目次
三月 十三日 「思い出した詩 一」
三月 十四日 「思い出した詩 二」
三月 二十日 「花は 野に・・・」
三月 三十一日 「花見?雪見?」
四月 十日 「酒なくて・・・」
四月 十七日 「市中の山居」
五月 九日 「人事三杯の酒」
六月 一日 「庭」
六月 十七日 「苔」
三月 十三日
最近思い出した 詩
このみ 木にうれ
ひねもす へびにねらわる
このみ きんきらり
いのちの木かなし
八木 重吉
最近は 詩というものに なかなか出会わない。時代が受け付けないのか、
人々が忘れているだけなのか。人の心のあり方が変わってしまったのか、
そういえば、詩人といわれる人もめっきり少ない。詩人達がいなくなったので、
詩 は忘れられたのか。なんだか自然が減ってしまったのと似ているね。
八木重吉 は 熱心なクリスチャンで、とても若くして死んだ。死んだ後、その
作品が世に出た。生活の断片が まるでガラスの破片のように きらきらと
詩になっている。 悲しげで 美しい絵本のようだ。
三月 十四日
思い出した 詩 もう一つ
つりばりぞ
そらよりたれつ
まぼろしの
こがねのうおら
さみしらに
さみしらに
そのはりをのみ
八木 重吉
もう 三十四年もむかし、二十歳くらいの頃、八木重吉の詩に出会った。
わたしは、カルバン派神学校の二年生だった。派遣された調布の教会の
日曜学校で、ひとりのかわいらしい高校生に出会った。彼女の名前は
秋野 旬美(ひとみ)。 八木重吉の詩集も 「秋の瞳」 だった。
わたしは、駅のホームで、セーラー服の彼女と待ち合わせをして、この詩集
を手渡した。
人生にはたくさんの分かれ道があるけれど、この出会いもその一つだつた。
その後、十五、六年も経ったころ、電車の中で彼女にふたたび出会った。
彼女は、何かを取り戻そうと必死になり始めた。でも、道はもう繋がらなかった。
あれからまた同じくらいの時が過ぎた今、この詩を思い出している。何がある
というわけではないけれど・・・。
三月 二十日
春分
「 花は 野にあるように。」
千 利休
暖かなこの数日で、庭の様子もだいぶ賑わいを増してきた。冬枯れの寒々しさも
悪くはないが、やはり春めいてくると心が華やぐ。自然、これからの若葉の頃、
夏の草いきれ、に思いがはずむ。
梅は満開、沈丁花が香りを放ち、小ぶりなレンギョウの古木は黄色く花づいてきた。
水のしたたる蹲(つくばい)の向こうの、織部灯篭のかげに、五弁の白椿が一輪。
この「窓の月」と名づけられた白玉の椿は、妻が気に入って、二人で買い求めた。
手折って遺影の前に、とも思ったが、やはりそのままに。妻もうなずくことだろう。
それにしても、最近の花のあでやかさには、少々うんざりすることがある。世界中
の花が入り込み、色も形も、およそこの国には似つかわしくない。
色の不自然さは、大方、人の手で改良された結果なのだろう。仕方ない気もするが、
自然で、清楚な方がわたしは好きだ。そういえば、紫陽花も、山あじさいが西洋で
改良され、日本に里帰りしたものらしい。各地で観光客をあつめている紫陽花は
実は、日本の景色ではないのだ。利休のことばが身にしみる。
三月三十一日
花 見? 雪 見?
今年は、桜の開花が早かった。三月中に満開になって、花見の人出も今日、明日
がピークであろう。ところがである。なんと今日は雪。赤子の手の平程もあるボタ雪
が庭一面に降りつむ。
花見と雪見がいっしょにできるのはめずらしい。
庭には雪柳が満開で、そこに本当の雪。 黄色のレンギョウも不思議そう。 |
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四月 十日
酒 無くて なんの おのれが 桜かな
早いもので、そろそろ 花見は葉桜の様子。あわてて、近くの公園に。
酒席はいろいろあるが、花の下の酒席は、やはり明るい。冬の雪見酒、
夏の暑気払い。秋のもみじ狩り。日本人は、よくも四季折々楽しみを
忘れないものだ。昨今は、ビルの中で飲むことがほとんどになってしまったが
外で呑む酒はどこか違う。陰にこもらない。人の作為を感じさせない。
できれば、店もオープンエアの方が良いのかも知れない。ましてや接待嬢なぞ。
酒が健康に良いか悪いかより、健康的な酒の飲み方を考えた方がいいのかも。
四月 十七日
「 市中の山居 」
戦国時代、布教のために来日した宣教師が、本部、バチカンに送った日本国についての
報告書が、かなり残っているらしい。その文書には、当時わが国で盛んであった「茶の湯」の
ことが多く書かれていて、その中に「市中の山居」という記述が見られる。これは茶室のこと
らしいが、興味のある表現だ。事実、大阪城内にあった茶室は「山里丸」と呼ばれていた。
茶室は、千 利休が、田舎家を模して創作したと言われているが、なぜ利休は壮大な城の中
に山居を作り、大都市 京都の市中に田舎家を模した茶室を作っていったのだろう。
これについては、私見がある。もともと日本人は森を生活の場としていた。森は食料の宝庫
であり、神々の宿るところであった。人々は、狩りをし、山菜、木の実を採取して、神々と共に
暮らしていた。山は神々の城であり、その怒りに触れぬ様、つつましく生きていた。しかし
革命的変化が訪れた。稲作である。稲作は人々を平野に移住させ、組織化させた。権力が
生じ、国家が生まれていった。しかし人々の心はそう簡単には変化しなかった。罪、穢れを
祓う時には森に戻り、山に向かって禊をした。其処は依然として神々と共に生きた安らぎの
聖地であった。現在も神社は森に包まれている。これはそのなごりであろう。
中世の都、京都は過密で忙しい街であったろう。その中にささやかな茶庭を造り、木々の間
を縫うようにたどり着く茶室は、かつての、やすらぎと禊の聖地への郷愁であり、心のリゾート
だったのではあるまか。そこで催される茶の湯こそ、おごりと虚栄に満ちた人間の「詫び」
の作業なのかも知れない。これは私の勝手な私見だが、真の「侘び茶」こそ、現代に必要
なのではあるまいか。
五月 九日
「 人事三杯酒 」
私の父は書道家であった。六十六才でガンで亡くなったが、亡くなる半年程前にもらった
作品の言葉である。
この頃、私の妻も「乳がん」と診断され、それまでの東京世田谷の住いをひきはらって、
実家の離れに移り住んだ。離れはもともと祖父と祖母が住んでいたが、すでに亡くなって
空き家になっていた。母が手を入れてくれたので、畳も新しく、こざっぱりとはしていたが
殺風景であった。父にそのことを告げると、「うん そうか」とそっけなく答え、夕刻になって
小脇に細長い扁額を抱えてきた。黒い漆縁の横額で、普通の横額よりかなり上下が細く
なっていた。「これで どうだ?」 言うと父は、着物の腕を組んだ。「うん いいね」、私は
この額の細身の上品さと、書かれた字のバランスが気に入った。一度も見たことの無い
作品だった。「一杯 やろうか」、私が言うと、「うん」、父はうなずいた。
母が運んで来た徳利を差し向けると、父は静かに杯をとりあげた。酒の好きな父であった
が、この時、すでにこの一杯を空けるのがやっとだった。この額の下で酌み交わした酒が
父との最後になった。
間も無く父は他界し、妻は五分五分と言われながら、生き残った。
その妻も15年後の去年、ガンの再発であっけなく死んだ。
「人事三杯酒」 (じんじ 三杯の酒)。この額は人手に渡って今は無いが、忘れられない
言葉となった。
六月 一日
「 庭 」
この家に越してきて、もう四年になる。私の会社が倒産して、家が競売にかけられること
に決まって間も無く、私はこの家を借りた。「汚くてもよい、少しでも庭がある家」。これが
不動産屋への条件だった。戦い疲れた自分と家族の休息の為には、少しの緑が必要だ
と思ったからだった。幸い、手頃な賃料で、そこそこの庭のある家が見つかったが、家も
庭もひどく荒れ果てていた。私は大家の許可をもらうと、早速改修に取り掛かった。破産
の管財業務中、私には持て余す程、時間があった。庭の工事はまず瓦礫を撤去する事
から始めなければならなかった。前の住人は焼き物をやっていたらしく、庭の中程に窯を
据える為のコンクリートの舞台があり、周辺にはおびただしい陶片が埋まっていた。夏の
日差しの下で単調な作業が幾日も続いた。取り除いた瓦礫は土嚢に百杯にもなった。
更地になってみるとまんざらでもなかった。縁側に腰掛けて、汗を拭いながら、さっぱりと
した地面を眺めていると、思い描く庭の姿が彷彿としてくる。その緑溢れる木々と草花は
すさんだ心を鎮めてくれるに違いない。私ははやる気持で、また作業に取り掛かった。
玄関から、飛び石をつたって、ほどよい位置に蹲を設置したかった。給水は外水道から
塩ビ管で引き込めばよかったが、排水は容易ではなかった。厚さ30cmもある玉石の壁
を穿って、道路脇のU字溝へ導いてやらなければならなかった。数日の間、私は道路脇に
座り込んで、タガネの頭を握りこぶしよりも大きなハンマーで叩きつづけた。近所の年寄り
がいぶかしそうにこっちを見つめている。穴が貫通したのは四日目だった。蹲は古道具屋
の店先に転がしてあったのを、ひびの入った水鉢とまとめて一万円にねぎって手に入れた
海(蹲の前の水が流れ溜まるところ)にゴロタをしいて、排水口に近所の寺から拾ってきた
軒丸瓦をかぶせると、なんとかそれらしい雰囲気になった。蹲は私のイメージの中心をなす
ものだった。前の家から、庭木の手頃なものと、妻がだいじにしていた茶花の類を、順次
移植し、都合六十日にわたる改修工事は一段落した。あれから四年経った今、手作りの
庭は緑に覆われ、小さな草花が清楚な花を着けている。蹲の水辺には苔がついて、水滴
が光っている。しかし妻は去年、突然亡くなってしまった。癌の再発だった。娘も出ていって
私一人が残された。もうすぐ妻の一周忌になる。「一周忌は庭の見える部屋でやろう。」
縁側に腰をおろして、みずみずしく繁茂した木々を眺めながら、私はそうつぶやいた。
六月 十七日
「 苔 」
つゆ時になった。人は、この時期を「うっとうしい」と言うが、私にはそうは思えない。仕事の
行き来を考えれば確かにうっとうしい。しかし、ちょっと周囲を見ると、この時期の木々や草花
は実に生き生きしている。葉についた埃も、雨に洗い流され、美しく光っている。生命にとって
欠かす事のできない水分を、心ゆくまで吸収できる時期だ。
私は、水を感じさせる植物が好きだ。苔もその一つ。苔は乾いた土には根付かない。太陽の光
よりも、水気を好む生き物だ。
私は、この家に越してきてから、庭造りの要素の一つに「水」を取り込みたかったのだが、それ
には、苔も必要なアイテムであった。当初、軽井沢で採取した苔を根付かせようと試みたが、翌
年には九割方、だめになっていた。しかし一方、在来の地苔が自然発生した。こちらはさすがに
土地に合っていると見えて、現在に至るまでかろうじて維持している。しかし苔は気難しい。冬の
乾燥を防ごうと散水すれば、土が凍り付いて表皮のようにめくれてしまう。夏の太陽にも弱い。
殺虫剤を散布すれば、苔は黄色く枯れてしまう。油断していると、銭苔が浸食してくる。銭苔は、
生前、妻も一日中、スプーンで取り除こうとしていた。しかし一ミリ程も残れば、そこからまた繁殖
した。しかしそうこうしながらも今年は今までで一番良さそうだ。
「水を感じさせる」と書いたが、それは、山に登った時の体験から来たように思う。三十代の頃、
私はよく山に登った。その頃、私は小さな会社を経営していたが、そのストレスを解消するのに
は山が最適であった。
深い樹林をぬけて、やや日の当たる辺りまで下ってきたとき、水の臭いがした。吹き出す汗で
脱水症状になりそうな私は水の臭いに敏感だった。やがて道が大きく曲がると、右側に背丈程
の岩壁が現れて、辺りは一面に羊歯が繁茂している。その羊歯の奥の岩陰から水は湧き出して
いた。あふれる水は、小さな溜まりを作ってから、山道の脇の白い子砂利の中を細いせせらぎに
なって下っていた。岩には苔がついて、木々の隙間からの明るい日差しに水滴が光っている。
私はザックを放り出して、水辺にかがみ込んだ。凍える程冷たい水が焼け付いたのどを潤した。
立ち上がってあらためて眺めるこの辺りの景色が、清涼感と共に私の脳裏に焼き付いた。
あれから二十年、挫折感と孤独感にさいなまれた私は、庭にあのときの景色を写したかった。
苔も羊歯も必要だった。「水を感じさせる」とは、私にとって一種のカタルシスなのかもしれない。