それは簡単な仕事のはずであった。
事実、今の近衛府に動きを察知できようはずもなく、かの【妖術士】がわざわざ気づかれないための策を何重にも施した計画であった。
そして、何よりも【山の民】は先の将軍宮を討ち取って以来、積極的に近衛府の味方をすることはなくなっていた。
だからこそ、多少危ない橋を渡る程度の策ならば、問題なく実行できると考えた。
確かに、多少の焦りはあった。
このところの任務の結果として失敗が続き、陛下の覚えが悪くなるのは自覚もしていた。
それ故、【妖術士】がこの話を持ってきたとき、深く考えずに首を振ったところもある。
むしろ、その【妖術士】が
「何、簡単な仕事だ。この計画に儂の考えが及ばぬところがあれば、儂自らが陛下に言上し、お主の罪ではないことを認めよう」
と、言ったのを聞いて、二つ返事で引き受けた経緯もある。
それを差し引いても、計画に穴はなかった。
【山の民】に警戒感は与えても、敵意を与えぬ道を使い、緋科谷の本隊が陽動のために敵への圧迫を強め、鵜ノ沢で騒ぎを起こすことで完全に敵の目を欺き、その隙を持って、所定の位置まで進んだ軍勢が近衛右大将阿賀孝寿の留守中に鵜ノ沢を落とす。
ありきたりであるが故に、防ぎようがない策。
伏兵に気をつければ、本隊が一気に鵜ノ沢まで迫り、鵜ノ沢の騒ぎを収めるために軍を置けば、鵜ノ沢に潜り込ませた患者がそれを混乱させつつ、伏兵で強襲し、敵の動揺を誘ったところで本隊が近衛府の軍勢を討つ。
組み合わせ次第で、どうにでも対応できる穴のない計画であったはずだ。
そう、彼らが所定の位置に既に待機していれば、の話である。
「殿。物見が戻って参りました」
「御苦労」
いかにも猛者といった髭面の将が報告に来た部下を労う。「お前は休んでおけ。いつ何があるか分からん」
「しかし……」
「ここのところ休んでおらんだろうが。戦になったとき、お前の働きがないと俺が辛い。休めるときには休んでおけ」
「はっ」
その命令が決して実行されないと分かっていても、男は言わざるを得なかった。
山に入って既に十日は過ぎているが、一向に目的地に着く気配もなく、今いる場所すら分からない。
兵の士気は既に限界に達しようとしており、それを食い止めるために主だった侍大将たちは寝る間を惜しんで兵の引き締めを図っていた。
「ご報告いたします。この先の道は既に塞がれており、進むのならば回り道をするしかないかと思われます」
「そうか、御苦労」
髭面の将は短い言葉で部下を労うと、一つ頷く。
それを見て、報告に来た部下は一礼し、下がっていった。
「祝子須(ほうりす)様からの指示は来ていないのだな?」
脇に控えている部下に、髭面の将はもう何度目か忘れた確認を取る。
「はっ」
影のように控えていた、痩身痩躯の男が返事をする。
「そうか……」
髭面の将は、苦笑を浮かべながら、「祝子須様に報告もできないのだな?」と、再度確認を取る。
「申し訳ありません、川村様。配下の者を送っても、元の場所に戻るか、もしくは……」
「殺される、か。なるほど、確かに我らは道を誤ったらしい」
川村と呼ばれた髭面の将は、淡々と事実だけを述べる。
「そのようなことは……」
「何もお主らの所為とは云っておらん。元々、祝子須様ですら、どこからが【山の民】の領域かご存じなかったのだ。誤って、侵入したところで我らに非はない。それよりも、一刻も早くこの地を出て、目的地にたどり着かねばならん。敵に気取られまいと考えていたが、そろそろそうも云っておられまい。急ぎ、この地を抜け出し、皆の気が萎える前に鵜ノ沢を強襲せねばなるまい」
「承知。多少、強引な手を使ってでも、正しい道を探して参りましょう」
痩身痩躯の男は、一礼すると、その場から掻き消える。
その場に残された川村は、ただ一人、誰にも見られていないのを確認してから深々と溜息をついたのであった。
だが、川村はしっかりと見られていた。
「山長。道を消してきました」
「御苦労」
法念は、眼下の光景を見下ろしながら報告を聞く。「それにしても、よく保つ」
「確かに。見知らぬ土地、それも道や方角すら分からず、食料も失われようとしているのに逃散(ちょうさん)しないとは、些(いささ)か意外でしたな」
「全くだ。それよりも、我らの土地に踏み込んできた方が意外ではあったがな」
眼下にいる軍勢を不思議そうな表情で法念は見続ける。
「ああ、山長の【里】に渡り巫女が入り込んでいたのでしたな」
既に、全ての【里】に対して渡り巫女によって情報が【狂王】に伝えられたと法念から伝達されていた。
そのため、これ以上【里】を危険に晒さないため、【狂王】方の怪しい動きを全て阻害することが全ての長の賛同により決まった。
今回の動きは、それに基づき山長たる次木法念が【狂王】の軍勢の足止めをすることを決定した。
「【妖術士】まで情報が行き渡らなかったと見える。そうでなければ、境界ぎりぎりを進軍するなど考えられぬ」
法念は冷静に断じた。
「しかし……我らが下界のものに肩入れせぬのは余計なことに巻き込まれぬ為。此度の一件、それを考えると多少肩入れしすぎに思えますが?」
「東の長はそう思われるか?」
法念は初めて振り向き、東の長の目を見て問い返す。
「正直に云えば」
法念の目に臆することなく、東の長ははっきりと答えた。
「なるほど。確かにそれは道理ではあるが、【盟約】から見れば道理ではない」
「【盟約】? 山長、まさかとは思いますが、既に終わった【盟約】に縛られているのではございませんでしょうな?」
法念の返事に思わず東の長は声を荒げる。
「終わった、終わっていないはその時の山長が決めること。既にそれが形骸と化そうとも、我らは立てた【誓い】を自ら破ることはない。縦しんば、下界の者が【盟約】を守り続けているのに、我らが破ることができようか? いや、できるはずがない。それは、我らの誇りを捨てるも同義だからだ」
法念は鋭い視線を東の長に向ける。
「守り続けている? まさか? 近衛将軍宮がいなくなって以来……」
東の長はたじろぎながらも反駁する。
「否、彼らは守り続けていた。それを我らが見過ごしていただけだ」
法念は断言した。
「何をもって……」
「先頃、【剣鬼】の孫を名乗る男が現れた。【青嵐】、【紫電丸】を有していたところを見てまず間違いない」
【剣鬼】の名を聞き、周りがざわめく。
山の民は、元々古流の【神刀流】を伝えてきていた。なぜならば、山とは神の座にも魔にも近い場所であり、この世ならざるモノとの遭遇が多く、身を守るためにも必要だったのである。
ある時、【神刀流】剣士を名乗る男がふらりと山を訪れ、彼が言う見込みのある者に対し、己の剣を授けた。それが、下界で【剣鬼】と呼ばれる男だと知ったのは、かなり後のことではあったが、その時は多少彼らが知る【神刀流】とは異なる剣技ではあったが、悪党働きをするには便利な剣であったため、すんなりと受け入れられた。
「【剣鬼】の弟子である、あなたがそう言われるのならばそうでしょうが、我らの【盟約】は【剣鬼】が重大な役割を果たしたといえど、その存在自体が【盟約】を守り続けている証拠とは……」
なおも言い募ろうとする東の長に対し、法念は右手でそれを制すと、
「その者は、黄色の紐で柄巻をし、竜を象った金拵(かなごしら)えの鞘に珠を象嵌した小太刀を腰に差していた」
「なっ……」
その場にいる者全員が驚きの表情を浮かべていた。
「紛う事なき、あれは我らと【盟約】を結びし者が有す小太刀【鵺(ぬえ)斬り】。【鵺斬り】をもって、身を開かす者は即ち、【盟約】の後継者。ならば、我らはそれに応える義務がある」
「しかし、あれは代々下界の皇尊(すめらみこと)が所有物にして、その代行者に貸し与えられるもの。先の近衛将軍宮とともに消え去ったはず……」
東の長は震えながらも、彼らの知っている事実を口にする。
「確かに。【鵺斬り】は将軍宮とともに闇に消えたとされている。ただ、私はもう一つの話を聞き及んでいる」
「い、如何なる……」
東の長は自分が抜け出せない泥沼化何かに足を踏み出してしまった恐怖を感じていた。
確かに、先の近衛将軍宮孝晴には、悪党働きをせずに生きていけるようにして貰った恩はある。
だが、それだけのために、一族全ての命を差し出し、【狂王】と戦うには今の生活が惜しかった。
そう、彼は既に今の生活を慣れ親しみ、それを守る保身の為、ある男に便宜を図っていたのである。
「将軍宮は、若かりし頃、忍びで都を歩くことを好み、よく行っていたという。ある日、それを知ってか知らずかまでは分からぬが、命を狙われた。危うく命を落とすところを、女剣客に救われ、己の命と同価値とされるものを譲ったという。後に、その女を己の側女とし、寵愛した。その女の名を、柴原美鈴といい、当世一と歌われた剣客、【剣鬼】柴原刃雅の一粒種にして、【剣舞姫】とまで呼ばれた剣の使い手にして、傾世の美女だった」
そう言うと、法念は鞘から音もなく刀を抜き、そのまま東の長の首を刎ねる。「俺が、貴様の動きを知らなかったと思っていたのか、ええ?」
物言わぬ首に対し、冷笑を浴びせ、法念は刀の血糊を懐紙で拭い、鞘に収める。
東の長の従者が色めき立ったが、法念の配下の者に気圧され、一瞬で動揺が収まる。
「【狂王】に通じた裏切り者を斬った。異存がある者は私に掛かってくるが良い。正し、こうなる」
首を従者の方に蹴り飛ばし、法念は静かに東の長の従者たちを睨む。「今の生活を無くしたくないだけならばとやかくは云わぬ。だが、その男は、我らを裏切り、我らの敵に付いた。その意味は分かるか?」
その場にいる者、誰もが、法念の前に平伏した。
「我ら山の民は、同胞以外の事柄に興味もなければ、敵意もない。ただ、誰にも屈せぬし、誰にも従わぬ。己らの誇り以外に仕えもせぬ。それが、我らだ。故に、下界の者と、互いの領域を穢さぬ代わり、互いに干渉をせぬ【盟約】を立てた。後に、互いが敵にならぬ限り、互いの敵を同じくする時は、互いに助け合うという【誓い】を立てた。【狂王】はこの扶桑の地全てに対し、屈服であり、己への忠誠を求める。これは、我らの敵だ。そして、我らと【盟約】を立てた者に対する敵でもある。【誓い】を果たすべき時だ。彼らは、その証を【陽の神(ひのかみ)】より授かりし、【鵺斬り】に掛けて誓った。我らは、その証を【山の神】より授かりし、この地に掛けて誓った。そして、証を持った者は、【盟約】に従い、一度たりとも我らが領域に踏み込まず、我らに何も強制しなかった。それどころか、将軍宮と同じく、下界に客として招き入れようと云った。意味を理解してかどうかは分からぬが、少なくとも、【盟約】は守ったのだ。ならば、我らは【誓い】を守る。我らの誇りに掛けて、だ」
その厳かな表明を聞き、周りにいた全ての山の民が頭を垂れる。
法念の言葉に一点の曇りが無く、正当な言葉であることを誰もが認めた。
それに、東の長が【狂王】に通じているのは誰もが知る真実であった。
件の渡り巫女が山に入り混んだのは、東の長がそれを認めたからである。
それが色惚けによって為されたことではなく、その他の理由でなされたことだという事は、彼の羽振りの良さで誰もが知っていた。
「ならば、山の民の長として命ずる。我らが敵を、我らの領域に踏み込ませることなく、惑わせ、山の土塊(つちくれ)とせよ。下界の者に嘲笑(あざわら)われぬよう、己の誇りを守るが為にも」
一同は頷き、東の民の長の死体をその場から持ち去り、立ち去った。
裏切り者とはいえ、同胞である。
この場にいる誰しもが、山に還すことに異存はなかった。
「長」
法念の【里】の男が、「山に入り込んだ【妖術士】の手の者を始末して参りました」と、報告に来た。
「御苦労。そのまま、あそこにいる軍勢を孤立させよ。それと、東の【里】で怪しい動きをする者を全て捕らえよ。【狂王】の草だ」
「承知」
「私は下界に降りる。あとのことは、お前に任せる。奴等を決して鵜ノ沢に近づけさせるなよ」
「承知。……長よ。自ら下界に行かれることはないのでは?」
男は正直に疑問を口にした。
「ああ、啖呵は切ったが、流石にまだ自身が無くてなあ。あやつが本当に刃雅先生の孫なのか自らの目で見極めようと思ってねえ。それに……」
法念は鵜ノ沢の方に目を向けると、「あまり良いにおいがしてこない」と、呟く。
「そいつは【神刀流】剣士の勘ってやつですか?」
「ああ、全く持ってその通り。この世ならざるモノの気配がぷんぷん臭いやがる。柴原神刀流といえど、【神刀流】には変わりない。この世に仇なす人外の化け物を見たら、斬らねばならん。やれやれ、厄介な話だな、おい」
にやにや楽しそうに笑いながら、法念はぴしゃぴしゃと首筋を叩く。「いやはや、俺もいつの間にか神刀流に染まっちまったらしいなあ」
「長は、最初から染まられていました。行動も、口調も、性格も。悪党働きが長すぎた所為でしょうか、元々下界に染まっていたところを、刃雅先生に止めを刺されたと云うところですな」
「ふん。そういうお前だって、随分と染まったさ。下界を唾棄していたくせに、今や立派な下界贔屓。やれやれ、聞いて呆れるね」
突っかかってくる【里】の男をにやにや笑って法念はからかう。
「随分と手痛いことを云われますな」
流石に憮然とした表情で、男は答える。
「随分と手痛いことを云うさ。何せ、神刀流剣士だからな」
げらげらと笑い、法念は歩き出す。
それを男は一礼して見送ると、山へと戻っていった。