『元町・江州屋』

 翌(あく)る日、雷刃は鼻歌交じりで勝手知ったるなんとやら、とばかりに鵜ノ沢の街を闊歩していた。
 色街とは正反対の位置に当たる下町風情あふれる貧乏長屋が連なる街。それが元町である。
 その元町でも、一二と噂の小料理屋が江州屋である。
 昼間は一膳飯屋、日が沈んでからは居酒屋というその店は、女将のお妙の亭主が所の親分である六兵衛であるためだろう、主に飲み食いしに来るのは六兵衛の密偵か、後ろめたいこと何一つしていない真っ当な連中ばかりであった。

「ごめんよ」
 純白の犬を連れた笠を目深に被った浪人が暖簾を上げて店に入ってきた。
「あらあらまあまあ」
 その声を聞いた女将が、奥から慌てて飛び出してくる。「若様じゃございませんか……」
 感無量とばかりに続く言葉を出せない女将に、
「お妙おばさん、久しぶり」
 と、笠を外し、総髪の浪人──柴原雷刃は満面の笑みを浮かべて女将に声をかける。
 雷刃の足下にいる犬も一声鳴き、女将の足の当たりにその頭をすりつける。
「あら、狗狼まで……。それにしても、うちの亭主から聞いてはいましたが……本当に若様に会えるなんて……」
「長らく挨拶も返事の手紙もなしですまなかったねえ。修行の身では時間が無くてねえ」
 本当にすまなさそうに雷刃は頭を掻きながら、座りなれた席に陣取る。「まあ、何はともあれ食事したいな。今日はお妙おばさんの手料理が食べられると思っていたから、朝抜いてきたんだしさ」
「あらまあ。若様ったら、お世辞云っても何も出ませんよ?」
「俺にとっちゃ、ここの料理は何よりも美味いものだからね」
 満面の笑みで雷刃は断言する。
 それを嬉しそうに見守るお妙の表情は、母親のそれであった。
 実際、雷刃がここまで甘える相手はお妙を除いてそうはいない。
 六兵衛や親爺に対してでさえ、見せはしない笑顔を浮かべる。
 男としての意地や、【剣鬼】柴原刃雅の孫という誇りがある。
 その上、神刀流の免許皆伝、正統伝承者として【紫電丸】と【青嵐】を託された以上は、一個の男と世間に認められねばならない。そうでなくては、あの【剣鬼】の名を汚すこととなる。
 雷刃はそれを最も恐れていた。
 誰よりも【剣鬼】の強さ、凄さ、怖さを知っているが為に、その名を汚すことを最も恥じた。
 だからこそ、その行動を模範とし、己の美意識につながる甘さ以外は全て捨てた。
 ただ、親子の情は捨てなかったと言うよりは捨てられなかった。
 実の母は【狂王】の追っ手に殺されており、その記憶はほとんどない。
 父親に至っては、生まれてまもなく【狂王】に殺されている。
 祖父である柴原刃雅に拾われるまではそれこそ生きるために何でもしてきた。
 そんな彼に人としての生活、愛情を注いだのが六兵衛夫妻である。
 彼にとって、両親とは実の父母よりも六兵衛とお妙であった。
 世の中の習いとでも言うべきか、雷刃もまた、男親には愛情の篭もった冷たい対応をするが、女親には甘えっぱなしであった。
 子宝を授からなかったお妙は雷刃を実の息子のように可愛がったし、雷刃もお妙を悲しませる真似をしたがらないために、この男らしからぬ素直な反応が出てしまっていた。
「まあ、何はともあれ、ご飯とみそ汁。それに何か一品付けてよ」
「はい、分かりましたよ」
 調理場に戻ろうとしたお妙が、「そう言えば、若様。うちの宿六から聞いたんですけど、女の子拾ったんですって?」と、声をかけてきた。
「あれは女の子なのかねえ?」
 お妙の質問に雷刃は首をひねった。
「あら、女は愛した男の前では一生女の子なんですよ?」
「お妙おばさんもかい? 六兵衛親分も大変だ」
「若様ったら酷いことを云って」
 くすくすと笑うお妙に、
「親分がなんて云ったかは知らないけど、【狂王】の間者と馴れ合う気はないよ」
 と、真顔ではっきりと答えた。
「……【狂王】の……」
 その一言で全てが分かったお妙は、静かに頬笑むと、調理場に下がる。
 雷刃にとって、【狂王】とは自分から全てを奪った仇敵である。決して同じ天を戴きたいと思っている相手ではないのだ。幼い頃の雷刃を見ていたお妙にはそれがよく分かった。
 ただ、窮鳥が懐に飛び込んできて、それがいかなる相手であろうと、一度自分に助けを求めてきた相手を捨てるような情のない男でもない。
 お妙はそれを知っていたから、深くは問わなかった。
 ただ、お妙が忘れていることもあった。
 雷刃は刃雅の孫であり、刃雅という男が面白くなることならばある程度いろいろなことを大目に見るという性質の持ち主であったと言うことを、である。
 ただ、雷刃と刃雅は彼女が知る限り性格に大きな差があったので、そこに思い至らなかったのは当然とも言えた。
 もし、その考えが浮かんでいたならば、雷刃を問いつめ、雷刃の狙いを最初に知る人物となったであろう。
 そして、それは雷刃にとって大きな計算違いになるはずであった。
 雷刃にとって幸運だったのは、お妙が雷刃の過去をよく知っていたことであった。
 それに付け加え、彼女の夫である六兵衛が、刃雅がなぜいないかを推測ではあったが、語っていた。彼女も、雷刃が刃雅に対してどれだけ懐いていたかを知っていたから、不用意な発言で雷刃を傷つけるような真似はしたくなかった。
 だから、彼女は雷刃にそれ以上の追求をしなかった。
「はい、若様。お待たせしました」
「おっ、炊き込みご飯だ。俺はこれが好きなんだよ。これぞ鵜ノ沢の味、帰ってきたって感じがするねえ」
 いかにも美味そうにがっつくと、あっという間に雷刃は丼一杯はあろうかという炊き込みご飯を平らげ、「お代わり。ついでに一本付けてちょうだい」と、二杯目を催促する。
「はいはい」
 お妙が調理場にどんぶりを持って下がったとき、
「ごめんよ」
 と、唸るような低い声で、店に入ってくる者たちがいた。
 雷刃がそっちに目をやると、人の形をした狼──狼人(ろうじん)が入ってきた。
「あ、新徴組の旦那方」
 調理場から、雷刃のお代わりを持ってきたお妙が入ってきた狼人達に挨拶をする。
「おじゃまするよ、女将」
 他の狼人に比べれば、かなり流暢で訛りのない京言葉で声をかける。「おや、いつもの席が既に埋まっているのか。じゃ、適当に座らせて貰うかね」
 先頭の狼人に従うが如く、他の狼人達もその男を中心に座っていく。
「お妙おばさん。あれが噂の新徴組?」
 雷刃はお代わりを持ってきたお妙に小声で聞く。
「あら、ご存じでしたの?」
「昨日親分から聞いてね。評判はどうなの?」
「まあ、悪くもなく良くもないですわね。元々、狼人に対して良い感情抱いている人は少ないですからね。石投げつけられないぐらいでしょうね、今のところは」
「なるほど。まあ、狼人はここらじゃ少ないから、おっかなびっくりってところだろうねえ」
 雷刃はあっさりと納得する。
 実際、狼人が住んでいるのは扶桑でも都よりの北部の森だけであり、金鰲山脈より南では珍しい種族である。その上、狼人達は多種族との交流をほとんど持たない。ただ、古の盟約──その実は朝廷からまつろわぬ民として討たれぬための契約と成り下がっているのだが──により、都の守護である北面の守りに屈強な戦士を提供していた。
 本来ならば、盟約によって決められた人数だけで問題なかったのだが、戦時となり近衛が鵜ノ沢に常駐するようになってからは、都の守備に問題が生じ始め、最も力がない者からその代替分を供出させることとなった。それが、新たに徴収された狼人部隊、新徴組である。
 近衛の抜けた分、負担が大きくなっていた検非違使の雑務や狂王の陰謀か、はたまた便乗犯かはしれないが急激に増えてきた火付けや強盗と言った犯罪の下手人を引っ捕らえる治安維持に主に使われていた。
「そう言えば、おばさんも狼人見るのは初めて?」
「うちの宿六の仕事柄、今まで何人かは知っていますけど、こんなに大勢の狼人の方と毎日のように会うのは初めてですよ」
「そりゃそうか」
 やはり、雷刃はあっさりと納得する。
 都を除いて最大の都市である鵜ノ沢の住人ですら、狼人を見たことある者は数える程度であろう。
 お妙は六兵衛の仕事が御用聞きであるために、その仕事の関係で訪れてきた狼人と二言三言言葉を交わしたことがあった。
 だから、狼人に対して偏見も持たなければ、物珍しさも感じていない希有な人物であった。
 それをすぐに察知した、新徴組の狼人達が江州屋を得意先にしたのは当然の成り行きとも言えた。
「あの先頭で入ってきた方が、新徴組副長の柳孫四郎さん、その周りにいるのが各隊の隊長さんたちですよ」
「噂の総長は?」
「ああ、あの方ならそう毎日来られる方じゃないので、今日は来ないかもしれませんね」
「それは残念。噂の古流【神刀流】の使い手、見てみたかったんだけどね」
 雷刃はつまらなそうに溜息をついた。
 雷刃の使う神刀流は、彼の祖父である柴原刃雅が『竜神』の導きにより、伝授されたと刃雅は吹聴していた。彼が神刀流を使うまでは、人間社会では滅んでいたのである。
 なぜらならば、【神刀流】とは大陸から扶桑に流れてきた【太陽神】が扶桑の地に住んでいた無辜の民々が、魔性のものに殺されていくのを哀れみ、己の剣技を心あるものに託した、【退魔の剣】が由来のためである。そのため、【神刀流】は人を相手にするのが中心となった今の世には、似つかわしい剣術とは言えなくなり、廃れていき、一度は滅んだのである。
 それを覆したのが、【剣鬼】柴原刃雅であり、人に会わば人を斬り、神に逢わば神を滅ぼし、魔に遭わば魔を降す、【殺人剣】として神より与えられた【神刀流】を現大に蘇らせたのである。
 ただし、それは人間社会においてであり、狼人の社会では違った。
 元々、狼人は他の種族とも、同族とも武器を取って争うという事をしなかった。彼らが、武器を持って戦う相手は、この世ならざるモノや話し合いで解決することができない相手であり、人とは決して殺し合いをしなかった。人間社会に入り込んだ狼人の中には、殺し合いに取り憑かれた者も出てきているが、己や同族、盟約を結んだ者たちには決して刃を向けなかった。
 そのため、彼らはこの世界にあだなすものを討つための剣技、【神刀流】を絶やすことなく伝えてきていた。
 従って、人間が手放した古流の【神刀流】を狼人達は使い、人間は刃雅が編み出した新しい神刀流を使っていた。
 【狂王】の生み出した戦乱の時代のために、狼人達も刃雅の神刀流に影響された【神刀流】を使う者が多くなっている中、新徴組総長柏尾豺蔵は昔ながらの【神刀流】を使う達人として知られていた。
「爺様が古流【神刀流】の太刀筋を見知っておけ、と云っていたから、使い手を見たかったんだけどねえ」
 お妙にだけ聞こえる声で呟くと、雷刃は深々と溜息をついた。
「あらまあ。そういうわけでしたの」
 空いている器をお盆に載せながら、お妙は相槌を打つ。
「ところで、狗狼を知らない?」
 ふと、己の足下に愛犬がいないことに気がついた雷刃は、辺りを見渡しながら、お妙に尋ねる。
「あら、そういえば見ませんわね?」
 二人が辺りを見回してみると、新徴組の隊士の中で、欠伸をしながらのんびりと寛ぐ狗浪の姿が目に飛び込んできた。
 狼人に怯えない犬が珍しいのか、新徴組の隊士たちは、狗浪に興味津々と言った感じであった。
「まあ、狗浪が気にしていないなら、特に問題はないか……」
 雷刃は再び自分の杯を舐め始める。「ん。爺様が通い詰めたわけだな……」
 炊き込み御飯と酒を交互に口にしながら、雷刃は幸せそうに舌鼓を打ち続ける。
 狗浪におっかなびっくりじゃれついている新徴組の隊士たちを気にもせず、雷刃はひたすらお袋の味を堪能していた。

 雷刃の腹が満たされたとき、突如狗浪が低く唸り始めた。
 突然のことに、その時喉を触っていた狼人が慌てて狗浪から離れる。
 お妙も、心配そうに雷刃の方を見たが、当の雷刃は、気にすることなく、杯に酒を満たしていた。
「珍しい。天狼か……」
 低くて渋みのある唸るような声で呟きながら、一人の狼人が暖簾を潜(くぐ)ってきた。
「あら、柏尾の旦那じゃないですか」
 お妙はびっくりした表情でその男を迎える。「あとから来るなんて珍しい」
「他に行きつけの店もないものでな」
 理由にもならない理由を口にしながら、いつもの席に座ろうとして、怪訝そうな台詞を口にする。「ふむ。先客か」
「あら、ごめんなさいね。旦那より昔からここに座っていた子が帰ってきたものだから」
「女将の息子さんか?」
「そうだったら良かったんですけどね。うちの宿六の師匠のお孫さんよ」
「相席で良いなら、御随意に」
 にこやかな笑みを浮かべ、雷刃は座ったまま狼人に席を勧める。
 一瞬、その慇懃無礼(いんぎんぶれい)な振る舞いに場が冷え切ったが、
「丁寧な対応痛み入る」
 と、狼人はそれをあっさりと受け、雷刃の対面に座った。
「いやだいやだ。そう、あっさりと見抜かれると楽しいもんじゃないよ」
 雷刃は苦笑しながら、自分の杯をすぐに空け、狼人の手に押しつけて銚子を傾けた。
「立ち振る舞いを見れば分かる」
 悪びれもせずに、狼人は一気に杯を空にする。
「他の誰も気が付いていなかったみたいだけどねえ」
 肩を竦ませながらも、二杯目をすぐに注ぐ。
「そうでもない。何人かは気が付いていたからこそ、敢えて牽制していた」
「そんな大層なものじゃないさ」
 実際、今にも襲いかかってきそうだった連中を必死に押さえている者が数人いたのを横目で確認していた雷刃は、思わず苦笑する。
「この席に座ってか?」
「爺さんが好きだったから座っているにすぎないよ」
 ぴしゃぴしゃと首筋を鉄扇で叩きながら、雷刃は惚けてみせる。
「【青嵐】」
 目を見開き、それが何なのかを理解した豺蔵は思わずその名を口にする。
「やっぱりご存じか。さすがは古流の【神刀流】の使い手だけはあるねえ、柏尾豺蔵殿」
 周りの狼人から、一斉に殺気を浴びても、悠々としたまま、雷刃はにやにやと笑う。
 驚きから立ち直った豺蔵が、
「貴殿は?」
 と、杯を返しながら尋ねる。
「察しているんじゃないのかい?」
 にやにやと笑いながら、雷刃は杯を受け取る。
「元町の六兵衛の師匠の孫。その上【青嵐】を持っているこれだけの使い手となれば、想像は付くが、あの男がそうあっさりとそれを譲るとも思えぬ」
 不思議なものを見る目つきのまま、豺蔵は杯に酒を注ぐ。
「爺様から、死ぬ間際に免許皆伝を貰ってね。まあ、本当に死んだかは分からないが、さすがにあれは死んでいるだろうさ」
 多少、沈んだ表情を浮かべたが、すぐに気を取り直したかのように、杯を一気に空にする。「御察しの通り、柴原刃雅が孫、雷刃だ。敢えて云うならば【柴原神刀流】の二代目継承者、ってことになるかな」
「【神刀流】柏尾豺蔵。今はしがない朝廷の犬、だ」
「しがない、ねえ。【狂王】の配下が聞いたら、猛りそうな表現だ」
 くすくすと笑いながら、お妙が持ってきた新しい杯を豺蔵が持ったところで、酒を注ぎ返す。
「【狂王】など気にする男でもあるまい」
「いやいや。【狂王】は恐ろしいよ。【狂王】と【妖術士】は、な」
 鋭く、相手を居すくませる何かをはらんだ視線で、雷刃は豺蔵の両眼を見やる。
「御冗談を……」
「冗談なら、気楽で良いねえ」
 肩を竦ませるだけで受け流した豺蔵を見て、雷刃は苦笑気味に呟く。「それはそうと、豺蔵殿。実は、あなたと会うのはこれが初めてじゃないわけなんだが」
「ほぅ」
「どうにもその口調は気になってならない。なんで、いつもの口調じゃないのかねえ?」
「…………」
 探るような目つきで豺蔵は雷刃の目を見る。
「なに、爺様が生きていた頃、一緒にあなたの道場を尋ねたことがあるだけのことさ」
「なるほど、それで合点がいきましたぜ、旦那」
 急に、都の下町で使われるような、柄の悪い口調を豺蔵は使い始めた。「どうにも、ケツの辺りが痒い思いをしていたんですがね、あっしのことをそこまで知っているんなら話は早ェ」
「ああ、やっぱりあの口調は気持ち悪いのかい」
「どうにもお上品すぎて、あっしにはあいませんな、旦那」
 空となっている雷刃の杯に、徳利を傾けながら、豺蔵はにたにたと笑い出す。「なるほど、なるほど。刃雅先生が連れてきた小僧様が、ここまで立派に成長されていましたか」
「嫌な言い方だ」
 さほど気にしていなさそうな口調で、雷刃は軽く答える。「やれやれ。よけいな一言だったかな。また頭の上がらない年寄りを増やしただけか」
「あっしはさほど年を取っていませんぜ、旦那」
「俺より上なら変わらないさ。どうにも、昔の俺を知っている連中には弱くてねえ。ここの女将もその一人でね。爺さんに良く連れられてやってきていたのさ」
「なるほど。道理でこの席を使っているわけだ。納得いきましたぜ」
「大した理由じゃないさ。爺さんと一緒に昔から座っていた、座り慣れた席なだけだよ」
 雷刃は笑いながら、杯を乾す。
「そう云うことにしておきやしょうかねえ。あっしには、表からも勝手からも適度に離れて、適度に近い、いざって時に動きやすい席だと思えたんでやんすがねえ」
 雷刃の杯に酒を注ぎながら、豺蔵は口の端を歪める。
「そりゃ勘ぐり過ぎってもんさ」
 からからと笑い、空になった徳利を調理場の方に振って見せながら、雷刃は、「そういえば、豺蔵さんよ。あんた、あれかい。腕には自信があるのかい」と、とんでも無いことを言い出した。
「こいつは、いきなり御法度な質問を……」
 辺りの気温が再び一気に下がったのを感じながら、豺蔵は杯を乾す。
 豺蔵の云うとおり、兵法家同士のこの種の話は他流試合の禁止と同じぐらい禁忌とされていた。
 俺が強い、俺の方が強いなどと言った会話は、行きすぎれば刃傷沙汰となる。
 それも、互いに達人級の刃傷沙汰となれば、まずどちらかの、もしくは両方の命がない。
 素浪人同士の刃傷沙汰ならばともかく、仕官している侍や一流を代表する使い手が、お互いにそのようなことを言い出して、取り返しの付かない自体となれば、それこそ主家や流派を巻き込んだ一大闘争となりかねない。
 既にこの時代は、剣術が家元芸としての側面を有しており、流派の頂点に立つ者はおいそれと自分の流派の対面に傷つく行動を取ることができなくなっていた。相手の立場をおもんばかってというよりも、自分たちの権威を守るために他流派との交流を禁じ、試合を避けるようになったのである。
 そのために、その種の質問は腕が上がれば上がるほど、家元たる師範から強く禁止されているものであった。
「なに、豺蔵さんと俺の間だ。さほど問題にはなるまいて」
 雷刃は自信満々にそう答える。
 確かに、雷刃の言い分にも理は有った。
 雷刃と豺蔵の流派はどちらも起源は違えど【神刀流】であるし、雷刃の祖父は先の近衛将軍宮の剣術指南として朝廷に仕官していた身である。間接的に主家は同じ、流派は同じ同門の会話と取れば、確かに他流派との諍いをおこすといった問題とはならない。
 所詮は自流派内の優劣を付けるだけの問題であり、この場に限って云えば、免許皆伝者同士の酒の肴として扱うべき笑い話の一種として受け止めることもできた。
「まあ、あっしにも部下に対する面目ってもんがありまさあ」
 屈託のない笑顔で、豺蔵はさらりと答える。
「ふぅん、そうかい。俺は……そうさな、豺蔵さんとやり合うだけなら、自信はあるなあ」
「ほぉ」
 その物言いに、豺蔵は目を細める。
「なに。爺様伝来の占いがあってね。使い手を目の前にしたとき、屁が出るかでないかってもんなんだが……」
 雷刃は尻を浮かし、一発大きな屁を放いた。「ほぅら、出る。俺の尻は縮こまっちゃあいねえ」
 にやにやと笑う雷刃に対し、豺蔵は多少顔を歪ませる。
 雷刃の言わんとしていたことと、為したことの重さがすぐに分かったのだ。
「爺様が云うには、どんな奴でも真剣でやり合う前には身体が硬くなって、縮こまるもんらしい。そんなときに、自分が屁を放ける奴ぁ、怖くない。逆に、屁を放けない相手にゃあ、絶対にかまうなと云われてねえ。なるほど、なるほど。確かに、身体が硬くちゃ、斬られるだけだわなあ。なかなかあれで、年寄りの云うことは信じるもんだ」
「旦那もお人が悪い……」
 豺蔵は背筋に冷たいものを感じながら、思わず苦笑する。
 打ち込まれる気配も、斬りかかられる気配もなかったが、豺蔵ははっきりと刃雅と相対したときの恐ろしい感覚を思い出していた。
 木刀を構えすらしないときから、恐怖で身を竦ませ、口の中がからからに乾いていたあの感覚をこの場で一瞬とはいえ、条件反射のように感じてしまったのだ。
 剣気すら発していないただの若造相手に、である。
 他の誰もが感じていないからこそ、この若造に斬りかからんとばかりの殺意を込めた視線を向けているのだろうが、その事態すら彼には恐怖を感じさせられた。
 相手が、もし、刃雅のような性格の男ならば、この場にいる全員を血の海に沈めるからである。
 殺気を己に向けた時点で、敵対行動と見なし、敵は皆殺し。
 【剣鬼】柴原刃雅とはそういう男であった。
 まだ若く、都に自分以上の使い手がいないと思っていた豺蔵を、ふらりと尋ねてきた子供連れの年寄りが自分を打ち砕くその時までは、である。
 既に死んだものとされていた、柴原刃雅が目の前に顕れたとき、彼は伝説に飲み込まれていた。
 いや、伝説を知らなくても、あっさりと斬られていたと今では自覚し、二度とそのような失態をしない修行を重ねてきたつもりであった。
 しかし、【剣鬼】の血脈は、そんな自分の想像よりさらなる高見に存在していた。
(これは、敵わん……)
 豺蔵は素早く結論づけると、この場をどう治めたものか悩み出していた。
 部下を皆殺しにされるのだけは避けなくてはならない。
 自分が止められない相手を、部下が止められるという甘い考えを豺蔵は有していなかった。
 しかしながら、それは杞憂と消えた。
「だが、やはりこの世ならざるモノと相対した場合は、豺蔵さんの方が俺より強そうだねえ」
 そう、雷刃はあっさりと負けを認める発言を口にしたのである。
「そうでしょうかねえ?」
 相手の意図が見えず、豺蔵は怪訝な顔つきで返事を返した。
「そうさ。俺は爺様から剣を習っただけだ。まだまだ、修行不足よ。その点、豺蔵さんは俺なんざより圧倒的に修羅場を越してきている。それも、人間相手だけではなく、ねえ」
 追従やおべっかとは全く違う一片たりとも曇りのない清々しいまでの讃辞を雷刃は口にする。
「煽ててもなにもでやせんぜ?」
 雷刃の杯に酒を注ぎながら、豺蔵は苦笑する。
「なに。爺様から、古流【神刀流】の神髄を知る男の太刀筋を見ておけ、って云われていたんでね。その機会を作ろうとしているだけさあ」
 あっけらかんとした態度で、雷刃は目的を告げる。
「果たし合いで?」
「ん? 俺は命のやりとりが嫌いでねえ。そういうところが爺様に似ていないから、果たし合いを申し込んでくる文句を云われるぐらいさあ。だから、今度道場で剣を振るっているところを見せて貰う程度で良いさ」
「それならおやすいご用で」
 ほっとした表情を浮かべながら、豺蔵は雷刃に酒を勧める。
 その一言で、殺気立っていた周りも少しずつだったが、和らいでいた。
 再び喧噪に包まれつつある中、網代笠を目深に被った侍が、店に入ってきた。
 慣れた様子で店内を歩くと、
「女将。上の座敷は空いているな?」
 と、声をかける。
「はい。空いていますよ」
「上がらせて貰う」
 男はそう云い、草履を脱ぐと、そのまま二階へと上がっていった。
 それを見ていた雷刃が、
「さて、お妙おばさん。新徴組の旦那方が怖いから、俺も二階の一部屋借りるよ。迷惑代わりにこれで、旦那方のお代にしておいてくれ」
 と、懐から数枚の小判を取り出し、机の上に載せる。
「あらあら。若様。そんなことしないでも良いのに……」
「なに。俺の気持ちさ。ま、そんなわけで、豺蔵さん。次の機会にでも、太刀筋を見せておくれよ」
「へい。次の機会にでも」
 雷刃の気遣いを気にした風にでもなく、さりとて、いらぬ節介だと怒るわけでもなく、豺蔵はそのままその好意を受け取った。
 片手を軽く振りながら、雷刃は下駄を脱ぎ、軽やかでいながら、隙のない動きで階段を上がっていった。
 それを見て、豺蔵は、隊の中の何人がその動きに気が付いているのだろうと思い、深く溜息をついた。

 笠を取った中年の男が、窓の外を見ていた。
 元町を縦断する大通りに面した江州屋から見下ろす風景は、鵜ノ沢の中でも一二を争う活気あふれるものであった。
「いや、悪いね、呼び出して」
 笑みを浮かべながら、雷刃は障子を開け、ずかずかと部屋に入る。
「若におかれましては、御機嫌麗しゅう……」
 即座に男は、雷刃の方を向き、深々と座礼をする。
「嫌だねえ、年寄りは。若者の嫌いなことをしてきやがるよ」
 雷刃は苦笑しながら、手を軽く振り、「無礼講と行こう」と、宣言した。
「はっ」
 その言葉を受けても、男は深々とした礼を崩さなかった。
「何? 云いたいことでもあるのかい?」
 流石の雷刃も、嫌みとも取れる丁寧な対応に多少顔を歪める。
「山程」
 頭を上げていない以上、その表情を見て取れないだろうが、口ぶりや雰囲気から雷刃の不快感を感じているはずなのに、男はある種の平然とした口調のまま、応対する。
「今は勘弁してくれ。とりあえず、この件が片付いてからにしようや。その程度の時間は作ってきたわけだしねえ」
 苦笑じみたものを浮かべながら、悪びれるところ無く上座に座る。
「若。此度の帰郷は、ついに立ち上がれるからではないのですか?」
 何かしら不穏なものを感じたのか、男は困ったかのような口ぶりで質問を返す。
「橘の爺がそうとでも云っていたのか?」
 何とも言えない嫌そうな表情を浮かべ、雷刃は溜息をつく。
「はい」
「全く、そんな既成事実でどうにかしようとするとは、爺も老いたか?」
 雷刃は深々と溜息をつく。
「それがしが思いますに、橘様も自分の先行きの近さを感じ、焦っておられるのだと思われます」
「あの無敵の爺様が死んだんだものなあ。そりゃ、焦るか、爺も」
 再び、深々と溜息をつき、肩を一つ大きく【青嵐】で叩いてから、雷刃は苦笑する。「まあ、おまえらには悪いが、今はまだ準備ができていない。もう暫く待ってくれ」
「若がそうおっしゃるのならば」
 頭を下げたまま、男は即答した。
「いい加減面を上げてくれ。さすがに気持ち悪い」
 右手を軽く振りながら、雷刃は笑う。「それとも、俺には見せられない顔にでもなったのかい?」
「そのようなことはございませぬ」
 男はやっと面を上げた。
 年の頃は四十をすぎた辺りか、髪に白いものが多少混じり始めているが、蓄えられた髭と、厳つい表情に彩られた顔には覇気があふれていた。
「呼び立ててすまなかったね。こちらから行くわけにも行かないんで、苦肉の策だったと思ってくれると嬉しい」
「いえ、不詳この阿賀孝寿(あがたかひさ)、若のお申し出とあらば、如何なる場所にでも出向きます」
「そうもいかないさ。いくらお前さんが爺様の弟子とはいえ、一介のどこの馬の骨とも素性の知れない若造が、易々と呼び立てられる人でもあるまい」
「なにをおっしゃいますか、若! 時が時ならば、若こそが──!」
 なおも言いつのろうとする孝寿を、右手に持った【青嵐】で抑えると、
「【狂王】の目が光っているかもしれぬ場で、不用意なことは云うな、孝寿」
 と、苦笑する。
「はっ、申し訳ありません!」
 再び平伏する孝寿に、
「無礼講と云ったはずだ。それに、お前がそう叩頭虫(こめつきむし)のようにぺこぺこしている場を見られたら、俺の正体が怪しまれる。一介の、兵法家の孫が、なんで近衛大将に傅かれるのだ?」
「申し訳ございませぬ」
 度重なる叱責を受け、孝寿は頭を軽く下げるだけの礼に止めた。
「ま、悪いとは思っているんだよ。しかし、育ちは変えられないもんでね」
「そのようなことは……」
「まあ、そんなことはどうでもいいさ。今は大した問題じゃない」
 なおも言い募ろうとする孝寿を【青嵐】で制すと、雷刃はぴしゃりと反論を封じた。
「…………」
 孝寿は深々と溜息をつきながら、複雑な表情を浮かべる。「それで、お呼び出しの件は如何なる事でしょうか?」
「察してはいるんだろう?」
 人の悪い笑みをにたにたと浮かべ、雷刃は質問をそのまま返した。
「はぁ……」
 何とも云えない表情で孝寿は気の抜けた返事をする。
「お前さんにも悪い話じゃないと思うんだがねえ?」
 再び深い溜息をついてから、
「話を持ってきたのが、若でなければ悪い話ではありませんが……」
 と、孝寿は呟いた。
「ま、諦めろ。母上の子である前に、俺は爺様の弟子なのだ。【狂王】の陰謀を見逃してやれるほど、枯れてもいなければ、人が良い訳じゃないんでねえ」
 双眸に剣呑な光を灯らせながら、雷刃はぱちりぱちりと鉄扇を開け閉めする。「丁度良い具合に、渡り巫女も食い付いてきた。俺の計画を遂行するにはお誂えの状況さ」
「新徴組の件も、その布石なのでございますか?」
 孝寿は雷刃に確認を取る。
「橘の爺から内々に話が回ってきているんだろう。近衛府と新徴組とせいぜい仲の悪いふりをしておけ、と」
「ふりをせずとも、互いに意識しあって何があってもおかしくない気はいたします」
「控えめな表現だな、孝寿」
 全てを知っているといった表情で、雷刃は孝寿を見る。「お前さん方が煽らせなくても、やはりぶつかり合うものか」
「どちらも王都守護の身でありながら、この様な地に追いやられている状況では、互いに意識しない方がおかしいと思いますが?」
「道理だ。だからこそ、俺の望み通りに事は推移している」
 人の悪い笑みを浮かべたまま、雷刃は杯を空ける。「それで、敵は思惑通り動いてくれているかね?」
「私の知る限りでは、ですが」
「まあ、細かいところは白鶴楼の親爺にでも調べて貰うさ。街の動きは六兵衛から聞いた。豺蔵殿が自らこの地に赴任してくれていた。山の民はこちらから手を出さない限り、手出ししてこない確証を得た。後は、お前さんの働き次第って事だ」
「はっ」
 雷刃の自信を持った発言に力を得たのか、孝寿は反射的に頭を下げる。
「誰にも気付かれずに、旗本を三千までは動かせるんだったよな?」
「御意」
 その答えを聞き、雷刃は満足そうに笑みを浮かべる。
 一二度、扇を開け閉めしてから、
「さて、アヤメちゃんを使って、上手いこと敵を動かさせないとな」
 と、嬉しそうに杯を乾す。
「その者は信用できるのですか?」
 浮かれ気味の雷刃を目にし、多少の不安を感じたのか、孝寿は正直に疑問を口にする。
「さて? どうにも一癖も二癖もありそうな感じでね。渡り巫女の癖になかなかの腕の持ち主だし、媚蠱の術に関して言えば、天性のものを持っている。得体が知れないなんてもんじゃないな」
「若……」
 予期せぬ返事を訊いた孝寿は、あまりのことに絶句する。
「まあ、そこまで気になさるなって。あの程度の使い手に、不覚を取る俺じゃあないよ。アヤメちゃんの芸はどっちも俺の領域には達しちゃあいねえよ」
 くすくすと笑いながら、雷刃は杯を乾す。
 それを聞き、孝寿は何も答えずに一礼のみする。
 実際、小さな頃から白鶴楼で生活してきた雷刃にとって、女の科(しな)や媚びなどは当たり前のことであり、それ自体が女そのものだと理解していた。
 むしろ、雷刃はその先を行く男である。
 彼自身が、女に対してそれこそ天性の媚蠱の術を使っているのである。
 生まれもって有していた類い希な面貌(めんぼう)に加え、どことなく高貴な雰囲気を醸し出す姿、その上、剣も滅法(めっぽう)使う。彼がそれを隠そうとすればするほど、彼の魅力がどこからか滲み出てしまう。
 女だけではなく、男すらも惑わす魔性とも云うべき力は、無意識のものではなく、実のところ計算され尽くされたものであった。
 自分が人からどのように思われているかを知った上で、雷刃はそのように立ち振る舞っていた。
「若の行動の狙いを気が付いた上で、あわせていると云うことは?」
「そこまでは考えすぎだろう。確かに、油断ならない娘だけど、俺を騙した上、【白鶴楼】の連中全てを出し抜く必要があるんだぜ? 流石にそれは如何なる凄腕だろうとできねえよ」
「例え、若でも、ですか?」
 暫し考えた後、
「俺、俺か……。俺なら……できないわけじゃないだろうが……。なるべくならやりたくないな」
 と、答えてから、杯を一気に乾す。
「何故?」
 雷刃の杯に酒を注ぎながら、孝寿は尋ねる。
「疲れる。親爺を騙し、他の連中を騙しきるなど、疲れるどころの問題じゃあない。よっぽど、うまい話でもない限り、やりたくはないねえ」
「疲れるだけですか……」
 どこか気の抜けた口調で、孝寿は言葉を返す。
「応、疲れるだけだ」
 それに対し、雷刃は自信満々と言った口調で断言する。
「自分の命がかかっていたら、大した問題じゃありませんね?」
 孝寿は、大前提となる疑問を雷刃にぶつける。
「ん、まあ、そうなるのかな?」
 多少悩んでから、雷刃は答える。
「でしたら、その女も命懸けの勤めであるならば、やってのけるのですな?」
 孝寿は先程から感じていた疑問点を厳しく質す。。
「ん~、でも、俺にはなくて、アヤメちゃんにはある問題ってやつが存在するから、結局のところ無駄に終わると思うよ?」
 膝を詰め寄るかのような強い語気をへらへらと笑いながら、雷刃はいなす。
「それは?」
 その程度のことには動じもせず、今にも噛みつかんとばかりの勢いで孝寿は問い糾す。
「俺の敵はいないが、アヤメちゃんの敵は俺って事だ」
 にたにたと笑いながら、雷刃はある意味とんでも無く真面目な口調できっぱりと言いはなったのだった。