アルビノ子育て日記

20015月−

◆ 2001/05/31(木) 機関車トーマス
わが家には、トミーではなくバンダイのトーマスがある。
詳しく知らないけれど、プラレール(トミーのおもちゃだと思う)のレールをちゃんと通るし、プラスチックだけれどちゃんと車輪が付いているところが、トミーのトーマスより好感が持てる。

それでも、こないだまでは私はエドワードの事をトーマスだと思っていた。
エドワードとトーマスは、車体は同じ色だから、知らない人には違いがわからない。
エドワードのほうが、ちょっと大きいからちょっとお兄さんなのかも。
ゴードンという同じ色の機関車もあるけれど、これは違いがすぐわかるくらい大きさが違う。顔も、ゴードンは全然かわいくない。笑っている顔なのにかわいくない。

どういうお話なのか知らないし、あまり知りたいとも思わないのだけれど、これらの機関車関係を、顔つきで想像してみたりもする。
エドワードは知的な顔つきをしているような気がする。トーマスはちびっ子機関車。ゴードンは、、いじわる機関車なのか大人な機関車なのか、顔つきからはわからない。子供向けとは思えない顔をしている。なんでこんな顔にしたんだろう。。
◆ 2001/05/30(水) 一生懸命な姿は真摯に受け止めよう
二郎くんは、当然だけれどウチで一番おチビチビ。
だから、歩くのも走るのも、一番遅い。

バス停に向かっているときに、あ、もう少しでバスが来る、という時点で走るか見逃すか、これは重大な問題だ。
待っても5〜10分で来るとは思うのだけれど、夕方急いでるときは、結構走りたくなる。

私と一郎くんと二郎くんで、バス停に向かって走る。
私と一郎くんは、バスが来る前にバス停に到着。二郎くんだけがまだ向こうから走ってくる。それも、一生懸命に待ってて欲しいって顔で。。

バスには間に合ったけど、二郎くんのあの真剣な顔が忘れられない。
あまり走らないでおこうっと。
◆ 2001/05/29(火) 親ばかもの
今は、一郎くんも二郎くんもピアノのセンセイの所に、一応習いに行っている。(くどい様だが、シュタイナーには程遠い事してる自分が嫌になる)
最初は私が教えてみようかとも思ったけれど、やっぱりダメ。

今度私がお世話になっている別のピアノ教室で、発表会がある為、私も例年のごとくプログラムに参加する。
その練習をしていると、(練習と言っても、1回弾いただけだけど)一郎くんは、主題部分を口ずさんでいる。
おお!一郎くん!1回聞いただけで覚えるなんて、アナタはやっぱり才能があるのだわっ、と、私は親ばかになる。ホントにすごいなあとその時は思った。

でも、まてよ、2年おきに発表会やるから、ちょうど2年前にも同じ曲を何回か練習したのよね。アナタはもしかして、その時曲を覚えたのかな?
いずれにしても、一郎くんがピアノを弾くと、結構さまになるのだった(親ばか)。私が弾いても全然さまにならない。指短いし。


◆ 2001/05/28(月) かわいい人たち
しゃべれるようになってからというモノ、二人で話し合って、けんかし合って、じゃれ合って、結構仲良くやっとります。
子どもが嫌いな私でも、ちょっとした弾みでかわいいなあ、と思うこともしばしば。

「利己的な遺伝子」という本の中で書いてあったように思いますが、自分が自分の子どもをかわいいなあ、と思うのは、自分の意志のつもりでも遺伝子がそうさせているとか。
自分の遺伝子情報をコピーした、少しでも若い、元気の良い、数多くの、遺伝子を残したい。そういう無意識な意識を遺伝子が持っているからこそ、私たちは子どもをかわいいと思い、保護し、育てようとする。
有事の時には(どういう時だ)、自分の身を犠牲にしてまで子どもを助ける、という気持ちが出てくるのも、遺伝子がそうさせているという。

彼らを見ていると、そうなのかな、とも思う。
でも、自分の産んだ子どもを虐待してしまう、というニュースを聞く度、これは遺伝子にとってどういう意味がある事だろうかと、考えたりする。
自分の種を何らかの理由で絶やしたいのだろうか。
それとも、地球上に人間が多すぎるから、自分の枝葉に当たる種は絶やしたいのだろうか。。

いずれにしろ、何の意味があって人間が生きているのかわからない凡人の私には、さっぱりわからない事だし、自分の子どもがかわいいと思うのは、遺伝子の意図であろうがカミサマの意図であろうが、関係ないよ、ってな具合で生きてる訳です。
◆ 2001/05/26(土) 彼らの言葉
今も彼らが言っているのだけれど、「♪おば〜かチンチン、マ〜ルメ〜リ〜♪」って、いったいどういう意味だ?
また、「♪ぶた〜にく〜に、なっちゃった〜♪」って、何?
次男は、「ばけタヌキ」が恐いと言う。それって、どんな生き物?何の話に出てくるの?

彼らの日中の生活を知らないから、どういう言葉に何を感じているのか、さっぱりわからない。。ま、いっか。
◆ 2001/05/25(金) 子どもの自主性
今年度ウチの保育園では、子ども達が話し合いをして遊ぶことを決める方針だという。

このくらいの歳の子ども達に、「話し合い」ができるのかどうか、怪しいところだと思う。人の意見を聞いて、自分の意見を言う、ということは大人でもむずかしい。
子どもの頃から、そういう事に慣れると良い、という考えが根底にあるのなら、賛同できないなあ。
シュタイナーによると、その歳に「できる」ことは、決まっている。その歳以前にやれば、それが熟練してくるかというと、そうではないから。

まあ、それはそれとして、子ども達が自分のやりたいことを決める場合、どうしても外の遊びが主体となる。
子どもは外の世界に興味を持ち、外の世界に出て生きたがる。だから、みんなやりたい外の遊びをみんなで決めることになる。

となると悲しいのは一郎くんなんだろうな、と思う。
みんなが楽しそうにお外での遊びの計画を立てているとき、彼は何を思うのだろう。彼は、自分が外に出て日に当たるのは良くないとわかっている。
二郎くんは、その辺のところをどう思っているか、よくわからないけれど、まだ何も考えていなさそう。(だから、ハハも全然気にしてない)

保育士の方々も気を使ってくれて、選択肢の中に必ず木陰のある場所を作ってくれているようだ。
でも、それは彼が本当に行って遊びたい場所では、必ずしもないと思う。でも、一郎くんは、そっちを選ぶ。彼なりの理性でそっちを選ぶ。それが、ハハにはせつない。

保育士の方々が気を使ってくれているのは、よくわかる。保育方針がそうだというのも、ま、そこに預けている以上仕方のないことだろう。大多数の子どもは外での遊びが大好きで、それを難なく実現できる体を持っている。
ハハが釈然としてないまま、一郎くんはその集団の中にいる。そして、彼なりに考えている。

子どもが我慢するモンじゃない、とは思うけれど、彼は我慢している。それが切ないなあ。あ〜あ。
◆ 2001/05/24(木) おきて
一郎くんと二郎くんの間で、おきてがあるようだ。
二郎くんは、一郎くんに服従する。文句は言うけど、基本的には従っている。一郎くんには滅多に逆らわない。

一郎くんは、とーってもいいヤツで、一度言えば理解するし、お手伝いもするし、おりこうさんなのだけれど、機嫌が悪いときには二郎くんに容赦ない。逆に機嫌が良いときには、めっぽう面倒見がよい。

二郎くんには、そんな一郎くんがお見通しなのだ。
機嫌が悪いときには逆らわないし、ご機嫌なときにはちゃんと面倒見てもらっている。

彼らだけを比べてみれば、したたかなのは、二郎くんの方かもしれない。
◆ 2001/05/23(水) シール
食べたお菓子の袋に付いていたシールを、ぺたぺた嬉しそうに貼っていた彼ら。
小さいシールを上手にはがして、きゃーきゃー騒ぎながらぺたぺた。。
そーんなに小さいモノが、キミたち見えるのね。視力が悪いはずじゃあなかったのかしら。ん?

それにしても、顔に貼ったり、服に貼ったり、メガネに貼ったり、おもちゃに貼ったり、とっっても楽しそうにぺたぺたやっとりました。
「お母さん、見て見て〜〜」と、大騒ぎ。
よせばいいのに、お父さんが某漫画雑誌についてたシールまで出してあげちゃったりしたから、ますますぺたぺた・・・。

おかげで、プラレールの電車の屋根には、てんこ盛りでシールが貼られてます。
私も子どもの頃好きだったから、文句も言えず、ま、センスのない貼り方でも見逃してやろうかい。
◆ 2001/05/22(火) 集団の中で
子どもとは関係ないけれど、先日近所でやってる某お国の本を読む読書会なるモノに行ってみた。
参加者の殆どが、時間を持て余しているお年寄り(ごめんなさいよ)。文法上のうんちくを述べ合って訳してました。でもお年の割に(ごめんなさいよ)語学に対する意欲満々で、立派でした。

で、人間が何人か集まると必ずそれぞれの役割ができてくる。この集団にも、そういう役割が存在していた。私は子どもの頃何回か転校したからか、そんなことが妙に気になる。

聖書に出てくる人間も、役割をそれぞれ持っている。聖書を読んだのは、数回の転校を経験した後のことだったから、ああ、人間ってどこの国でもどの時代でも、同じ様な役割分担があるものナノね、と思った覚えがある。
人間は一人では生きては行けないモノだと思う。誰とも関わらずに生きていくことができるだろうか。
10代20代の頃は、できる、と断言していた。周りとの関わりが煩わしかった。

でも、カミサマはきっと、周囲のモノ達と関わり合いながらいきなさい、と、言っているのだろう。お互いが助け合って、違う意見を論じ合って、けんかし合って、理解し合って。。
子どもが好きじゃないのに、頼れる身内が身近にいない私は、保育園に預かってもらえることのありがたさをしみじみ思う。と同時に、人との関わりの必要性を、改めて感じ始めた。
子どもを愛する目は多いほど良いと思う。大人だって、愛される目は多い方が良いに違いない。

ウチの息子たちは、集団の中でどの役割を担っているのだろうか。。
◆ 2001/05/21(月) 次男の熱
次男の熱は一日で下がったけれど、のどに潰瘍ができているから痛いと大騒ぎ中。
このごろは、あまり熱を出さなかったから、久しぶりに子どもたちと一緒にお休み。これもたまには良いかも。

次男は、去年、熱性痙攣をおこした。
だから、それ以来、痙攣止めの座薬は冷蔵庫の中に常備している。でも、今回は使わなかった。
一年で目覚ましい発達をして、体つきが子どもらしくなってきたし、言葉で状態を把握できるようになったから、かなあ。
訳のわからない赤ちゃんを扱ってた頃とは、親の対応が少しずつ変わってきているのかな。

今回も、ただ痛いと泣くだけでなく、ちゃんとのどが痛いと言って泣いている。正直言って、この進歩に驚く。今から思えば、赤ちゃんの頃はまだ彼を理解できていなくて、ひたすら心配するだけだった。

でも、今回座薬は入れなかったけれど、やっぱり痙攣が心配で、仰向けに寝ている彼を横向きにして寝かせた。
なんとなーく、横向きに寝ている方が痙攣を起こしにくそうな気がするのよね。。
◆ 2001/05/19(土) だいじょうぶ?
ひさびさに、次男が熱出した。久しぶりだからか、つらそ〜〜。
子どもが熱出すと、とっても心配。とくに引きつけおこす子どもは。。。

私までご飯が食べられなくなるし、私まで眠れない。
今は話せる様になったけれど、まだ自分のことを話せない赤ちゃんの頃は、それはそれは大変心配したものです。なにより、脱水にならないようにすることが肝心。それは、今もそうかな。

長男まで心配して、静かに遊んでくれる。
「だいじょうぶ?二郎くん」と聞くと、うんうん大丈夫、といった具合に首を縦に振ってくれる。
こんな心配することが、あと何年続くのだろう。
◆ 2001/05/18(金) いけないよお
お子さまはあなどれません。シュタイナーによれば、今の彼らは真似っこする時期だというコトを、しばしば忘れてます。

横断歩道にて、赤信号で、急いでいて、しかも車が来てない時、(私だけだったら当然渡ります!)お子さま連れだからどうしようか悩んでいたところ、一郎くんが忠告してくれました。
「信号が青にならないと渡っちゃいけないよ〜〜」
そうよね。確かにそんなに急がなくても、また青になるのを待てばよいのよね〜。母は忘れてました。

バス停に向かっている時、バスが来るのが見えているし、急げば間に合うのに、彼らがいると速く走れない。急ごうかどうしようか迷っていたところ、一郎くんが忠告してくれました。
「バスはまた来るよ。大丈夫だよ。」
そうよね。確かにバスはまた来るよね〜。のんびり遊びながら歩くのも、キミたちには有効だよね。それでなくても、いつも外で遊べないんだから。。

これはみーんな、私がご機嫌のよい時、急いでいない時に、彼らにいっている言葉だった。急いでいると、我を忘れる。
いつも私の、「ありたい姿」を彼らに言っておいて良かったな〜、と思うのは、こういう時です。教えてくれてありがとう。最近のハハは、物忘れがはげしい。
◆ 2001/05/16(水) 魚座の二郎くん
二郎くんは魚座です。

前にも書いたような気がするけれど、彼は赤ちゃんの頃、憤慨して泣き出すと抱きかかえてあやそうとしても、スルリと抜け出して抱かれまいと必死で抵抗してました。いくら抱こうとしても、スルリスルリ。。。
まるで、魚をつかもとしている時に、スルリと逃げられるように。。。魚座だからかしら。

二郎くんは、夜寝る前と朝起き出す前に、無意識のうちに口をチュパチュパ、パクパクします。口がミルクを欲しがっている様です。
まるで、魚が水の中で口をパクパクしているかのように見える。。魚座だからかしら。

魚座の赤ちゃんは、みんなこうではないにしても、どこかひっかかるのでした。。

◆ 2001/05/15(火) 絵本の中の一郎くん
大抵毎晩絵本を読まされる。
絵本は、わが家ではおちついて、静かに、ゆっくり、淡々と読むように心がけている。
でも、毎晩同じ本を読むから、読む方は飽きてくる。

最近では、彼らにも話の内容がわかるようになってきているから、わざとアレンジしてみたりする。耳ざとい一郎くんは、すぐに気づいて訂正してくる。
今度は絵本の登場人物に、一郎くんと二郎くんを付け加えてみた。
すると、一郎くんは「ちがうよ。髪の毛白い子はいないよ。」と、訂正してきた。
確かに、絵本の中にいる子どもの絵はみんな、髪の色が黒かったり、金髪だったり、茶色だったり。白い子は一人だっていない。
二郎くんは、わからないけど「そうだよそうだよ」と、一緒になって訂正要求をしてくる。

そうだね、ほんとうだね。髪の毛の白い子どもが出てくるお話なんて、持ってないよね。
よし、それなら今度作ってやろうかい。
◆ 2001/05/14(月) トルストイ
シュタイナーのある本を読んでいたら、トルストイの民話の事が書いてあった。シュタイナー好きの人は、みんなゲーテを愛好しているわけじゃないのか<これは偏見

私の知っているトルストイは、誰もが読書感想文を書かされそうな、「アンナ・カレーニナ」と、「戦争と平和」。あと、民話集はちっとだけ。
キリスト教徒って訳じゃないから、信心深くなくて、学生の頃にはちっとも理解できずにいた。。けれど、色んな国の人と話すときに宗教は必要よね。

きっと、宗教が生活に染みついている人には、チャンネルが複数個有るんだと思う。
生活の事を考えるチャンネルと、神様の事を考えるチャンネルと。それが無意識のうちに切り替わっている。だって、神様のことを考えながら仕事する職業ならいざ知らず、そうでない職業の方は、仕事に没頭しているときには神様の事なんて考えないから。

そういうアタマの切り替えが染みついている方々は、自分が今やっていることとは別のチャンネルでも、自分がやるべき事があるんだ、ということを体で知っているのではないか。
だからそういう習慣を持つ大人は、育児をするチャンネル、仕事をするチャンネル、宗教のチャンネル、社会的に貢献するチャンネル、等々複数をなんなく掛け持っているのかもしれない。

翻って現代の日本人は、持っているチャンネルの数が少ないように思う。
多く持っていても、仕事をするチャンネル、家族のことを考えるチャンネル、くらいかな。
社会的に貢献しようと思うチャンネルなんて、一向になさそう。また、政治に参加して社会を作っていこう、なんて考えるチャンネルを持っている大人はいるのかな。

みんなが自分のすぐ周りの事しか思い描かないで、小さく世界を感じている様な気がします。
トルストイを考えていて、余計なことまで考えてしまった。
子どもを持つと、もっとずっと先のことが見えてくる。自分がいきる時代のことだけじゃなくて、子どものいきていく時代のことまで。そういう意味でも、子どもを育てるという仕事は、とても有意義だと思います。
◆ 2001/05/13(日) 二郎くんの知恵
二郎くんは、ひとりでトイレに行きます。でも、電気をつけるスイッチの位置が高すぎて届かないから、それだけは周りの人に頼みます。
でも、昨日はひとりで電気もつけられるようになっていた。

彼の身長から見るとスイッチの位置はまだまだ高いはずなのに、どうしてるのかなーと思って見ていると、スイッチがある廊下よりトイレの入口の方が一段高くなっている事に着目したようだった。
一段高くなっている入口から手を伸ばすと、ようやくスイッチに手が届く高さ。
日々トイレに行きながら、彼は学習していたのだ。<ちょっと大げさ

二郎くんは、なーんも考えてないようでいてその実、ちゃんと考える事もしてたのね。恐れ入った。
◆ 2001/05/12(土) 人生の目的
何のために生きるのか?
この永遠のテーマに、シュタイナーは、たやすく、当たり前のように答えている。

人は「精神界」から降りてきて、「物質界」のこの世を生き、また「精神界」に戻っていく。
ならば、生きる目的はただ一つ、「精神を高めるため」。
「物質界」で役割を終え、「精神界」に戻る準備をするために精神を高めていく。

私は、宗教的に思えるこの目的が、若い頃(今だってある意味若いけど)は理解できずにいた。
子どもを持って、なんとなーく、わかるような気がしてきた。

最近は特にね。ま、こんなテーマは思想が絡むことだから、他の人に向かってこうなんだよって言う気は全くない。ダンナにも、親しい友人にもこんな事は言ってないし、話題にもならない。でも、こういう考えをする人もいるということで、ここにだけ書いておきます。ははは。
いやホント、物質欲のかたまりの私がこんなこと言っても、だあれも信じてくれないから。
◆ 2001/05/11(金) 障害のこと
シュタイナーの人智学によれば、私たちが今生きてるこの世界は、「物質界」。この世に産まれてくるまでは「精神界」にいて、この世の命を終えると「精神界」に戻っていく。

この世は物質にあふれている。
現代の日本は、必要な物も不必要な物も、みんなたくさん持っているし、それでもまだ物を欲しいと言う。
その目的のために働くのだから、流通経済が成り立つためには、とっても大切なことなんだけれど、形のある「物質」が絶対的な価値を持つ世界なんだなあとしみじみ考える。

「身体障害者」というのは、この物質の世の中では障害と見なされる状態だということ。
精神的にいくら正常な人でも、見た目に身体的な欠損がある人は「障害者」なのだ。その人の精神が正常かどうかは、物質界に住む我々には、さっぱりわからない。

精神界では、身体的な障害など全然関係ない。逆に「物質界」では正常に見えてるヒトでも「精神的」に異常なヒトが「障害者」となるのだろうか。
ちょっと禅問答のようなことだけれど、精神だけで生きていける世の中って、とってもいいなあと思う。物欲に凝り固まる物質界にちょっとだけ嫌気がさしているのかも知れない。
◆ 2001/05/10(木) 考え様によっては。。
彼らは日々めざましく語彙を増やして生きている。ここが大人と違うところ。
でも、やっぱり適切な表現はできなくて、動きもアタマがでかいからコミカルで、とっても面白い。今が一番かわいい時期かも。
しかも、一度覚えたらしつこい。何度も何度も繰り返す。そうやって覚えていくのね。

このあいだも、一郎くんがお絵かきしてて、お日様をぐるぐるに描いてて、色具合もとっても個性あふれてて、つい「上手だね」と声をかけてしまった。
すると、何度も何度も事ある毎に描いてくれて、見せびらかしに来るようになった。こっちが何をやっててもお構いないしだから、嫌になるけど考えようによっては、かわいいものだわ。

朝御飯は大抵パンを食べるんだけど、二郎くんは何度注意しても口いっぱいにパンを詰め込む。オエッとなっても詰め込む詰め込む。ずうっともぐもぐしながら牛乳を何度も飲んで流し込む。
普通に食べた方が忙しい朝は手が掛からないし、ずっと見て無くていいから助かるんだけど、考え様によっては、かわいいものだわ。

ある時ウンチをして、たまたまその時はウンチがあまり調子よく出なかった時期だったこともあって、つい「とーっても良いウンチだねえ」と感心して見せたら、それ以来ずうっとウンチした後見せびらかす癖が付いた。私がご飯食べてるときでも。。
これも考え様によっては、かわいいものだわ。

◆ 2001/05/09(水) 続・シュタイナー
久しぶりに読むと、シュタイナーの本は新鮮。私には有効だわ。
でも、実際の生活に反映できるほど消化するには、時間がかかると思う。
形から入るのは簡単だけれど、心の中に浸透するのは(よく「全身全霊を持って」と記述される)大変なこと。今まで育ってきた環境によるモノの価値観を変えるのだから。

でも、私なりの解釈で無理なく子どもと接することにしている。
でも、ダンナには今まで通りの価値観で接している。と、いうことは、ダンナには「全身全霊をこめて」接していないということかしら。

私はストレスはあまりない方だと思うけど、あったとしたら、ダンナに吐き出してるのね。
本当は、子どもは血がつながっているけどダンナは他人だから、ダンナの方により気をかけたいとは思ったりもするんだけど、うまくいかないなあ。だいたいその前に、私にも誰か気を使ってくれよ、と言いたい。
◆ 2001/05/08(火) まだまだミルク飲む人
二郎くんは3歳をとっくにすぎたのに、まだミルクを愛飲してます。
朝起きて一杯(ほ乳瓶で)、保育園から帰って一杯、ってな具合に、何かにつけて飲みたがる。

別にそれはいいんだけど、「ミルクを飲みたいぞー」という意志表示の仕方が最近変わってきて笑える。
まだ一人ではミルク作れないからね。

赤ちゃんの時には、もちろん、「ミルク飲みたいよお」と言う意味を込めて、ただ泣くだけだった。
しゃべれるようになってからも、この間までは「ミルク、ミルク〜!!!」と、泣いて訴えていた。
それが最近はウィットに富んだ表現ができるようになって、何気な〜く「あ、そういえばまだミルク、飲んでないよねぇ。」なんて言い方をする。
いかにも、ふと気が付いただけで別に飲みたくもないけど、飲んでやってもいいよ、という感じを出している。

知恵が付いてきたのか、「えー!まだミルク飲むの?赤ちゃんみたい」って非難がましく言ってたからか、とにかく彼はミルクを愛飲しているのだった。
◆ 2001/05/07(月) そういえばシュタイナー
私は教育者じゃないし、宗教家でもないけれど、ルドルフ・シュタイナーの考え方をちょっとだけお勉強しております。

というのも、通信講座は今も購読しているしシュタイナーの本も読んでいるけれど、最近は他のやることが増えすぎて、意に反してアタマの片隅に追いやられているから、少しだけ振り返ってみようかなと、連休中に考えついたものですから。

子どもと接していていつもアタマにある「座右の銘」(?)は、とある本に毎回掲載されている言葉だったりするので、ちょっと抜粋しておきます。私の覚え書きです。そしていつか大人になって読んでくれる(であろう)キミたちのために。

「わたしたち大人が子どもにしてあげられること。
7歳になるまでは、彼らを取り巻く美しい環境の一部となり、
14歳になるまでは、生き方を示す権威として彼らの前に立ち、
21歳になるまでは、共に理想を目指す先達として、
彼らの傍らをあるくこと、です。」

なんて、ちょっと変な訳の日本語ですが、シュタイナー教育の主立った考え方の訳ですな。
ま、最近カウンターが目覚ましく上がってるから(私にしてはね)、気を良くして知識をひけらかしております。

でも、私の本当の座右の銘は「人生は、ワン・ツー・パンチ!」です。なんじゃそりゃ(^^ゞ
◆ 2001/05/06(日) どういたしまして!
二人の会話を聞いてると、とてもほほえましい。
けんかもよくするけれど、覚え始めた言葉を駆使して、互いにコミュニケーションを取ることを楽しんでいる様子。
大抵の場合、会話は全然成り立っていないし、相手が何を言ってるかも理解していないようだが、ちゃんと交互にしゃべっている。

私が言ってたからかなあ、心がこもってはいないけど、
「ありがと!」
「どういたしまして!」
という会話が良く聞かれます。

こんな言葉、保育園で使ってるのかなあ。



ぼーっと雑誌読んでたら、ジャンクDNAの事が書いてあった。
意味のあるDNAは、全体のホンの2%に過ぎない。(だったっけ)
これって、人間の”2割の法則”(だったっけ)とちょっと似てる気がする。
人間は、ある目的の集団になると、その中の2割が目的に即した働きをして、他の2割は全然役に立たず、残りの6割はそれなりの働きをすることになる。(だったっけ)

何でも集団になるとジャンクな役割をになうモノはでてくるものなのだなー。
◆ 2001/05/05(土) こどもの日
今日はこどもの日。だからといって、特別に何かをするほどわが家は精神的な余裕はない。

爺ちゃん婆ちゃんが近くに住んでいると、きっと嬉しくて仕方なくって、色々と彼らの関心を引きたくって、彼らの喜ぶ顔が見たくって、モノを買おうとするのかなー。
近くに住んでいなくって良かったなー、と、こういうことに関しては思います。
モノを買うことで子どもとコミュニーケーションを取ろうとするのは、現在の自分の物質欲を子どもに押しつけることに他ならない。。様な気がする。子どもは、もっと単純なことで喜ぶようにできてるんだから。
また、こういう時だけモノを作ることに興味を持つように教育しようとする行事もいただけない。。と私は思う。
何にも必要に思わないようなモノを、新しい道具を揃えてあげて、「さあ今から造るぞ!」と、造るときだけ張り切って造って、その後は道具も作品も忘れ去られてしまう、なーんてこと、教育になるわけがないと思うけどな。

だから、地域のこどもの日の為の行事もあまり関心がないのです。

でも、大抵深くは考えないで、お手軽なモノに走って子育てしてしまうのよねー。わが家でもいつもはそうです。
今日くらいは、そういう事をちゃんと考えて、ちゃんと子どもと向き合ってお話ししてみることにしましょうか。。


◆ 2001/05/04(金) ことばのこと
兄弟の関係を築きつつある最近の彼ら。
二人で会話をしながら遊んでます。でも、その会話も変な日本語で聞いてて笑える。日本語って難しいなあ。英語の方が簡単に思えてくる。

英語圏の学校での学習内容を知らないから何だけど、カリキュラムを占める自国語の割合が、英語圏の方が日本より少なくてすみそう。英語を勉強する方が日本語を勉強するより短時間でマスターできそうなんだけど、違うかな。
だから、英語圏では伸び伸びと第二外国語を習得できるような気もします。ま、大陸だから必要に迫られるという点もありますが。違うかな。
なんといっても、ひらがなとカタカナとローマ字に加えて、漢字を大量に覚えている時間を、西欧では何に費やしているのかが興味のあるところ。

日本人は、なに気に日頃操っている文字の種類の多さでは、威張れるんじゃなかろうか。
それ故、使ってる脳みその部分が他国とは違うんだろうな。
日本人の独特な考え方は、言葉に起因することもあるかもなー、なんて事を彼らを見ながらぼーっと考えたりもするのでした。
◆ 2001/05/03(木) おしっこ
変な話だが、子どものお尻やおチンチンを、じーっくりと見ることができるのは、おむつをしている間だけだった。
自分で便器に座ることができるようになると、とたんに観察する機会が減る。今でもウチでは、お尻を拭くのは親の役目だが、それでもじっくり見る暇なんて無い。

なんでそんなにじっくり見たいかというと、赤く腫れてないかとか、かゆがっていないかとか、結構赤ちゃんの時にはよーく見ていたので、その名残だと思うよ。
お風呂に入ったときに、気にしてちゃんと洗うようにしない限り、手が届かない場所だから、汚れが取れなくてすぐ赤くなっているかも知れない。
お風呂では、よーく洗うようにはしている。

オシッコの出方も、二人とも男の子だから、つい比べてしまう。
一郎くんは、まっすぐにシーッと出る。
二郎くんは、シャワーみたいにシャーッとでる。

いやいや、だからどうと言う訳じゃないけど、オシッコの出方も人それぞれなんだなあと、息子を持って初めて気が付いたというだけです。ちょっと彼らにとって恥ずかしい話題でした。
◆ 2001/05/02(水) 世の中GW
世の中は連休中かな。通勤電車の中も、いつもより空いてるようだ。
保育園も、子どもの数が少ない。みなさんお出かけしてるのね。

保育園は基本的に年中無休。盆暮れ正月だけがお休みだから、保育士さんたちはタイヘンだあ。交代で休暇を取って、運営しているのでしょう。
こっちは予定を聞かれないから、子どもの数が多かろうが少なかろうがいつでも同じ数の保育士をそろえているのだろうか。それとも、今日来てみたら子どもの数が少ないから、私は帰ろうっと、なーんて言ってるのかな?私が保育士だったら、そうなりそうだけど。

保育園に通っている子どもたちにも、GWなんて感覚はまだ無いだろうから別世界のようです。
子どもたちはいつでも、きゃーきゃー騒いで、これまた年中無休。これが仕事なのだから仕方ないけれど、仕事ならばたまには休みなさいよ、って言いたくなったりもする。
◆ 2001/05/01(火) ハハの性格
どうも私は、自分以外の動物(人とか犬とかも)と一緒に生活することに向いていない様だ。
結婚もしたし子どもも産んだし、それらの「家族」と一緒に生活はしている。でも、どうも向いていない感が否めない。
誰かに頼ることも頼られることも苦手のようだ。
そりゃあ誰かに頼ったりできて、誰かに頼られたりするのは、悪い気はしない。
でも、ただそれだけ。ずーっとそれが続くとなると、嫌になる。
かといって、一人だけで生きていけるかというと、そうでもないらしい。
いや、もすこし若いときにはそうだったが、いまはどうだろう。一人でも生きていけるかも知れない。でもそれは、今が一人じゃないから思うこと。実際に一人だと、今以上に変な人間になる事請け合い。

他人を観察して感情を深読みすることは結構好きかも知れない。
自分の性格と今まで付き合う際、今日の自分の様子を観察し深読みし続けてきたから、かもしれない。ずっと自分とそうやって付きあってきたような気がする。だから、他人はどうかな、と思うのだろう。

でもでも、他人の感情を読んだからと言って、その感情に付き合うかどうかは、その他人との関係にもよる。
また、自分の感情を読んでも、だからどうだという対処はできない。
家族は自分と近しい存在だから、自分に対する対処の仕方と近づいてきているように思う。
だから、他人にはそれなりに優しく、家族にはそれほど優しくなく対処しているかも知れない。

なんだか書いてても訳が分からないし、子育てとは全く関係のない話かしら。
こんな人と結構長く付き合ってくれてるダンナには、ホント、頭が下がる。ありがとうね。
そして私のお子さまたち。キミたちはこれから私のこんな複雑さ加減が理解できるようになるかな?ん?

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