時代小説あい
高田郁作
 副題「永遠に在り」。医者で、斗満(トマム)開拓に身を投じた間寛斎と妻のあいの人生を、丁寧に追っています。主人公はあい。もとは九十九里浜近くの貧しい百姓の家に生まれ、親戚筋の寛斎の妻になってからも、苦労続きですが、持ち前の明るい人柄で寛斎をずっと支えていくあいの姿が、とにかくまぶしいです。
 あい自身が寛斎と同じく、高潔な善人であり、思い合った夫婦が困難な道を突き進んでいく展開なので、苦労が偲ばれようが、結局はまぶしさが減ることはありません。寛斎は百姓の家に生まれたものの養子に出され、その先があいの叔母の年子の家でした。才能を認められた寛斎は、医学を学び、濱口悟陵の知遇を得ることになりました。濱口悟陵は、「いなむらの火」の逸話で知られる人物で、和歌山の広村を津波が襲った時、積んであった稲穂に火を付けて人々を救いました。彼の偉大さは、銚子で醤油製造業を営み、その利益で広村に堤防を築いたり、津波で職を失った人々に仕事をもたらしたりしたことです。今は小学校の教科書にも載っている濱口悟陵が、間寛斎とあい夫婦と親しかったと知り、なんだか急に身近になった気がしました。
 銚子から徳島藩の御殿医となり、それから明治維新。誠実な人柄で、栄達の道を片っ端から断ってしまう寛斎の不器用な生き方に、あいは人としての真面目な生き方が「永遠に在り」と深い理解を示します。家族の間ですったもんだがあり、11人の子どものうちの半数を病気で亡くすなど、不幸も数知れずあったけれど、何よりも夫婦で苦楽をともにして、同じ志を持って日々を過ごしたことが、清々しい結末につながっていると思いました。まぶしすぎて、何だか人ごととしか思えないお話でしたが、それが高田郁氏のもちあじかもしれないと感じました。


児童文学アイアンマン
クリス・クラッチャー作
金原瑞人・西田登訳
木村タカヒロ装画
 副題「トライアスロンにかけた17歳の青春」。主人公のボーリガート・ブルースターは17歳の高校生で、トライアスロンのレースに出場するために日々鍛錬を欠かしません。彼が目指しているのは「ユーコン・ジャック」というレースです。バイク(自転車)、マラソン、水泳と一つだけでもできそうにないのに、3つセットのレースだなんて、選手は人間を通り越して神様のような存在に思えます。もともとフットボールの選手だったボーリガートが「アイアンマン」になったのは、監督のレドモンドとトラブったから。レドモンドは例語の授業でもボーを侮辱し、売り言葉に買い言葉でボーは彼を「腰抜け」と言い返してしまいます。
 停学寸前になると罰として「短気矯正クラス」に入れられるというのに、まず驚きました。アメリカの高校のシステムと日本の学校のシステムの違いを強く感じるのは、こういうところです。「短気矯正クラス」では、メンバーが自分の経験を発表し合うことで、少しずつぶち切れないように性格を直していこうとします。こういうクラスに回さてくるメンバーは、予想通りとても個性的でした。一人一人が重く深い家族の悩みをかかえていて、共感し合えることがいつの間にか友情が育っていった原因だと思いました。
 クラスの他のメンバーほど深刻ではないけれど、ボーもまた支配欲のかたまりのような父親の確執に悩んでいました。読めば読むほど、ルーク(ボーの父)の異常さにいらいらしてきました。息子を自分に屈服させるためならどんな汚い手をも使う姿は、なぜそこまでして息子に頭を下げさせたいのだろうかと空恐ろしくなりました。ボーを「短気矯正クラス」に送り込んだレドモンドからも情報を収集し、ボーの宿敵でものすごく性格が悪い大学生イアン・ワイアットたちに肩入れします。
 ボーが自分を失わずにいられたのは、短気矯正クラスの指導者ナック先生とシェリー(クラスのメンバーでボーのカノジョ)のおかげでしょう。ナック先生は日系人で、どういうわけかカウボーイのような格好をしています。ナカタニ・ノボルという名前はとても親しみやすく、彼がささくれ立ったボーの心をうまくときほぐすと、自分のことのように誇らしくなりました。こういうのを愛国心?というのでしょうかね。
 シェリーは、おそらくボーよりもずっと格闘技に長けていて、くだんのイアン・ワイアットをこてんぱんにたたきのめしたほどです。シェリーがついしてしまった賭け(ユーコン・ジャックのレースで、イアン・ワイアットたちが3人でかかってもボーに勝てなかったら500ドル払う)こそが、後半の興味の焦点。気が付けば短気矯正クラスのメンバーは、ボーを勝たせるためのチームになっていました。ルークが5000ドルもするバイクを敵方に無償で提供したことも、ますますボーたちを団結させいよいよ当日は・・・?
 ボーに関わる大人たちも、重く苦しい過去(や現在)があって、人は苦しみながら成長するものだとあらためて認識しました。思いがけず短気矯正クラスに入れてもらったことで、ボーが大きく成長しかけがえのない仲間を得ることができて、ほんとうによかったです。


子どもアイアン・マン
テッド・ヒューズ作
神宮輝夫訳
茂利勝彦絵
 とにかくスケールの大きいお話でした。突然現れた鉄の男。なんでこいつがこんなところにいるんだ?と思っても、そういうちっぽけなことにはまったく頓着しません。鉄の男は一度は崖から落ちて壊れますが、すぐに自分で修理して再生します。彼が海に入って向かった先は?ですが、鉄の男を見つけたのは農家のホガース少年でした。
 村の人も驚いた鉄の男を、ホガース少年は計略を使って穴に落としてしまいます。しばらく鉄の男は埋まっていましたが、ある日突然地面の中から復活します。鉄の男の食べ物は、くず鉄などの金属でした。ホガース少年たちが鉄の男をくず鉄置き場に連れて行くと、鉄の男の目はうれしそうに青く輝きました。
 そんなとき、空に不可思議な星が現れ、黒い巨大な竜「スペース・パット・エンゼル・ドラゴン」が地球を襲いました。人々は、化け物のようなドラゴンになすすべもありません。ホガース少年が思いついたのは、おいしそうに古ストーブを食べて大きくなった鉄の男のこと。鉄の男にドラゴンをなんとかしてもらったらいいのです!ばらばらに解体されてオーストラリア(ドラゴンがいるところ)に運ばれた鉄の男と、ドラゴンの戦いの帰結は?あまりに意外なドラゴンの秘密にびっくり。さりげなく平和への願いをこめた結末が、心にしみました。


子どもあいうえおにぎり
ねじめ正一作
いとうひろし絵
 いとうひろしさんの挿画は、からっとしているところが大好きでした。おにぎりがおにぎりを食べようとしている不思議な表紙に驚いて手に取ってみると、言葉遊びの詩集でした。名前は知っていましたが、ねじめ正一さんの本をまともに読んだことがなかったので、へぇーこういう文章(詩ですが)を書く方だったんだぁと新鮮でした。
 もともと詩は苦手だけど言葉遊びが好きなのは、ウェットがいやでドライが好きという好みの問題です。声に出して読むと楽しい詩は、お風呂で暗唱したい気分でした。(しませんが)
 いろいろな詩が入っているなかで目を引くのは、「あいうえお」や「いろはにほへと」の詩が多いこと。「あいうえおにぎり」、「あかさたなはいそう」、「いろははなびろけっと」がそうです。でも「はなびろけっと」って何かな?詩を読むと宇宙の彼方まで飛んでいける万能のロケットだということがわかります。
 すぐにおぼえちゃったのは「わに」。「わには わになって ワルツをおどったら わきばらいため わらえずうごけず わにははにわ」です。ふふふ、最後の2行「わらえずうごけず わにははにわ」というところが好き。「わにははにわ」って見たとおりの回文です。笑えず動けずうううと困っているわにが埴輪のように固まっているところを想像すると、笑えてしかたがありませんでした。勝手に想像して元気になれる詩です。
 もう一つ、「ぎっくりごし」もおかしい。「ぎっくりごしの おじいさんが じっくりこしをなおしたら じっくりごしになって あんしんしていたら びっくりごしになって ゆっくりあるいていたら しゃくりごしになって しゃっくりとまって おさけのんだら とっくりごしになった。」って、とっくりごしって何かな?「○っくり」という言葉が動き回って目に浮かんでくるところが好きです。これでお風呂でぶつぶついえそうな詩が二つできました。


児童文学IQ探偵タクト
深沢美潮作
迎夏生絵
 副題「密室小学校」。(密室殺人か〜)と思ったら、第一から第三までいろいろな密室が出てきますが、それほど深刻な事件はありません。小学生離れしたイケメンの探偵、渋沢拓斗は、頭脳明晰かつ美少年。身長が170pもある小学6年生なんて、(ほんとうにこの世に存在するのかしらん)とふてぶてしいくらい落ち着いた態度とともに、ありえないと思いながら読みました。一方、ヒロインはコメディー系で、小学5年の折原未来は、拓斗にあこがれる新聞部員ですが、美人でも頭が特別切れるわけでもなさそうです。頭脳も美しさも拓斗に集中しすぎて、未来はただひたすら凡人の道を進むしかないと知れました。
 「第一の密室」では、体育準備室(器具庫のこと?)で男の子がぶっ倒れているのに鍵がかかっているという仕掛けです。大騒ぎするものの、拓斗にかかれば至極当たり前の推理が披露され、(なんだ、それだけのことで騒いでいたのか・・・)と一瞬で冷静になれました。「第二の密室」では、一人でにピアノが鳴り出すだけ。おおっ、このお話には学校が舞台の密室殺人があったわけではなさそうだと、血みどろが嫌いな私はほっと一息つきました。種明かしがされてみれば、(な〜んだ)と肩すかしをくらった気分になるのは、いつももっと大がかりな仕掛けの「密室」話ばかり読んできたから。本来あるはずの「密室」とは、この程度なのかもしれないなと、妙に納得しました。
 だいたい、台風が近づいていて、学校の近くに堤防が決壊する恐れがある川が堂々と?流れているのに、学校に子どもたちが登校してくるということ自体、あるはずがない設定です。刻々と近づく台風に、家に帰ることもできず、学校で様子を見るなんて、こういう嘘くさい設定ですべてが虚構そのものに見えて、ざ〜っと盛り上がったおもしろさが冷めました。な〜んだ、所詮、IQ探偵もこの程度の虚構の中のキャラなのね〜。まさか、子ども向きだから、ちょっとした道具立てを手抜きした・・・なんてことはないと信じたいです。


児童文学IG探偵タクト 桜の記憶
深沢美潮作
迎夏生絵
 小学5年の折原未来が巻き込まれた?事件を、小学6年の美少年にして頭脳明晰な渋沢拓斗が見事に解決する物語です。しかし、殺人事件や誘拐事件が起きるわけではなく、よくあるのは「ダンジョン」探検。「ダンジョン」とは、地下牢のことだとか。この物語では、地下牢というよりも防空壕というのが正解だろうとつっこみたくなりました。
 終戦記念日になぜか咲く桜の古木は、「弔い桜」と呼ばれています。弔い桜のそばに出る幽霊を「桜幽霊」というとか。ちょっと、言葉を造りすぎ。妹思いの龍一がバンド仲間とタクトを招いてした花見が、とても楽しそうでよかったです。未来の家族がうまくいっているのは、ひたすら龍一のおかげだということがよくわかりました。仕事人間の両親に悪気はないけれど、家事一般特に料理を取り仕切っている龍一は、いつの間にか家族の中心です。そそっかしい妹(この手のお話のヒロインにによくあるタイプ)も兄には一番頭が上がりません。
 弔い桜のそばで、愛犬ノエルが行方不明になっちゃったのが、地下壕に迷い込むきっかけでした。分別をなくした未来がまず地下の穴に降りて、やむを得ずタクトもはしごを降りると、よくあるパターンで最後はどっすん・・・ということになります。骸骨でも出てくるのかな〜と思ったら、それは「インディ・ジョーンズ」や「ハムナプトラ」シリーズに毒されているから。出会ったのは、彼女に振られたばかりの売れない美大生でした。
 弔い桜の下には、避難していた誰かが書いた壁画がありました。それは戦時中したくてもできないお花見の絵。偶然見つけた桂川は、壁画に色を塗るためにたびたび地下壕を訪れていました。桂川と協力して、タクトと未来はなんとか地下壕を抜け出すことができました。なんと、地下壕は、学校の地下で見つけた通路とつながっていたのです。
 私が驚いたのは、物語とはまったく違う次元です。終戦記念日のことを話す時、ずっと昔に終わった知らない戦争のように語っているとは・・・。自分にとっては、親の世代に終わった戦争で、心情的に人ごとではありません。けれども、こういう子ども向けの本でさらりと語られるほど、第二次世界大戦の記憶は風化しつつあるのでしょう。何よりも驚いたのは、そこでした。


ミステリー愛情物語
赤川次郎作
米澤よう子絵
 「赤川次郎ミステリーコレクション」の1冊です。疲れていて活字中毒の私ですらページをめくるのがおっくうになった時ですら、このシリーズはすらすら読めます。活字の組み方がすかすかなのと、テンポ良く進む展開のおかげでしょう。落ち着いて読むと(そんなのありか〜?)と思えることもしばしばあるのですが、そういう不条理を差し引いても気持ちよく読めるのが赤川次郎本のいいところだと思います。
 主人公の仲道美帆は、16歳のバレリーナの卵です。母一人子一人ですが、美帆の母仲道治子は、ほんとうの母親ではありません。美帆は赤ちゃんの時列車の窓からバスケットごと放り出された捨て子立ったという信じられない設定です。けががなく、運良く治子にすぐに拾われたからよかったものの、普通の神経の親がすることじゃないと思いました。最後の最後に美帆を捨てた親がわかった時、このとんでもない捨て方と、匿名で誕生日にお花を贈ったり毎月仕送りをしたりする誠実さとが矛盾するように思えてなりませんでした。
 すくすくと成長した美帆は、バレエに非凡な才能を現し小さなバレエ団のホープ的存在です。キャリアアップのために名門バレエ団のオーディションを受けようとする時、美帆はほんとうの親を確かめる旅に出ることを決心しました。手がかりは誕生日の花束を発送した花屋さんです。こっそり教えてもらった送り主を訪ねていくと、全然さえない中年のおじさんでした。父親だと思いこんでいる美帆ですが、読めばすぐに別人だとわかります。もうちょっと落ち着いて話をすれば誤解が解けたでしょうに、誤解した相手は横領事件が発覚するのを恐れて逃げようとしているところでした。
 赤川ミステリーの典型的なヒロインの美帆は、爽やかでちょっと強引でかわいい少女です。何かの間違いだとわかっていても、篠崎(まちがった相手)が美帆に情が移るのは当たり前でした。愛人と逃げていると思われた美帆も気の毒ですが、名門バレエ団に金の卵を引き抜かれたくない大人の困った思惑がうっとうしく思えました。終わってみれば、美帆はほんとうの親を知ることなく、もとの暮らしにもどります。この騒動がきっと美帆を成長させるだろうなと思いました。


児童文学アイスクリーム・タワー
野中柊作
長崎訓子絵
 「パンダのポンポン」シリーズ第4巻。今回の表紙は黄色で、まるで気ままに描いたかのようなかわいらしいパンダがアイスクリームに乗っかっています。いつも、表紙を見ただけで心に響くものがあり、(この巻って読んだっけ?)と、同じ本を2度借りないように注意するのが大変です。
 パンダのポンポンは、腕利きのコックさんです。ポンポンの友達の名前は、いつ読んでも洒落ていて、言葉遊びのようでとてもおもしろいです。クジャクのジャッキーにキツネのツネ吉、ヤギのギイじいさん、まっとう?!なのは、ねこのチビコちゃんくらいです。コブラのラブコなんてのもいます。表紙を開くと、パンダのポンポンのコックさんの山高帽の向こうに「アイスクリーム・タワー」とタイトルが透けて見える装丁がしゃれていて、こういうちょっとしたところのセンスのよさに感心しながらページをめくりました。
 お話は、「アイスクリーム・タワー」、「こんがりあつあつハーモニー」、「UFOピッツァ」の三話が収められています。どのお話もおいしそうで、アイスクリームとピザが食べたくなりました。何しろ、パンダのポンポンは腕のいいコックさんなので、アイスクリームを作ると色とりどりで種類が思いっきりたくさん。それをワゴンに積んで出かけ、公園の前に停めるとすぐに人だかり(動物だかり)ができました。キリンさんが食べられるくらいの高さまでアイスクリームを積み上げたのが、「アイスクリーム・タワー」だったというわけです。
 「UFOピッツァ」は、もっとポンポンの腕前が発揮されるお話です。だって、ピザを作るのに、UFOみたいに投げ上げて、くるくる回しながらピザを作るのが、タイトルの由来なのですから。しかし、ポンポンが投げ上げたピザよりも一つ多くピザが宙を舞っているかのように見えたのはなぜ?そして、ピザが焼き上がるのを待っている動物たちの中には、見知らぬお顔が混じっていました。宇宙人もピザを食べたくなったんだなぁ。こういう和やかな雰囲気が、絵とぴったりあって何とも言えずいい気分になれるお話です。


児童文学アイスクリームでかんぱい
いとうひろし作
 「マンホールからこんにちは」に続いているお話です。主人公の「ぼく」はアイスクリームが大好き。お留守番をするとお駄賃がもらえ,それをさっさとアイス代に費やしてしまうほどです。今日もぼくはお駄賃を手にるんるんとアイスを買いに出発です。ところが,かどのお菓子屋さんへ行っても,大通りのコンビニをのぞいても,なぜかアイスは全部売り切れ。お菓子屋さんのおばあさんもコンビニのお兄さんも,みんな不思議な夢を見ていました。キーワードは「アイス」と「ライオン」。2人ともアイスがたーくさん出てきて,それを怪しいライオンに食べられてしまう夢でした。夢の中味は違っても展開は同じで,夢から覚めるとお店のアイスがすっからかんに消えているのが共通点です。
 いとうひろし作品のおもしろさは,繰り返しの巧みさだと思います。お菓子屋さん,コンビニ,駅前のアイス専門店と場所が変わるたびに,寝ぼけたキャラが出てきます。そして,いつも第3のエピソードでは,ちょっと今までとパターンが違い,物語が一気に核心に近づくことになっています。このお話でも,駅前のアイス専門店では,とうとうおばあさんとおにいさんお夢に出てきたらしいアイス好きなライオンが店番をしています。ライオンはめっちゃ暑いアフリカのちっぽけな木陰にいて,アイスを食べる夢を見ています。ライオンの夢なのか「ぼく」の現実なのか,考えれば考えるほどよくわからなくってきました。
 わからなさを楽しみながら読み進めると,私もアイスが食べたくなりました。とぼけた「ぼく」のシリーズ。つながっていないようで,よく見るとつながっています。次のお話もあるのか楽しみです。


絵本・コミックアイスクリームの国
アントニー・バージェス作
長田弘訳
 長田弘さんの訳と,不思議に緻密な絵の雰囲気に惹かれて,思わず借りてきました。アイスクリームの国には,高い山々がそそり立っています。山々にはアイスクリームのいろいろな名が,その姿に合わせるように付けられています。モンテ・ピスタチオ,アプリコット・アルプス,傑作なのはマウント。ファッジヤマ。きっとどこかの国(日本)の象徴的な山をモデルにしたのではないでしょうか?
 お話ではアイスクリームの国になんて行ったことのないジャックとトムとぼくは,お金を貯めて飛行船でアイスクリームの国へ行くことを考えます。2人は飛行船を借りて,アイスクリームの国へ出発します。アイスクリームの国での旅日記は,「アイス月曜クリーム日」のような怪しい曜日にそって書き進められています。曜日ごとに不思議な雰囲気の挿画があり,アイスクリームの国の何気なくアイスクリームがそそり立っている斬新な景色をながめることができます。
 森には棒付きアイスが立ち並び,山が噴火する霧は泡立ちクリーム。チョコレートの海に氷山まであります。でも,アイスクリームの国には人っ子ひとりいません。3人の旅人たちはアイスクリームをおいしくいただきながら,なんでやーと怪しみ始めるのです。
 とうとう最後に出会ったのは雪だるまのおばけみたいな行列。頭にサクランボのような赤い帽子をかぶった彼らは,夕食の時間なったら人間たちをおいしく食べてしまうと言うのです。3人の旅行者たちは,命からがら逃げ出します。遠くに見えた飛行船に乗ったとき,3人ともすっかりアイスクリームを怖がるようになっていました。
 この絵本で何度読んでも不思議なのは,こちらの世界ではまだほんの10代くらいの子どもなのに,アイスクリームの国に行くときはすっかり大人に描かれることです。彼らが証拠としてコンテナにつめてきたアイスクリームはどこへ消えたのでしょう?せっかく採集してきたアイスがとけてしまったので,3人はだれにも信じてもらえなくなっています。
 長田弘さんの訳文は,言葉の使い方が珠玉のようです。いつもながら吟味された日本語に訳してあるなあ。


児童文学あ・い・た・く・て
工藤直子作
佐野洋子絵
 子どもの本(詩集)の棚に並んでいましたが、一つ一つの詩は、時にとても高度でした。「じぶんにあう」、「ひとにあう」、「風景にあう」、そして最後は「猫にあう」という章立ては、読み進むと視野が広がっていくような気がしました。冒頭の詩は、タイトルと同じ「あいたくて」。「だれかにあいたくて なにかにあいたくて 生まれきた そんな気がするのだけど それがだれなのかなになのか あえるのはいつなのか・・・」と語りかけます。私はそんなふうに考えたことはなかったので、こういう考え方からしてとても新鮮でした。この本は、「あいたかっただれか」を探し求める道筋を詩にしたものかもしれません。
 「じぶんにあう」では、悩んだり好きになったり鏡を見つめたりして発見する自分が題材です。「こころのなかの景色」を詩にできるほど客観的に見つめられるのが、詩人の才能なんだなぁと感嘆モード。「こころ」の最後の「くだけても これはわたしの こころ ていねいに ひろう」とは、よく言ったものです。拾い集める過程で必要な心をくっつける接着剤はなんだろう?といろいろ考えました。
 「ひとにあう」では、一転して思考が外へ向かいます。今まで自分だけを見ていた目が、人や動物をとらえます。すべての行が「四人」で始まる「会合」は、4人集まってあれこれ話し合う動作を、ありのままにとらえています。淡々とした文が「四人とも」の書き出しで統一されて連なると、おもしろい効果が生まれるのに気がつきました。読んでいるうちに、4人のうち一人が自分のように思えてくるのです。「なんだか一生けんめいだったが ちっともそうじゃないふりした」というご指摘が鋭かったです。
 風景にも猫にも目を向けた後で、最後に「また あいたくて」が〆の詩です。「さよならをくりかえし さよならをつみかさね またあいたくてなにかに きょうも あるいていく」姿は、誰にでもあてはまるものでしょう。結局「あいたかっただれか」を楽しみに待つことが人生そのものかなと悟りを開いた?のでした。


児童文学あ・い・つ
中川なをみ作
舟橋全二絵
 自分では思いっきりさめているけれど、まわりの期待を一身に背負った優等生の潤が主人公です。大きな口をたたいているので、てっきり小学校高学年くらいかと思ったら、おおっ、まだ小学3年生のお子様でした。塾に行く途中、スーパーで数量限定の卵を買うお手伝いをさせられた相手こそ、彗星のように来て彗星のように去っていった「明日香」(男の子)でした。明日香は、大衆演劇の役者の子ども(もちろん、自分も子役としてばりばりに劇に出演しているらしい)で、ほんの数日だけ潤の学校に通うことになりました。
 もちろん、クラスは潤と同じ。旅回りでいろいろな学校に転校し慣れているせいか、明日香は淡々とクラスにとけ込みます。いい子を演じている潤には、ふとしたはずみに明日香に助けられたことが、とても新鮮でした。おもらしをしちゃった潤に明日香がしたのは、熱射病のふりをしてバケツの水をぶっかけたこと。おかげで潤がおもらしをしたとは、誰も思いませんでした。明日香のえらいところは、潤を助けたことを全然に鼻にかけないことです。潤は恥ずかしい反面、明日香の何でもない態度に感じ入りますが、だからといってどうすることもできません。
 クラスメートには、まるで潤が明日香に突っかかっていくようにみえるけれど、そんなつもりはありませんでした。そんなこんなで明日香が登校した最後の日、潤は何とか自分の内なる声に従って明日香に謝ることができました。「なぐってよ」と言って、明日香がなぐったのはおしりを三発だったのも、ほのぼのとしていました。
 ことさらにドラマチックにすることなく、空っ風のように去っていった明日香と潤のつながりは、ちょっとやそっとでは消えないと思います。明日香は、行く先々の学校で木を友達にしていました。潤の学校では、裏山の「玉三郎」。実は明日香は、ものすごく寂しがりやではないかと思えてきました。


その他愛って,なに?
スザンナ・タマーロ作
泉典子訳
 表題作の他に「地獄はない」,「燃え上がる森」の2編が収められています。3つの物語のどれを読んでいても,心がぎゅっと絞られるような気がしました。ときには,心のどこかに棘がささったような違和感を感じ,読むだけで幸せがわけてもらえる雰囲気とはほど遠いものです。それだけにリアルで,世界中にこの3つの物語の主人公みたいな人がたくさんいるんだろうなと思えました。
 「愛ってなに?」は,娼婦の娘ローザの物語です。母のほんとうの姿と死の真相を知らされたローザは,不倫,出産にぶちあたって一回り人間が大きくなったようです。ローザにとっての愛とはなんでしょうか?私はローザにとっての幸せはなんだろうとも思えました。ローザにとって愛について考えることは人生にとって考えることでもありました。独りで生きていくことに決めたローザ。彼女なりの幸せを思わず心から願いました。
 「地獄はない」は,実は地獄が身近にあるお話。優しく紳士的に見えた夫は,家庭ではまったくの専制君主でした。難産で生まれた息子ミケーレは,長ずると父親のほんとうの姿を知り,キリスト教に傾斜していきます。それは父親にとっては許すことができないこと。行き着くところは悲劇的な結末でした。主人公は息子の死,夫の死を経て,息子の手紙を読んだとき,一種の悟りに達します。キリスト教徒ではない私には,ちょっとしたギャップを感じた結末でもありました。
 「燃え上がる森」は象徴的な作品。鬱病を患う妻を支えてきた夫は,妻が宗教という心の拠り所を見つけて立ち直っていくのと対照的に,いつの間にか強い嫉妬と妄想にとらわれていきます。主人公の心が病んでいくにしたがって,なぜか主人公が保護している森もおかしくなっていきます。恐ろしい作品でした。タマーロって,人間のほんとうの心の動きや支えになるものを真っ向から見据えようとしているのかもしれないと思いました。


その他愛とカルシウム
木村航作
重原美智子絵
 表紙に可愛らしいスズメの絵が描かれているのは、お話を通してスズメが重要な意味をもつから。主人公の藤村環は、「ハンプティダンプティ症候群」という珍しい病気を患い、19歳になる人生の半分以上を壮絶な闘病に費やしてきました。親元を離れ、障害のある人々が暮らす施設で、環は自らの体の様子を冷徹に観察して日々を過ごしています。
 環が自嘲的に言う言葉は、なかなか鋭い。「ハンプティダンプティ症候群」という病気にしても、彼女に言わせたら「ファンタジーを思わせる」とか。なるほど、「不思議の国のアリス」に出てくるハンプティダンプティのように、卵の殻のように体が石化していく症状を、そうやって諧謔的にとらえるセンスは、なかなかのものでした。
 お話の冒頭で、環はひょんなことから巣から落ちたスズメの雛を拾います。世話の仕方を教えてもらって、せっせと雛にエサを食べさせ始めるのですが、それがまた壮絶。普通の人が弱った雛のお世話をするのも大変なのに、自分の体が思うようにならない環が何とか自力でいろいろやってみる姿は、読んでいて胸が苦しくなりました。それなのに、環はそれほど大変なことをしている意識はなく、母親が面会に来ても、弟たちのことを聞いても、淡々と生きているのです。
 おなじ施設の知り合いを「馳夫さん」とあだ名を付けているのは、「指輪物語」を環が読んでいる証拠です。自分の病気がファンタジーからとった名前だから、環はファンタジー本をせっせと読むのでしょうか。私もファンタジー本が好きで、子どものころから読み続けていますが、環みたいに痛切な理由でファンタジー本を読む人を知りません。
 スズメは何とか生き延び、お話の最後には無事飛び立ちます。片目が見えなくても、ちゃんとエサを食べて巣立ったスズメに、環はひょっとしたら自分を重ねたのではないかと思えてきました。難病物は読むのがつらいけれど、「泣かせてやろう」とか「こんなにがんばっているんだぞ〜」とかの押しつけがましい説教臭さを感じなかったのが、この本の稀有な点だと強く思いました。 


子ども愛の一家
アグネス・ザッパー作
山田四郎訳
 先日ひょんなことから,「リセット」(北村薫)を読み直しました。「リセット」は,戦争中に結ばれなかった真澄と修一が時を越えて巡り会う物語です。そこで重要な役割を担うのが,「獅子座流星群」とこの「愛の一家」の本なのです。
 小学生のころ,子ども向けの「世界の文学」に収められているのを読んで以来,まともに1冊の本で「愛の一家」を読んだことはありませんでした。家族が心を寄せ合い貧しい暮らしに耐えながら幸せを掴む展開は,心の隅にひっかかっていましたが,大人になってから読むと,いかにも道徳の教科書に載りそうなまっとうなお話だということが,いっそうよくわかりました。
 ペフリング一家は,両親と7人の子どもたち,お手伝いさんで南ドイツに暮らしています。お父さんのペフリング氏は音楽の先生で,いつか校長先生として招聘されるのを夢見てせっせと働いています。なにぶん,育ち盛りの男の子が4人と小さな女の子が3人もいるので,先生としてのお給料だけでは生活はかつかつでした。
 いきなり出てくるのは,大きい子どもたちが獅子座流星群を見に出かける話。当然夜中に出かけるので,家主の夫婦にどこかいけない夜遊びにでも出かけたのだろうと勘ぐられ,危うく部屋を追い出されそうになります。家主のおじさんとおばさんは,悪い人ではありませんが,大家族が住んで部屋や階段が傷むのをとても気にしていました。まるで,ペフリング一家に出ていってもらいたいような態度ですが,彼らのほんとうの気持ちは最後の最後に明かされます。
 男の子も女の子もとにかく,お勉強のできるできないはともかくとして,絵に描いたようなよい子です。「悪いと思ったらすぐに謝りなさい」という両親の教えを日々徹底し実践しています。あまりの心の正しさに1人ぐらいは,やんちゃな子がいないのかしらんと思ってしまいました。
 一番心に残ったのは,4番目の息子のフリーダーです。音楽が好きでたまらないフリーダーは,アコーディオンやヴァイオリンを弾きすぎて,お父さんからきつく注意をうけます。それは「1時間弾いたらやめる」という,まつでテレビゲームみたいな感覚です。お父さんは音楽の先生なのに,息子の音楽を志す気持ちがどうしてわからないんだろう?ととても不思議でした。きっと,今でこそ芸術ですが,アコーディオンやヴァイオリンは,芸人の道ととらえられていたのかもしれません。古きよき時代の愛情家族のお話に,「リセット」のまあちゃんと修一の純な思いがきれいに重なるのでした。


絵本・コミック愛は死よりも
ラフカディオ・ハーン原作
さいとうゆうこ再話
太田大八絵
 太田大八さんの絵は、渋い色遣いと様式化された模様が気に入っています。お話の舞台は中国で、幼なじみの恋人が主人公です。裕福な家に生まれたチュンファンの乳兄弟は渡し守の家のリエン。二人はいっしょに遊んで育ちました。年頃になると、チュンファンが輝くばかりの美しい娘に育ったのは、よくあるお話。もちろん、リエンとは家柄の違いでとてもほいほいと結婚できるわけはないのも当たり前です。チュンファンもリエンも想い合っていましたが、チュンファンの父親と祖母は領主様との縁談を考えていました。親の立場からすれば、娘に安楽な暮らしをしてほしいと願うのも、世の常でしょう。
 しかし、チュンファンがリエンと結婚したい意志は固く、祖母は一計を案じます。さも悪辣な企みかと思ったらさにあらず、単に舟を与えて他の土地で渡し守をしてお金を稼いでこいという至極まっとうな申し出なのでした。リエンが納得ずくで出かけたのも、別に強制されたわけではなく、チュンファンとの結婚資金をためようと思ったからでした。
 ラフカディオ・ハーン原作なのに、怪異なところがないなと思ったら、起承転結の「転」でおお?と思いました。チュンファンがリエンを追いかけてきて、駆け落ち同様に所帯をもったからです。二人は貧しいながらも幸せに暮らし、生まれた子どもたちを親に見せたいと思いました。そして、お里帰りしてみると・・・?
 チュンファンがリエンを追いかけてくるシーンで、かすかにチュンファンの周りに見える輪郭が、思えば結末への伏線でしょうか。子を思う心故の過ちを悔いる心が、同じ親として私の心にしみました。ただ、「愛は死よりも・・・」というタイトルは、チュンファンが死んでしまったわけではないので、(-_-)に思えました。ラフカディオ・ハーンの原題ならば仕方のないことですけれど・・・。


子ども愛はチーズのごとし
ジェロニモ・スティルトン作
郷田千鶴子訳
ラリー・ケイズ絵
 「編集長ジェロニモ」シリーズ第6巻。とはいえ、私にとってこのお話が、シリーズ初でした。主人公のジェロニモ・スティルトンは、作者と同じ名前で(作者が主人公という設定です、つまり)、カリカリ日報という新聞の編集長です。彼はネズミで、ネズミ島で一番読まれている新聞が、カリカリ日報でした。精力的に仕事に精を出すジェロニモは、突然豪華客船での旅をするはめになります。実はその旅は、ちっとも身を固めようとしないジェロニモを何とか結婚させるために、親類縁者がこっそり企画したもので、いつの間にかジェロニモは、「運命の赤い糸」コースに参加していることになっていました。
 もともと「健康のためならエンヤコーラ!」コースに参加してダイエットに励むはずだったのに、ラタリーナ・スイートマウスというネズミにすっかり好かれてしまい、船のメンバーはジェロニモが当然ラタリーナと結婚すると思いこみます。じわじわと真綿で首を絞められるように、ラタリーナとの結婚のお膳立てに取り込まれていくジェロニモ。ラタリーナ本人も含めてみんながジェロニモとラタリーナの結婚を祝福し、ジェロニモは孤立無援です。子ども向けの絵が多い本なのに、扱っている話題はかなり下世話だなぁと、妙に感心しました。
 あやまって海に落ち無人島で三ヶ月も暮らしている間に、ジェロニモの属する世界はものすごく変化していました。ほんとうの恋とは何か?ジェロニモには恋はおとずれるのでしょうか。軽妙な絵がふんだんにあるので、絵本感覚で読めました。子どもの本でも、こういう読みやすい新書版が出たんだな。


その他アイランダー物語
名木田恵子作
 副題「アンの島の人々」。作者は、あの「キャンディ・キャンディ」の原作を担当された方です。他にも何冊か子ども向けの本を書いていて、私も図書館で借りて読みました。どのお話にも言えることは、日本人特有のしっとりとした感情移入がされているってこと。「しっとりべったり」でシリアスな雰囲気は、私の天敵です。この本は、プリンス・エドワード島を毎年?訪れている(らしい)作者が、島の人々とのエピソードや、島の雰囲気に合わせて作った短い物語を絵本風に集めています。
 プリンス・エドワード島を聞いて、「赤毛のアン」を思い浮かべない人は、ほとんどいないでしょう。私も、その昔高校生のころ、「アン」シリーズにはまり、何度も読み返したものです。「アンシリーズ」を愛読したファンのはじくれとして、プリンス・エドワード島は、一度は行ってみたい聖地みたいな感覚があります。
 可愛げな絵や写真の小物などを見ると、自分の心のごく底にある「女の子っぽい気持ち」が刺激されます。手作りのお人形や、キルトのベッドカバーにタペストリー。ある時期から大量に押し寄せるようになった日本人が、そういう物を買いあさる心理がわかるような気がしました。日本人のお金の使いっぷりの凄まじさに、とうとう島の人々はいぶかしげ疑問を口にし始めます。それを、まるで日本人の代表のように、思わず言い訳してしまう作者の心理が、わかるような気がしました。
 絵や写真で、プリンス・エドワード島にある愛らしい雑貨が紹介されているのを見ると、(かわいい〜!)と思いつつ、日本に持ってきたら色あせてしまうような気がしました。野の花を摘んでもすぐにしおれてしまうのと同じで、プリンス・エドワード島の品は、そこにあって初めてずっと輝き続けることができるのではないかと思えてきました。だからこそ、どことなく少女趣味で、現実離れした視線を、(嘘くさ〜い)と感じてしまったにちがいありません。


その他アイルランド青春物語
アリス・テイラー作
高橋豊子訳
 副題「アリスの初恋」。アイルランドは、一度行ってみたいと思っている国の一つです。何気なく手に取ったこの本は、作者が自身の青春時代(1950年代)と振り返って語るアイルランドの農村の風景です。原題を直訳すると「ランプを消して」で、村に電化の波が押し寄せ近代化されるころの生活が、まるで近所のおばあさんにお話を聞くように語られます。
 読んでみて、月並みな「古き良き時代」という言葉が浮かんできました。水洗トイレではなくて室内便器、電灯ではなくてろうそくの光の暮らしは、農場でも娘たちが苛酷な労働をするのが当たり前の時代でした。アリスの家には5人の娘がいて、彼女はその末っ子。さらに弟のダニーがいますが、お話の終わりで早くに亡くなったことがわかります。子ども時代に死んでしまったわけではないけれど、アリスがダニーの思い出をとても大切に考えていることが、文章の端々から伝わってきました。まるで気安く口に出すのを惜しむように、最後の最後に一番重要なことを言い置いているんだなと感じました。
 アリス・テイラーの本には、この本の前に「アイルランド田舎物語」と「アイルランド冬物語」の2冊が出ているそうです。いきなり「青春物語」を読んでしまいましたが、アリスの子ども時代がずっと語られてきて、やっと初恋もするし姉さんたちとダンス・パーティーにも出かける年になったわけです。そこらじゅうに普通に娯楽が転がっている今と違って、ダンス・パーティーはアリスたちにとって、当時のクライマックスとも言えるイベントでした。みんなで服をもちよって、一番似合うと4人の厳しい審美眼に選ばれた姿でパーティーに出かけるシーンは、思い浮かべると(たくさんの姉妹がいるのもいいもんだなぁ)と思えました。おしゃれは、いつの時代でも女の楽しみですからね。
 特におもしろかったのは、うわさ話をこっそり教えてもらっているかのような、村の人々のエピソードです。変わった人も善人も、それぞれに助け合って暮らしている関わりは、今の比ではありません。遠くへ出かけることが少なかったかわりに、住んでいる場所では密度の濃いおつき合いになるんだなと思いました。それを懐かしく感じ、いとわしさが伝わってこないのは、アリスがみんなに愛される娘だったからにちがいありません。ますますアイルランドに行ってみたくなりました。


児童文学アウターネット1
スティーブ・バーロウ&スティーブ・スキッドモア作
大谷真弓訳
中村景児絵
 副題「フレンズかフォーか?」。「アウターネット」とは、「インターネット」のパロディー(または、勝手に作った反対語)です。主人公のジャックは、誕生日に念願のノートパソコンをもらいました。しかし中古でぼろぼろで、ふたが簡単に開かない怪しげなパソコンを見て、ジャックはがっかり。偽物をつかまされたのかと、アメリカ空軍基地の友人ローフ(舞台はイギリスです)やマールに相談に出かけました。ローフの父親から、くだんのパソコンをジャックの父親が買ったからです。
 まったく壊れていると思っていたノートパソコンは、電源を入れないのに勝手に起動し、しゃべり始めます。「フレンズかフォーか?」と訪ねられ、「フォー」と答えるとそれ以上進めません。しかし、「フレンズ」と答えると、どんどん不思議なやりとりが進みます。勝手に「ヘルプ」だとしゃべる言葉が思いっきり大阪弁なのには、訳者の趣味かな?と大笑いしました。
 ジャックが半信半疑でノートパソコンをいじっていると、突然どこかわからない世界へ移動させられてしまいます。「Tメール」こと「テレポーテーション・メール」の仕業でした。ジャックは、見知らぬ宇宙人から「サーバー」を悪の組織フォーの手から守って欲しいと頼まれます。宇宙人の名前はジェイナス。ジャックの手許にやってきたノートパソコンは、ほんとうは宇宙にたった一つしかない「サーバー」で、絶えず悪の組織フォーが行方を捜していると言います。このサーバーが敵の手に渡ってしまうと、宇宙がすべて暴君タイラントに支配されてしまうとか。急にそんなことを言われても、にわかには信じられないのは、ジャックもローフもマールもいっしょです。
 ローフやマールが荒唐無稽なジャックの話を信じるきっかけは、飼い犬のビッツと飼い猫のグーギーが、いっぱしの口をきいたから。ビッツもグーギーも宇宙人で、未開の地球にそれぞれのミッションに従ってやってきたのだとか。それを知った時には、フォーの魔の手が迫り、ジャックたちは三者三様の得意技を使って、フォーと必死で戦うハメになったのでした。
 1巻は、アウターネットでサーバーをめぐる争いにジャックたちが巻き込まれてしまうまで。彼らがフォーと敵対しフレンズに味方する経緯が語られます。ジェイナスは遙か遠く、仲間は3人と2匹です。出てくる悪者が、どんなに悪ぶっても妙に愛嬌があるのは、どうしたことでしょうか・・・。


児童文学アウターネット2・3
スティーブ・バーロウ&スティーブ・スキッドモア作
大谷真弓訳
中村景児絵
 副題がそれぞれ「コントロール」、「オデッセイ」。悪の組織フォーと抵抗組織フレンズの争いに巻き込まれたジャックたちは、サーバーを渡すまいとTメール(テレポーテーションメール)を使って、宇宙中を逃げ回ります。この物語のコンセプトは、あっと驚く宇宙の景色に想像の翼を広げさせることなのかもしれないと思いました。けれども、エイリアンの名前はどこか歴史的人物を思い出させるし、ひょっとしたらギリシャ神話(特にオデュッセウス系)からネタをもらっているのかもしれないと思えてきました。
 ジャックとマールはともかく、ローフはどこか悪役っぽい。笑っちゃったのは、一度追跡しているトレーサー(これって、追跡者って英語でしょうに、何と芸のない命名の仕方)に捕まった時、悪者に改造されそうになったけれど、もともと悪者の素質があったのでそのままでOKだったというくだりです。もっとも、タダではすむはずはなく、ローフの脳には追跡装置が取り付けられてしまったというおまけがつきましたが。
 宇宙人だけど犬の姿になっているビッツは、真剣にサーバーを守ろうとしているように見えますが、猫の姿のグーギーはいつ寝返っても不思議はない感じがします。しかし、とうとうグーギーも悪の組織フォーから離れる時がやってきました。どっちつかずの行動を裏切りと判断され、指名手配されてしまったからです。決してチームワークがいいとは言えない人間3人+エイリアン2人のチームは、あぶないところを幸運も手伝って切り抜けながら、なんだかんだとサーバーを敵に渡さない状況を作り上げます。てっきり3部作だと思っていたら、おおっ、次巻では過去に遡る手はずだとか。いったい怪しげな彷徨はいつまで続くのでしょうか・・・。


子ども アウトサイダーズ
スーザン・エロイーズ・ヒントン作
唐沢則幸訳
 児童文学よいうよりは,ヤングアダルトとか青春小説と呼ぶのがふさわしい本です。読み出したら少年たちの凄まじいエネルギーに引き込まれるようにして,どんどん読めました。作者のヒントンは,17歳(高校生)でこの小説を発表したとか。登場人物に寄り添うような語りは,主人公のポニーボーイの姿を借りたヒントン自身なのかもしれません。
 ポニーボーイは14歳になったばかりの少年です。不思議な響きの名前は,交通事故で死んでしまった両親がつけてくれたものでした。ポニーにはソーダ(ソーダポップ)とダリー(ダレル)という兄がいて,3人で寄り添うように生きています。ダリーは厳しくソーダは話をよく聞いてくれますが,二人に共通しているのは,死ぬほどポニーボーイを気遣っていることです。ポニーに学校を続けさせるために二人は仕事をやめ,せっせと働いています。
 ポニーが育ったのは貧しい人々の間です。そこに住む少年たちは,みんなタバコを当たり前のように吸い頭をグリースでてかてかにしていることから「グリーサー」というグループを作っています。一種の不良たちの集まりだと,ポニーは心の底で認めています。グリーサーと敵対するのが,ソッシュというグループです。ソッシュは,町の暮らしに困らないいいとこのお坊ちゃんたちばかりの集まりです。グリーサーとソッシュはつねにいがみ合い,隙さえあれば袋叩きにあう危険を秘めていました。
 ポニーは,悪ぶったタイプが多いグリーサーの中では,素直で成績もいい方でした。親身で厳しい兄にきっちり監督されている事情もありますが,それだけでなくポニーボーイのもって生まれた勤勉な性格のせいでもあるのでしょう。ポニーがソッシュの階級に属するチェリーという素敵な少女に出会った夜,彼は友人といっしょにいるところを,ソッシュの連中に捕まってしまいました。噴水に顔を突っ込まれ溺れそうになった友人ジョニーは,はずみで相手の少年を殺してしまいます。
 ばれるのが恐ろしくてジョニーとポニーボーイは,悪ぶった友だちのダラスに手引きを頼んで,ちょっと離れた無人の教会に隠れました。ダラスが二人を見つけて連れ帰ろうとしたとき,ポニー,ジョニー,ダラスの運命は音をたてて回りはじめます。教会が火事になり,運悪く遠足に訪れていた小さな子どもたちが中に取り残されていうることがわかったのです。必死で子どもたちを助けるために火の中へと飛び込びました。
 ダラスもジョニーも「ぼく」も,みんな身内のような視線を得てしっかりと守られている感じがします。セリフ回しも今風で,全然古びることがありません。この本をもとに作られた映画があるそうなので,一度見てみたいです。


ミステリー会うは盗みの始めなり
赤川次郎作
 「夫は泥棒、妻は刑事」シリーズの1冊です。夫の淳一は(自他共に認める)一流の泥棒で、妻の真弓は警視庁捜査一課の美人刑事という信じられない組み合わせが、目を惹きます。前にもこのシリーズを読んだことがありますが、泥棒と刑事が恋に落ちるなれそめをぜひ利きたいものです。別に淳一が真弓に泥棒だと黙っていたわけでもなさそうで、二言目には「射殺する」が口癖の妻は、淳一の前ではいつもかわいらしい詰めでいようと努力しているように見えるのが微笑ましいです。
 タイトルの「会うは盗みの始めなり」も「会うは別れの始めなり」のパロディーですが、それぞれの章も諺や慣用句を上手に?もじっています。「亭主は達者で居留守がち」、「会うは別れの終わりなり」、「下手な鉄砲、休むに似たり」、「逃がした犯人(ホシ)は大きく見える」と、元の諺との違いを考えながら読むのは、なかなかおもしろかったです。
 泥棒とはいえ、淳一はとても好男子で、することなすこと潔くて凛々しい。決して弱い者いじめはせず、泥棒家業で培った特技(忍び込んだり、探り出したり、追跡したりすること)をフルに生かして、刑事の真弓のアシスタントを務めます。ここ一番で頼りになるのが、警察ではなく神出鬼没の淳一なのが、実はこのシリーズのツボなのかもしれません。
 忘れてならないのは、真弓の部下の道田刑事です。真弓に徹底的にこき使われても、彼女に夫がいるのにもかかわらず、ずっと恋心を燃やし続ける道田刑事が、とてもいじらしくてほろっとさせられました。ホストクラブに潜入するにあたっては、見事にそれらしい衣装を着せられ、「プリティー・ミッチー」などと呼ばれては、せっかくの刑事も形無しです。それでも、真弓に言いつけられたことなら、たとえ火の中へでも飛び込むように、黙々と任務を遂行する姿が、印象的でした。
 ミステリとしては、私でも犯人の見当がつく初級クラスですが、元気でちょっとやそっとではへこたれないヒロインがちゃんと最後には幸せを掴むなど、安心して読めるワンパターンさがうれしいです。


ファンタジーアウレリア大陸記
後藤 耕作
永田智子絵
 今はやりの?!異世界ファンタジー。作者が創作したアウレリア語やアウレリアの歴史をちらちら垣間見せながら進んでいく展開は、つい習性で「指輪物語」系のまねっこだなと思っちゃいました。ただ決定的に違うのは、主人公が超人的な力も運の良さもあまり持ち合わせていないってことと、結末で見事に肩すかしをくらうってことです。
 副題を「歌姫、旅立つ」してあるからには、主人公のエルは貧しいながらも人の心をとろかすような美声のもち主だと思っていました。アウレリアでは格別の尊崇をうける「歌姫」をめざして選考会に出たエルは、見事に選考会の予選に遅れてしまいます。なんとか本選に出してもらおうとしても、とうていその望みはないようです。しかし、歌姫に勝ち残った少女が突然歌姫のしるしのペンダントを、エルの首にかけたことからお話が回り始めます。歌姫はだれかに追われていて、とっさにエルを身代わりに立てたことがすぐに判明しました。
 エルは暴君の皇帝のもとへ連れて行かれることになりました。皇帝が歌姫を所望したからです。「王の手」と呼ばれる親衛隊のザハンが直属の秘密兵器のデイゴン(ロボットみたいなもの)のギーといっしょにエルを移送し、2人と1台の珍道中の始まりです。ザハンは、思ったより悪い人ではなく、渋いいい声をしています。ところが、エルは歌姫を目指しているくせに、徹底的な音痴だということがほどなく判明。フェイントをかけた展開です。
 エルの歌声は完全無欠のデイゴンの回路をかき乱します。途中で旅に加わった少年トルンは、あっけかんとしておもしろいキャラだなと思ったら、殺された王の息子で皇太子でした。トルンが都を目指すのは、父の仇をとるためです。「王の手」のザハンとギーは悪者で、トルンはエルの味方という図式は見事にぶち壊されました。
 こんなに大がかりに歴史書までのぞかせてくれて、たどりついた結末がこんな程度〜!とまず思いました。ありきたりの結末ではないけれど、なんだか劇的なハーピーエンドを期待していた私は、背負い投げをくった気分です。こんなのありか〜!


その他あ・うん
向田邦子作
 学生時代(中学生か高校生くらいだと思います)に、両親がTVの連続ドラマ「あ・うん」を見ていたことをふと思い出しました。強烈に覚えているわけではありませんが、なんとなく、狛犬のコンビのようなおじさん二人のお顔が浮かんできます。彼らの名前が「門倉」と「水田」だということがかろうじて頭の片隅にひっかかっていました。○十年ぶりに原作を何気なく読んでみて、「門倉」が「門倉修造」、「水田」が「水田仙吉」だと知りました。二人は無二の親友ですが、やり手の実業家の門倉と水田には大きな境遇の違いがありました。
 今、映画館で「阿修羅のごとく」が公開されています。大竹しのぶや深田恭子や深津絵理が出るので、見たいなぁと思いつつ行きそびれています。特に向田邦子ファンだと意識したわけでもありませんが、なんとなくしっとりとした日本の家族を描いた物語になつかしさを覚えます。「あ・うん」も、おぼろげに両親が欠かさず見ていたドラマのシーンが浮かんできて、つい借りてしまったのでした。
 物語の舞台は、戦争の前のこと。軍縮が叫ばれているせいか、どことなくかえってリベラルな雰囲気さえ感じます。子どもだったのに心に留まっているのは、門倉が水田の妻、たみに心を寄せているらしいという設定でした。無二の親友でありながら、門倉とたみがプラトニック・ラブの関係にあるらしいことが、大人の世界の複雑さを垣間見させるようでした。まだるっこい話だなと感じるのは、私が子どもだったから。十分に大人になってから読み返してみると、「あ・うん」の呼吸のコンビでありながら、そこには愛憎と離れられない縁があって、ただ好き・嫌いで割り切れる単純な関係ではありません。
 不倫関係にしろ、白黒はっきりつけないのが、向田邦子の日本人的発想かもしれないと思いました。門倉と水田は戦争を越えてどうなっていくのでしょう。ハッピーエンドでもなくアンハッピーエンドでもない結末に、またまた日本人のあいまいさを感じたのでした。


子ども青いいのちの詩
折原みと作
 副題「世界でいちばん遠い島」。それは小笠原諸島のことです。主人公のユウは、小学校6年生。もともと成績がよかったユウは、いつの間にか自分を追いつめ、気がつけば学校へ行けない立派な不登校児になっていました。親子で煮詰まってしまった情況を打ち破るために、ユウの両親は、彼を小笠原諸島の母島に住むおじさん夫婦に預けることにしました。ユウは、島の学校の校長先生の家で暮らすことになったのです。
 東京から小笠原にやってきて、見るもの聞くものが田舎っぽくて、ユウは始め鬱屈しているしかありませんでした。学校でも、一学年がたった8人だなんて、完全に島流しにされた気分。実際、小笠原諸島って江戸時代までは島流しにされるところじゃなかったっけ。送ってきたお母さんが東京に帰ってしまうと、ユウの疎外感はいっそう深まります。「都会から逃げてきたって、どこだっておなじなんだよ」ときついお言葉をはいたのは、学校一の悪ガキと評判のナオでした。しかし、ユウはドルフィンウォッチングでイルカといっしょに泳いでから、180度島への思いを転換します。
 イルカ研究所で働く杉浦早希が、お姉さんのように親身になって教えてくれたせいで、ユウは少しずつ心を開き、島で暮らせるようになりました。ナオのお父さんにカメ漁に連れて行ってもらい、ウミガメをさばいたこともあります。気がつけば、ユウは小笠原の母島でゆったり流れる時間の中で心を解き放っていたのでした。
 感動系のお話で、不登校児が人間不信を打ち破っていくプロセスがよくわかりました。ただ一つだけ気になったのは、とてもささいなこと。章の終わりに次の章の中身を予告するかのように、ネタバレにしてしまう書き方です。サキ姉さんが死んでしまう前の章には、「だが・・・、実はそれば、ユウにとって、サキ姉さんとの、最後の思い出になったのである。」式のネタバレが、ときどき出てくるのは、あまりいい気持ちはしませんでした。わざとらしさを感じるのは、素直じゃないかもしれませんけどね。イルカや島の写真は、とても美しくして私も行ってみたくなりました。


絵本・コミック青い馬と天使
ウルフ・スタルク作
アンナ・ヘグルンド画
 まだほとんど読んでいませんが,ウルフ・スタルクは今とっても興味のある作家です。これからどんどん読んでいきたい方なんです。そう思って絵本があったので(といってもかなり字も多くて,お子ちゃまというより大人向きの癒し本系絵本でした。)借りてみたら,本屋さんでいにしえ,立ち読みした本でした。読んでみて思い出しました。(情けない・・・)
 登場人物は2人と一匹。細面のスマートな天使とぽっちゃりした丸顔の神様,そして神様が作り出した青い馬です。神様っていうとできあがった叡智に満ちたおじいさんを想像するんですが,とんでもありません。このお話での神様は,まるっきり子どもみたいな方で,言ってることもやってることも子どもっぽいというか無垢というか,ひょっとして神様の本質はこっちかもしれないとも思えてきたから不思議です。じゃんけんゲームはしたがるし,なぞなぞ遊びをしかけるし,さびしがってる天使には迷惑じゃないかと思えるくらいです。さびしいワケが判明するとさすが神様,天使が思い描いていた通りの馬を作ってしまいます。天使を喜ばせるために・・・。
 青い馬に神様が息を吹き込むと,馬は命を与えられて動き出します。天使は大喜び,馬に乗るのに夢中です。神様も乗せてもらってもすぐに落ちてしまい,泣きわめきます。落ちないように天使といっしょに乗ってもすぐに飽きてしまいます。「座ってるのにめいま(めまい)がする」なんてごねて・・・。ほんとに小さい子がぐずってるのと同じ。なまじ神様だと思って読んでいる私は,おいおいもうちょっとしっかりしろよ!とだんだんうっとうしくなってきました。
 青い馬とすっかり仲良くなった天使に神様は焼き餅を焼いて,隠れて天使を困らせたり愚痴ったりします。こんなうっとーしいヤツだれだって嫌なのさ(私はとくにねちねちした性格が苦手)なんて思ってたら,大事件が・・・。「なにが恋さ。馬なんかいなくなれ・・・」神様は思わず夢の中でつぶやきます。さあ大変!神様が夢にみることは現実になってしまうのです。ほんとうにいなくなってしまった青い馬を,天使は見つけだせるでしょうか?ハッピーエンドの結末で,神様がいつか訪れる自分の恋を夢見てる寝顔を見ると,あの子どもっぽいうっとうしさが許せてしまうのでした。


絵本・コミック青い大きな家
ケイト・バンクス作
ゲオルグ・ハレンスレーベン絵
今江祥智訳
 緑深い森のそば、川の目の前に青い大きな家が建っています。そこは、たぶん大家族が夏の休暇を過ごす家。物語は夏から次の夏までの1年間を追っていきます。夏には、洗濯物がたくさん翻り、子どもたちの歓声が響き、青い家はとてもにぎやかです。
 けれども、人々が休暇を終えて帰ってしまうと、一転して青い家は静寂につつまれ、青い色が寂しげに見えます。まるで子どもたちがいなくなったのを、家が悲しんでいるかのようです。ここで初めて青い家の中に入ってみると、なぜか台所の戸棚の扉は開いているし、流しの蛇口からは水がぽっとんぽっとんとしたたっています。誰もいないと時は早く過ぎ、秋から冬へと季節は駆け足で通り過ぎます。
 ネズミがいるのはわかるけれど、どういうわけかネコが入り込み、屋根裏には小鳥が住みついています。子どもたちはいないけれど、誰かが屋根の下で過ごしてくれれば、青い家は心のなぐさめになっているように思えました。雪に閉ざされた冬の間は、ネコとネズミと小鳥も息を詰めて暮らしているようです。春が待ち遠しいのは、人間だけではありません。
 そして、とうとう木々の緑が濃くなると、待ちに待った夏がやってきます。子どもたちのあいさつも聞こえてきます。「こんにちは、あおいいえさん」。子どもたちによって、青い家に心が生まれたのかもしれません。私もこういう家でのんびり一夏を過ごしてみたいなぁ・・・とないものねだりをしてしまいました。


子ども 青い丘のメイゾン
ジャクリーン・ウッドソン作
 「マディソン通りの少女たち」第2巻。第1巻「マーガレットとメイゾン」では父をなくしたばかりのマーガレットの視点で,マディソン通りでの日々の生活が生き生きと描かれていました。マーガレットは全寮制の青い丘学園へ進学してしまったメイゾンを思いながら,暮らしています。この2巻は1巻と時期が重なっており,ただ1人青い丘学園へと旅立ったメイゾンの視点から描かれています。
 1巻の終わりにメイゾンが学校をやめてマディソン通りに帰ってくることがわかっているので,最初からきっとつらい学園生活について書かれているんだろうなあと,読む前からやや気が重かった本でした。もちろん,期待?!通りメイゾンが青い鳥学園に旅立つシーンからの幕開けです。父母のいないメイゾンはしっかり者のおばあちゃんに育てられ,彼女自身も自分の意見をはっきり言える少女です。入学準備のシーンで青い丘学園の制服が緑色のチェックのブレザーなのを,メイゾンが大嫌いな色!と思う場面は,厳しい学園生活を暗示しているようでした。
 青い丘学園に在籍している少女たちのうち黒人はたったの5人。メイゾンは6人目です。彼女が到着するとすぐに5人のうち4人,チャーリ,マリー,シーラ,サンディが早速出迎えてくれます。4人はいつも行動をともにし,細かい寮生活のきまりをメイゾンに教えます。4人の言うことはすべてもっともなことでしたが,黒人という枠をうち破りたいメイゾンには,ときにそれはとてもうっとおしく感じるものでした。黒人の友達とだけ付き合うつもりはないことをある日,メイゾンはきっぱり4人に通告します。「別に守ってもらわなくてもいいんです!自分で決めるからほっといてください。」と。
 あと1人の黒人パウリは,黒人の母と白人の父の混血でした。パウリは父といっしょに育ち,青い丘学園でも白人の友達の間にとけ込んでいるように見えます。チャーリたちと決別したメイゾンは,ある日パウリに話しかけます。しかし,パウリはパウリで,黒人と白人のどちらの社会からも浮いてしまう自分の存在について悩みを抱えていたのでした。
 こういうふうに書くとメイゾンが陰湿ないじめを受け友達がいなかったように思えますが,そんなことはありません。青い丘学園の先生も白人の少女たちもできる限りメイゾンの話を聞こうとしました。私の印象ではメイゾンの言葉遣いがよそよそしすぎたり,ストレートすぎたりするのが気になりました。これでは自分から親しい友達を作らないようにしているのも同然だと思い,結局メイゾンにはマーガレットを超える存在は考えられないことがわかりました。途中でおばあちゃんに電話して心に風が吹き抜けるような気持ちを聞いてもらいたいとメイゾンが思っても,彼女は期待しているおばあちゃんにどうしても弱音を吐くことができません。退学の希望を伝えたのは,やはりマーガレットだったのです。
 メイゾンとマーガレットの深い心のつながりを実証してみせるために,2巻は書かれたのではないでしょうか?最終巻「メイゾンともう一度」で,2人がどうなっていくかがとても楽しみです。


子ども青いクラゲを追いかけて
盛口満作
 どこかで見た名前と絵だなぁと思ったら、あぁ、あの貝拾いがお好きなおじさんだと思い出しました。「ぼくは貝の夢を見る」で、高校の先生をしていた作者がどうして、沖縄の「珊瑚舎スコーレ」という学校の運営にたずさわっているかを読んだのでした。そして、この本では、まさに舞台は沖縄、珊瑚舎スコーレの子どもや大人たちと海の生き物との関わりが生き生きと伝わってきます。
 今回も感心したのは、絵がなんて上手なんだろうってこと。クリアな線から海の生き物の様子が伝わってくるし、きっと描いてある人の顔もそっくりなんでしょう。よくありがちな漫画チックな絵とは一線を画していて、どこか新鮮さを感じさせました。基本的に白黒の線がですが、絵そのものから、クラゲの青さが見えてくるようでした。青いクラゲとは「カツオノカンプリ」という名前で、詳しい絵もあります。クラゲの青さってどんなかな?と私も見たくなりました。
 青いクラゲをとっかかりにして、少しずつ海の生き物のことが語られます。どちらかと言えば、海より山の方が好きで、理科が苦手だった私も、いつの間にかお話に引きこまれて、いっしょに海岸でフィールドワークをしているような気になりました。なるほど、作者の「生き物の謎解きが大好きだ」と謎を解いたときより、謎を見つけた時の方がわくわくするという考え方があるからこそ、楽しく海のお勉強ができるのでしょう。謎を見つけながら、「博物館を作る」という夢をもっていた作者は、思いがけず珊瑚舎スコーレでの展示という形で、ちょっとだけ夢をかなえることができました。細部まで丁寧にかかれた生き物の絵を見ながらお話を読んでいると、作者の海で見つけた生き物(生きているのも、干物になったのも)への愛情さえ感じられます。
 海の「アオ」の住人たちに会えるのは、海と生き物を見て後ずさりしないことが第一条件なんだと思いました。その点で、私は資格ゼロだなと、例によって反省モードで本を閉じました。


絵本・コミック蒼い時
エドワード・ゴーリー作
柴田元幸訳
 この題名で大昔の有名なタレント本を思い出した私って,やっぱり古いです。(たしか中学生のころ大ブレイクした本って,こういうタイトルだったような。勘違いかな)エドワード・ゴーリーというからには一筋縄でいくはずがありません。タイトル通り?!絵に使われている色は,青と黒と白だけ。はっきりした輪郭のユニフォームを着ているような犬?が,2匹どの絵にも出てきます。
 解説を読むと,「蒼い時」というのは,フランス語で「黄昏どき」の意味だそうです。なるほど,そう言われてみれば夏の日が沈んで暗くなる前の夜のにおいを感じるあの時間って,こういう青色をしていたかもしれません。
 犬たちは,縦縞模様で胸元にTの字が入った,タートルネックのおそろいのセーターを着ています。2匹ともいつも顔を見合わせて自転車を引いていたり,ブランコに乗っていたり,とても仲良しに見えます。ところが,仲良しの絵に添えられた言葉は,私には理解不能な領域にあるのです。ボートに乗ってお空に浮かぶオールを見ている2匹の犬。「パセリのサンドイッチが食べたいな。僕の知るかぎり いまはその季節じゃないね。」きっとこういう会話をしているんでしょう。これが絵とどういう関係にあるかは,作者のみ知るのでしょう。
 この絵本は,ゴーリーがスコットランドに旅行したときの体験をもとにして
描かれたとか。いったいこの絵本のどこがスコットランドなのかな?芸術の世界の深淵を垣間見た絵本です。


子ども青い図書カード
ジェリー・スピネッリ作
 全然違う境遇の4人の少年少女のお話ですが、すべての物語に青い図書カード(どうも帯出カードのようです)が深くかかわっています。マングース、ブレンダ、ソンスレイ、エイプリル、みんな心どこかに穴が開いて日常生活にも問題を抱えているのが共通点です。
 マングースはもちろんニックネームです。彼にはウィーゼルという悪ガキの相棒がいて、万引きをしたりスプレーで落書きをしたり、やりたい放題でした。でもひょんなことからマングースは青い図書カードを拾い、「不思議あれこれ」という本を借ります。それが彼の人生の分かれ目でした。本の中の不思議に満ちた世界にすっかり魅せられたマングースは、本から仕入れた知識を人に話したくてたまりません。本の世界の魅力を知らないウィーゼルと知っているマングースの対比が鮮やかでした。
 ソンスレイは、母親を亡くし叔父に引き取られている少年です。彼は悶着ばかり起こし、そのせいで叔父とソンスレイは引っ越し続きです。ソンスレイがハリセンボンのような態度をとるのは、寂しいからでした。彼は母親の愛情の証を求めていたのでした。彼にとっての母親の愛情の証とは・・・?図書館でも読み聞かせのシーンが心にしみました。
 一番気に入ったのはエイプリルの話。エイプリルは友達のいない寂しい女の子。ある日、移動図書館のバスに乗ると高校生くらいのパンク風の少女ナネットにバスジャックされてしまいます。ナネットは恋人のもとへ行き結婚するためにバスジャックをしました。運転手はナネットを待ち合わせの場所まで送ってやり、エイプリルは宝物にしていたニューヨークの図書カードを結婚のお祝いにあげます。手紙を書いてと呼びかけたエイプリルに、忘れたころにナネットから届いた手紙は・・・?2人の心が次第に結びついていく過程が、いい感じです。


絵本・コミック青い日記帳
シンシア・ライラント作
ウェンディ・アンダスン・ハルパリン絵
市河紀子訳
 「小石通りのいとこたち」シリーズ第3巻。小型でかわいい絵本です。このシリーズは、女の子ならうっとりするような素直に愛らしい絵と、絵にぴったりの子どもらしくてちょっとおしゃまな9歳の少女三人組というキャラが、あんまりかわいくなかった自分の少女時代を思い出させてくれます。リリー、テス、ロージーの3人は、従姉妹同士で(リリーとロージーは、双子)、バレリーナの親たちが公演ツアーに出かけている間、花屋をしているルーシーおばさんの家で暮らしています。ルーシーおばさんは、若々しくて素敵な女性です。三人が仲を取り持ったマイケルという植物学者の恋人がいます。
 この巻では、新しく90歳のホワイトさんというおばあさんが登場します。高齢のせいであまり外には出ませんが、ホワイトさんは頭はしっかりしていて、テスたちとクッキーを誕生日にあげたのが縁ですっかり仲良くなります。そのうち気が付くと三人はお裁縫を教えてもらいに、ホワイトさんの家に1日おきに入り浸っていました。いっしょに写真や手紙の整理を手伝うこともあります。手紙は今は亡きホワイトさんの夫と、あのエリノア・ルーズベルト夫人からのものでした。
 古い手紙を見て、テスたちは自分たちもルーシーおばさんの家で暮らした1年を日記につけることを思い立ちます。思い立ったが吉日、行動力抜群の三人は、すぐに文房具屋さんで青い日記帳を買い(お小遣いを出し合って)、一人ずつ書き込み始めるのでした。さしずめ従姉妹たちの交換日記といったところでしょうか。
 とにかく登場人物が、みんないい人ばかり。だれもが幸せそうな表情の絵とあいまって、読んでいてまぶしい気もしました。疑うことをしらない9歳の少女たちが、こういう町で暮らせてほんとうによかったなと思いました。


児童文学青い目のネコと魔女をおえ
マインダート・ディヤング作
黒沢浩訳
木村良雄絵
 今から1000年も前の迷信深い時代のオランダが舞台です。オランダのカトベルローレンという砂丘の村には、賢いおばあさんがいました。「賢いおばあさん」とは、きっと薬草やお天気を予測するすべに長けていて、きっとちょっとした病気なら直せるほどの実力を持っていたことでしょう。「賢いおばあさん」と聞いただけで「魔女狩り」を連想したのは、今まで読んできた魔女狩りの物語に、印象的な「ワイズ・ウーマン」が出てきたからです。「運命の騎士」(サトクリフ)に登場するアンクレットもそうでした。
 賢いおばあさんの信条は、「神のつくりたまいしもの、すべて生きる権利あるべし」でした。だから、巣から落ちたカササギの雛を助けるのは、彼女にとって当たり前のことでした。ましてや、おぼれかけた子猫を助けてやるのも、もちろん当たり前。そのネコの片眼が緑色でもう片方が青色でも、彼女の信条にはまったく影響なしでした。
 賢いおばあさんが助けたネコは、村人が目の色が違うのを見つけて不吉だと溺れさせようとしたネコでした。偶然通りかかったおばあさんが助けたのは、不幸な偶然が重なる手始めでした。おばあさんはカササギとネコといっしょに暮らし、いつしか普通では敵同士の鳥とネコもそれなりに仲良く暮らすようになりました。
 おばあさんの家は、たまたまお墓の隣にありました。村人は、ある時ネコとカササギが仲良く話をしているような光景を目にして、不信感を芽生えさせます。さらに、そのネコは確か溺れさせたはずのあの青い目を片方もつネコではありませんか。さらに決定的なのは、村に原因不明の病気が流行り、ほとんどすべての子どもが熱を出して寝込んでしまいました。
 村人たちの目は、賢いおばあさんが魔女だという見方に一気に傾いてきます。そんな折も折、ただ一人元気だった赤ちゃんが行方不明に・・・。村人たちはとうとうおばあさんを魔女だと思いこんでしまうのです。村人たちに捕まえられてしまったおばあさんは・・・?たいていの魔女狩り本のように悲しい結末でなかったので、ほんとうに安心しました。読み終わってからも、九死に一生を得たおばあさんのその後は幸せでよかったと、自分が助かったように思えました。


児童文学あおいろの童話集
アンドルー・ラング編
西村醇子監修
H・J・フォード、G・P・ジェイコム=フッド絵
 「アンドルー・ラング世界童話集」第1巻。アンドルー・ラングは、19世紀中頃に生まれたイギリスの民俗学者にして作家だそうです。彼は世界中の童話の蒐集に尽力し、童話の創作をなさったそうです。なんでもこの「アーサー・ラング世界童話集」は、なんと全12巻にもなるそうで、いったいどれだけの童話を集めたんだろう・・・とただただ努力に脱帽です。
 この巻に収められている18編の童話には、アラビアン・ナイトから採られた「アラディンと魔法のランプ」や「四十人の盗賊(もちろん、アリババとに決まっています)」など、とても有名なお話がいくつか含まれています。しかし中には、アーサー・ラングが蒐集した時代から100年余りの間に、完全に忘れられてしまったお話もあり、やはりこの世界童話集は民俗学の見地からしても貴重かもしれないと思いました。
 あれっと思ったのは「白い猫」です。このお話は、先日読んだ絵本の元のお話のようで、強い既視感がありました。おそらくアンドルー・ラングと同時代の二人の画家による挿絵は、19世紀の雅な?雰囲気をストレートに伝えていて、見ているだけで童話が高雅な物語のように感じられました。昔の人々は、たかが童話の挿絵にも完全な美人顔を書き、崩れた人物が見あたりません。悪者でも、そこそこ白皙の貴公子に見えるのは、コミックを読み慣れている私には様式美を強く感じたから。お話よりも、実は挿絵を見ている方が、昔の絵本を眺めているようで心地よかったです。
 これから後の11巻。昔話はおもしろくないことはないけれど、読んで心に残るというものではないと、1巻を読んで思いました。この本を読む時間を、もうちょっとわくわくする現代のお話を読むのに使うだろうな〜と、つい思ってしまったのでした。


児童文学蒼き戦記1
吉橋通夫作
瀬島健太郎絵
 副題「はるかな道へ」。不思議な生き物たちがいる世界は、どこか東洋風。主人公の少女アオや仲間のシュン、リョウ、ヨモギは着物風の衣服を身につけています。出てくる国の名前も、瑞穂のクニがアオたちふるさとですが、「瑞穂」とか「クニ」とかということは、古代日本をイメージしているのでしょう。さらに敵対するのは、玄武国。おおっ?カメの国と勝手に想像したのは、いたしかたありません。
 アオは不思議な力を持つ少女です。どういうわけか、人間以外の生き物の気持ちが分かるのです。その力を育ての親のじっちゃんは、決して人に言ってはならないと言い含めていますが、あっけらかんとしたアオは聞く耳をもちません。アオはいつも仲間と行動し、元気いっぱいに過ごしていました。
 アオはどうやらクニ長の息子のリョウに心を寄せているらしい。何となく中国的だなと思ったのは、武術には秀でていないけれど考え深く賢い少年が「リョウ」なのは、どうやら三国志の諸葛亮をモデルにしているのではないかと思いをめぐらせました。お話が子ども向きで、あまりに簡単に戦いが起きたり、敵国の偵察に年端もいかない(と言っても中学生くらいですが)少年少女が勝手に出かけてしまったりするので、せめて物語の背景を知りたくなったわけです。アオにはどうやら出生の秘密があるらしく、大きな怪鳥クゥがアオに付き従うのは、彼女の生まれに関係あるらしいと伏線が張られます。
 玄武国の王は女王で、とても自己チューで征服欲が強いと知れます。人質として連れて行かれてしまったリョウを救うために、シュンとアオはたった二人で敵国に潜入します。武力に優れた雄孟将軍(名前からして中国的。でもほんとうに中国名ならば孟雄になるはずですが、それも字で)が手塩にかけた城なのに、どうしてお子様二人が忍び込めて、囚われている各国のVIPを解放できるのかが、最後まで謎でした。
 玄武国に攻められた瑞穂のクニが何とか征服を跳ね返したのは、大がかりな地滑りのおかげでした。こんなまるで元寇みたいな結末でいいのかな〜と思ったのは、歴史小説の読み過ぎ?


児童文学蒼き戦記2
吉橋通夫作
瀬島健太郎絵
 副題「空と海への冒険」。前巻「はるかな道へ」からそのまま続くお話です。何とか玄武国の征服を地滑りによってはねのけた瑞穂のクニ。若者たち4人組(アオ、リョウ、シュン、ヨモギ)は大人たちと船に乗って、大機国へ向かいます。大機国には、玄武国の牢から解放した隼人さんがいて、アオたちを温かく迎えてくれます。今回新たに登場したのは、「漢都国」の面々です。シーク(どうやらイルカのことらしい)の母親を捕らえた不埒な船が、漢都国からやってきた船でした。船で命令を出していたのは、魏勝という者です。この名前からして「魏」がついていて、漢都国には皇帝がいて高価な薬がたくさんあると言い切るところも、中国の王朝的です。まさか三国志の悪役そのままに、名前に「曹」をつけるわけにはいかなかったので、国名の「魏」にしたのではないかと、またまたかんぐってしまいました。
 大機国はその名の通り、いろいろな機械を開発したり、鉱物資源を精錬したりすることに長けている国らしい。しかし、まるで水銀汚染やヒ素汚染のように精錬によって川に汚水を垂れ流し水質汚濁を引き起こしていることにまったく気付きません。川底にたまった泥が海に流れ出ると、海の生き物たちに深刻な打撃を与えることに気付いたのは、なんとアオでした。しかし、アオがどんなにそのことを大機国の大人たちに訴えても、まったく無反応なのも(そういうものだよな〜)と、大人の私には無力感は慣れっこなのでした。
 大機国では、火薬の開発も行われていました、火薬を弓矢に仕込むと恐るべき武器ができます。それを知った宿敵玄武国では、間者を放って火薬を作っている仕事場を爆破させます。その時あおりをくらって、アオと同郷の人々が何人も亡くなり、アオも一時的に目が見えなくなってしまったのは、ほんとうに気の毒なことでした。
 事態を打開してくれたのは、またしても怪鳥クゥでした。怪鳥というとまず思い出すのは、「バビル2世」のロプロス。アオの目が見えるように、効き目のある泉まで連れて行ってくれるなど、ほんとうに献身的です。戦いでも、さすがに飛行機はないので、クゥの攻撃が有効です。そして(またかい・・・)と思ったのは、懲りずに攻めてきた雄孟将軍の敗れ方でした。
 この巻では、アオの出生の秘密についてはほとんど進展なし。読みやすいので、どんどん次に進めます。


児童文学青き竜の伝説
久保田香里作
戸部淑絵
 古代日本を舞台にしたファンタジー。一筋縄ではいかない展開、どこか希望を感じさせる結末、今風のわかりやすい絵など、一読して(気合いが入っているなぁ)と思いました。しかし、主人公の「あかる」という名前や、不思議な力を召還する3つの玉(勾玉ではないらしい)、湖の竜など、一つ一つの要素が(どこかで読んだお話にもあったっけ)と二番煎じに思えてなりませんでした。微妙に変えてはあるのですが、「あかる」→「白鳥異伝」、倭の侵攻→「火の鳥」・・・と、ついつい作者にそういう意図がなくても、心に残っているファンタジーを連想してしまうのは、読者としてやむをえないことでしょう。
 感心したのは、敵味方が単純に善悪ではかれない展開です。侵攻してきた倭の軍勢の人々が悪逆の限りを尽くすわけではなく、自らを「飾り物」と皮肉に自認する皇子とあかるは分かり合うことができました。村のえらい老巫女や聖なる湖の巫女にしても、決して正義の道をきちんと歩いてきたわけではありません。老巫女は若いとき湖の巫女を罠にはめ、それが原因で湖の巫女は生まれ変わることができず、長い虜囚生活を強いられたのでした。相手が死んでしまったとはいえ、そういう恨みが簡単に消えるはずもなく、やっと取り戻した力を村を滅ぼすのに使おうとしたのは、(私でもそうするだろうな)と共感しました。
 結局、何とかことを納めたのは、若いあかると若い巫女の更羽、そして飾り物?の巫女、一鷹でした。倭の侵攻を無理矢理はねのけたのなら、(どこか不自然なハッピーエンドだな)と思えたでしょうが、ちゃんとそれなりに現実を受け入れて、あかるの村では大陸から伝えられたばかりの馬の飼育を生業とすることが決まりました。現実的な結末と登場人物の現実的な振る舞いが、子どものためのファンタジーとしては、異色だなと思えました。


その他青に捧げる悪夢
恩田陸他作
 知らなかったけれど「赤に捧げる殺意」の続編のアンソロジーだそうです。。恩田陸の名前に引かれて借りてきた本なので、「赤〜」よりも知っている作家が多かったです。大人のミステリーやホラー作家の本をあまり読んでいないので、「赤〜」で知っているのは赤川次郎だけというのが笑っちゃいました。この「青〜」は恩田陸に始まり、若竹七海・近藤史恵・小林泰三・乙一・篠田真由美・新津きよみ・岡本賢一・瀬川ことび・はやみねかおるというラインナップです。この中で他の作品を読んだことがあるのは、恩田陸・篠田真由美・はやみねかおるの3人だけでした。
 お目当ての恩田陸の作品は、「水晶の夜、翡翠の剣」で、「麦の海に沈む果実」の憂里が顔を出します。例の世間と隔絶した良家の子女が集まる寄宿学校が舞台で、ヨハンという国籍不明の美少年が主人公です。「笑いカワセミ」の歌にそった悪質ないたずら(へたをすれば大けがをするような)が続き、ジェイという年少の美少年が疑いをかけられます。謎解きがされてみるとそう意外な結末でもなかったけれど、美しい少年少女の中でもきちんと殺人事件が起きるのに違和感を感じました。ヨハンや憂里の住む世界は、竹宮恵子のコミックを思い出させ、ヨハンは「風と木の歌」に出てきた少年たちを思い浮かべながら読みました。作者が竹宮コミックを意識して書いているのかどうかを確かめたくなりました。
 一番ぞっとしたのは、「闇の羽音」(岡本賢一)です。何が嫌いと言って私は蜂が大の苦手。それと知らずに読んだら、大きな寄生蜂が殺人鬼のように人を襲う話ではありませんか。主人公の子どもたちといっしょに必死で蜂から逃げているような気がして、恐さで胸がどきどきしました。ますます蜂が嫌いになり、スズメバチでも見た日には、全力疾走で逃げ出すことでしょう。
 はやみねかおるの「天狗と宿題、幼なじみ」は、子ども向けの物語をたくさん書いている作家らしく、子どもが主人公でした。長老の昔話を聞いて天狗の正体を現代の子どもが明らかにする展開は、読み慣れた本の世界にやっともどってきたようでした。ゲームを買ってもらうと「30分はやってあげているけど、それ以上はとんでもない」と言い切る変人の快人がユニークでおもしろかったです。賢いけど世間と微妙にずれている快人と要領良さの固まりみたいな春奈のコンビは、はやみねかおる本でおなじみです。10編のお話の中で、やたら血が流れたり後味が悪い作品以外の作家(若竹七海がよかった)の本を、少しずつ読んでみようと思います。


その他青森ドロップキッカーズ
森沢明夫作
加藤美紀絵
 青森に住む柚香と陽香、そして中学生の宏海と雄大の4人が、「青森ドロップキッカーズ」のメンバーです。カーリングのチームを4人が組むまでに紆余曲折があり、やっとタイトルのチームが成立したのは、物語が半分も過ぎてからでした。最初にクローズアップされるのは、もともとカーリングの選手だった柚香と陽香の去就です。最初は、地元でチームを組んでいたのですが、姉妹で長野県出身の強豪二人とプレイすることになりました。厳しい練習に耐え、毎日トレーニングをしているうちに、柚香と陽香の実力派どんどん上がりますが、スポンサーの都合で長野出身の金城と金本は、他の強豪メンバーとチームを組むことになってしまいます。元のメンバーに声をかけるわけにもいかず、柚香と陽香は取りあえずフリーになってしまったのでした。
 一方、カーリング初心者の宏海と雄大は、もともと幼なじみです。しかし、中学生になって宏海がいじめられるようになると、雄大はあろうことかいじめるグループに加わっていたのです。しかし、こちらもすったもんだの末、雄大はいじめグループを抜け、元通り宏海とつるむことになったのでした。いじめられて孤独な時、ひょんなことから宏海はカーリングのおもしろさにはまりました。宏海が雄大を誘ってカーリングを始めた時が、柚香と陽香と出会った時でした。
 4人のチーム「青森ドロップキッカーズ」は一回戦で負けてしまいましたが、4人のつながりは切れたわけではなく、ずっとカーリング友達でいられたのがよかったです。宏海と雄大はカーリング部がある私立高校に進学し、熱心にカーリングを続けていました。もう一つのクライマックスで、雄大は反則を犯したことを正直に告げ、優勝を逃してしまいます。カーリング精神では、反則を自己申告することになっていて、究極のフェアプレイ精神が貴ばれているからです。
 読後感が爽やかなのは、登場人物がひたすら前を向いてまっすぐに歩いているから。まっとうさに息が詰まりそうになったけれど、これだけ打ち込めるものがあれば、いうことないだろうなとうらやましくなりました。


児童文学青矢号
ジャンニ・ロダーリ作
関口英子訳
平澤朋子絵
 ジャンニ・ロダーリと言えば、「チポリーノの冒険」以来です。なつかしい気持ちで(同じように子どもらしさにあふれた物語かな)と思ったら、期待通りでした。
 副題を「おもちゃの夜行列車」といい、1月6日に子どもたちにおもちゃを配って回るベファーナというおばあさんがまず登場します。ベファーナは普段はおもちゃ屋をしていて、注文されたおもちゃを1月6日にほうきに乗って配達します。ベファーナはサンタクロースと同じように煙突から家に入るところが、(もとはサンタクロースと同じかな)と微笑ましかったです。
 サンタクロースとベファーナの違うところは、どうやら人々(世の親たち)はお金を払ってベファーナにおもちゃを注文していることです。ですから、おもちゃがほしくても親が注文していなかったら、その家の子どもはおもちゃをもらえません。このお話では家が貧しくておもちゃがもらえない子どもたちがたくさん出てきます。その一人のフランチェスコは、毎日ベファーナの店の前にやってきて、あこがれに満ちた目で飾られているおもちゃをながめていました。フランチェスコが特にじっと見ていたのは、青矢号という汽車のおもちゃです。
 おもしろいのは、おもちゃたちも心を持っていて、そのうちにフランチェスコがやってくるのを楽しみにするようになりました。そしてとうとうおもちゃたちは、フランチェスコたちのようなおもちゃをほしくてももらえない子どもたちのところに自分たちで行くことに決めたのでした。
 青矢号に乗ったおもちゃたちが、雪の夜に次々と脱落していくように見えながら、実は自分たちの居場所をきちんと定めていくのが興味深かった。偶然の産物のように見えるけれど、おもちゃたちはほんとうにぴったりな場所に落ち着きます。とうとう最後にフランチェスコのところにやってきたのが何かというオチが感動的でした。ベファーナが魔女みたいな悪者ではなく、きちんと仕事をするおばあさんで、フランチェスコがベファーナの店で店員として働くのは、自然な成り行きのハッピーエンドで感心しました。


絵本・コミック赤い蝋燭と人魚
小川未明作
坂井駒子絵
 お話自体は,小学生のころからのお友達でした。小川未明のお話の結末は,「幼年童話」と銘打ってありながら子ども心にずっしりと重くのしかかり,その重さに快感を覚えていたのが蘇ってきます。アンハッピーエンドは今でも好きではありませんが,ここまで鬼気迫るような終わり方だと逆にしっかり心に刻まれていました。
 坂井駒子さんの絵は,可憐な少女と暗い背景が対照的でお話と雰囲気がぴったり合っています。北の海の暗さとアザラシの絵の組み合わせが以外でした。今まで私は,このお話の舞台が日本の北国(たとえば日本海に面した新潟とか山形とかの港だったり,三陸海岸の小さな漁村だったり)だと思いこんでいました。蝋燭が灯されるお宮があるということは,もちろん日本でのお話でしょうが,アザラシの絵をみてむしょうにケルト伝説に登場するセルキーを思い出しました。そもそも,人魚というのも日本では妖怪扱い。アンデルセン童話の「人魚姫」のようなわけにはいきません。
 人間のもとへ生まれたばかりの娘を送り出す母親の人魚は,どうしてひとりぼっちだったのでしょうか。娘の父親はどこへいったのだろう?まさか暗い海を後にして,身重の妻を置き去りにしたのでしょうか。それとも,何か不幸な事件で命を落としたのでしょうか。どこにも書いてありませんが,暗い海の絵からどうしても不幸な展開ばかり浮かんできます。母親は,自分の不幸を断ち切って娘には明るい幸せをつかんでほしかったのでしょう。
 でも,いつの世も人間は弱いもの。娘を大切に育てかわいがっていたはずの養父母の老人たちも,「人魚は縁起が悪い」という香具師の言葉にころっと態度を変えます。何か恐ろしいことが起こりそうな予感は,悲しそうにうつむく可憐な少女を見ると,どんどん高まってきます。
 青みがかった透き通るような肌の色は,坂井駒子さんの絵の特徴です。幸せが必ず壊れてしまう緊張感を感じながら,ページをめくりました。物語の展開だけでなく,次はどんな絵が見られるだろうという期待感もふくらんだ絵本です。


子ども赤い糸のなぞ
コース・メインデルツ作
野坂悦子訳
岡本順絵
 何気なく半分まで読んで、びっくりしました。急に本の文字の天地がひっくり返っているのです。あれ?まちがえたかな?と本をひっくり返して読もうとすると何か変。なんと、表紙と背表紙の両方から登場人物が違うお話が進んでいって、真ん中で出会うというわけです。縦書きなので、当然天地がひっくり返り、出会いのシーンは見開き2ページの気球の絵なので、天地は関係ないという懲りよう。遊び心いっぱいで技あり!とうれしくなりました。
 表紙(背表紙かもしれません)から始まる物語の主人公は、クマのアダ(女の子)。ある朝アダが起きてみると、見知らぬ赤い糸がベッドの足に結びつけられているではありませんか!アダは不思議に思って、赤い糸をたどっていきます。おてんばで元気なアダの糸のたどり方は、あっちこっちに脱線するのがおもしろい。自転車、ローラースルー、ローラースケートと、乗り物を乗り継いで事件に首をつっこみながら、赤い糸の行方を追うのが、アダらしいのです。赤い糸をたどっていって出会ったのは?
 背表紙(表紙かもしれません)から始まる物語の、もう一人の主人公はクマのゼベデウス(男の子)。彼もある朝ベッドの足に結びつけられた赤い糸を見て怪訝に思い、あとをたどり始めます。考え深いゼベデウスは、家を出てとことこ歩き始めました。森の中に入っていたゼベデウスは、怪物に出会ってお茶をごちそうになります。優しいものごしのゼベデウスはだれとでも友達になれる特技で、行く先々でいつの間にか珍しい友達を作るのが、彼らしいやり方です。そして、最後に出会ったのは?
 正反対の二人が赤い糸で結びつけられていたのは、きっとうまくいく証拠でしょう。赤い糸というのは、国際的な縁結びのしるし?


児童文学赤い髪のミウ
末吉暁子作
平澤朋子絵
 主人公の山川航は、反抗期とイジメと非行がかちあい不登校になった小学6年生です。彼は家にいたたまれず、自分から言い出して神高島の小学校に「留学」します。神高島は、モデルが久高島だそうで(といっても、初めて聞く名前です)、沖縄本島の南東部にある小さな島だそうです。キジムナーなど妖怪たちや神様がごく近くに感じられる神高島で、航はミウという燃えるように赤い神の少女と知り合います。ミウも神高島に一足早く留学していて、島の人々にすっかりとけ込んでいました。
 留学先の寮には個室はなく、航はいきなり面食らいます。24時間大部屋というのは、引きこもってゲームばかりしていた少年にとって、なかなかな試練だったでしょう。簡単に航が寮に馴染んだように書いてありますが、実際にはそううまくはいかないだろうなと思いました。
 島の人々も独特です。だいたい、フェリーに乗れば誰かがちゃんと姿を見ていて、スーパーで万引きをしても筒抜け。言い意味でも悪い意味でも、島ではすべてお見通しだと知れました。そういう環境に慣れなくて、とうとう家に帰ってしまった子がいるのも、いたしかないことでしょう。航も家に帰りたい年下の子につきあって、飛行場まで行ったものの、そこで引き返したことがありました。
 読んでいて、島に伝わる不思議な伝説が現実のできごとのように航の身に起きるのがとてもおもしろかった。そういう目で見ると、ミウも留学生でありながら、島の精霊の一人のように思えてきます。クライマックスは、航が精霊を怒らせて「おまえの一番大切なものを奪ってやる」と言われ、彼の代わりにミウが溺れてしまうこと。心を傾ける対象が見つかって初めて、航は自己チューな自分の甘さを知ったわけでした。
 困った男の子が更正するお話と書くと説教くさくて読む気になりませんが、沖縄地方の精霊とのつながりを感じるプロセスだと思うと、違う目でどんどんページがめくれました。もちろん、ミウ自身も義父から虐待されて、神高島に留学した経緯があるという事実も重みを添えています。


ミステリー赤いこうもり傘
赤川次郎作
永田智子絵
 主人公の女子高生の島中瞳は、天才ヴァイオリニストの娘で、T学園のオーケストラでコンサート・マスターをしています。両親は数年前飛行機事故で死亡し、今はヴァイオリンの恩師の佐野俊夫の家に寄寓しています。話の大筋とは関係ないけれど、佐野先生はまるで「名探偵コナン」の阿笠博士みたいに間が抜けていておもしろかったです。
 ある日、電車の中でヤクザに絡まれている女性を助けたことが事件の発端でした。瞳は実はフェンシングの達人で、父の形見の赤いこうもり傘でヤクザを撃退したのでした。そのとき、たまたまいっしょに戦った東裕二も持っていたヴァイオリンと瞳のヴァイオリンが入れ替わったことで、瞳は事件の渦中にどんどんはまっていきます。入れ替わったヴァイオリンは、なんとストラディバリウスだったのです。
 折しも英国からBBC交響楽団が来日していて、事件は楽団員の高価な楽器をねらったものでした。どういうわけかドイツ人の殺し屋「伯爵」や英国の諜報部員も暗躍して、ただの楽器盗難事件から複雑な様相を呈してきます。東裕二はけがをして重態、突然の襲撃で病院が停電するとあっけなく亡くなってしまいます。
 危ないところを助けてくれた英国人のジェイムズといいムードになった瞳は、フェンシングの腕を生かして伯爵とも渡り合います。事件そのものは、味方の裏切りが発覚して(やっぱりなぁ)的結末でした。気になったのは、ジェイムズです。40代の紳士だというジェイムズは、どうみても007のジェームズ・ボンドとしか思えません。さすがに「ボンド」とは書いてありませんが、女性にもてそうなところや過去に恋人が事件にからむところなど、いかにも007にありがちな展開です。つまり、瞳は年若いボンドガールということになるでしょうかね。赤川さんが冗談で007の番外編を書いたようでした。


ファンタジー 赤い月と黒の山
ジョイ・チャント作 
 堂々たる異世界ファンタジーでした。評論社の「文学の部屋」シリーズはだいたい読破したつもりでしたが,こんなところに大きな穴がありました。いにしえ,私が純情な高校生だったころ,「指輪物語」が流行し,アニメ映画も作られた時期がありました。当時の流行にのって私はやっと「指輪物語」を読みすっかり虜になって,以後ファンタジーの世界にどっぷりつかっています。
 でもいつしかファンタジー流行は下火になり,ファンタジー好きな私は,「指輪物語」もどきでないファンタジーを見つけるとうれしくて,ずっとファンタジー道を歩いてきたのでした。どちらかというとヤングアダルト系が多いファンタジー本を,いい大人が読むのは気が引けて,本が好きだということを公言してもジャンルは秘密にしてきたのですが,このごろちょっと風向きが変わってきました。「ハリポタ」シリーズのせいです。書店には目立つところに,ファンタジー本が山積みされ,それがごく普通の光景になりました。近所の小さい書店ですら(失礼!),ちゃんと異世界ファンタジーコーナーができていて,「ハリポタ」とともに「プリデイン物語」や「指輪物語」,そして「ダレン・シャン」などごく最近出た「ハリポタ」もどきの本が置いてありました。なんで「ゲド戦記」がないんだー?と思いましたが・・・。
 で,やっとこさ「赤い月と黒の山」を読むことにしたんですが,これがまた典型的な「ハイ・ファンタジー」,異世界に行って帰ってくる物語なのです。主人公はオリヴァ,ニコラス,ペネロピの兄妹です。彼らは早春のある日,突然異世界ヴァンダーライに紛れ込んでしまいます。オリヴァとニコラス,ペネロピは,別々の場所に行き着きます。オリヴァは北方のシリノイ族に迎えられ,族長にかわいがられて武術の腕を磨きます。興味深いのは,オリヴァがしだいに自分のもとの名前を忘れて,シリノイ族での呼び名リーヴァンに馴染んでいく過程です。完全にリーヴァンとインプットしたときには,彼はシリノイ族屈指の勇者になっていました。(そんなにうまくいくかねぇなんて不謹慎なことを感じさせない,緻密な筆致です)
 ペネロピとニコラスは黒の山で,気が付きます。自分たちがいる場所がわからないうちに,2人は美しい王女に助けられます。彼女は黒の山に大鷲の戦いを見に行く途中でした。王女の名はインセリンナ,星仙術を操る女性でした。インセリンナとペネロピは,互いに互いの運命を左右する関係になっていきます。
 読み進むにつれて明らかになっていくのは,異世界においてオリヴァもニコラスもペネロピも,予言によって役目が定められていることです。つまりエピック・ファンタジーのお約束をきちんと践んでいるわけ。オリヴァの宿命は最もドラマチックで悲劇的で英雄的です。そして呪いの成就を体現するペネロピ,部族に急を告げる役割を果たすニコラスも,必然の中にきちんと組み込まれていて,見事な伏線でした。
 このごろのお子さま向けの「もどき」のファンタジーには「柳の下にはドジョウがたくさん」という出版界の困った諺を思い出しますが,正統派ファンタジーならこれ!と言える本を,また1冊見つけることができてうれしいです。


児童文学あかいろの童話集
アンドルー・ラング作
西村醇子訳
 「アンドルー・ラング世界童話集」第2巻。「あかいろ」から連想するのは、薔薇の花だったり血の色だったり。童話集といいながら、ひところはやった「ほんとうは恐いグリム童話」みたいに、かなりえぐい話もあります。だいたい、昔も今も偉い人の倫理観はどうなってるんだ〜と、言いたくなりましたが、昔と今の考え方が同じはずはないなぁと思い直しました。
 代表的なお話のパターンの一つは、お姫様が悪者のせいで悲惨な境遇に陥ったけれども、そのうち起死回生の何かのおかげで元の地位に返り咲き、悪者はきっちり罰を受けるというものです。そして主人公のお姫様は、例外なく美人。美しくなければヒロインにはなれないのも、昔の童話のお約束だと確認しました。もちろん、お姫様と結婚する王子さまも凛々しく優しいのは当たり前。そんじょそこらの普通の人のどうってことないお話は、昔話の童話になりえないというわけでした。
 ですから、読んでいてついつい(またかね・・・)と思えるのは仕方がありません。「木の衣のカーリ」は、シンデレラのお話そのまま。美しい乙女が身をやつして下働きをして(させられて)いたものの、ちゃんと見るべき目をもった王子さまは、彼女を見付けてくれます。もちろん、カーリの味方にちゃんとした魔法使い(または妖精)がついているのは言うまでもありません。
 ちょっと意外でおもしろかったのは、「黒い盗っ人と谷間の騎士」です。黒い盗っ人は義賊で、数々の危機を乗り越えてきました。彼が自分の危なかった話を騎士に話すのは、王子たちの命を助けたいから。その話は嘘ではないことが、最後に騎士自身が話に取り込まれることで実証される結末が珍しかったです。
 格調高い昔の挿絵では、美しいお姫様も類型的。ついつい手に取ってしまうけれど、活字中毒の時間つぶしにするにも、途中で眠くなるのが難点です。まさか全12巻がこういうお話え埋め尽くされているのかと思うと、気が遠くなりそうです。


その他赤毛のアンに隠されたシェイクスピア
松本侑子作
 読んでみてまず思ったのは,心からの「お疲れさま」でした。「赤毛のアン」は,私の中学時代からの愛読書です。最近はちょっとご無沙汰でしたが,この本を読んで久しぶりにアンに会いたくなりました。「アン」を読んでいて,大げさな物言いが好きなアンの言葉遣いをおもしろがりはしても,出典を調べようと思ったことはありませんでした。
 この本は,「アン」に出てくる少しでも引用くさい表現を取り上げて(えぇっ,こんなのが引用?!という言葉もありました。疑わしきは調べてみるというスタンスに頭が下がりました。),欧米の図書館の資料を検索するなどコンピュータを駆使して,出典を探っています。もっとも,コンピュータで検索できるようになったのは,そう以前のことではないので,執筆を始めたころのトピックスを読むと,「よくぞここまで」とまたまた頭が下がります。
 作者モンゴメリーがシェイクスピアを始めイギリス文学を好んで読んでいたこともあって,「アン」にはほんとうにたくさんの引用があります。中には原典の意味を生かしながらわざとパロディー風に仕立ててあるところも見つかります。すーっと読むとわからないチェックを松本さんがしてくれたおかげで,読者の私は「ほーほーなるほど。」と,素直に感心しながら読むことができました。
 物語を読むとき,私はストーリー重視で細かい表現を追求して読んだことがないので,この本の指摘はとてもおもしろかったです。そういえば,卒論で「源氏物語」の「六条御息所」を取り上げ,彼女に使われている言葉をカウントして選別し,他の登場人物(「明石の上」)と比較したことがありました。1語1語にひっかかるという読み方では,共通したものを感じてなつかしくなりました。アンはやせっぽちでみっともない少女として登場しますが,モンゴメリーはアンの中に将来の美しい姿を内包していたことが,この本の引用を読んでわかるような気がしました。
 実は「アン」シリーズの中で一番好きなのが第1巻「赤毛のアン」なわけは,主人公アンの引け目にとても親近感を感じるからです。「アンの青春」以降もおもしろく読みましたが,1巻ほどの悩む姿は描かれていないように思います。物語によくある美しい乙女がどんなに逡巡しようと,常人の私の心に響くことはなかったのかもしれません。「アン」の中で1つだけ私にもわかる引用があります。それは,アンが「コーデリアと呼んでくださらない?」と言うシーンです。「コーデリア」って,きっと「リア王」のまっとうな妹姫のことに違いないと思っていました。当たーりー!松本さんも同意見でした。


児童文学赤毛の女医アン
福田隆浩作
イナアキコ絵
 ぱっと見ると「赤毛のアン」に見えるのが、タイトルのミソでしょう。しかし、もちろんあの有名な物語とはまったく無関係、地方の診療所に赴任した北御門杏子(アン先生)を巡る物語です。主人公は、診療所にアン先生と同時に赴任してきた看護師のひとみ。彼女は、診療所に向かう電車にアン先生と乗り合わせ、彼女のものすごく手際のいい医者としての技術を目の当たりにします。
 いきなりすべての事情が明らかにあるのではないのが、このお話の展開です。少なくともひとみには、何か職場を移らなければならない事情があったはず。読んでいるうちに、まるでうわさ話をつなぎ合わせるように、ひとみの事情が明らかになってくるので、ついついお話に引きこまれてしまいました。ひとみは、医療過誤ではないけれど、たまたま自分が受け持った患者が亡くなってしまったことに、強い責任を感じていたのです。
 アン先生にも何か事情がありそうですが、あまりにも型破りであっけらかんとしていて、ものごとに頓着しないように見えるので、彼女の波瀾万丈の診療を読んでいるだけで精一杯でした。実際、アン先生を招聘したのは、ひとみの知り合いの医師ですが、彼はアメリカに研究のため旅立ち、診療所の院長は彼の母親の元女医です。葉子先生(元女医)は、他人には厳しいのに身内には甘い困った親のようでもあり、冷徹な目で勤務評定をする経営者のようでもあります。アン先生がやってきて、診療所にやってくる患者が減ったのを糾弾し、一か月で患者の数が元に戻らなければ辞めてほしいと約束を取り付けてしまったから大変です。
 それなのに、あせっているのは、看護師ばかり。アン先生は太っ腹に意にも介しません。もっとも、最後まで読むと、実はアン先生の太っ腹には細心の注意に裏打ちされた確かな根拠があったことが分かり、胸がすっとしました。最後まで読んでも、まだひとみやアン先生関連の事情がすべて明らかにされたわけではないのが、奥歯に何かはさまったようで気になりました。忘れる前に続きを読みたいものです。


子ども 赤ちゃんがきた!
グードルン・メプス作
ズザンネ・ベルナー絵
齋藤尚子訳
 ダービドの家で赤ちゃんが生まれる前のわくわく気持ちから、妹のマリーが生まれてよちよち歩きを始めるまでの疾風怒濤の日々を微笑ましく綴ったお話です。語り手は、お兄ちゃんのダービドなので、子どもの視点からお父さんやお母さんのてんやわんやぶりがうかがい知れます。赤ちゃんの名前を決めるシーンでは、両親だけでなく、ダービドもちゃんと話し合いに加わり、男の子ならモーリッツ、女の子ならマリーと決まりました。生まれるまでは「マリーモーリッツ」。ダービドが最初いいと思った「プームックル」って、確か昔話に出てきた名前な気がします。
 妹のマリーが生まれて、最初のうちはみんな円満でしたが、お父さんもお母さんも次第に疲れてよれよれになっていきます。マリーの夜泣きが始まったころです。ずーっと前、子ざるたちが赤ちゃんだったときの3ヶ月くらいのころをなつかしく思い出しました。ダービドのお父さんは、ちゃんと育児に協力しているからえらい。ダービドはお父さんが遊んでくれなくなったとぶーたれ、とうとう爆発します。それが育児疲れのピークでした。
 一人で座れるようになって、はいはいできるようになって、つかまり立ちできるようになって、マリーはだんだんかわいくなってきます。マリーの相手をするうちに、ダービドの心の中にも次第にお兄ちゃんだという自覚が生まれます。クライマックスは、マリーがダービドの前で初めて歩いたとき。すぐに両親を呼ばずに、手をつないで二人で台所に入っていくと、両親はびっくりしました。こんなふうに初歩きをご披露してもらえるなんて、マリーは幸せだなぁと思いました。それと、マリーが初めて「いや」と話したときも、「いや」の頭文字がつく食べ物を食べてお祝いするという習慣もおもしろかった。ドイツでは、こうして初めて話した言葉を忘れないよう思い出作りをするなんて、素敵な習慣だなぁ。子ざるたちが話した最初の言葉って何だったっけ?


児童文学赤ちゃんとお母さん
まど・みちお作
 まどみちおさんの詩の中で、お母さんと赤ちゃんのつながりを感じさせる(連想も含みます)を収めたコンパクトな詩集です。田中和雄氏によるまえがきを読むと、おなかに赤ちゃんがいたり、赤ちゃんをだっこしてりして、お母さんがいい詩を読むことは、赤ちゃんにとってとても素晴らしい体験なんだそうです。(なんだなんだ?胎教かい?)と目を白黒させた私ですが、信じる者は救われる。自分にも赤ちゃんにもいいんだよ〜と思って読むからこそ、「素晴らしい体験」になりえるのでしょう。赤ちゃんにはもはやまったく縁がない私は、ただ淡々と読むばかりでした。
 何気なく歌っていた「ぞうさん」の歌も、実は鼻のことをからかわれた子ぞうが、開き直ってお母さんの自慢をする歌だと書いてあるのを読んで、(へ〜、そうだったんだ〜)とびっくりしました。2番の歌詞で、お母さんのことを子ぞうが大好きだとは知っていたけれど、そういう意味合いの歌だったとは知りませんでした。
 このごろ、町で赤ちゃんを見つけると、とても懐かしくなります。特に、ふと赤ちゃんと目があって、まっすぐ見つめられてしまうと、別に悪いこともしたわけでもないのに気恥ずかしくなってしまうのは、どうしたことでしょう。この詩集の詩を読んでいると、それと同じような「自然と自分の悪行を反省するモード」になってくるのを感じます。中には子どものころ大好きだった歌の歌詞もあって、あのビスケットがどんどん増えていくポケットの歌詞が、まどみちおさん作だとようやく知ることができました。今読めば、ポケットをたたけばビスケットがだんだん小さく割れていくから、ビスケットの数が増えるのは当たり前だわさ〜とばっさり斬ってしまうけれど、歌を聞いた時には同じように共感して(ほんとうん、こんな不思議なポケットがあったらいいなぁ。ほしいな〜)と思ったものでした。かわいげのないツッコミをしなかった頃を思い出すから、反省モードに突入すると知れた詩集でした。


ファンタジー暁の天使たち
茅田砂胡作
 「デルフィニア戦記」、「スカーレット・ウィザード」シリーズを合体させて、新しい物語を作ったような設定に、目を白黒させながら読みました。主人公は3人。「デルフィニア」で主役を張ったリィ、シェラ、ルゥです。「デルフィニア戦記」で20巻近くもかけて冒険を積み重ねた月日をこの物語で振り返ってみると、あちらでの6年がこちらでは6日しかたっていなかったというから驚き。「デルフィニア」でああいう決着をつけて、シェラともどもこちらの世界にもどってきた「王妃リィ」は、こちらの世界では13歳の超美少年なのです。
 こちらの世界とはベルトランという宇宙の星で、「スカーレット・ウィザード」の主役ケリーとジャスミンの一人息子ダンがしっかり登場します。リィとシェラたちがよりによって寄宿学校に入った先には、ダンの息子(つまりジャスミンの孫)がいてすったもんだが起こるというから、すごい。あるかないかのかすかな接点を大きな橋でつなぐのが、「暁の天使」たちなのです。
 リィはいいところのお坊ちゃんに生まれ、妖精(これがルゥ)に預けられました。彼が実の両親のもとへ帰ったのは8歳になってから。それから13歳までルゥとともに好きなことをして過ごし、13歳でデルフィニアの6年間の6日間を経験するなんて、波瀾万丈すぎ。サービス過剰なのは、「デルフィニア」で死んじゃったシェラの朋輩で同郷の刺客たちも、こちらの世界にやってきていることです。
 茅田砂胡本特有のぽんぽんとたたみかけるようなリズムとギャグは、たまに楽しめましたが、何のためにこのシリーズが書き始められたかについては考えれば考えるほど???です。「デルフィニア戦記」と「スカーレット・ウィザード」のシリーズが人気があって、双方の後日潭を兼ねるお話を考えたらこうなったのかなと、思わずかんぐってしまいます。図書館で第2巻も借りてあります。こちらでは、このお話の独自のおもしろさをぜひ見つけたいな。


児童文学あかつきの波涛を切る
岡崎ひでたか作
小林豊絵
 「鬼が瀬物語」シリーズ第3巻。4部作だということを考えると、船大工を志した満吉の人生も、そろそろクライマックスにさしかかってきました。とかく苦労が多かった子ども時代、そして乗り込んだ船が漂流して九死に一生を得たのが前巻の出来事で、やっと満吉は船大工「亀萬」の親方代理として、簡単に沈まない船の研究に打ち込むことができました。
 満吉の傍らで、志を同じくして手伝うのは、彼が行方不明の時もじっと耐えた幼なじみのヤエです。満吉とヤエは心が通じ合っていましたが、今回はヤエの心が激しく揺れ動く事件が起こります。
 船大工としての腕が認められた満吉は、県から船の注文を請け負うことができました。ライバルの船大工たちは悔しがるものの、満吉にかなうはずもなくどうすることもできません。漁師村の間では、小競り合いはしょっちゅうらしいけれど、船大工の注文をめぐっての争いは、そうたびたびあることではないようでした。 
 周囲の雑音には耳を貸さないようにして、満吉は改良船造りにいそしみ、船はどんどん完成に近づいていきます。そんな折、かつて大工の修行で世話になった「岩船」の親方が亡くなり、娘のりんが途方に暮れていることがわかりました。放浪時代の満吉を温かく迎えてくれたりんの困窮を思うと、満吉いてもたってもいられず、岩船にかけつけます。
 立派に成長した満吉を前にして、りんは思慕を隠そうとせず、満吉も恩人を助けたいと思うようにもなりました・・・。(この三角関係、どうなるのかな〜)と思ったら、結局は満吉はヤエを選んでほんとうによかったです。そしてやっとできあがった船に、満吉は「吉祥丸」という名前をつけました。抜群の安定性を誇る吉祥丸は、競争相手の白龍丸を寄せ付けず、満吉の人生にやっと光が当たった気がしました。最終巻は、さらなる満吉の成功が語られるのでしょうか。ヤエとの婚礼を目前にして、幸せと充実感が伝わってくる巻でした。


絵本・コミックあかてぬぐいのおくさんと7にんのなかま
イ・ヨンギョン(李ヤ庚作)
 韓国の昔話を題材にした絵本。落ち着いた色遣いなのに,部屋の調度や小物などの鮮やかな色が目に飛び込んできます。そして,印象的なのは8人の登場人物の表情の豊かさ,かわいさ。かわいく描こうという意図がみえみえでないところが,私好みです。
 お話は,お針の上手な奥さんと,奥さんのお針に使う7つの道具たち,ものさし,はさみ,はり,いと,ゆびぬき,のしごて,ひのしの物語です。奥さんはいつも頭に赤いてぬぐいをかぶっていたので,「あかてぬぐいのおくさん」と呼ばれていました。あかてぬぐいのおくさんがちょっとうたたねをしたときに7つの道具たちは,争い始めます。「うちのおくさんがおはりが上手なのは,わたくしがいるからですわ!」とみんなが言うのです。
 おもしろいのは,7つの道具のキャラがそれぞれ微妙に違うこと。背の高いものさしふじん,はさみおじょうさん(短気),すましやのはりむすめ(ちくんと刺すように言う),おしゃれないとねえさん,ゆびぬきばあちゃん,年下なので我慢していたのしごておとめ,最後はおとなしいひのしねえや。道具の使い道と見てくれから連想して,なるほどと納得できました。もちろん,絵の描き分けのばっちりです。
 今まで,外国の絵本の中で韓国の本は少なかったように思います。細かい調度まで丁寧に描き込まれた絵は,見れば見るほど味わいが増してくるようです。イ・ヨンギョンさんの他の絵本も見てみたいです。


その他赤に捧げる殺意
有栖川有栖他
 「青に捧げる悪夢」を先に読んで、こちらも読んでみました。例によって、読んだことがある作家は、有栖川有栖と赤川次郎の二人だけでした。「殺意」というからには基本的に殺人事件が起きますが、あまりおどろおどろしい設定ではないのでほっとしました。おもしろかったのは、「時計じかけの小鳥」(西澤保彦)です。行きつけの本屋の親父が心臓麻痺で死んだ事件を、何年か経って少女が回想するお話は、ミステリーというより青春小説のようで爽やかでした。少女は離婚した母や自分の世話をせっせとやいてくれる友人の別の面を、本屋の親父が死んだ事件を思い出すことによって確認します。母も友人も自分をかごの中の小鳥のように守ってくれるけれど、自由をも奪っていたことに少女が気づいたのが、彼女の大人への脱皮だったにちがいありません。
 わかりやすくていかにも赤川次郎的だったのが、「命の恩人」です。大人としての自覚をもてない夫に不満を募らせている妻が、幻のような恋の相手(フィアンセになりすます)を頼まれ、不思議な経験を通じて自分の人生を取り戻そうと思い直すお話です。自己チューで一発はたいてやりたくなるような男は、赤川本にときどき出てきます。夫と離婚して若い実業家と結婚するなんていう嘘くさい結末でなくてよかったです。ちょっと胸に苦い味が残る結末は、つい何冊も読んでしまった赤川本の一つの典型だと思いました。
 「タワーに死す」(霞流一)は、お笑い芸人のような三枚目の女優が、見事な推理で特撮映画の撮影現場で起きた密室殺人の謎を解いて見せます。いつか主役を張りたいと思っていても、丸顔でしゃべることも天然の久里子には、とうてい無理なこと。それよりもさりげなく事件解決の道(探偵の補助なんか)をした方がいいかもと思いました。ただ、殺人の動機が、手塩にかけた美人女優が体当たりで演技したシーンがボツにされたというだけでは、いかにも不十分。それっぽっちのことで監督を殺すかなぁ?とひっかかったのだけが残念でした。8人の作家のうち、おもしろかった作家の本をまた探してみたいと思います。


時代小説あかね空
山本一力作
 ときどき無性に時代小説が読みたくなります。それも、あまり波瀾万丈なお話ではなく、江戸時代などのしっとりと落ち着いた人情物に惹かれるのです。この本もそんな気分で手に取りました。主人公の永吉は、たった1人で京都から江戸に出てきて、豆腐屋を開きました。人の紹介で店を開くことにした裏店の隣に住んでいたのが、桶職人の娘おふみでした。物語は永吉とおふみが二人三脚で京や(豆腐屋の名前)をもり立てていくのがテーマです。
 永吉とおふみは、2男1女に恵まれますが、おふみは次男と長女を素直にかわいがることができません。長男の栄太郎がケガをしたとき、この子のケガが治るならもう子どもは望まないと願をかけたからです。次男悟朗が生まれた時には、お七夜に父親の源治が転落事故で亡くなり、長女のおきみがまだ小さい時には、母親が荷車にひかれて命を落としました。永吉たちには単なる不運な事故と見えても、おふみには八幡様の罰が当たったとしか思えません。栄太郎ばかりかわいがり、悟朗とおきみにはかまわないおふみの態度が、物語に暗い影を落とします。かわいがられ過ぎて、根性なしに育ってしまった栄太郎に、悟朗とおきみは反発します。仲の良さそうな一家ですが、その内幕はいつ崩壊しても不思議はない危なさをはらんでいました。
 永吉とおふみから始まったお話も、いつしか卒中で永吉が亡くなり、おふみも亡くなると跡を誰がとるかが問題になります。結局は、世知辛い世の中、家族がまとまることこそが不幸を乗り切るのに何よりも大切なことだと、読み進むほどに得心したのでした。


児童文学アカネちゃんとなみだの海
松谷みよ子作
伊勢秀子絵
 子どものころ、「ちいさいモモちゃん」や「モモちゃんとプー」をおもしろく読みました。自分より年下のモモちゃんに思い出を重ねて、とても親しみ深かったことを覚えています。絵もとてもかわいくて、当時は創作児童文学で読むとほのぼのする本はそれほど多くなかったので、よけい心に残っているのでしょう。
 ところが、大人になってふと、ものすごく久しぶりに「モモちゃん」シリーズの続刊が出たと聞いてびっくりしました。私の中で、モモちゃんも妹のアカネちゃんもとっくに完結した物語の登場人物の扱いだったからです。それも、どうやらモモちゃんとアカネちゃんのお母さんは離婚したと聞くに及んで、悲しげなタイトルと合わせて、(とうとうほのぼの系のお話も、しんみり系になるのか〜)と思いました。実際に手にとって読むのに10年もかかってしまったのは、ファンタジーを読むのに忙しかったからにちがいありません。
 読んでみて、あの小さかったモモちゃんが中学生に、アカネちゃんがほとんど小学生になっているのにまず目を見張りました。もちろん、お話はアカネちゃんの目で語られます。アカネちゃんが引き起こす事件の隙間から、ほんのちょっぴりなつかしいモモちゃんの大きくなった姿が垣間見えました。大人の私の興味は、情けないことにアカネちゃんの天真爛漫でファンタジックな冒険だけでなく、アカネちゃんの家族が今どうなっているかに重点が移っていました。だから、アカネちゃんが小学校でお父さんいっしょに暮らしていないことを友達に悪くいわれて、がっかりしたというエピソードを読むと、(やっぱりなぁ。聞いた通りだったんだ)と納得したのでした。
 アカネちゃんがお父さんに会いに行くエピソードの後に、突然お父さんがこの世の人でなくなったと書いてあるのには、驚くどころではありませんでした。(離婚だけでなく死別してしまったなんて聞いてなかったよ)と、モモちゃんとアカネちゃんと書いていないけれど、お母さんを襲った試練を思うと、胸が痛みました。後書きで作者の松谷みよ子さん自身に重ね合わせた物語だと知って、ますます心がしんと静まりかえった気がした本でした。このお話で打ち止めというのが、心から納得できました。

その他秋田さんの卵
伊藤たかみ作
 まったく独立した「ボギー、愛しているか」と「秋田さんの卵」の二編が収められています。作者の伊藤たかみ氏は、「ミカ!」や「ギブソン」などのヤングアダルト向けの児童文学を書いておられます。ヤングアダルト本にせっせと目を通している時に、伊藤氏の本を読んで、何となく新しいタイトルを見つけると手に取るようになりました。
 「ミカ!」や「ギブソン」でも感じたことですが、伊藤氏の作品は、ただドラマチックに感動させればいいというものではありません。もっとも、お話のもっていきかたがちょっと個性的なので、読み終わると(クライマックスは何だったんだろう?)とか(いったい何が言いたいのだろう?)と???なことがよくありました。子ども向けに書かれた本でもそうなのですから、最初から大人向けに書かれた本にその傾向が強いことを思い出すべきでした。
 一読して、(だから何なんだ・・・?)というのがまず感じたことです。「ボギー、愛しているか」は、何十年も前に溺死した悪友の終焉の地を訪れるおじさんたちのお話。昔を思い出しても(ふ〜ん)というだけで、おばさんには共感できないのがつらいところでした。
 もっと??だったのは、「秋田さんの卵」。そもそもこの物語で「秋田さん」として登場する女性は、本名が「秋田さん」ではなく、あくまでうわさ話でのニックネームです。もうすぐ死んでしまいそうな患者のお世話を24時間するヘルパーが秋田さんで、秋田さんと秋田さんがお世話するナツメさんとその同室の人々の関わりが描かれています。
 ただ、例によって(だから何なんだ?)。子どもの本で感じたずれが、大人の本では思いっきり正面に押し出されてどうしようもないことが分かりました。読むなら、子どもの本棚にある伊藤たかみ本にしようと思います。



子どもアキンボと毒ヘビ
アレグザンダー・マコール・スミス作
もりうちすみこ訳
広野多珂子絵
 アフリカに住む男の子アキンボを主人公にした「アキンボシリーズ」の第4巻です。アキンボには、ヘビ園の園長をしているおじさんがいます。おじさんは、ときどき遊びに来て、お父さんとおしゃべりをして帰ります。アキンボはおじさんからヘビ園の話を聞くのが大好きでした。アキンボはずっとおじさんのヘビ園に行ってみたくてたまりませんでしたが、なかなか機会が訪れません。やっとこさ、アキンボは学校が休みになったら、ヘビ園に遊びに来てもいいといってもらって有頂天です。
 おじさんのヘビ園は、まるで近くの動物園の爬虫類館みたいにヘビを展示している立派な施設でした。おじさんは、お客に見せるために、コブラの「乳しぼり」をします。それは、コブラから毒を取り出すこと。血清を作るためとはいえ、見ているとぞっとする作業です。子どもに対する考え方の違いを感じたのは、アキンボがヘビ園に慣れてくると、おじさんが「乳搾しぼり」の助手をさせてくれるようになったこと。これが日本なら、キングコブラみたいな毒蛇の近くに子どもを近寄らせるなんて、「もってのほか!」ということになるでしょう。アキンボは最初は緊張して、毒を受けるビンを持つ手が震えましたが、そのうち平気になりました。何事も慣れ、かわいい子には旅をさせよだなと思いました。
 この本は、読んでいるうちに毒蛇についてのお勉強もできます。何でも、最強?の毒蛇には2種類あって、そのうちの1種類をおじさんは捕獲して展示したがっていました。ちょうどアキンボがおじさんのヘビ園に滞在している時に、「グリーンマンバ」を見つけたという知らせが入ったので、おじさんはアキンボを連れて出かけていました。おおっ、「グリーンマンバ」とは、確かロアルド・ダールがアフリカに滞在している時にも遭遇したヘビのはず。そんな毒性の強いヘビを捕まえるのにも、甥を連れて行くのか〜とびっくりしました。
 ヘビは首尾よく捕まりましたが、帰り道とんでもないハプニングが待ちかまえていました。ヘビが入れてあった袋の口が開いて、グリーンマンバが逃げ出してしまったのです。おじさんはガソリンスタンドで立ち話、グリーンマンバがアキンボの足下にとぐろを巻いているとは・・・。絶体絶命の危機をアキンボはどう乗り切ったのでしょうか?笑い事ではない事件、ハッピーエンドでほんとうにほっとしました。それにしても、子どもを一人前に扱う国との違いをしみじみ感じています。 


ミステリー悪意
東野圭吾作
 東野圭吾ミステリーをかため読みしました。どうやら、練馬署の加賀恭一郎刑事シリーズとも言えそうです。今回の事件は、作家の野々口修の自白みたいな手記と、加賀恭一郎の記録が交互に出てきて、少しずつ事件の謎が解明されます。加賀刑事と野々口修は、職場の元同僚で中学の教師でした。加賀刑事が中学校の先生をしていて、あるいじめによる事件がきっかけで退職し、刑事に転身したなんて、へぇ〜でした。
 野々口修が殺したのは、世話になった同級生の流行作家、日高邦彦です。同僚のよしみなんてことはなくて、加賀は冷静に野々口を疑い、野々口はあっさり殺人を自供します。しかし、彼のねらいは殺人事件を隠し通すことではなく、彼の殺人の動機を警察や世間に信じさせることでした。野々口が癌に冒されていて、刑務所に入れられてもそう長い間でないと見切った上での犯行だったのです。
 加賀も最初は、野々口の手記を当たり前に読みました。しかし、彼の鋭い観察眼でもってすると、加賀の動機(日高に自分の作品を盗用されたこと)が、どうしても不自然に見え、そこから事件の謎解きが始まります。事件の根はずっと昔に遡り、日高や野々口が中学生だったころに根源があることがわかります。できすぎた友人をうらやむ気持ちは、嫉妬から始まり悪意にまでふくらみました。ちょっぴり、(そういうの、わかる気がするな)と思えたのは、野々口の悪意に共感するところがあったのだと思います。自分ではどうしようもない悪意のなれの果てを見ているようでした。


児童文学アクエルタルハ1 森の少年
風野潮作
竹岡美穂絵
 ファンタジーの類型にぴったりはまるお話で、マヤ文明やインカ帝国をモデルにしていることがすぐにわかりました。強大な勢力を誇るタルハナール帝国は、まわりの国々を力ずくで従わせ、さらに勢力の拡大をはかっていました。王のおぼえめでたい近衛隊長カクルハーと貴族のおぼっちゃんで辺境の地方長官に任ぜられたばかりのマイタは、今は滅びたミスマイで、不思議な少年キチェーに出会います。キチェーの父(やはりキチェー)は、10年前にタルハナールに連れて行かれ、ほとんど騙されて生け贄にされてしまいました。その時、キチェーを連行したのがカクルハーで、彼は捕虜同然のキチェーを尊敬するようになりました。だから、遺児のキチェーがカクルハーに憎悪の目を向けても、無理はないと思ったのでした。生け贄にされたキチェーは、坂上田村麻呂が連れてきたアテルイ・モレみたいだなと思いました。
 頼りないマイタに対して、のんきそうに見えるカクルハーはやはり歴戦の勇士でした。カクルハーに命じられてともに旅をするようになったキチェーとグラナ(赤毛の少女)は、次第にカクルハーへの憎しみを消していきます。カクルハーの真の目的は、今は封印されているアクエルタルハ(アトランティスみたいな伝説の都市らしい)をよみがえらせることでした。そのためには、例によって、いくつかの必須アイテムがあります。「火の乙女」、「水の乙女」、「光る髑髏」と「辺境の古き精霊の力」をそろえてはじめて、アクエルタルハは姿を現すとか。火の乙女がグラナ、水の乙女が女神シュルー、光る髑髏はシュルーが持っていて、「辺境の古き精霊の力」がキチェーの力のこと。あれよあれよという間に、カクルハーはすべてをそろえてしまっているではありませんか。
 出そろったアイテムと登場人物がどうからみあい、アクエルタルハが出現するのかは、次巻のお楽しみです。ちょっと強引でご都合主義も感じたけれど、キチェーやグラナやカクルハーのその後が知りたいです。


子どもアクエルタルハ2 風の都
風野潮作
竹岡美穂絵
 1巻で集まった仲間たちが、いよいよ旅立ちます。アクエルタルハをよみがえらせるためにそろえたアイテムを使うかと思ったら、お話は全く違う方向に進み、どうやら「旅の仲間」的様相を帯びてきました。
 キチェーたちが立ち寄ったのは、辺境の都イスマテです。頼りなかったマイタも無事長官に着任し、彼とはチャルテでお別れです。イスマテは風の都と言われ、カクルハーはキチェーたちににぎやかなお祭りを見せてやろうと思い、足を速めてイスマテにやってきました。イスマテの「風祭り」は盛大で、守護神グクマッツが風を吹かせて人々の悪心を吹き払うといういわれがありました。
 しかし、イスマテに着いてみると、グクマッツの神殿は破壊され、神官たちの主立った者は、地下牢に閉じこめられているというではありませんか。行き会った孤児のパカルは、神官長に手塩にかけて育てられた子どもでした。いつしか、カクルハーたちは神官たちを助け出して、グクマッツの風祭りを復活させることがイスマテに来た目的になりました。
 不老不死の神様みたいな少女シュルーは、出過ぎることなく控えめにふるまっています。彼女は自分の神様みたいな力を使いすぎるとよくないことが起こると知っているのでしょう。いかにもお子様でかわいいキチェーやグラナに比べると、さすが神様はすることが大人だと感心しました。グクマッツを呼び出す呪文が失われているのを見つけ出したのが、結局イスマテ育ちのパカルではなくキチェーだったのは、ちょっと話がうますぎる気がしました。
 カクルハーの颯爽としたかっこよさは変化なし。旅を続けるのは、キチェーやグラナがもっている潜在的な力を描くためかもしれないと思って読み終わりました。前巻から続けて読まないと、きれいさっぱりつながりを忘れてしまうのがつらかったです。


子どもアクエルタルハ3 砂漠を飛ぶ船
風野潮作
竹岡美穂絵
 キチェーたち一行は、旅を続け砂漠を通りかかった時、穴の真ん中に倒れている美しい少女を助けます。少女の名前はルリン。雨乞いをするために水の神様へ生け贄にされ、砂漠に置き去りにされたのでした。キチェーたちの旅の目的が、伝説の神殿アクエルタルハを蘇らせることなのをつい忘れしまいそうになる寄り道は、まるで水戸黄門ご一行が行く先々で困った人々を助けご政道を正す旅のように思えてきました。
 精霊と話をすることができるキチェーは、ルリンを連れて行った町の長老に、水の精霊と話をしてみると約束します。ルリンを看病するためにグラナを残し、あとの旅の仲間たちは水の神の祠を探します。するとどうでしょう。祠は見つかったものの、祀りをしてもらえなくなった水の神は、世をすねたように雨を降らせるのをやめていたのでした。水の神の怒りを解くには、いにしえのやり方で祭をするしかありません。そのやり方とは、空を飛ぶ船から水の神の祠に水を注ぐというものでした。10日以内に祭をすれば雨を降らせようと、水の神はキチェーの告げました。
 空飛ぶ船の作り方や飛ばし方を知っていたのは、留守番をしていたグラナでした。このお話は、元気のよいグラナが自分の無力さを思い知り、旅の仲間のお荷物だと思いこんでいる状態から自分の存在意義を見つける物語でもあります。グラナは、いつの間にか祭が行われていた時代のルイナという少女の意識に入り込みます。ルイナの目を通して祭のお作法を知り、人々に教えるのがグラナのお役目でした。
 船が飛ぶのは、要するに熱気球の原理を利用していることがわかりました。困ったのは、熱気球の船が砂漠に落ちてしまった後のこと。乗っている少女は、自力で歩いて帰ってこなければなりません。船に乗って水をまくよりは、後で帰ってくることの方がはるかに危険が大きいことを、水をまくお役のルリンはよく知っていました。かつてルイナはもうちょっとで砂漠で倒れて起きあがれないところでしたが、ルリンのそばには精霊に乗るキチェーたちがついていました。ナスカの地上絵の上を気球で飛んだら気持ちがいいだろうなと、キチェーやグラナ、ルリンたちがうらやましくなりました。第一部はこれでひとまずお終いだとか。アクエルタルハ神殿の話は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう?


その他悪童日記
アゴタ・クリストフ作
 ちょっと前に話題になっていて気になっていた本でした。読まれた方はほぼ例外なく「すごい本!」とほめちぎっています。そんなにほめるなら読んでみようと借りてきました。・・・で結果は,確かに「すごい本」でした。
 主人公は双子の少年たち,彼らの覚え書きという形で物語が進んでいくので,名前などの固有名詞はほとんど出てきません。第一主人公の少年たちの名前ですら出てこないんですから。彼らは「大きな町」(解説を読むとアゴタ・クリストフがハンガリー出身であることからブタペストだろうとのことでした)から祖母の住む「小さな町」に疎開してきます。「小さな町」は国境沿いに位置することが文中からわかりますが,実際にどこであるかはまったく?です。
 少年たちは母親に送り届けられます。母親と祖母のやりとりから,2人は何年も音信不通だったことがわかります。祖母は母親を口汚くののしり,母親は祖父を慕っていて彼の死後「大きな町」へ出ていったようです。祖母は夫を毒殺したのではないかという噂が広まり,町の人からは魔女を呼ばれています。祖母は少年たちを「牝犬の子」と呼びます。
 ほとんど置いてけぼりのような形で少年たちは祖母の家に残されます。ここからが,悪童の面目躍如です。少年たちはしたたかで,かわいらしい(長じて美しい外見と形容されるようになります。要するに2人とも美少年なのです。ここがポイント!)見た目とは裏腹にとんでもないことを行います。手始めに屋根裏に登るはしごに切れ目を入れておいて,祖母が昇ってこられないようにします。そして屋根裏部屋の床に穴をあけ,各部屋の様子をうかがえるようにします。祖母が後生大事に蓄えている食料貯蔵部屋も宝物の隠し場所も,彼らにかかれば見つけるのはちょろいことです。
 祖母は母親が置いていった少年たちの衣類やシーツを勝手に売り払ってしまい,送られてくるお金を独り占めしてしまいます。少年たちはいともたやすく対抗策を見つけだします。酒場をまわって芸をしてお金をかせぎ,郵便配達のおじさんを脅して直接手紙を取り上げるのです。お風呂がなくて不潔になると,司祭の家の女中に取り入って,司祭宅でお風呂に入れてもらいきれいに洗ってもらいます。それも毎週・・・。彼らの生き方こそ,本当のサバイバル,ゴキブリのような生命力です。
 今まで子どもを純真で素直な存在として描かれた本ばかり読んできましたが,この悪童ぶりにすっかり目からウロコが落ちました。すさまじい悪童ぶりが続くうちに,いつのまにかあんなにののしっていた祖母までが2人の孫たちを心からたよりにするようになっていく展開に,作者の筆力の冴えを感じさせました。結末,母も亡くなり数年後国境を越えたいとやってきた父を踏み台にして少年の1人は国を脱出します。残る1人は祖母の家を守るために引き返すのでした。


子ども悪童ロビーの冒険
キャサリン・パターソン作 
 図書館に新しく入った本のお知らせを見て,一番に借りてきた本です。うれしい・・・。表紙の主人公ロビーらしき挿画を見て,まず胸がきゅん。遠くをみつめるような寂しげでいたずらっぽい眼差し。靴を片っぽ脱いだラフな姿勢。おおっ,こういう少年好みだわあと,最初から盛り上がってしまいました。
 物語を読んで身近に感じたのは,舞台となった時代が1899年だということです。(ほんとうは1年まちがえているんだけど),世紀末の感覚が去年,一昨年あたりの年末の感じとすごく似ているように感じました。たとえば,新しい世紀になるときに地球が滅びてしまうというデマがあって,ロビーがあと6ヶ月の命ならなんでもやってやろうと心を決めるシーンなど,世紀末になると滅びの思想にかぶれるのは,いつの時代も同じだということがわかりました。
 ロビーは牧師の息子です。彼の家族は両親の他に子どもが4人,エリオット(兄),ロビー,ベス(妹),レティ(妹)です。兄のエリオットは知的障害があって,心の中は赤ちゃん同様に描かれています。つまり赤ちゃんのような兄弟に囲まれて,普通の男の子(いたずらざかりの10歳)ロビーは,いやでも悪童ぶりが際だってしまうのです。原題は「牧師の息子」,「悪童ロビーの冒険」とはうまいこと名付けたものだと思いました。
 ロビーにはウィリーというなんでもつるんでする親友と,トムとネッドといういつも角突き合わせている悪友がいます。物語は徹底的ににロビーの視線で描かれるので,なんだか自分まで「悪童」の時代にもどったような気がします。(私は「悪童」だったことはなかったと思いますが・・・,たぶん。)ロビーが引き起こした様々な事件が,順番に語られます。こう書くとまるでトム・ソーヤーかハックルベリー・フィンみたいですが,これらと決定的に違っているのは,兄エリオットの存在と家族の交流が占める割合です。ロビーの両親は愛情深く子どもに接しますが,その書き方がとてもさらっとしていて,とても私向きでした。エリオットの転身爛漫さとときに兄にうんざりするロビーの心の動きは,絶妙の描写です。「大草原の小さな家」のようになんでも家族で団結してがんばろー的過ぎると,私にはずーんと重く感じられてしまいますが,パターソンの家族の交流の描き方は,等身大で親近感がもててとてもよかったです。パパが牧師でありながらダーウィンの本を読んでいるなど,思わずにやっとしてしまいました。
 何よりもどんどん読めてしまったわけは,滑稽でユーモアに満ちた語り口にあります。ロビーがときおり抱く大望は,にやりとさせられることばかりです。今世紀中に自動車に乗りたい!という彼の望みは思いがけない形でかなえられることになります。そして大みそか,重大事件を幸せに乗り越えたロビーは,「世界が終わりになると思う?」といいながら,新年を迎えるのでした。 


子ども あくまくん
ハイケ&ヴォルフガング・ホールバイン作
カロリーネ・ケーア絵
酒寄進一訳
 そばかすの散った人のよさそうな男の子が,表紙からこちらを見ています。この子があくまくん。後ろの扉からちょっぴり顔をのぞかせているのが人間の友達のユスティンです。なぜあくまくんとユスティンが友達になったかの経緯は,物語に書いてありません。このお話は,とにかく悪魔の子と人間の子が友達になって行き来しているという前提で始まります。
 あくまくんは,ユスティンには見えますが他の人たちには見えません。お父さん,お母さんと3人で地獄に近い「火の国」で暮らしています。どうして地獄に住めないかはワケありで,どうやら大悪魔アスモディスににらまれているらしいということがわかってきます。ユスティンとあくまくんは,お互いの家を行き来して遊びに行きっこをしていました。親に見つかるとややこしいので,できるだけ家が留守の時を見計らって遊びに行きます。
 ある日,ユスティンがあくまくんの家でかくれんぼうをしているとき,よりによって一番会いたくないアスモディスがやってきました。彼の用件は,あくまくんがもっと悪いことをしないと,ますます悪魔らしくなくなる。地獄にも2度と住めないという警告です。アスモディスはあくまくんがほんとうに悪いことをしたら,地獄に住まわせようと言って消えました。もし悪いことができなかったら,角や羽根,蹄のある足などを順番に没収していくことになりました。
 人間界であくまくんが,悪事を働くのは,簡単そうで難しい。あくまくんが苦心してした悪事は,なぜかみんなの役に立つ善行に変わってしまいます。翼がなくなり,角をとられ,蹄が普通に足に変わり・・・とうとうユスティンと同じ姿になってしまいました。アスモディスをあっと言わせるような悪事を働く期限がせまってきます。最後に一発大逆転!ユスティンが考えた大悪事とは?
 とにかくあくまくんとユスティンのやりとりが楽しいです。私もあくまくん一家とお友達になりたいなぁと思いました。


その他悪魔と手を組め
ジャック・ヒギンズ作
黒原敏行訳
 ヒギンズ本を久しぶりに読みました。ときどき読む程度の知識で連想するヒーローは、リーアム・デヴリンやショーン・ディロンです。確かこの二人、敵同士だったこともあったはずなのに、このお話では後半で味方同士になるのがうれしかったです。二人とも好意をストレートに表すタイプではなく、困難に冷静に対処しちらっとみせる微笑みに最大限の好意がやっと感じ取れるニヒルなヒーロー。とかくやかなしく大げさなヒーローが多い中、珍しく心に残っていました。
 1985年と1995年をつなぐのは、金塊強奪事件。中心になったのがプロテスタント過激はの闘士マイケル・ライアンです。「ライアン」というと、「ジャック・ライアン」を思い出していかにも善玉の主人公らしく思えますが、マイケル・ライアンは壮年期を越え組織を離れた活動家です。味方は16才の姪キャサリン・ライアンだけ。それだけでも、悲劇的なイメージがぬぐえません。金塊強奪事件に加担したのは、マイケル・キーオーちう船員でした。しかし、思わせぶりな話のもっていき方からして、(ひょっとしたら・・・)と思っていたら、予想は的中しました。キーオーはショーン・ディロンだったのです。もともと役者出身のディロンが自分を船員に見せかけることなどお手の物で、彼の任務はライアンたちの金塊強奪事件の顛末を見守ることでした。ショーン・ディロンは元IRAのテロリストで、ライアンの属する王党派とは犬猿の仲らしい。情けないことに北アイルランド情勢に詳しくない私は、王党派とかIRAと聞いても、どれも同じような結社だというイメージしかありません。いっしょに行動しているうちに、ライアンたちに心情的に深く同情したショーン・ディロンは、金塊を積んだ船が沈むにまかせ、とりあえず敵方の資金が海に沈んだのでよしとします。キャサリンはとうとうキーオーの正体に気づきませんでした。
 そして10年。事件後アメリカに渡ったマイケルとキャサリンは、それなりに安穏に暮らしていました。もっとも、マイケルが刑務所に入り狭心症を患い、キャサリンが看護婦としてときどき見舞う平穏さですが。そこへ10年前の事件をマフィアがかぎつけ、マイケルを脱獄させて金塊を取り戻す話が持ち上がりました。いち早く情報を手に入れたアメリカ政府は、イギリスへ戻ったマイケルやキャサリン、マフィアの面々の始末をイギリス政府に依頼します。とどのところ、おはちはショーン・ディロンに回ってきたのでした。ディロンが助言を仰いだのが、伝説のIRAの指導者リーアム・デヴリンだったのでした。
 速いテンポで進む物語を、息もつかずに読み切りました。ただ最初から色濃く立ちこめていた悲劇的な雰囲気は(この手の予感がはずれたことはありません)、やはり的中。金塊の思いがけない行方とおともに活動に準じたマイケルはともかく、キャサリンの悲惨な末路が気の毒でたまりませんでした。成り行き上、キャサリンだけが生き残り幸せな半生を送るのは無理だったでしょうけど、もうちょっと何とかならないものかなと思いました。


ファンタジー悪夢の棲む家 上下
小野不由美作
小林瑞代絵
 副題「ゴーストハント」。小野不由美のホラー本は、「屍鬼」で懲りているのに、久しぶりに性懲りもなく読みました。東京から帰る新幹線の道中で2冊とも読めてしまったのは、すかすかの活字のせいだけではありません。「渋谷サイキック・リサーチ」のメンバーの軽妙な活躍と場面展開の速さに、どんどんページがめくれたからです。期待していた(恐れていた)よりも、怖さを感じなかったのも早く読めた理由です。
 家を買ったらブレイカーが頻繁に落ちたり、誰かにいつものぞかれているような感じがしたり、浴槽にはる湯が真っ赤だったり、阿川翠はどうしようもなく困り果てていました。思案に詰まって相談した友人の中井が紹介してくれたのは、どうしようもなく頭の固い公務員の広田です。さらに、保険をかける?意味で依頼したのが「渋谷サイキック・リサーチ」でした。霊の存在や心霊現象、超能力などを一切信じない広田と、サイキック・リサーチの面々の言い合いが、お話そのものよりも?おもしろかったです。実は私も、広田と同じ、「人間は死んだとたんに無に還る」と信じているタイプ。だから、広田のこねる理屈に、いちいち(そーだそーだ、その通り!)と納得することができました。
 もともと、このお話のスタンスが、霊の存在を信じようとしない広田にさえぐうの音も出ない事実を積み重ねて、怪しい現象を解明しようとするものです。よく調べてみたら、土地の境界線を巡って、翠と母の礼子が買ったこの家と隣の家には、強い確執がありました。確執は爆発し、隣家の主人がこの家の家族5人を皆殺しにして、自分の妻も殺し自殺したというおぞましい事件が明るみに出ました。そして、事件で命を落とした7人の霊は、いまだにこの家と隣の家にとどまっているのでした。クライマックスは、霊に乗り移られた隣家の親子3人がまた鉈を持って襲ってくるシーン。なるほど、このシーンが書きたくて、作者はこういう設定にしたのかもしれないなと思いました。
 関西弁の神父さんといい、長髪の密教僧といい、個性的でけったいなエクソシストたちに、がちんがちんの広田の感覚が少しずつ変わっていくのも見物でした。ただし、私自身の「霊魂不滅の逆」な思想はいささかの変化もありませんが・・・。


その他悪魔の手紙
C・S・ルイス作
 悪魔の一番のお仕事は、人間を誘惑して堕落させることだとか。長年人間を誘惑し続け、多大な功績をあげて引退した悪魔が、まだ駆け出しの若い甥に送った書簡集という形の物語です。ベテランの悪魔の名前はスクルーテイプ、若い甥の悪魔の名前はワームウッドです。作者のルイスが何気なく付けた名前でしょうが、「ワームウッド」と聞いて今のファンタジーファンならば、間違いなく「ハリー・ポッター」シリーズに出てくるあのワームウッドを思い出さない人はいないでしょう。もともと、ワームウッドというのは、悪役の名前と相場が決まっていたのでしょうか。
 手紙は、スクルーテイプ側の手紙だけで、ワームウッドからの手紙は省かれています。老悪魔の手紙から甥の仕事に対してまだるっこしく感じていることが頻々と伝わってくるのがおもしろかったです。どうやら若い悪魔は、第二次世界大戦中の空襲にさらされたロンドンで、若い男性を誘惑しているらしいことがわかりました。悪魔たちが「敵」と呼ぶのは、もちろん神様や天使のこと。「彼」と呼ぶのは、キリスト自身でしょうか。悪魔が「敵」や「彼」をこきおろす言い方を裏返すと、おのずと作者の敬虔な信仰心が浮かび上がってくる仕組みです。「ナルニア国物語」からもにじみ出てくる信仰を、もっと純粋培養した印象は、神に対する考え方が裏返しではあるとはいえ、直接語られていることによるのでしょう。
 目を見張ったのは、この物語が、トールキンに捧げられていることです。ブラックユーモアに富む語り口を、トールキンはどう感じただろうかと思いました。結局は、予想通りワームウッドが誘惑しようとした相手は、勇気に目覚め空襲の中で監視員としての責務を立派に果たし、神様を称えて雄々しく死んでいきました。それは、悪魔の側からすると大変な失策で、スクルーテイプは甥の不手際をさんざんなじっています。悪魔でありながら、甥に愛情あふれる叱責の手紙を書き送るところが、逆説的に一番心に残りました。


その他悪夢喰らい
夢枕獏作
 このところ、夢枕獏の新聞小説を楽しみに読んでいます。そのせいか、しばらく図書館では遠ざかっていたのに、恐ろしげな表紙にもかかわらず(短編集だから、それほど恐くないだろう)と借りてきました。かなり以前の本なので、ホラー系のお話だけでなく、山岳小説系のお話も収められていて、バラエティに富んだ味わいでした。
 「鬼趨り」に始まって「深山幻想譚」に終わる9編のうち、やはり大半を占めるのはホラー系のお話です。「鬼走り」は、ジョギングをしている人の心に突然呼びかける怪しい存在がいて、そのせいで何かに追いかけられるように死にものぐるいで走らされる物語です。必死の形相で走っている人々の行き着く先は、ほぼ確実に「死」。心臓麻痺だったり交通事故だったり踏切に飛び込んだりして、なぜその人が走らなければならなかったかが、回りの人々に伝わることはありません。どうやら、心に呼びかけているのは、幼い頃から植物人間になって病室に横たわっている男性らしい。もっともっと「鬼走り」で死んでいく人が続くだろうと思える結末が恐かったです。
 夢枕獏本で何が嫌といって、血みどろシーンが嫌い。ほんのちょっとずつではあるけれど、きちんとそういうシーンが入っているお話もあって、目をつぶって読む思いでした。「ことろの首」や「のけもの道」などはそれ系で、(やっぱりなぁ)とため息をつきつつ、恐いもの見たさの気分でもありました。「陰陽師」で慣れたとはいえ、やはり読まずにすむものならばすませたかったです。
 かつて新田次郎本にはまったこともある私は、思いの外山岳小説系の2編をおもしろく読みました。「霧幻彷徨記」は、不思議な時空を超えた霧の中で道に迷うお話です。ちょっと先の自分が過去の自分と力を合わせて抜け出す展開は、プチSFのようで感心しました。
 短編集を読んでみて、やはりホラー系でない「シナン」みたいな長編小説が読みたいなと心から思ったのでした。


パレットあこがれの遠い土地
トーベ・ヤンソン&ラルス・ヤンソン作
冨原眞弓訳
 ひところ毎月1冊ずつ出ていたムーミン・コミックスのシリーズ。全14巻をそろえている途中に作者のヤンソン姉弟が亡くなってしまったのが寂しかったです。まず弟でコミックスを中心になって描いていたラルス・ヤンソンが亡くなり、次の年にはムーミンの生みの親のトーベ・ヤンソンが亡くなりました。子どものころからムーミンに親しんでいた私にとって、大切な人をなくして寂しい思いでいっぱいでした。
 ふと読み返してみると、「ムーミン谷のきままな暮らし」、「タイムマシンでワイルドウエスト」、「あこがれの遠い土地」、「ムーミンママの小さなひみつ」のどのお話も、あるパターンを踏んでいることがわかりました。仕事に追われず、自分のしたいことをしてゆったり暮らしているムーミントロールたちのところへ、どこからやってきたのか世俗の人々がムーミン一家の暮らしを変えるよう説得しに訪れます。信じやすくさめやすい?ムーミンたち(特にムーミンパパ)は、言われたことをすぐに信じ込み、仕事をしようとしたりタイムマシンでアメリカの西部劇の世界に出かけたりします。
 けれども、彼らが根本から自分たちの暮らしを変えるのは、どだい無理な話。ムーミンパパやムーミンママ、スノークのお嬢さんたちが、もとの暮らしの方がよかったと思うには、いつも大して時間はかかりません。スノークのお嬢さんも、小説のような恋に憧れていますが、結局いつもムーミントロールのところへもどってきます。
 外の世界の住人はうさんくさげですが、ふと気が付くとせかせかした暮らしにどっぷりつかっている自分の分身のように思えています。ムーミンたちのゆったりと気ままな暮らしは、ちょっとやそっとでは抜けきることはありません。あのテンポと展開があってこそ、ムーミン谷の住人なのかもしれません。それにしても、どんなに好奇心の強いムーミンパパたちが踊らされても、全く自分のやり方を変えないスナフキンはえらいです。


絵本・コミックあさいち
大石可久也絵
輪島朝市の人々語り
 絵本作家が、輪島の朝市の始まる前から終わるまでを丹念に取材して描いた絵本だと、一読してわかりました。私が家族旅行で輪島を訪れたのは、あの地震が起きた前の年のことでした。この絵本では地震の話題はまったく出てきませんが、あの地震の被害を思わずにはいわれませんでした。
 私が訪れたのは、夏のこと。この絵本は冬の輪島の一日を描いています。海では、漁船がもどってくるのをまっているおばあさんが。山では雪の下の畑からミズナとネギをおばあさんが掘り出しています。読んでいると小さく書かれた文字から、漁船を待っていたおばあさんが「のぶちゃん」だと分かります。山の畑から野菜を朝市に持ってきたおばあさんは、「ふでさん」らしい。まるで知り合いが朝市に売りに行くのについていくような気になりました。
 朝市が始まると、お店の人々をカメラが順番にクローズアップしていくように絵が続きます。それぞれのお店でお客を呼び込む言葉がそのまま絵に添えられているのが、とても素朴で親近感がわきました。何しろ、輪島の方言そのまま、買いに来るのは何となく知り合い(地元の人)が多いようです。私が出かけた夏は観光客でいっぱい。冬場は雪深い能登半島を訪れる人が減るからでしょうか。
 朝市が店じまいするとき、のぶちゃんとふでさんは、売れ残ったカレイとミズナを交換しています。山のものと海のもの、ちょっとした物々交換が友達同士の親しさをぐっと身近にさせました。また輪島の朝市に行ってみたくなりました。


子どもアーサー王救出作戦
ジョン・シェスカ作
レイン・スミス絵
幾島幸子訳
 「タイムワープ三人組」シリーズ第1巻。作者のシェスカと画家のスミスの組み合わせは、確か絵本でも読んだことがあって、強烈なユーモア感覚のコンビだなと思ったことを覚えています。レイン・スミスは、あの「ジャイアント・ピーチ」の絵も描いていたはず。きっと何かとんでもないことが起きるにちがいないと期待しながら、せっせと読みました。
 お話は、いきなりジョー(語り手)、フレッド、サムの三人が真っ黒な装束に身を固めた騎士に出会うところから始まります。(あれれ??)と思ったのは、私だけではありません。相手が少年たちを魔法使いと勘違いしてつっかかってくるのをひらりとかわしながら、ジョーが考えた原因は誕生日プレゼントにマジシャンのジョーおじさんから送られてきたけったいな本を開いた時のことです。確か、あの本にも黒い馬に乗った男の絵が描いてあったっけと思ったとたん、緑色の霧が立ちこめたのでした。
 心の準備もできていないまま、タイムワープしてしまっても、ジョーたち三人組は驚いていただけではありません。例の黒い騎士を挑発した隙に、フレッドが棒きれで兜をなぐりつけて、馬からはたき落としました。大の大人がそんなに弱くていいのかしらん?円卓の騎士もなかなか歯が立たなかったのに・・・と思ってはいけません。現代の子どもたちは栄養状態がよくて、体格も当時の騎士たちにひけをとらなかったかもしれないではありませんか。
 黒い騎士を倒したところへ現れたのは、なんと円卓の騎士のランスロット卿でした。彼は、もちろん三人をアーサー王のもとへ連れて行き謁見させます。みんな三人を温かくもてなしてくれますが、ただ一人感じ悪いのは、魔法使いのマーリンでした。きっと強力な競争相手が現れたと思ったからでしょう。その時、とんでもないことが怒りました。大男のブレオブと竜のスマウグが、別方向から城に近づいてきたのです。「ブレオブ」という名前の由来は知らないけれど、「スマウグ」は例の「ホビットの冒険」でバルドに退治される竜と同名です。そこからとって親戚のつもりかなと秘かにほくそ笑みました。シェスカも「ホビットの冒険」の愛読者だったかもしれません。
 とうていかなうはずもない相手を手玉に取ったのは、サムの機知でした。同士討ちで任務を果たした三人組は、もとの世界に帰れるでしょうか。鍵になったのは例のまたしてもけったいな本でした。夢でない証拠がちゃんと最後に出てきてよかったです。


その他朝のこどもの玩具箱
あさのあつこ作
 「夜のこどもの玩具箱」と対になる短編集です。「おとな」に比べて「こども」のお話の方がとっつきやすく、どろどろ感が薄くて助かりました。「謹賀新年」、「ぼくの神さま」、「がんじっこ」、「孫の恋愛」、「しっぽ」、「この大樹の傍らで」が収められています。
 「謹賀新年」では、高校生の娘と仲の良い義母のお話。義母の麻衣子さんは、5年前に安奈の父(年が離れていた)と結婚しましたが、このお話の高校の三者面談の後、心筋梗塞で急死してしまったのです。ちょっと天然で優しい麻衣子さんとしっかり者の安奈。二人が肩を寄せ合ってこれからも生きていこうとする心構えが、「謹賀新年」の初詣からしみじみと伝わってくるいいお話でした。
 「ぼくの神さま」は一転して、異世界風ファンタジー。父親を謎の病気で亡くした息子は、誠実なお医者に弟子入りします。けれども、おそらく謎の病気の原因になった仕事場の関係者にお医者は殺されてしまい、孤立無援になったフユンは、ひとりでお医者のフンの遺志を継ぐことを決意するのでした。大きな事件の入り口のエピソードですが、少年の強い決意と、これからの過酷な生き方を彼の「神様」が見守ってくれそうだと思いました。
 「がんじっこ」は、まったくの意地悪ばあさんのお話。けれども、がんじっこのおばあさんには、がんじっことして生きることに決めたまっとうな事情がありました。愛する夫を戦争に行かせ、鬼を背負って帰ってきた経緯。なるほど、本音で生きて少々(かなり)意地の悪いことを口にしても仕方がないなと納得です。
 「孫の恋愛」は、キツネの一族のお話。「平成狸合戦ぽんぽこ」みたいに、人間に混じって暮らしていくことにしたキツネたちですが、孫が大好きな祖母に相談に来たのは、人間の女性と結婚したいということでした。祖母は、人間との確執を思いながらも「プロジェクト0」が確実に進行し、当然のなりゆきだと悟るのでした。こういうファンタジーも、「しっぽ」とならんでいいものでした。
 やはり、子どもが出てくるお話の方が、読後感が爽やか。「夜」よりも「朝」を描いたお話を、これからも選んで読みたいと思いました。


児童文学朝のひかりを待てるから
アンジェラ・ジョンソン作
池上小湖訳
 何気なく読み始めたら、「いま」と「あのころ」が交錯する物語の何がどうなっているか???でした。主人公のボビーが16歳で、どうやら彼女のニアとの間にフェザーという女の子が生まれたことらしいことが読み進むにつれてわかります。「いま」でボビーが生後11日目のフェザーの世話をせっせとしているけれど、なぜ母親の影がちらりとも見えないんだろう?といぶかしく思いながら読みました。
 ボビーとニアは、16歳の高校生。ニアが妊娠したとき、ボビーの両親は「あれほど、言ったのに」と驚き呆れ、もちろん怒ります。ニアが赤ん坊を産もうと決めてからも、赤ん坊を養子に出せば今までと変わらない毎日が送れると知っても、ボビーとニアはそうしようとはしませんでした。「あのころ」でフェザーが生まれるまでの日々を知り、「いま」でボビーが夜中にもこまめにおむつをかえたりミルクを飲ませたりしながら、父親の自覚をかみしめます。
 なぜボビーだけがこんなに悪戦苦闘しているだろう?苦労しながらも、フェザーが出てくると雰囲気が和らぎ、ボビーも楽しんで赤ちゃんと接しているのがわかるのはなぜだろう?ニアが重い妊娠中毒症を患い、出産時に脳内出血で植物人間状態になってしまったことは、さらっと語られるだけです。フェザーを養子に迎えたいという家庭は、書類が山になるほどたくさんありました。ボビーが書類をすべて破ってしまい、フェザーを手許で育てると決心した時、ニアの両親は賛成したけれどボビーの両親は完全に納得したわけではりませんでした。
 フェザーを連れて、ボビーは兄がクラスオハイオ州に移り住みます。ボビーは、きっとフェザーをともに成長していくだろうなと、明るい光がぽっちり灯ったような気持ちで読み終わりました。子どもが産まれると人は強くなり、子どもが支えてくれることがよくわかりました(そうでない人もいますが)。


その他朝日のようにさわやかに
恩田陸作
 ショートショートよりちょっぴり長いお話が12編収められている短編集。それぞれの味わいは、ハッピーエンドとはほど遠く、(う〜ん)と深く考えさせられます。感動的というよりは、ホラー系に近い味わいで、高度なユーモアと皮肉がほどよくきいています。
 冒頭の「水晶の夜、翡翠の朝」には、なつかしい少年が登場します。ヨハンって、確か理瀬の友達だったあの子かな?しかし、理瀬はまったく顔を見せず、かろうじて憂理の名前だけがかすかに見られます。物語は、ヨハンを慕うジェイという少年を中心に、不可思議な嫌がらせが起きることから始まります。「わらいカワセミにはなすなよ」という童謡(何となく、聞いたことがあります)の歌詞に沿って、もうちょっとで大事になりそうな事件が起き、とうとう3番目の歌詞ではヨハンがあわやという目に遭います。ヨハンは、きっちり嫌がらせの犯人を暴き、あろうことか冷徹な復讐までしてのけ、(相変わらずだなぁ)と彼が健在なことがちゃんとわかる仕組みです。
 私にとってわかりやすくておもしろかったのが、「冷凍みかん」。ひょんなことから、不思議な冷凍みかんを預かることになった主人公。冷凍みかんは、なぜか厳重に保管され、決して溶かしてしまってはいけません。(たかが冷凍ミカンなのに・・・)と思っていると、不幸な偶然からとうとう冷凍ミカンが解凍されてしまったではありませんか。最後の一行に、もはやあはははは・・・と笑ってごまかすしかありませんでした。
 「おはなしのつづき」は、珍しく感動系のお話。行間から、治る見込みのない病気に冒された幼い男の子に語りかけていることがわかります。(親ってこうやって、小さい子に言い聞かせるんだな)とじ〜んとしました。「いいわけ」みたいな、ほんとうにショートショートにこそ、恩田色が出ているような気がする短編集でした。


子ども あした月夜の庭で
中澤晶子作
ささめやゆき絵
 ささめやゆきさんが挿画を担当したお話は,独特な雰囲気があります。もっとも挿画によって雰囲気が独特になっているのかもしれませんが。このお話には,老人ばかりが肩を寄せ合うようにして住んでいる,古びたアパートが出てきます。人呼んで「ゆうれいアパート」,中庭を囲んでコの字型に建てられています。主人公の少女紅真名子(くれないまなこ)は,アパートの5階の窓からするすると出てきた人影に驚いてごっちんしてしまい,気絶したところをアパートに住むおばあさんに助けられたというご縁です。
 真名子を助けてくれたのは,ずっと教師をしていたというまどかさんと女性記者の草分け的存在の大江さんというおばあさんです。真名子は2人に「赤目ちゃん」という代わったニックネームをもらい,すっかり仲良しになりました。そもそも5階の窓から入ったのは高太郎さんというもとサーカスにいたおじいさんで,窓枠がはずれたのを直そうとしていただけでした。
 真名子の家は,占い師のお母さんと2人家族で,学校があまり好きでない真名子は学校にも気が向いたときにだけ行っていました。ケンカ友達のようなナオミ・グリーンウッド・イチノセというハーフの少女は,サンドイッチ屋を経営するお父さんと2人暮らし。真名子と仲良しだったのにちょっとしたことから,仲違いしています。真名子は,ナオミの落としたロケット型のペンダントから,「ゆうれいアパート」に住む老人たちと思いがけないつながりを見つけることになります。
 とにかくおじいさんもおばあさんもパワフルで明るくて,若くして病気に倒れたララさんと高太郎さん(70代)はいっしょに暮らしたり,みんなでララさんを励ますためにパーティーをしたり,すごく前向きに生きてることに感心しました。三雲さんにしろ,高太郎さんにしろ,まどかさんにしろ,私も○十年後にはこういうふうにぜひ年を重ねたいと強く思いました。大台に乗る誕生日間際の読書は,とかく年をとることの意味について考えさせてくれます。気のせいか若い子をみてあこがれるより,熟年世代の人を見てあこがれることが多くなってきました。これも,確実にトシのせい?


その他あした吹く風
あさのあつこ作
 このところ、あさのあつこ本の新刊はほとんどが大人向きの普通の小説です。「バッテリー」が読み始めだったせいか、どうしても子どもの本の作家だと思っていますが、どうやらこの辺りで認識を改めなければならないなと思いました。
 物語は、基本的に17才の年の差を超えた?!純愛物語。歯科医師の美那子(34才)と、高校生の巧刀鈴(くぬぎれい、17才)が知り合い、互いに逡巡しながら、恋の道に踏み出していく経過が描かれています。さらっと読むと、(そういうものかな・・・)と思うけれど、双方がそれなりに脛に傷をもつ身なことが、微妙な影を落とします。
 傷の深さはそれぞれでしょうが、訳ありなのは鈴の方。鈴は地方の名家の生まれで、父親が幼なじみの姉と不倫中?に交通事故死しています。それが覚悟の自殺だったらしいことが、物語の途中で幼なじみの一人から明かされ、ますます暗さが増してくるのがやってられません。あさのあつこ氏が描くと、何でもシリアスで暗くて息が詰まるようなのがお約束。わかっていてもつい読んでしまうのは、彼女の本を読んできた惰性かもしれません。
 要するに、計らずも鈴にとって美那子は父親と心中?した幼なじみの姉(淡い恋心を抱いていたのかも)の形代(かたしろ)なのでしょう。どこにもそうとは書いていないけれど、鈴にとってそういう形でしか心の安寧が得られないことを書きたかったではないかと思いました。
 一方美那子は、バツイチ。同業者(歯科医師)の夫は、学生時代の親友に略奪され、けっこう気楽に暮らしています。問題は、元夫から妻(元親友)が癌を患い余命幾ばくもないことを知らされたこと。こういうじっとりした感覚がやってられないというか、死んじゃうなら何でも許してもらえると思うなよ〜と、美那子の代わりに?怒りがこみ上げてきました。
 美那子が年の差を超えて鈴と生きていこうと決心したのは、元親友の葬式の後のこと。あぁ、今度は世間の目が厳しいよ〜。人ごとだけど心が落ち込みます。


児童文学蘆屋家の崩壊
津原泰水作
 「半曲隧道」、「蘆屋家の崩壊」、「猫背の女」、「カルキノス」、「ケルベロス」、「埋葬虫」、「水牛群」が連作短編集風につながっています。語り手の猿渡と、ホラー小説家の「伯爵」は、交通事故で知り合い、豆腐好きなことで意気投合した不思議なコンビです。定職をもたない猿渡が伯爵と出かけると、なぜか不思議な事件?に巻き込まれるのはどうしたことでしょうか。
 私は、蘆屋→芦屋道満という連想から、てっきり陰陽道関係のお話を想像していました。ところが、こうしてタイトルを眺めてみると、なんと鈍感な私!「アッシャー家の崩壊」にタイトルが由来するに決まっているではありませんか。件の短編は2つ目、猿渡の学生時代の彼女の故郷、福井の海沿いに蘆屋家はありました。気軽な豆腐食べ歩き旅行の途中で、周りから閉ざされた小さな集落に立ち寄った猿渡と伯爵。遊離子(昔の彼女)の両親も兄も、まったく同じ顔をしているのが不気味でした。どこかキツネ憑きを思わせる伏線で、やはり猿渡と伯爵に危険が迫ります。この物語では、なんだかんだといろいろな危機に陥っても、猿渡も伯爵も命を落とすことはありません。ほんとうの蘆屋家の崩壊は、1年を経た後のTVニュースでわかるというのが、あっけらかんとしていてびっくりしました。
 中古車の事故の記憶がよみがえってくる「半曲隧道」、不気味な虫に体を食い尽くされる「埋葬虫」など、よく猿渡が生きながらえているなぁと感心しました。津原泰水本は、どうやらホラー系らしい。爽やかなミステリーにだまされてはいけないなと思いました。


絵本・コミックあずきがゆばあさんとトラ
チョ・ホサン作
ユン・ミスク絵
おおたけきよみ訳
 寅年らしい絵本だなと思ったら、差し詰め韓国版「さるかにがっせん」といったところでしょうか。しかし、主人公のおばあさんが誰かの仇をとるわけではなく、トラにおどされて食べられる運命を、思いがけない物や動物が助けてくれる経緯が、サルがやっつけられる様子に似ているというだけです。
 色鉛筆でぐいぐい描いたようなトラと、コラージュ風のおばあさん、落書きみたいな助っ人たちの描き分けが、なかなか新鮮な絵本でした。こういう絵は日本や欧米にはないなぁと、民族性を感じながらページをめくりました。おばあさんは、突然出てきたトラに食べられそうになります。しかし、あずきを収穫して「あずきがゆを作るまで待って」と頼みました。トラが承知したのは、おばあさんだけでなく、あずきがゆまでも食べたいと欲張ったから。なるほど〜、トラが食べたいと思うほどあずきがゆは、韓国の人々にとっておいしいご馳走なのかもしれません。
 秋になってあずきがゆを作ると、おばあさんは悲しくて泣き出します。もちろん、寿命が尽きてしまうから。そこへ出てきた助っ人たちのラインナップにびっくり。たまご、スッポン、うんち(日本では絶対にありえません)、きり、石臼、むしろ、しょいこ、です。しかも、それぞれがちゃんとおばあさんのあずきがゆを食べさせてもらったのですから、二度びっくり。(ももたろうみたいになってきたな・・・)と思ったら、それぞれに自分ができることを尽くして、おばあさんを救います。そのチームワークの見事さといったら!どこの国にも、こういうお話があるのね。


はてな明日なき十代
赤川次郎作
 副題が「懐かしの名画ミステリー」なのに、「明日なき十代」、「泳ぐひと」、「たそがれの維納」、「愛情の瞬間」から、懐かしい映画のタイトルが全然浮かんでこないのが情けなかったです。「明日なき十代」は、娘に盲目的な愛情を注ぐ妻とロリータコンプレックスの偉い様、昔の恋人と鉢合わせした刑事という赤川ミステリー特有の分野?のキャラがそろい踏みをしています。オヤジのいやらしさと若者の単純さ、女性の独りよがりがさらっと描かれているお話は、読後感があまりいいものではありません。何となく結末が予想できるので、(やっぱりなぁ)でした。昔の恋人に振り回された刑事が、ささやかな幸せをつかむ結末にちょっぴり救われました。
 「泳ぐひと」は、まるで吸血鬼ドラキュラみたいな主人公が怪しかった。泳ぐことで相手の若さを吸い取るなんて、普通の人間ではありません。主人公のアンナがもうちょっとでそういう目に遭わされるところでしたが、軽はずみな親友さつきが庄司(吸血鬼ドラキュラ?)を横取りしてくれたので、セーフでした。もっとも、さつきは玉の輿に乗ったと思っているし、すべてが終わるまではアンナは失意の底に沈みもしました。意外だったのは、さつきの若さと吸い取った庄司が、自ら水泳で力を使い果たして死んでいくこと。アンナならともかく、気取り屋のさつきを死なせてしまったから庄司がこういう行動に趨ったなら、ものすごく陳腐な結末だなと思いました。
 「たそがれの維納」は、懐かしいウィーンを舞台にしたミステリー。しかし、事件じたいは愛憎のもつれから起きただけの単純なもの。レズのお姉さんが相手を取り替えようとして起きるすったもんだは、全く他人事。周りが見えない自己チューな女はいつだってトラブルにつきまとわれるものだなと思っただけでした。ただ、ウィーンの「メランジュ」コーヒーを学生時代に味わったことと、こってりしたケーキの味をしみじみ思い出しました。名画を懐かしむのではなく、自分の青春時代を懐かしむミステリーでした。


その他明日なき身
岡田睦作
 図書館の恩田陸本の棚から、「あらら、未読本発見!」とるんるんと借りてきたのが、この本です。そのままよく確かめもせず読み進むと、(なんだか、いつもの恩田陸本と違うなぁ)と違和感がいっぱい。最後まで読み終わってふと表紙を見ると、ありゃ〜〜〜、「恩田陸」ではなく「岡田睦(おかだぼく)」とあるではありませんか。その瞬間、思いっきり力が抜けました。
 物語は、ほんとうに「明日なき身」のお話。妻と離婚して生活保護を受けている売れない詩人が、日々をどう暮らしているかが、現代と過去に渡って(時間はたびたび前後します)描かれます。あまりの悲惨さ(とにかく徹底的に貧乏ですから)に、読んでいる私まで心が落ち込んでくるのをどうすることもできませんでした。
 結局、どこまで読んでも、(だから何なんだ?)的感覚は去りません。悲惨な詩人は、どうしたら悲惨な暮らしから脱却できるのでしょうか。そういう光は、実生活ではそう簡単に見えるものではないことくらいはわかっていますが(オバサンですから)、物語の中でくらいそういう光を期待したいのが、読者の本性であり人情ではないでしょうか。
 私が本を読むのは、本を読んで少しでも夢をみたり、楽しい気持ちになったりするためであって、読んで悲しい思いをしたり(感動するのならまだしも)、いっしょに生活苦を追体験しどうしようもない閉塞感にとらわれるためではないことがよく分かりました。お名前は似ているけれど、今度から恩田陸本の棚を見るときには、違う作家の本が混じっていないかよく確かめて借りてこようと思います。


児童文学明日につづくリズム
八束澄子作
 主人公の千波は、中学生でポルノグラフティの大ファンです。彼女が暮らす因島は、瀬戸内海に浮かぶ島です。しまなみ海道の途中にある因島にとても親近感をもったのは、偶然夏に尾道を旅した時に、無謀にも尾道→向島→因島→尾道を、数時間で自転車で走破したから。20キロ以上を走り、旅客船に乗って尾道に帰ってきた時には、ふらふらでした。そのとき因島へ行く気になったのは、なんと言ってもあの立派な因島大橋を渡ってみたかったから。歩行者と自転車が通る道までちゃんとある橋は、橋までたどりつくのがものすごく大変でした。その橋を渡って、千波は新しい道を踏み出すのです。
 千波には親友の恵がいます。かつて造船業で栄えた島は、今は工場が撤退し見る影もありません。千波の家は、廃業していましたが大きな旅館でした。母親は施設から大地という男の子を養子にし、大地の不安定さに振り回されながらも、少しずつ家族の絆を深めているところでした。物語は、千波が自分の道を見つけるまでと、大地がいろいろな試練を経て、家族の一員になっていく過程が丁寧に語られます。それにつけても、印象的なのは、気丈で優しい千波の母の奥深さです。世間の陰口も何のその、千波の進路もしっかり見据えています。大地を引き取るきっかけがはっきり書かれていないのが気になりますが、そこはそれ、行き当たりばったりだったとは考えにくい人柄です。
 このお話の章のタイトルは、ポルノグラフティの歌詞からとられています。情けないことに、ポルノグラフティの名前を知っていても、歌がぱっと浮かんでこない私。もし歌をよく知っていて思い入れがあったならば、もっとお話に入り込み、千波や恵に共感することができたでしょう。ポルノグラフティの故郷が因島だってことさえ、この本で知ったぐらいなのですから・・・。因島って、村上水軍の島だよね〜。


児童文学明日ハ晴レカナ曇リカナ
風野潮作
杉田比呂美絵
 読み始めてすぐに「小さな空」(2008刊)の続編だと分かりました。メジャーデビューを果たして東京に引っ越した正見と風希子が、ひょんなことから大阪にもどってきたのが物語の始まりです。あれから何年も経って、太一は高校生になりました。前に住んでいた集合住宅から引っ越したものの、光江(お母さん)が流産したり、漫画が描けなくなってしまったりするなど、いいことばかりではありませんでした。
 そんな時、合格発表を見に行った先で、太一は風希子に似た女の子を見かけます。すると、どうでしょう!あろうことか正見と風希子の親子は、偶然岩本家と同じマンションに住んでいたのです。(そこまでの偶然ってちょっと都合がよすぎるな)と思ったけれど、「小さな空」と同じく再び二つの家族でそれぞれの家族の危機を乗り越える話の始まりだと思えば(仕方ないな)と思いました。
 高校になった太一と風希子は、クラスも同じになり幼なじみとしてそれなりに楽しく過ごしています。太一はバンドを組み、風希子はすったもんだの末漫画研究会に入りました。自分と同じように風希子がある一時期から漫画が描けなくなってしまったと知ってから、光江は風希子にとってほんとうの母親のようになりました。しかし、子どもから少女に、そしてどんどん成長していく風希子には、年若い父親の正見をほんとうは父親としてではなく慕っていることに気付き、平穏無事な日々とはいえなくなってきます。
 岩本家と十和田家がほんとうに仲がよく、お互いに助け合って危機を乗り越えていく姿は、現代にはなかなかない憧れのつながりに思えます。ただのご近所づきあいにしては、今日び珍しい親密な関係です。結局、再び正見がバンドを再始動することになり、風希子は京都の大学へ、太一は東京の大学へと、離ればなれになっておしまい。太一は風希子を思っているけれど、風希子はまだ太一を友達以上恋人未満としか見ていません。ただの恋愛小説的続編が出るにしては、家族ひとりひとりがクローズアップされすぎ。どうなるのでしょうか・・・。


子どもあたしたちの時間
堀直子作
長谷川集平絵
 小学校6年生の篠田百合(ユリ)、朝倉紫洋子(ショコ)、神宮奈桜子(ナコ)の物語。語り手はナコこと神宮奈桜子で、物語に出てくる流行からすると、10年ちょっと前のお話だということがわかります。いきなり、三人が原宿に遊びに行ったシーンから始まるので、つい先日起こった小学6年生の渋谷での監禁事件を思い出してしまいました。あの時代には、渋谷ではなく原宿だったけれど、ロリコンのお兄さんにマンションに閉じこめられるなんてことは、あまり起こらなかったよなぁ(知らなかっただけかもしれませんが)とあれこれ思い出しました。
 原宿の喫茶店で偶然知り合った、ブレンダという外国人の女性は、上智大学に留学していて、フィアンセと結婚することが何よりの望みでした。ブレンダをシンデレラ的存在ととらえ、すっかり憧れてしまった三人は、せっせと教えてもらった電話番号に連絡しますが、間違い電話でなかなかつながりません。とうとう、住所をたよりにアパートを探しに出かけるに及んで、小さい子は一途だなぁと感心するのはおばさんの読み方そのものです。
 大人の考えだと、ブレンダが上智大学の留学生だというのも十中八九嘘でしょうし、フィアンセがいるというのもすべてほんとうとは思えません。それでも、ユリたちにしてみれば、ブレンダの故郷のテキサスに旅する目標が至上のものに思えますし、ユリに引きずられてでも3人は一時的に夢を共有したのです。
 勝ち気なユリに、お勉強も運動もあまり得意でないショコ、そして語り手のナコは、自分をまっすぐ見つめて人に気を遣うタイプです。三者三様のブレンダとの関わり方だし、中学校からの進路もそれぞれが一生懸命考えています。一人だけ中高一貫教育の私立校に進むショコを巡って、一時的に友情が冷え込みますが、それは最後に永遠の友情を誓う土壌になったことがわかりました。雨降って地固まるとはよくいったものです。小学6年生で、こんなに仲良しの友達がいたっけと思うと、ユリとショコとナコがうらやましくなりました。青春群像という点でちょっぴり「トラベリング・パンツ」シリーズに雰囲気が似ていました。この子たちの将来の幸せを素直に願う気持ちになれました。


絵本・コミックあたしの惑星!クラリス・ビーン
ローレン・チャイルド作
木坂涼訳
 きらきら光るパーツが組み合わさった表紙絵と、自由自在の配置の活字にびっくりしました。絵の雰囲気は、とにかく大胆。お話自体は、クラリス・ビーンがエコロジーに目覚め、木を大切にしようと呼びかけるまでのシンプルな展開です。学校ではどちらかと言えば、はみ出しているタイプのクラリス・ビーンは、先生にもよくにらまれます。絵に思いついたように書かれている書き込みも、いかにも気が強い女の子の覚え書きを彷彿とさせて、にやりとしました。
 あっちこっちに書かれた文を追いかけていると、目が回るようでした。オーストラリアのエアーズ・ロックの写真の上で?!デッキチェアーに寝そべっているのは、クラリス・ビーンとおじいちゃん。想像の翼もどんどん広がります。
 クラリス・ビーンがエコロジー戦士になるきっかけは、すでに筋金入りのエコロジストの兄カートの影響でしょう。家の近くの通りにある大木が切り倒されるのをなんとか阻止しようと、カートは実力行使に出ます。クラリス・ビーンも、できることから協力体制をしきました。どんどん仲間が増えて、件の大木の上でみんなでスパゲティを食べる絵が最高。エコロジストでない私にも、ちくっときました。


ファンタジー新しい地を求めて
イルメリン・S・リリウス作
 「トッレ王物語」第1巻。数ヶ月前,図書館のリサイクル会でもらってきて,ずっと積んでありました。返却期限がない本って,どうも積んだままになることが多くて,やっと読むところまでこぎ着けました。舞台は北欧,ずっと昔のできごとです。いつとは書いてありませんが,少なくともバイキングの時代のような感じです。このシリーズは3部作で,第1巻では若きトッレが自分の王国を苦労して建設するお話です。
 読んでいて思ったのは,ファンタジー特有のかっちりした構成ではなく,どちらかというと叙情的なお話だなということでした。英雄は完全なヒーローではなく,とても人間的で欠点もたくさんあります。トッレはシッガ谷を治めていたシグルフ王の3番目の息子です。父王が亡くなると,トッレは母違いの2人の兄スタイヌルフとボルグに国を追い出されてしまいました。最初は身一つで追放されそうでしたが,ねばって母の形見の12頭のヤギをもらって旅立つことができました。
 トッレが国を定めるまでは,あっけないくらい簡単に書かれています。きっと様々な苦労があったのでしょうが,あっさり自分の笛の音の届く限りを自分の国「トッレボルグ」としたことになっています。最初はトッレと12頭のヤギだけの国で,そのヤギさえも惜しんだ兄たちの追っ手がかかります。ソー手とラフという追っ手を討ち果たしたとき,人間の背丈の半分ほどしかない老婆が現れます。彼女はハルバという名前で,幼いトッレの育ての親でした。トッレを生んだ母親が姿を消したとき,ハルバが世話してくれたのです。
 討ち果たしたソーテとラフの死体を埋葬するしきたりは,まるで「オーディンと呪われた語り部」のようで,心臓に杭を打ち込まないとゾンビのように復活してくるのは,北欧の伝統の言い伝えかなと思いました。ハルバの後,次第にトッレを慕ってトッレボルグにやってくる家来が増え,少しずつ国らしくなっていきました。
 前半のクライマックスはやはり,トッレの婚礼です。妻となったリビーテは,実は狐の精!?で左足が狐の足という生まれつきです。姿形が美しいリビーテは,短い左足を少しひきずるようにして歩きます。トッレは隣の国でリビーテに会い,幸せを約束したのでした。しかし,婚礼の夜リビーテが狐の精だということを知ったトッレは,怒りのあまり考え込みます。しかし懊悩の末,約束通りリビーテを妻として大切にすると誓うのでした。切れ長の目で黒髪のリビーテは,賢くて未来を見通す力があり,リビーテを娶ったことは狐たちをすべて味方につけるということなのでした。
 お話の後半,トッレはすぐ上の兄ボルグに脅されて,一番上の兄スタイヌルフをいっしょに攻めることになります。読んでいて,せこいボルグなんか,ヒーローらしく一発でやっつけろよ!と思いましたが,そういう超人的な力はないのでした。やっと帰国の途についたとき,トッレはみじめなありさまでした。そしてそれを迎えるリビーテの作者自身の絵が最高です。物語のテーマは,トッレとリビーテの心の交流ではないかと思えました。


その他温かなお皿
江國香織作
 丁寧な水彩の挿画に惹かれて借りてみたら,どうやら読んだことがある本らしい。あぁそうだった,文庫本で読んだんだと気付きました。江國さんのエッセイは,女性が描いた細やかな感覚に共感して,すーすーっと読み進むことができます。ところどころ,あれっというインパクトも織り交ぜて,悩むことなくつまづくことなくストレスのたまらない読書です。ついでにところどころの柳生まち子さんの挿画も文章の雰囲気を見事にうつしているので,なんだか自分も繊細で女らしくなったような幻想にひたるわけです。
 姑に見てもらうためにせいいっぱい作ったお節。プリンも入っていて絶句する面々に,主人公の若妻菜美子は言います。「お義母さま,それはローズィー(飼い犬)のお節です。」と。凍りついたような沈黙とはじけるようなわざとらしい笑い声が,一瞬の間の後に聞こえてくるようでした。
 前に読んだときも今も,一番のお気に入りは,「南ヶ原団地A号棟」です。3人の小学生の作文が順に出てくるだけですが,まるで巴戦みたいにお互いのお母さんをほめあい,自分の母親をけなしているのが,めっちゃおもしろかった。加奈子は,母が料理が嫌いでれいこの母を羨んでいる→仕事をもっているれいこのお母さん,れいこは専業主婦の健一郎のお母さんにあこがれている→お母さんの手の込んだお料理にうんざりしている健一郎は,加奈子の家のシンプルさに心惹かれているという連鎖です。人が変わると見方も変わるところが,当たり前でも新鮮でした。
 最後の「とくべつな早朝」は,瑞々しいクリスマス・ストーリーです。イブなのにコンビニのバイトを頼まれてしまった主人公。カップルが買っていくのはみな同じと,ため息をつきます。カツ弁当を食べても気持ちが晴れない彼が電話した相手は深沢秋美。頼んだことは・・・?健康的な,そうこの間NHKでやってた「光の帝国」に主演していた前田愛を想像しちゃいました。青少年の出会いは,どんなささいなことでもドラマチックだなぁ。


児童文学あたま山
斉藤洋文
高畠純絵
 斉藤洋と高畠純のコンビで「ランランらくご」というシリーズが出ていることを、この本で初めて知りました。もう5巻目です。表題作の「あたま山」と「どうぐ屋」、「だくだく」の3編の構成です。ほんとうなら人間のはずの登場人物が、言葉はそのままでみんな動物に置き換えられているところが、まずおもしろい。ライオンのおじさんと甥が真面目に古道具の売り方を談義している光景だけでも笑えてきます。普通の若いお兄さんが同じだじゃれを言ったのなら、(うう、さぶ〜)と一蹴するところですが、暢気な顔立ちのライオンが言うと(そういうものかな・・・)と納得できるのが不思議でした。オチは私的にはまったく大したことはなかったのに、ただライオンと動物たちのピントのはずれたやりとりだけでも、立派に楽しめました。
 「あたま山」は、珍しく私でも知っている落語のお話です。自分の頭に桜の木が生えて、そこで飲めや歌えやの大騒ぎ。それが嫌で最後には主人公が桜を引っこ抜いた穴に水がたまった池に身投げしてお終い・・・のはずが、ありゃ〜?主人公はその広大な海みたいな池に小舟をこぎ出していずこへか去っていってしまいます。なるほど〜、子ども向けの本に自殺を出しちゃいけないんだなと、これまた納得。教育的配慮なのでありました。
 「だくだく」は、やはり血の流れる音。でも、引っ越しをしても何もない部屋の壁にせっせと家財道具を描いてもらったのがはじまりなので、やはり「だくだく」ごっこです。泥棒とでもこうやって、「泥棒と泥棒に入られた人」ごっこをしていられるのは、恐ろしく心が広くのんびりとしたお話です。それが落語のいいところ・・・?かもしれません。

児童文学あたまをつかった小さなおばあさん
ホープ・ニューウェル作
松岡享子訳
山脇百合子絵
 主人公の小さなおばあさんは、とても貧乏ですが、頭を使ってけっこう心豊かに暮らしています。おもしろいのは、連作短編集のどのお話でも、おばあさんが「あたまをつかう」シーンが出てきて、その時にはぬれタオルで頭をしっかりしばり、椅子に座って人差し指を鼻の脇に当てて目を閉じるのが、おきまりのポーズなのです。こうすると、おばあさんの頭にはとてもよいアイデアがひらめき、難問をどんどん解決していくというわけです。
 私も人差し指を鼻の脇に当てるポーズをまねしてみましたが、何も変わらず。誰にでも効くポーズというわけではなさそうです(当たり前か・・・)。おもしろかったエピソードは、なんと言っても、おばあさんが羽布団をゲットする章です。羽毛布団が高価なのはどこでも同じらしく、普通に考えておばあさんは自分が羽毛布団を買えるはずはないと思います。そこであきらめないのがおばあさんのいいところ。なんと、羽毛の元、つまりがちょうを十二羽飼って、羽毛自体をとろうと目論みました。それは見事に的中したのですが、おばあさんのすごいところは、今まで使っていた古い毛布をちゃんと十二等分してベストを作り、羽毛と取った後の痩せたがちょうたちに着せたこと。赤いベストをがちょうが着ると、なかなかキュートだと分かりました。
 十二羽のガチョウたちが、その後のお話にもたびたび登場します。おばあさんは動物たちに好かれるたちらしく、ねずみを捕まえても、おぼれさせることができません。ねずみのつぶらな目を見ていると、ついエサをやってしまい、ついねずみになつかれてまたペット化。なるほど、こういうことだって、おばあさんが頭を使っている証拠かもしれないと思いました。おばあさんがどう頭を使ったかではなく、自分が頭を使って毎日を切り開いているという自覚が大切ではないでしょうか。それが、おばあさんの心豊かな生活につながっていると思いました。



子どもあたまを使った小さなおばあさん
ホープ・ニューウェル作
松岡享子訳
山脇百合子画
 松岡享子&山脇百合子という組み合わせから、ほのぼのとしていながらぴりっとスパイスのきいたお話を想像したらその通りでした。昔々あるところに住んでいた小さなおばあさんは、いつも頭をつかって暮らしていました。おばあさんの頭の使い方は、常人とはちょっと違っていて、とても私ごときのついていける使い方ではありません。おばあさんは頭を使うことで貧乏をも、ちゃんと乗り越えているのですから、さすがです。
 羽布団を作りたいと思ったとき、羽布団は買えないのでおばあさんは、ガチョウを12羽買いました。ガチョウの羽根から羽布団を作るとガチョウが寒がるので、おばあさんがしたのは、いらなくなった穴だらけの毛布でガチョウの上着を作り、その代わりにガチョウの羽根をむしって布団を作ることです。確かに羽布団ができたら毛布はいらなくなりますね。
 生き物に対する思いやりを忘れないのが、おばあさんのやり方。ネズミが大切な食料を食い荒らした時も、結局おばあさんはねずみ取りを仕掛けてネズミを捕まえても、水につけて殺すことはできませんでした。毎日トウモロコシを与えてネズミを1匹ずつならし、気がついたら家のネズミはみんなおばあさんからえさをもらうようになっていました。
 おばあさんが頭を使うときのスタイルは、ぬれタオルを頭にきつくまくこと。私も一度お風呂上がりにやってみようかな。ひょっとしたらいいアイデアが思い浮かぶかもしれません。


絵本・コミックあたらしい星へ
前川康男作・絵
 完全に意表を突かれた結末でした。幸運を運んでくる「鳥怪人のお面」をかぶったシンは、星を見るのが大好きでした。家の屋上でお面をかぶって空を見ると、人工衛星まで見ることができました。星に大して心の中にあこがれが育っていくのを、シンはうれしい思いで感じていたことでしょう。
 ある日、お父さんが耳寄りな話を聞いてきました。地球とそっくり同じ惑星が発見され、宇宙船でその星へ人々を派遣することになったというのです。世界中の国から一家族ずつ、日本でも応募した家族から抽選で宇宙船に乗って開拓に出かけるとか。宇宙が大好きなお父さんは、その場で抽選の申し込みをすっかりすませて帰宅しました。
 宇宙へ行くって、そんなにほいほいと決めちゃっていいのかな?と思っても、(まぉ、お子様向けだから、あきらめが肝心ね)とさらりと読み飛ばします。シンの家族(父・母・兄・姉)は、みんな宇宙船で宇宙に旅立つことをとても楽しみにしていましたが、出発日が近づいてくると次第に落ち着きを失い、なんだかんだと理由を作って、宇宙行きを遠慮するのでした。結局、しがらみを断ち切ったのはシンだけ。星へ旅立つ日、大人たちが見たのは・・・?彼らがこれからどうなるかわからないけれど、子どもの大きな力が遺憾なく発揮されるだろう事は、推測できます。
 さりげなく描かれたおばあちゃんが見ているテレビ画面に、水戸黄門らしい絵を見つけると、なんだかうれしくなる絵本でした。


絵本・コミック あちゃらさんとこちゃらさん
すとうあさえ作
前田まゆみ絵
 植物の特徴をうまくとらえた前田まゆみさんの絵は,以前から絵本を見つけると借りたり買ったりして楽しみにしていました。前田まゆみさんは,植物の細部まできっちり描き,ガーデニングの本も見ているだけで,鉢植えが花を咲かせたような豊かな気持ちになります。
 タイトル通り,この絵本は植物ではなく二人のおばさんが物語の中心です。ただ,やっぱりなぁと思ったのは,「あちゃらさん」と「こちゃらさん」という丘の上に2軒ならんだうちのおばさんたちは,それぞれアサガオとオシロイバナを集中的に育てていることです。やはり,隠れた主役はアサガオとオシロイバナとマツバボタン。ちゃんと植物系の絵本なのでした。
 あちゃらさんはアサガオを,こちゃらさんはオシロイバナを,それは大切に育てていました。朝はアサガオが夕はオシロイバナがそれぞれの家できれいに咲き,二人は秘かに競争心を抱いていました。手っ取り早い話,二人ともアサガオとオシロイバナを庭に植えればケンカにもならないだと思いましたが,そう単純なものでもありません。険悪な顔をしているわけではありませんが,あちゃらさんもこちゃらさんも自分の庭に子どもたちを遊びに来させようと,あの手この手で大変です。優しい顔でにこにこしているようではありましたが,二人は心の中で火花を散らしていたのです。
 ところが,ある日幼稚園の花壇を見て,二人ともびっくり。アサガオとオシロイバナの間にマツバボタンが植えられてきれいに咲いているではありませんか。マツバボタンは昼間に咲くので,朝はアサガオ,昼はマツバボタン,夕方はオシロイバナと切れ目なく花が咲く花壇です。二人が帰ってまずしたことは・・・?細部まで葉っぱや花を一つ一つ丁寧に描いた絵も,十分楽しめます。


その他篤姫
NHK出版編集
 「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」という便利なシリーズを図書館で見つけました。みんな考えることはいっしょだと見えて、返却本の棚にちゃんと置いてありました。もともとの置き場所に探しに行くことはまずないので、とてもラッキーでした。
 大河ドラマは私にとって微妙なところで、当たり外れがあります。だいたい戦国時代を舞台にしていると見ることにしているけれど、幕末は何となく敬遠気味でした。今回の「篤姫」は、高橋英樹→島津斉彬に惹かれて見始めたら、何となく続けて見るようになりました。歴史小説でも幕末を避けて通っている節があるので、当然この時代はとても不案内です。このハンドブックを読んで、大奥や幕末の将軍の移り変わりがよくわかり、(なるほどな〜)と思うことがたくさんありました。何よりも、これからのドラマの展開をだいたい見通せたので、(どうなるんだろう?)と闇の中を手探りする感覚だけはなくなりました。
 実際の篤姫は、目が大きくて、美人というよりどちらかというと意志が強そうな顔立ちです。古い篤姫の写真を見るたびに、(西郷隆盛に似ているなぁ)と思うのは、私だけではないでしょう。写真からはあまり伝わってきませんが、長身だったという話も聞きました。この顔で背が高かったら、女性としては迫力満点。決して男性に引けをとることもなく、堂々と渡り合うことができたにちがいありません。
 おもしろかったのは、明治維新後の篤姫の生き様です。徳川16代(もはや将軍ではない)の家達を立派に育て上げ、家定や家茂の生母とも同居しながら、家を取り仕切っていったのは、篤姫だそうです。混乱の世の中で、きっと頼るより頼られるタイプだったことは想像に難くありません。大河ドラマの篤姫は宮崎あおいの可憐さが際だちますが、こういう実像を知るのが醍醐味だと思いました。


絵本・コミックアティと森のともだち
イェン・シュニュイ作
チャン・ヨウラン絵
中由美子訳
 アジアの絵本を2冊続けて読みました。その1冊がこの本で、台湾の作家によるものです。ページをめくっていると、丁寧に描かれた絵とお話に、日本人が昭和時代に忘れてきた心のようなものを感じました。ちょうど日曜日の夜、「サザエさん」を見ていて感じるのと似ています。
 台湾や韓国・朝鮮の人々は、身内や祖先をとても大切にします。日本人がそうでないとは言いませんが、お年寄りを敬う心のストレートさは、不作法な私にはちょっと想像を絶するものがありました。
 アティがおばあちゃんとした約束は、「いっしょにアリ山に帰って、まんげつのさくらまつりに行こう」です。しかし、おばあちゃんは、(たぶん病気で)亡くなり、アティはお父さんと初めてアリ山にやってきました。木に抱きついているところを見ると、アリ山はお父さんの故郷でもあることがわかります。アティは、おばあちゃんからあずかったさくらの花びらを持ってきていました。
 アティがさくらの花びらを木の枝に乗せたとたん、風が吹いてきてびゅ〜っと花びらが飛ばされました。追いかけていくと、花びらは、トンネルのようになった木の幹の中に入って行くではありませんか。木の穴からはい出したアティを、森の動物たちが取り囲みました。さくらの花びらのおかげで、アティは動物たちと友達になります。動物たちがさくらの花びらをあげたのがおばちゃんだったのです。
 動物たちは、さくらの精がまだ森にやってこないので困り果てていました。アティがさくらの花びらを見ると、どこからか「満月のとき、銀色に輝く真珠を見つけ出すのだ」という声が聞こえてきます。それこそが、病気のさくらの精を救えると言うのでした。アティとクロクマは、銀色の真珠を探しに山へわけ入りますが・・・。
 最後まで呼んでみると、な〜んだとも思えました。しかし、アティの真剣な表情を見ると、(これでよかったんだ)と思うようになりました。けれんみのない正統派の結末は、真面目なことをいけないことのように思う日本の風潮に完全に相反するもの、とても新鮮でした。


絵本・コミックアデレード
トミー・ウンゲラー作
池内紀訳
 副題「そらとぶカンガルーのおはなし」。トミー・ウンゲラーの絵はシンプルでどこかとぼけていて、読みようによってはおばさんはいろいろな深刻な展開を考えるのに、そういう妄想をいっぺんに吹っ飛ばす強さがあります。アデレードは、カンガルーで、もちろんオーストラリア生まれ。生まれた時から背中に翼がついていて、大きくなると空を飛べるようになりました。空を行き来する飛行機を見ていて、アデレードは空を飛んでよそに行ってみることを決意し、家族に別れを告げます。この辺もあっけらかんとして、(そういうこともあるかもね〜)とあっさり受け入れてしまえるのが、トミー・ウンゲラー的でした。
 笑っちゃうのは、アデレードが空で行動をともにしたのは、グライダーとその親切な飛行士です。あれっ?今が舞台じゃないの?と思ったけれど、どうやら一昔前のちょっと暢気な「古き良き時代」らしい。グライダーのおじさんはアデレードといっしょに飛び、疲れるとアデレードは翼の上で休みました。けれども、パリに着いたとき飛行士のおじさんはアデレードに別れを告げ、彼女はひとりぼっちになってしまいます。文明社会でお金も持たず、右も左もわからないアデレードに、見知らぬ紳士がタクシー代を払ってくれて、パリを案内してくれます。
 ここでおばさんは、その紳士がほんとうは悪者で、アデレードを使ってお金儲けをしようとたくらんでいるのではないかと、思わず心配してしまいました。実際、紳士は劇場のオーナーで、出演したアデレードはすぐに人気者になり、パリはアデレード人気で沸き返ります。ところが、人気が出ると寂しくなったアデレードは、動物園のカンガルーのレオンと仲良くなり、めでたく結婚。彼女の幸せを誰も妨げる者がいなかったのが、「みんないい人だったのね〜」と心から安心する最大の理由でした。よかったよかった・・・。


その他あと少し、もう少し
瀬尾まいこ作
 とある田舎の中学校の陸上部の駅伝チームの物語です。効果的な構成になっているのは、1章ずつ駅伝メンバーを取り上げ、それぞれの視点で語れているからです。駅伝チームと言っても、たいていメンバーはぎりぎりか足りない状態で、主将か監督がせっせと全校生徒から選抜し、参加しているサークルに関係なくメンバー集めから始めなければなりません。ところが、陸上の本チャンの先生が転任してしまい、あとを任されたのは陸上ど素人の美術が専門の上原先生という女性でした。主将の桝井にとってそれはただいらいらの種でしかなかったけれど、読んでいると自然体というか、巧まずの効果というか、上原先生でなければこの駅伝チームは成立しなかっただろうなと思うようになりました。
 もっとも、上原先生の章はなく、彼女は脇役に徹し、それぞれの語りの中でイメージが浮かび上がってくる存在です。それでも、駅伝のメンバー+頼りない監督の物語だということはよく分かりました。
 最初から陸上部だったのは、主将の桝井と、設楽、そして2年生の俊介です。第1区間を任された設楽は、名前が「亀吉」で、小学生のころからはじかれっ子でいじめられっ子の自覚がありました。彼はたまたま不良の大田の代理で駅伝を小学生のころ走らされた名残で、桝井に誘われて陸上部に入部しました。おもしろいのは、足りない駅伝メンバーで誘われた中に例の大田が入っていたこと。設楽はうげ〜と思ったのですが、大田の章で、彼が設楽を好敵手だと見なしていたことがわかり、本人も読んでいる私もあっけにとられました。なるほど、人は見かけによらないというか、聞いてみなければ分からないことがたくさんあったのでした。
 吹奏楽部からやってきた渡部は、おばあちゃんと暮らしていて、クールな仮面を自分に科しています。ほんとうは努力家なのに、こつこつと努力を積み重ねて自分が何かしていると他人の思われたくないというのが、おばさんから見ると十分に可愛いところ、一番気に入ったキャラでした。
 俊介は、ただただ桝井先輩に憧れての入部で、駅伝でもアンカーの桝井にたすきを渡します。あこがれの度が過ぎた辺りが語りの焦点なのが、あらら〜でした。一人一人を読んでいくと、駅伝のおもしろさが伝わってきました。


ファンタジーアトランティスの少女
ヴォルフガング・ホールバイン作
平井吉夫訳
阿部伸二絵
 「ノーチラス号の冒険」シリーズ第2巻。主人公マイクの正体は、あのネモ船長の息子でした。そして彼に残されたお宝とは、ノーチラス号そのものだったのです。しかし、殺戮を好まないノーチラス号の守人のトラウトマンは、マイクたちをノーチラス号から降ろし、イギリスへ返そうとします。もちろんその後、トラウトマンはノーチラス号を自分もろとも沈めてしまおうと目論んでいました。
 しかし、子どもたちを島に降ろし、無事フェリーに乗った時、突如フェリーの横にノーチラス号が浮上しました。15年間も世間から遠ざかっていたトラウトマンは、新聞で第1次世界大戦が勃発したことを知って、考えを変えたのです。敵対するドイツの軍艦にノーチラス号が捕まってはならないと、再びマイクたちを乗せて、幻の大陸アトランティスがあったはずの場所へ急行しました。
 一番驚いたのは、アトランティスのあったらしい場所に、5000年以上も前から海底ドームが作られていたことです。ドームには、なんとガラス?の棺?が置かれ、そこにはみずみずしいままで美しい少女が眠っていました。そして、少女のそばには大きな黒猫がいて、黒猫はまるで少女を守っているかのように振る舞いました。ノーチラス号を修理するためにやってきたマイクたちは、黒猫を取りあえずノーチラス号に連れ帰りますが、そんな大発見をライバルのヴィンターフェルト艦長(ドイツの軍艦レオポルト号の艦長)が見逃すはずはありません。いくら運ぶのが大変だと言っても、黒猫だけ連れてくるのではなく、普通少女ごと潜水艦に運ぶでしょうに・・・と思うのは、私だけでしょうか。
 結局、黒猫は連れ帰ったものの少女をヴィンターフェルトに連れ去られてしまい、ノーチラス号のメンバーはにっちもさっちもいかなくなります。少女の名前はセレナ、黒猫は自称アスタロスと言いました。5000年以上も前から封印されているのに、黒猫は元気でなんとテレパシーでマイクと交信することができました。自由気ままで独立不羈、そして皮肉屋のアスタロスの物言いに、私はすっかりファンになってしまいました。アスタロスは普通のネコではなく、どうやらセレナの破壊的な力を抑制してきたことがわかって、マイクたちも私もびっくりしました。セレナの力は、感情が高まると爆発し、レオポルト号を危機に陥らせました。少女といえばはかなげでか弱いイメージしか持たない私の意表を完全についた展開です。
 どうやらマイクとアスタロスは、皮肉を言い言われる関係ながら、強い絆で結ばれた仲間になりそうな予感がします。アスタロスの姿を追って、続きを読むことになりそうです。


子ども
ルイス・サッカー作 
 この本の表紙,とにかく目立つんです。だから本屋さんでも印象に残って,一度読んでみたかった。私,図書館へ行って本棚を前にすると頭が真っ白になって読みたかった本の名前を忘れちゃうという困った病気があるんです。単に健忘症というにはあまりに悲しい・・・。トシとった証拠かなーなどと感じるとつらい。
 でずるずると読めずにいたのが,やっと借りてきて読めたという因縁本です。暗そうなどんよりした目つきの男の子がシャベルを持って,穴を見下ろしている絵。「穴」というシンプルすぎて逆に強烈なタイトルとの相乗効果で,ぐんぐん物語の世界へ引き込まれていきます。
 主人公の設定からして逆説的で,そそられます。「スタンレー・イェルナッツ」という名前の綴りは,英語で右から読んでも左から読んでも同じ奇妙な名前です。スタンレーの一族は,アメリカに移住してきて以来この名前を名乗っています。主人公スタンレーは正確には「スタンレー・イェルナッツ4世」ということになります。彼の一族にはもう1つ重要な!?属性がありました。それは先祖代々「不運」だということです。ただ不運でありながら希望を失わず,アンラッキーなことがあると「あんぽんたんのへっぽこりんの豚泥棒のひいひいじいさんのせいだ!」という決まり文句で,ドツボな状態を笑い飛ばしていくのです。私,この決まり文句がめっちゃ気に入りました。「あんぽんたんのへっぽこりんの私のせいだ!」というふうに使えるな,これは・・・。
 まずいときにまずい場所にいて空から降ってきた有名野球選手のスニーカーのために,スタンレーは窃盗容疑で逮捕され,グリーン・レイク・キャンプに送られてしまいます。ガールスカウトのキャンプみたいですが,湖は干上がっているし猛毒の黄斑トカゲやガラガラヘビはいるし,要するに強制収容所みたいな所です。ここで,スタンレーたちは毎日1.5mの穴を掘るノルマを課せられます。なんで穴を?なんて理屈はなくて,ただ掘ることが修行であり懲罰であり鍛錬なのです。
 この手のキャンプはいつも所長が冷酷無比の人非人なことが多いですが,ここもその典型です。所長に対抗して穴を掘らされる男の子たちの間に不思議な友情が育っていきます。怪しいあだ名で呼び合う毎日,スタンレー(「原始人」)はゼロ(「ゼローニ」)に穴を掘るかわりに文字を教え始めます。そのことがばれてゼロは砂漠に脱走,スタンレーは数日後彼を探しに行きます。
 やっとゼロを見つけたスタンレーは偶然見つけたタマネギを食べて,命をつなぎます。「タマネギ」というのが物語で重要な意味をもってくるのがわかるのは,結末です。今までの不運を徹底的に吹き飛ばす幸せな結末,というより大どんでん返し。確かに元気がもらえるお話でした。


その他あなたがここにいてほしい中村航作
 「あなたがここにいて欲しい」、「男子五輪」、「ハミングライフ」が収められています。中村航本はまだ数冊目ですが、語り口が優しく、どこにでもいる人の話を聞いてるような気がします。主人公を「吉田くん」や「小川君」と呼んでいるので、まるで学生時代の友達の話を聞いているようで、なつかしさや親しみがわいてくるのです。また、一つ一つの話が何となくローカルで、小田原だったり大垣だったり、舞台の町が明確に前面出て、まるでキャラクターの一部を担っているかのように描かれるのも、地方人の私には安心感が増してきます。
 「あなたがここにいて欲しい」は、小田原の城趾公園にいる象と少しずつ離れていく自分を中心に、来し方を語った物語です。主人公の吉田くんは、幼なじみ(中学校まで同じ)の又野くんをふっと思い出します。高校に進んだものの、喧嘩が強くていつの間にか中退してしまった彼は、再び連絡してきた時には寿司屋の職人でした。結婚もしてもうすぐ子どもも産まれるという又野くんに、吉田くんはほっとします。それと並行するようにして、自分の淡々とした舞子さんとの恋も語られるのが、おしつけがましくなくてよかったです。
 「男子五輪」は大垣の話。そして一番おもしろく読んだのは「ハミングライフ」でした。公園に居着いた野良猫に牛乳を飲ませている時見つけた木のウロ。そこに入れておいたメモがもとで、まるでメールを交換するように猫の世話をしている二人が仲良くなって(恋人になって)いくプロセスが、優しく描かれます。猫の名前を相談して決めると「ドドンパ」(これって、ジェットコースターの名前?9になっちゃったり、アイヌ語の話題になったり、こんな風に手紙を交換できたら楽しいだろうなと思いました。
 こうやって知り合った二人が、妙齢の男女だったのも何かの縁。小川君と「私」が、うまくいきそうなことが自分のことのようにうれしく感じ、幸せな気分で読み終わることができました。


児童文学あなたに贈る物語
令丈ヒロ子、石崎洋司、楠木誠一郎、はやみねかおる、シニッカ・ノボラ&ティーナ・ノボラ、あさのあつこ、松原秀行作
 青い鳥文庫の人気シリーズの作家が「贈る」をテーマにして、短編を競作した本だそうです。1人で書いているお話もあれば、二つのシリーズを合体してコラボ的?に書いているお話もあり、バラエティに富んでいます。今まで読んだことがない作家は、ノボラ姉妹だけですが、基本的に青い鳥文庫の「人気シリーズ」を全然制覇していない私には、多分の(何のこっちゃいな?)と蚊帳の外的気分で読みました。
 唯一きちんと?読んでいたシリーズが「若おかみは小学生」なので、冒頭の「黒魔女さん、若おかみに会いにいく」だけは、半分は共感して読むことができました。「黒魔女さん」シリーズは名前も知らないので、(1冊でも読んでいればもうちょっとおもしろさが増したのになぁ)と思っても後の祭りでした。
 おもしろかったのは、やはり黒魔女の修行をしているチョコが、若おかみのおっこと意気投合するところです。幽霊たちと親しげに言葉を交わすおっこに、魔女修行に励むチョコが共感しないわけがありません。和服とゴスロリ服を交換してコスプレに励むシーンがかわいかったです。
 読みやすくて(これからだ〜)と思ったとたんに終わってしまったのは、「坂道をのぼったら」(あさのあつこ)でした。主人公の楓子が亡くなった母親の故郷に引っ越すことになり、やっとこれから話が盛り上がると思ったとたんに終了。いくら新しいシリーズの冒頭部分だとはいえ、こういうアンソロジーでは、ちゃんと一話完結にしてほしいわ〜と文句を言いたくなりました。他の話とは違って、ややシリアスなお話なので、青い鳥文庫を予約してまで読まないだろうな〜(辛気くさい話が苦手な私)と思えるのが、つらいところでした。
 「樋口一葉は名探偵」は、いつもタイムスリップ探偵団が訪れている明治時代から、逆に夏目くんとなっちゃんが21世紀にやってくる話です。夏目くんはともかく、なっちゃんの悲劇的な夭折を知っていると、微妙に複雑な感覚にとらわれます。このまま21世紀に居続けたらよかったのに〜と思うのは、オバサンの感覚だと自覚しました。
 「贈る」がテーマでも、あからさまに「贈る」物語は少なく、それぞれのシリーズの空気を味わうにはちょうどいいアンソロジーでした。


その他あなたの呼吸が止まるまで
島本理生作
 このごろよく読んでいる島本理生本。今まで読んできた本のように、ちょっとほのぼの系の青春小説のつもりだったら、後半でありゃ〜〜〜と深刻な泥沼にはまりました。主人公は、中学生の少女、朔。舞踏家の父親といっしょに暮らしています。朔の父親は、舞踏のために生きているような人です。お金にもならない舞踏の公演のために働き、心はいつも踊りに向かっています。妻(朔の母親)は、とうの昔にそういう夫に愛想を尽かして家を出ていました。しかし、心豊かな父親と暮らすことは朔にとってうれしいことでした。
 物語は、父親の舞踏関係で知り合った佐倉(31歳)や、朔のクラスメートの「鹿山さん」、ちょっといい感じの田島くんを中心に展開します。決して人当たりのよくはない朔は、年の離れた兄のような佐倉になつき、大事なところが抜けた父親の穴を埋めてもらっています。しかし、佐倉は31歳。朔が心を許していい相手ではなかったのでした。
 性犯罪は起こるべくして起きました。暴行はされなかったけれど、佐倉がしたことは、朔が決して人に話せることではなく、父親も佐倉を疑ってみようとはしません。朔がその事件から立ち直るのは、誰にも頼らず自分だけが頼りでした。最後の最後で、田島くんの力を借りたとはいえ、彼も朔がほんとうはどういう電話をかけていたのかは知りませんでした。青春物語がどよよ〜んとやり場のない怒りと逃げ場のない閉塞感に閉ざされ、ハッピーなお話ばかり書く作家でないと、強く認識しました。あぁ・・・。
 それにしても、「あなたの呼吸が止まるまで」とは、恐ろしいタイトルだこと。「あなた」が佐倉だったらなおさらです。


児童文学あなたのネコもアクマかもしれない
クリスティーネ・ネストリンガー作
松沢あさか訳
大和田美鈴絵
 きれいなボタン色に色白の少年(角が生えている)が,栄養ドリンクみたいな瓶から何かを飲んでいます。彼の後ろにいるネコにもなんと角が生えているということは・・・。このネコは悪魔が姿をかえたネコなのです。
 意表をついたタイトルのイメージ通り,悪魔たちが元気よく動き回るお話です。もちろん前半の主要な舞台は地獄。地獄には,いろんな悪魔たちがいて,みんな名字が「アクマ」です。一番えらいのは,ルシファー・アクマ,おくさんはフルミナリア・アクマです。
 ネストリンガーが描いて見せた地獄は,人間界とあまりかわらないように思えました。一つだけ大きく違うのは,アクマたちは死ぬことができないので,年をとると老人ホームならぬ老アクマホームで暮らします。でも,女のアクマは「うそネット」を編むという立派なお仕事があるので,ホームでのんびり暮らすなんてのんびりはできないそうです。ちなみに,地獄には人間は1人も住んでいないとか。人間をアパートに住まわせるなんて,アクマたちはまっぴらごめんでした。
 もちろんアクマたちの一番の仕事は「人間を悪いヤツにすること」です。たとえば「アクマのささやき」を耳のそばで流して,悪の道に走らせるのもアクマの大切な任務です。でも,このごろ,表の仕事(「うそネット」などをつかって,人間を悪の道に進ませる)も裏の仕事(大砲の弾や機関銃などの武器を売る)もさっぱり。人間たちの方が悪魔的になってきたからかもしれません。
 そんなとき,大女王のフルミナリアは賭をします。根っからの善人でアクマの付け入る隙もないブルンナー夫妻を,悪の道へつれこめるかどうかという賭です。自分の代わりにフルミナリアが選んだのは,上級アクマ学校の少年,ベルツェでした。成績優秀な他の生徒たちをおしのけて人間界へ向かうからには,アクマ的な外見はやめた方がいいというのがその理由です。
 ベルツェは言われた通り,ブルンナー夫妻の隣の家に引っ越します。2年間で悪の道に誘いこむのがベルツェの任務です。ベルツェが首尾よく,ブルンナー夫妻を悪人にすることができるでしょうか。人間界ではアクマもおなかが減るし,寒い日は体が凍えるのがおもしろい。お金も持っていないので,ベルツェにできることといったら,温かい寝床と食べ物を求めてネコに変身し,お隣に潜り込むことだけでした。そうこうしているうちに,ベルツェは,ネコでいる方が人間でいるより快適な暮らしができることを知りました。ブルンナー夫妻のもとでネコ暮らしをするのも悪くありません。
 ところが,ベルツェの悪行?がばれる日がやってきました。地獄から来た使者(なぜか女性)を見たベルツェがしたことは,何だったでしょう。アクマって,ずる賢いだけでなく,正統派の賢さもあることがわかりました。すみれ色の目をしたネコってどんなかな?


その他あなたの本
誉田哲也作
 誉田哲也氏の短編集なので、青春小説か刑事物かなと思っていたら、見事に裏切られました。「帰省」、「贖罪の地」、「天使のレシート」、「あなたの本」、「見守ることしかできなくて」、「最後の街」、「交番勤務の宇宙人」のほとんどに、SFの味わいが感じられます。冒頭の「帰省」だけは、どうしようもない男に付きまとわれた娘や孫、そしてもしかしたら自分自身を救った祖母の恐ろしい執念がテーマです。
 「贖罪の地」は、どこか宇宙の空間?で実験をするように恐ろしい物語です。分かりやすいのは「天使のレシート」。神からある使命をおびて地球にやってきたのは、文字通り「天使」。天使さんはコンビニでアルバイトをしながら、使命達成の機会をねらっています。しかし、使命を果たすべき相手の少年の愛らしさにふれてしまった天使さんは、息詰まってしまい、あえなく自殺。さすが「堕天使」。けれども、冷徹な神は別に天使に頼らなくても、簡単にするべきことをしたのです。かなり残酷な余韻の残る結末でした。
 表題作の「あなたの本」には、主人公の人生が事細かに記されています。厳しい父の書斎でその本を見つけた主人公は、どうやらその本を見て人生の先々を知ったものの、その記憶がすぐに曖昧になってしまうようです。それが「あなたの本」の効き目なのかはよく分かりません。ただ、本に書かれた通りの人生を歩みながら、予定通り?!妻が不治の病に罹った時には、家族と相談して生命維持装置のスイッチを切ってしまいます。う〜ん、ところが、その決断が大間違いだったことが分かり・・・。こういうどうしようもなく煩悶したくなる結末は、星新一氏のショートショートの皮肉な展開を彷彿とさせました。
 「見守ることしかできなくて」は、火事で死んでしまった主人公の少年がフィギュアスケートに打ち込む少女を支える物語。先日他のアンソロジーで読んだ再読のお話でした。何よりも大笑いしたのは、「交番勤務の宇宙人」。M78星雲に住むウルトラマンたちが、地球に単身赴任して、不良宇宙人を取り締まるお話です。意気込んで着任した諸星団吉(この名前からして笑えます)ですが・・・。
 どのお話もそれなりにユーモアが感じられてよかったです。誉田氏の刑事物はどちらかというと苦手、こういう作品に手が伸びます。


絵本・コミックアナ・トレントの鞄
クラフト・エヴィング商會作
 クラフト・エヴィング商會の本は、読んでいて「どこか雲をつかむような」感覚ととらわれいます。この本では、映画「ミツバチのささやき」に出てくる鞄が重要な位置を占めています。何でも、主人公を演じるアナ・トレントが手にしている鞄だそうです。困ったことに「ミツバチのささやき」を私は見ていないので、タイトルの「アナ・トレントの鞄」への思い入れが全然伝わってきませんでした。見ていれば、「古今東西、あらゆる時空へ向けての仕入れの旅」も、もうちょっと関連づけて読むことができたでしょうに。何しろ、この本(カタログだそうです)に並んでいるのは、鞄の中身だそうですから。
 クラフト・エヴィング商會の本のおもしろいところは、小文と不思議な写真がひとまとまりになっているところです。文は(不思議な感覚のエッセイだな)と思う程度で戸惑うことはないけれど、写真はいったいどうやって撮ったんだろう?と、一つ一つの小物が物珍しくてなりません。タバコを吸うと頭の中のスクリーンに映画が映し出されるという「シガレット・ムービー」。5本組のそれぞれに小さく書かれている文字は、映画のタイトルでしょうか。ものすごく小さい文字に思わず目をこらしましたが、英語ではなさそうなので、何が書いてあるかよくわかりませんでした。
 クラフト・エヴィング商會の本の写真は、自然に古びていて趣があるところがいい感じです。しわくちゃの紙に包まれた「F」の小包みの中には、いったい何が入っているのでしょうか。こんな小包みが届いたら、さぞうれしいだろうなとうらやましくなりました。
 赤いボールが6つ並んでいるのは「道化師の鼻」。それぞれの鼻を付けた道化師の紹介が、これまたおもしろかった。みんながみんなドラマチックな人生を送っているわけでないのも、わざとらしくなくてよかったです。最後まで読んで、やはり「ミツバチのささやき」をぜひ見てみようと思ったのでした。


子どもアナ=ラウラのタンゴ
ヨアヒム・フリードリヒ作
平野卿子訳
田上千晶絵
 副題「パパの謎を追って」。物語は、学校の帰りにアナが死んだはずのパパを見かけたことから始まります。パパが南米の出張先で亡くなってから2年、やっと心の傷も癒えはじめ、アナのママにはペーターという恋人もできました。アナがパパみたいな男性を見かけた時、ちょうどママはアナをペーターに引き合わせようと思っていたときでした。最初ママは、アナの言うことを信じようとはしませんでした。アナがペーターに会いたくないと思ったからです。
 でも、アナの話を聞くうちに、アナが見かけたのは夫のマルティンかもしれないと思うようになりました。個性的すぎる髪型に考え事をするとき鼻に手をやる癖など、他人とは考えられなかったからです。アナの家にやってきたペーターと息子のオリバー(アナより1歳年上)も、きちんと謎を解明すべきだと主張し、謎解きを手伝うことになりました。こういうところが、論理的で冷静なドイツ人らしい考え方だなと思いました。日本人だったら、「君子危うきに近寄らず」とか「寝た子を起こすな」とか言ってうやむやにすることでしょう。
 かすかな手がかりを伝って謎を追っていくとき、アナの父方のおばあちゃん(マルティンの母)に訪ねると、卒中の発作をお子さんばかりに激しくうろたえます。どうやら、おばあちゃんが謎の鍵を握っているようですが、生死がかかっていてはそれ以上追求することはできません。おばあちゃんの旧友に会ってから、やっと謎がナチス・ドイツが幅をきかせたあの時代につながっていることがわかってきました。
 ミステリータッチの展開なので、一気に読んでしまいました。オリバーだって、いかにもドイツ人らしい理路整然とした行動をとっていて、なるほどと国民性に納得しました。どこかの国と違って、いまだナチス・ドイツの傷跡が完全になくなっていないことがよくわかりました。


ねこ兄おとうと
井上ひさし作
 ふと手に取ったら、井上ひさしさんの戯曲でした。戯曲なんてめったに読みませんが、同じ井上ひさしさんの「不忠臣蔵」は、なぜか手許にある本です。吉良上野介と大石内蔵助が将軍の迷妄にたてついて、ああいうふうにしたという奇抜な展開が印象的でした。この本は、吉野作造と吉野信次兄弟のお話です。情けないことに、吉野作造って聞いたことはあるけれど、どういう人だったっけ?と思い出せませんでした。ネットで調べてみたら、大正デモクラシーの中心を担った方だとか。吉野作造記念館のホームぺージを見てみると、プロフィールにおもしろいことがたくさん書いてありました。ただ残念なことに、この劇で関わる弟信次については、何も書かれていません。彼は、えらい役人で大臣を二度も務めたそうです。こちらもネットで調べたら、昭和初期の官僚で第二次世界大戦末期に愛知県知事を務めた方でした。愛知県民の私には、全然知らない吉野信次というお方が急に身近になったような気がします。
 しかし、どうやらえらい役人の吉野信次さんは、お兄さんの吉野作造さんの知名度にはかなわないようです。劇では、あまり語り合うことのなかった作造と信次が語り合うシーンが、それぞれの妻も巻き込んで書かれています。劇なので、歌のようにリズミカルなセリフが続き、目の前に劇のシーンが見えてくるようでした。最初のシーンでは、吉野作造の妻の玉乃の妹君代が、作造の弟の信次の妻になるなれそめが語られます。このときは、兄弟はまだ仲むつまじく語り合っていますが、劇が進むにつれて、考え方のすれ違いが大きくなります。
 信次と作造は10才離れていたそうです。官僚の道を歩む信次は、リベラルな思想をもつ作造との立場の違いを意識せずにはいられませんでした。今の私から見ると、当時の常識から離れられない信次よりも作造の生き方の正しさがわかりますが、自分があの時代にいればきっと信次的な生き方をしていたでしょう。仲違いの末、二人の妻(姉妹)が画策した温泉旅行で、ほのぼのと温泉にいっしょに入るシーンがよかったです。井上ひさしさんの劇は、読んでいて剽軽さが伝わってくるので、重苦しくないのにほっとしました。


児童文学アニーのかさ
リサ・グラフ作
武富博子絵
 大好きな2つちがいの兄ジャレッドを、突然の病気で亡くしてしまった妹のアニー。アニーは、元気だった兄がとても珍しい病気だとはいえ、心臓疾患で死んでしまったのをなかなか受け入れることができません。アニーは、病気やケガに異常な関心を持つようになり、いつも自分が病気に罹るのではないか、どこか怪我をしているのではないかと、難しい病名(エボラ出血熱とか黄熱病とか・・・)を並べ立て、体中に絆創膏を貼ったりテーピングをしたりしています。
 両親や近所の人々や友達が、何とかやめさせようとしても聞く耳を持ちません。それどころか、親友のレベッカとも、「障害物レースをしようぜ」と誘ってくるダグとも友達づきあいをやめてしまい、ひたすら病気とケガの予防に邁進します。父親も母親も自分の心のケアに手一杯で、なかなかアニーに手をさしのべるところまでいきません。そういう毎日に変化が訪れたのは、向かいの「幽霊屋敷」にフィンチさんというおばあさんが引っ越してきたことでした。
 フィンチさんと話すようになって、アニーは彼女が1年前にご主人を亡くしたことを知ります。フィンチさんはアニーにジャレッドのことを話さないようにしていましたが、いっしょにトランプをしたりクッキーを作ったりしているうちに、お互いの心の辛い部分を話すようになりました。フィンチさんから借りた「シャーロットのおくりもの」をアニーが「病気の本じゃないのに」と言いながらも読み通し、シャーロットが死んでしまう結末をフィンチさんといっしょに読むシーンは、なかなか感動的でした。シャーロットが死んでいくことを、ジャレッドやネイサン(フィンチさんの夫)の死に重ね合わせ、アニーとフィンチさんが癒しあっていくプロセスが、夫の形見の魚の写真を飾ったり、ジャレッドの誕生日の過ごし方を考えたりすることに現れていました。
 兄が死んでから初めての誕生日の計画は、兄の親友のトミーと立てました。その計画とは・・・?近所の人々がジャレッドを思い出してみんなで計画に加わってくれる結末も心が温かくなります。「アニーのかさ」という言葉も象徴的でした。


児童文学アネモネ探偵団
近藤史恵作
加藤アカツキ絵
 副題「香港式ミルクティーの謎」。何となく、「アネモネ探偵団」シリーズになりそうな感じの第1作でした。何しろ、主人公はいいところのお嬢さんたちが通う中高一貫の女子校中等部。女優の娘の智秋、著名な学者の娘のあけび、警視総監の娘の巴は、仲良し三人組です。性格も見た目もまったく違うけれど、共通しているのは家がお金持ちだということとみんな美少女だということです。
 しかしながら、三人はいたって常識人。お互いの短所を補い合って、毎日まっとうに暮らしています。彼女たちが巻き込まれたのは、智秋の母親関連の誘拐事件です。一度は未遂で終わったものの、たまたま隣の同じ系列の中学(男子校)の生徒たちが智秋を誘拐する企みを漏れ聞いてしまったことから、一気に話が具体化します。
 美少女三人組よりも、普通の男子中学生の時生(カメラが趣味)と光紀(料理の達人)の方が、可愛かった。とにかくいじらしくて、自分たちが誘拐事件を阻止して、何とか智秋を守ろうと香港で右往左往しながら奔走する姿にほだされました。
 結局、光紀と時生が本領を発揮したのは、誘拐事件ではなく香港式ミルクティーの入れ方を智秋たちに教えたシーンです。けれども、その話を聞いてヒントを得た「アネモネ探偵団」(智秋たち)は、見事誘拐犯の招待を突き止め、芸能界のどろどろを白日の下にさらしたのでした。
 さら〜っと読める展開で、常識人でありながら、庶民とはかけ離れた女の子たちよりも、男の子たちの動向に注目しました。次は、アネモネ探偵団に三人よりも、おまけの二人の男子を主役に据えてほしいものです。


児童文学あの犬が好き
シャロン・クリーチ作
金原瑞人訳
 とても不思議な味わいは、散文詩みたいな本文から漂ってきます。もともと、詩集はほとんど読まず、自分で詩を書くことは絶えてありません。この本を読んだ時、(もうちょっと、古今東西の有名な詩に通じていたら、もっとおもしろく読めただろうに)と後悔ばかりが先に立ちました。
 主人公のジャックは、元気な男の子です。素直なジャックは、見たり聞いたりしていいと思ったことを口に出すことができますが、自分が詩を書いて心を伝えようとしようなんて、思ってもみませんでした。担任のストレッチベリ先生が、ジャックたちのクラスでいくつも詩を読んで聞かせてくれたことで、ジャックの詩への窓が開かれました。
 物語は、すべてが先生の引用する詩と、ジャックのつぶやきみたいな詩(文章?)から成っています。詩みたいに改行されていくので、ぱらぱらとページをめくった感じは、思いっきりすかすか。すぐに読み終えてしまいそうな気がしました。
 シンプルな言葉と言葉の間から、文には書いていないジャックの心がにじみ出てくるようです。ジャックが犬を飼うことになり、「スカイ」と名付けたこと。かわいがっていたのに、トラックにはねられて死んでしまったことが、目を見張るエピソードですが、実は最大の事件はジャックがスカイを喪った悲しみを、詩に書いて表現したことではないかと思いました。
 スカイを現す言葉を組み合わせて犬の絵を形作ったり、同じ方法でりんごを描いたり、詩ってこんなに自由で楽しいものなんだと、今までの不明を恥じる思いもしました。端的な短い言葉で心を語り、無駄を最大限に削ぎ落とした文章が詩なのだと、再認識しました。


その他あの頃ぼくらはアホでした
東野圭吾作
 作者が青春時代を振り返って語るエッセイ。どうやら作者は夫と同じ年頃らしく(私よりちょっとは年上ってこと)、身につまされて笑える話がたくさんありました。一番うけたのは、一連の怪獣映画に言及したお話です。「つぶら屋のゴジラ」、「ペギラごっこ」と「ジャミラやぞー」など、円谷英二の怪獣映画とウルトラマンシリーズの幕開けを語るネタは、目の付け所がおもしろくて笑いっぱなしでした。
 私自身は決して怪獣映画マニアではありませんが、結婚して以来折に触れ見せられてきた怪獣映画の数々のおかげで、「キングコングの逆襲」とか「ゴジラの息子」と言われたら、なぜか映画の一場面が浮かんでくる程度の知識を身につけることができました。だから、ゴジラ映画が環境問題を扱う高尚なテーマから、単なるお子様たちのヒーローに成り下がる過程も、実感としてわかります。作者が小学生から中学生にかけてゴジラ映画に親しみ、少しずつ見切りを付けていくのは、心から(なるほど)と思えました。
 テレビの怪獣番組でも、「ウルトラQ」から始まる「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」への言及は、鋭いものがあります。子どものころはへぇ〜と思っていただけですが、大人になると私も、「なぜスペシューム光線を最初から使わないんだろう?」と素朴な疑問を感じました。作者が子どもなりに友達と見つけた答えは、真実の真ん真ん中を射抜く慧眼です。
 中学校の校内暴力といい、大学受験のすったもんだといい、同じ時代の雰囲気を感じ取りながら大人になった者同士の共感を感じてうれしくなりました。なぜうまく大手企業に就職しながらミステリー作家の道を歩んだのかが、いつか知りたいなと思いました。


子どもあの空をおぼえてる
ジャネット・リー・ケアリー作
浅尾敦則訳
 臨死体験ってほんとにあるのかな?主人公のウィル(11歳)は、妹のウェニー(7歳)と道路を横断していて、トラックにはねられた少年です。瀕死の重傷を負ったウィルは、手術台で10分間心臓が止まり、電気ショックで蘇生しました。その10分間のできごとを、ウィルはずっと忘れることができませんでした。ウィルの前をウェニーが飛び光の中へ行こうとしたとき、ふと両親のことを考えたウィルだけが手術室に引き戻され、「自分の体と両親を見下ろしている図」という体験を、ウィルはずっと誰にも話しませんでした。
 意識を取り戻したウィルは、毎日ウェニーに手紙を書き続けます。自分が一度死んでから生き返ってからのことをきちんと記録しようと書き始めたウェニーへの手紙が、この物語です。生還10日目から約150日間書き続けられた手紙には、すっかりふさぎ込んでしまった両親、特に父親への思いやりにあふれています。自分がなんとか家族の雰囲気を明るくしようとしても、冷たい拒絶にあってもっと真っ黒な淵に落ちていってしまうのをウィルはどうしようもありません。ウェニーを思い出すまいとしている父親と、ウェニーを忘れるもんかと決意したウィル。すれ違う二人に、ページをめくるのが辛くなってきました。
 カウンセラーのジェームズにさえ、初めのうちウィルは心を閉ざします。しかし、臨死体験をジェームズに語り、ちゃんと信じてもらえたことからウィルの中で何かが変わり始めました。ほとんど崩壊寸前までいった父親との関係。ウェニーを忘れるのではなく、いつも自然に思い出せるようにあるのが、お父さんは辛かっただけ。そして、ウィルとお父さんの間には、臨死体験の間にできた大きな誤解があったことがわかりました。
 語りかけるようなウィルの手紙に、ページをめくる手がとめられませんでした。どんどん読んで、一気読み。しみじみとした結末が、強く心に残ります。


その他あのとき始まったことのすべて
中村航作
 中学校の修学旅行(京都・奈良)から10年。きっと「あのとき」というのは、修学旅行の帰りの新幹線の中で、「好きな相手のフードに何かをこっそり入れること」ではないかと思いました。
 25歳になって会社勤めをばりばりにこなす岡田くんは、ひょんなことから中3の同級生の石井さんと再会します。ほんとうは、石井さんは岡田くんを思っていたのだけど、卒業式に告白しようとしてやめちゃった経緯があったことが、じわじわと判明します。また、岡田くんは、白原さんが好きだったのだけど、どうやら石井さんが岡田くんを思うほどの切実さはなかったらしい。だから、10年ぶりに再会したその日に、いくところまでいっちゃったんだと思いました。
 けれども、困ったことに、石井さんは東京を離れて大阪に転勤することがほぼ決まっていました。「遠距離恋愛は無理」と言い残して大阪へ発っていってしまいますが、そのあと数ヶ月して、石井さんと岡田くんは、奈良で待ち合わせして、修学旅行以来初めて大仏を見に出かけます。大仏の鼻の穴をくぐったり、鹿にエサをやったりして、はっきりとは口に出さないけれど、10年前の思いを石井さんはかみしめていたにちがいありません。また岡田くんが、帰りの新幹線の中で泣いちゃったのも、やっと切なさが二人とも同じレベルに達したからだと思いました。
 最後の章では、白原さんと柳くん(やはり中3の同級生)がつきあっていることが判明します。書いていないけれど、きっと、こちらのカップルに刺激されるような感じで、近いうちに石井さんと岡田くんもちゃんと恋人同士になるにちがいないと思いました。いや、そうなるといいなと思って読み終わりました。


児童文学あの年の春は早くきた
クリスティーネ・ネストリンガー作
上田真而子訳
 ネストリンガーは、「みんなの幽霊ローザ」や「キュウリの王様やっつけろ!」のようにユーモア系の児童文学作家だと思っていたら、このお話では(あれっ)と思いました。8歳の「わたし」はウィーンに住んでいて、戦争は終わりに近づいていました。空襲は日に日に激しくなり、近所でも頻繁に死ぬ人が出ます。クリステル(わたし)の家も爆撃を受けて半壊し、フォン・ブラウン夫人の別荘の番人をするために、ウィーン近郊?のノイワルトエッグへ一家は移り住むことになりました。軍の病院を脱走してきたお父さんもしっしょです。
 フォン・ブラウン夫人の夏の別荘には、いろいろな物がありました。8歳の子どもの目から見ると、わくわくする事件がいっぱい。そのうちに夫を戦争でなくしたフォン・ブラウン夫人の義理の娘と子どもたち(孫にあたります)も、別荘にやってきます。ヒルデガルトとゲーラルトは、すぐにクリステルのいい友達になりました。それからは、いろいろな冒険をいっしょにするのはクリステルとゲーラルトいうコンビができあがったくらいです。
 戦局が進むと、ドイツ軍が撤退しソ連軍がやってきました。クリステルたちが住む別荘も、ソ連軍の本部として使われることになります。最初は怖がっていたクリステルたちも、だんだん情況になれて逃げ出した隣のお屋敷から食料をこっそりもらってきたり(盗んできたってこと)、ソ連軍の隊長の置き忘れたピストルをこっそりかくして大騒ぎの原因を作ったりします。オーストリアがナチの支配を逃れ、ソ連軍、連合軍の占領、そしてオーストリアに自治権がもどるまでを、子どもの目から素直に描いているので、戦争って子どもにとってこういうものかもしれないなと思えました。
 この作品は、ネストリンガーの自伝的なものだそうですが、それはクリスティーネ似た主人公の「クリステル」と言う名前からもうかがい知ることができます。ユダヤ人やポーランド人は出てこないので、ホロコーストという書き方ではないけれど、戦争が引き起こす悲惨さだけは楽天的な雰囲気の中でも十分に感じ取ることができました。


子どもあの夏の日のとびらを開けて
熊谷千世子作
藤本四郎絵
 中学1年の果菜は、合唱コンクールの伴奏をひどくとちったことが原因で、学校に行けなくなってしまいました。もともとピアノが上手なわけではない果菜に伴奏が回ってきてしまったのは、果菜が欠席しているとき勝手に決まってしまったからです。「できない」とはっきり断れない果菜にも問題がありますが、コンクールまでの練習で果菜が伴奏を弾けそうにないと、クラスメートにわからないはずはないと思いました。それでも、本番に果菜しか出せなかったのいなら、果菜ではなく選んだ側の責任です。お話は果菜の側からしか書かれていないのでわかりませんが、不登校の直接の原因に、とても割り切れないものをまず感じました。
 数ヶ月家に閉じこもっていた果菜が、久しぶりに外へ出るきっかけになったのは、幼なじみでバングラデシュに住んでいる樹里が帰ってきたからでした。お祖父さんのお葬式に帰ってきた樹里は、果菜を温かく励まして帰って行きます。いっしょに同じ高校に通おうと約束して・・・。
 果菜は樹里と出かけた秘密の場所、「竹の遊園地」の近くに「たけのこ館」という小さな美術館(工芸館?)があることを知ります。おそるおそる出かけてみると、たけのこ館にはいろいろな人が出入りしていることがわかりました。元は校長先生をしていた館長さんはもちろん、阪神大震災で家族を失い今は竹の工芸家をめざしているやえさん、父親がいなくなり障害児の弟と二人っきりの「ささ竹」こと真一、そして障害があるけれど(あるからか)独特の感覚をもつ真一の弟の翔。いつの間にか果菜は、たけのこ館に毎日のように通い、竹の細工や竹笛の吹き方を教えてもらうようになりました。館長さんややえさんの手伝いをしているうちに、たけのこ館が果菜の居場所になったのです。無愛想な真一でさえ、いつしか翔を仲立ちに、戦友のような関係になりました。
 不登校の果菜が新しい居場所を見つけ、卒業式のころ中学校に行けるようになったのは、彼女を知らない間に支えてくれた人々のおかげでしょう。果菜の心の軌跡は(なるほど〜)と思ったけれど、何しろどしょっぱつの伴奏事件が嘘くさいのが欠点。果菜が中学校へ通い始めたとき、伴奏事件の元凶(果菜がピアノを習っていたと言ってしまった)真希が心からわびてくれるのが、心のどこかで(もっと早く謝って、クラスメートにとりなしてやれよ〜)などと、思ってしまったのでした。


児童文学あの庭の扉をあけたとき
佐野洋子作
 一読して、昭和生まれの大人(老人も)は、無愛想な人が多いなぁと苦笑しました。かくいう私も、もちろん昭和生まれ。自分で無愛想にしようとは思っていませんが、確かに家に帰るとかなりぶっきらぼうで直接的なものいいをする自覚があります。このお話では、主人公の子どものようこ(作者のことでしょうか)へ語りかけるお父さんの物言いは優しいというより、シンプルというかそのものずばり。最初のページのやりとりを読んで、「おとうさん、雨の日は散歩しないの?」(娘)、「おれは、いやだね」(父)とは、すごいなぁと驚くばかりでした。
 何に驚いたかというと、娘の問いに「おれ」と言っていること。普通の父親だったら、「お父さんは、いやだよ」ぐらいマイルドに話すのではないかと思いました。当然、娘のようこが昭和生まれ?らしいので、お父さんは昭和初期の生まれでしょう。そして印象的な洋館の主として登場するおばあさんに至っては、ぶっきらぼうどころか無愛想を通り越して、せっかく声をかけたおとうさんやようこに敵意をいだいているようにさえ思えるのです。
 ほんとうはようこをもっとかわいがりたいのに、ああいう言い方しかできないあまのじゃくさに、実はへそまがりの私も共感しました。ジフテリアに罹ってようこが入院している時、不思議な女の子と友達になりました。それは同じように子どものころジフテリアを患ったおばあさんの少女時代の幻だったのですが、その辺のタイムファンタジー的な味わいに、ついふらふらっとお話に引きこまれてしまいました。
 しかしながら、ようことおばあさんがほんとうに親しく心を通わせることができたのは、ほんのわずかです。ようこは隣町に引っ越してしまい、おばあさんと再会したときには、子どもらしい心からは遠ざかっていたからです。なんだかすれ違いのお話でいらいらが募りましたが、人と人との関わりって、思うようにいかないのが普通で、(世の中ってこんなものだな)と深く詠嘆したのでした。


子どもあの日の空の青を
まついのりこ作
 絵と文で綴られたエッセイ。話題の中心は、1944年に特高に逮捕されて終戦まで留置されたお父さんの思い出です。作者のお父さんは経済学者で、戦争末期に父親が逮捕されるというのは、一瞬にして「非国民の家族」という烙印をおされることでした。
 戦争中に子ども時代を過ごした作者にとって、戦争は強烈な体験だったったことが、読んでいるとまっすぐ伝わってきます。戦争は暮らしから美しい物を奪い、父親を連れ去った憎むべきものでした。級長になるのが当たり前だった作者は、父親が逮捕されるやいなや、クラスメートから「非国民の子どもには(票を)入れないようにしよう」と級長の選挙で完全に阻害されました。それでも、「あなたが級長です」と言い切った先生のおかげで、完全に人間不信にならずにすんだのでした。
 戦争が終わり、秋も深まるころお父さんが帰ってきても、世の中の厳しさうえに心安らぐことはありませんでした。留置されていた時のひどい扱いがたたり、お父さんは戦後9年にして病気で亡くなります。はっきりとは書いていないけれど、文章のそこここから「戦争さえなければ・・・」という作者のつぶやきが聞こえてくるようです。空襲で人が亡くなるのを目の当たりにした話は、読み慣れているけれど自分がそういう目にあったわけではないので、読み続けなければどんどん風化していきます。戦後60年を経て、戦争は遠くなるばかり。戦争について語るつもりではなかったのに、気が付いてみれば戦争の話題に回帰してしまうことで、作者の心の中で戦争の強烈さがいささかも薄れていないことが察せられました。子どもを産んでから28才で美大に進み、32才で卒業した意志の強さにも頭が下がりました。


絵本・コミックあの路
山本けんぞう作
いせひでこ絵
 舞台は、絵の雰囲気からして日本ではありません。お店の看板の文字からすると、フランスでしょうか。主人公の男の子は、名前も明らかにもされず、彼の主語のない一人語りで絵物語は進みます。男の子は母親を喪い、親類の家に預けられました。うつむいて歩くしかできない男の子は、落胆のあまり学校へ行けなくなり、たまたまその辺りにすみついていた三本足の黒犬と仲良くなりました。
 そういえば、日本ではとんと野良犬を見かけなくなりました。子どものころにはときどきふらふらしている犬を見かけたものですが、このごろではそういう犬がいると、きっと誰かが通報して保健所の職員がきちんと職務を果たしているのでしょう。このお話の舞台だって、最後に大人になった男の子が出てくるところを見ると、野良犬が普通にいたちょっと前の時代なのかもしれません。
 三本足は自由にその辺をうろついて、自由に尻尾を振って、いろいろな人々についていきます。心ないいじめっ子のせいで学校にいけなくなった「ぼく」には、三本足の目が「遊ばないの?」と言っているように見えました。男の子と三本足が駆けていく絵は、一人と一匹の全身から喜びが伝わってきて、風を感じるようでした。三本足と「ぼく」は、いつだっていっしょに走り、喜びを分かち合っていたのでしょう。大の字になって寝転がっている「ぼく」を、三本足の鼻が突っついている絵も、幻想的に鳥に囲まれているところからして、大人になった「ぼく」の夢の世界のようにも思えました。
 おばさんは「ぼく」が学校に行かずに三本足と遊んでいるのを、見守ってくれていました。しかし、従兄弟はそうはいかず、雪の日に三本足の後ろ足をしばり、もうちょっと彼を凍死させるところだったとは、残酷な子どもの仕業とはいえ、「ぼく」の心に影を落としたことでしょう。
 そして、おばさんの家を出ることになった「ぼく」と三本足の別れ。あっさりして、三本足が自分の路の終わるところで立ち止まっておしまい。そんなものかもしれないな、思い出とは・・・と、大人になった「ぼく」が電車の車窓から外を眺める絵を見ながら、本を閉じました。


絵本・コミックあの森へ
クレア・A・ニヴォラ作
柳田邦男訳
 人間のかっこうをしたネズミは、落ち着いた静かな目をしています。ネズミの一人語りで、彼がある日思い立って森へ向かったことが分かります。南欧の町並みのような白い壁にオレンジ色の屋根の町は、まるで迷路のように道が入り組んでいます。しかし、村を出ると道は一本道で、農地を抜けて森へまっすぐに進みます。恐がりのネズミは、町を離れたことが一度もなく、そもそもネズミが森へ行こうと決めたのは、あまりに怖いのでほんとうに怖いところなのかを確かめようという逆転の発想だったのでした。
 森へ向かう寂しい道で、ネズミは何度も安全で安心な家へもどろうかと逡巡します。しかしとうとう意を決して森の中へ飛び込むようにして入った時、ネズミは暗い影にやはりおびえるばかりでした。偉いなぁと思ったのは、ネズミがそれでも足を止めることなく、森の奥へどんどん向かっていったこと。絵を見る限りでは、臆病者というより勇気のある男の子のような目をしていると思いました。
 転げ込んだ柔らかいコケの上で、ネズミは白い蝶々や無数の木々の葉を仰ぎ見ます。葉っぱの一枚一枚を丁寧に描き込んだ絵は、ほんとうに森のコケの上に寝転がって、空を眺めているような気がする見事なものです。ネズミが森の怖さを忘れて、森の美しさにうっとりしたのが、この絵からまっすぐに伝わってきました。とうとう、暗くなるまでネズミは森でゆっくり過ごし、また一本道を町へ帰っていきます。もちろん、言うまでもなく、ネズミは明日にでもまた森へ遊びに来るでしょう。きっと、たまには怖い思いをするかもしれないけれど、木々の間の空を見るたびに、ネズミは何度でも森にやってくるにちがいないと確信することができました。


児童文学あぶくアキラのあわの旅
いとうひろし作・絵
 小憎らしいのがかわいいいとうひろしさん自身の挿絵が、お話にごく自然にとけ込んでいます。お話自体は、ひょんなことからアブク人間に変えられてしまった男の子(アキラ)が、巡り巡った末自力で人間の姿を取り戻すまでの冒険譚です。ううう、こういう展開のお話を読み慣れているので、アブク人間の不便に耐えながら、アキラが何とか動物たちに知恵を借りて課題?を果たしていく様子が、とても淡々とした展開にしか思えませんでした。
 もちろん、ネズミ(ハラヘラシ)やソコナシ(カエル)やモグラ(オオブロシキ)などの動物たちは、目つきがかわいげがない絵でいとうひろしさんらしく描かれていて、絵を見ているだけでも冒険を楽しむことができました。冒険をする前と後とで、アキラが別人のように活発なサッカー少年に変身するのも、お約束的な結末です。アブク人間になってさんざん苦労したはずなのに、現実の世界では30分足らずしか時間が過ぎていないことが、お母さんの言葉からわかると、アキラは夢から覚めたような気がしたことでしょう。
 じーんとしたたのは、すっかりサッカー少年になったアキラが、ふと見ると「ネコノツメ」(クマネズミ)がネコにちょっかいを出しているのを見かけた結末です。自分がアブク人間になって冒険の旅をしたことが単なる夢物語に過ぎないと思いかけていたアキラが、、こういう形で冒険が嘘ではなかったと知ることができて、ほんとうによかったと思いました。ネコノツメですら存在するんですから、他の世話になったネズミやモグラだって、いるにちがいありません。アキラの心に、また一つ支えが生まれ、巡り会う楽しみが生まれたと思うと、一緒に喜びたい気がしました。きっと、アキラは、仲間と会えるまでチーズを置き続けることでしょう。


児童文学アブさんとゴンザレス
斎藤洋作
高畠那生絵
 親子でロープウェーに乗ろうとしていた「ぼく」は、ふとフェンスにかけられていた注意書き「あぶないからはいってはいけません(危ないから入ってはいけません)」を、「あぶないからは、いってはいけません(アブないからは、言ってはいけません)」と、口に出して読みました。すると、どうでしょう。突然辺りに白い霧が立ちこめ、気がつくと砂漠のほとりに立っているではありませんか。「ぼく」が驚く暇もあらばこそ、ピンクのワゴンがそばに停まり、ハチみたいな奇妙な帽子をかぶったおじさんが降りてきました。
 足元に黒いザリガニみたいなサソリがいたこともあって、「ぼく」は言われるままに、「アブ」さんのワゴンに乗り込みました。アブと名乗ったおじさんは、自分のことを名前で呼ぶように言うだけでなく、「ぼく」に勝手に「ゴンザレス」と命名します。アブさんとゴンザレスの旅の始まりです。
 アブさんは、砂漠のほとりや海辺にワゴンででかけて「ないものがない百貨店」を開店します。不思議なことに、ピンクのワゴンの扉は、行く先々で開くたびに品揃えが微妙に変わっています。海辺では、マリンスポーツ用品のレンタル屋になり、それぞれの村では品物を売るだけでなく、小包や手紙を受け付けたり届けたりする郵便局にもなりました。
 「ぼく」ことゴンザレスは、すぐにアブさんの有能な助手になりました。何が何だかわからないまま、せっせと働いていると、ゴンザレスは自分が怪しい世界に紛れ込んでしまったことを考えないですみました。そして、やっと仕事が一段落した時、アブさんはなぜゴンザレスがこちらの世界にやってきたかを、「君は、もう気がついているだろうけど・・・」と教えてくれるのでした。それは、アブさんがちゃんと向こうの世界にゴンザレスを帰してくれた後も、呪文を唱えればちゃんとまた会いに来られるということでした。
 ゴンザレスが「ぼく」にもどっても、アブさんからもらってきたけったいなハチの帽子をかぶっていて、海辺でもらったチップのお札がポケットに入っているというオチがとてもうれしかったです。きっと、「ぼく」はまた、「ゴンザレス」になるために、あの言葉を唱えることでしょう。


その他アップフェルラント物語
田中芳樹作
薙あかね絵
 田中芳樹本と言えば、中国を舞台にしたファンタジーばかりかと思っていたら(どうも、そういうタイプとは相性が悪そうだと思っています)、こういうタイプのお話もあることがわかってうれしかったです。「こういうタイプとは、田中氏曰く「ルリタニア・テーマ」とおっしゃっているタイプのお話のこと。「ルリタニア・テーマ」とは、一言で言うとヨーロッパの架空の小さい国を舞台にしたお話のことだでそうです。アップウェルラントもそういう「ルリタニア」的国の一つで、どうやらドイツと隣り合った小国のようで、1905年のたった6日間を描いています。読みながら、「ルパン三世 カリオストロの城」を思い出していたら、後書きに「ルリタニア・テーマ」の典型として、「天空の城ラピュタ」と「カリオストロ」が挙げられていたので、ぽんと膝をたたきたくなる思いでした。
 主人公のヴェルは、スリをして日銭を稼ぐ少年です。ひょんなことから、監禁されているフリーダという少女を助けたことから、彼は冒険に巻き込まれ、虚無的な日々にいっぺんに別れを告げることになったのです。ヴェルにつきまとい、いつの間にか彼の味方になってフリーダを守る刑事が、フライシャー警部です。乗馬もプロ並みで射撃もうまく、ちょっと皮肉屋だけど信義にも篤い警部は、まだ独身です。「カリオストロ」を思い出したのは、フリーダがクラリスに、フライシャー警部が銭形警部を思い出させるからでした。
 フリーダが監禁されていたのは、祖父から預かった廃坑の謎を知っているから。フリーダの祖父はアップフェルラントにある岩塩の廃坑に、何か世界をひっくり返すことができるような秘密があることを知っていました。フリーダをさらったアリアーナ、アップフェルラントを併合せんと画策するドイツ帝国の面々と、老獪なアップフェルラントの女王との静かで激しい駆け引きなど、レトロな冒険小説にすっかりはまりました。悪人が徹底的に悪人として描かれるのではなく、アリアーナは、いつの間にかポーランドの憂国の士に変身しています。男装の麗人のかっこいいこと。フライシャー警部との恋が実るかと思ったら、そこまで甘い結末ではありませんでした。
 フリーダとヴェルぐらいは幸せになれるだろうと思っていたら、結末で描かれなかったその後が雑談風に後書きで書かれているのが、ほんとうにうれしかったです。


児童文学アップルパイたべてげんきになぁれ
茂市久美子作
狩野富貴子絵
 町で一番古いケーキ屋さんのお話です。小さなケーキ屋さんでは、おじいさんが丹念にケーキを焼いていました。けれども、新しい物好きな世の常で、いくつものケーキ屋が開店するにつれて、おじいさんの店にはお客さんがさっぱり来なくなりました。ケーキの味には自信があるけれど、きっとおじいさんは宣伝することが全然なかったにちがいありません。
 実直な職人肌のおじいさんは、おそらく自分の代で店を閉めることになるだろうと思っていました。そんなある日、目のくりっとしたかわいらしい男の子が「アップルパイの味見をさせてください」とやってきたのです。彼はちょっぴりアップルパイを食べてみると、「町でここが一番おいしい」と太鼓判?を押しました。そして、何も買わずに帰ってしまったのは、子どもだから許されること。しかし、それがおじいさんの運命の転換点になりました。
 しばらくしてやってきた男の子は、自分といっしょに来てアップルパイを作ってほしいと頼みます。次の日曜日の定休日におじいさんは、だまされてもいいやと男の子といっしょに出かけました。行った先は山の中、男の子の正体は子ダヌキだったのです。子ダヌキは、友達の子グマのくうちゃんにあげるために、アップルパイを焼きたかったのでした。くうちゃんは町に迷い込んだ時、車とぶつかってひどい目にあったとか。ケガは大したことなかったけれど、気持ちがめいっているので、おいしいアップルパイで元気を出してほしいという事情でした。
 山から帰った後、おじいさんはもらってきためっちゃすっぱいリンゴでアップルパイを作りました。リンゴを食べると元気が出るのは、おじいさんで体験済み。アップルパイのいいにおいにひかれて久しぶりにやってきたお客さんは、ケーキの味のおいしさにびっくりします。こうしてタヌキがくれたリンゴのおかげで、おじいさんのお店はまた繁盛するようになりましたとさ。そしてお店の後継者に志願して弟子入りしたのは・・・?大団円が心地よいお話でした。


子どもアップルバウム先生にベゴニアの花を
ポール・ジンデル作
 にぎやかでポップな表紙と,主人公ヘンリーとゼルダの明るい語り口に,どんどん読めてしまう軽そうなお話ですが,実際に取り上げられているテーマは重くシリアスなものです。ヘンリーとゼルダの高校の生物の先生が,アップルバウム先生。人を驚かせるのが好きなので(62歳なんだよ。若々しいというか,子どもっぽいというか不思議なキャラです),あだ名は「ショッカー」,デパートのきれいなギフト用ボックスに猫の死体を入れてきたことから,名付けられました。
 物語はヘンリーとゼルダがアップルバウム先生の死をPCで報告するところから,幕が開きます。ゼルダは悲しみのあまりキーボードが打てなくなり,ヘンリーがかわりにその件について語ります。2人は9月9日に学校を退職した先生のところに,ベゴニアの花を買ってお見舞いに行きます。それまで2人は,先生のプライベートな生活についてほとんど知らなかったのでした。お見舞いに行ったとき,ちょうどお医者さんがやってきて先生に大きな針を刺して治療を始めるのを,2人はびっくりして見つめます。
 帰宅してから,ゼルダはお母さんから本当のことを聞いてショックを受けます。アップルバウム先生は癌なのでした。それも病状は最悪の・・・。ヘンリーに知らせると,さっそくまた2人は先生の所へ出かけていきました。ところが,セントラルパークでホームレスの人たちに,食べ物をあげている先生を見つけてびっくり。3人は,セントラルパークで楽しいときを過ごすのでした。それをきっかけにヘンリーとゼルダはアップルバウム先生と急速に親しくなります。でも先生の病状を知る姪のバーニースは,病気に障るからと2人を先生から遠ざけようとするのです。
 遠慮していたヘンリーが久しぶりに電話すると,先生は2人にメトロポリタン美術館へ行こうと提案します。美術館行きは3人の忘れられない思い出になりました。このあと先生は検査のためだとかなんとかいうお医者さんのために,とうとう病院に入院します。先生はがっかりして泣き出してしまいます。そして,植物に水をやることと,ホームレスのヘレンにベーグルパンをあげてほしいと,先生は2人に頼むのでした。
 そこからヘンリーとゼルダが実行したことがすごい!アップルバウム先生を退院させ,在宅介護に切り替えたのです。姪のバーニースとは思いっきり衝突しますが,先生の心の幸せを願う2人の気持ちには,なんの躊躇もありません。先生が2人に植物のこととホームレスの人たちのことを遺言するシーン,そして死んでいくシーンは,哀しくてショッキングです。先生の最後の言葉は「公園に埋めて」でした。ヘンリーとゼルダはそれを実行すべく奮闘します。そして,とうとう先生を公園の一番お気に入りだった場所に埋めるのです。(こんなことしていいのかー)2人の実行力に乾杯!!!こんな教え子に看取ってもらえて,アップルバウム先生は思い残すことはなかっただろうなあ。


時代小説安倍晴明 陰陽師 伝奇文学集成
夢枕獏他13名作
 安倍晴明とその父保名が出てくるお話ばかりを集めたアンソロジー。この中で知っていたのは「鉄輪」(夢枕獏)しかありませんでした。読んでいるうちに、どうやら「伝奇小説」→もとになったお話という並び方になっていることに気づきました。全部が全部そうではありませんが、「鉄輪」(夢枕獏→郡虎彦)、「花山院」(三島由紀夫)→「三つの髑髏」(澁澤龍彦)、「葛の葉物語」(原巌)→「艶筆 葛の葉物語」(藤口透吾)は同じネタをもとにした話になっています。
 安倍晴明本で一番身近なのは、夢枕獏と岡野玲子の「陰陽師」シリーズです。クールな晴明のイメージは、実はどの話にも言えることがわかりました。若い時の晴明よりも、そろそろ道長が登場する時代に老境の晴明が登場するお話がいくつもありました。年を重ねた晴明は、「能ある鷹は爪を隠す」のように、自分の力をことさらにアピールすることがなくなっています。花山院の出家をあらかじめ知っていて見過ごしたのも、自分にできることは限られていると悟っていたからでした。どのお話にも共通しているのは、世の情のどろどろからは一線を画している晴明のスタンスです。さすがに源博雅は夢枕本にしか出てきませんが、他の呪いやしがらみにしっかり絡めとられた登場人物の土台には、晴明は決して足を踏み入れようとはしませんでした。それが、彼のクールさの証拠だなと思いました。
 後半の晴明誕生にまつわる両親(保名と葛の葉)の物語では、多分に大人向けのエロティックなシーンがありました。ひょっとしてそういうシーンを書きたくてこういう展開にしたじゃないかという考えは、当たらずしも遠からずだと思います。葛の葉伝説を元にしたお話は、どれも保名と葛の葉は結ばれるべくして結ばれる結末でした。ただ保名と葛の葉が結ばれるためには、いわれのない暴力などがあって、決して簡単に結ばれたわけではないお話ばかり。二代にわたってお話を続けて読むのもいいものでした。


子どもあほうどり
今村葦子作
 優しい線で描かれた絵が、お話に出てくる人々の心を映し出しているようなお話でした。きっと、今よりもちょっと昔のできごとでしょう。私の親の世代ぐらいのお話かな?と思いながら読みました。「あほうどり」とは、信太という小学4年生の少年のことです。信太は、両親を3才のときに亡くし、今は踏切小屋でお祖父さんの仙三さんといっしょに暮らしています。どうして両親が亡くなったかは、仙三じいさんが信太に語って聞かせられないお話の続きしてわかります。信太の両親は、仙三じいさんが大雨で鉄橋が水に浸かり必死で列車を止めたとき、堤防で川に落ちて死んでしまったのでした。3才だった信太はそれ以来、言葉が満足に話せなくなりました。
 言葉がとっさに出てこない信太は、「わかりません」のことを「かわりません」と言ったり、「行ってしまった」ことを「しまっていった」と言ったりします。体が大きくてのっそりしている信太に、誰が言い出すともなく「あほうどり」というあだ名がつきました。「とべっ、あほうどり」と言葉を投げつけられる信太も、そう大声で叫ぶ方も、大して気に留めることなく言葉のやりとりをしているようですが、読む私には心に「あほうどり」の言葉が突き刺さるようでした。今でこそ「人権問題」的感覚を身近に感じますが、このお話では子どもも大人も思った通りの言葉を口に出していると思いました。
 それでもお話が殺伐とした雰囲気にならないのは、信太のことが気になるちよ子や孫を温かい目にながめ続ける仙三じいさんのおかげでしょう。信太の動作にいらいらしながらも、ちよ子は心の底で信太の優しさをちゃんと感じていたにちがいありません。川で溺れそうになったちよ子を助けたのは、信太でした。みんなで仲良くぼた餅を食べる最後のシーンで、きっと信太は幸せに暮らしていけるだろうなと、安心して本を閉じました。


ミステリー亜麻色のジャケット
赤川次郎作
 杉原爽香の17歳の冬のできごと。高校2年生の冬と言えば、大学受験に向かって進路を決め、一人一人が歩き始める時期です。事件に向かうと鋭い洞察力を披露する爽香も、学校のお勉強はそう得意ではないようで、私立高校からそのままエスカレーター式にあがれる高校を薦められています。親友の浜田今日子は対照的に成績優秀で、有名大学?の医学部に志望校の照準を合わせました。もう一人のお馴染みメンバーの明男も、どうやら爽香と同じようにエスカレーターに身をゆだねそうです。
 さらにお馴染みの安西布子先生と河村刑事は、双方の忙しさにかまけてデートもままならない様子です。でも、何とか冬休みに入って、クリスマスに美術館でデートにこぎ着けたとたん、びしょぬれの若い女性に助けをもとめられるなんて、河村刑事はなかなか事件と縁が切れません。今回の事件の中心になるのが、このびしょぬれのミユキです。
 ミユキは、どうやら池に落ちたようで、亜麻色のジャケットを持っていました。布子先生に頼まれて服を届けたのは、言わずと知れた爽香と明男です。これで、爽香、明男、河村刑事、安西先生という事件を追うメンバーが出そろいました。ミユキは、実は暴力団の知ってはいけない秘密を知ってしまい、消されることになっていました。ミユキを消す指令は、寄りによって幼なじみの健二に出されましたが、兄妹のように仲がよかったミユキを、健二は殺すことができません。
 健二がミユキ殺しに失敗しても、ミユキを消す指令が取り消されたわけではないので、次々と波状攻撃のようにミユキに危機がおとずれます。その渦に巻き込まれてしまった爽香と今日子は、ミユキの代わりに入れ違いに一人ずつ監禁されてしまいます。相手は、名うての殺し屋です。失恋もからんだ今日子がかろうじて脱出したのに、今度は爽香がつかまってしまい、はらはらどきどきの連続です。きっとこの人は死んでしまうだろうなと思った健二がやはり相討ちで死んじゃって、かわいそうでたまりませんでした。


児童文学アマゾン大脱出
メアリー・ポープ・オズボーン作
甘子彩菜絵
食野雅子訳
 マジック・ツリーハウスを作ったのは、なんとアーサー王の姉のモルガン・ルー・フェイ。彼女はアーサー王の死の原因となったモードレッドの母親なのに、なぜかこの物語ではアーサー王宮廷において世界中の本を集めて図書館を作る仕事をしているんだそうです。ううう、紀元5世紀のイギリスに紙ってあったっけ?と勘ぐるのは、無粋な大人の証拠。単によい魔女が文化的な事業に乗り出したと考えた方がよさそうです。Mの正体がわかって以来、ツリーハウスはなくなってしまいました。主人公のジャックとアニーは、もう一度あのどこでもドアじゃなかったマジック・ツリーハウスで他の世界へ行きたかったと思っています。二人は心のどこかでそのうちツリーハウスがまたもどってくるのではないかと期待してます。
 ジャックとアニーの思惑通りツリーハウスがもどってきたときは、モルガンが魔法にかけられ助けを求める手紙を本にはさんだからでした。ツリーハウスとともに現れた小さなネズミも、何かいわくありげです。手紙には「魔法をとくかぎは4つのもの」とありました。4つの物を探しにどこへいったらいいかは、開きっぱなしになっていた本に聞け!というところでしょうか。
 ジャックたちが出かけたのは、なんと日本の戦国時代。忍者たちが活躍する時代です。どうも、日本での冒険→忍者という短絡的な構図ができあがっているようですが、古代エジプト→ピラミッドだったのでまあ仕方がないでしょう。戦国時代を毎日戦争に明け暮れていた時代と断じ、忍者はスパイだったという説明は単純明快でわかりやすい。ところどころ???というシーンもありましたが、おおむね忍者たちが好意的に描かれていてほっとしました。(同じ日本人として安心した思いでした。これも愛国心の現れかな?)忍者の首領は、ジャックにムーンストーンという石をくれました。これがモルガンを救う4つの物の一つなのでしょうか?二人はとりあえずそう信じて、またもとの時代にもどりました。
 もう一つのお話は、アマゾン川流域に迷い込んじゃった冒険です。アマゾン川→ピラニア、軍隊アリ、吸血コウモリとまた、ステレオタイプな登場動物。当たり前の冒険を当たり前に乗り越えて、またまたモルガン救出のアイテムをゲットです。このシリーズは、20冊以上も書かれているそうです。モルガンが絡んですったもんだ、まだまだ冒険が続き、ジャックとアニーはいったいどうなるのかな?と思いました。結末はやっぱりキャメロットへ行かなきゃね。(勝手にきめてる)


子どもあまだれピアノのぼうし
のろさかん作
二俣英五郎絵
 語り口が、子どものころ繰り返し読んだお話を思い出させるなつかしい本でした。虫たちの間には、けったいな病気がはやっていました。それは「なんでもあげたくなる病気」。なぜこの病気にかかるのかは、だれにもわかりません。なぜかなんでもあげたくなる病気にかかるのは、あまだれピアノの音で編んだ光る帽子にからんだときに限られるようです。最初に帽子を作ったかたつむりも、例の病気にかかった雨だれからピアノの音をもらったのでした。
 かたつむりからみのむし、みのむしからヤスデ、ヤスデ→カマキリ→しゃくとりむし→・・・と、光る帽子は虫たちの間をどんどんめぐります。だれかがかぶっている光る帽子を見ただれかが、帽子が無性にほしくなりたのんでみるとまず断られます。でも、なぜかその時ジャストタイミングで帽子の持ち主の心にあのなんでもあげたくなる病気が舞い降りてきて、帽子を快くあげてしまうと、次の虫が出てくるというパターンです。
 ワンパターンだなぁと思いながらも、気がつけば(次はどんな虫が出てくるのかな?)と、ヴァリーエーションを楽しんでいる自分に気づきました。「あげたいな あげたいな わたしのもっているもの みんな」というお馴染みの言葉には、気がつくと勝手につけたメロディーが頭の中で鳴り響いています。ぐるりめぐって、またあまだれピアノの帽子が一つできました。お話だけがなつかしいのではなく、添えられた絵も同じようにノスタルジーをくすぐりました。


児童文学甘党仙人
濱野京子作
ジュン・オソン絵
 ほんとうに仙人の話かな?と思ったら、中国人のクラスメートと主人公の陸との友情物語でした。タイトルの「甘党仙人」は、中国人の翔のおじいさんのことでした。陸と翔は、バスケットボールつながりのクラスメートです。陸のお父さんは早くになくなり、しっかり者のお母さんとお姉さんといっしょに暮らしています。翔の両親は中国人で(はっきりとは書いていなけれど、留学生?)、中国の国民性なのかとても家族を大切にしていることが分かります。なぜなら、中国から日本の息子たちに会いにやってきたおじいさん(彼が「甘党仙人」)をとても歓待し、おじいさんが家にいる間は、翔は陸と遊ぼうとしなかったからです。
 すべてではないでしょうが、もし日本人ならばいくら大好きなおじいさんが家に泊まりに来ていても、友達づきあいをその間まったくシャットアウトしてしまう小学高学年の男の子はいないことでしょう。陸は、そんな翔がうらやましくてたまりません。陸が翔の家に招待されて、水餃子をご馳走になったとき、楽しそうに餃子を手作りする家族を見て、何と思っただろうか?と、しみじみしてしまいました。
 陸と翔との友達づきあいだけでなく、陸と幼なじみの優花の不思議なつながりも物語の中心です。鈍感な陸はまったく気付かないけれど、優花はぶっきらぼうに陸に接していても、幼なじみの陸にこっそりバレンタインデーにチョコを送っているのです。それが、お子様には高級品なロイズのチョコとなれば、まさに「本命」。鈍感な陸が少しずつ優花のほんとうの気持ちに気付き、甘党仙人と知り合って、自分の気持ちに素直になっていくのに注目でした。
 中国三千年の歴史ではありませんが、甘党仙人(おじいさん)と向き合っていると、あくせく暮らしているのが馬鹿みたいに思えてきました。翔がおじいさんのことを慕うのも、こういうわけかもしれないと、国民性の違いのよさを再認識するべきだと感じました。


絵本・コミックあまのじゃくなかえる
イ・サンベ作
キム・ドンソン絵
神谷丹路訳
 「アティと森のともだち」と同じ時に読んだもう1冊が、この本です。もともとはハングルで書かれているので、韓国の絵本だとわかりました。お話は、どこかの民話集(たぶん、アジアの昔話集系の本)で読んで知っていましたが、カエルの表情に引き込まれて、なんだかしんみりした気持ちになりました。
 かあさんガエルの言うことをまったく聞かないあまがえるのむすこ。むすこを見つめるかあさんがえるの大きな悲しそうな目は、人間のお母さんにも通じるものがありました。あまのじゃくのむすこは、これまた体そのものがスマートで、「はいはいは〜い」と軽いお返事が聞こえてきそうです。お返事はしても、言われたことはその場で忘れ、自分のしたいようにする困ったヤツです。妙に真に迫っている感想は、うちの子ざるもそういうことがあるから。かあさんガエルの悲しみは、少しは自分のものとして感じることができます。
 もっとも、かあさんガエルは、むすこがどんなにいうことを聞かなくても、決して起こるころはありません。ただただ、大きな目を潤ませて悲しむだけ。とうとう病気になってしまったのも、無理はないことでしょう。「いつまであると思うな、親と金」ではありませんが、困ったむすこも母親が病に倒れて、やっと自分のしてきたことに気づきます。ところが、これがまた最悪のタイミング。お母さんの最後の頼みは、お墓の場所を遺言するものでした。日本人の私にはわかりませんが、お墓を建てる場所には「常識」があって、かあさんガエルが頼んだ場所は常識の逆をいくものでした。もちろん、それはむすこのあまのじゃくさを勘定に入れてのこと。それが完全に裏目に出ました。
 母親のほんとうの願いを最後までわからなかったむすこが、墓が流されるのではとはらはらどきどきするのは、罰が当たったと言えますが、お墓の主がかわいそうでなりませんでした。母親とは哀れなものだと相場が決まっているでしょうかね。


絵本・コミックアマモの森はなぜ消えた?
山崎洋子文
海をつくる会写真・監修
 一読して、(なるほど、今話題の環境問題をいろいろな角度から取り上げた本だな)とわかりました。最初に提起されるのは、昔は日本近海でとれた魚ばかり食べていたのに、日本の沿岸の海では魚があまりとれなくなってしまい、「どうしてそんなふうになったんだろう?」という問題です。魚があまり好きでない私は、考えてみたこともなかったけれど、言われてみればその通り。人口は増えたでしょうけれど、海が変わらなければ、魚くらいとれるはず。その原因の一つが、「海からアマモがなくなったから」だそうです。
 と言われても、漁師さんが言われる「アマモの海」ってなんだろう?アマモって、語感からもずくみたいな海草を連想しますが、ほんとうのところは?この本には、アマモが「海藻」ではなく「海草」だということが、写真で一目瞭然に書いてあります。海草があるおかげで、海には酸素が満ち、魚たちが生きていける環境を作り出すとか。写真を見ると、アマモ場は海の中に長い草がたくさん生えていて、すごいことになっています。海にこんな草が生えている場所を、私は見たことがありません。都会に生まれ育ち、海があまり好きでないので、そういう機会がなかったのかもしれませんが、それだけアマモを身近に見られる場所が少なくなったせいでもあるでしょう。
 アマモの種を苦労して取り、もっと苦労してアマモを育てる様子が、写真で移り変わります。なるほど〜、アマモが大きくなると、こんなにも海の生き物が増えるのか〜と、びっくりしました。何よりも衝撃的だったのは、せっかくアマモを植えた海を赤潮が襲い、アマモが枯れてしまったページの写真です。赤潮の航空写真なら見たことがありますが、ほんとうに朱墨を流したような写真を見たのは初めて。禍々しい色とは、こういうものかとぞっとしました。
 打撃にも負けず、アマモは再び植えられ、少しずつ育ち始めました。アマモがあることすら知らなかった自分が、恥ずかしくなりました。


子どもアマーリア姫と黄金大作戦
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
松沢あさか訳
ユーリア・ギンスバッハ絵
 「王立ユウレイ学校のなかまたち」シリーズ第5巻。前巻でロココ・ユウレイのジゼールといい雰囲気になったエセルバート騎士。ひょっとして新しいロマンスが?!と期待してこの巻を読んだら、ジゼールはどこかへ消えちゃってて気が抜けました。1話完結だというのはわかるけれど、せっかく続き物なんだから少しぐらい前のエピソードを生かしてくれるとうれしいのにな・・・。
 でも、なぜか王立ユウレイ学校には、他から女の幽霊が逃げ込んでくることが多いように思えます。ひょっとして幽霊の駆け込み寺みたいな役割があるんでしょうか(まさかね)。逃げ込んできたのは、コーラ。泥棒幽霊に追われているのです。それというのもコーラは、錬金術に成功したと思われていたからです。中世のお姫様のコーラは、衣装も中世風。「アイバンホー」のロウィーナ姫を連想しました。
 王立ユウレイ学校の先生たちは、きれいな女の人にめっぽう弱いらしく、ジゼールを見て顔を赤くしていたエセルバート騎士も、ドライシュタイン博士も、コーラにぼーっとなってしまいます。窓の下で愛を語ろうとしたエセルバート騎士がコーラに水をかけられて、鎧が錆びてしまうのはご愛敬。コーラの本業は錬金術の研究ですが、どうやら研究途中で「錬金術が完成した」と不用意に友達に話してしまったことが、泥棒幽霊に追われる理由だとわかりました。もちろん、コーラの錬金術はまだ開発途中で、ほんとうに金がほいほい生み出せるわけではありません。
 しつこい泥棒幽霊たちを追い払うために、アイデアを思いついたのは、言わずと知れたアマーリア姫です。金にとりつかれた泥棒を利用して、追い払う秘策とは?
 ひょっとしてこのシリーズも、事件を少年少女が見事に解決する探偵団系かなと思えてきました。


子ども アマーリア姫と海賊船
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
松沢あさか訳
 「王立ユウレイ学校のなかまたち」シリーズ第2巻。ちょっと順番を間違えて3巻から読んだので、新しい登場人物にもすんなり慣れました。首尾良く試験に合格して王立ユウレイ学校に入学したアマーリア姫と、エドゥアルドには、目を見張ることばかりです。冒頭に掲げてある「王立ユウレイ学校のきまり」を読むと、人間の学校との違いがよくわかります。
 アマーリア姫とエドゥアルドの担任の先生は、元アーサー王の円卓の騎士、エセルバートです。黒い鎧を着て恐そうに見えますが、実は優しい先生です。授業も、「ユウレイっぽくユウレイする術」や「現代におけるユウレイ」など、難しいのか簡単なのかよくわからない内容で、こういう細かい設定は、「ハリポタ」にはかなわないでしょう。
 王立ユウレイ学校は、「良いユウレイ」が集まる場所だと聞いて、(当然、悪いユウレイというのもいるわけね)と思いました。このお話のツボはそこにあります。7月31日の開校800周年記念パーティーに集まる良いユウレイを一網打尽にしようと、悪いユウレイの海賊キャプテン・パシフィコが企んでいたのです。海賊のねらいは怪しい力をもつ「ユウレイかがみ」を奪うこと。海賊の計画通り、校長先生を始め良いユウレイたちは閉じこめられてしまい、海賊に対抗できるのはパーティーに遅れてきたドライシュタイン氏とアマーリア姫たちだけです。アマーリア姫とエドゥアルドたちがとった秘策とは?
 アマーリア姫たちの新しい友達エスペランサは海賊の娘でした。同じ海賊でもキャプテン・パシフィコとは何の関係もないのに、気の毒なことにエスペランサはずっと海賊のスパイではないかと疑われていました。エスペランサとの友情が深まっていくのも、大切な横糸です。


子どもアマーリア姫と恐怖ツァー
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
松沢あさか訳
ユーリア・ギンスバッハ絵
 「王立ゆうれい学校のなかまたち」シリーズ第4巻。一度死んだら病気にはかからないと思っていたけれど、幽霊も立派に病気にかかることがわかりました。アマーリアたちがかかったのは「幽霊猩紅熱」。死ぬことはないでしょうけれど(一度死んでいるし)、他の幽霊にうつるといけないから保健室に隔離されています。やっとこさ病気が治って授業に出られるようになった矢先、お城の前でバスが止まりました。グルーゼルシュタイン(恐怖)城を見学するはずだったツァー客のバスです。彼らは暇つぶし?にアマーリアたちのお城を見て回ることにしました。退屈しきっていたアマーリアとエドゥアルド、エミリーは大はりきりで、人間たちを脅かします。ツァー客たちが大あわてで逃げていったのを見て、アマーリアたちはしてやったりと思いました。しかし、それは大きな間違いだったのです。
 世の中には物好きな人がたくさんいると見えて、「幽霊に会う恐怖ツァー」は大盛況だとか。他のお城でアマーリアたちのように化けて出たロココ・幽霊のジゼールは、あまりの騒がしさに自分の城を逃げ出してしまいました。幽霊が自分の城を逃げ出すのは大変な失態らしく、「ムラハチブ」にされてしまうお約束がありました。かわいそうに、ジゼールはムラハチブにされて幽霊には相手にしてもらえません。
 恐怖ツァーが訪れると、お城の中のあらゆるところにお客が入り込んで、やりたい放題です。とうとうお城の大切な品物まで記念に持ち出す人間まで現れる始末です。これって、日本人のことかなとふと思いました。だって、翻訳小説を読んでいると博物館などの名所旧跡に集団でカメラを持って大騒ぎするのは、日本人と相場が決まっているみたいだからです。
 とにかく人間を寄せ付けなくするためには、怖がらせるだけではだめだということがわかりました。アマーリアが考えついた奇抜な一手は、ごく平凡な人間の家族に化けて、ツァー客に普通の団らんを見せることでした。でも、幽霊たちの体は透けてしまいます。普通の衣装はフィンを通して手に入るとはいえ、アマーリア、エドゥアルド、お父さん役のエセルバート騎士、お母さん役のジゼールはどうするのでしょう。ツァー客の目の前であぶなっかしい夕食のシーンを演じるアマーリアたちが、傑作でした。今時の女の子のくせに、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがいいなんて言っちゃったアマーリアの失言。どうなるかと思いました。


子どもアマーリア姫とこうもり城
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
ユーリア・ギンスバッハ絵
松沢あさか訳
 アマーリアは、お姫様の幽霊で、衣装ケースに住んでいます。いきなり人間の男の子のフィンがアマーリアを衣装ケースにたずねていくシーンから始まります。どこにも書いてないけれど、フィンとアマーリアはお友達だということがわかりました。アマーリアの当面の目標は、王立ユウレイ学校に入学することです。今まで男の子しか試験が受けられなかったのですが、やっとこさ試験が受けられるようになったので、アマーリアは大はりきりです。
 学校へ行って試験が試験を受ける二人組にそれぞれ問題を出されることを知りました。嫌な予感が当たって、アマーリアの相手は、ポルターガイストとユウレイの混血?のエドゥアルドです。エドゥアルドとアマーリアは幼なじみで、いろいろ煮え湯を飲まされ続けてきた因縁の相手でした。しかし決まってしまったことは仕方がありません。アマーリアとエドゥアルドに出された課題は、こうもり城の秘密を探ることでした。
 課題を解くには人間の子ども一人だけに手を貸してもらうことが認められていました。でも、コンピュータや携帯電話などの文明の利器などを使用することは禁じられています。校長先生は、こういう最新機器が苦手なようでした。アマーリアは、もちろんフィンに手伝いを頼み、衣装ケースで早速出発です。行き先は、エドゥアルドの風変わりなおじさんの住む洞穴へ。こうもりのことならまかせなさい!のおじさんに、こうもり城がどこにあるかを尋ねようと言うわけです。アマーリアとフィンの話を盗み聞きしたエドゥアルドは、さっさと二人を出し抜いて出発しました。ポルターガイストの血が混じっているエドゥアルドは、姿を見えなくすることも簡単なのです。
 フィンのおじさんのところにいた親切なコウモリに道案内をしてもらって、アマーリアたちはいよいよこうもり城に到着しました。一見ただ気味が悪いだけに見えるこうもり城に、いったいどんな秘密があるというのでしょうか。
 仲が悪いはずのアマーリアとエドゥアルドがフィンを間に、少しずつ力を合わせるようになって、気が付いたら三人はいいお友達になっていたところがよかったです。こうもり城の妖怪も、ふたを開けてみたら、悪人というより、ちょっとどじな善人でした。首尾良くユウレイ学校に入学できたら、今度はどんな事件が起こるのでしょうか?楽しみです。


児童文学アマーリア姫と古城の宝
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
松沢あさか訳
 「王立ユウレイ学校のなかまたち」シリーズ第3巻。2巻「アマーリアと海賊船」を飛ばして読んじゃったので、いつの間にか海賊の娘の幽霊エミリーや、担任の先生エセルバート(アーサー王の円卓の騎士にそういう名前の人がいたなと思ったら、ご当人の幽霊だそうです)などの登場人物が増えていました。1巻で王立ユウレイ学校へ入る前に仲良しになった人間の男の子フィンとも、ずっと仲良し。なんとフィンは、アマーリアたちの学校へ特別講師?として招かれ、両親が出かけている間だけ講義もしています。どうしたら幽霊を信じようとしない人間に幽霊の存在を信じさせることができるについて、幽霊たちは熱心に聞き入りました。たまにはこういう講義もいいかもしれないなと思いました。
 もう一人のアマーリアのお友達は、科学者の幽霊ドライシュタイン氏です。彼は休暇にも帰省せず、学校に残って実験を続けていましたが、心秘かにアマーリアたちが学校へもどってくるのをたのしみにしていました。それなのに、休暇が終わって生徒たちが学校へもどってきたとき、ドライシュタイン氏の姿が忽然と消えていたのです。几帳面が彼が図書室を散らかしたまま出かけるわけはありません。さらに、学校にあるはずのないレモンのかすかな匂いがしたり、怪しい物音がしたり、おかしなことばかり続きます。とどのつまりは、とうとうエミリーまで消えてしまいました。
 アマーリアと幼なじみで半ポルターガイストの幽霊エドゥアルド、特別講義に来ていたフィンは、エミリーとドライシュタイン氏を捜すことにしました。しかし、二人が姿を消した裏のほんとうのねらいはアマーリアだったのです。ユウレイハンターという幽霊を捕まえるのを職業にしているけったいな人がいるし、アマーリアの遠い子孫が「アマーリアおばさん」に手紙を出しているし、手がかりはいっぱい。魔法学校で習った術を試してみたことが宝探しに役立つのが学校らしくておもしろかったです。悪人もどこか憎めない物語では、いつもハッピーエンドで終わると予想できるところが、安心の秘密です。


児童文学アマリリス号 待ち続けた海辺で
ナタリー・バビット作
斉藤健一訳
 ジェニーのおばあちゃんは,海辺に住んでいます。お父さんのジョージが町でいっしょに暮らそうとどんなに誘っても,決して海が見える家を動こうとしません。夏休み,ジェニーは足をくじいたおばあちゃんの手伝いをするために,3週間海辺の家で暮らすことになりました。初めておばあちゃんと2人っきりで過ごすのです。
 おばあちゃんについて,11歳のジェニーには知っているようで何も知らなかったことがわかります。おばあちゃんとお父さんには辛い経験がありました。おじいちゃんの船がおばあちゃんと14歳のお父さんが見ている前で座礁し,あっという間に沈んでしまったことです。悲嘆にくれたおばあちゃんは,じきに町へ行ってしまい海から離れたお父さんとは対照的に,アマリリス号が沈んだ場所を見渡す家を離れませんでした。お父さんが思っているように単なる感傷ではなく,おばあちゃんには海辺を離れるわけにはいかない,大切な事情があったからです。
 ジェニーの本名は「ジェニーバ」。おばあちゃんの名前をもらいました。おばちゃんがジェニーに手伝いをしてほしかったのは,家事ではなく海岸で海から届く漂流物を拾い集めることでした。おばあちゃんは,アマリリス号がまだ海の中で生きていて,海の底をさまよっていると信じているのでした。もちろん,ジェニーはお父さんと同じように,初めは頭からそんなことを信じようとはしませんでした。でも,おばあちゃんと海岸で拾い物をするうちに不思議なシーワードの姿を見て,次第に不思議な世界を信じるようになります。シーワードは,おばあちゃんとジェニーにしか見えないのですから。
 アマリリス号が沈んでまもなく,ニコラス・アービングという若者が失恋の痛手に耐えかねてボートでこぎ出し,海に身を投げて亡くなりました。彼こそ,アマリリス号の船首像を作った若者です。シーワードとは,ニコラスの姿なのです。シーワードは,たびたびジェニーの前に姿を見せます。
 物語のクライマックスは,ハリケーン。おばあちゃんが信じていたことが試されるシーンです。大荒れの後にくるしっとり落ち着いた結末が,とても印象的でした。おばあちゃんの心にきちんと区切りがつけられて,ほんとうによかったです。


その他アマンダズ・ウェディング
ジェニー・コルガン作
hal訳
 表紙からして軽妙なドタバタラブコメディー。あほらしーと思いながら、けっこう引きずられてさーっと読み切りました。タイトルの通り、「アマンダの結婚」をめぐって張り巡らされる画策の山。主人公はアマンダではなくて、アマンダの一応?友人メラニーです。アマンダは、メラニーにとって友達というにはあまりにも強烈でご迷惑な存在でした。似たような暮らしをしているフラン(フランチェスカ)は、メラニーのフラットにほとんど入りびたり状態なのとは対照的です。アマンダは成功した実業家の息子で、ハイソな暮らしをしています。たまにメラニーやフランと会うときには、どう見ても自分が優越感を感じたいからではないかと思えるほどです。
 そのアマンダから、結婚が決まったという知らせを受けて、メラニーたちはびっくり。相手はなんとスコットランドの名門貴族の御曹司(しかし、古ぼけたお城があるだけで、お金持ちではないらしい)というではありませんか!しかも、相手のフレイザー・マコナルドは学生時代にメラニーが密かに憧れた相手らしいことがわかりました。絶対この組み合わせは成功するはずがない、フレイザーがかわいそうだと結婚そのものをぶちこわすべくフランとメラニーが動き出したとき、強力な助っ人が現れます。フレイザーの弟アンガスです。アンガスも頭が空っぽなアマンダとだけは兄が結婚してほしくないと、実力行使も辞さないと思っていたのです。
 当時のメラニーの彼氏は最低のダメ男アレックス。読んでいる私でさえ、こんな紐みたいなおにーさんとなぜくっついているんだろう?と思えました。俗語が飛び交い、男出入り女出入りがひっきりなしの中、アマンダの結婚阻止作戦だけは着々と進んでいくのでした。平凡で男を見る目がないはずのメラニーが、結末近くで急にもてはじめるのが変。お話の中の常識人たちをみんなひきつけるのはなぜ?ハッピーエンドは好きだしおもしろかったけれど、前半と後半のメラニーがとても同一人物とは思えないというオチがつきました。


絵本・コミックあめあめふれふれもっとふれ
シャーリー・モーガン作
エドワード・アーディゾーニ絵
中川千尋訳
 タイトルからは、否が応でも「あめあめふれふれもっとふれ〜♪わたしのいい人つれてこい」と、演歌ファンでない私ですらあの歌が聞こえてくるようでした。しかし、絵はあの演歌とは正反対の健康的にかわいらしい雰囲気に満ちています。何しろ、雨に降り込められてお外に遊びに行けない小さな男の子と女の子のお話なのですから、惚れた晴れたには全然縁がありません。
 ちょうど今は梅雨、三日も雨が続くと退屈で仕方がない気持ちがよくわかります。男の子と女の子の兄妹は、お外に遊びに行きたくてたまりません。でも、お母さんは大きな長靴を履いてもぬれるし風邪をひくかもしれないと、お外に出してくれません。窓から外を見ていると、雨の中通りかかる人が、すべてうらやましく思えてきました。車庫の入り口に立っているおばさん、自転車を漕いでやってきた新聞配達のお兄さん、自動車に乗った人々・・・。みんな小川のようになった水たまりをざばざばかきわけて、通っていきます。
 愛らしい子どもたちの絵を見ていて、子どものころ水たまりにそろそろと長靴で入って深さを確かめた遊びを思い出しました。子どもたちは、お母さんのために、一生懸命お手伝いに励みます。お母さんにも(お外で遊びたい!)という子どもたちの気持ちが痛いほどわかっていたのでしょう。思いがけず雨が小降りになると、二人に長靴とレインコートを持ってきてくれたではありませんか!二人が意気揚々と身支度をして、小雨降る中を外に出かけたのは言うまでもありません。
 小川みたいな水たまりに、おもちゃのお船を浮かべられたのが、自分のことのようにうれしくなりました。自分たちが楽しく雨の日の遊びができると、もう男の子も女の子も、もうだれもうらやましいとは思わなくなりました。こんなに楽しく遊べるのは、自分たちが一番なんですから!
 アーディゾーニの絵は、シンプルで柔らかな線が子どものふくよかな体の線にぴったりです。ほっぺがふくふくとした子どもらしい子どもの絵を見ていると、(うちの子もこういうころがあったっけ)と、ふと昔にかえってなつかしさにひたることができました。


その他雨はコーラがのめない
江國香織作
 いろいろな音楽が流れるようなお話でした。もっとも、誰彼と出てくる名前が、音楽に疎い私にとってほとんど未知だったので、心の中にメロディーが流れてくるわけでもなく、(もうちょっと洋楽を知っていたら、物語が楽しめたのになぁ・・・)と悔しく思いました。
 タイトルの「雨」とは、作者が飼っている?犬の名前です。犬だからもちろん、コーラが飲めないのは当たり前。「雨」は、オスのアメリカン・コッカスパニエルだそうです。「雨」といっしょに音楽を聴きながら過ごす日々をエッセイ風に語っているのがこの本です。
 「雨」が音楽を好むと作者が知ったのは、オペラがきっかけだったとか。ラヴェルのオペラだなんて、かなりマニアック。モーツァルトとヴェルディのオペラ(きっとメジャーな演目)をかけてみると、ソプラノ歌手の声にだけ反応することが判明しました。なるほど、ソプラノ歌手の歌声は、とても高くてインパクトが強いから、犬の耳にも強烈だったのかもしれないと思いました。
 オペラのソプラノに反応したからといって、犬といっしょに音楽を聴くようになったとは、作者はかなりな犬好きだと知れました。クイーンにしろカーリー・サイモンにしろ、名前くらいはきいたことがあるけれど、音楽については(騒々しい・・・)というイメージしかないのが残念です。音楽を聴きながら雨を過ごす日々こそが、作者にとって日々の暮らしの活力のもとになっているのかもしれません。
 本読みの私は、もともとはクラシック音楽のファンですが、基本的に音楽が流れていると気が散って本が読めないので、無音が好きです。とりとめもなく思いが向かうままに、たくさんのミュージシャンの名前や曲の名前が出てくるところが、(自分とは違う人種だな)と見切る思いでした。音楽の中で犬と優雅に暮らしている日々。うらやましく思うべきかどうかは、人それぞれなのでした。


児童文学雨の動物園
舟崎克彦作・絵
 「ぽっぺん先生」の作者、舟崎克彦氏の幼年時代を彷彿とさせるエッセイ集です。舟崎氏がこんなに動物を飼うのがお好きだったとは、全然知りませんでした。幼くして母親を亡くした少年(舟崎氏本人)は、野鳥を飼い世話をするのに夢中になりました。
 鳥だけでなく、ヒキガエルに始まり、コウモリ、トカゲとヤモリ、コジュケイ、犬に至るまで、舟崎少年の目の前を通り過ぎていく動物たちは、たくさんいます。昭和の子どもの遊びってこんなだったなぁとなつかしく思いながら、それにしても舟崎少年の動物好きはそうとうなものだなぁと感心しました。
 どちらかといえば、動物を避けて通って大きくなった私。トカゲとヤモリは恐くないけれど、蛾は毒のあるなしに関わらず見るとぞっとします。嫌だと少しでも思ったら最後、間違っても動物を観察していつも目で追ってみようとは思いません。舟崎氏は、ペットショップで売られている動物ではなく、そこら辺に普通にいる動物(鳥、虫・・・)を目で追いかけ、きちんと世話をすることができました。
 ちょっとした動物の思い出から透けて見えるのは、舟崎氏の亡き母への思いです。お母さんが生きていたころと動物の様子を結びつけて語ると、動物への思いよりも亡き母を慕う愛惜の心がまっすぐ伝わってきます。母を亡くした寂寥感を動物を飼うことによって和らげようとしたのかもしれないけれど、母親への思慕は強まるばかり。高度成長期の「とば口」にたった社会で、舟崎少年はどう母の死を向かい合い生きていったんだろうと、心が痛みました。


子ども雨ふる本屋の雨ふらし
日向理恵子作
吉田尚令絵
 「雨ふる本屋」の続編です。ただ、問題は例によって、正編を読んだのがずっと前だったので、どういうお話がうっすらとしか覚えていないこと。(ままよ〜)と、例によって読み始めました。物語は、基本的にとても単純な構造です。主人公のルウ子が妹のサラを、ミスター・ヨンダクレという骨骨竜?にさらわれてしまい、てんでばらばらになった仲間を結集して、行方を突き止め連れ戻すだけのこと。ただ、このお話の特徴的なところは、本好きにはたまらない固有名詞のキャラが次から次へと出てくることです。
 そもそも、「ミスター・ヨンダクレ」というのは、本を読んで酔っぱらったという意味らしく、飲んだくれのパロディーなのは言うまでもありません。他にも、ミスター・ヨンダクレを暴走させる原因になっていた「読みあさりブンブン」とか、フルホン氏とか、書に関係する命名がたくさんあって、本好きにはそれだけで何となく気分がよくなってしまいます。
 雨ふる本屋のメンバーは、基本的にカタツムリらしい。舞々子さんはもちろん、サラとルウ子を雨ふる本屋に案内したのだって、カタツムリの不思議なお人形だったのですから。ミスター・ヨンダクレが、雨ふる本屋を破壊してしまったけれど、紆余曲折の末、ルウ子が出会ったキャラやルウ子が身につけた力で、本屋は見事に復活します。もちろん、妹のサラももどってきて大団円。読み終えてみれば、ただ固有名詞にうれしがっていたけれど、展開自体は、子ども向きファンタジーの王道(悪く言えばマンネリズム)そのもの。読み終えたらお終い!でしかないのが、困ったことでした。


その他アメリ
イポリト・ベルナール作
 映画を見た帰りに買って帰りました。破れたハートから顔を出しておかっぱの女の子の絵が,白地によく映えます。映画ではよくわからなかった登場人物が,本を読んではじめてことんとおさまるところにおさまりました。まず,作者のイポリト・ベルナール,お話の中に売れない小説家のイポリトさんという方が出てきます。アメリが働いているカフェの常連で,カフェの人々を優しい眼差しで見守っています。内気なアメリがニノという恋人をゲットするまでの経緯を書いたのが,この本というわけです。
 アメリは,パリ近郊生まれ。お母さんは弟が生まれますようにとノートルダム寺院にお参りに出かけた帰りに,投身自殺した観光客の直撃を受けて亡くなりました。お父さんは,頭の固い?タイプで,以後庭に霊廟を作ってお母さんを偲んでいます。アメリは成人すると,パリはモンマルトルで働くことにしました。アメリの心の中には,幸せ願望ともいうべきものが満ちているようです。ただ自分の望みに突き進むために積極的に働きかけるという性格ではありません。スピード写真コレクターのニノに恋したときも,拾ったニノのアルバムを届けるのに,信じられないくらい手の込んだ返し方をします。遊園地に書かれた矢印をたどっていくとアメリに会えるのかと思えば,モペット(自動二輪をそういうみたいです)のところで変装したアメリが手を振っているという具合です。自分の手がかりをわざと残すのに,ニノがいざカフェに現れると知らんぷり。朋輩のジーナにニノを奪われたと,一時は絶望的な気持ちにもなるのです。
 本で読むとさらーっと過ぎるのに,映画ではアメリの生い立ちと個性的な登場人物の紹介,ニノへの不可思議なアプローチが遊び心いっぱいに描かれていました。アメリの好きなことは食料品店で豆のたるに指をつっこむことと,運河で石切りをすること。行く先々でさりげなく石切りに向きそうな平たい石をポケットに入れたり,豆の中にざざざーっと指を突っ込んだりするアメリに,くすっと笑えました。
 同じように,お父さんや同僚のジーナ,食料品店の店主コリニョン,アパートの管理人マドレーヌなど,アメリが関わる人たちは,みんなどこか人と違う癖をもっています。いや,普通の人ならだれでもこういう癖をもっているのかもしれません。現に私だって,新しい靴のゴムのにおいが好きだったり,耳掃除をしながらぼーっとすると気持ちが安まったり,この程度の癖なら考えればいくつも思いつくのですから。
 アパートの階下に住むレイモン老人も,いい人でした。彼のVTRカメラを使った励ましで,アメリは一歩を踏み出すことができました。幸せになれてよかったと,自分のアメリの幸せをちょっぴり分けてもらったような気がしました。


子どもアメリア 冒険の国の少女
サーラ・ダーキー作
神津カンナ訳
NOB NAKAYAMA絵
 10歳のアメリアは、思ったことをはっきりいう少女です。アメリアの誕生日が近づいてきた時、お父さんが職を失い(というより自分で辞めてきた)、南部の町へ引っ越しするという話が持ち上がりました。アメリアは、今住んでいる家も通っている学校も気に入っていたので、大反対。思わず部屋を飛び出して、自分の部屋で涙にくれます。何気なくタンスの横にずっと置いてあった木馬のおもちゃ(アメリアが小さいころ、お父さんが作ってくれた翼のある木馬)をなでるとどうでしょう。木馬はほんとうに空を飛び、見知らぬ世界へアメリアとバジィーを連れて行ったのです。
 木馬に乗ってやってきた世界では、動物も人間と同じように話をすることができました。ネコのバジィーもいっぱしの口をきき、アメリアといっそう仲良くなります。アメリアたちは見知らぬ世界をどんどん旅して、いろいろな動物に出会います。カエルにイヌ、ブタなど、唯一話をするように書いていないのは、空飛ぶ木馬のエスメレルダだけでした。どうやらこの世界を、アメリアは数日前に夢で訪れたことがあったようでした。アメリアが見た夢では、戴冠式に呼ばれたことになっていたのに、なぜか王様は姿を隠して影も形も見あたりません。アメリアはバジィーといっしょに、ブタのウォルターに自転車を貸してもらい、王様を捜しに行くことにしました。
 やっと見つかった王様は、「ボブ」と呼んでもらいたがっていました。王様は彼の両親の代にこの世界へやってきて、すっかり気に入って根を下ろしました。両親が亡くなった後、寂しさのあまり王様はこの世界の動物たちに言葉を教え始めたというわけです。動物が言葉を話すようになったのは大成功でした、王様にとって目下の一番の心配事は、せっかく移住したのにこちらの世界がかつての世界のように騒がしくなってしまうこと。王様には不思議な魔法が使えて?!耳たぶを引っ張りながら思い浮かべたままの品物を出現させることができました。アメリアたちが貸してもらった自転車も、そうやって王様が出したものでした。
 王様が姿を消してしまったのは、動物たちが次第に俗っぽくなり、静かに暮らせなくなってきたからです。そこへちょうどやってきたのが、アメリアたちでした。軽い気持ちでポケットに入っていた小銭を渡したのが元で、ブタのウォルターはお金をエサに王様の代わりになろうとします。困ったことに、空飛ぶ馬を捕まえて牢屋に入れるという暴挙も平然と行いました。自分の軽はずみな振る舞いの埋め合わせをするために、アメリアは空飛ぶ馬を助け出そうとします。最後には自分の力で解決するしかないところが、このお話のミソでした。あちらの世界とこちらの世界では、時間がめちゃくちゃに食い違っているらしく、アメリアのお父さんが王様かもしれないと思わせて物語が終わりました。お父さんも引っ越しを思いとどまり、アメリアにとっては願ってもない結末が待っていてよかったです。


児童文学アモス・ダラゴン3 神々の黄昏
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
橘明美訳
HACCAN絵
 1つのお話ごとに仮面を手に入れるアモス・タラゴン。4つある仮面のうち、今までに「気」と「火」の仮面をゲットしています。仮面の力は、簡単に仕えるようになるものではなく、どちらかといえば暴走してしまうことが多いようです。前巻で火の仮面を手に入れたばかりのアモスは、どうも体の調子がよくありません。火の仮面が体になじまず、親友のベオルフたちの看護をうけていました。
 しかし、冒険は仮面を持つ者にとどまることなく襲いかかってきます。突然攻めてきた「赤帽子」(凶悪な妖精。帽子の赤は血で染めるとか)によってベリオンの町は蹂躙され、アモスのお父さんは目の前で矢に射抜かれてしまいます。怒りのあまりアモスは火の力を解き放ち、町は炎上してしまったのでした。力を使い果たしたアモスを助け出したのは、ベオルフでした。赤帽子たちがお宝を略奪して回っているのは、ドラゴンが巣を作るためだと聞いて、アモスたちはドラゴンとの戦いに赴くことを決心しました。アモスのお母さんが赤帽子にさらわれたのも、助け出さなければなりません。
 どの巻でも、アモスにはどこからともなく助けの手がさしのべられます。今回のお助けアイテムは、まるで「翻訳こんにゃく」みたいな妖精の耳です。耳を取り付けるとどんな言葉でも聞き取ることができ、離すことができるという優れものです。耳を付けているときには、妖精と間違われてしまうのが難点ですが、髪の毛で隠せばどうということもありません。
 旅の途中でベオルフの亡くなった両親の故郷を見つけ、ベオリット(熊人間。「ホビットの冒険」のビョルンみたいな人たちかな)たちに温かく迎えられます。荒々しいヴァイキングの王やベオリットたちが味方についたからには、龍との戦いも苦戦はしたけれど読んでいるとすんなり勝利を手にしたように思えました。龍の卵が2つあることを知らなかったことだけが、次の巻以降に暗い影をおとしそうですが・・・。
 最初にひっかかってずっとこだわっていたのが、アモスのお父さんの死に方があまりにあっけないことです。アモスがお父さんの死を悲しまないわけではないけれど、あまりにも淡々としていて、絵空事にようにしか思えませんでした。ひょっとして唐突に生き返ってくるのではないかという気もしますが、そんなてきと〜なお話ではないと信じています。


児童文学アモス・タラゴン4 フレイヤの呪い
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
宮澤実穂訳
HACCAN絵
 「アモス・タラゴン」シリーズの下敷きになっているのは、北欧神話です。タイトルの「フレイヤ」も、北欧神話の中の力ある女神です。主人公アモスが今までの巻では、4つある仮面のうちいくつかを手に入れて力を増していく展開でしたが、この巻ではちょっと趣が違いました。いきなり出てくる魔女バヤガヤが、お話の端々に顔を出し、アモスとベオルフの冒険の邪魔をします。「バヤガヤ」とはどう見ても、「バーバヤガー」のことでしょう。ニワトリの足の上に建てられた小屋に住む例の魔女です。  バヤガヤは、夫の裏切りにあってから徹底的に冷血になり、世の人々に禍を振りまくことが生き甲斐になっていました。その恐ろしいバヤガヤの力を見込んで、ロキ(悶着を起こすのが趣味の神様)の使いのオオカミがやってきます。ロキは、フレイヤとオーディンを仲直りさせようとするユプスランド村の人々の邪魔をするために、手段を厭いませんでした。ロキが目を付けたのは、アモスとベオルフです。彼らを消すことを、ロキはバヤガヤに依頼したのでした。
 子どもをさらって殺したり疫病を振りまいたり、ありとあらゆる悪行の手を染めてきたバヤガヤでしたが、なぜかアモスたちをたぶらかすのには、かわいらしい人魚の化けるというお優しい手段をとりました。アモスは、人魚にぼ〜〜〜っとなってしまい、あやうくバヤガヤの陰謀にはまりそうになります。しかし、危ういところで逆にバヤガヤを策略に嵌め、新たな使命を見つけて、村に帰ってきました。結局、アモスとベオルフが一番頼りにしたのは、今までの冒険で知り合ったメドゥーサとロリアでした。
 すいすいと進む冒険物語でどうにもしっくりこなかったのは、アモスとベオルフ以外の旅の仲間(いっしょに旅だったユプスランド村の人々)があっさり死んでしまうことです。英雄的な死に方ですが、あまりにもあっけなくて、そのうちに何らかの方法で蘇ってくるのではないかと思えてきます。アモスもベオルフもこれだけ多くの仲間を一度に失ったにしては、悲嘆が薄すぎ。次の巻では、村人たちの復活があると確信しています。


児童文学アモス・ダラゴン5 エル・バブの塔
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
宮澤実穂訳
HACCAN絵
 前巻の航海で村人たちを数多く失ってしまったベオルフは、この巻では13歳という若さでユプスグラン村の村長になっています。どうもこのシリーズは人の死を悲しむシーンがあっけらかんとしすぎていて、つい国民性の違い?を感じています。今回の冒険は、アモスが行方不明の母さんを捜すために、遠くで作られつつあるという「エル・バブの塔」へ向かう最初の部分です。エル・バブの塔とは、もちろんあの「バベルの塔」のこと。前の巻では北欧神話が色濃く取り入れられていたのに対して今回は、シュメール人(メソポタミア文明を築きあげた人々)の神が登場します。どうも、シュメール人の神というと、勝手に「ナルニア国物語」のタシを条件反射のように思い出します。シュメール人の唯一神エンキは、まだ直接姿を現して力を振るうことはなかったけれど、アモスやベオルフたちの味方になることはなさそうだと知れました。何しろ、アモスのお母さんが捕られられているのがエル・バブの塔で、彼女を助け出すには塔を打ち壊さなければならないからです。
 エル・バブの塔にたどり着くまでの旅には、いくつものちょっとした冒険が含まれていました。ベオルフが新調した船の乗組員になったのは、強欲親父と働き者の五つ子でした。魔物の攻撃にさらされる旅にアモスが子どもたちに「自由にする」と言うと、子どもたちは一人ずつどこかへ消えていきます。なんと強欲親父の正体は悪魔で子どもたちはみな自然の精霊だったとは!アモスが冒険を乗り切るコツは、基本的に力ではなく機転とユーモアです。まるで一休さんの頓知みたいな解決の仕方は、肩の力がすっと抜けておもしろかったです。
 ベオルフだけでなく、ロリア(元女王の少女)やメドゥーサ(ゴルゴン族の少女)も大活躍します。一人一人の運命が容易でないことは、お話の端々から伝わってくるけれど、取りあえず暗いことは頭から追い払って、目先の問題の円満解決に集中しようというのが、お話のスタンスだと知れました。エル・バブの塔を前にして、アモスたちがどういうアプローチをするのかが楽しみです。


児童文学アモス・ダラゴン6
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
荷見明子訳
 副題「エンキの怒り」。アモスの今回の旅は、巨大な作りかけの「エル・バブの塔」で働かされているという母親をを助ける旅です。エル・バブの塔は、「シュメール」にあります。地図や建設の様子を読むと、(絶対これは、バベルの塔のぱくりだな)と確信しました。もともとこのシリーズには、ヨーロッパや中近東の神話がミックスされて、たくさんの神々が出てきます。まだ出てきていないのは、東洋系の神様ぐらい。メドゥーサはギリシャ神話に由来し、アモスやベオルフはどちらかというと北欧の神々の申し子のように思えます。そして、エル・バブの塔を立てされているのは、シュメールの神。「みずから唯一神を名乗る巨大な力を持つ神」こそが、エンキのことでした。
 エンキは、エル・バブの塔を作り上げるのに邪魔をしようとした生き物に対して、恐ろしい報復を行います。エンキの10日間にわたる呪いの日々は、ユダヤ教の呪いを思い出させます。エル・バブの塔の壁に書かれている予言では、塔を打ち壊すことができるのは、とんでもない素性の者らしい。大司祭エンメルカールは、預言を読んでもそんな人物はいそうにないと思っていますが、エンキはそうは思いませんでした。エンキは、自らの力を示すために「怒りの10日間」の禍を行います。カエルや蚊が大発生するのはご愛敬ですが、川の水が血に変わってしまったり、疫病が流行ったりするのは深刻に困ったこと。さらに恐ろしいのは、「世継ぎがすべて死んでしまう日」が設けられたことでした。
 仲間たちのチームワークと、途中からいっしょに旅をすることになったミノタウルスの不思議な力で、アモスたちは無事に禍を乗り越えることができました。割り切れなかったのは、案内人として見事な働きをしていたクトゥビアが突然呪いのために死んでしまったこと。彼は出生の秘密を知らなかったけれど、どこぞの王国の世継ぎ(捨て子だった)ので、死ななければならなかったのです。前に船が沈んじゃった時もそうだったけれど、このシリーズでは何のためらいもなく仲間を死なせてしまうのが、作者の癖のように思えます。
 一方、アモスたちとは別のルートで旅をしていたお師匠のサルティガンは、首尾良くエル・バブの塔の工事場に入り込み、アモスの母フリアと再会を果たします。アモスたちがこちらに向かっていることをフリアに知らせ、事を荒立てないように二人は機会を待ちました。そんな時、エル・バブの塔以外の土地には、エンキの呪いが襲いかかったのです。
 結局、エル・バブの塔にやってきたアモス一行は、偶然に塔を壊す者の奇妙な条件を満たし、大司祭エンメルカールに囚われてしまいます。塔が崩れ落ちたのも、偶然の重なりのなせる技。混乱の中で、アモスの生死は知れず、次回のお楽しみに。(上すべりするお話だな〜)と思いつつ、きちんと続刊を借りてくる私って何?


児童文学アモス・ダラゴン7
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
荷見明子訳
 副題「地獄の旅」。前巻シュメールの唯一神エンキによって、地獄に送られてしまった主人公アモス・ダラゴンは、つらい試練に耐えながら地獄めぐり?を始めます。バベルの塔みたいなエル・バブの塔が崩壊した時、ごたごたに巻き込まれたアモスは、エンキの恨みを一身に受けて気が付いたら地獄の入り口にいました。ケガで苦しくても死ぬことができない地獄は、困った場所ですが、地獄の国々(地獄に国家があるとは知りませんでした)を回ると、地獄から抜け出せると知ったアモスは、地上にもどるために希望を失いません。それでも、今までアモスと関わって死んだ者は、まさに「ここで会ったが百年目」でした。
 地獄の国々を回るアモスの旅は、雰囲気は全然違うけれど「かいけつゾロリのじごく旅行」を思い出させました。ゾロリの場合は、自分で地獄をセレクトしてクリアしたら生き返ることができるというお約束でした。自分の力を信じつつ時に絶望に耐えかねて進むアモスの旅は、ゾロリのようにギャグはなく、読んでいて重苦しい気分になりました。さらに、アモスがいない地上の世界では、アモスの仲間たちがバラバラになってしまいます。親友のベオルフにロリア、そしてゴルゴンのメドゥーサは、つまらないケンカで離反しそれぞれの故郷に帰ります。1人になってみると、仲間のいない寂しさばかりが感じられ、途方にくれるばかり。そこへしばらくご無沙汰していたドラゴンのマエルストロームがやってくると、仲間たちは磁石に引きよせられるように再結集します。
 アモスを地獄から救い出したのは、結局自分自身ではなく、彼の窮状を見かねたヴァルハラの戦士たちでした。アモスと関わって死ん敵が地獄にいるならば、アモスの仲間で死んでしまった人々は勇士なので、ヴァルハラで結構な暮らしを送っていました。アモスの父親が彼を救ってほしいと訴えると、戦士たちは地獄に攻め入り、アモスを奪還すると誓ったのでした。
 北欧神話なのかギリシャ神話なのかよくわからない物語も、すでに7巻。結局どこを目指しているのか目標が見えなくなってきました。地獄から蘇ったアモスはどこへ行くのでしょうか?お子様たちの微笑ましい旅は続きます。


児童文学アモス・ダラゴン8
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
臼井美子訳
HACCAN絵
 エル・バブの塔が崩れて地獄へ行くことになったアモスですが、やっと現世に復帰することができました。地獄からもどってくると、どうやらこの世のどこに出現するか自分では決められないらしく、アモスが目覚めたどは、どこかの砂浜でした。やっと生き返ったことを自覚したアモスは、怪鳥ハルピュイアに襲われている少女を見つけました。少女の背には翼が生えていて、ペガサス族だと名乗りました。
 少女の名前は「アエリグ」と言いました。なんだか「肩胛骨は翼のなごり」の「スケリグ」みたいだなと、まず全然関係ないことを連想し、背中に翼があるからこういう名前にしたのかなと勝手に想像の翼を広げました。困ったことに、アエリグとアモスは目と目を見交わしたとたん、恋に落ちてしまったのです。いくら生き返ったばかりで人恋しかったとはいえ、アモスが恋を自覚するには軽はずみ過ぎないかと思いました。今までのロリアとのつきあいは、恋ではなくただの友情だったというのでしょうか。アモスはそう思っていても、ロリアはアモスを恋い慕っているはず。なんだか、お手軽でお気楽なお話になってきたなとため息が出ました。
 アエリグに連れられて訪れたペガサスの国は、「翼なき者」を国に入れてはいけないきまりになっていました。アエリグはこの国の王女で、「次期女王の自分が、そのような法律を守る気はない」と言い放ちます。ペガサスと言えば高潔なイメージがあるのに、この国はまったくその逆をいきました。役人たちは腐敗仕切り、王女と王は徹底的に不仲で、国中にはぴりぴりした不穏な空気が満ちています。恋に目がくらんだアモスでも、そのくらいのことを見て取ることはできました。
 一方、アモスが地獄に行っている間に、仲間のベオルフやメドゥーサたちにも、それぞれに事件がありました。それぞれに淡々と語られる事件の後で、ベオルフたちはアモスを探してとうとうペガサスの国にやってくることができました。メドゥーサを見たペガサスの国の人々が、女神だと勘違いしたのが、予言の成就のきっかけでした。アエリグの運命は苛酷でしたが、結局因果応報自業自得だと思いました。あまりにも軽く惚れた晴れたのやりとりがあって、(何だか、薄っぺらいお話になってきたな)と感じた巻です。


児童文学アモス・ダラゴン9
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
橘明美訳
HACCAN絵
 このシリーズって、確か全10巻じゃなかったっけ?9巻まできて、ようやく?ファンタジーの定番の善悪の対決が見えてきました。アモス・ダラゴンは、母親が友人のベリオンの王と幸せな再婚をすることになり、平穏無事な暮らしを送っていました。しかし、遠く離れた土地では、どこでどう思い違いをしたのか、ブラテル・ラ・グランドの領主バルテルミーが、「金色の毛皮」を求めて大虐殺を始めていたのです。
 北欧神話なのかギリシャ神話なのかよくわからない神様の話?では、金色の毛皮をゲットするには3つのアイテムが必要だとか。ヒツジの角とドングリと金色の毛皮?を合わせてできる「金色の毛皮」は、身にまとうと人を惹きつける魅力だけでなく、不死身の体になれるとか。さらに金色の毛皮を身につけた人物が率いる軍隊も不死身になるというから、ほとんど無敵です。バルテルミーを後押ししていたのは、「あかつきの女神」のザリア・ザレニッツァ(ローマ神話かい?)でした。なんと、フレイヤ(今度は北欧神話?)がザリアのもとにやってきて言うことには、4つの仮面を身につけたアモス・ダラゴンを打ち倒すために、バルテルミーに金色の毛皮をゲットできるように手助けし、アモスを滅ぼしてしまおうとする大陰謀でした。アモスに生きていられては、神々がやりたい放題できないというめっちゃせこい理由には頭が痛くなりました。
 バルテルミーは、そこら中で虐殺を繰り返し、あまりのさりげなく残酷な描写に(子どもの本にこんなことを書いていいのかいな?)と思えました。フランスのファンタジー作家には、主要なキャラ以外は、簡単に殺してしまうクセ?があると思っていたけれど、ブリアン・ペローもその通り。あまりにもあっさりと金色の毛皮のケンタウルロスの少女サトールを殺しちゃったのには、頭痛がしてきました。
 なんだかんだ言って、金色の毛皮をバルテルミーに奪われないとするアモスには、今までのお友達(龍のマエルストロームなど)が駆けつけ、一大決戦の様相を帯びてきます。結局はアモス側が勝つのでしょうが、どうも筋運びについていけないのはどうしたことでしょう。うだうだと長い10巻にならないようにしてほしいものです。


児童文学アモス・ダラゴン10
ブリアン・ペロー作
高橋優監訳
宮澤実穂訳
 副題「ふたつの軍団」。物語の章立てがチェスのゲームになぞらえており、チェスをして遊んだことがない私には?だったのが残念でした。前巻で不死身のマントを手に入れて、今までの王国連合体から一歩抜けて勝手に皇帝の座に就いたバルテルミーとアモスとの対決だとわかっていたけれど、それほど大げさな戦い(善悪の戦い)にならなかったのは、ちょっと意外でした。何を思ったのか全10巻だと勘違いしていたのですが、物語はまったく終わりそうにありませんでした。
 バルテルミーとアモスたちの戦いは、一手一手がチェスのように進みます。バルテルミーの不死身のマントは、困ったことに身につけると相手を魅力でめろめろにさせる効果がありました。けれども、そこはそれ、マントを着ている相手が見えなくなると、元の思考をとりもどします。身勝手なバルテルミーの言うことをひとたびは聞いても、結局は彼を皇帝と認めず反乱を起こす王が相次いだのもこういうわけでした。
 バルテルミーの守護女神のせいで、死に至る眠りにつかされていたアモスたちは、妖精たちの看護で何とか生き返ることができました。一番危なかったのはロリアで、彼女はほとんど死んでしまったけれど、身につけていた短剣のおかげでかろうじて生の世界にとどまることができました。生き返ったアモスたちはリハビリ?が終わると、猛然と反撃を開始します。ただ困ったことに、バルテルミーは不死身のマントを着けているので、息の根を止めることができません。息の根をとめなくても彼を死に至らしめるにはどうしたらいいか?アモスはチェスの一手になぞられて、考えを巡らします。
 アモスが考えたのは、バルテルミーが自分でマントを脱ぐしかなくなるような必殺の一手でした。龍のマエルストロームに頼んで準備した作戦とは?まるで一休さんの頓知みたいなどひゃ〜ななりゆきにびっくり。このシリーズにしては珍しく胸がす〜っとする結末でした。


児童文学アモス・ダラゴン11
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
河村真紀子訳
HACCAN絵
 副題「エーテルの仮面」。悪者の世界征服の野望を挫いたアモスたち。全12巻のお話もいよいよ先が見えてきたかと思ったら、最後にあっと驚く舞台の転換があって、なんだか騙されたようでした。
 バルテルミーを打ち倒して、十五騎士王国は平和になりました。アモスの義父のジュノスは選挙の制度を取り入れることで、民主的に国を治めようとします。一方、ロリアはアモスのために秘密の石を作り出し、いよいよ彼の仮面集めも大詰めになりました。
 ところが、ちょっとした嫉妬心のせいで、秘密の石には怪しい成分が含まれ、アモスはそのせいで石になってしまいます。驚き悲しんだロリアは自殺を図りますが、結局はアモスもロリアも新しい旅を始めたに過ぎませんでした。石になったものの、アモスは自分自身の中を最後の「エーテルの仮面」を得るべく旅をし、ロリアはベオルフやメドゥーサとともにアモスを救う(何かアイテムがいるらしい)旅に出ました。
 二つの旅は結局は求めるものは同じ。最後にはアモスもエーテルの仮面をゲットして石から人間にもどることができました。しかし、そもそも仮面を集めたのはなぜだったのでしょうか。今までは知らされていなかったけれど、アモスの他にも5つの大陸にそれぞれ仮面を持つものがいるらしい。彼らのうち4人は5つの仮面を集め終わっているかリーチ状態ですが、一人だけ邪魔されて手助けが必要だとわかりました。5つの仮面をもつ5人が集まって、さらに高次元の使命を果たすのが最終巻の展開だとわかり、(なんでや〜)と思いました。
 いつも思うけれど、ファンタジーってとめどなく大風呂敷を広げると収集がつかなくなって、最後に思いっきり期待はずれにぽしゃるという困ったパターンがあります。今までかなりしょぼい展開も(いつかは報われるだろう)と我慢して読んできたのに、そういうコケ方はないだろうと信じたいです・・・(>_<)。


児童文学アモス・ダラゴン12 運命の部屋
ブリアン・ペロー作
高野優監訳
荷見明子訳
HACCAN絵
 気・水・土・火の仮面を身につけ、とうとうエーテルの力を手に入れた主人公アモス・ダラゴンには、最後の最後にもう一つ上の次元の冒険が待っていました。今まで、さんざん苦労していろいろな仮面をゲットし、力を増してきたけれど、そういう経験をしてきたのがアモスだけではないことが明らかにされます。アモスは土の大陸で生まれ育ち、その他にも水の大陸、気の大陸、火の大陸があって、それぞれに仮面を追い求めた少年少女がいるというのです。こういう異世界ファンタジーにはお定まりの「予言」には、「四の大陸の仮面を持つ者がそろう時、世界は新しい時を迎える」と記されていました。やっとこさ、アモスがすべての仮面を手に入れたとたん、予言が明かされたのは、アモスたちを見守ってきた(支配してきた?)白い貴婦人の予定のうちだったのでしょう。
 今まで仮面を追い求めてきたころよりは、アモスの力もぐんと増して、他の大陸に行くのにまったく苦労することはありません。ドラゴンのマエルストロームが乗せていってくれるからです。どうやら他の仮面を持つ者たちも同じらしく、彼らは大して苦労することもなくお互いを捜し出し、アモスはエーテルの仮面を手に入れかねているチェルレを助ける余裕さえありました。
 4人が一同に会したのが、「運命の部屋」です。そこで彼らは何をするのか?白い貴婦人は何をさせたいのか?ちょっと驚いたけれど、読みようによっては「ハリー・ポッター」最終巻の結末に似ているなと思いました。思いがけないようでいて、ファンタジー作家が考える終わり方は、似たようなものなのかもしれないな・・・と、作者の労苦を思いながらも、ついついさめてしまったのでした。


子ども あやうし,かみなり山!
ラッセル・ホーバン作
クェンティン・ブレイク絵
東春見訳
 クェンティン・ブレイクの絵は,動きがあって心がうきたつようなタッチに思わず引き込まれます。このお話も,ラッセル・ホーバンのお話もとぼけていて楽しいのに加えて,絵を見ていると楽しさ倍増のベストマッチです。カミナリ山には,恐竜の親子,オーザウルス一家が住んでいました。パパとママと息子のジムと,のんびり楽しく野菜を作り,石畑では石も作っていました。石を作っていったい何に使うんだろというのはどーでもいいことです。オーザウルス一家だけでなく,モグラやネズミなどの小さい生き物も,それぞれの場所で邪魔し合うことなくそれなりに幸せに暮らしていました。
 ところが,ある日オーザウルス一家にとんでもない手紙が舞い込みます。手紙を出したのは,オソレオノノキ社社長のペチャンコアタマ氏でした。彼が言うには,カミナリ山を平にして,かわりにオソレ・オノノキ山を建設し,そこへプラスチック製の遊園地を建設しようということでした。もとから住んでいる恐竜一家には24時間以内に退去せよという,あーもすんもない強制的な内容です。仕方なくオーザウルスたちは,言われた通り24時間以内に荷物をまとめ言われた場所へお引っ越しをしました。もちろん,他のカミナリ山の生き物たちもいっしょにです。
 ところがぎっちょんちょん,引っ越し先はとんでもないゴミ捨て場でした。においは強烈に臭いし,ゴミだらけで生き物が住むようなところではありません。恐竜一家も小さな生き物たちも,なんとかカミナリ山へもどろうと考えます。彼らが考えた起死回生の秘密作戦は?クェンティン・ブレイクの痛快な絵と胸がすっとするような恐竜たちの行動力に,勧善懲悪の黄門様になったような気分で読めました。私も,カミナリ山へピクニックに行きたいなぁ。


子どもあやしが丘のおばけらんど
澤田徳子作
瓜南直子絵
 おばけがいっぱい出てくるお話ですが、絵がユーモラスでかわいげなのと、おばけたちが恐がりなのとで、全然恐くありませんでした(ほっ)。まるでお化け屋敷に来たけれど、おばけ役を恐がらせちゃったようなきまり悪ささえ感じるのは、おばけたちが徹底的に人間たちにいじめられるからでしょう。主人公のジュン(小学4年)とナナ(小学2年)は、なぜかおばけたちの気持ちがよくわかりました。彼らは、「あやしが丘おばけらんど」によくやって来て、酔っぱらったおじさんにのぞき込まれているからかさおばけやろくろっくびなどを、よく助けてあげました。森全体が大きなおばけやしきになっている「おばけらんど」にいるおばけは、実は作り物ではなく、ほんとうのおばけだったのです。
 日本古来の妖怪はこの世にだんだん居場所を失って、今はこの「おばけらんど」で細々と特技を生かして暮らしていました。山彦が「ポケモンいえるかな」の歌を歌われて、こだまを返せなくなったというのは、いかにもありそうで笑える話です。「天井くだり」が普通に立って歩かされそうになるのは、とてもできないことだとか。すべてが人間の悪ふざけだと言うのは、まるで自分が悪いことをしたような気がしました。
 時速100キロで走る姿をつい駅伝で見せちゃったのは、どうやら山姥の一族らしい。山姥がたくましいのは「どんぐり山のやまんばあさん」でもお馴染みです。駅伝のユニフォームをいったん木綿の裾から作ったなんて、賢いなぁと感心しきりです。「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる妖怪が次々と出てきて、ずっこけた振る舞いをするけれど、本題はおばけの住むところがなくなる悲しいお話です。頭領の山本五郎左衛門は、「さんもとごろうざえもん」と読む魔界の王でした。何を開き直ったのか、ジュンとナナに本名と本当の姿を見せた五郎左衛門に、二人は名前を教え「名を交わした」盟友となったのでした。
 どんなにジュンとナナが心を配っても、とうとうあやしが丘は、放火で焼けてしまいました。珍しいオキナグサを守るために煙に巻かれて意識不明になったナナを助けようとする妖怪たちの連携プレーがクライマックスでした。所詮妖怪たちの居場所は、今の世の中にありはしないというのが、ほろ苦く悲しい結末でした。


児童文学あゆみ
しんやひろゆき作
松尾たいこ絵
 歯切れのいい大阪弁が快感な、少年たちの成長物語です。サブとブンブンこと文太のコンビと、東京から引っ越してきたクラスメート井ノ原は、仲良しコンビです。どこかお育ちのいい井ノ原は、普通にサブや文太と話しているだけで、おかまっぽく見えてしまうのがおもしろい。井ノ原の家に遊びに行った時に、きれいなお姉さんがほとんどはだかで部屋に入ってきたのを見て、二人はびっくり。それは、井ノ原の「アネキ」でした。井ノ原一家が大阪に引っ越してきたとき、アユリン(サブとブンブンが「あゆみさん」に付けたあだ名)は、東京の大学だったので一人暮らしをしていたとか。大学が冬休みになって、家に帰ってきたというわけです。
 小学高学年の男の子が、きれいなお姉さんや幼なじみ(名前はまたまた「あゆみ」)に感じる異性へのあこがれと性のめざめがお話の中心でした。さらっとした語り口と、からっとした大阪弁の印象が強いので、湿っぽい感じややらし〜感じにならないのがよかったです。サブとブンブンが実は演歌が得意で、何のはずみか美空ひばりの付き人だったおばあさんに歌のレッスンをしてもらい、ものすごくしごかれるシーンには、大笑いできました。
 アユリンは家に帰ってきてからしばらく、ストーカーに悩まされていました。何をするというわけではないけれど、サングラスにコートで変装?したお兄さんがじっとこちらをうかがっていることがよくありました。なんと、ストーカーの正体は、サブやブンブンの知り合いの「ローニンのマサルちゃん」でした。引っ越しのアルバイトに言ってアユリンに会ったマサルちゃんは、彼女に一目惚れし何とか手紙を渡したいと家の近くをうろうろしていたのです。マサルちゃんが落語をアユリンに教えることになったのは、偶然でした。自分からストーカーだったと明かしたマサルちゃんと、大阪に帰ってきた時ものすごく落ち込んでいたのは失恋したからだと打ち明けたアユリン。そう簡単に恋が成就するわけでもなく、淡々と過ぎていく日々が、かえって新鮮に思えました。


子どもアライグマ博士と仲間たち
ベン・ルーシャン・バーマン作
木島始訳
アリス・キャデイ画
 ミシシッピー川はなまずぶちに住むアライグマ博士のお話が3つ収められています。「アライグマ博士河をくだる」、「アライグマ博士と狩人たち」、「アライグマ博士と悪党たち」です。アライグマ博士は、思想正しきジェトルマン的性格で、どんな逆境にあっても望みを捨てません。「アライグマ博士河をくだる」では、洪水に見舞われ避難したちっぽけな陸地で、アライグマ博士、菜食主義のヘビのブラック判事氏、赤ギツネのジェイシー、カエルとウサギが、休戦協定を結びます。ノアの箱船を模して、合い言葉は「アララテ」。それは箱船神話に出てくる山の名前でした。水が引くとアライグマ博士たちは、付近のお百姓さんたちが堤防を作ってもらうために陳情に出かけることを知ります。関心のない市長にぜひ堤防の大切さを知らせるために、こっそり動物たちが考えた作戦が見事です。
 第2話と第3話では、なまずぶちに災難が立て続けに訪れます。一つは、なまずぶちが狩猟区域に指定されたこと。鉄砲を持ったえらそうな人間たちがどんどんやってきて、動物たちを撃ち殺すのです。そうなるまえにアライグマ博士たちは他の土地を探して逃げ出したのですが、なまずぶちほど暮らしやすい場所がそう簡単に見つかるわけはありません。とうとう動物たちはなまずぶちにもどることにしましたが、折悪しく射撃競技が行われるではありませんか。アライグマ博士のすごいところは、ここ一番で秘策を考え出せること。射撃競技の騒ぎの後で、狩猟地区が鳥獣保護区になったのですから、大したものです。
 しかし、狩人の心配がなくなったのに、今度は悪賢い固めのキツネがやってきます。なまずぶちの動物たちはすっかり灰色ギツネにたぶらかされて、ぎすぎすした暮らしにくい雰囲気にかわってしまいました。心正しきアライグマ博士やブラック判事に味方するのは、ごく親しい数匹の動物だけ。ワシの王様まで罠にかかってしまいます。相手が動物だけに、どうなることかと心配しながら読みました。
 「たのしい川べ」のアナグマにちょっと似ているアライグマ博士。動物が人間みたいにふるまうところもいっしょです。災難を抜群のアイデアではらいのけていくのに、自分の手柄を誇ろうともしないのが、大人の風格でした。


児童文学洗い屋お姫捕物帳
越水利江子作
丸田薫絵
 副題「まぼろし若さま花変化」。このごろ、越水利江子本の、子ども向け時代小説を、たびたび読んでいます。今回は、舞台が江戸時代で八雲藩(ひょっとして、山陰?)のお家騒動に偶然巻き込まれた江戸っ子たちが主人公です。主人公のお姫は洗い屋の娘。「洗い屋」とは、大名のお屋敷を隅から隅まできれいに掃除して、障子を張り直したりふすまを取り替えたりする仕事らしい。江戸時代の物語はけっこう読んでいるつもりなのに、「洗い屋」は初めて聞きました。私もまだまだだなぁ。
 お姫の父親は、岡っ引きだったけれど、悪者を追っていて行方不明になりました。いっしょにいた同心も斬殺された無惨な姿で見つかりました。お姫は父親に教えてもらった、投げ縄術を操っていつかは犯人を捕まえたいと思っています。けれども、いくらお姫が跳ねっ返りでも、手練れの武士を捕まえることなどできるわけはありません。しかし、もう一人、犯人を追っている者がいました。
 それは、斬殺体で見つかった同心の息子の俊平。人当たりがよく、オニのように口うるさい養母にまめまめしく仕える俊平は「スズメ同心」と呼ばれていました。どうも、お姫が幼く描かれているけれど、なんと彼女は15歳の娘だと知れて、俊平とお姫が言い合いばかりしているけれど、ほんとうは思い合っていることがやっとわかりました。
 たまたま、お姫が見せ物小屋で美しい花蝶太夫の芸を見たことが、一連の大騒動の始まりです。花蝶太夫が何者かに襲われたのに、お姫や俊平が居合わせること自体(ありえね〜)ですが、そこはそれ。花蝶太夫は八雲藩ゆかりの者で、実は行方不明の双子の妹天通姫(あまつひめ)を捜していると知れました。天通姫こそが、幼い時の記憶を失ったお姫だったというのは、読まなくても分かりました。
 こんなに簡単に悪者が成敗され、ことがおさまるはずはないと思っても、絵に描いたようなハッピーエンドは読んでいて気持ちの良いものでした。お姫は天通姫にもどらず、元通り洗い屋の娘でいるのは、俊平のためでしょうか。それとも、行方不明の父親がほんとうは生きているかもしれないと思ったからでしょうか。無理でしょうけれど、続編はないのかな〜。


児童文学嵐の季節に
ヤーナ・フライ作
オスターグレン晴子訳
浅野隆広絵
 副題「思春期病棟の十六歳」。主人公のノラが、どんどん自分を追いつめていくプロセスは、胸にぎりぎりと食い込んでくるようでした。ノラの姉レアは、生まれる前に重い心臓疾患で亡くなっていました。かわいがってくれた叔父は、脳腫瘍で突然亡くなり、ノラは誰にも増して死を身近なものとして感じていました。
 自分がつねに死に向かっていると思うと、どうしようもなく不安になり、ノラにはそれをどうすることもできません。公園の砂利道をゆっくり歩いたり、おばあちゃんから教えてもらったおまじないを唱えたりして、心を落ち着けようとしても、効果があったのは最初のうちだけでした。少しずつ少しずつノラの不安は大きくなっていき、とうとう何が何だかわからないままに薬を大量に飲み、自殺を図ったことになっていました。
 両親も友人も、ノラを気にかけなかったわけではありません。父親も母親もノラに優しいけれど、どこか上滑りでピントのずれた愛情に感じました。母親は父親の不倫を疑い(それだけの立派な根拠はありました)、ノラを心配してもノラの不安を取り除くことはできません。わずかな心のよりどころは、クラスメートで彼氏のヤーコプですが、まだつきあい始めた?ばかりで、悩みを本格的に打ち明ける仲ではないのが、気の毒でした。ヤーコプには自閉症の弟アイケがいて、ノラにはヤーコプに心配をかけてはいけないという思いがあったのでしょう。
 自殺を図って(本人にそういう自覚はないけれど)発見されたノラは、思春期病棟で意識を取り戻しました。後半の思春期病棟での展開は、いろいろな事情で心に切迫感をかかえた少年少女の様子が生々しかったです。徹底的な対症療法で、少しずつノラが平常心をとりもどしていく過程には、ほっとしました。誰もが悩みをかかえていて、自分の思いを相手(特に両親)にぶつけることができたこそ、ノラは回復できたのだと思いました。後日譚で、ヤーコプとは安定した関係でうまくいっているけれど、両親が結局離婚したという事実が、どよ〜んと重くのしかかってきました。


児童文学嵐の中のシリウス
ジョーン・ハイアット・ハーロウ作
長滝谷富貴子訳
津尾美智子絵
 舞台は、ニューファンドランド島。思わず地球儀で(どこだったっけ?)と、位置を確認しました。ニューファンドランド島は、カナダの東の大西洋側にある大きな島です。時は、タイタニック号が遭難したころ。主人公のマギーが暮らす島のすぐ近くには、氷山が普通に浮かんでいます。
 タイトルの「シリウス」は、大きな黒いニューファンドランド犬です。ニューファンドランド犬って、とても賢い犬だそうで、何でもおぼれている人や動物を見ると、とっさに海に飛び込んで助け上げる本能があるとか。(ほんとかな〜)とまゆつばに思えたけれど、健気なシリウスの物語を読んでいると、ニューファンドランド犬の性質を信じたくなりました。
 マギーの両親は、漁師をしています。しかし、船は自分のものではなく、リッチな船主から借りているものでした。近くに住む漁師仲間は、みんなハワード・ランドの船に乗って漁をしていました。ハワード・ランドにとっては、働くことなくお金が儲かり、漁師たちにとっては高い使用料とランドの船の装備のすばらしさを秤にかけると、船を借りないわけにはいきませんでした。
 ところが、マギーの父親が漁師仲間を募って、自分たちでお金を出し合い船を買おうとしたことが、もめ事の始まりでした。ハワード・ランドはマギー一家を目の敵にし、娘のテイマーは今までの友達づきあいをやめ掌を返すように、嫌がらせを始めます。牧羊犬以外は飼ってはならないという困った法律を盾にとって、とうとうシリウスを射殺しようとしたのは、もはや大人喧嘩を通り越してただのイジメに過ぎませんでした。
 マギーは、何とかしてシリウスを助けようと、森の奥に隠し、えさを届けました。水が飲みたくなったシリウスが泉を探し出し、マギーたちは大喜び。どんなことがあっても、シリウスのお役立ち度は高まるばかりです。
 シリウスの本領は、なんと言っても、海で泳ぐこと。どんな嵐の海でも、シリウスは溺れることはないように見えました。崖から落ちた羊を助けようと、岸に引っ張り上げたことも一度や二度ではありません。マギーの父親の船ができあがったころ、嵐で蒸気船が沈みかける事件が起きました。立ち往生した蒸気船を助けるには、誰かが蒸気船までたどり着き、ロープを岸まで持ってこなければなりません。船には、ハワード・ランドの愛娘と孫も乗っていました。最後の希望が、シリウスです。
 気持ちいい大団円で、みんなが幸せになれそうでうれしくなりました。


児童文学嵐の夜の幽霊海賊
メアリー・ポープ・オズボーン作
食野雅子訳
甘子彩菜絵
 ものすごく久しぶりに読んだ「マジック・ツリーハウス」シリーズの最新刊です。大人が読むと(そんなにうまくいくかなぁ)と思うご都合主義な展開でも、子どもが読むと歴史上の事件や人物を身近に感じ、何となく歴史のお勉強をしたような気になれる便利なシリーズだと知れました。
 今回の歴史上の偉人は、ルイ・アームストロング。どういうわけで魔女モーガン(ついつい悪役なイメージが強くて・・・)やマーリンが、ジャズの神様の存在を知ったのか分かりませんが、ジャズの誕生のためにジャックとアニーに人肌脱ぐように指図します。テディとキャスリーン(セルキーの少女らしい)から魔法のトランペットを受け取り、マジック・ツリー・ハウスで伝言を聞いたジャックとアニーは、早速20世紀初頭のニューオーリンズに飛びます。何でも、貧しさの中でルイ少年(この時は「ディッパー」と呼ばれています)は音楽の夢をあきらめかけていて、生活に追われて歌を歌ったり楽器を演奏したりする暇はないと思っていました。
 ジャックとアニーがしたことは、ひたすらディッパー少年に付きまとい?仕事のお手伝いをしたこと。彼らがやってきたのは、ちょうどハロウィーンの日で、ニューオーリンズは一番幽霊に出会いやすい町だと言われていました(そんなこと、もちろん知りませんでした)。ディッパー少年は、お金にならない音楽ではなくまっとうに働いてお金を稼ごうとしていました。ジャックとアニーのしたことは、たまたま心の広い?ディッパー少年だったからよかったようなものの、そうでなかったら「子どもが仕事の邪魔をするな」と追い払われてしまったことでしょう。ディッパー少年とジャックたちがたまたま雨宿りしようと駆け込んだのが、海賊の幽霊が出るスポットだったのは、どういうわけでしょうか。実際、予定通り出てきた有名海賊の幽霊たちは、魔法のトランペットとディッパー少年の見事な歌に聴き惚れ、歌いながら「また会おう」と姿を消します。つまり、幽霊でさえ魅了したということ。それなのに、ディッパー少年は自分の音楽の才能に目を向けようとはしません。
 とうとうここまできたかと思ったのは、ジャックとアニーが未来の新聞記事をディッパー少年に見せちゃったこと。ルイ・アームストロングのトランペット演奏シーンを見せちゃうなんて、NGじゃないの!とびっくりしました。しばらく読まないうちに、未来を見せて自分の進みたい方向に誰かを進ませる奥の手もOKになっていたなんて、やはりお子様向けのご都合主義だと言われてもしかたないシリーズなのでした。


児童文学アラジンと魔法のランプ
斉藤洋作
一徳絵
 「アラビアン・ナイト」シリーズの第2巻です。斉藤アラビアン・ナイトの特徴は、主人公がいきなり出てくるのではなく、冒険に至るまでの生い立ちやさりげないできごとをきちんと描いていることと、語り口の軽妙さにあると思います。「アラジンと魔法のランプ」は、ディズニーのアニメを始めずっと前から慣れ親しんでいた物語ですが、アラジンが仕立て屋の息子で派手なことが好きなお調子者で、父親の仕事をろくすっぽ見習わず遊んでばかりいたとは知りませんでした。さらに、彼がまれに見る美形というのも、(なるほど、そうでなければ、衣裳を改めてもお姫様が惚れるわけはないな)と納得しました。
 魔法使いがアラジンの元に現れて、ランプを取りに行かせる設定も絶妙です。会ったこともない叔父を装い、アラジンにきれいな服を着せたりおいしい食べ物を食べさせたりしたのには、ランプを取ってこさせるという下心がありました。。しかし、土壇場でかんしゃくを起こしてアラジンをランプともども見限るとは、まぁなんとこらえ性のないオヤジだこととあきれはてました。ディズニーアニメのジャファーの方が、悪人度は上かもしれません。そもそも、こそ泥出身でみなしごのアラジンと、貧しいとはいえ仕立て屋の息子アラジンでは、土台の描き方が全然違います。
 単なるおとぎ話ではなく、アラジンの姫の最初の結婚を反故にするための策略や、上に立たせてみれば思いの外勇敢な将軍だったこと、敵に対してはアラジンが徹底的に冷酷になれることなどが、今までのおとぎ話にはないリアリティーを加えていることがよくわかりました。おもしろかったのは、ランプの精が言われたら烈火のごとく怒り狂う言葉があるということです。
 何よりもよかったのは、ランプを取り戻してからアラジンはもうランプの精を呼び出そうとはしなくなり、実力で生きていったことと、反目しそうだった宰相ととてもうまくやっていったことです。次の「アリ・ババと四十人の盗賊」がどう料理されているかが、今から楽しみです。


絵本・コミックアラジンと魔法のランプ
アンドルー・ラング再話
エロール・ル・カイン絵
中川千尋訳
 お話は、おなじみのアラビアンナイトのアラジンの物語で、大して目新しいことはありませんでした。その当たり前さを補ってあまりあるのが、エロール・ル・カインの緻密な絵でした。息をのむ美しさとは、このことを言うんだなと実感することができました。私は、普段でも額縁風の構成の絵が好きですが、エロール・ル・カインの絵は、縁がまことに美しい意匠なのです。アラジンや悪い魔法使いや、お姫様の姿よりも、周りに浮き出る模様をじ〜っとながめていました。絵本でもこれだけ深みがあるのですから、原画を前にしたらきっと立ち尽くすに違いないと確信しました。
 亡くなった叔父に化けた魔法使いに洞窟に閉じこめられた時、無意識にこすった指輪から魔神が出現します。金の不思議な指輪が中心に向かってグラデーション風に色を変えながら小さくなっていく絵は、とても強烈でした。求心的に視線を移動させていくと、そこに腰を抜かして?指輪の手を差し上げるアラジンがいます。アラジンの驚きが自分のことのように感じられる構成が、ほんとうに見事でした。
 絶世の美女だというお姫様のお顔が、どういうわけか東洋風でひょっとしたら日本の雛人形のお雛様にありがちな顔の作りだったは、ちょっと意外でした。もっとも、渋く抑えた色遣いが持ち味のエロール・ル・カインの絵では、華やかな美貌というよりは高雅な顔立ちがヒロインのパターンです。こと悪者ともなると、それはもう腹黒さが顔にそのまま表れたようなこすっからい表情で、肌の色もどす黒くて(こいつは悪者だな)と即断できます。少なくとも、ジブリやポケモンの絵を見慣れた日本の子どもたちが喜んで見る顔立ちではないでしょう。エロール・ル・カインの絵本を楽しむのは、大人の楽しみかもしれないと思うのは顔の造作ゆえです。
 いつか、どこかでエロール・ル・カインの原画展が開かれたら、少々の距離をものともせず、必ず見に行こうと心に決めました。デパートなんかのイベントで企画されないか気長に待ちます。


ファンタジーアラビアン・ナイトメア
ロバート・アーウィン作
若島正訳
 
 作者は中世アラビア史の研究家だそうで、自らの得意分野を生かして縦横無尽に15世紀のイスラムの世界を描いています。読んでいて、私にとっておもしろいというよりは、正直言って難解な物語でした。いきなり何者か知れぬ語りで始まるお話は、1486年6月18日のカイロを舞台に幕を開けます。カイロはまたの名をバビロン、当時のイスラム世界の中心です。アレキアンドリアからカイロへの旅で、山賊に襲われたり税金をふっかけられたりするのを防ぐために、外国人は大勢でグループを作って旅をするそうです。その中に、バリアンとヴェインという英国人がいました。この物語の主人公です。
 物語は、カイロでのバリアンとヴェインの夢かうつつか判然としない不思議な体験を語っています。悪夢と現実の区別がつかなくなる「アラビアの悪夢病」(アラビアン・ナイトメア)にかかったかのようなバリアンは、アラブ人の女性や語り部などと交わり、次第にイスラム世界の深みにはまっていくのでした。
 恥ずかしい話ですが、語り部の世界とバリアンやヴェインの世界がいろんなところでクロスして、途中で何が本当の世界なのかよくわからなくなってきました。アラビアン・ナイトメアではありませんが、読んでいる私も現実と非現実の区別がつかなくなって、首をかしげながら読み続けました。とどめはやっとこさバリアンたちの物語に決着がついたと思ったら、どうやらそのお話は夢だったらしく、人猿(悪魔の化身、イブリースと呼ばれている)に起こされるという大どんでんがえしの結末が用意されていること。今までせっせとわからないのと、ほいほい人が死ぬ設定を我慢しながら読んできた私はなんだったんだろう?とがっくりきました。
 とかく、大人向けの外国文学は苦手ですが、こういう読後感は自分の頭は子供向けの外国文学しか理解できないのではないかと、深く疑っています。解説でしっかり「難解」と書いてあったのが、わずかな救いでした。


時代小説アラミスと呼ばれた女
宇江佐真理作
 アラミスと言えば、誰もが「三銃士」の1人のイケメンの銃士を思い出すことでしょう。タイトルから、私はまるでオスカルみたいな男装の麗人を想像しました。主人公のお柳は、通詞(通訳)の娘に生まれ、子ども時代を長崎で過ごしました。彼女には、もともと語学の才能があったらしく、父親の操る英語やフランス語を自在に話すことができるようになりました。もともとは江戸の飾り職人だった父親は、榎本家に出入りしていて、お柳が榎本釜二郎(後の武揚)と知り合いになったのはこの時期からでした。
 お話のツボは、釜二郎とお柳の恋物語ですが、釜二郎には見合い結婚した妻子がおり、お柳は恩人の家に迷惑はかけられないと、思いを表に出すことはほとんどありませんでした。釜二郎が長崎に留学したときには、お柳の父親はまるで息子のように彼の世話をしてかわいがり、少女だったお柳はこのときに釜二郎を慕うようになったのでした。
 しかし、お柳の父親が薩長の武士に殺害されると、一家の運命は暗転します。仕方なく江戸にもどったお柳と母親に暮らしのすべはありません。お柳は芸者としてお座敷へ上がり、そこでフランス語が話せることが縁で、男装して釜二郎のもとで通詞として働くことになったとは、まさしく芸は身を助けるだなと思いました。
 幕末の嵐の中で、お柳は釜二郎(榎本武揚)とともに船に乗り五稜郭まで同行します。その過程で思いが叶い、釜二郎と結ばれ、子どもを授かったのは、どういう運命でしょうか。釜二郎も、生まれた子(お勝)のことを忘れず、ちゃんと暮らしと身が立つようにしたのはほんとうにさすがでした。
 時代に翻弄されながら、釜二郎もお柳もそれぞれに自分の考えをしっかりもち、流されることがなかったのが見所でした。鹿鳴館に招待されたとき、釜二郎は幕臣の正装、お柳は芸者の衣装で出かけました。似合わない洋装で、衣装に着られているような人々に釜二郎とお柳はどう映ったことでしょうか。釜二郎が足尾銅山の鉱毒問題の責任をとって潔く辞職し、お柳は長崎で余生を親友とともに送りました。それにしても、まったく出てこない釜二郎の「奥様」って何だったのだろう・・・?


児童文学アリクイにおまかせ
竹下文子作
堀川波絵
 女の子が喜びそうなちまちまとしたかわいい絵。でも、お話はお片付けができない子どもという笑えない主人公が出てきます。主人公のココちゃんは、元気でかわいい女の子ですが、苦手なもの(こと?)があります。それはお片付け。あらら〜、我が家にも同じようなタイプが4人(男だけど)いて、お片付けができない状態は見慣れたもの。ココちゃんがどんなにお片付けが苦手でも、大して驚くものではありません。
 ココちゃんが片付けないのは、面倒くさいから。またすぐ使うから出しっぱなしでいいじゃん!という理屈もどこかで聞いたっけとすぐに思い当たりました。私はお片付けが得意で好きですが、それはあくまで恐るべき躾の結果です。子どものころ、片付け間の親に仕込まれ、「すぐ使う物でも、いったんは片付けなさい」と呪いのように言い聞かされたのは、もはやトラウマ?です。
 ココちゃんのお母さんも、だらしのない娘(そうだ、お片付けをしない子は、だらしがない!のだった)を何とか矯正しようと、あの手この手で脅したりすかしたり、頑張ります。そんな時やってきたのは、アリクイかたづけサービスの三人でした。大河内さんと中善寺さんと小森さん(全部勝手に漢字を当てはめました)の三人は、「かんたんおまかせコース」の片付けを手際よくします。見ているココちゃんは、あっさり片付いたので驚くやら喜ぶやら。しかし、それで終わらないところがこのお話のミソでした。
 すっかりアリクイさんのたちのサービスに味を占めたココちゃんは、再び(一瞬で)お部屋が散らかると、今度は自分でアリクイさんたちにお片付けを頼みます。また「かんたんおまかせコース」にしておけばいいのに、「とことんぴっかぴかコース」にしてしまったから大変。ココちゃんのお部屋には何もなくなってしまいました。大切にしていた物をココちゃんは取り戻せるでしょうか・・・というなかなかご教訓めいた展開です。
 この本を読んで、子どもが自分から片付けるようになることはないでしょう。ただ、大人になって自分が片付けなければならない立場に追い込まれたら、ふとアリクイさんたちを思い出すこともあるかもしれないなと思いました。


子どもアリスの見習い物語
カレン・クシュマン作
柳井薫訳
中村悦子絵
 中世のイギリスの田舎を舞台に,捨て子だった(らしい)少女の成長物語です。読んでいて,「成長物語」というジャンルを読むのが私は好きだということがよくわかりました。努力をして試行錯誤を重ね,自分の力で幸せを掴んでいく少女の姿を見ていると,なんだか自分もいっしょに幸せになっていくような気がするからです。
 アリスは,名前もない少女でした。発酵してあたたかい(きっとものすごい臭いのする)堆肥の山にもぐりこんで暖をとっていたので,「クソムシ」と呼ばれます。当時,彼女のようなホームレスの子どもはごく普通にいたらしく,アリス(人違いで呼ばれた名前を自分の名前にしました)は村を追い出されることなく産婆のジェーンのところへ下働きとして置いてもらえることになりました。やっと自分の居場所が見つかったのです。
 ジェーンはきつい性格で自分の産婆の技を決して人に見せようとはしません。アリスは,ジェーンの手伝いを始めてから少しずつ,見よう見まねで技を覚えようとします。ジェーンもアリスの根性だけは認めぶっきらぼうだけれど寝床と食べる物だけはきちんと与えてくれました。村の悪ガキたちもあいかわらずアリスをいじめましたが,アリスが一生懸命働いている姿を見て少しずつ村人の1人としてアリスを認めるようになります。
 しかし,ジェーンが留守のときに頼まれた産婆の仕事に失敗し(危ういところでジェーンがもどってきましたが),恥じ入ったアリスは逃げるように村を出てしまいます。たまたま隣村の宿屋で働けるようになったアリスは,字を覚えたり来合わせた領主の奥方の出産に立ち会ったり,少しずつ自分を取り戻しました。同じようなホームレスの小さな少年にエドワードという名を付けてやり,行き先を考えてあげたこともありました。
 しかし,宿屋はアリスの終の棲家ではありません。アリスのやりたいことは,やはり産婆の仕事でした。宿屋へ通りかかった村のウィルからジェーンの伝言を聞いたアリスは?ほんとうの居場所を見つけるためにアリスがこれからどうなるのか,「あとは自分で考えてね」という結末にしばらくぼーっと考え込みました。きっとアリスが幸せになるのを願って・・・。


児童文学アリスは友だちをつくらない
グニラ・リン・ベルソン作
松沢あさか訳
陣崎草子絵
 まったくストレートなタイトルの意味はそのまま。主人公のアリス(sで終わると言っているのが、アン・シャーリーみたいでした)は、親友のアンを交通事故で失って以来、誰とも友だちにならないと決めています。
アンとアリスが追いかけっこをしていて、アンはアリスの目の前で車にはねられました。それからアリスは、どこにいてもふとアンの思い出がよみがえり、ぼ〜っとしてしまうことがよくありました。
 アリスがアンを失ってからしばらくして、アリスの両親の会社が倒産してしまいました。両親が仕事を探しに出かけたので、アリスは祖父母の家に預けられ、新しい学校へ通うことになりました。しかし、周りの子がアリスに親切にしてくれようとしても、アリスは友だちを作る気がありません。彼女にとって友だちはアンだけだと思っていたからです。
 たまたま隣に座ったのは、ポーランドからやってきたジッゲ(ジコルカ)でした。母親を事故で失い、父親とトレーラーハウスで暮らしているジッゲは、たびたび転校しやはり周りとうち解けません。ジッゲがただ一つ心を傾けるのは、ケガをした鳥の世話だけでした。ひょんなことから、ジッゲのコウノトリを匿ったアリスは、それがもとでジッゲと話すようになります。別荘の管理人をしている祖父母の目をかいくぐり、アリスはいつしかジッゲと共犯者的な親しみを感じていくのでした。
 人を寄せ付けないアリスと、人に寄せ付けられないジッゲ。似ていて反対の二人が友情をはぐくむことができたのは、なぜでしょうか。たまたまコウノトリがいたけれど、それでなくても私はいつか何かがきっかけで二人が友だちになれそうだと思えてなりません。それは、二人がとても寂しがりやだから。驚くことに、両親が迎えに来てアリスが転校した先の学校には、ジッゲも転校していたとは・・・。偶然が過ぎるけれど、せっかくできた友だちをお互いになくさなくてよかったと心から思いました。


児童文学ありのフェルダ
オンドジェイ・セコラ作・絵
関沢明子訳
 作者のオンドジェイ・セコラ氏は、1899年にチェコに生まれ、1967年に亡くなるまでスポーツ編集記者やラグビーの審判、ラジオのレポーターなど多方面で活躍なさった方だそうです。このお話は、子ども向けの新聞に連載されたものだそうで、だから愉快な絵がついているんだなと納得しました。セコラ氏の絵を見ていると、ロシアのキノコ型のマトリョーシカにつけられた昆虫たちにとてもよく似ていることに気付きました。ロシアとチェコではちょっと国が違うけれど、スラブ系民族の血筋が絵に現れているのかもしれないと思いました。
 お話は、ただただ可愛いばかりではなく、ぴりっと毒も効いていて、なかなか複雑です。ありのフェルダは、「なんでも屋」としてばりばり働いていて、きれいなテントウムシのベルシカにぼうっとなります。フェルダは、感じの悪いカタツムリのおじいさんに車をつけて引かせるなど、人をやりこめるのが得意。どういうわけか虫の世界では、バッタが人間界の馬のように扱われ、カタツムリに車をつけると怒られるのに、バッタは嬉々として車を引くのが不思議でした。
 ベルシカと仲良くなったと思ったものの、ベルシカはフェルダにちょっと肩をたたかれて脅かされただけで、大騒ぎします。たまたま居合わせた蚊のおばさんたちがベルシカの味方になったせいで、かわいそうに、フェルダは逮捕され裁判にかけられてしまいます。結果は有罪で、フェルダは尻打ちの刑に処せられることになりました。あわやという時フェルダを助けてくれたのがあのバッタだったとは・・・。
 結局、フェルダがいろいろ楽しいアイデアで活躍するエピソードよりも、ベルシカに嵌められて、何とか逃げ出しどこかよそへ飛んで行ってしまう結末だけが印象的でした。絵は楽しいけれど、お話としてはなんだかな〜?こういうところに古さを感じたのでした。


児童文学アリー・フィンクルの女の子のルール1
メグ・キャボット作
代田亜香子訳
丹地陽子絵
 メグ・キャボットと言えば、高校生ぐらいの女の子が主人公の物語を書く方だと思っていました。けれども、このシリーズでは、とうとう小学6年生のアリーが主役を張ります。当然、彼女が関わる事件や悩みが子どもっぽいのはしかたなく、(そういうものかな)と思って読み進みました。
 三部作だそうで、アリーの目下の悩みはお引っ越しで友達関係ががらっと変わってしまうこと。自分をどちらかといえばKYなタイプと思っているのか、アリーは守らなければいけないと思ったこと(ルール)を、几帳面にノートに書き付けています。親友のメアリー・ケイだけが、アリーの秘密のルール・ブックのことを知っていました。メアリー・ケイは親友とは言っても、ぐずぐずと女々しいタイプで、アリーがいらいらさせられることも再三でした。それでも親友でいられたのは、どうやら今の学校のクラスに意地悪女は出しゃばり女がたくさんいたせいらしい。メアリー・ケイは、その中では多少はましなタイプだったというわけです。
 親がいったん引っ越すと決めたら、子どもは逆らいようがありません。アリーはあの手この手で反抗を試みますが、ことごとくうまくいきません。それどころか、新しい家は古いけれど今よりずっと広くなるので、待望の子ネコを飼うことだったできるとか。アリーの心が揺れ動くのも無理はないと思いました。しかし、問題はアリーが引っ越すことを誕生日だからと遠慮してメアリー・ケイに最初に打ち明けなかったことで発生したトラブルです。メアリー・ケイはすっかりへそを曲げ、ブリタニーやコートニーとつるむようになってしまったのです。
 (どうせ引っ越すのだから仲直りしなくてもいいや〜)と開き直るところが、アリーらしい。しかしおせっかいなブリタニーやコートニーは、メアリー・ケイを何とかアリーと仲直りさせようと奔走します。そのやり方が押しつけがましいのが、女の子のおつきあいの難しさを感じさせました。最後にぶち切れたアリーが、せっかく作ったカップケーキをコートニーたちの顔にぶつけたところで、胸がす〜っとしました。次巻からは新天地でのアリーの活躍が見られそうなのが楽しみです。


児童文学アリー・フィンクルの女の子のルール2
メグ・キャボット作
代田亜香子訳
丹地陽子絵
 副題「転校生になっちゃった!」。前作で引っ越すことを隣にすむ「親友」に打ち明けなかったのでトラブルのるつぼに落ちてしまったアリー。この巻ではそういうどろどろからはすっかり離れて、新しい学校でスタートを切ります。今度のお隣さんのエリカは、それほどしつこいタイプではないらしいけれど、アリーはクラスでうまくやっていけるか、心配でなりません。そんな時、いきなりアリーにつっかかってきたのは、クラスで一番体の大きいローズマリーでした。
 アリーとしては、別にローズマリーの気に触ることをしでかした覚えはないのに、気がつくと廊下ですれ違いざまに「覚えてろよ」と近々ぼこぼこにされそうな脅しをかけられるので、不安でたまりません。引っ越ししたばかりで不安な毎日、うるさ型のママに打ち明けるわけにもいかず、能天気なパパはおざなりな忠告だけ。アリーにはどうすることもできませんでした。
 アリーのただ一つの楽しみは、前に住んでいたご近所さんから子ネコをもらう約束になっていたこと。ミューゼットと名付けた子ネコは手がかかるけれど、アリーは子ネコの世話をしている時だけが幸せでした。そして、さらにもっとうるさ型のおばあちゃんが泊まりに来て、アリーの家はてんやわんや。驚いたのは、アリーの家ではコンロが仕えず、ずっと電子レンジでチンしただけのお料理を食べていることです。
 普通引っ越しって、そういうことを確かめてするものじゃないの?というのは、どうやら日本の感覚らしい。電子レンジ料理にしろ、ポップコーンを朝食にしていることにしろ、ファーストフードばかり食べているらしいことにしろ、アメリカの大ざっぱな国民性にびっくりしました。物語の本筋ではなく、そういう暮らしに目を向けてしまう読み方は、おばさんならではですが・・・。
 メグ・キャボットの物語のヒロインは、当たり前の女の子でもそこそこの水準があります。たとえばアリーは、絶世の美人というわけではないけれど、前の学校では成績はオールAで、新しい学校でもスペリングコンテストでよい成績を収めます。普通ではないよい子が、新しい学校で無事やっていけるか。誰よりも適切な助言をくれたのが、きちんとしたおばあさんだったのが象徴的でした。


児童文学アリー・フィンクルの女の子のルール3
メグ・キャボット作
代田亜香子訳
丹地陽子絵
 副題「友だち?それとも親友?」篇。転校先にもアリーがなれたころ、クリスマス休暇明けにカナダから転校生がやってきます。シャイアンというその女の子は、とにかくおませさん。女の子のどろどろのおつきあいの渦の真ん中に立ち、自らぐるぐるかきまぜてしまう困ったタイプだと分かるのに、時間はかかりませんでした。アリーのクラスにも、当然女の子のグループがいくつかあります。シャイアンは、アリーやエリカ、キャロライン、新たに加わった(前巻で)頼もしいローズマリーとは違うグループを形成します。
 シャイアンが始めたのは、「キス・ゲーム」。ターゲットに決めた男の子を追いかけ回して、キスをするという遊び?!です。どうやらアリーの通う小学校の男の子たちはとても幼いらしく、自分が何をされているのかよく分からないらしい。キス・ゲームのターゲットにされていることを教えてあげようとしても、あまりありがたがられないし、追いかけられてほんとうは喜んでいるようにも見えます。キス・ゲームにアリーたちが加わらなかったので?シャイアンは、ホームパーティーにアリーたちを呼ぼうとしませんでした。いつの間にか、シャイアンVSアリーたちという図式ができあがっていくのは、どこの国でもいっしょだなと思いました。
 アリーたちは、ジョイおじさんのおかげでアリーの家で楽しいお泊まり会をすることができました。しかし、シャイアンが次にしかけてきたのは、もっと大人の女の子ぶったゲームでした。シャイアンが設定した相手に「つきあって」と告白して、カップルになるというものです。このゲーム?に誘われなかったのは、ジャイ子みたいなローズマリーだけ。アリーは、シャイアン前で堂々と「つきあわない」と断ったので、担任の先生とも微妙なことになります。とうとうすべてをママに打ち明けたアリー。そこで起きたのは・・・?
 アメリカの小学生の親が、16歳までは男の子とおつきあいしてはいけませんなどのルールを守ろうとしているのには、ちょっとびっくりしました。日本では、小学生でおつきあいごっこをしている子が普通にして、親も(まあ、おませさんねえ)と叱られることはありません。ところが、本家本元?のアメリカでは、親の考え方がかなり厳格なのに、シングルマザーがわんさかできてしまうのが、ただただ謎だと思いました。そういう余分なことを考えてしまうほど、かなり幼い物語ではありました。


子どもアリー・フィンクルの女の子のルール4
メグ・キャボット作
代田亜香子訳
丹地陽子絵
 副題「主演女優はだれ?篇」。今回は、担任のハンター先生が「リサイクル王国のペネロピー姫」というけったいなシナリオを書いて、劇を上演しようとしたことがお話の中心です。誰だって、主役のペネロピー姫の役をやりたくてたまりません。アリーは仲良しグループのソフィーがぴったりだと、エリカたちが言うのを聞いて、自分もペネロピー姫のオーディションを受けたいと言い出せなくなってしまいました。
 しかし、頼りになるのは、いつだって両親よりもジョイ叔父さんです。叔父さんは、自分のやりたいことをやるべきだと助言し、アリーは「(宿敵)シャイアンがペネロピー姫を射止めるのを防ぐため」といい理由を見つけ、オーディションを受けました。
 ソフィーも衣装に凝りに凝ったシャイアンもアリーも、甲乙付けがたいほどオーディションで上手に演じたのですが、結果は皮肉なことになりました。というより、担任のハンター先生がさすがでした。美少女のソフィーがペネロピー姫、衣装が豪華なシャイアンは、妖精の女王、そして演技派のアリーは、悪の女王にされてしまったのです。
 がっかりしたアリーですが、ここでもジョイ叔父さんのアドバイスに救われます。悪の女王がいなければ劇が成り立たないこと、悪の女王がどうして悪者になったのかを考えて役作りをしてごらんというわけです。笑っちゃったのは、アリーが役作りの参考にしたのは、ショッピングモールで見つけたシャイアンのわがままぶりと、何でも娘の言うことを聞いてしまう母親だったこと。おかげでアリーは見事に悪の女王を演じ、笑いもたくさんとって、主役を食ってしまうほどの大喝采を受けました。
 いろいろあったけれど、アリーは女優になりたいという夢を増やすことができました。結局は、現実世界でも善(アリー)と悪(シャイアン)の戦いなのが、ありきたりですが・・・。


児童文学アリー・フィンクルの女の子のルール5
メグ・キャボット作
代田亜香子訳
丹地陽子絵
 副題「お誕生日パーティ」篇。女の子の友達関係というのは、ほんとうに困ったものだわというのが率直な感想です。というのは、「お誕生日パーティ」は、アリー本人ではなく、今の友達のでもなく、引っ越す前の友達?のブリタニーのパーティだったのです。お引っ越しをしてから、どろどろの友達づきあいから解放されたアリーは、エリカやキャロラインたちと仲良くやっています。エリカの中学生の姉のミッシーは、バトンガール・コンテストに出場するので、どういうわけかアリーたちがミッシーのためにレオタードを選んでいます。
 みんなでコンテストに出かけ、ミッシーの応援に行こうと話がまとまったのに、アリーはママが勝手に承諾したブリタニーの誕生パーティに行くと言ってしまいました。それはあまりにもプランが豪華だったから。リムジンでお迎えに来て、その後コスプレパークみたいな場所で遊び、夜はヒルトンホテルのスィートルームにみんなでお泊まり・・・。どうやらこのプランがアメリカの女の子にとって、理性を失わせる内容らしい。この機会を逃したら、一生リムジンに乗れないかもしれないし、ホテルのスィートルームに入ることができないかもしれないというわけです。
 ところが、ママがプレゼントの用意をせずに、親戚の結婚式に出かけてしまったのがケチのつき始め。リムジンの中の会話はどこかすれ違うし、コスプレパークではやいのやいのと言われて、したくもない海賊の衣装を選ばされるはめに。さらにホテルのパーティだって、まるで針のむしろ。トドメは、元友達(親友ではない)のコートニーが、ブリタニーの陰謀を教えてくれたことでした。
 ブリタニーは、転校したアリーの毎日を耳にしてうらやみ、誕生パーティに招待して、徹底的に意地悪をしてやろうと思っていたのです。なるほど、欲に目がくらむとこういう落とし穴が待っているのね・・・というより、転校した相手を招待してまでここまでするのかね〜と、あきれ果てました。アリーが事情を話して迎えに来てもらい、家に帰ったのは大正解だと思いました。エリカたちにはほんとうのことを話して関係修復。高い授業料でしたが、めでたしめでたし。


子ども有松の庄九郎
中川なをみ作
こしだミカ絵
 愛知県民で名古屋市民なので、緑区有松に伝わる有松絞りを題材にした物語だと知って、つい義務感?にとらわれて借りてきました。主人公の庄九郎は、阿久比の庄の貧しい農家の生まれです。しかし、隣家の村長には目をかけられ、何よりも本人の上昇志向もあいまって、何とか東海道沿いの有松で生きていこうと懸命です。
 時は、関ヶ原の戦いの後、徳川義直が尾張の国にやってきて、名古屋城を築こうという頃でした。江戸幕府が街道を整備するにあたって、東海道五十三次を定め、人気の少ない土地を農民に与えて、安全に通行できるようにしようという目論見と、次男坊三男坊で土地を持たない農民の庄九郎たちの願いが一致したわけです。
 松がたくさん生えていたので、「有松」と名付け、開墾に励んだものの、土地が痩せていて作物が思うように育たなかったのが、有松絞りという他に活路を見出す理由だったとは、何とも分かりやすい。そして、絞り染めをしようと思い立ったのが、名古屋城の普請工事にやとわれてきていた豊後の人夫の手ぬぐいを見て見とれたからだとは、(子ども向けに簡単にしてあるかもしれないけれど、ものごとの始まりというものは、えてしてこういう単純なものかもしれないな)と思えてきました。
 もちろん、有松絞りが有松絞りとして定着するまでには、言葉に尽くせないほどの苦労があったことでしょう。けれども、戦乱の時代が終わり、伊勢参りや参勤交代が普通に行われるようになると、なるほど、街道筋のおみやげとして、これほどぴったりな品物はありません。庄九郎の前向きな生き方が、時代の求めにぴったりだったのは、幸運だけでなく運も実力のうちという言葉の裏付けのようでした。


絵本・コミックありんこぐんだん わははははは
武田美穂作
 タイトルからして、強烈。目つきの悪いありんこたちがぞろぞろやってくる「ありんこぐんだん」だけでも強いインパクトなのに、ご丁寧にタイトルには「わははははは」もついています。ちょろちょろこそこそ歩くアリではなく、のっしのっしと堂々と歩き甘いものと見れば、地の果てまで、いや宇宙の果てまでとりに行く凄まじいアリたちのお話です。
 ずーっと前に教育TVで「むしまるQ」とか「アニマルQ」とかいう小さい子向けの番組がやっていました(今も放映されているのかもしれませんが)。いろんな虫や動物の生態をおもしろおかしく見せてくれる番組でしたが、その中で特に好きだったのは、毎回聞かせてくれる歌です。その歌のアニメがこの絵本の雰囲気にとてもよく似ているので、長らく忘れていたメロディーが蘇ってきました。おばさんのクモが「まったく♪まったく♪まったくもー♪」と腕組みをして日本の将来を憂える歌です。あの恐い目つきがありんこぐんだんのアリたちの目つきにそっくり。傍若無人を絵に描いたようなお顔なのも、そっくりでした。
 お砂糖を見つけると、ありんこぐんだんは「わははははは」と(おそらく黄金バットみたいな)笑い声とともに、姿を現します。野越え山越え、どこからともなくやってきて、ありんこぐんだんが来られないところはありません。お風呂も押入も、ジャングルジムの上でも、まかせなさい!です。スペースシャトルの中だって、無人島にいたって、お砂糖さえあればありんこぐんだんの「わははははは」が聞こえない場所はないのです。
 アリって大嫌いですが、この絵を見ていると憎たらしいのかかわいらしいのかよくわからなくなりました。かわいくないかわいさを描いたら、平凡な子どもの絵よりもずっと真に迫っていることがよくわかりました。


児童文学ある朝,シャーロットは
ペネロピ・ファーマー作
川口紘明訳
 しまさんから教えていただいて読みました。ファーマーの作品は,中学生のころの「骨の城」からのおつき合い。不思議な雰囲気が印象的でした。おそらく課題図書の1冊だったはず。当時の課題図書は私にとって驚きの連続だったことを覚えています。(「タランと角の王」とか「チョコレート工場の秘密」とか「愛の旅立ち」なんかがありました)昨年末に,図書館で久しぶりに「冬の日のエマ」を読みました。この本を読み始めて,シャーロットという名前と寄宿学校という舞台にデジャブを感じました。解説を読むと,やっぱり「夏の小鳥たち」,「冬の日のエマ」ときて,この「ある朝,シャーロットは」と続いていました。ただ,お話自体はほとんど独立していて,この物語ではエマは名前だけ,寄宿学校でのシャーロットが主人公です。
 寄宿学校に入学して,シャーロットにはサラという上級生が親切にしてくれます。不思議に思いながらシャーロットは部屋で自分のベッドを窓際の古風な足に車がついたものに決めます。相部屋のバネッサたちは,シャーロットが一番最初に部屋に案内してもらったのが気に入りません。明くる朝,シャーロットは目ざめてびっくり。まったく知らない景色と知らない少女に囲まれていたからです。「クレア」と呼びかけられて初めて,ジャーロットは体が入れ替わってしまったことに気付きます。
 シャーロットは,第一次世界大戦末の世界にタイムスリップし,クレアという少女がシャーロットの時代に行ってしまったことがわかります。原因はあの古風な車輪付きのベッド。そこで眠ると体が入れ替わるのです。つまり,シャーロットとクレアは1日置きに現代(1950年代末)と,1918年を行き来することになったのでした。タイムファンタジーが好きでいろいろ読みましたが,こんなに頻繁に入れ替わるパターンは初めてです。
 1日おきに人が変わるシャーロットを,周りの少女たちは不審な目でみます。親友の約束をシャーロットとしてもクレアに伝わっていなかったのでトラブるなど,事情は込み入っています。そうこうするうちに1918年では,クレアたちは下宿から通学することになり,例のベッドで寝られないことになってしまいます。現代にもどれなくなったシャーロットはとうとうクレアの妹エミリーにとうとうほんとうのことをうち明け,なんとか現代に帰ろうとしますが,なかなかうまく行きません。
 下宿先でしばらく過ごすうちにシャーロットは,1918年にも慣れてきます。戦死したアーサーの幽霊,エミリーとの交流など,こういうタイムファンタジーもあったんだと,とても新鮮でした。冒頭で親切にしてくれた上級生サラがはじめからシャーロットを知っていたのは,サラがエミリーかクレアの娘だったからではないかと私が思うと,シャーロットも同じことを考えていて,まるで作者に心見透かされたようでした。結末の種明かしは,悲しさと温かさの配分が絶妙です。


ミステリーアルカディアの魔女
篠田真由美作
田中英樹絵
 「北斗学園七不思議」シリーズ第3巻。ついでに「ミステリーYA!」シリーズの1冊です。舞台にある北斗学園は、どこか世俗を離れて隔離された雰囲気があります。仲良し?3人組のハル、タモツ、アキ(語り手の「オレ」)は、今回は分裂に危機に・・・。隔離された温室で、演劇部の女生徒たちが何をしていたかよりも、アキたちが仲直りできるのだろうかということの方が、気になりました。
 このシリーズには、不思議なネコたちがたびたび登場します。クラウスもそうでしたが、今回はもっと愛らしい「はてな」と「びっくり」が登場します。まるでクエスチョンマークとコーテーションマークみたいな模様があるネコたちは、アキを人目から隠されたかのような温室に連れて行きます。そこでアキが出会ったのは、冴えないまるで主演女優の侍女みたいな野毛実津枝でした。彼女がそこでしていたことがだんだん分かってくるにつれて、ほんとうの悪者の姿が見えてきます。
 「北斗学園」シリーズは、どうも私には消化不良気味。少年たちの友情物語でありながら、その昔、ドイツ人の創業者が日本に来て開いた経緯も、どことなく謎っぽくて浮いている感じがします。この物語でも、プロローグで、祖母からまだ少女の「リーザ」(北斗学園の創業者)が、跡継ぎに指名されるシーンが出てきますが、それが後の物語にどう影響するのか、今ひとつ全貌が見えてきません。なぜリーザが二度の世界大戦を逃れて日本にやってきたのか?そしてこの地で全寮制の学校を創ったのか、私が読み飛ばしたのかもしれませんが、ちゃんとこういうプロローグを用意するならば、答えだって書いておいてほしいと思いました。
 結局、なんてことはない、温室で育てられていたのは、大麻でした。あぁ、よくある学生が勝手に育てちゃった話だったのねと、力が抜けたのでした。


児童文学アル・カポネによろしく
ジェニファ・チョールデンコウ作
こだまともこ訳
長崎訓子絵
 先日、「カポネ」(佐藤賢一)を読んだところだったので、(アルカトラズに入れられた後のカポネと何か関わりがあるのかな?)と興味津々で読みました。しかし、アル・カポネが直接出てくるのは、最後の1行だけ。しかし、それがとても強烈なインパクトでした。
 1935年当時のアルカトラズ島(サンフランシスコのすぐ近く)には、悪名高い刑務所がありました。刑務所があるということは、島に職員の宿舎もあるということ→単身赴任というわけでもないのだから、職員の家族もいっしょに住んでいるということです。アルカトラズ監獄だけが厳然と立っていると思いこんでいた私は、かの島に暮らす子どもたちの物語に、完全に虚をつかれました。主人公のムース・フラナガン(13歳の少年)は、父親がアルカトラズの見張り番になったので、家族で島へ引っ越してきました。ムースの3歳年上の姉ナタリーは、強度の自閉症(らしい)で、人と普通にコミュニケーションをとることができません。突然パニックに陥り暴れ出すナタリーが心配で、家族はナタリーから目を離すことができませんでした。
 物語は、刑務所長の娘で独裁者みたいに自己チューなパイパー(女の子)や、アニーなどの島の子どもたちとムースの関わり、そして毎日通うサンフランシスコの学校のことなどが騙られながら、最後はナタリーの身の振り方にたどり着きます。ムースの母親は、「ナタリーは、ずっと10歳だということにしておきましょう」と、自閉症の娘の本当の姿から意図的に目をそらしています。父親はそういう妻の態度にただただ従い、ムースは姉を姉と思うこともできず、中途半端にナタリーのお守りをさせられるハメになりました。
 いつのころからか、ナタリーを養護学校(的な学校)入れ、精神病院に送らないようにすることが、ムースの家族の一番の目的になりました。しかし、年齢を偽ってサンフランシスコの学園に送り込んではみたものの、すぐに「この学校に入学する準備ができていないようです」と、ナタリーはすぐに送り返されてしまいました。母親は生計を助けるためにピアノを教えに行きたいし、ムースは月曜日にクラスメートと野球がしたい。そしてナタリーは、いつしか、囚人と友達になり?!自分が10歳児ではないことを回りにアピールします。
 ナタリーが何とか養護学校(的な学校)に入らなければ、家族の生活が成り立たないし、ナタリー自身も決して自分の力で生きていくことができないと悟ったムースは、まず母親に姉が10歳ではなく16歳であることを認識させます(これだけでも、疾風怒濤の大騒ぎでした)。そして、一度は断られた学院にナタリーを入学させるために打った究極の奥の手とは?ここでやっとアル・カポネが絡み、「例の件、終わった」というカポネの最後の言葉で、心にわきあがる静かな大団円が訪れる結末が最高です。


その他 あるクリスマス
トルーマン・カポーティ作
村上春樹訳
山本容子画
 子ざる1に頼まれて何気なく出かけた大型古書店で,100円で買ってきました。ほんと,安い買い物でした。トルーマン・カポーティのクリスマス・ストーリーは「クリスマスの思い出」を読みました。同じ山本容子さんの銅版画の挿画で,この本を手に取ったときは同じお話が題名を変えて出ているのかなと思ったくらい,よく似た体裁でした。
 読んでみると主人公のバディーもいっしょ,おばあちゃんみたいな従姉妹のスックもいっしょ,犬のクイーニーもいっしょです。ただ違うのは,バディーがクリスマスを過ごすのは,なつかしいスックのところではなく別れて暮らしているお父さんのところ,ニュー・オーリンズでした。このときバディーは6歳。解説によれば「クリスマスの思い出」に先立つこと1年です。
 バディーのお父さんとお母さんは,早すぎる結婚でバディーが生まれてまもなく離婚しました。バディーは母方の実家に引き取られ,それなりに幸せに暮らしていました。それがいきなりお父さんとクリスマスを過ごすことになり,ほとんど無菌状態の環境にいたバディーはとても戸惑いました。6歳の男の子が垣間見る現実と,(きっともうちょっと大人になったバディーが思い起こして語る)語り手の空かす現実とが響き合い,読み手の私はどうしようもなく胸がきゅんと切なくなってしまいました。 
 お父さんのお金がどこからきているのか?それはお父さんが金持ちの未亡人ばかりと結婚しているから。クリスマスのプレゼントもツリーの下に置いてあったのは,かわいいバディーをお父さんが見せびらかして歩いた相手ばかりからでした。バディーがお父さんにそのことを指摘すると,あわててプレゼントを買いに出かけるお父さんでした。お父さんはお父さんのやり方で,バディーを精いっぱい愛していたのでしょう。
 6歳の汚れなき心のバディーは,お父さんにもお母さんにも自分の汚れをうつす鏡のようなものだったのかもしれません。お母さんが自殺したという後日潭を読むと,バディーと離れて幸せになれなかったお母さんの悲しみを強く感じます。登場人物すべてにいいようもない哀しみを感じさせる物語を書いたトルーマン・カポーティは,やはりただ者ではないのでした。


その他アルケミスト
パウロ・コエーリョ作
山川紘矢・山川亜希子訳
平尾香絵
 「ベロニカは死ぬことにした」と同じ平尾香さんの挿画がたっぷり入った愛蔵版で読みました。どの絵にも青が必ずどこかにあって、アクセントになっているように思ったのは気のせいでしょうか。どこか風を感じる絵が砂漠を旅する物語にぴったりでした。
 「アルケミスト」とは錬金術師のことだと、初めて知りました。主人公の少年サンチャゴは、羊飼いでした。しかし単なる羊飼い?ではなく、両親の期待を一身に担って神学校で神父を目指したこともあります。そんな彼がアンダルシアで羊飼いになったのは、もっと広い世界を知りたいという気持ちが抑えきれなくなったからでした。農家の父の仲間で旅ができるのは、羊飼いだけと言う言葉に従って、少年は旅をするために羊飼いになりました。このお話のテーマはあきらめずに夢を追いかけることですが、神父の道から羊飼いになった時点で夢への第一歩をサンチャゴは踏み出していたわけです。(なかなかできないことですわ)
 心惹かれる娘に出会って、サンチャゴは夢を解釈してくれる老女を訪ねることにしました。サンチャゴが二度続けて見た夢は、エジプトのピラミッドのそばで彼が宝物を見つけるだろうという予言でした。アンダルシアからエジプトは、遙か彼方。それでもサンチャゴは、お告げに従って歩き始めます。さすがエリートコースを歩みながら羊飼いになった変わり種!と変に感心したのは、天の邪鬼なせいでしょう。
 ピラミッドのそばで宝物を掘り出すまでに、サンチャゴが経験したのは一言では言い尽くせないたくさんの事件でした。クリスタルの店で働いティールームにするという商才を発揮したこともありましたが、サンチャゴにとっての大事件はオアシスで一生に一度の恋人だとわかるファティマに出会ったことと、旅の師アルケミスト(錬金術師)に出会ったことです。部族間の戦争の中で、サンチャゴは錬金術師の助けを借りて宝物に近づきます。ただ、「ピラミッドの近く」という言葉には思いがけない秘密が隠されていました。
 浮き世離れした作品の雰囲気は、確かに「星の王子様」を彷彿とさせるところがあります。サンチャゴが宝の在処を知るラストシーンこそ、夢を信じることがどういうことかを逆説的に知らせてくれました。(かくいう私こそ、夢をみない人の典型かもしれないと自覚しています)


ファンタジー アルジャーノンに花束を
ダニエル・キイス作
 ずっと前からこの本がおもしろいという評判を知っていて,ずっと前図書館で一度は借りたのに読まずに返してしまったという因縁本です。なんで読まなかったのかは今となっては謎ですが,読まずに返したという罪の意識が心の中に居座っている究極の積読本だったのでした。
 このごろ,図書館へ出かけても借りすぎないように気をつけているので(なんと言っても,借りようと思えば24冊借りられてしまうのです),2週間で10冊程度に収まっています。昨日朝,出勤する地下鉄の中で読み始めたんですが,なんでこんなおもしろい本を読まずに返すことができたのか,数ページで感じるほどお話に引き込まれました。
 主人公はチャーリー。知能指数が70前後の軽い知的障害がある33歳の男性です。物語はある実験のための手術を受ける前後のチャーリー自身が書いた経過報告書という体裁で進んでいきます。実験とは,脳を外科的に手術して知能を高めるというものです。すでにネズミで実験が行われており,それがうまくいった(ように見えた)ので,次はいよいよ人間で試してみようというわけです。
 チャーリーは知的障害のため家族から捨てられ,パン屋で雑用をして働いています。チャーリーが実験台に選ばれたわけは,彼の向上心と知識への憧れをかわれたからでした。手術前に担当教授と面接を繰り返すうちに,チャーリーは先に手術を受けたネズミ「アルジャーノン」をライヴァルと思うようになります。手術前,チャーリーはアルジャーノンが易々とクリアする迷路の勝負に一度も勝つことができなかったからです。
 経過報告書の文体は,綴りの間違いが多い幼児の独り言のような手術前から,手術をはさんで劇的に変化を遂げていきます。まるで放浪の貼り絵画家山下清(TVのイメージ)みたいな書き方が,研究報告書のような書き方に次第に変化していくのです。それも読んでいる私が自然に変化を受け入れられるように徐々に変わります。この変化のプロセスを一言で片づけるのは簡単ですが,文体と内容の変化という方法で読者に悟らせるのは,めっちゃ高度なテクニックだと心底感心しました。純真な幼児のような内容が,1人前の恋に悩む男性のそれに変わっていくのは,まるで新たな誕生を目の当たりにするようでした。
 しかし,物語はさらに高度な展開が用意されています。ネズミのアルジャーノンはある時を頂点として,次第に知能の発達が見られなくなります。それどころか,高い知能を得た時間よりずっと早い時間でもとの状態に退行し,ついには死んでいくのです。ネズミよりはもともとの寿命が長い人間の場合はどうなるのでしょうか?チャーリーは身をもって体現していくことになるのでした。天才的な知能を得た彼は,さらにどのような変化を遂げるのでしょうか?
 彼の最後の手紙の追伸「どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください」が,いつまでも心に残りました。ダニエル・キイスは今まで何となく敬遠していましたが,他の本も読んでみます。


その他アルゼンチンババア
よしもとばなな作
奈良美智絵
 映画を見に行こうかな〜と思いつつ、結局行きそびれました。原作を手に取ってみると、文庫版でありながら奈良美智氏の絵がふんだんに盛り込まれ、特に巻末には10ページ以上に渡って、キャラや舞台のイメージの絵がカラーで載せられているのにびっくりしました。かわいげがないのが逆にかわいさを感じさせる奈良美智氏の手になると、語り手のみつこやユリ、果てはアルゼンチンビルまで、いかにも愛すべき存在に見えてきました。
 物語で何よりも強烈なのは、ユリ(50代?)のニックネームの「アルゼンチンババア」。ユリは南米の国との貿易で設けだした父親が遺してくれたビルに住んでいます。おんぼろなビルで、身なりにかまわない女性がたったひとりで住んでいるので、彼女のことをいつしか町の人々は「アルゼンチンババア」とあだ名を付けました。主人公のみつこも、悪さこそしなかったけれど、アルゼンチンババアをネタにしておもしろがった一人です。
 みつこの父親は腕のいい石工でしたが、今の世の中では次第に仕事がなくなってきました。おもに墓石を掘っていたけれど、妻(みつこの母親)が亡くなると、とうとう店を閉め、突然みつこに遺産を振り込んだかと思うと、どこかへ雲隠れしてしまいました。それが、なんとアルゼンチンババアの住むアルゼンチンビルだったのです。あまりの意外さにもはや笑うしかない感覚もわかるような気がして、私までへへへへと笑えてきました。みつこが、秘境?のアルゼンチンビルの中に入ったのは、それから間もなくのことでした。
 アルゼンチンビルの中には、どこにも書いていないけれど、ゆったりとした時間が流れていました。みつこの父親も、ユリといっしょの場所と時間を共有することで、世間の目やしがらみから逃れられたように思っていたのかもしれません。突然、50代にユリが帝王切開でみつこの弟を産んじゃったのは、ぶっ飛んだ成り行きでしたが・・・。
 ユリが亡くなったあとも、みつこの父親はアルゼンチンビルで息子を淡々と育て続けることでしょう。もちろん、みつこもアルゼンチンビルをたびたび訪ね、きっとゆったりとした男の子が育ち上がるにちがいありません。世間のぎすぎすした子育ての悩みとは、アルゼンチンビルが無縁に思えるのは、物語全体の雰囲気のおかげだと思いました。 


その他ある小さなスズメの記録
クレア・キップス作
梨木香歩訳
酒井駒子絵
 副題「人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」。一読して、梨木氏が翻訳されるお話には、一種独特な雰囲気があるなと感じました。語り手は作者自身で、ちょうど第二次世界大戦の最中、ロンドンに空襲が激しかったころから、戦後にかけての12年間いっしょに暮らしたスズメとの日々が描かれています。驚いたのは、スズメって、12年も生きるんだ!ということでした。てっきり、平均寿命は数年で、長生きしても5〜6年ぐらいだろうとたかをくくっていたからです。
 クラレンス(最初からそう呼ばれていたわけではありません)が、キップスの家にやってきたのは、たまたま巣から落ちて半死半生の有様で玄関に落ちていた時でした。キップスはダメもとでスズメの雛を拾って、一晩中献身的に看護します。すると元気を取り戻した雛はエサを食べるようになり、そのうちにまだふさがっていた目が見えるようになると、キップスを母親であり伴侶であると認識したのでした。
 子ども時代のクラレンスに始まり、戦時下で芸をしたり歌を歌ったりして、人気者になった時期、そして老齢になり老衰で命が終わるまで、ときには生物学的ともいえる鋭い観察眼で、ときには文学的な愛情に満ちた比喩で、さまざまな角度からクラレンスが語られます。読んでいて、つい何度も眠くなったのは、ドラマチックな語り口を廃して、淡々とクラレンスの日々を語っているから。スズメって、ちゅんちゅん以外に音楽的さえずるんだわと、目から鱗が落ちるような発見もたくさんありました。
 何よりも、クラレンスへの作者の愛情が言葉の端々から伝わってきて、温かい気持ちになるのがこのお話のポイントです。たかがスズメ、されどスズメ。12年もいっしょに暮らすと、おそらく夫を亡くして数年しか経っていなかったキップスは、クラレンスに心を慰められるだけでなく、戦時下での心の支えとも言える存在だったのではないかと思いました。酒井駒子氏の絵や、挿入された写真も、物語にぴったりで味わい深いものでした。


児童文学アルバートおじさんのミクロの国の冒険
ラッセル・スタナード作
 アルバートおじさんというのは,明らかにあの偉大な科学者アルバート・アインシュタインに由来するキャラです。読んでいて,ただの物語というよりは,化学の世界を易しく解き明かそうというスタンスのお話だなと思いました。知らなかったけど「アルバートおじさん」のシリーズは全部で3冊あって,「時間と空間の旅」,「恐怖のブラックホール」の次にこの巻がきます。
 アルバートおじさんは科学者で,姪のゲダンゲンはおじさんの研究を密かに手伝っています。お手伝いの方法は,おじさんが作り出す「想像の泡」に入って,おじさんの想像が見せてくれるものをいろいろ調べるというものです。なんでヒロインにこんなけったいな名前を付けたんだろうと思ったら,「ゲダンゲン」という名前にはちゃんと由来がありました。科学者同士で議論するとき,アインシュタインは頭の中に特殊な状況を想像しながら実験を進めました。このアインシュタインの想像実験こそ,「ゲダンゲン実験」と呼ばれたそうです。「ゲダンゲン」とは想像するという意味なんだそうです。物語の中で,「想像の泡」に入っていくゲダンゲンは,「想像実験」そのものでした。
 ゲダンゲンが送り込まれたのは,あろうことかまったく「不思議の国のアリス」の世界でした。忙しがっているウサギもいるし,トランプの兵隊もいるし,「私を飲んで」という薬もあるし,アリスのパロディーそのものです。違うのは女王様が,家来たちに命じて,怪しい小動物を原子に分解している最中でした。小動物は実は分子で,鋭いゲダンゲンの目は,分子のまわりにとんでいる小さい物質や,雲のようなものが見えます。電子や,光が波だということまで,きちんと説明されています。
 昔から理科が苦手でしたが,その中でちょっぴりましだった化学のお勉強を久しぶりにした思いでした。ただ,なんと言っても,量子力学や原子内部構造論などを,わかりやすく教えてあげようという意図を感じ取ってしまうと,もうそれが気になって素直に読むことができなくなることがわかりました。この本をきっかけに化学に興味をもつことももちろんあるでしょうが,お話としては,やや消化不良な印象が,どうしても抜け切れませんでした。これも理科嫌いの病気かな・・・。


子どもあるはれたにひ
きむらゆういち作
あべ弘士絵
 「あらしのよるに」シリーズ第2巻。このシリーズは、図書館で見かけた本から借りているのでばらばらに読んでいます。第1巻は読んでいませんが、当然オオカミとヤギがあらしのよるに相手の正体を知らずに固い友情を結ぶ話でしょう。第2巻は、二人(二匹)があらしの明くる日明るい日の下で相手の姿をじっくりながめて、あらためて友情を強めるお話です。真っ暗な小屋の中で知り合ったヤギとオオカミは、本来なら決してお友達にはなれない関係でした。オオカミにとってヤギはえさだし、ヤギにとってオオカミは恐ろしい敵だからです。
 あべ弘士さんの迫力ある絵から、オオカミとヤギの珍妙なおつきあいがぐいぐい迫ってきます。おかしくてたまらないのは、オオカミの話し方。「おいらだって、そうっすよ。おひるごはんといっしょに、おひるごはんをたべるようなもんすから、。あっ、こりゃ、しつれい。」と、まるで暴走族のお兄ちゃんが無理矢理丁寧語を使っている感じがたまりません。食べる側のオオカミが気を遣う設定は、ヤギのおしりがうまそうに見えて、邪念を追い払うのがとてもけなげです。
 オオカミがヤギが食べたいとつい思っちゃって頭をぼこぼこたたくと、ヤギはヤギで友達を疑ってしまったと頭をぼこぼこたたきます。この双方の善良さがあるから、危うい友情が成り立つのでしょう。ますますこのシリーズが、そしてオオカミが大好きになりました。


その他アルペジオ
新津きよみ作
 子どものころ父親の家庭内暴力にさらされたとはいえ、結婚して妻に暴力を振るう夫。そんな夫から逃げ出した由布子が主人公です。夫の暴力ですっかり愛想をつかしていた由布子は、偶然電車の中で拳銃を拾います。持ち主は電車から投身自殺してしまい、拳銃が入った紙袋だけが由布子の隣の座席に残されました。彼女がとっさに拳銃を持ち込んでしまったのは、ひとえに保に対抗する手段を持ちたかったから。彼を撃ち殺すほどではないけれど、彼に銃口を向けられると思うだけでも、溜飲が下がる思いがしたのでしょう。
 読んでいる私もぶちのめしたくなるほどの保の横暴。由布子はとっさに拳銃とわずかな身の回りの物を持って、家を飛び出します。偶然知り合った逸美は、夫と子どもを交通事故で失い、事故の原因の無謀運転をした男に復讐したいと思っていました。そんな時、拳銃を持った由布子が現れたのです。逸美は拳銃を百万円で買い取り、後腐れなく由布子と別れようとしますが、本音をぶつけ合っていっしょに過ごしているうちに、短い間でも由布子と逸美は心からの親友になっていました。
 逸美と由布子とは別に、丁寧に語られるのは、警察音楽隊でクラリネットを吹いている垂水良介です。良介は小柄で、どうやら同じく小柄な由布子と昔恋愛関係にあったらしい。恋人に恵まれず、クラリネットも盗まれてしまった良介は、鬱々して日々を過ごしながら、時折由布子を思いだしていました。
 この物語には、読むだけで胸が悪くなるような男が二人登場します。一人目は、由布子の夫の保、もう一人は交通事故の原因を作ったヤクザの田中です。逸美が返り討ちに遭ってしまい暗澹たる気分に陥った時、思いがけず由布子の行動で、すっきりしました。罪に問われるだろうけれど、その彼方にある幸せを良介と由布子がぜひつかんでほしいと祈るように読み終わりました。


その他ある明治人の記録
石光真人編著
 メールで教えていただいて読みました。副題を「会津人柴五郎の遺書」と言います。出かけた先のバスの中で読み始めると、だんだん窓の外の景色が目に入らなくなり、ふと目を上げると目的地に着いていました。あまりの衝撃的な内容と書いた人の高潔な人格を窺わせる格調高い雅文体に、時が経つのを忘れました。
 前半は、柴五郎自身が書いた遺書、後半は遺書を写した石光氏が柴五郎が生きた時代と柴氏自身の人となりについて語っています。まず遺書で、がーん、頭を思いっきりなぐられたような衝撃を受けました。柴五郎氏は会津藩に生まれ戊辰戦争の折り、10歳で辛くも生き残り、一族の恥と恨みを注ぐため筆舌に尽くしがたい苦労をして軍に入り、陸軍大将まで昇りつめた人物です。(さらっとこう書くと、柴五郎の苦労の100分の1さえ伝わらない気がします)遺書は太平洋戦争のまっただ中の昭和17年ごろ書かれたものだそうで、父親同士が友人だった縁で柴五郎に会いに出かけた石光氏は、どんなに戦争の明るい見通しを語っても(当時はまだ、負けていなかった?)、彼はこの戦争の行く末を完全に読み切る眼力の持ち主でした。当時80歳を越えた年齢を考えると、こういう人が日本の良心だったんだと強く思いました。
 遺書は地獄を見た子ども時代と、武士の子なのに給仕に身を落として懸命に働いて陸軍幼年学校に入るところで終わっていますが、ここで筆を置いたのも柴五郎の自らの功を人に語らない奥ゆかしい人柄がよく現れています。この後柴五郎は中国に渡り、日清戦争や義和団事件で特別な任務を遂行し、その軍律の厳しさと折り目正しさ、敵国の捕虜を遇する礼儀正しさは、並みいる列強を瞠目せしめたと言います。
 ふと、心のどこかで「柴五郎」という名前をどこかで聞いたような気がしてたまりません。忘れっぽい私がなんとか記憶を掘り起こしてみると、そうだ、「蒼穹の昴」の下巻に柴五郎が登場人物として出ていたんだ!と思い当たりました。帰宅して目指す本を探してみると、ありました。会津出身の新聞記者岡圭之介を後見する「柴少佐」として、かなり重要な役割を担っているではありませんか。政変を朝廷するために伊藤博文を極秘に招いたり、準主役の梁文秀を日本に亡命させる手助けをしたりします。特に印象に残っていたのは、彼自身の会津で地獄を見たという経歴を白太太(パイタイタイ)に見通され、将来大将になると予言される下りでした。それを聞いた柴五郎は、薩長出身者が幅をきかせる今の日本でそんなはずはないと笑い飛ばすのでした。
 思いがけず心に残っていた物語の人物がこの本で実在の人物として強く迫ってきて、明治人の誇りとほんとうの優しさが100年前にはちゃんと生きていたことを知りました。写真で見る限り、柴五郎氏は端正な顔立ちで、鋭くも温かみのある眼差しをもつ人物です。図書館の書庫に眠っていた本ですが、こういう本を埋もれさせてしまってはいけないと心から思っています。教えてもらって、ほんとうによかった。


児童文学あるようなないような話
ライナー・クンツェ作
野村げん訳
和田誠絵
 ちょっとファンタジー風なお話が3つ(おまけは別)収められた短編集です。「ライオンのレオポルト」、「たこのヤーコップ」、「ルートビッヒ」とおまけ(「嬰ニ音の話」、「どうしてタンポポの花は黄色いか」)は、どれも確かに「あるような亡いような話」です。私には、ちょっぴり「ないようなないような話」思えました。
 挿絵が和田誠さんなので、何となく星新一のショートショートを読んでいるような気で読みました。「ライオンのレオポルト」は、おもちゃのライオンが日向に置かれて、命を吹き込まれた話です。ライオンは木でできているはずなのに、ちゃんと食べる物を食べ成長します。結局は、レオポルトはおもちゃのライオンサイズじゃなくなって、サーカスに入って見事な芸を披露します。妙に時代錯誤なおまわりさんがけったいで、レオポルトを魔法の結果だと見なし、毛嫌いするのが滑稽でした。
 「たこのヤーコップ」は、たこはたこでも、蛸ではなく凧の話。凧のヤーコップは、しっぽをつけたままポストに入れられ怪しまれます。彼は病院のダニエルという男の子に急いで届けられなければならなくて、ダニエルは何か呼吸器系の病気で苦しんでいます。凧のヤーコップは、手紙だけどとても凧らしい届けられ方で、ダニエルの手に渡りました。ダニエルの病気が治ったとは書いていないけれど、ヤーコップのおかげでダニエルがとても喜び楽な思いをしたことはわかります。ファンタジックなお話だけど、ダニエルの病気が勢いで治らなかったところに、作者のリアリズムを感じました(大人しか感じない感想です)。
 「ルートビッヒ」というタイトルから、てっきり(ベートーヴェンのお話かな?)と思ったら、大はずれ〜でした。ルートビッヒは、ちょっとのんびり屋の保育園児の男の子ですが、みんながてんでにルートビッヒの噂をするのを聞くと、彼にとても手を焼いていることが伝わってきます。みんなと行動のテンポがずれているのがもとで、ルートビッヒは自発的に(だけど無意識に)迷子になり、大人を心配させます。だから何なんだ〜的お話ですが、こういう男の子が将来大物になったりして・・・とどうでもいいことを思いました。
 う〜ん、どうもドイツの作家の物語は、頭できちんと筋立てを考えてからわざと羽目を外しているような堅苦しさを感じます。「おまけ」の2つの話に至っては、おもしろさを見つけるのにとても苦労しました。ライナー・クンツェは、壁が壊れる前から東ドイツで活動していた、多分に反政府的な批判が多い作家だとか。今はどうなさっているのだろうかと身を案じる気持ちで読み終わりました。


絵本・コミックあれから4年・・・
アニメージュ編集部編
 アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」のフィルムブックみたいな文庫本です。宮崎駿監督の「ルパン三世」は、上着が緑色でちょっと未来少年コナンみたいなルパンが楽しいです。お話も、微笑ましくてスリル満点で、VTRで何度見ても飽きません。息子たちも大好きで、「カリオストロの城」の○○のシーンと言えば、即座に話が通じます。映画のシーンをうまく並べてたどったページを見て、また映画が見たくなりました。こういう本で思いがけずおもしろいのは、巻末のインタビューの部分です。映画をTV番組で放映するために7分程度カットしなければならなかったときの秘話には、ふーんと驚くことがたくさんありました。私が好きなルパンと次元のプロレスごっこのシーンや、ルパンが大僧正に入れ替わるシーンなどがカットされたと知って、もったいないなぁと思いました。あれだけ無駄なシーンがないアニメ映画も珍しいと思っているので、カットする方も心苦しかったに違いありません。
 もう一つ宮崎監督による「あれから4年・・・」には、ヒロインのクラリスのその後が書かれていました。悪役のカリオストロ伯爵を見ると、なぜかベートーベンを思い出すのは私だけでしょうか。ルパンについていかなかったクラリスの強さは、きっとローマ時代の遺跡とカリオストロ公国を立派に運営していったことでしょう。可憐だけどちょっとやそっとではへこたれない強さをちゃんともっているところが、彼女の魅力です。それは「未来少年コナン」のヒロイン、ラナとも共通することですが。


子どもアレックスとネコさん
ヘレン・V・グリフィス作
S・ラムート絵
長滝谷富貴子訳
 ちょっと変わった雰囲気の絵にひかれて読み始めた本ですが、思いの外おもしろく読んで得した気分です。主人公は子犬のアレックス。アレックスのご主人はロビーぼっちゃんで、アレックスの他にはネコさん(いつもこう呼ばれていて、名前がわからない)もいます。ネコさんは、大人のネコらしく、子犬で右も左もわからないアレックスに、嫌がることなく人生の深い知恵を教えてくれます。アレックスがボケでネコさんがツッコミの漫才コンビのような会話が、とてもおもしろかったです。
 アレックスとネコさんのやりとりは、時に(小さい子どもに理解できるのかしらん)と思えるほどの高度な内容があります。いつも遊んでくれるロビーぼっちゃんが学校に行ってしまって寂しがっているアレックスに、ネコさんが「子どもってのは、学校に何年もいくもんなんだ」と諭すと、アレックスは泣き出します。彼はロビーぼっちゃんが学校に行って何年も帰ってこないと思ったのでした。ボケとツッコミのしめくくりは「ひとのはなしは、もっと、ちゃんときくもんだ」。この言葉、どこかで私も嫌がらせに使ってやろうと思います。
 アレックスは優しい子犬なので、小鳥を見るとコマドリの巣から落ちたと思いこんで、そっとくわえて巣にもどしてやりました。しかし、小鳥がヒヨコだったから大変。コマドリの巣は大騒ぎになるし、巣に上げられたヒヨコは困惑するし、なによりももとにもどそうとヒヨコを加えていたら、ニワトリがアレックスを誤解してしまいました(当然・・・)。さりげなくネコさんが、アレックスの隣に座ってあくびをし、窮地を救ってくれる結末もよかったです。
 子犬のアレックスが、オオカミの野性の暮らしにあこがれた時も、導いてくれたのはネコさんでした。すぐ音を上げたアレックスが「もうちょっとで、オオカミのなかまになるところだったよね」と同意を求めると、「おまえさんなりにな」と答えるなんて、ネコさんは人間が(ネコが)できているではありませんか。大人が子どもを見る懐の広い眼差しを感じました。ロビーぼっちゃんにもアレックスにも、こういう経験豊かなネコさんがついていて、ほんとうに幸せだなと思いました。


子どもアレックと幸運のボート
リー・キングマン作
山内玲子訳
 海に魅せられた少年アレックが、自分の力でレース用のボートを手に入れる物語です。おきまりのハッピーエンドとはひと味違う心に残る結末に、作者の力量を感じました。心に残る「とびきりすてきなクリスマス」の作者だと聞けば、なんの不思議もありませんが。
 お話は、いきなりお祭りでの賭くじのシーンから始まります。アレックがねらっていたのはただ一つ、一等賞のボートだけでした。他の商品は目に入らず、お小遣いをはたいてこの機会にかけていました。そう豊かでもないアレックの家では、自分用のボートを手に入れるのは至難の技です。お小遣いやアルバイト収入をためてボートにたどる着くころには、きっとアレックはボートをこぐ年をはるかに過ぎていることでしょう。
 しかし、幸運の女神は微笑まず、アレックに当たったのはキャベツ人形でした。アレックに言わせれば、アレックの札は土壇場で4等賞にされてしまいました。さらに、信じられないことに例のボートは、海になんか全然興味のないご婦人が土を入れてペチュニアを植えようとしているというではありませんか。そこへ現れたのが、アレックと仲良しの中年のおばさんで未亡人のミス・ロングリーです。ミス・ロングリーは額縁の絵2枚とボートを交換して、ボートをアレックに自由に使わせてくれることになりました。
 アレックがボートにつけた名前は「ミス・エル」。ミス・ロングリーへの感謝の気持ちをこめた命名です。アレックのすることはただ一つ。ボートレースに勝つことしかありません。一心に練習するアレックには、つらい事件もたびたび起こります。根性悪のストンパー(ちょっと年上のお金持ちの息子で、アレックに敵対心をもっている)の嫌がらせ、モーターボートの当て逃げなど、なんどもくじけそうになりますが、そのたびにおじいちゃんや家族、ミス・ロングリーに支えられ、ボートレース出場にこぎ着けました。アレックのレースの結果は?
 よくある感動系のお子様本なら、ここでアレックはめでたく優勝して終わりといことになるでしょうが、そうでないところがこの本のいいところです。優勝よりも心に沁みる感動的な結末がとてもよかったです。


子どもあわれなエディの大災難
フィリップ・アーダー作
デイヴィッド・ロバーツ絵
こだまともこ訳
 お話はもちろんあわれですが、灰色を基調にした絵までかわいそうな雰囲気を盛り上げます。11才のエディ(エドモンド・ディケンズ)は、イギリス人の子どもにふさわしい紳士たるべく教育を受けてきました。しかし、ある時、両親が不可思議な病気にかかってしまい、彼は親戚の家に預けられることになりました。お父さんの大おじさんのイッテル・ジャック氏と妻のイッテル・モードおばさんのところです。絵を見ただけでこの二人が、精神的にもいっちゃってることが一目でわかります。こんな大人に健気なエディを託すなんて、エディの両親は病気でよっぽど頭がどうかしていたにちがいありません。エディも貧相なら、イッテル夫妻はもっと不気味だからです。
 短く区切られた章には、挿絵がふんだんに盛り込まれていて、さながら絵物語のおもむきがあります。ただ目の回りを黒くぼかす手法?!のために人間がみんなホラー映画の登場人物に見えました。イッテル・モードおばさんが剥製のオコジョを肌身離さず持っていて、絶えず「マルコム〜」と話しかける気持ち悪さも、絵があるといっそう際だちます。馬車で夫妻のオソロシ屋敷に連れて行かれる道中、エディが暗い気持ちになったのも無理はありません。まるで「世にも不幸な物語」シリーズを読んでいるような錯覚に陥りながらページをめくると、案の定エディを待っていたのは聖ブルブル孤児院でした。小さな紳士然としたエディも、手違いからとんでもない悪ガキというレッテルを貼られて孤児院に置き去りにされてしまうのです。
 孤児院のモットーは、「せっせと働け、ますます汚くなくなれ、どんどん不幸せになれ」。これ以上の不幸はないという状況で、エディの頭はやっと働き始めました。目指すは集団脱走。三部作の第一巻にあたるこのお話では、やっと役者が出そろったところかもしれません。個性的すぎる人々(エディが一番常識的でまともに見えます)は、これからどん動き回るのでしょうか。いささか気が滅入る絵ではあるけれど、続きが楽しみです。


児童文学あわれなマノリート
エルビラ・リンド作
エミリオ・ウルベルアーガ絵
とどろきしずか訳
 「マノリートシリーズ」第2巻。めがねをかけた男の子マノリートと、味わい深い?家族が繰り広げるにぎやかな物語です。マノリートは8歳で、、「おばかっちょ」と呼ぶ赤ちゃんの弟と、両親、そして誰よりも頼りになるおじいちゃんと暮らしています。マノリートが住んでいるアパートの住人が個性的なのは、ガルシア一家(マノリートの家族)に勝るとも劣りません。お母さんの友達のルイサおばさんをはじめ、バー「ズッコケール」(この名前は、訳者のアレンジだと思います、きっと)のエセキエルさん、さらには類は友を呼んでいるマノリートの友達の面々など、誰もが事件の主人公になれそうです。
 マノリートが語る16の事件を読んで、スペインの子どもたちもそれなりに苦労しているんだなということがわかりました。マノリートの友達がたまたま成績が悪かったのかもしれないけれど、夏休み前に成績表をもらって(つまり学年末ってことです)、落第した教科がないかおびえるだなんて、なかなか厳しい成績の付け方だと思いました。担任のアスンシオン先生(絵を見る限り、おばちゃん先生)が特に厳しいわけでもなさそうなので、スペインでは日本より成績がシビアなのかもしれないと感じました。幸いマノリートは、算数以外は落第を免れました。しかし、算数で落第点をとったことは彼にとって大変なショック。お父さんになんと打ち明けようか、思い悩みます。しかし、おじいちゃんがかつてお母さんも算数で何度も落第点をとったことをばらしてしまったので、ぐっと雰囲気が和みマノリートもほっと一息つくことができました。
 ともすれば険悪になりがちな事件が起きた時、マノリートのおじいちゃんは何気ない一言ですっとトラブルを笑い話に変えてしまいます。マノリートがおじいちゃんのことを「スーパーおじいちゃん」と慕うのがよくわかる気がしました。こんなもののわかった四角四面でないおじいちゃんがいたならば、子どもも救われるだろうなぁと思います。マノリートの物語でもあるけれど、一番印象的なのはおじいちゃんでした。


ミステリー暗黒童話
乙一作
 乙一本は、2冊目。1冊目はやや子ども向けのミステリで、大人向けの本は初めてです。私はスプラッターやホラーが嫌いなので、読み始めてうぎゃ〜と、手に取ったことを激しく後悔しました。何しろ、キーパーソンは、人に危害を加えてもなぜか相手は死なないという設定なのです。子どものころ不思議な才能?!に気づいた彼は、長じて人をいたぶることを覚えると、どこからか人々を拐かしてきて閉じこめ、手足を切り落としたり、そのほかもっとおぞましい所業を繰り返したりして、だんだん禍々しいシーンがリアルに目に浮かぶようになったからです。
 主人公の菜深(なみ)は、活発で成績もよい高校生だったけれど、事故で左目の視力を失った時に、ショックで記憶を失ってしまいました。元の自分を取り戻せないまま、引っ込み思案でぱっとしないキャラになりつつある菜深は、祖父のツテをたどって左目の移植手術を受けました。菜深が不思議な記憶に苛まれるようになったのは、それからです。菜深には、元の瞳の持ち主が左目で見た光景がまざまざと蘇り、彼(瞳の持ち主の和弥)が死ぬ前に見た少女(おそらく手足を切られている)の姿が焼き付いてしまいました。
 物語は、和弥の記憶をたどって彼の故郷の町を訪れた菜深と、おぞましい所業を続ける「三木」が並行して描かれています。いつ菜深が「三木」に到達するか、どきどきしながら読みました。「三木」は、自分がどんなに人を傷つけても不思議と相手は死なず(心臓を傷つけたり、首を切り落としたりした時はさすがに死にます)、苦しみもせず淡々と生き続けるのを観察して、不思議な童話を創作しました。いつしか「暗黒童話」の作者として有名になった三木こそが、和弥を死に追いやった相手なのでした。
 すぐ近くに「三木」がいそうなのに、わからない菜深は、ある罠を仕掛けます。お話のポイントは、「ペンネーム」。読み終わったら(な〜んだ!)と思える簡単なトリックでした。それにしても、「三木」がする所業を延々と書いてあるページには、すっかり辟易しました。やっぱり、血みどろなお話は苦手です。


時代小説晏子 上中下
宮城谷昌光作
 ひところは、新刊が出ると必ずハードカバーでも即座に買って読んでいた宮城谷昌光本。このごろはちょっとご無沙汰でした。だれでもたいていそうですが、評価が定着する前に書かれた本は、「人の心に残る話を書いてやろう」という作者の気迫が伝わってくるようで、話のおもしろさがストレートに心に届くような気がします。ところが、いったん流行作家になると、気のせいかマンネリ化した展開が気になり、最初のころのような感動がなくなってしまうのはなぜでしょうか。
 この物語は、宮城谷昌光本の評価を決めることになった大事な作品だと、私は勝手に思っています。この前に同じく力作「重耳」があり、中国の春秋時代に生きた英雄たちが、血の通った姿で登場します。実は、一連の春秋戦国時代本を読むまで、斉とか晋とか言われても全くぴんときませんでした。晏嬰?それってだれ?レベルだった私が、妙に春秋戦国時代に詳しくなったのは、何回も読み返したおかげです。当時は、中国小説=三国志だとしか思えなくて、宮城谷さんはなぜ三国志を書かないのだろうと不思議に思っていました。先日いよいよ「宮城谷三国志」が執筆されることになったことをおぼろげに聞いて、「ブルータス、お前もか!」ととっさに感じたのは、知らず知らずのうちに春秋戦国時代の群像を読むことで、いろんな時代に英雄と目される人物が隠れていることがわかったからかもしれません。
 物語は、斉の宰相晏嬰の一代記。彼が生まれる前に父晏弱がたどった波瀾万丈の人生もいっしょに語られています。策をめぐらし、大国を欺くスリル。ときにさらりと書かれる含蓄に富んだ言葉が、心に刻まれます。「人を助けることは、自分を助けること」という反意的な言葉は、何かしようとするときにふっと心に浮かびます。
 当時、斉と張り合っていたのは、さらなる大国晋です。晋との丁々発止のだまし合いと、ときに捨て身の作戦は中国の戦略の奥深さをいつも感じます。裏切りは当たり前、負けても主君を簡単に取り返る生き方は、日本人の私には節操がないと思えることもありました。でも、自身の信念を貫くためには、少々の恥は当たり前という強靱な根性には、(これぞ大陸での生き方!)と頭が下がります。ここまで自分を貫き通してこそ、後世で小説にしてもらえるのかもしれないな。


絵本・コミックアンソニー・ブラウンのキング・コング
アンソニー・ブラウン作
藤本朝巳訳
 「エドガー・ウォレス&メリアン・C・クーパー原作による」と表紙に但し書きがついています。なぜわざわざ「アンソニー・ブラウンのキング・コング」というタイトルにしたのだろうかと、まず不思議に思いました。後書きを読むと、アンソニー・ブラウン氏はゴリラが大好きだそうです。彼が来日した時には、ピーター・ジャクソン監督が映画「キング・コング」を制作中で、この絵本が映画作りのインスピレーションの元になったらしいことがわかりました。「キング・コング」の映画を私も見たので、絵本のページをめくりながら、どこが似ているか探しながら読みました。なるほど、ヒロインのアン・ダローの愛らしい表情や、キング・コングのちょっと困ったような目は、映画を強く思い出させました。(絵本の方が先なので、順番が違いますが・・・)
 私が「キング・コング」のお話を知ったのは、あの映画が初めてです。それまでは「ゴジラVSキング・コング」くらいしか見たことがなくて、単なる怪獣映画だと思いこんでいました。ところが、映画を見てさらにこの絵本を読んで、「キング・コング」とは現代版「美女と野獣」の悲恋物語だと知りました。絵本にはキング・コングが住む島の原住民におどろおどろしさがなく、ホラー映画のような恐怖を味わわずに読むことができてよかったです。
 つい絵本と映画を比べてしまいますが、一番の違いはアン・ダローと恋に落ちるジャック・ドゥリスコルが脚本作家ではなく一等航海士だということです。もっとも、ジャックがたくましいイケメンであることには変わりなく、キング・コングには始めからアン・ダローへの恋に勝ち目はなかったのでした。エンパイア・ステートビルにアンといっしょに登ったキング・コングは、飛び始めたばかりの飛行機に撃たれて、死んでしまいます。映画でも絵本でも、キング・コングが死んでしまうシーンは哀切で、心にぐさっと食い込みました。絵本のキング・コングの死体に弾丸が撃ち込まれた後がたくさん描かれているのがとても哀れでした。アンとジャックは、キング・コングの死を乗り越えて幸せになったと信じたいです。


児童文学アントン
エリザベート・ツェラー作
中村智子訳
 副題「命の重さ」。ヒトラーが独裁時代にユダヤ人を大虐殺したのを知らない人はいませんが、同じドイツ人でも障害のある人々(特に子ども)を同じように収容所で殺していたことを、この本を読むまでしりませんでした。主人公のアントンは、生まれつき障害があったわけではないけれど、幼いとき路面電車にはねられてから、後遺症で右手がうまく動かなくなり、すらすらと話すことができなくなりました。とはいえ、まったく何もできないというわけではなく、計算は誰よりも速くできるし、色彩豊かな絵を自由に描くこともできました。
 この物語では、1938年から1943年、そして終戦後のエピローグまで、アントンの命を家族みんなで何とか救おうとした経過が微に入り細に入り語られています。愛情あふれる両親や兄姉は、何とかアントンに普通のふりをさせ、学校にも通わせますが、刻々とヒトラーの魔の手が迫ってきます。それだけでなく、ヒトラーの政治を信じ込んだ人々(大多数の大人や子ども)が、アントンに辛く当たり、何とか彼が障害児である証拠をつかもうとします。
 戦争が激しくなるまで、何とか自宅から学校に通っていられたのは、最後まで読むとまだ困難な日々の序の口でした。5年生を終える直前に、とうとうアントンは学校に居られなくなり(教師が居られなくしたから)、家の屋根裏部屋に隠れ潜むことになりました。さらに、ユダヤ人を狩るように、障害のある子どもを見つけ出してはどこかへ送る(つまり殺す)係が家々をしらみつぶしに見回るようになると、アントンは遠くの親戚を頼って自宅と家族と離れなくてはなりませんでした。
 最初に預けられた親戚(アントンの伯母)はアントンに辛く当たり、まるで奴隷のように農場で働かせます。悲惨な状況を察した母親が迎えに行き優しい友人に預けた決断が、アントンの命を救うことになりました。何とか終戦を迎えたアントンは、生きながらえることができたのです。
 後書きを読むと、アントン(仮名だそうです)は作者の叔父に当たる方だと知れました。なるほど、だからこれだけ詳しくアントンが生き延びた事情を書くことができたのかと納得しました。人々が集団で洗脳されて、弱い物をかばう心をなくしてしまう社会の恐ろしさがよくわかりました。


絵本・コミックアントン・ベリーのながいたび
天沼春樹作
出久根育絵
 タイトルと不思議な雰囲気な絵から、てっきり外国の作家の絵本だと思ったら、よく見ると絵は出久根育氏だし、文もあの天沼春樹氏だったので(あれれ〜)でした。丁寧に描き込まれた絵のキャラは、誰もがちょっと困ったよな表情をしています。中間色の色がとても心地よく、ず〜っと見入っていても目がちかちかしません。
 お話の発端は、とてもてきと〜です。主人公のアントン・ベリーという男の子がドラゴン・プーという竜を育てることになったのは、どうやらペットショップでドラゴンが売られていたから。なんでドラゴンがお店で売られていたかなんて当たり前のことは、わざわざワケをきちんと書くに値しないといわんばかりの潔さです。とにかく、アントン・ベリーはドラゴン・プーを買ってもらい、すぐに仲良しになったわけでした。
 ドラゴンはとても大食らいで、そのうちアントン・ベリーの家では食べ物がなくなってしまいました。困り顔のお母さんがアントン・ベリーにドラゴンを捨ててこい!と言ったわけでもなく、アントン・ベリーはしごく当たり前にドラゴン・プーといっしょに食べ物探しの旅に出発します。しかし、行く先々でラッキーにも食べ物が見つかると、ドラゴン・プーはくるみの実にしてもリンゴにしても鮭にしても、アントン・ベリーの分を一つだけ残して、いつだって食べ尽くしてしまうのでした。
 きっとドラゴン・プーにしてみれば、遠慮の固まりみたいに一つだけ食べ物を残しておくのが、アントン・ベリーへの愛情表現だったにちがいありません、そして、アントン・ベリーも怒ることなく、旅の間にドラゴン・プーはどんどん大きくなりました。
 ドラゴン・プーが大きくなった力を発揮したのは、巨大な魚に襲われている船を助けた時。なんとプーは翼を広げ空を飛んで、魚をつかまえて船ごとアントン・ベリーの家まで一気に運んでしまったのがすごかった。魚の中には食べ物が山ほど積まれていて、なおかつドラゴン・プーがくしゃみをすると今まで食べた実の種がそこら中に飛び散ったのです。果樹園の中にあるみたいなアントン・ベリーの家。私も遊びに行きたくなりました。ドラゴン・プーの姿がどこにも描かれていないのは、大きくなりすぎてページにおさまらなくなったからかもしれないと思いました。


子どもアンナとプロフェッショナルズ1
MAC作
なかがわいずみ訳
岸田メル絵
 副題「天才カウンセラー、あらわる!」。絵も今風でそこそこ可愛く、展開も速く分かりやすい・・・と言いたいのですが、展開を支えるエピソードが徹底的にとばされている感じがするので、お話が薄っぺらく真実味が感じられません。要するに、お子様向けの足下を見た成功物語で、うわべだけの友情物語だわと思ってしまいました。
 主人公のアンナ・スマッジは、弁護士の母親と実業家の父親をもった裕福なおうちの子です。しかし、アンナはマイペースで、何をしても学校のペースに遅れがち。それをどういうわけかアンナを目の敵にしているジェイコブ・ピアーズと従姉妹のロゼリン・ピアーズに目の敵にされていました。なぜジェイコブとロゼリンがアンナをそんなに嫌い、あからさまな嫌がらせをしかけてくるのかがどこにも書いていないので、最初から大変な違和感があります。アンナの家がお金持ちでタクシーで学校に来るような子だから焼き餅をやいているのなら、それなりに分かりやすいのですが、そういうわけでもなさそうです。
 そういうわけで基本的にいじめられっ子で「グズっち」のアンナが、どうして警察署で謎の犯罪者「ミスター・フー」の正体を話すことになったかがいきなり出てきますが、そこに至るまでの道があまりにもご都合主義で頭が痛くなりました。そもそも、アンナが成功?するきっかけは、新任のカウンセラーのシンクレア先生に「人の話を聴く才能がある」と言われたから。しかし、いくら人の話を聴くのが得意と言っても、すぐに辛辣なものいいをする数学のムサシ先生に、マニキュアとドレスの色が合っているとほめたり、笑顔を授業で見せることが大切だと子どもの分際で指摘したりしても、それを大人がすぐに喜んで聞き入れるだろうかと思いました。
 しかし、ムサシ先生が自分のアドバイスを容れてくれたことに気をよくしたアンナは、たまたま友達のトッドに作ってもらった「カウンセリングを引き受けます」という名刺の束を、例のごとくジェイコブにまき散らされてしまいます。そのおかげで?アンナの家にカウンセリングを申し込む電話がじゃんじゃんかかってくるのは、ニューヨークには他にはまったくカウンセラーがいないのだろうかとかんぐってしまいました。アンナのカウンセリングがタダだったかもしれないけれど、名うての殺し屋のドニーまでが偽名でカウンセリングに訪れ、カウンセリングを受けた影響で改心するなんて、ありえません。
 普通ではありえない事実の積み重ねで、ミスター・フーの正体が分かっても、謎なだけ。これからも続刊が出るらしいけれど、読まないだろうなぁ・・・。


子どもあんにょんキムチ
松江哲明作
 作者の松江哲明さんは、在日韓国人三世です。5才のときに日本に帰化して、映画監督としてご活躍だとか。そういえば、「あんにょんキムチ」という映画のタイトルも、どこかで聞いたような気もします(気のせいかもしれませんが)。映画を見ていれば、この本の読み方もまた違ったものになったかもしれませんが、知らない私には日本で当たり前に暮らしてきた在日韓国人の若者が自分のルーツを探る話に読めました。
 自己紹介風に何度も出てきて笑っちゃったのは、松江さんが子どものときからキムチが大嫌いで食べられないこと。漬け物嫌いな私も、キムチがあまり好きではありません。松江さんの家では、子どものころから食卓にはキムチが必ずあったそうです。もちろんお母さんのお手製。日本のスーパーで売っているのは、味が辛いばかりでおいしくないというご意見には、(通だなぁ)と感心しました。もっとも、キムチ嫌いのご本人にはわかるべくもないでしょうけど。
 韓国人としてのルーツさがしのきっかけは、きっとかわいがってくれたお祖父さんが亡くなるときに、何度も名前を呼び、呼んでも来ない孫に業を煮やして「哲明ばかやろー」と叫んだのが最後の言葉(最期の言葉ではありません、よかった)になってしまったことです。お祖父さんがなぜ日本にやってきたのか、どうやって日本で暮らしてきたのか、松江さんは知ろうとします。韓国へ出かけてお祖父さんの故郷を訪ねると、まだ彼を覚えているという親戚もいました。日本にやって来たときはじめは「柳」という姓だったのに、わざわざ「松江」に変えた理由は、表には出さなかったけれどちゃんと故郷のことを心にかけていた証のようで、心がずきんとしました。本を読んだだけの私でも心に残ったのですから、実の孫が感動しないはずはないでしょう。「あんにょんキムチ」という映画を作っちゃったのも、そういうもろもろの気持ちを込めたかったのかもしれないと思いました。


ファンタジーアンパオ
ジュマーク・ハイウォーター作
 
 副題を「太陽と月と大地の物語」。読もう読もうと思っていて,やっと借りてきた本です。アメリカのネイティブ・インディアンのお話だとは知っていましたが,読んでみて予想以上の迫力に,びっくりしました。
 お話自体は,主人公アンパオが美しい娘ココミケイスと結婚するため,太陽に会いに行って帰ってくるまでの冒険の旅を描いたシンプルな物語です。でも,冒険の旅の内容にネイティブ・インディアンの伝説が数多く巧みに取り入れられていて,目を奪われる思いでした。ファンタジーとも言えるし,神話とも言えるし,読んだばかりの「オデュッセウスの冒険」を彷彿とさせる展開もありました。
 アンパオは太陽の息子。でも母は太陽のもとから逃げてくる途中に死んでしまい,アンパオはクモ族のおばあさんに育てられます。自分の出生の秘密を覚えていないアンパオは,最初オパンアというそっくりの弟といっしょに登場します。放浪の中,偶然通りかかった村で2人は美しい娘ココミケイスに出会い,結婚を申し込みます。ココミケイスはアンパオの申し出を受けますが,自分は太陽に求められているので,太陽のもとに行って申し開きをしてほしいと条件をつけます。そして顔の傷をとってもらい帰還したとき,それを証拠に結婚すると言うのです。そこから,アンパオの父のもとへの旅が始まりました。
 弟オパンアとは旅の途中で死に別れ,アンパオはひとりぼっちです。オパンアの死は,読んでいていつかくると予測されたものでした。オパンアの描き方に不吉さを感じ,ひとりぼっちになったアンパオはオパンアの影の部分も背負って生きていかなければなりません。オパンアが同化する経緯は,さすがネイティブ・インディアン!と感心したほど,独創的なお話でした。ちょっぴり,彼らの死生観にふれることができたような気がしました。
 クライマックスは,やはり太陽の家にたどりついたシーンです。嫉妬深い妻の月がいるので,アンパオは「傷顔」と名前を偽って,姿を現します。義理の弟明け星は,アンパオが兄だとは気付きません。もちろん月も,太陽も傷のためにどこかで見た顔だとは思うだけです。はらはらどきどきの後,アンパオは無事に傷をとってもらいココミケイスの元へ帰ることができます。
 これだけなら普通のファンタジーですが,最後の部分で,白人がアメリカ大陸にやってきたことが,いっそう不吉に示唆的に描かれているのが,異色です。「第4章 海からの侵略」とは,とうもコロンブスのことだったのではないかと読めます。旅の途中で出会う不気味な死の影は,「天然痘」という名前です。ヨーロッパ大陸からやってきた白人がもってきた招かれざる客,疫病が広がっていく様子が,じわじわと伝わってきます。ネイティブ・インディアンの明日なき悲しい将来を暗示する結末は,「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(映画)のラストシーンのようでした。


その他アンハッピードッグズ
近藤史恵作
 読んでいて、(自分は間違いなく悪人だな)と思えてくるお話でした。舞台はパリ。ガクとマオは幼なじみで、パリで同棲しています。一応恋人同士ではあるのですが、結婚するかといえばそういう感じでもないらしい。マオに寄れば「腐れ縁」ということになるのは、3ヶ月前に弁慶という犬の世話をするために、パリに来ないかとガクが読んだから。もともと身勝手でオレ様が男は大嫌いなのですが、ガクはまさにその典型で、マオがずるずるとパリに来てしまうのは、確かに腐れ縁以外の何ものでもないと思いました。
 物語は、ガクが荷物を置き引きされて困っている新婚の日本人夫婦を連れてきたところから始まります。睦美と浩之は、ガクの申し出に甘えて、パスポートを再発行してもらったり、日本から送金してもらったりする間、ガクたちのアパートに泊めてもらうことになりました。ガクはあくまで愛想がよく、マオのいらだちに気づきません(または、気づかないふりをしています)。日本大使館に行く二人に付き添って、ついでにパリを案内しているうちに、睦美と浩之は妙な雰囲気になってきて、とうとう同じ部屋で過ごさなくなってしまいました。
 とどのつまりは、睦美がガクといっしょに日本に帰ることになり、浩之がマオに謝りに訪れます。しかし、結局ガクは、寸前で引き返し、ただ睦美と浩之の仲が壊れてしまってお終い。つまりは、ガクとマオは、申し合わせたように(一応偶然の体裁をとっていますが)、睦美と浩之の仲を引き裂いたことになったのでした。
 ページをめくっていて、いつしか自分も(ハネムーン離婚になったらいいのに)と思っていたのが悪人の証拠です。実際、ガクはどうやら二人を家に連れてきた時に、(壊してやりたい)と思っていたとか。腐れ縁のマオにそういう魂胆が伝線したところが、実はマオとガクが離れられないワケではないかと思いました。
 問題は、読後感がどよ〜〜んなこと。どろどろに巻き込まれた睦美と浩之が気の毒になりました。


ミステリーアンバランスな放課後
赤川次郎作
早川司寿乃絵
 「赤川次郎ミステリーコレクション」シリーズ第10巻。子ども向けに集めた赤川次郎の学園物をまとめたシリーズだそうです。10巻それぞれに違う挿画がついていて、最初に読んだ「若草色のポシェット」で「杉原爽香」にはまったのはついこの間のことです。ささめやゆきさんの描く爽香のイメージが強かったけれど、今度は早川司寿乃さんの絵を見て、思わず手に取りました。早川司寿乃さんは、大好きな「マジョモリ」の絵を担当している方。端正できりっとした印象の絵は、清々しい上品さが気に入っています。
 両親が離婚して母親と暮らしている芝奈々子は、17歳。名門M女子学院に2年生で編入してきました。それまで通っていた学校とあまりに雰囲気が違うので、もともとさばさばしたたちの奈々子は、面食らうことばかりです。呼び捨てにしない、「さようなら」ときちんと挨拶して「バイバイ」なんてとんでもないという風潮は、確かに奈々子にとってつらいものがあったでしょう。
 杉原爽香にかなり似ている奈々子は、どうしたはずみか女王的存在の矢神貴子に生徒会長の対立候補にされてしまいます。まさか信任投票というわけにはいかないので、無理矢理対立候補させられた陰謀がありそうです。矢神貴子の遠回しで陰険な嫌がらせ、年下の恋人との情事に舞い上がっちゃっている千代子(奈々子のお母さん)。外務省の外部団体に勤めているお父さんに相談しても、奈々子の悩みは尽きません。
 学園物だから、矢神貴子の執拗な嫌がらせは、まあ予想できました。一つだけ不思議なのは、なぜ赤川次郎本では、大人の登場人物が徹底的に不倫をするのでしょう。娘に優しく頼りがいのある田中(奈々子のお父さん)まで、部下と不倫していますし、もちろん千代子の恋人は不倫相手です。世の中、こんなにごろごろと不倫事件がはびこっているのでしょうか?
 いくつかの殺人事件の犯人は、黒田(千代子の恋人)のように読めますが、結末を読んで力が抜けました。今ひとつしっくりこない事件の背景でただ一つすっきりしていたのが、早川司寿乃さんの絵でした。


児童文学アンモナイトの森で
市川洋介作
水野ぷりん絵
 副題「少女チヨとヒグマの物語」。明治中期、まだ人の手が入らない北海道中央の森が舞台です。主人公のチヨは、森のそばの村で生まれ育ち、森のことなら何でも知り尽くしていました。14歳になったころには、村人はチヨの足には誰も追いつけず、チヨは森の中を自由に行き来し、珍しいキノコなどを採ってきて家系の足しにしていました。
 たまたま森の奥でアンモナイトの化石を見つけたことで、チヨの運命は大きく変わります。化石を目にした大学教授たちが札幌からやってきて、森で調査を行ったからです。アンモナイトの化石が儲かると知った猟師たちは、こぞって森に入りヒグマを撃ち殺すなど横暴の限りを尽くしました。そのことを、チヨは自分のせいだと深く憂えていました。
 森には、まるで主のような巨大なヒグマがいて、猟師たちを恐れさせていました。悪逆非道の猟師たちがヒグマと遭遇した時には、ちょうどチヨが調査団一行を案内している時で、ヒグマは荒れ狂いあっという間に猟師や教授たちを殺してしまいます。以前からヒグマを見かけたことがあり、心を通わせていたチヨは我が身を犠牲にしてヒグマを止めようとしますが・・・。
 チヨが死んでしまったのは仕方がないけれど、ヒグマに抱かれて大した傷もなく死んでいたのはどういうわけでしょうか。ヒグマが撃たれた傷が元で死んだのは(そうかな)と納得できますが、怪我をしていないチヨが死んでしまったのは、(もしかしたら、この事件でチヨを生き残らせると、物語が終わらなくなってしまうからだと作者が思ったからかな・・・)となどと、かんぐってしまいました。悲劇の少女の悲しい結末なのは分かるけれど、どうにもやりきれない思いで読み終わりました。


ミステリー安楽椅子の探偵たち
赤木かん子編
 「あなたのための小さな物語」シリーズ第2巻。「安楽椅子」という言葉から、私は全然見当違いの探偵を想像していました。何か犯罪捜査上の事故で体が不自由になった探偵のことだと思ったのです。でも、それはよく考えてみると「車椅子」だと気づきました。早とちりもいいところです。ここで言う「安楽椅子の探偵」とは、現場を捜査したり関係者の話を聞いたりすることなく、事件の概要を聞くだけで真相を究明できる頭脳の持ち主のことです。安楽椅子に座って推理するわけでもないでしょうが、現場とはかけ離れた部屋(列車の座席の場合もあります)で椅子にかけて、じっくり自分の考えを組み立てていることは共通しています。
 赤木かん子さんのこのシリーズは、テーマがわかりやすいのと、普段は手に取ることのない作家の物語が読めるところが気に入っています。この巻には「十五人の殺人者たち」(ベン・ヘクト)、「九マイルは遠すぎる」(ハリイ・ケメルマン)、「登場人物を探す探偵」(フィリス・ベントリイ)、「多すぎる証人」(天藤真)の4編が収められています。
 一番おもしろく読んだのは、最後の「多すぎる証人」でした。日本人の書くミステリーは、設定が理解しやすく事件の謎にすっと入っていけるのがいいところです。ここでの「安楽椅子の探偵」は脳性マヒの障害をもち、家で過ごすことが多い信一という少年です。彼は、母親の友人の真名部警部から団地で起きた殺人事件を聞いて、だれもが気づかなかった証言の共通点を指摘します。情実を加味した結末と、たぐいまれな洞察力をもちながら、コミュニケーションの手段がパソコンを不自由な指でたたくという手段しかないために陰に隠れてしまう信一の存在が、きりきりと心に沁みました。障害者にとって過ごしにくい日本の社会事情にも言及していて、健常者の私はなんだか申し訳ない気持ちで読み終わりました。
 もう一つ「登場人物を探す作者」は、小説家の女性が列車に乗り合わせた刑事から事件を聞いて、刑事が言い忘れた登場人物が犯人だと看破する物語です。アガサ・クリスティーを一生懸命読んでいた中学時代を思い出したのは、きっと雰囲気が似ていたからでしょう。育ちのよいイギリス人の会話ってこうなのね。


ライン

       ホーム             ページのトップへ            メール