宝物18段目のひきだし

安野光雅の本 この季節になると読みたくなるクリスマスの本 つい手が出るクリスマス本
2002年に読めたサトクリフの新刊 お年玉の新古本


宝物お年玉の新古本

  毎年、子ざるたちや甥・姪にお年玉として本を1冊ずつ贈っています。本を選ぶとき、もうこんな面倒くさいことは今年限りにしようと毎回思いますが、つい子ざる3の「お正月の本は何かな?」という言葉で続行です。きれいにラッピングする前にこっそり自分が読むので、実は新古本・・・。

子ども大あばれ山賊小太郎
那須正幹作
小松良佳絵
 最初に決まったのが、歴史マニアの子ざる2の本です。舞台は戦国時代。主人公の小太郎は、鍛冶屋の息子に生まれ、生まれながらに大変な怪力です。ガキ大将に成長した小太郎が12歳くらいのとき、人生をがらっと変える事件が起こりました。領主牛頭入道が小太郎の村を襲ったのです。両親は殺され、辛くも逃げ出した小太郎は、母親の実家の千草村の祖母を頼って旅に出ました。
 旅の途中知り合ったのが、忍者のマメ太と剣の修行の旅の途中の月形剣之助。忍びの達人マメ太に、怪力の小太郎、そして天才剣士剣之助という最強のコンビのできあがりです。「ズッコケ三人組」といい、那須作品にはとく三人組が出てきます。しかし、千草村も数年前戦に巻き込まれて、今は住む人もいないと聞いて、小太郎はがっかり。祖母のおはちばあさんはどこに行ったのか、小太郎は途方にくれます。
 おはちばあさんは、死んではいませんでした。村を捨て、孤児になった子どもたちを集め、山賊をして暮らしていたのです。偶然出会った孫の小太郎と強い連れにおはちばあさんは大喜び。小太郎はもちろん、マメ太や剣之助(ねしょんべんのくせを悩んでいます)も、しばらく山にとどまることになりました。目指すは、親の敵赤岩重太郎です。
 弱っちかった山賊が突然強くなり、牛頭入道の荷を運ぶ一行を襲ったことから、とうとう軍勢を差し向けられることになったのが、一番の見せ場。小太郎、マメ太、剣之助たちはどう戦うでしょうか?戦国時代フリークの子ざる2が喜びそうなお話でした。彼の好きな織田信長は出てきませんが・・・。


子どもかいけつゾロリのじごくりょこう
原ゆたか作・絵
 もともとこの本をねらっていたのが、子ざる3。夏に札幌で「かいけつゾロリのてんごくとじごく」を買ってもらってから、ずっと続編を楽しみにしていたそうです。ゾロリファンでもない私は、新刊が出ているとも知らず、もうちょっとで全然違う本を選んでしまうところでした。だって、「ゾロリ」ばかりでなくもっといろんな本を読んでほしいと思ったからです。あぶない、あぶない。
 新聞を読むわけでもなく、本屋をチェックするわけでもない子ざる3がどうして新刊が出たのを知ったのかは、謎。よっぽど続きが読みたかったのでしょう。巨大たこ焼きにつぶされて死んでしまったゾロリたちは、地獄を抜け出し天国で愛するお母さんに出会います。でも、ママはゾロリを見て、こんなに早く死んでしまうはずはないから、えんま大王に生き返らせてもらうよう諭します。地獄に舞い戻って、えんま大王と対決するのがこの本なのです。つまり、前巻ではこれからが見せ場!といところで終わっちゃったわけ。なるほど、続きが読みたくなるわけだ。
 ごませんべいが大好きなえんま大王は、大量になる地獄の中からセレクトした7つの地獄をクリアできたら、生き返らせてやるという条件をつけます。今まで生き返ったのは、「パンダてつろう」(丹波哲朗そっくりなパンダ)だけ。ゾロリたちは、力を合わせてどんどん地獄を通り抜けていきます。それを見たえんま大王は、一発逆転の陰謀を画策します。そのとんでもない策は?
 笑えてしかたがなかったのは、「ギャグじごく」。おやじが集まってさぶいギャグを連発し、聞いていると凍ってしまう地獄です。結末のオチも落語みたいでおもしろかった。お正月に読んだ子ざる3がどんな顔をするか楽しみです。


子どもペンギンたんていだん
斉藤洋作
高畠純絵
 子ざる3と同い年の小学2年の姪にあげる本です。どうしようかなー?とさんざん悩んだ結果、字が大きくて読みやすくとぼけた味がたまらない斉藤洋&高畠純本にしました。感動系のお話もいいけれど、お笑い系の方が幸せになれるような気がするんです。
 例によって、お話は徹底的にナンセンス。なぜか突然砂漠のど真ん中にけったいな飛行船が現れます。飛行船を動かしていたのは、ペンギンたち。せっせと自転車みたいなペダルを踏んでいます。飛行船から降りてきたペンギンは、なぜか「エンヤラ、ドッコイ。エンヤラ、ドッコイ!」と行進を始めました。50羽のペンギンたちが整然と行進するのを見て、びっくりした生き物がいました。サソリとラクダとゾウガメです。彼らはみんなちょっぴり悪いことをしてすねに傷をもつ身でした。
 サソリとラクダとゾウガメのそれぞれの告白と、ペンギンたちのけったいな用事の巨大なギャップがすごくおかしかった。姪が、こういうおかしさをちゃんとわかってくれる子だといいなと思います。


子ども 真夜中、くすり屋では・・・
垣内磯子策
三原紫野絵
 「ペンギンたんていだん」をあげる姪の姉、小学5年の姪にあげる本です。このシリーズは「紳士とオバケ氏」がすごく気に入っていたので、同じ「ものがたりのもり」シリーズなら、はずれはないだろうと思いました。おばけって、小学生が好むキャラだし、色鉛筆で描かれた絵もこわかわいくて気に入りました。(私が気に入っても仕方がないんですが、少なくとも自分が好きな本を贈るという条件はクリアです。偏っているけど)
 さくら町にはけったいな薬屋がありました。朝の5時に開店して夕方の5時にはもう閉店。まるで商売をする気がないようです。実は、薬屋の主人は魔女のおばあさん。名前をルナティーラといいました。夜にせっせと魔女の修行をしたり薬を調合したりするので、昼間は魔女だとばれないように、薬屋をやっているというわけでした。薬屋は仮の姿なので、昼間は居眠りばかりなのです。
 ところが、ある日主人公のこうたは、例の薬屋に咳止めドロップを買いに入ってしまいました。咳止めドロップはめちゃくちゃよくきいたけど、途中でこうたはキツネの声しか出なくなってしまいます。それがこうたと魔女のおばあさんとの知り合うきっかけでした。一筋縄ではいかない魔女と純真そうなのにちゃっかり現代っ子のこうたとのやりとりに、すっかりお話に引き込まれました。「紳士とオバケ氏」もそうだったけど、ありきたりなこわがらせてやろうというお話ではなく、結末の渋い日記の一行「花をもらう」が、心に強く刻みつけられました。このよさがわかるかなぁ・・・?


子どもテムズ川は見ていた
レオン・ガーフィールド策
斉藤健一訳
 自分も読みたくて選んだのが、この本です。行き先は、たぶん中学3年の甥。または高校1年の子ざる1。ミステリーが好きなのはどちらだったかな?と今考えているところです。もともと徳間書店のBFTシリーズは読み応えのある本が多くて、この本を書店で見かけたときからしっかりチェックしてありました。舞台もヴィクトリア朝のロンドンと、私が大好きな設定。これを読まないという法はありません。ただ、あまり本を増やしたくないので、買うのはちょっとなぁという不純な動機でした。もともとお正月の新古本を思いついたのも、同じ理由です。本が決まると買うとき、「包装は自分でしますから、ラッピング用の袋と小さなリボンをください」とずうずうしく頼むのが定番です。(さすがおばさん)
 物語は、煙突掃除の少年バーナクルが偶然聞いてしまった密談から始まります。プロローグで執拗な追跡を受ける女性が描かれますが、わけのわからないそのシーンの答えは、読むほどに少しずつ明らかになります。バーナクルは煙突掃除をしていて、密談の最中に落ちてしまいました。とっさにテーブルの上にあったロケットと銀のスプーンを持って逃げ出した彼は、酒場で大男に助けられました。それが船に住んでいるトム・ゴズリングです。
 まっすぐな気性のゴズリングは、縁もゆかりもないバーナクルを船に住まわせてくれ、知り合い(恋人?)のマクディバー夫人と娘のミランダにも紹介します。バーナクルとマクディバー夫人、バーナクルとミランダという2組の名コンビのできあがり!しかし、ロケットを奪われたメンバーも黙ってはいません。すぐにバーナクルの追跡を始めたのは、敏腕のクリーガー警部。ヴィクトリア朝にときどきいそうな厳格で情け容赦ないタイプです。クリーガー警部の追跡は、久しぶりに手に汗を握る思いでした。だって、追いかけられているバーナクルは、全然危険に気づいていないからです。おいおい、そんなにぬくぬくと暮らしていていいのかい?と、何度もバーナクルに危機が迫っていることを教えてあげたくなりました。
 ロケットを奪われた女性の正体、クリーガー警部側の真相など、次第に明らかになっていく事実は、あっと驚くものでした。すべてに決着がついてほっと肩の力が抜けたとき、このおもしろさがわかるのは小さい子では無理、ミステリーファンならこたえられないだろうなと心から感じました。


子ども 幽霊船から来た少年
ブライアン・ジェイクス作酒井洋子訳
 東京旅行へこっそり連れて行って、新幹線の中で読んできました。秋ごろから出始めた早川書房の「ハリネズミの本箱」シリーズの1冊です。今まで児童書の分野に、早川書房はほとんど本を出していなかったはずですが、翻訳文学は早川書房の得意中の得意なので、とてもそそられました。何冊かは図書館で予約して手許に届いたところですが、第2陣で出たこの本は、ブライアン・ジェイクスという名前と冒険小説という帯の言葉に惹かれてお年玉本にしました。
 物語は明るいタッチで書かれていますが、いつもどこかしら悲しみを宿している本です。主人公のネブはデンマーク生まれ。義理の兄たちにいじめ抜かれて海に落ち、すくい上げられたのは、ヴァンダーデッケン船長の船でした。口のきけないネブはそこで、「ネブガドネザル」という名前をもらい、台所で奴隷のような下働きになります。ネブの友達はデンマークという黒い犬だけ。フライング・ダッチマン号での日々は、陰謀がうずまき死と隣り合わせでとても不幸なものでした。
 とうとうホーン岬で船が遭難し、天使が「さまよえるオランダ人」号にしてしまったとき(突然天使が出てくるので、なんでやーと思いました)、ネブとデンマークは不老不死の体になります。天使は、ネブを口がきけるようにしてベンに、デンマークをネッドという名前に変え、世界中に正義を行わせるお役目にしました。ネブ(ベン)とデンマーク(ネッド)はまずパタゴニアの羊飼いのおじいさんに助けられ、そこで数年を過ごします。おじいさんが亡くなったとき、二人はまた次の地へと旅立つのでした。
 再びベンとネッドが姿を現したのは、1896年のイギリス。工業化の波におされ、村の土地を奪われようとしているチャペルヴェールの地です。若々しいままのベンとネッドの言葉から、250年もの間アメリカの南北戦争など各地で冒険を重ねてきたことがうかがえます。物語の4分の3をしめるチャペルヴェールでのお話が、この本の中心です。ここまでは二人の来歴を語る前座みたいなものといえるでしょう。
 チャペルヴェールの村人は、善人と悪人にはっきりわかれています。もちろんベンとネッドが味方するのは、大人も子どもも悪人におされている善人側。自信をなくしかけて悪人のいいなりになっていた人々の心を奮い立たせ、失われていた土地の権利書を取り戻すのが使命です。しかし、どんなに人々と心を通わせても、ベンもネッドもこの地に永住することはできません。天使のお告げ通りに、決められたときに立ち去るお約束に縛られているのです。ふと「ポーの一族」(萩尾望都)など、年をとらない悲しみを描いた作品を思い出しました。ベンとネッドの悲しみは、間接的に描かれているだけですが、きっと二人の悲しみはとても深いにちがいありません。読み終わって、哀切さをいつまでも感じたのはこんなところに理由があるのでしょう。


宝物2002年に読めたサトクリフの新刊
  2002年もあと数日でお終い。たくさんの本が出ましたが、私にとって何よりうれしかったのは、サトクリフの新刊がたくさん出たことです。12月に出たばかりの本とともに、リメイクではないオリジナルの物語を読み返して今年最後の特集にします。

 

松落日の剣
ローズマリ・サトクリフ作
山本史郎・山本泰子訳
 副題「真実のアーサー王の物語」。さらに上巻には「若き戦士の物語」、下巻には「王の苦悩と悲劇」というタイトルがついています。数々の原書房のサトクリフ本では、リメイク本の無味乾燥な訳文に悲しい思いをして読みましたが、この物語を出してくれたことで今までの怒りはすべて水に流し、感謝感激でいっぱいです。
 ファンタジーマークをつけようか迷った末、時代小説マークをつけたのは、この物語がイギリスの5世紀を舞台にした堂々たる時代小説だと思ったからです。アーサー王伝説のもとになった物語を、これほど史実を織りまぜ(こういう話ならあったかもしれない)と読者を納得させる形で描ききったのは、空前絶後だと思います。主人公は、アーサー王のモデルになったとされる「大熊のアルトス」です。
 私が何よりうれしかったのは、このお話が「ローマン・ブリテン三部作」の「ともしびをかかげて」の直接の続編になっていることです。アクイラが加わったアンブロシウスの仲間たちのその後、気になっていた登場人物のその後が手に取るようにわかりました。もちろん、主役はアクイラからアルトス(本名アルトリウス)に移りますが、アルトスはアクイラを騎馬と軍の父として尊敬し、アクイラの息子のフラビアンはアルトスの側近として最後まで付き従います。アルトスが父と思い仕えるアンブロシウスは、「海の狼」(サクソン人)やスコット人など異民族の撃退に力を注ぎ、病気(おそらく癌)と戦いながらアルトスに王の位を譲るまで壮絶な人生を送るのです。心密かにアンブロシウスの生き方にアンブロシウスファンになっていた私は、悲壮な死に様に心をえぐられながらも、彼の一生がこういう形で決着してよかったとも感じました。
 物語は、アルトスがアンブロシウスの麾下を離れ、「騎士団」とともに異民族との戦いに転戦する経緯が、彼自身の回想という形で語られます。アルトスは、致命傷を負い死の床で自らの来し方を思い語ります。この物語での新しい登場人物が出てくるたびに、無意識に「アーサー王伝説」の有名人との関わりを考えました。「五月の鷹」のガウェインは、グワルフマイ、王妃グウェネヴィアはグワルフマラ、アーサーの死の原因となったモードレッドはメドラウト・・・といった具合です。さすがにランスロットは出てきませんが、同じ役割を担うのは吟遊詩人ベドウィルです。
 アルトスの厳しい転戦の物語と、ヴォーティガンの息子ケルディックと組んたメドラウトの裏切りは、アーサー王伝説のもとになった厳しくて因果応報で逃れようもない宿命の物語です。アルトスの「騎士団」とともに戦ったきわどい勝利の戦いは、おそらく「アーサー王の12の戦い」として伝えられるようになったのでしょう。きれいごとばかりの「アーサー王伝説」と違って、ブリテンを異民族から護るために命を張って戦った武将の哀切で忘れられない生き様は、サトクリフの大本命ともいうべき物語になりました。


松アネイリンの歌
ローズマリ・サトクリフ作
本間裕子訳
 「落日の剣」と時を同じくして出た新刊です。こんなに読み応えのある新刊が、出版社は違うとはいえ連続して読めることに、無情の幸せを感じます。しかも、「落日の剣」と「アネイリンの歌」はアーサー王のモデルとなった「熊王アルトス」の名前でつながっており、アルトスが亡くなった後のブリテンの様子を知ることができるのですから、ケルト民族がブリテンで幅をきかせていたころの歴史のお勉強をしたようでした。
 インターネットでアーサー王関連の年表を検索したら、アネイリンの名前もちゃんと出てきました。彼は6世紀から7世紀にかけての吟遊詩人で、紀元600年に「ゴドディンの歌」を作ったことが載っていました。この詩でアネイリンは、アーサー王の武勇にふれており、アーサー王が存在したことがわかるそうです。物語では、「ゴドディンの歌」ができた紀元600年のカトライスでの戦いを中心に、従者として戦いに加わった少年プロスパーの目を通じて、激しい戦いの様子が語られます。
 プロスパーはコーンウォールの小さな領主の次男として生まれました。12歳のとき付き人のコンが連れてこられたことから、物語は始まります。コンは奴隷としてプロスパーに仕えますが、ほどなくプロスパーと親戚の少女リネットとコンは、深い友情で結ばれました。プロスパーとコンのつながりは、「第九軍団のワシ」のマーカスとエスカの関係に似ています。プロスパーは、コンと奴隷ではなく友達としてつきあっていたのです。
 狩りで偶然言葉を交わしたゴルシン王子の従者となるべく、プロスパーは出発します。もちろん付き人のコンも一緒に。プロスパーはゴルシンの楯持ちとして「輝ける同胞隊」(これが原題の「シャイニング・カンパニー」)の一員として訓練を受けました。コンは望み通り鍛冶屋の技を身につけ、野戦鍛冶として同胞隊に付き従いました。行く先は、海の狼(サクソン人)を食い止める戦いです。しかし、戦いの最中、当てにしていた援軍がこないことがわかり同胞隊は孤立無援でサクソン人に包囲されてしまいます。隊長のケレディグは、300人で特攻をかけ名を残す道を選びました。これが「カトライスの戦い」です。生き残ったのは、ただ一人、カナンだけ。ゴルシンを失ったプロスパーが楯持ちとして働いていた相手でした。カナンの命を救ったのはプロスパーだったのです。
 プロスパーたちの戦いと比較して繰り返し出てくるのが、「テルモピュライの戦い」です。スパルタ人がペルシャ軍と戦って見事に玉砕したこの戦いを、私は偶然「炎の門 小説テルモピュライの戦い」で読んでいました。確かに、絶望的でありながら団結の固い300人が戦いで死んでいくところはそっくりです。プロスパーが奇跡的に生き延び、後半生をカナンとともに生きていくことにしたのは、戦いの衝撃が大きかったからでしょう。自分の幸せをコンに譲り、コンスタンチノープルに旅立つプロスパーは、子ども時代をカトライスの戦いといっしょにおいてきたたくましい若者でした。プロスパーがあこがれをこめて名を呼んでいたのが、熊王アルトスというところに、「落日の剣」の続きを読む思いでした。


松辺境のオオカミ
ローズマリ・サトクリフ作
猪熊葉子訳
 今年のサトクリフの新刊のトップバッターです。去年からずっと「ローマン・ブリテン三部作」が四部作になるのをずっと楽しみにしていました。ただ4部作と言っても、ローマ軍がブリテンから撤退する「ともにびをかかげて」の次に来るのではなく、「銀の枝」と「ともしびをかかげて」の間に入る時代設定です。手がかりは、「コンスタンス」という皇帝の名前。古代ローマ史についてネットで調べてみると、どうやらローマ帝国で初めてキリスト教を承認しローマ帝国を再統一を成し遂げた「コンスタンティヌス大帝」の次の皇帝がコンスタンス帝だということがわかりました。せっかくコンスタンティヌスの代で再統一されたローマも、彼が亡くなるとまた3人の皇帝によって相続されます。その中の一人がコンスタンスだったのです。ちなみに分裂の危機をはらんでいたローマ帝国が東西に分裂するのは、キリスト教を国教化したテオドシウス帝が亡くなった紀元4世紀の終わりのことでした。ずっとその先も読んでいくと、ローマ軍がブリテンから撤退したわずか20年後に西ローマ帝国は滅亡してしまいます。
 アレクシオス・フライウス・アクイラが大失態を犯したのは、紀元340年前後だと考えられます。彼は最初の任地ドイツで異民族(ケルト系?だって、ゲルマン民族の大移動は376年からだそうです。大昔に覚えたことが頭の片隅にひっかかっていました)の襲撃を受け、救援を待たずに撤退し手痛い敗北を喫します。砦に籠城していたら数日のうちに救援軍が到着したのに、アレクシウスのせいで砦は敵に占領されてしまいました。左遷された先がブリテンの北方、アントニオの防壁をすぐそこに臨むカスッテルムの辺境守備隊の指揮官でした。失意の内に赴任したアレクシオスは、アクイラの家系の常でブリテン生まれだったせいもあって、次第に「辺境のオオカミ」たちと心を通わせていきます。そもそもカスッテルムに駐屯するローマ軍は、「ローマ」とは名ばかりで、砦のまわりに住むダルリアッド族やヴォダディニ族、ダムノニ族など出身の若者の混成部隊でした。
 アレクシオスが心を砕いたのは、氏族のしきたりを尊重しローマ軍と氏族をできるだけ味方意識をもって結びつけていくことです。いくつかのエピソードを経て、アレクシオスは族長のクーノリウスと強い友情を育てました。しかし、それは一時の幻。族長の弟のコンラが起こした事件(馬泥棒)を解決するのがアレクシオスだったことで友情は一転して憎悪に変わります。ローマ軍の支配に反抗して武力に訴えた氏族の中に、味方であったはずのヴォダディニ族(クーノリウスの氏族)も入っていました。降着した戦況で、アレクシオスはクーノリウスに一対一の決闘を申し込み、一気に戦いの決着をつけようとするのでした。
 物語の縦糸は、アレクシオスとクーノリウスの友情です。そして横糸は、アレクシオスの過去だと私は思います。だって、カスッテルムの砦でも敵襲を受けて撤退を決めるアレクシオスは、ドイツの砦から離脱したアレクシオスとはどこが違うのでしょうか。指揮官として恐怖と向き合うアレクシオスがとても凛々しいです。


松 剣の歌
ローズマリ・サトクリフ作
山本史郎訳
 副題「ヴァイキングの物語」(サトクリフ・オリジナル6)。ヴァイキングの一人でノルウェー生まれのビャルニ・シグルドソンが主人公。原著は、サトクリフが1992年に亡くなった後ほぼ完成した原稿が発見され、1997年に出版されたそうです。つまりサトクリフの遺作と言えるでしょう。私はこの物語を読むまで、サトクリフのヴァイキング物を読んだことがありませんでした。読んでみて、息もつかせぬ展開、躍動的なキャラなど、ローマン・ブリテン系の物語と双璧をなすものだなと思いました。
 時代は紀元9世紀、ノルウェーの美髪王ハロルドが勢いを得て勢力を伸ばしていたころだそうです。ノルウェーに住ぬヴァイキングたちは、船でブリテン島やその他のヨーロッパの土地へ移住していきました。ビャルニも、兄が一足先に移住していたスコットランドのラーヴングラスに兄を頼って移り住みました。そこで、ちょっとした諍いから年老いた修道士を殺してしまったビャルニは、族長から剣を一本渡され5年間の追放を申し渡されます。剣と兄が持たせてくれた腕輪を持って、ビャルニの旅が始まりました。
 このお話で印象的なのは、円環のようにめぐってもとのところへもどってくるしがらみ?の数々です。修道士を殺し、別の修道士を救ったこと。族長に誓いを立てされた乳兄弟による許し。物語には直接関係ありませんが、サトクリフフリークの私には、はずせないイルカの紋章の指輪。これはあのアクイラの指輪なのでしょうか。「落日の剣」では、アクイラがフラビアンに譲っていました。息子のフラビアンがアルトリウスが死ぬことになった戦いで戦死したとき、指輪はどうなったのでしょうか。あの指輪がめぐりめぐって、ブリトン人のアンガラドのところへやってきたような気がしてなりませんでした。(そうだったらいいな)
 剣の腕を売る渡り鳥のような暮らしの中で、ビャルニは親友エルプが言った通りもとのラーヴングラスの村に戻っていく宿命でした。ビャルニの荒々しい5年間の旅は、アンガラドに出会うためだったのかもしれないと、読み直してますます強く思いました。


松ヴァイキングの誓い
ローズマリ・サトクリフ作
金原瑞人・久慈美貴訳
 順番は「ケルトとローマの息子」の方が先に出ましたが、「剣の歌」と同じヴァイキング物ということで先に取り上げました。時は、「剣の歌」よりちょっと下って紀元10世紀末から11世紀にかけて。舞台は、イギリスのアイルランドからユトランド半島、バルト海を経てキエフ、最後はミクラガルト(コンツタンティノープル)です。ヴァイキングのビャルニ・シグルドソンもあこがれた黄金のミクラガルトへ。ジェスティンは向かいます。しかし、それはあこがれに駆られてではなく、「血の誓い」に縛られてでした。原題でもある「血の誓い」は、ジェスティンが義兄弟トーモッドとともに父の敵をとるために幼なじみのアーンナスとヘリュフと戦うことです。父を殺されたアーンナスとヘリュフはトーモッドの父を殺し、「ミクラガルトへ行く」と言い残して去った彼らの言葉は、トーモッドにあてられたものでした。トーモッドは義兄弟になったばかりのイギリス生まれのジェスティンと旅立つのでした。
 いくら奴隷の身分を解放してくれたとはいえ、ジェスティンの側に立って言えば(そんなご無体な)と私には思えました。キエフで出会ったアーンナスたちと決闘の場ホルム・ギャンギングで戦いの最中、新しい主君のカーン・ウラディミールに勝負をお預けにされてしまったトーモッド、ジェスティン、そしてアーンナスは、心の半分をホルム・ギャンギングの輪に置き忘れたようにして戦いに加わります。荒々しい戦いの迫力ある描写は、サトクリフの独壇場でした。
 しかし、カーン・ウラディミールの戦いのキリがついたときが血の誓いが復活するときです。トーモッドはアーンナスと戦って重傷を負わせ、別の戦いの最中にアーンナスはトーモッドを殺します。そのとき足に重傷を負ったジェスティンは、その傷がもとでヴァリャーギ(異教徒)隊を退き、ミクラガルトで医者の仕事につくことになりました。医者として立っていこうと心を決めるには、ジェスティンには血の誓いがひっかかります。師のディミトリアスと娘のアレクシアは、ジェスティンの心のわだかまりをそれと察していても、詳しく聞こうとしません。身も心もぼろぼろになったアーンナスがジェスティンのところにやってきてナイフで戦おうとしたのはそんなときでした。
 一番のクライマックスは、瀕死のアーンナス(彼も血の誓いに縛られています)を前に、ジェスティンが全力を尽くして彼を助けようとするシーン。血の誓いを破っても、ジェスティンにはアーンナスの息の根を止めることができませんでした。それはトーモッドを裏切ることではありましたが、ジェスティンが医者という自分の居場所を見つけることでもありました。静かなミクラガルトの夜に、ジェスティンが静かな人生を送れるようになってほんとうによかったです。


松 ケルトとローマの息子
ローズマリ・サトクリフ作
灰島かり訳
 過酷な運命に翻弄される主人公ベリックも忘れられないキャラですが、この物語で私が一番心に刻んだのは、ローマ人の土木技師で百人隊長ユスティニウスです。日に焼けたきびしい顔と冬の北の海を思わせる冷たい灰色の目って、どんなかな?冷静沈着で情に流されることなどないように書かれていますが、どうしてどうして、部下に対してもベリックに対して見せる凛とした優しさに、いっぺんで参ってしまいました。
 荒れ狂う海から拾われたベリックは、ほんとうはローマ人でした。しかしドゥムノニー族の父母に育てられ部族の一員として成長したのに、理不尽な理由で追放されました。それが原題の「outcast」です。部族を離れるとさらに服がベリックを襲います。かどわかされて奴隷にされ、ローマで売り飛ばされ、ちょっと情け深い主人と仲間に出会ったと思ったら、冷酷無比の若旦那?に虐められるなんて、かわいそうすぎ。前半は何度読んでも、途中で本を閉じたくなる無惨さです。
 ところが、ユスティニウスに再会したときから、不幸の風向きが変わります。ベリックがどっぷりつかっている人間不信の気持ちを、ユスティニウスは「人間にもチャンスをくれないか。」と真正面から解きほぐそうとします。家族のいないユスティニウスは、かつて亡くした妻と子の面影を宿したベリックのことを他人とは思えないのでしょう。ローマの屋敷で偶然であった奴隷(ベリック)が巡り巡ってブリタニアの海辺の農場に半死半生でたどりつくなんて、赤い糸で結ばれているとしか思えないと私も納得しました。
 奴隷だっところ優しくしてくれたルキルラとヒッピアスは、ベリックのことを忘れてはいませんでした。二人が偽証してもベリックの無罪を証言してくれたことと、嵐の前に吟遊詩人リアダと愛犬ゲラートに会ったことは、少しずつベリックの氷のような疎外感をとかしていきます。前半の過酷さと後半の温かさの対比がドラマチックで、つい私はユスティニウスに再会したページから何度も読んでしまうのでした。


時代小説 闇の女王にささげる歌
ローズマリ・サトクリフ作作
乾侑美子訳
 たくさんの新刊が出た2002年のサトクリフ本の最後を飾る本です。めずらしく、評論社からの出版です。舞台となっている時代も、ローマン・ブリテン時代のごく初期で、2002年に出た物語の中で一番早い時代です。主人公のブーディカは、今までにもちらっと「ボーディッカ」の名前で姿を現していました。イケニ族は、馬を巧みに扱うことにたけていたようで、ボーディッカの厩にいた馬を祖先としている言えば、馬への最大級の賛辞でした。この本では、「ボーディッカ」ではなく「ブーディカ」という読みになっています。あとの方で出てくるローマ人の読みは「ボーディッカ」に近く、「ブーディカ」の方がケルトの言葉の読みに近いのかなと勝手に思いました。
 ブーディカが育った時代は、赤い羽根飾り(ローマ人のこと)がブリテンのいたるところで見られるようになった時代でした。物語は、女王の吟遊詩人カドワンに語られる形式をとっており、カドワンがこっそり城を抜け出した7歳の王女を見つけるところから始まります。前半は、ブーディカの成長を追い、初対面に近い若者プラスタグスとの婚約が大きなエピソードです。
 プラスタグスは、激しい気性のブーディカをよく理解し、決して自分との結婚を無理強いすることはありませんでした。馬の群れから身をもってブーディカを護ることにより、二人の絆は固く結ばれ、エスィルトとネッサンの二人の姫にも恵まれました。しかし、幸せな時は長く続かないもの、プラスタクスが亡くなるとしばらくして、ブーディカはローマ人とのトラブルに巻き込まれました。これがブーディカの叛乱のきっかけです。
 ブーディカがどうして、ローマ人に立ち向かおうとしたのか。それは愛する家族を護ろうとするだけでなく、夫プラスタクスへの思い出も影響していたのではないかと思いました。一人また一人戦いに倒れていく後半、ときおり挿入されるローマ人武官でのちに偉大な総督になったグネウス・ユリウス・アグリコラの手紙で、ローマ側から見た戦いの様子もよくわかりました。今までサトクリフの物語では、ローマ人の側に立って氏族の叛乱を読んできましたが、逆側からの物語はいっそう哀切で心に突き刺さりました。ローマ人側では必ず勝つことが心のどこかでわかっていたからでしょう。歴史の闇に葬り去られそうになったブーディカは、今民族の英雄として銅像が建てられるようになったとか。激しく生きたブーディカの名前がこういう形で残ったのは、せめてもの慰めでした。



宝物つい手が出るクリスマス本

  11月の半ばを過ぎると、街にはクリスマスグッズが花盛り。影響されやすい私は、ついクリスマス系の本に手が伸びます。

児童文学とびきりすてきなクリスマス
リー・キングマン作
バーバラ・クーニー絵
山内玲子訳
 バーバラ・クーニーの版画の挿絵と物語がぴったりあって、読むと幸せなクリスマス気分になれました。セッパラ一家は、アメリカの東海岸にあるマサチューセッツ州の小さな村に住んでいます。セッパラ家は、元はと言えばフィンランドから渡ってきた一族だそうで、お風呂のサウナの絵などにフィンランドを感じることができます。
 主人公はエルッキ・セッパラという10歳の男の子。大家族の中で育った9人兄弟の真ん中です。クリスマスが近づいたころ、悲しい知らせが一家を襲いました。長男のマッティが乗っていた船が行方不明だというのです。クリスマスになるとマッティは家族みんなに素敵なプレゼントを持って帰ってくれました。マッティの行方がわからなくなって、家族は不安のどん底へ突き落とされます。なんとか元気を出してクリスマスを迎えようとするみんなは、もみの木を取りに行ったりクリスマスのごちそうを作ったり、つとめていつもの通りに振る舞おうとしました。でも、マッティが持ってきてくれるプレゼントだけはどうにもなりません。エルッキは、自分の力でみんなにこっそりプレゼントしようと考えます。エルッキが考えたプレゼント作戦とは?
 数あるクリスマス本の中でも、こんなに晴れやかなハッピーエンドはあまりないでしょう。セッパラ家の人々の幸せな気持ちのお裾分けにあずかって、私も家族のプレゼントを考えたくなりました。


子ども天使の人形
ジェリー・ブレッドソー作
児玉真美訳
 心あたたまるクリスマス・ストーリーでした。クリスマスが近づくと、「わたし」はいつも大きな段ボール箱から古ぼけたクリスマスグッズを取り出します。赤いリボン、ひび割れたオーナメントなど一つ一つには、彼の大切な思い出がつまっています。その中で箱の一番下にしまわれている天使の人形は、50年前のホワイティとの友情の証拠になるものでした。
 ホワイティは貧しい少年で、サンディという病気の妹がいました。新聞配達をいっしょにして仲良くなった「わたし」も、すっかりサンディと親しくなりました。サンディは天使が大好きで、天使が出てくる本を読んで自分も天使になりたいといつも言っていました。ホワイティと「わたし」は、いっしょに貯めたおこづかいで家族へのクリスマスプレゼントを買いに行きましたが、天使の人形はなかなか見つかりません。ホワイティはサンディにぜひとも、天使のお人形をあげたかったのです。ふたりで知恵をしぼった結果、お店に売っている美しいお人形をバーンズさんに天使の羽をつけてもらうというすばらしいアイディアが生まれました。
 ところが、ホワイティがお人形を手に入れるまでが大変。こつこつためたお金を落として探し回ったり(ポケットの裏地に挟まっていて、見つかりました)、お目当ての人形が売れちゃいそうになったり(危ないところでセーフでした)、やっと人形を手にしてバーンズさんのところへ持っていくことができました。バーンズさんは、人形を素敵な「ちびっこ天使」に変身させてくれました。
 プレゼントの用意がせっかくできたのに、サンディは人形をもらうことができませんでした。病気が重くなって亡くなったのがクリスマス・イブだなんて、ホワイティにとっては悲しすぎるできごとでした。人形を受け取ることもなく別れてしまった「わたし」とホワイティ。人形は「わたし」が変わりに受け取って、いつかホワイティに返そうとしまってあったものでした。
 エピローグで、誰かわからないけれど、毎年クリスマスに天使の人形を子どもたちに送ってくる篤志家がいるのを聞いて、「わたし」はホワイティだと確信します。ホワイティの愛が広がっていくような心に残る結末でした。


子どもみじかい3つのクリスマス物語
ルイザ・メイ・オルコット作
清水奈緒子訳
 「女性に送る読書の花束」シリーズ第1巻。オルコットと言えば、言わずと知れた「若草物語」の作者。子どものころ世界文学全集で読んで以来すっかりご無沙汰です。端正な物語という印象はこの物語でもそのままでした。前書きを読むと、自分たちで小さな雑誌を作り始めたルークン家の5人の少女への応援の気持ちをこめて寄稿したのが、この本に収められているお話だそうです。なるほど、ちょっと道徳的とも言える展開は、いかにも啓発を目的としている雑誌にふさわしいものです。でもそういういきさつを知らないで読むと、クリスマスらしい汚れのない心が伝わってきて、やはりぴったりだなと思えました。
 「もの静かな小さな娘」、「ティリーのクリスマス」、「ローザの物語」の3つの中で、「もの静かな小さな娘」が一番長いお話です。孤児院育ちのパティがとある農家にやっともらわれて、誠心誠意務めることによって自らも幸せをつかんでいく展開は、クリスマスにぴったり。ただ内気で人付き合いの悪い娘だと思っていたマーリ家の人々が、パティのほんとうの心を知ることができたのは、クリスマスでお呼ばれに行った先のジェインおばさんの家ででした。ジェインおばさんは最初にパティに孤児院で出会い、励ましてくれた人です。ジェインおばさんは、パティと文通していた手紙をマーリ家の人々に見せ、パティがとても気高い心の持ち主だということをわからせるのでした。貧しくても心正しく生きれば必ず報われるというご教訓が浮かんできました。
 「ティリーのクリスマス」と「ローザの物語」は、とても小さなお話です。クリスマスの贈り物の話をしていて見つけたコマドリを親身に看病するティリーには、ちゃんとすばらしいご褒美が待っていますし、病気とけがに耐えながら務めを果たしてきた馬のローザは、クリスマスの夜1時間だけ人間の言葉で話すことができるのでした。どのお話もクリスマスって奇蹟を起こすためにあるんじゃないかな?と思える物語でした。ちょっとくらいの無理な設定はクリスマスだからいいいか!というわけなんでしょうかね。 


児童文学 クレヨン王国 森のクリスマス物語
福永令三作
三木由記子絵
 図書館でずらーっと並んでいるのを見かけても、つい素通りしちゃってこの本が「初クレヨン王国シリーズ」です。どうも私は他のシリーズと勘違いしていたみたいで、思っていた「クレヨン王国」とはずいぶん違いました。この物語ではクレヨンたちが直接主役になるのではなく、森の生き物たち(生き物でない物もありますが)が順番に語り手の作者にお話をプレゼントしてもらうという設定でした。クリスマスプレゼントのかわりとして・・・。
 主役が交代して綴られるお話は、どこか温かくてすーすーと引っかかりもなく読めました。主役になるのも、(ええっ)と驚く生き物(建造物?)がいくつもありました。鉄橋くんとトンネルちゃんは兄妹で、通り過ぎる電車が伝言を運びます。森なのにタコが出てきたり、なぜかデパートのエレベーター、エスカレーターとかいだんくんも登場したりします。私が一番いいなと思ったのは、「おサルのくしゃみばやし」でした。ゴルフ場ができて、とうとう最後に残ったミカン農家の源三さんもミカンの木を残し、老人ホームに入ることになりました。ほとんどのミカンの木は処分しましたが、一番甘くておいしい実がなる木だけはどうしても切り倒すことができませんでした。
 源三さんは、心残りのミカンの木を掘り起こし、根回しをしてだれにでもほしい人にもらってもらおうとします。そして源三さんはかわいがっていた山のサルたちと亡くなったおばあさんのお墓に詣で、荒れ果てた神社の床下から取り出した道具でお囃子を奏でました。相手は友達の庄さんです。それが源三さんの老人ホームへ行く前の最後の日のできごとでした。
 長い月日が流れ、ふと思い立って源三さんがあの小さな神社(八幡様)へ出かけると、ゴルフ場が大きくなって神社は影も形もありません。道に迷ってしまった源三さんの前に姿を現したのは、山のサルでした。サルのあとをついていって源三さんは思いがけないものを見て聞いたのでした。
 どのお話も温かい結末で、クリスマスにぴったりの和風のお話でした。後書きを読むと、この本の物語は教育テレビの「お話出てこい」向けに書かれたとか。あの番組は、密かにファンだったんです。福永作品とは初対面ではなかったことがわかりました。


児童文学クリスマスのようせい
ルーマー・ゴッデン作
久慈美貴訳
 「四つの人形のお話」シリーズ第2巻。主人公のエリザベスは末っ子でした。8歳のクリスタベル、7歳のゴドフリー、6歳のジョージーは、みんな4歳のエリザベスに命令するばかり。上の三人はみんななんでもほいほいこなすのに、なぜか末っ子のエリザベスだけはへまばかりしていました。
 自転車にいつまでも乗れないことにしたって、のろまだとか、カメだとか、あかちゃんだとかぼろくそにののしられます。しかし、結局何もできなくてエリザベスは涙にくれるしかありませんでした。あるクリスマス、エリザベスはツリーのてっぺんを飾っているきれいな妖精人形を見つけます。妖精人形はまるで生きているかのようで、ときおり杖がふるえて何かがおこるようです。
 次の年のクリスマス、ひいおばあさまがいらっしゃいました。心をこめておもてなしをしようと思ったのに、またまたエリザベスはクリスマス・ローズの花かごを取り落とすというヘマをしました。それを見ていたひいおばあさまは、エリザベスに「お守りの妖精」としてツリーのてっぺんの妖精を渡してくれました。妖精人形は、エリザベスといつもいっしょにいることになったのです。
 その時以来、エリザベスが何か困ったことにぶち当たると、心の中で「ちーん、○○」とだれとも知れない声が教えてくれようになりました。苦手だった七の段もすらすら言えるようになったし、自転車だって乗れるようになりました。妖精人形いっしょにいることになってから、エリザベスはドジばかりの人生とはおさらばできたのです。
 上の兄妹から虐げられてばかりのエリザベスが、思いがけず妖精人形の力を借りて、次第に自信をもっていけるところがよかったです。自分の力で生きていけそうになったとき、ふと妖精人形が見えなくなってしまいます。エリザベスはがっかりしますが、それがまたあらたな成長のきっかけでした。妖精人形に再び巡り会う結末がとても心に残りました。


児童文学 いそがしいクリスマス
マージョリー・W・シャーマット、クレイグ・シャーマット作
マーク・シマント絵
神宮輝夫、内藤貴子訳
 「めいたんていネート」シリーズ。ぱあっとした赤が基調の表紙にはクリスマス気分がいっぱい。あまりの絵のかわいさについ手に取った本です。
 ネートは9歳。自分のことを名探偵だと信じている少年です。彼が雪かきの時にかぶっている帽子は、あらら、シャーロック・ホームズがかぶっていた帽子と同じではありませか!すっかりその気になってるなぁ。
 ネートが犬のスラッジといっしょに雪かきをしていると、向こうから怪しい影が。鈴のついた首輪をしたファング(犬)と飼い主のアニーです。アニーはファングをせいいっぱい飾り立てて、「大きなようせいみたい」だと自慢げです。でも絵を見ても、ネートの白い眼を見ても、ちっとも妖精という気がしません。アニーときたら、いかにもおてんば娘だし、ファングは妖精になんかなりっこないのです。
 アニーはファングをつれて、ネートに頼み事をしに来たのでした。それは毎年送ってくれるファングのお母さんからのカードが届かないのはなぜ?という謎です。ネートはこういうどーってことない事件でも「この事件、引き受けよう」と手抜きをせず謎解きに励みます。
 とにかく、絵がかわいい。かわいく見せようとするかわいらしさではなく、さりげなく子どもや犬を描いていて、一度見たら忘れられない絵でした。「名探偵コナン」的に、自分の力をただ一つのたよりに、謎を解き明かしていくシーンは、いじらしくなってしまうくらいです。ネートとスラッジはどんなクリスマスを過ごすのかな?


宝物この季節になると読みたくなるクリスマスの本

  何気なく借りた本が、なぜかこの時期はクリスマス本。別に信仰心があついわけではないのに、なぜでしょう。家にはクリスマスの飾り付けだけはしっかりしてあります。

児童文学聖なる夜に
キャサリン・パターソン作
ゆあさふみえ訳
 クリスマスに題材をとった8つの短編が収められています。「空き部屋なし」、「スター・レディ」、「主のしもべ」、「子羊に罪はない」、「よい子バッジ」、「ミッドナイト・クリア」、「その世のことを、夜警は語った」、「かたくなな愛」のどれもが、単純なクリスマス・ストーリーではなく、一ひねりも二ひねりもしてあって、さすがキャサリン・パターソン!と感心しました。
 両親の旅行で解放感いっぱいの「ぼく」は、民宿(みたいな小さなお宿)に「満室」の札をかけてるんるんとテレビの前へ。そこへやってきたのはみすぼらしい男でした。ガレージの隅でとめてほしいという男には家族がいて、「ぼく」はだんだん泊めてほしいという男の願いを断り切れなくなります。「ぼく」の断ろうとして断れなくなる過程が、私の冷たい心をちくちくと責めさいなむようでした。
 もっとひねった結末は、「主のしもべ」。牧師の娘のレイチェルは、クリスマスの劇でマリア様の役をもらいたくてたまりませんでした。弟が嬰児のイエス様の役だったからです。でも、マリア様はキャリー・ウィルソンの手に渡り、レイチェルはオールラウンドのピンチヒッター。がっかりです。ところがキャリー・ウィルソンが骨折して、マリア様の役はレイチェルに回ってきたかのように見えました。当日衣装にギブスを隠して演じたキャリー・ウィルソンにとんでもないハプニングが起こったとき、レイチェルがしたことは?技ありの笑える結末に、「悪童ロビーの冒険」を思い出しました。
 もう一つ「よい子バッジ」も、忘れられないお話です。ガールスカウトでよい子バッジをもらうために、老人ホームを訪問したケイトは、ミルドレッドというおばあさんと友達になります。しかし、老人ホームにはステッキとあだ名される冷酷無惨で無愛想なおばさんがいました。ミルドレッドとケイトは結託してステッキに立ち向かいます。最後の晴れやかなハッピーエンドの深みは、パターソンならではでした。子どもの本棚にありましたが、人生を重ねた大人が読むとしみじみ笑えたり感動したりできる本です。

 


児童文学113びきのねこのてがみ
ビル・アドラーbん
ポール・ベイコン絵


掛川恭子訳
 タイトルの通り、113びきのねこがサンタクロースに書いた手紙が集められています。(どうやって集めたのかな?)どうやらニューヨークのねこたちから集めたらしく、アメリカ人(ねこ)らしい名前ばかりです。これが日本なら、「タマ」とか「みけ」とかになるのかもしれません。
 ねこにも性格がいろいろあるようで、手紙もねこそれぞれなのがおもしろかった。ちょうど「ルドルフとイッパイアッテナ」シリーズを読んだところで、トップバッターの手紙が、ルドルフのものだったのが、偶然以上でした。ルドルフの手紙の内容が、サンタさんにトナカイをやめてねこを使うようすすめるというのも、あのルドルフが考えそうな気がしました。確かに、トナカイよりねこの方が食べる量が少ないしおともがネコだったら子どもたちがお菓子を出しておいてくれるという指摘は、ごもっともです。賢いなぁ。
 中にはネコの態度のでかいおやじもいて、「12年貯蔵熟成、一地域のみで手摘みの上物イヌハッカ2をもらいたい。口当たりよく、芳醇な香りを有し、腰のある辛口のやつをたのむ。」だなんて、ウィスキーに変えれば人間のおやじにそのまま当てはまります。名前も「ジーン・クロード」とえらそうです。
 私が選んだ一番痛快な手紙とかわいい手紙は、
「サンタクロースへ けちなまえは、二度とするなよな。こんどのクリスマスも、ひもをまるめたボールだなんて、ごめんだからな。あんたの友、ジェシーより」と「サンタさま ぼく、今年は、いい子にしていたからね!だれもおしえてくれなかったかもしれないからいっとくけど、ご主人が飼っているインコなんか食べなかったよ。よだれがでるほどおいしそうだったけど。 シルベスターより」です。こういうねこを飼ってみたいなぁ。


その他アンのクリスマス
ルーシー・モード・モンゴメリ作
リー・ウィルムスハースト編
片岡しのぶ訳
 「赤毛のアン」シリーズの数あるお話の中からクリスマスに関係のある物語を集めてまとめたのが、この本です。アンが直接出てくるお話もありますが、アヴォンリーなどに住むアンの知り合いが出てくるお話の方が多くおさめられています。
 最初のお話は、これをはずしたら赤毛のアンのクリスマスじゃなくなるというくらい有名で心に刻みつけられるお話です。それは、無愛想な服しか持っていないアンに同情したマシューが、悪戦苦闘してアンに素敵なドレスを贈るという超有名なシーンです。もともと「赤毛のアン」の登場人物の中で、マシューとマリラが特に好きな私には、うれしい始まりでした。他にアンが関わるクリスマスでは、「アンの幸福」から同僚の喜びをどこかに忘れてきてしまったようなキャサリンをアンがアヴォンリーに招待したクリスマスです。温かい心にふれたことのなかったキャサリンは、このクリスマス休暇でいっぺんにアンと親しくなりました。
 「アン・シリーズ」でとばせないのは、アン以外の人々が出てくる短編だと思います。14のお話の中で、義絶状態だった親類同士、親子同士が、お互いのいいところを認め合うようになるクリスマスという設定がいくつも見られました。特に偏屈で名をとどろかせている伯父さんがあんまりみじめなお正月とクリスマスを迎えそうなので、彼が出かけた隙に家に忍び込んで、ごちそうを作るります。もちろん、それが雪解けのきっかけとなるのです。伯父さんが、喧嘩別れしたままの友人だったりもしますが、すべてがハッピーエンド、ウルトラワンパターンで、「寅さん」映画を見ているような気がしてきました。
 でも、そういうクリスマスに幸せになる物語を読むと、どんなに同じようなお話でも自分も幸せになってくるような気がするから不思議です。高校時代から、苦しいときについ逃避するのが「赤毛のアン」シリーズだったのは、ここら辺に理由があるのかもしれないなと、やっと気が付きました。


パレット クリスマスの歌
望月通陽作
 木目地のバックに渋い色で型押しされたような挿画も、装丁も、もちろん収められているクリスマスの詩も、すべて見事に調和して、どこからか格調高いクリスマスの音楽が聞こえてくるような絵本です。どの詩も、もとはイギリスやフランスに伝わる賛美歌だったりキャロル(祝歌)だったりするので、きっと音楽とともに唄われるものでしょう。歌を知らないのがちょっと残念ですが、詩だけ読んでいても、心安らかな気持ちで読めました。
 喜びとお祝いの気持ちを体で表している人型は、紺色。教会や天使や木々は鶯色で、そのほかはシックな橙色という様式美を感じさせるシンプルな絵です。望月通陽さんの絵は、とにかく曲線ののびやかさと温かみが特徴だと思います。この絵本でも、丸っこい形が目を和ませてくれます。
 たった一つだけメロディーを知っている歌がありました。「諸人こぞりて」です。ただ、こうして詩の形で見ると改めてこういう荘厳な歌詞だったことに驚きました。「悪魔のひとやを うちくだきて 捕虜(とりこ)をはなつと 主はきませり 主はきませり 主は、主はきませり」という2番、知らなかったなぁ。日頃不信心な私も、クリスマスの素朴な神髄にふれた気がしました。


パレットながれぼしをひろいに
筒井頼子作
片山健絵
 片山健さんの絵も、大好きです。クレヨンでさっさっと描いたような線で形作られるかわいい子ども。雪や風の透明感まで伝わってきます。
 みふでは、クリスマス・イブの夜流れ星を見ました。それは、大きな赤い流れ星で、「すいどうやま」に落ちていくのがはっきり見えました。あまりのきれいさに目がさめたみふでは、流れ星をサンタさんのプレゼントにしようと思い立ちました。きっとみふでは自分ばかりプレゼントをもらって、サンタさんにも何かあげなければかわいそうと思ったのかもしれません。みふでは、子どもらしいやさしい(見た目も素朴な)かわいい子なんです。
 寒い夜なのに、みふではこっそり家を抜け出してすいどうやまへと向かいます。途中、白い子猫を道連れにして一路すいどうやまへ。雪だるまや風、枯れ草と言葉をかわします。意地悪だったのは、カラス。まるで悪魔の化身のように立ちふさがります。カラスは、流れ星を拾ったら自分に渡すよう、みふでを脅します。帰り道はカラスの見張るこの道を通らなければ帰れないからです。見るからに大きくて性格が悪そうで、迫力満点。夜道でこんなのに出会ったら、涙の一つも出てきそうです。
 しかし、最後は一発逆転!みふでの見た赤い流れ星の正体は、クリスマス・イブならではのものだったのです。カラスの道も通らずにすみ、みふでのクリスマスは幸せいっぱい。世慣れた大人の私は、ひょっとして眠いのをこらえて赤い流れ星を見つけたところから、みふでの夢の中のできごとだったりして・・・と、ついかわいくないことを考えました。だから、想像力のない大人は困ります。


児童文学 千年ぎつねの秋冬コレクション
斉藤洋作
高畠純絵
 「千年ぎつねの春夏コレクション」の続刊。もちろん、千年ぎつねと三百年ぎつねと2ひきの二百年ぎつねの秋と冬のお話です。高畠純さんのとぼけた挿画と、ハンモックでお昼寝が大好きな千年ぎつねのふざけたキャラがぴったり合って、「春夏」を読んでから「秋冬」を読むのを楽しみにしていました。
 秋は、「千年ぎつねの赤い山」。紅葉した山と山火事の山をかけて、千年ぎつねが火消しに大活躍。人間たちの消防を待っていては山が燃えてしまうと、千年ぎつねは天がける竜に化け、湖の水をはきだして火を消します。半分燃えてしまった山がときどきもとどおりに見えるのは、千年ぎつねが化けているというオチも、おもしろかったです。
 そして冬は「千年ぎつねのクリスマス」。これだけ見事なお手並みの千年ぎつねなんだから、どんなクリスマスを見せてくれるのか、楽しみにしていました。もちろん、修行中の二百年ぎつねと三百年ぎつねの愉快な場けっぷりも含めてです。二百年ぎつねや三百年ぎつねがお札を作ってもすぐに気のはにもどっちゃいますが、千年ぎつねだと10年はもつというのも、笑えます。ちゃんと「十年ばかし」という立派な名前もついているのですから。
 しかし、二百年ぎつねたちもさるもの。そろそろクリスマスバージョンで千年ぎつねが人を盛大にばかすのが見たいと思っても、口には出しません。わざと離れて、さくらや小屋や岩に化けているのがかわいらしい。千年ぎつねもそのいじらしさにほだされて?、町に出かけることにしました。いっしょに来るように言ったわけでもないのに、逆走するバスとか、振り袖のおねーさんの暴走族とか、ハンドルがおかしいバイクとか、けったいな見せ物がちゃんと見えました。もちろん、二百年ぎつねたちがついてきたのです。すぐにばれて、定番のおじいさんが3びきの犬をつれて散歩している図に早変わり。
 クリスマスツリーを見ていた男の子たちが「サンタクロースなんて、いない」と言い切っているのを見て、千年ぎつねの意地がむくむくと頭をもたげます。そう、今回はサンタに化けることにしたのでした。その化けっぷりは?お話の枕の部分で出てきた「十年ばかし」が最後にちゃんと生きてくるのには、心がすーっとしました。


宝物安野光雅の本
  学生時代から、数学の香りがする安野光雅本が大好き。おそらく数学が苦手なコンプレックスの裏返し?文章も絵も不思議な整合性にしびれる私です。

パレット旅の絵本3
安野光雅作
 イギリス翻訳児童文学に好みが偏っているせいか、「旅の絵本」シリーズの中でダントツで、この第3巻が気に入っています。旅人がボートでこぎ寄せたのは、どうやらイギリス。ピーター・ラビットみたいなウサギがこっそりお出迎えです。馬を借りた農家の裏では、「宝島」のシルバー船長?がなにやら仲間と密談しているし、ストーン・ヘンジのそばではジャックが巨人に追いかけられています。きっと私が気づかない物語がまだ隠れているんでしょうが、まだまだ修行不足を痛感します。
 メイ・ポールのお祭りに、グリニッジ天文台。村から町に入ると、そこここにユニオン・ジャックが見えます。広場には、イギリスの生んだ偉人の似顔絵が並んでいて、エリザベス女王、シェイクスピアなどの顔が見分けられました。ウィンザー城の城壁では、騎士たちが戦っていて、おお、これはリチャード王かアーサー王かとわくわくします。
 町を抜けて、また田舎道にさしかかると、ネッシーの影が見え、クマのプーさんがミツバチのかごを開けています。ああ、もっと英国文学を知っていたらこの絵本にかくされたからくりがもっと楽しめたのにと、いつも思います。それは、他の「旅の絵本」、イタリア編やアメリカ編でも同じことです。ただ、思い出したように本棚から取り出して眺めると、今まで気づかなかったキャラが見つかり、うれしくなるのです。


パレットがまの油
安野光雅作
 安野光雅の絵本には、西洋の香りと明治の香りと数学の香りがします。西洋にあこがれ、明治を懐かしみ、数学に劣等感をもっている私にとって、あこがれの対象を3つ並べられてようなもの。その中でもこの本は、西洋と明治の香りが複雑に絡み合って、強烈に印象に残った本です。
 まず文体が、擬古文調。安野さんは、かねてから森鴎外に傾倒し「即興詩人」の引用がそこここに現れます。何を隠そう、私もその影響で慣れない岩波文庫の上下巻をせっせと読み通しました。慣れればなんとか読めるようになり、華麗な擬古文をじっくり味わいました。「がまの油」も「即興詩人」を連想されるような文体で、仮名遣いも漢字も擬古文にそろえる懲りようです。
 和風の切り絵のバックにアルファベットをあしらった不思議な和洋折衷の絵本は、読むとがまの油の口上をマッチ売りの少女が述べるという設定です。舞台はアンデルセンの故郷デンマーク?、雪の中やってきた少女は、東洋はじゃぱんから来たる膏薬を売って、病気の父親を養っています。カタカナを全く使わない少女の口上は、デンマークにいるのか明治時代の日本にいるのか、一種異様な錯覚を覚えます。
 乙女の声を聞いて登場したのは、冬の魔王。あらら、ますます西洋的になってきました。錯覚を楽しみながら絵にみとれて読んでいると、古き良き時代のアンデルセンと森鴎外がお友達になったような気がしてきます。結末がいかにも「マッチ売りの少女」らしいのがかわいそうですが、これはこういう終わり方をしなければ収集がつかなかったんでしょうね、きっと。ずっと前、東京に出かけたとき偶然見つけて、大枚をはたいてゲットした記念すべき?本なんです。


パレットふしぎなえ
安野光雅作
 私の初安野光雅本です。この本を手にとって、すっかり錯覚のおもしろさにはまってしまいました。それ以前からエッシャーのだまし絵が好きだったのも影響していたのかもしれません。エッシャーの絵は、白黒のコントラストがきつくてちょっと恐いような図柄もありますが、安野光雅さんのだまし絵は、小人やトランプが出てきて妖精の世界を垣間見ているようにいつまでも飽きません。
 内部を細かく描かれた農家は、なぜか天井と床が反対になっています。小人たちが床にしているのが天井で、絵の床が小人たちの天井になっています。子どものころ寝る前に天井を見ながらこちらが床だったらおもしろいな、あの部屋の境目をまたいで、階段を雲梯みたいによっこらよっこらのぼらないと下の部屋にたどりつけないんだと空想しながら眠りについたことを思い出しました。
 歩道橋の工事の絵は、左右の階段が裏表になっています。これこそ、エッシャーの階段と同じ。いつの間にかあちら側とこちら側の両方で工事が始まっています。真ん中の手すりをつけようとしている小人の顔がどことなく困っているようなのが、おもしろい。同じようなだまし絵は、お城のペンキ塗りの絵も出てきます。
 最後の水道の蛇口から出てきた水が流れていく先がまた水道の上流だったという町の絵。この絵本が気に入ったのでプレゼントした友人が、「この水道は、水を出しているんじゃなくて、吸い上げているんだ」と解釈したものでした。そうか、そうやって見るとつじつまは合うなと納得したのが昨日のことのようです。遙か昔、絵本に素直に感動できた高校時代のことでした。


パレット 壺の中
安野雅一郎作
安野光雅絵
 子ども向けに書かれたシリーズ「美しい数学」第4巻。何を隠そう、私の学生時代の最大の苦手科目は数学でした。考え方が嫌いではないんだけど、なにしろ才能がないもので、お勉強しても成果が上がりません。地下鉄の中でちょいちょいとノートを読んでいった古典と、毎日苦しんでお勉強を積み重ねた数学を比べて、ずっと古典の方が点がいいというのは、今でも劣等感のルーツです。
 安野光雅本には、美しく整った数学の香りがします。この本は、ご子息(理工学部卒業だそうなので、数学の達人ですよね)が本文を担当しているので、親子で作った絵本です。一つの壺の中に、広い海があり、海に浮かぶ1つの島には2つの国があり、それぞれの国には3つの山があり、山には4つの城があり・・・とずーっと続いていきます。前半は、絵で描かれていたページが、後半は赤い点がどんどん増えていきます。海、島、国、山、城・・・とどんどん増えていく数を表している点です。つまり、この絵本の数学的テーマは「階乗(!)」といえるでしょう。
 この絵本を見ながら無限に広がる数に思いを馳せるのは、広い宇宙を眺めているような気がします。ずーっと後に長野県を旅行したとき、旅先の絵本美術館で、この絵本に出てくる壺のレプリカを見つけました。今はうちの本棚に大事に飾ってある壺。この壺の中には海があって、無数の数が広がっているのかもしれないと思うのが、ちょっとした心の秘密?です。


パレットイギリスの村
安野光雅作
 ずっとアサヒグラフにずっと見開きで連載されていたこのシリーズを、ずっと楽しみにしていました。イギリスだけでなく、イタリア、スペイン、オランダなど、ヨーロッパの国々の風景を爽やかな筆致で切り取った絵と、味わい深い文がベストマッチで、せっせと切り抜きスクラップしたものでした。
 その中で特に気に入っているのが、この「イギリスの村」です。ビーブリイの領主館から始まって、イギリスをぐるーっと一巡りする旅路は、また最後にビーブリイにもどってきます。そこは落ち着いたイギリスの村。イギリスならではの鄙び方?!が伝わってきます。日本のド田舎も日本固有の鄙び方があるように、イギリスの村にも独特の雰囲気があるようです。もっとも、近頃の日本の田舎は、よほどのことがない限り鄙び方のポリシーがなくなっていますが。
 イギリスの文学を読んでいるとコッツウォルズヘースティングスとかいろいろな地名が出てきます。この物語で運良く心に引っかかっていた村(町)の絵をいくつか見ることができました。どの絵も建物は焦げ茶が基調になっていて、なぜか日本の町で見られる看板がありません。安野光雅さんが意図的に描かなかったのか、初めからイギリス人の美意識で看板なんか存在しないのか、どちらかなと不思議でした。いつか自分の目で確かめるためにイギリスをぜひとも訪れたいものだと強く思います。
 このシリーズの悲しいのにうれしいのは、作者の目を感じながら旅をしているような気がすることです。見知らぬあこがれの土地を知るのはうれしいけれど、自分がしっかり日本にいることに思い至るとふと悲しみが蘇るのでした。


その他 ZEROより愛をこめて
安野光雅作
 亡くなったお父さんの友人が高校生の「順君」に書いた手紙という設定のこの本は、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を踏襲していると作者自身が最初の手紙で告白しています。私がこの本を読んでからまずしたことは、「君たちはどう生きるか」を書店で探したこと。なるほど、潤一君におじさんが語りかける設定になっていました。
 順君に語りかけるようでいて、その実は世の若者たちに語りかけているだろう作者の語り口は、ときに温かくときにアイロニーに富んでいます。初めて読んだのは、まだ単行本化される前の、雑誌「暮らしの手帖」ででしたが、いくつも心に残っている話題があります。
 一つは、「泣いた赤鬼」と「走れメロス」の美談の真相を語ったこと。内緒の話ですが、私は教科書でも読んだこの2つの物語がかなり嫌いでした。なぜと聞かれても困りますが、強いて言うなら「わざとらしいから」かなと思っていました。作者は「泣いた赤鬼」の青鬼の手口をやらせと断じ、メロスが友人を人質にして妹の結婚式に出席して帰ってくるのは当たり前だと言い切ります。そう、そうなの!メロスなんて自分で蒔いた種を刈り取っただけなのに、どうしてああ大げさに美談化されなければならないんだろうと、中学生のころこっそり思っていました。まさか大声でメロスは馬鹿だとは言えないので、(くだらない話をくどくどとお勉強するんだなぁ)と教科書会社の人を密かに馬鹿にしていたのでした。道徳の本に載っている「泣いた赤鬼」も同じです。 作者がはっきり書いたことは、私の心の中でくすぶっていたことが形になったもので、ひねくれているのかもと思っていた心の重荷をおろした気がしました。「ベニスの商人」でも敵視されるユダヤ人のシャイロックの側で論じているのは、視点を180度展開して新しい視野が開けるようでした。
 後半には、作者自身の思い出も語られます。小学校の教諭をしていたとき、水飴を作ろうとして果たせなかったこと、自分の父親が初めて息子に謝ったときのことは、他の安野作品でも読んだ覚えがありますが、やはり手紙の中の一節として読むと、いっそう心に刻みつけられるようでした。もはや大人になってしまった私でも、ふと心にとめる言葉の数々は、数学者の目を基調に冷静に書かれています。ほんとうに高校生ぐらいの若者にときどきこういう手紙が届いたら、人生が変わるかも知れないなぁと思いました。



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