陥落させる究極の心理操作術。それこそが、今雷刃が使っている【術】の正体であった。
【里】にいた頃はそれに関して言えば、誰もがアヤメが生まれ持ったその力を千年に一度の天性のものと褒め称えた。アヤメがそのようなことを意図しなくても、男という男がアヤメのお願いに逆らえなかった。
だからこそ、アヤメは自分の力を恐れ、同じ術を使う相手には格段の注意を払っていた。
【媚術】は女の技である。
仮に、自分に敵する者がそれを使えば、思いも寄らぬ方法で始末されることが多々ある。【媚術】は極めれば、好きなように男を操れるが操れるだけで万能ではない。操られている男を操り返すのは非常に至難の業である。
それを知っているからこそ、アヤメは己自身を鍛え上げ、名の知れた兵法家と真っ正面からやり合ったとしても確実に逃げ切れる体術に、すぐにでも他の男を思うように操る【媚術】を極めた。
それ故に、男の身でありながら、自分以上の【媚術】を使いこなす眼前の男が恐ろしかった。この男の【媚術】ならば、女だけではなく、男すら惑わすだろう。望めば、天下を簡単に掴む、そんな魅力に満ちあふれた男だった。
女としてのアヤメは間違いなくこの男に惹かれ、全てを投げ出してでもこの身を捧げたいと訴えかけていた。
しかし、彼女は、その思いに身を委ねる事はできなかった。
それだけは許されなかったのだ。
「…………」
不自然な脂汗を流しながら、アヤメは堪えていた。
そんな、アヤメの葛藤を知ってか知らずか、
「別段、【妖術士】に呪いをかけられている様子もなく、【狂王】に義理があるようにも見えない。されど話さぬのならば……不本意だが、これもまた仕方なし……」
静かに【青嵐】を腰から抜くと、雷刃は一度目を閉じ、「ならば、俺が覚悟を決めるまで」と、アヤメですら見切れぬ神速の振り下ろしで肩口に叩き付ける。
アヤメは生まれて初めて、自らの身に降りかかる攻撃を最後まで見ずに、目を閉じてその瞬間を待った。いつものように、最後まで粘る気になれなかったのだ。雷刃に打擲され、その結果死んでしまったとしても、それはそれで悪くはないと思ってしまったのだ。既に、アヤメは自分がこの眼前の男に惹かれていることを悟っていた。だからこそ葛藤し、己の心の内にある捨てきれない思いを遂げずに逝くことを選んでしまったのだ。どうせ、何も適わないのならば、惚れた男に殺されるのも一興、と。
だが、いつまでたっても肩口に降りかかるはずの衝撃はやってこなかった。
恐る恐るアヤメが目を見開いてみると、【青嵐】を忍び刀で何者かが受け止めていた。
「何の真似だ、親爺?」
見る者全てを凍てつかせる鋭い眼差しで、雷刃はアヤメの後ろに立つ者を睨んでいた。
「若らしくございませんな。無粋ですぞ?」
そこに立っていたのは、意外なことに親爺であった。
「時間がない。時間がないんだ。一手遅れれば、爺さんの死が無駄になる。二手遅れれば、母上の努力が無駄になる。三手遅れれば、先の将軍宮の想いが無駄になる。……全てを失えば、姉さんに手向けるものがなくなってしまう。それは、耐え難い、何物に代えようがないほど耐え難いものだ、親爺」
その心の奥底から振り絞るかのような声は、常日頃の雷刃からは感じられない悲哀に満ちたものであった。
「まあ、それは分からぬでもございませんが、ここはこの老い耄れに任せてみては下さいませんかな?」
飄々とした笑顔のまま、親爺は軽く【青嵐】を跳ね上げ、そのまま忍び刀を鞘に収める。
「やれるのか?」
地獄で一抹の光明を見つけ出した亡者のような表情で、雷刃は縋るように親爺に尋ねる。
「さて? こればかりは試してみないと分かりませんな」
親爺はそう言いながら、複雑な身振りと手振りをアヤメに向かって見せる。
アヤメは、一瞬驚いた表情を浮かべると、同じような身振りと手振りを返してきた。
「ほうほう」
親爺は相槌を打ちながら、さらに身振り手振りを増やし、再びアヤメを見る。
アヤメも先ほどとは異なる動きでそれに答える。
「若、世の中は狭いものですなあ」
感極まった表情で、親爺は呟く。
「俺には訳が分からん」
目の前で行われていることが、己にとって吉なのか凶なのか判断しきれぬ表情のまま、雷刃はぼやく。
「それはまた別室にて」
親爺は身振り手振りをアヤメに向かって見せつつ、いつもの笑みを浮かべていた。
アヤメを元の座敷に置いたまま、雷刃と親爺は、親爺の部屋へと戻った。
「若の御推測通り、あれは私の【里】の出でしたな」
親爺は感慨深そうに溜息をつき、珍しく遠い目をした。
「じゃあ、あの手振り身振りは、親爺の【里】独特の符丁だったのかい?」
「お察しの通りで」
親爺は深々と頭を下げる。「若のお陰で、私の一族の生き残りが見つかりました。なんとお礼を言えばよいのやら……」
「何、怪我の功名って奴さ。アヤメちゃんが【狂王】から山の民に潜り込む任務を受けていなければ出会わなかったし、それに、親爺が昔、俺に【里】の話をしていてくれなければ気がつかなかったんだしねえ」
遠い目をしながら、雷刃はその当時に思いを馳せる。
「いやはやいやはや……。若が、私の里に天性の媚術を備えた娘が生まれたという話をしたことすら覚えておりませなんだよ」
親爺は禿頭をぴしゃりと手のひらで叩きながら苦笑する。
「生憎、俺はくだらない話ばかり覚えているんでねえ。お陰で爺様にどれだけこっぴどく叱られたことやら」
からからと笑いながら、雷刃は【青嵐】で扇ぐ。「それで、どうだった?」
「二三知らなかった話を聞き出せました。如何なる方法でかは知りませんが、アヤメの言葉は敵方に通じてしまうようですな」
「そのような術がかかっているそぶりには見えなかったがな?」
雷刃は親爺の言葉に首を捻る。
「さて、私もよく走りませぬが、どうやら外法邪術の類のようでしてな。それも、【妖術士】ではなく、忍びが使う類の」
親爺にしては珍しく、激しい忌避(きひ)の表情を浮かべる。
「そのような術、あるのか?」
驚きの表情を浮かべ、雷刃は真偽を問う。
「風の噂で聞き及んだことはありますな。実際、それを使う者を見たことはございませんが」
あからさまに嫌そうな表情を隠さぬまま、親爺は一気に杯を乾す。
「どのような?」
親爺のその態度に興味を引いたのか、雷刃は好奇心を隠そうともせずに尋ねる。
「強い暗示をかけることで、合図とともにそれまで交わした言葉を一言一句過たず口にするという若様好みではないやり口ですな」
説明することすら悍しいという口調で、親爺は吐き捨てる
「そいつは嫌味か?」
何とも言えない表情を浮かべ、肩を竦める。
「いえ、ありのままで。要するに……薬を使うんですよ、かなりきつい……」
雷刃の表情を伺いながら、親爺は答えを告げる。
「ほぅ……」
表情はいつも通り笑顔であったが、【青嵐】を握りしめる手は血管が浮き出ており、逆手の杯は粉々になっていた。「そいつは、確かに俺好みじゃねえなあ」
雷刃がとある理由から薬を使って無理矢理何かをさせる類の外法を嫌っていることを知っていたからこそ、親爺はそれを見ても平然としていられた。
ただ、話題の転換が必要だということは直ぐに悟り、
「いや、それにしても若。迫真の演技でしたな」
と、新しい杯に酒を注ぎながら笑いかけた。
「ん、そうか……?」
静かに息を整えながら、まんざらでもないという表情で親爺を見る。
「まあ、芝居としてはあの程度やらねば、あの娘は欺せますまい。若のことをどこまで知っているかは知りませぬが、若の行動原理を説明したことで、あの娘の中で若の行動の整合性が付いたはずですしな」
親爺は即座に畳み掛けるよう、言葉を続ける。「短い時間で、あそこまであの娘の性質を見切るとは、流石若でございますな」
「アヤメちゃんは切れるからねえ」
【青嵐】を閉じ、そのまま肩を数度叩く。「逆に、怖れを利用した誘導が入っていたと気が付かれなければ良いんだけどねえ」
「そこまで頭が回る娘ならば、逆にそれはそれでめでたいくらいですよ、若」
にこにこ笑いながら、親爺は雷刃に答える。
「それは同族である親爺にはねえ」
苦笑しながら、【青嵐】を腰に戻すと、「それじゃ、さっき分かった話を聞こうか」と、居住まいを正す。
「今回の絵図面を引いた相手は若の推察通り、あの【妖術士】祝子須在鬼です。この時期に動いた理由までは教えられていないようなので、意図は見えませんが」
完璧とはいいかねる情報を渡すことに己の矜恃が傷つくのか、多少悔しそうな表情で報告する。
「そいつは簡単だ。爺様の最後の相手、教えていたっけ?」
憮然とした表情で杯を乾すと、雷刃は虚空を見る。
「いえ」
親爺ははっきりと首を横に振る。
「【狂王】だ」
「は?」
「だから、起き抜けの【狂王】だよ。御厩平で爺様に深手を負わされた奴は急に動きを止めた。如何なる存在だろうと殺しきる爺様の剣を受けて、それだけですんでいるのだから、まあ、何らかの秘密があるのだろうな。それでも、その傷を癒すために何も出来なくなったってあの【妖術士】は云っていたがね。それが【御厩平の戦い】以降、【狂王】の陣営の動きが鈍った理由らしい」
苦虫を噛み潰したような表情で雷刃は淡々と語る。
「お待ち下さい、若ッ! 【妖術士】が云った、と?」
流石の親爺も、その発言の内容に驚きを隠せえなかった。
「ああ。爺様が俺にこれらを……」
そう言いながら、雷刃は腰に差した【青嵐】を叩き、左に置いてある【紫電丸】を顎で指し示す。「譲る直前に、奴の幻影と会っているのさ」
「なんと……」
思い掛け無い話を聞き、親爺は絶句する。
「それで、逃げ切れないと理解した爺様は、俺に知っていることを全て教え、免許皆伝および『自儘に生きよ』とだけ告げ、【狂王】の指定した地に赴いたのさ」
そこまで語ると、雷刃は溜息をつき、杯に酒を注いで一気に乾す。
深呼吸を何度かしてから親爺は、
「若は付いていかなかったので?」
とだけ尋ねる。
雷刃は静かに首を横に振り、
「残念ながら、爺様を招待した【妖術士】は俺まで招待する気がなかったらしくってね。追えなかったのさ。それに、【狂王】と【妖術士】はその時点では爺様に執着していたんでね。爺様は俺の正体に気がつかれる前に、これからの準備をして置いた方が良いと考え、急いで根回しするよう俺に指示したのさ」
と、静かな笑みを浮かべながら答えた。
親爺は雷刃の心を読み違えなかった。
【青嵐】にのびた右の拳は血の気が無くなるほど強く握りしめられており、静かな笑みはいつもの余裕を見いだせず、鬼気すら纏(まと)っていた。
ここに来て最初に刃雅の行方を語ったとき以上に、その姿は自嘲と憤りに満ちていた。
「そういう訳でな。【妖術士】が今更動き出したのは、俺の正体を知り、俺が全ての力を身につける前に勝負を決めようと焦っているのさ。いやはや、あの妖術士を焦らせるとは、俺もなかなか大人物のようじゃないか」
からからと笑うその様は、親爺が知る雷刃の父よりも、むしろ、あの刃雅が若返り、自分の前に帰ってきた、そんな気分にさせられた。
「ん、どうした、親爺?」
親爺の態度に何か異変を感じた雷刃が、心配そうに顔を窺(うかが)う。
「……いえ。歳を取ると、どうにも感傷深くなるようでして、な」
深みを感じさせる静かな笑みを浮かべ、親爺は深々と雷刃に対し平伏する。「如何なる事がありましょうとも、この爺は若に最後までおつきあいいたします」
「嫌だねえ、この年代の年寄りは……。最後まで、俺をいじめるよ」
急に態度を改めた親爺を見て、雷刃は思わず苦笑する。
「なに、お迎えが近い故に、最後の大きな夢を見たいだけでございますよ、若」
決意を秘めた静かな笑みを親爺は浮かべる。「そこまで知っておられるならば、話は早い。【妖術士】は若の最大の力になろうこの街を落とす気でいます」
「気、ではなく確定事項、だろうな」
「何もしなければ」
雷刃は、断言する親爺を見てから、
「それで、その方策は?」
と、尋ねる。
「まず、若が気になされていた異形の者たち、これに紛れ込ませた【狂王】の兵に決起させます」
「兵を混ぜていたか……。忍びであぶれ者たちを煽っているだけだと考えていたが……甘かったようだな」
苦い顔のまま、雷刃は天を仰ぐ。「やれやれ。俺もまだまだ大したことはない」
「次に、緋科谷の軍勢を動かし、近衛府の兵を誘(おび)き出します」
「妥当だな」
「最後に、山伝いに伏せながら進めた数千の兵でもって、鵜ノ沢を強襲。中に予(あらかじ)め忍び込ませていたものたちにより火を掛けさせ、一気に落としまする」
「完璧だ。例え、伏兵に気がついていようとも、緋科谷の軍勢を無視することはできぬし、無視すれば今度は山越えをされ、圧倒的な軍勢が江州に流れ込む。伏兵に対する備えをしても、鵜ノ沢の動乱で後を気にして戦わなくてはならず、士気が上がるまい。それでいて、鵜ノ沢のあぶれ者たちにかまければ挟撃……。策とは、かくありたいものだな、親爺」
厳しい目つきで鵜ノ沢近隣の地図を睨み据える。
「全くもって。単純かつ確実。流石は希代の策士といわれる【妖術士】が考えた絵図面で」
真顔で親爺は淡々と褒め称える。
「お陰で、こちらも対応策を講じるのが難しいな」
お手上げとばかりに、雷刃はからから笑う。
「その上、こちらで絵図面をどうにかしようとしている方が、表立てないと来ていますからな、若」
親爺は雷刃をにやにや笑いながら茶化す。
「全くだ。こんな不利な状況で、よくもまあ、俺も戦う気になった。我ながら、度し難い酔狂だな」
それまで浮かべていた笑みすら引っ込め、剣呑な何かを孕んだ目を親爺に向ける。「あぶれ者の情報は集まったか?」
「便乗して暴れようとしている連中の動きだけならば」
「全て【新徴組】の連中に回せ。表だって伝えず、投げ文などの密告という形で伝えろ。町方からも情報が行くようにしているが、それだけでは情報が足りぬはずだ」
「承知」
「あと、【狂王】の兵が混じっていると目される場所は、直接伝えろ。俺の名を使って良い」
「よろしいので?」
思い切った命を聞き、親爺は探るように聞き返す。
「柏尾豺蔵は俺の素性を薄々気がついている。むしろ、俺が積極的に臭わせた」
親爺の意図を瞬時に悟り、雷刃は用心深く遠回りに答える。
「ふむ……。若がよろしいのであれば、この爺が申すまでもありますまい」
信じ切れていない親爺に対し、
「あれは信に足る。爺様と一緒に会ったときに比べれば、雲泥の差よ」
と、雷刃は断言した。
「伏兵に対する手当は?」
「ない。むしろする必要すらあるまい。既に【盟約】は結ばれており、それが今でも有効であることを確認してきた」
雷刃は淀みなく返事をする。
「ほう?」
親爺はどこかしら揶揄するような表情で、雷刃を覗き込む。
「道に迷って、迷子になるのが落ちだろうさ。まあ、用心に越したことはないから多少は目を利かせておいた方がいいだろう。ただし、彼らの逆鱗に触れない程度に、だ」
親爺の言外の質問は一切無視し、淡々と伏兵に対する手当の件だけを命じる。
「ふむ、確かに、あの娘の件で、気も立っておりましょうしな。めぼしい場所だけ、確認しておきましょう」
あの娘を強調して返事をすると、親爺はにやにやと笑う。
「それで頼む。……ところで、アヤメちゃんの目的は分かったのか?」
それをあっさり受け流し、雷刃はもう一つの疑問を口にした。
「確たる事は……。こればかりは、何とも……」
流石にばつの悪い表情で、親爺は答える。
「そうか。親爺の【里】の出で、なぜ【狂王】の手下となっているのかは予測できるが、俺に接触してきた理由が分からん。俺の正体に気がついているのは間違いないのだが、だからといって、それを外に漏らしているようにも見えん……」
「なぜ、そう思われます?」
雷刃が断言する理由が見えず、親爺は尋ねる。
「第一に、初めて会った時の事よ。出会い自体は確かに偶然だったが、妙な違和感が残る。俺を誑(たら)し込めないと分かった時点で、次の手に出ても良さそうなものをまるで博打打ちのように張った手を変えなかった。失敗したら、俺と心中しかねない賭け方でな」
「ふむ」
事その種の判断において親爺は雷刃のことを信じ切っていたので、何の反論もせずに相槌を打った。
「俺がアヤメちゃんならね、俺みたいな危険な手に手を出さないよ? その場限りの賭なら兎も角、こうも長くは張り付かない。脱出という目的を果たした時点で消えている」
雷刃は冷静に断ずる。
「若に取り付くことは目的ではなかった、と?」
親爺は雷刃が考えを纏めやすくするために聞き返す。
「あの時点では、鵜ノ沢に逃げ込み、繋ぎを取って、山の民の動きやら何やらを上に伝えるのが目的だったはずだ。それに……山の民の情報を流したのかさえ、ある意味で疑問が生じる」
雷刃は親爺に視線を向ける。「アヤメちゃんはちゃんと繋ぎを取っていたみたいかい?」
「繋ぎは取っているのは間違いありますまい。時節らしからぬ風が何度もあの娘が外で掃き掃除をしている時に限って吹き渡っているとの報告がありますし、私も見ておりますからな」
親爺ははっきりと断言する。
「その時にアヤメちゃんから何か相手に伝えている様子は?」
「接触しているのは確かですが、あれがそれに返事をしているのかまでは見えませんでしたがな」
親爺は肩を竦めてみせる。「まあ、こちらには分からぬ符丁で連絡を取っているようでしたらお手上げですが」
「ま、伝わっていたら、今回の動きは全て終わっているはずだ。【妖術士】は失敗すると分かっている賭を続けるほど愚か者ではない。ならば、どこかで意図的に情報がねじ曲げられている」
雷刃は鉄扇を玩び、「少なくとも、アヤメちゃんの担当と思われる山の民の情報が伝わっているなら、【妖術士】配下の忍びどもが、この地にまだいるって事は不自然ではあるな」と、呟く。
「ふむ……。その場合、確かに、あの娘がそれを行っていると考えた方が良さそうですな」
親爺は深々と首を振る。「いかがいたしますか?」
「放っておけ。今のところ【妖術士】の目論見通り進みながらも、俺たちが敵の裏を掛けている。理想ともいえる形で、だ。ならば、アヤメちゃんにもある程度の褒美があって然るべきだろうさ。問題は、彼女の望みがなんなのだ、が……」
雷刃は翳りのある表情を浮かべて黙り込む。
「若?」
雷刃らしからぬ表情を見て、親爺は心配そうに声を掛ける。
「いや、何でもない……。ただ……思い出していただけだ……」
首を数度左右に振ってから、自嘲の笑みを浮かべる。
直ぐにいつも通りの表情に戻ると、雷刃は立ち上がって【紫電丸】を腰に差し、
「ちと、出かけてくる」
と、部屋を出て行った。
親爺は何も言わず、茶を啜り、一つ深い溜息をついたのだった。