近衛府。
この国でたった一つ、帝の直轄ではない常備軍を自由に編成することを許された組織。
その特権として、将軍宮本拠を常在戦場の意味合いを持った【幕府】の名で呼び習わすことが許されている。
現在、先の将軍宮が御厩平(みやまだいら)の戦いで消息不明──狂王に本営急襲された以上、生きているという希望を誰も有してはいないが、将軍宮の不在による近衛府解体を嫌った一派による政治的判断により公式記録上は討ち死に扱いにはなっていない──となってからは、最後に近衛府が置かれていた鵜ノ沢に阿賀右近孝寿が陣取り、前線を支えていた。
しかしながら、将軍宮を失って以来、前線は徐々に後退を続け、ついには鵜ノ沢と山一つ挟んだ緋科谷(あけしなだに)まで達した。
幾度となく、【狂王】は鵜ノ沢に雪崩れ込まんと何度も山越えを行っているが、その度に阿賀右近孝寿自らが出馬し、危ういところでその奔流を遮っていた。
新たなる将軍宮が選出されないのは、この阿賀孝寿を使いこなせる宮が一人もいないのと、死と隣り合わせの役に進んで付きたがる肝の太い宮が孝晴以来現れないという二点にあった。
「市中見廻り役新徴組総長柏尾豺蔵、近衛右大将阿賀孝寿様のお呼び出しと聞き、参上仕った」
「忙しいところを申し訳なかった」
上座より一段下りた場所で静かに佇んでいた孝寿は、偉ぶるところ無く、闊達な口調で返事をしながら、手招きをする。
豺蔵は多少不振な表情を隠そうともせずに、それに従う。
「君の表情の意味は理解しているつもりだ。説明したいところだが、時間がないのですぐに用件に入らせて貰おう」
ほとんど膝詰め談判といった距離まで近寄らせ、孝寿は声の調子を落としてから、「捕り物出役を頼みたい」と、切り出した。
「如何なる意味でございますか?」
狼人にしては珍しく、端から見ても怪訝そうな表情を浮かべ、豺蔵は問い返す。「既に、新徴組には鵜ノ沢での市中見廻りのお役を既に承っておりますが……?」
「全くもってその通りだが、今回頼みたい話は少しばかり意図が違う」
「意図……でございますか?」
「うむ」
孝寿は広げてあった鵜ノ沢の地図を指で示し、「今まで襲われた商家を印したものだが、この街にまだ来て浅い貴君には分かりづらいやも知れぬな。全て、近衛府と浅からぬ縁を持つ御用商人が襲われている」と、手短に説明をする。
「ほう……」
「私は最初から、狂王が裏で糸を引いていることを予測していたが、それがほぼ確実なものとなった」
「調べが付いたのですか?」
「そうといっても良い。それに緋科谷の方が騒がしくなりつつある。正攻法で抜けぬと悟り、そろそろ何かを仕掛けてきて良い頃だとは考えていた。ただ、それが何かまでは私の才覚では分からぬ」
「右近様。滅多なことは口にせぬ方が……」
劣勢の軍の将が、敵に先手を取られていると表だって口にするのは兵の士気が下がる危険なことであった。
それも、阿賀右近孝寿は、今や近衛府を背負って立つ男である。
豺蔵の懸念は尤もなことであった。
「良い。ここには貴君と私しかおらぬし、人払いも終わっている。貴君が漏らさぬ限り、漏れぬ話ではない」
真顔のまま、孝寿はそう告げる。
「はっ」
そう言われれば、豺蔵は引き下がるほか無かった。
即ち、この件が噂になれば豺蔵が漏らしたと云うことになる。
相手が相手ならば、豺蔵も不審を抱くところだが、阿賀孝寿という男は、そのような姑息な手段で人を追い落とす男ではない。
それも、己の直属の部下ではないものを独断で処断する人間ではなかった。
その点、豺蔵は勘違いせず、素直に従えた。
「貴君も知っての通り、ここ最近の不穏な空気のためか、浪人、俄武士(にわかぶし)、荒法師といった異形の者たちがこの街に溢れかえっている。少なくとも、近衛府は今、兵を新たに集めるなどといった噂も触れも流していない。ならば、なぜそのような者たちが集まってくるのか?」
「何者かが、何らかの意図を持って、異形の者を鵜ノ沢に集めている……と?」
「それを確実にするために、貴君らに動いて欲しい。既に町方に指示を出し、集まった情報を新徴組に融通するように通達している。その他、適時便宜を図るよう取りはからおう。やって、貰えるな?」
「命令ではないのですか?」
「命を下したところで、貴君は近衛府直属の者ではない。それとなく理由をつければ、暗に働かぬ事もできる。ならば、男が本音を話し、信を置いているところを見せ、頼んだ方がよい。そう思ったまで」
「承知仕りました。そこまで云っていただけるのならば、喜んで成し遂げましょう」
「頼む」
孝寿は、深々と頭を下げ、一言告げた。
「面をお上げ下さいませ、右近様。それがし、そのような礼を受ける立場ではございませぬし、男が頼まれたことを為すだけ。それだけのことにございます。それに、それがしも【狂王】の流儀は会わぬ故、命を懸けたるに相応しい話でございます」
「すまぬな」
「いえ。それでは、下がらせていただいてもよろしいでしょうか?」
「有無、御苦労だった」
豺蔵は深々と一礼し、その場を立ち去ろうとして、立ち止まる。
「……いかがいたした?」
怪訝そうな表情を浮かべる孝寿に対し、
「右近様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
と、口にする。
「答えられる話であれば」
幾分か慎重な言葉回しで孝寿は促す。
「右近様は先の左近様、近衛左大将柴原刃雅様の弟子筋とお聞きいたしましたが、誠でありましょうか?」
「いかにも。将軍宮様の剣術指南として師匠が守り役の一人としてお世話を為されているときに、乳兄弟であるこの私にも伝授して下された。それが何か?」
「いえ、聞く前に確認だけしておきたかっただけです。それがしも、京城にいる頃、刃雅様より一手指南を受けたことがございまして、その縁で面識がありました。近頃、御城下でその刃雅様の孫を名乗るお方と面識を持ちましてな。恐るべき使い手と見て取りました」
「ふむ、雷刃様か。確かに、あのお方は師匠の孫に当たるお方だ。今や、神刀流の正統継承者となられたようであるから、我が師匠筋に当たるな。いずれは御挨拶に出向きたいところよ」
「待っていれば、雷刃殿からこちらに来られるのでは?」
不思議そうな表情で、豺蔵は尋ねる。
豺蔵の疑問は尤(もっと)もなことで、貴顕に兵法指南をする武芸者は、出向いてくるのが当然とされていた。
「いや、それはいかん。如何なる理由があろうとも、今や我らが神刀流の頂点に立つ御方。出向いて貰うとは畏れ多いことこの上ない」
「左様でございますか。他の旗幟八流の話を聞けば、殿上人が弟子筋に当たる場合、師匠の方が指南をしに訪れるのが定例と聞き及んでいましたから、そう思ったまででございます」
妙に慌てる孝寿に対し、豺蔵は淡々とした口調で、世間一般の通例として行われていることを口にする。
「他の流派は兎も角、我が流派は弟子が師に傅き、教えを請うのが基本。そのようなものだ」
「素晴らしきことにございまするな。同じ流れをくむ、【神刀流】の剣士の一人として、感服仕りました」
そう述べてから、再び深々と一礼すると、今度は立ち止まることなく豺蔵は部屋を出て行った。
「お頭!」
近衛府を出たところで、豺蔵は副長の孫四郎が声をかけてきた。
「孫。おいらのこたぁ、総長と呼べって云ってンだろ? 頭じゃぁ、山賊か何かだ」
苦笑しながら、豺蔵は孫四郎の方に足を向ける。
「申し訳ありません、お頭。つい、昔のくせが……」
「ここは【里】じゃねえんだ。勘弁してくれ」
口の端を歪めながら、豺蔵は肩をすくめて見せた。
「へい」
「仕事はどうした?」
「あっしは非番で。ですから、お頭を迎えに来たわけですが……近衛府の奴等に、何もされませんでしたか?」
「されるわけ無かろう、ええ? おいらたちは、京城におわされる天子様の元で働く同志だぜえ? 【狂王】の軍が指呼の間と云える緋科谷まで出張っているんだ。んなことしている暇はねえと、バカでもない限り分かるさ。その上、今の近衛府を仕切っているのは、あの右近様だ。間違いなんぞ、起こるわけもねえ」
「それはそうですがね、右近様がそうでも、下の連中は……」
「ふん、話してはいなかったがな。今日のお呼び出しは右近様直々のお声掛かりよ。何ら心配する話でもなかったんだぜ? だから、おいら、堂々と近衛府に行ってやったのよ」
しきりに心配する孫四郎に対し、自慢するかのように豺蔵は嬉しそうに言ってのける。
「そうだったんで」
孫四郎は得心がいった表情で頷く。
常日頃、近衛府の役人から呼び出される度に、機嫌が悪くなっていた豺蔵が、ここまで上機嫌ならば、その言葉に嘘はないと彼なりに納得がいったのである。
「そうだったんさ」
「それで、右近様はなんと?」
「ああ。浪人、俄武士、荒法師といったあぶれ者たちが市中を闊歩しているのがよっぽど気にくわないらしくってな。おいらたちに片っ端からしょっ引けとのお達しだ」
「……確かに、浪人者が多かったはずなのに、最近じゃ見かけませんな、お頭」
「俺たちが来た頃には闊歩していた連中が、急に姿を消しやがった。その上、押し込み現場で盗人共を捕まえてみても、あぶれ者は一匹たりともいないと来たもんだ。確かに、臭うといえば、これ以上臭ぇ話はねえ」
「右近様直々に頼まれたんで?」
「そうなるな。右近様は【狂王】が何かをたくらんでいると見立てていやがる。……いや、右近様が見立てたのか、怪しいもんだな……」
豺蔵はそう呟きながら、江州屋で見た編み笠の男を思い出す。「……おいらの見立てに間違いなけりゃ、あいつは……」
「お頭、どうしたんで?」
「あ、いや、な。江州屋で会った、若いのを思い出してたんだよ。若いのに、あれほどの腕を持つってのは、なかなか出会えねえもんだからなあ」
「そんなにできるやつなんで?」
疑わしそうな声色で、孫四郎は問い返してきた。
「おいらじゃまるで手も足も出ないだろうよ。あの、刃雅先生の孫と名乗るだけはあらあ。身が居すくんで、動けなかったぜ」
「まさか……」
「うんにゃ、そのまさかだ。まあ、殺気で身が竦んだと云うよりは、なんか、もっと得体の知れないなんかにやられた感じだったがな。どちらにしろ、本物さあ。自信を無くしたくねえんなら、手をださんこった」
「お頭がそう云われるなら、そうしやすがね……。それにしても、あの若造がねえ……」
まだ疑っている口調でぶつぶつと言っている孫四郎を後目に、豺蔵は先の将軍宮に関するある伝聞を思い出していた。
(……先の将軍宮は、結局奥方を迎え入れずに狂王に討たれたんで、血を引く者がいないって話だったが……。御愛妾に一子を作らせていたって話があったはずだ……。その御愛妾は……おいらの記憶に間違いなけりゃ、刃雅様の……)