『鵜ノ沢』

 鵜ノ沢(うのさわ)の街は本八島(もとやしま)でも有数の街である。
 都を除けば最大の街であり、その水運の良さから、商業都市として名を馳せていた。
 しかし、【狂王】榛原阿南(はいばらあなん)が反旗を翻して以来、朝廷側の南部の橋頭堡として武士や防人が多く詰めるようになり、街の性格が変わりつつある。
 その上、先の近衛将軍宮孝晴(このえしょうぐんのみやたかはる)が討ち取られてからは連戦連敗。【狂王】の版図が鵜ノ沢の街に徐々に近付きつつあった。
 【狂王】の性格上、朝廷に肩入れしてきた鵜ノ沢の街を許そうはずもなく、鵜ノ沢の街自体の寿命も又風前の灯火となっていた。
 そのためか、街全体が刹那の享楽に溺れようとしていた。
 そんな中でも、今風の享楽に流されることもなく、昔ながらの節度ある遊びができる妓楼(ぎろう)として白鶴楼(はっかくろう)はその手の遊びに詳しい者達から一目を置かれていた。

「やれやれ。妓楼に女連れで来るなどという篦棒(べらぼう)は若様ぐらいでしょうな」
 穏やかな笑みを浮かべた初老の男が座敷に上がって我が物顔で酒を飲んでいる雷刃に平伏する。
「妓楼に来て、女遊びをせずに浴びるほど酒を飲む爺様の孫なもんでねえ」
 一片たりとも悪びれたところを見せずに雷刃は笑う。「随分と久しぶりだけど、親爺さんもめっきり白髪が増えたね」
「まあ、若様が悪い遊びばかり覚えた年頃になられるぐらいですから、爺はただ枯れていくだけにございますよ」
 雷刃から杯を渡され、親爺は静かに飲む。
「違いない」
 雷刃は嬉しそうに笑うと、空になった杯に酒を注ぐ。「ああ。あと、一応爺様から死ぬ前に皆伝の許しを得たんでね。他への聞こえもあるし、若先生ぐらいで負けといてくれよ」
「おや、それはおめでとうございます」
 親爺は深々と頭を下げた後、「それで、刃雅(じんが)先生は本当に……?」と、聞き返してきた。
「残念ながらねえ。俺も最期は確認していないが、あれで生きていたらあの人も真実人間ではあるまいよ」
 杯を手にしたまま外を眺めると、雷刃は寂しそうな口調で答える。
「そうでございますか」
「皆伝の祝いに流星剣【紫電丸(しでんまる)】と鉄扇【青嵐(せいらん)】を受け継いだが、お陰でどうにもしっくり来なくてね」
「あの男がねえ」
 手元の杯を見つめながら、親爺はそれっきり黙った。
 雷刃は祖父と白鶴楼の親爺とは何か過去にあったことぐらいは聞かされていたが、それがどのような因縁なのかまでは聞かされていなかったので、何も声を掛けずに、静かに杯を空けた。
「今でもあの男と初めてあったときのことを覚えておりますよ。今考えれば、良くもまあ無謀なことをしたものだと思いますが、当時のあの男はさほど名の知れた相手ではございませんでしたからね。信用師に上手いこと騙されたようなものですよ」
「神刀流自体が落ちぶれていたからねえ」
 祖父を詐欺師扱いされ、雷刃は思わず苦笑する。
「まあ、退魔の神剣など時代遅れと誰もが考えておりましたからな」
 どことなく、楽しげに親爺は語る。「それをあの男は覆した。見事なくらい──いやいや、呆れるぐらい、ですな。人と相対すれば殺人剣、魔と相対すれば退魔剣、神と相対すれば斬神剣。状況に応じて、その手にする剣の質を変えておりました。『剣術とはこれ殺伐を極めるものなり』とはあの男の座右の銘ですが、それを見事なまでに生き様として体現しておりました。あの男ほど生あるモノを斬り殺した男はおりますまい」
「お陰で、悪党に揶揄されたよ。『あの方の孫を名乗る男が命を取らぬのは妙な話だな』だそうだ。全く、自分でも納得できてしまって、嫌なもんだねえ」
 ぴしゃぴしゃと肩を鉄扇で叩きながら、雷刃はかんらかんらと笑う。
「それも若様らしいですよ」
「若様は頼むから勘弁してくれ」
 親爺と雷刃は顔を見合わせてから、計ったかのように同時に笑い出した。
 それと同時に、
「元町の六兵衛親分が参られました」
 と、部屋の外から仲居の娘が声をかけてきた。
「通って貰いなさい」
 親爺はにこやかな表情のまま、障子の向こう側にいる娘に答えた。
「六兵衛親分? 十手持ちが色街の妓楼に上がり込んで良いものなのかねえ?」
「若様、若様。そんなこと云ったら、親分が泣きますよ」
「泣くかねえ?」
「そりゃ泣きますとも。あの方、若様をそれは慈しんでおられましたからね。若様は幼かったから覚えていられるか知りませんけどね、若様がぐずられるたびに飴を買ってきてはあやされていたの、親分さんですよ」
「ああ、それは覚えているよ。飴であやされる年じゃなかったけど、それはそれで嬉しかったからねえ」
 云われなければ思い出さなかったことが恥ずかしかったのか、雷刃はばつが悪そうに苦笑する。
「ほら、ご覧なさい。若様に対して、一番甘かった相手にその素っ気ない態度はどうかと思いますよ」
 そんな雷刃を見て、親爺はくすくすと笑う。
「六兵衛親分には俺の方から顔を見せる予定だったんだよ。いきなり行ったら、驚くだろうなと楽しみにしていたんだけどねえ」
「逆に怒りますよ、あの方なら。何で最初に顔を見せてくれなかったんだ、って」
「それはありそうだねえ。逆に、こっちに呼んだ方が騒ぎがなくっていいか」
 さらりと酷い意見に考えを変えると、にやにやしながら杯を手にする。
 その動きを見て、何か察したのか、親爺もまたにやにやとし始めた。
 そこに、
「失礼いたしやす」
 と、落ち着いた雰囲気を醸し出す声が座敷の外から聞こえてきた。
「遅いよ、親分」
「全くだねえ」
 にやにやと笑ったまま、二人はそう答え、開かれた障子を見る。
 そこから入ってきたのは、既に壮年を通り越し初老と言っても良い風貌の、どことなく貫禄のある男であった。
「これは若様。遅れて申し訳ありやせん」
 一言も文句を言わず、男は平伏する。
「この俺が帰ってくるって分かっているんだから、俺が帰ってくる前には定宿で待っていてくれないと困るねえ」
「流石にこの六兵衛も、押し寄せてくる年波には敵わず、耄碌してきたようで。その辺りで勘弁してくだせえ」
「仕方ないねえ。今日のところはこのぐらいで許してやるかねえ」
 嬉しそうに雷刃は笑うと、「元町の親分。ただいま」と、口にした。
「お帰りなさいやし、若様。それにしてもまあ、お元気な上、口達者になられたようで何よりでございやす」
「なんだい、嫌味かい?」
「滅相もない。刃雅先生に似てこられたと云いたいだけでして」
「褒め言葉としては難しいところだねえ」
 にやにや笑いながら、肩をぴしゃりぴしゃりと鉄扇で叩く。
「難しいところですな」
 親爺は同意しながら、六兵衛のために杯を手渡す。
 六兵衛がそれを受け取ったのを確認して、雷刃は徳利を手に六兵衛の横に移動する。
 六兵衛は恐縮したように、その杯で酒を受ける。
「うん。爺さんはもういないけど、帰ってきた気分になれるもんだねえ」
 しみじみと雷刃はそう呟き、自分の席に戻って杯を乾す。
 それを見て、今度は六兵衛が徳利を持って雷刃の隣にやってくる。
「まあ、あっしなんざ師匠と酌み交わすなんざ、なるべくなら避けたい話でやんすがね」
 敢えて何も聞かずに、六兵衛は陽気に笑ってみせる。
 当然、師匠である柴原刃雅のことは気になるだろう。
 だが、この場にいないと言うことだけで彼は全てを理解し、自分にとっても息子のような男の心情を考え、彼は聞かずにおくことにした。
 その点は、長年御上から十手を預かり、様々な人に触れてきた男ならではの配慮と言えた。
「ああ、そうだ。親爺にも云ったがね、このたびめでたく免許皆伝を受けたんでねえ。若先生って呼んで欲しいんだがねえ」
「ああ、それはおめでてぇ話でございますな、若様」
 雷刃は親爺に顔を向けると、
「いやはや、この年代の年寄りは、最初に覚えたことを引きずって嫌だねえ」
 と、ぼやくのだった。

 宴も酣となった頃、
「そう云えば、アレはどうなったんだ?」
 と、雷刃が親爺に尋ねた。
「さて、どうしたんでしょうな」
 はぐらかすかの様に笑うと、手を二回叩き、「若様が業を煮やされたよ。お座敷に上げなさい」と、外に声をかけた。
「はーい」
 割りと遠くから返事が返り、そのままこの座敷から遠ざかる足音が聞こえた。
「おやまあ、帰ってきたばかりなのに、もう若様は目当ての者がいるので?」
「恐ろしいぐらいに手が早いようでしてな」
 六兵衛と親父は顔を見合わせると腹を抱えて笑い出した。
「やれやれ。年寄りは若いのをからかうばかりで困るね」
 口ぶりに反して、大して困ったような様子を見せず、雷刃はちびりと杯の酒を舐める。「そう云えば、鵜ノ沢は今、大層な騒ぎって話じゃないか、ええ?」
「おやまあ、その上地獄耳ですか。こいつは参りましたな」
 耳の裏あたりをぽりぽりとかきながら、「若様はどこまでご存じなんで?」と、六兵衛が尋ね返した。
「旅の噂程度だねえ。北に行っていたから、山越えで情報は錯綜してわやくちゃなもんだよ」
「要するに、鵜ノ沢の街に何かがあった、程度しか聞こえなかった、と」
 親爺は煙草盆(たばこぼん)を自分の方に寄せ、懐から煙管を出す。
 ちらりと雷刃の方を見てから、火を熾し、草を燃やした。
「こっちからあっちの正しい話が良く聞こえるようなら、同じようにあっちでこっちの正確な話が聞けるというもんなんだろうがねえ」
 少しばかり顔を顰めながら、雷刃は酒の臭いをかぎ、そのまま一気に呷る。
「御尤もで」
 六兵衛が首を縦に振る。
「やり方次第でありましょうなあ」
 親爺も条件付きで納得する。
「それで、何が起きているんだい?」
「ただの火付け盗賊ですよ」
 つまらなそうにそう言うと、六兵衛は荒っぽく杯を呷る。
「荒れているね、親分」
「まあ、仕方ありますまい、若。火付け盗賊はこの頃では町奉行の管轄から、市中見回りの新徴組(しんちょうぐみ)に移ったのですからな。おかげで、親分は無辜の民が傷つくことを見ていることしかできない歯がゆい立場なったのですからな」
 親爺は冗談を言う口調で揶揄するかのように、笑い飛ばす。
「新徴組? あれの役目は首府の見廻り組ではなかったのか?」
 親爺が向きになって反論しようとする前に、雷刃が聞き逃せないとばかりに真面目な顔で親爺に聞き返す。
「若様はご存じないので? こちらの治安があまりにも悪くなりすぎたため、天子様のお声掛かりで新徴組を鵜ノ沢見廻りの任につけたとかなんとかって話ですがね」
「初めて聞いたな。北ではそんな噂を聞かなかったと云うことは、秘密裏に事を進めた者がいるんだろうねえ」
 雷刃は何か考えるかのように遠くを見ながら、手元の鉄扇を開け閉めする。
「元々、近衛府も本来は都に置かれるべきものだったんですから、似たようなことでしょう」
 親爺は煙草盆で煙管を叩き、草を捨てる。
「確かに、それは否定できないんだけどねえ」
 雷刃はそれでも考え込んだ。
 近衛府とは、都を鎮護する最精鋭部隊を率いる将軍が開く府──役所のことを指す。特に、この国では近衛府の将軍は時の帝の兄弟であることが定例だったために、他の将軍府とは一線を画していた。他の将軍府が戦時に置いてのみ認められている権利を近衛府は常時認められていた。そのために、常に戦陣の内にあるという意味で近衛府は幕府とも呼ばれている。当然、軍を握れば簒奪のためにその力を振るう者も顕れそうなものだが、近衛将軍宮になった者は臣籍降下(しんせきこうか)した者と見なされ、帝位継承権を失う。そのため、一度でも近衛将軍宮となった者およびその血を連なる者は如何なる事情があれども、帝位に就くことはあり得ない。帝位に就いた者は最も信用の置ける兄弟を近衛将軍宮とすることで己の身を守り、近衛将軍宮となる者は己の血族が帝位に就くことを諦める代わりに二つとない権力を得るのである。
 その中でも有名な特権の一つに戦時においてのみだが、近衛将軍宮は帝の勅令なしに軍を自由に動かす権利を認められている。
 この権利に基づき、先の近衛将軍宮孝晴は近衛府を鵜ノ沢に移し、征王たる榛原阿南との戦いに赴いたのである。
「近衛府が今でも鵜ノ沢にあるのは新しい将軍宮がいないことと、【狂王】榛原阿南が今でも兵を盛んに動かしているため、その対応に追われているためだ。近衛大将の阿賀孝寿(あがたかひさ)がいなければ、すでに鵜ノ沢は落ちていただろうしねえ。その程度は、頭の足りない公卿どもでも分かっているはずさ。近衛将軍宮孝晴と【剣鬼】柴原刃雅がいない今、近衛府を取り仕切っている阿賀孝寿を左遷できまいよ」
「近衛府を都に戻せないのは切迫しているからだと?」
「状況を鑑みれば、それが一番あり得る線だと思うがねえ」
 雷刃は一つ【青嵐】で肩を叩き、「近衛府は動かしたくても動かせない。新徴組はなんの脈絡もなく、この街に派遣された。同じ線上で話すにはちと何か違う気がするんだけどねえ」と、首を捻る。
「それじゃ、火付け盗賊が横行しているのとは全く関係ない理由で新徴組が送り込まれてきたんだと云うんで?」
 不本意そうに六兵衛は呟く。
「まあ、表向きの理由ではあるけど、送り込むことを望んだ人間の本当の理由かどうかということになると、疑問が生じるねえ」
 雷刃は鉄扇を弄びながら、考える。「近衛府を押さえるために送りこむとしたら、規模が小さすぎるし、援軍として考えてもやはり同じ。だからといって、火付け盗賊目当てかと云えば、多少大げさすぎる気がする。治安維持ならば分からないでもないが、【狂王】が攻めてこない限り、治安維持用の役人がいるとも思えない。新徴組に影響を持つ貴族といえば、大蔵卿(おおくらきょう)の橘雅晴(たちばなのまさはる)だが、先の近衛将軍宮孝晴の後見人のはず。そこら辺の動きを考えると、普通に近衛府への増援と云うことになるんだが……」
 雷刃の意味深な視線に対し、
「若のご想像通り。町方と近衛府は長年の付き合いのお陰で親密ですが、新参者の新徴組と町方がしっくりこないせいか、近衛府と新徴組の間にも、多少の溝があるようですな」
 と、答える。
「だよなあ。近衛府への増援なら、町方に対する協力体制を最初から用意しているはずだよなあ」
 雷刃は悩んだ表情のまま天井を見る。「元々町方は、近衛府がくる前は江州府の治安組織だったはずだし、江州府が近衛府に吸収されてからは、独自性を持ったまま近衛府に協力しているんだものなあ。近衛府だって、遠慮もするし、味方もするよなあ。ああ、本当に、新徴組の派遣を決めた相手の目的が見えないなあ」
「まあ、若。そこまで悩まなくても良いです。町衆が無事で、火付け盗賊が捕まれば、あっしは満足ですから」
 六兵衛は多少意地を張る。
「親爺の方には何か情報入ってないの?」
 何を言っても火に油を注ぎそうだと判断した雷刃は、親爺に話を振る。
「そうですな……。火付け盗賊が横行し、【狂王】の軍勢が山一つ向こうの地まで来ている所為でしょうかな。街に不穏な空気が流れておりましてね。その所為か、浪人、俄武士、荒法師といったあぶれものどもが妙に町中に溢れておりますな」
「あぶれもの、か……。それに、火付け盗賊……。【狂王】の手の者だとすると、多少話は変わるかな?」
「と、申しますと?」
「【狂王】が本気で鵜ノ沢を取りに来たってことさ」
「近衛府に協力していた報復のためですかい?」
 六兵衛が不思議そうな表情で疑問を口にする。
 確かに、六兵衛の疑問は当然のものであった。
 雷刃が改めて言うまでもなく、【狂王】は鵜ノ沢を攻略せんと何度も兵を出していたが、近衛将軍宮が存命の頃から今の今まで、幾たびも【狂王】の兵を近衛府は退けていた。
 【狂王】の性格上、己の敵に協力する存在は許すはずもなく、完膚無きまで破壊するために鵜ノ沢を狙ってきていると誰もが信じられていた。
「【狂王】はさほど狂っちゃいないさ」
 雷刃は苦笑すると、「敵対するものを完全に滅ぼすのは、その方が結果として抵抗する勢力が減るからだし、鵜ノ沢をしつこく狙うのにも理由がある」
「理由?」
「ああ」
 親爺がいつの間にか広げた扶桑全図の都あたりから鵜ノ沢までを鉄扇でなぞると、目を細め、そのまま狂王榛原阿南の根拠地である蓬州(ほうしゅう)を叩く。「【狂王】としても、そろそろ策源地と前線までの距離が気になる頃だ。最終目的は都を落とすことだから、己の本拠地である蓬州と都の間に丁度良い策源地を欲している。で、それに当てはまる街は鵜ノ沢しかない。だから、先の近衛将軍宮は鵜ノ沢を本拠地とすることで、【狂王】を防いでいたわけだ。何せ、【狂王】は鵜ノ沢を狙っているのだから、鵜ノ沢で待ちかまえていれば、地の利を得られるわけだからねえ。まあ、都を攻めるにはもう一つ道がない訳じゃないんだが、それを気がつかせないためにも、鵜ノ沢にこだわらせる目的で近衛府を置いたんだろうな。まあ、その目論見通り、狂王は鵜ノ沢を落とすのに躍起になっているわけだ」
「なるほど……」
 六兵衛はしきりに首を振る。「それで近衛府が鵜ノ沢から離れられないって云うんですな?」
「そういうこと。逆を云えば、鵜ノ沢さえ無事なら、都は安泰って訳だ」
 雷刃は【青嵐】で鵜ノ沢を指す。「まあ、【狂王】の方にも都合があってな。決戦をするだけの兵力を持ち込む限度が鵜ノ沢止まりだから、雌雄を決する決戦をするという意味で、近衛府が鵜ノ沢にいるのは都合がいい話なのさ。近衛府の軍勢がなければ、都は丸裸も同然だからな」
「そう考えますと、よくもまあ、都の公家様達が、都を空にしてまで近衛府を鵜ノ沢に移したものですな」
 半ば呆れ口調で親爺は笑う。「そのうち、鵜ノ沢はいいから、都を守れと云い出すのではないですか?」
「まあ、否定できないな。自己犠牲や囮になると云った言葉から最も離れた連中だからなあ。まあ、本当にそんな弱気なことを云い出したら……」
「云い出したら?」
「鵜ノ沢を落とした勢いで、一気に喉元を食い千切られるよ」
 雷刃は鵜ノ沢から一気に都まで鉄扇を滑らせる。
「若様がさっきも云ってたんですが、補給がままならぬ為に、一度足が止まるんじゃないんですかい?」
 不思議そうな顔をして、六兵衛は雷刃を見る。
「決戦をするには、だな。労もなく鵜ノ沢が手に入った場合は、多少条件が変わるな。その時点でどの程度の軍勢までなら兵糧が保つかを計算し直し、出せる最大限の兵力を用いて山越えをし、一気に北部に雪崩れ込む。まあ、そうなった時点で朝廷は本八島の南部を捨てるどころか、北部の覇権も怪しくなろうな。【狂王】の第一陣を例え食い止められたとしても、その頃には第二陣、第三陣と繰り出せる準備が終わっているだろうさ。北部を取り戻しても、南部へ戻れない以上は延々と攻め続けられるのみ。その結果、じり貧しかないって訳だ。鵜ノ沢という策源地を取られた時点で、朝廷の負けは決まってしまうと云うことだな」
 鉄扇で地図を指し示して、雷刃は意見を述べる。
「若様は一軍の軍師が務まりますな」
 あきれたように親爺は呟くと、煙管をしまう。
「廻国修行の旅の目的の一つに諸国の状況を見るというものがある。物見遊山の旅をしていたわけではないのでな」
 杯の酒を一気に呷り、「まあ、爺さんの受け売りだがねえ、ほとんどが」と、苦笑する。
「それでもご立派なものでものでござんすよ」
 六兵衛は杯に酒を注ぎながら、嬉しそうに褒め称える。
「どちらにしても、今の近衛府に若様ぐらい切れる方がいるのを祈るのみですな」
 親爺は深々と嘆息する。
「この際の問題は、近衛府よりも都の公家の方さ。もし、狂王がもう一つの道で陽動に出た場合、鵜ノ沢に近衛府を張り付かせていられるものかどうか……」
 疑わしそうな目つきのまま、杯を乾す。
「公家衆は殿上での駆け引きには強くとも、戦の駆け引きはてんで駄目ですからなあ」
 親爺はごろごろと音がする空を見上げながら、「それにしても空模様が怪しいですな。若様の日頃の行いがあまりに悪すぎるから、雷相(らいしょう)様がお怒りのようで」と、話題を変える。
「風模様から見ると、若様の女癖の悪さに嵐后(らんごう)様もご立腹のようですぜ」
 急に吹き始めた強い風の音を聞いてから、にたにたとさっきのお返しとばかりに、六兵衛は雷刃をからかう。
「おお、嫌だ嫌だねえ。男の嫉妬は。俺は雷相様からも嵐后様からも、受けの良い人生を送っているんだがねえ」
 雷刃は珍しく苦笑しながら、杯を傾ける。
 雷相、嵐后とは扶桑の神話に伝わる夫婦神である。
 雷の宰相(いかづちのさいしょう)と呼ばれる年若き神は美男子で偉丈夫と伝えられている。聡明なこと右に出る神がいなく、良く先を読み、正しき道を教える心優しき親切なる神だという。
 一方、嵐の后(あらしのきさき)とは本来は神祇の類ではなく、悪鬼羅刹の女帝であったといわれる。ひょんなことから雷の宰相に惚れ、連れ添うようになったという。ただ、この神は嫉妬深く、自分以外の女性と雷の宰相が目を合わせただけでも悋気(りんき)をおこし、厄災をばらまいたという。
 そのためか、古来から雷のあとに来る嵐は女性に正しき道を教えた雷相に悋気をおこした嵐后の癇癪とされていたり、正道を歩かぬものに対して怒りを覚えた雷相が罰を与えた後、それに追随した嵐后が嵐を呼ぶという俗説があった。
 他にも、嵐后が移り気な男を嫌い、男の浮気を直してくださいという女の願いを聞き届けて、夫である雷相とともに罰を与えるという話もある。
 どちらにしろ、男にとってあまりいい話でないのは確かである。
「若様はおもてになりそうですから気が付かぬうちに恨みをかっているやも知れませんぞ?」
 六兵衛はここぞとばかりに畳み掛ける。
「天宮(てんぐう)、天宮。女の悋気よりも、男の嫉妬の方が怖い、怖い」
 魔除けの言葉──雷相と嵐后が合祀されている宮の名前──を口にしながら、雷刃は軽口を叩く。
「それで思い出した、若。天宮には参ったので?」
「ん? ああ、爺様と二人で天宮篭もりはしたさ」
「それはようござんした」
 六兵衛はにこにこと笑った。
 天宮篭もりとは、この時代の兵法家にとって必須の修行といえた。
 ただ人のそれが信仰に関するものだとすれば、兵法家の言う天宮篭もりとは百日間にも及ぶ荒行である。
 天宮に祀られている雷の宰相は、武芸達者な神でもあったと伝えられており、神代の時代、雷の宰相に認められることは一流を開くのに等しいとされた。
 その神話にあやかろうと、今でも多くの武芸自慢の兵法家が天宮に参り、互いの威信をかけ試合を挑み、宮居(みやい)にある道場で勝ち抜き続ければ一代の名誉とされていた。
 一度敗れれば、再度の挑戦をするために扶桑中にある雷の宰相を祀った主なる神殿を廻り、その証拠として各神殿の印が押された証文を全て持参する必要がある。それを集めるのにだいたい一年かかるものだから、百日間勝ち抜き続け、天宮篭もりの権利を得続けることは数十年に一人しか現れないと云われていた。
 半分の五十日続けることができるものですら数年に一度といわれている。
 天宮篭もりをしてきたと断言するからには、百日間勝ち続け、その後、雷の宰相が最初にその行を実行した兵法家に啓示した百日にも及ぶ荒行を受けてきたと云うこととなる。
 【剣鬼】と呼ばれていた柴原刃雅は百年ぶりにその荒行を受ける権利を得た男であった。
 その男の弟子であり、血縁者である雷刃が天宮篭もりをするとなれば、他の兵法家達が黙っていなかったであろう。
 そう思うと、六兵衛は感無量で心がいっぱいになった。
「今思うと、あの修行は楽しかったなあ。爺様の修行は辛いだけだったけど、あれは楽しかった」
「楽しかったのですか?」
 伝説の荒行を楽しいと言い切る雷刃を見て、六兵衛は流石に驚く。「それほど、師匠との修行は辛かったので?」
「ああ。あの頃は一度も勝ったことがなかったからねえ。それがさ、あんなに簡単に勝っていると、逆に何か毒を喰らっているような気分だったよ」
「毒ですか?」
「ああ、勝ちすぎるのは毒だねえ。慢心を産む。爺様にボロ負けし続けていたから、逆にその慢心だけが怖かったねえ。ここで傲るようなら、爺様には一生勝てないと戒めて毎日臨んでいたもんだ」
「そりゃまた随分と用心深いことで……」
 親爺は何とも云えない表情で笑った。
「爺様相手にしていたら、嫌でもそう言う思考が身に付くってもんだよ」
「まあ、あのお方は……」
 六兵衛も何かを思い出したのか、渋い表情で同意する。「なまじ腕に自信がある人間が挑めば挑むほど、世の中の奥の深さを思い知らされることになりますからな……」
「若様は最初に出会った使い手が悪すぎましたな」
 親爺は腹を揺すって大笑いした。
「ごめんくださいまし」
 その笑いと同時に、女の声が部屋の向こうからした。
「入りなさい」
 親爺は朗々とした声で答え、一拍の間をおいてから襖が開かれる。
「おお、これはこれは……」
 六兵衛はびっくりした表情を浮かべ、「若様も隅には置けませんな」と、にたにた笑い出した。
「何、これだけの美人を連れ歩いて楼閣などに来れば、嵐后様もお怒りになられるというものですな」
 親爺も楽しそうににこにこと笑う。
「やれやれ。助けたばかりのくの一を肴に俺をとんといじめるね、この人達は」
「いやですわ、旦那ったら」
 アヤメはしなを作る。
 くの一と聞き、六兵衛はほんの一瞬目線を親爺に送るが、軽く頷いたのを見て、何事もなかったかのように酒を進める。
「悪党に【狂王】配下の渡り巫女だと追っかけられているところを救ってねえ」
「それはそれは」
 親爺は笑いながらも、見る者が見れば明らかに警戒しているような仕草であった。「なかなかの外れ籤を引かされましたなあ、若様」
「そう云うなよ、親爺さん。紐さえ付けていれば、【狂王】の動きが見えてくるって寸法だぜ?」
 からからと笑い、雷刃は一気に杯を呷る。
「なるほど、それは便利そうですなあ、若」
 自分の言ったことをちっとも信じていない口調で六兵衛は相鎚を打つ。「紐がしっかりしていれば、ですがね」
「紐を結んでいる柱の強度も気になりますな」
 淡々とした表情で親爺は呟く。
「耳の痛い話だ」
 俯きながら、雷刃はちろりと杯を舐める。
 その表情は他からは窺い知れなかったが、間違いなく笑っていた。
「いやな旦那方ですこと」
 アヤメは売れっ子の芸妓ですら脱帽しかねない男に甘えるしなを絶妙の機に作ると、そのまま男たちに酌をする。
 その自然な立ち振る舞いは、幾人もの芸妓を躾けてきた親爺ですら舌を巻くほどのものであった。
(凄まじき媚蠱の術よ)
 この瞬間、親爺はこの女が【狂王】の配下の中でも腕利きの渡り巫女であることを確信した。
 何せ、己が自信を持って育てた娘たちの媚蠱の術を本気になる前から軽く凌駕しているのである。
 天性のものもあるが、この娘に備わっているものはそれだけではないと感じ取ったのだ。
 一方、六兵衛も十手を預かる者特有の勘が働いていた。
 いくつもの修羅場と下手人を見てきたこの年寄りは、この女からその特有の気配を感じ取ったのである。
 悪徳の媚薬の臭いを。
(……若様には悪いが、この女は危険だ……)
 その瞬間、何かあればこの女をいかなる手を使ってでも消す覚悟を老いた岡っ引きは決意した。
 結局のところ、どっちの年寄りも雷刃に対してなんやかんや言いながら甘いのである。
「あら、煙草盆ですの? 私も一服してよろしいでしょうか?」
 それを見つけたアヤメは嬉々として同席者に尋ねる。
「まあ、芸妓ならばお客に聞くのが道理だが、お前さんはうちの娘じゃないお客様だからねえ」
 親爺は苦笑しながら、煙草盆をアヤメの前に差し出す。「まあ、若様は嫌うだろうがね」
「ああ、嫌いだね。特に女の喫煙は大嫌いだ」
 誰もが鼻白む強い口調で断言し、「出かけてくる」と、その場を逃げるように飛び出していった。
「……何か、落ち度でも……」
 心配そうにアヤメは二人を見るが、老人二人はただ黙って首を横に振るだけであった。

 雷刃が店を出たときには、大粒の雨が降り出していた。
 店の傘を借り、静かに色街を抜け、人通りの少ない郊外へと足を向ける。
 鵜ノ沢の街は総構えの街であり、街を守るために外周に沿って壁と堀が存在し、街自体も区画を小運河で区切り、街の中も守りやすくしていた。平地の街かつ湖の畔の街ならではの工夫である。
 その他にも、戦時には砦代わりとなる寺を街の外周部に配置して寺町を作るなど、街作りにも工夫をしていた。元々葬式の多い寺や墓を街の真ん中に置くのも子供への情操教育上悪いというのは世界中どこでも見られる神職者の配慮でもあるといえるが、たいていの場合は街の有力者や国の有力への配慮として受け止められていた。
 雷刃はそんな寺町の一つに向かっていた。
 是音寺。
 この国で最も信仰されている陽神を祀った寺院であり、柴原家の菩提寺である。
 彼は本殿には向かわず、そのまま墓地へと歩き出す。
 迷うことなく、ある墓の前に立つと、傘を閉じる。
 懐から線香と火種の入った箱を取り出し、火を付けた線香を供える。
「帰ってきたよ、姉さん」
 小さな石を載せただけの質素な墓の前で彼はしゃがみ込み、両手を会わせる。「約束通り、天下一の兵法家になったよ。暫定天下一だけどね。爺さんには結局最後まで勝てなかったよ。剣の腕も、男としての生き様も。最後の最後まで、俺の壁なんだよな、あの人は。人生生き抜いた後で、あの人に勝ったと思えれば良いんだけど、難しいだろうね……」
 雨に打たれたまま、雷刃はその小さな墓を拝み続ける。
 そこにはあの傲岸不遜とまで言える不貞不貞しさはなく、ある意味で年相応の若者らしい脆さを感じさせる雰囲気を漂わせていた。
「いや、寂しくなんかないよ。元々俺は一人で生きていたからね。そりゃ、爺さんと会えたのは嬉しかったよ。母上が死んで以来、天涯孤独だと思っていたのが、ある日あんな強い爺さんが本当に血の繋がった爺さんだと分かった時、嬉しくて眠れなかったからね。……うん、やっぱり、寂しいかな。爺さんがいたから、今まで生きてこれたんだし、強くなれたんだしね。それに……寂しさも消えたんだしね。狗狼とこそこそ人の目を避けて、日の光の元にも出られず路地裏でがたがたと震えて暮らさないで良くなったのは爺さんに会えたからだしね。うん、やっぱり、寂しいな……。あんな強い人でも、勝てない存在がいるんだから、嫌になるよ。それが【狂王】だったらなおさらだ。あんなのは人の手に負える存在じゃねえよなあ」
 鋭い眼光が雷刃の目に宿る。「動けなかったワケじゃない。敵わなかったワケじゃない。でも、勝てなかった。爺さんが命懸けでやらなきゃどうにもならなかった。あんなのが【狂王】なら、この国の悲劇はいつまでも続く。いつまでも、だ。あいつがいる限り、何も変わらない。姉さんみたいな人がまた出る。間違いない、絶対だ」
 雷刃は静かに目をつぶり、
「俺はもう姉さんのような悲劇を繰り返したくない。だから、俺は誓いを破る」
 と、力強く宣言した。
 途端、轟音と共に雷が落ち、雨脚が強くなる。
「ああ、そうさ。誓いを破れば、雷相様と嵐后様もお怒りになろうさ。二世を誓った姉さんとの愛を踏みにじるんだからな。それでも俺はやらなきゃならない。俺じゃないと出来ないことなんだ。俺がやらなきゃ誰も出来ないことなんだ。姉さんとの想い出を全て捨ててでも、これからの人生で出会う女性の心を全て踏みにじろうとも、俺は野望に生きる。【狂王】と【妖術士】を討つ時間を作るためだけに俺は死屍累々たる血河を築こうとも、止まるわけにはいかない。俺は親父の跡を継ぐ。【狂王】と真っ正面からやり合う。……まあ、俺の流儀でやるから、大層なことは出来ないかも知れない。それでも、俺はもういやなんだ。目の前で起こっている悲劇を止められないのは堪らなく嫌なんだ。目の前で起こると分かっている悲劇から目をそらすのが堪らなく嫌なんだ。子供っぽい我が儘かも知れないけど、やらずに後悔するよりは、やって後悔した方が良いと最近学んだばかりだしね。そのための準備はしてきたし、計算外の駒も手に入った。あとは行けるところまでやってみるだけさ」
 微笑を浮かべ、雷刃は立ち上がる。「それじゃ姉さん。また暫く会えなくなるかも知れないけど、そっちに行った爺さんのお酌でもして待っていてくれ。あの【狂王】相手にする以上、考えていたよりも早めにそっちに行きそうだしね。まあ、足掻き続けて粘れるところまで粘りきるから、そんなに早くはないかもしれないけどさ。期待していないで待っていて下さい」
 いかにも嬉しそうに晴れ晴れとした表情でずぶ濡れのまま雷刃はその場を立ち去った。
 ただ、この大雨の中、供えられた線香だけがいつまでも静かに燻っていた。