三浦半島の地勢学的特長
長い氷河期後の温暖化で、ユーラシア大陸の東端の日本列島は海面上昇により大陸から離れ(洪積世の後半)、洪積世末期、
相続いた大地殻変動の最後の頃に東京湾や相模湾が陥没して三浦半島が成立する。箱根や古富士の火山活動が活発な時期であり、
それらの降灰物が積もって関東ローム層を形成し、三浦層群と呼ばれる第三紀の基盤層の上にも厚く堆積している。このローム層
の堆積が終わろうとする寸前の頃、横須賀の地域にも人が住みつくようになった。約1万年以上前の旧石器時代のことである。*
無土器時代の石器が佐島一本松で出土しているがそれはこの旧石器時代のことである。
土器を始めて使用したのは新石器時代からで、その前半が縄文時代であり夏島貝塚から多くの夏島式土器が出土している。
(約西暦前7000年頃)
やがて、稲作が平作川や平潟湾を含む一帯を中心に行なわれるようになり、三浦半島でも西暦前300年の頃には弥生時代を迎える。
日本最古の歴史的記述書である古事記や日本書紀に三浦半島の走水渡海の神話的物語が残されているのは、西暦5世紀ごろから
始まった大和朝廷による統一国家への歩みの一環であったろう、日本武尊東征の折のことである。走水神社には昌子内親王の筆
になる「さねさしさがむのおぬにもゆる火のほなかに立ちてとひしきみはも」と日本武尊の妃の弟橘比売の辞世の刻まれた歌碑
もある。13世紀に成立した鎌倉幕府を支えた三浦一族の本拠は衣笠城であった。1603年の江戸幕府誕生から幕末までは
江戸方面への水運管理の役所としての浦賀奉行があり、また房総半島との中継地としても機能したが、鎌倉時代以来の多くの
仏教寺院や金沢文庫などの宗教的文化的中心以外は総じて寒村であり、小さな漁村であった。
幕末には横浜港が開港し造船所創設の企画の一環としての横須賀製鉄所が実現(1864年)し、明治維新(1868年)後は
新政府は造船所建設を引継ぎ横須賀海軍工廠がおかれて、人口は急増し、2013年現在93.5万人(内訳は、 横須賀市
41.3万人、横浜市金沢区20.5万人、鎌倉市17.4万人、逗子市5.9万人、三浦市4.1万人、葉山町3.3万人
平成21年5月現在)である。三浦半島の面積は227平方キロメートルである。
三浦半島は全体的に標高のあまり高くない丘陵性で、東西南の三方は東京湾、相模湾、浦賀水道に囲まれ、半島の北限は江ノ島
の対岸の藤沢市片瀬から横浜市南部の円海山北麓を結ぶ線である。半島最高部の大楠山丘陵(大楠山、241.2m)、
および武山〜三浦富士(浅間山)丘陵(武山201.7m)、円海山(153m)がある。これらの高地や、金沢自然公園、
能見台森、函崎半島や、夏島、猿島、観音崎、天神島、その他社寺林などに自然植生としての極盛相の名残が見られる。
本地域の自然植生を構成している樹種は、スダジイータブ林であって、海岸地方によく発達したいわゆる海岸型常緑広葉樹林
である。この林相にまじって生えている植物には、アカガシ、カゴノキ、ケヤキ、マテバシイ、ヤブツバキ、ヒサカキ、
アオキ、ヤビニッケイ、ヒメユズリハ、モチノキ、ヤブコウジ、テイカカズラ、イタビカズラ、キズタなどがある。
しかし、三浦半島の大部分はいわゆる代償植生であって、人間の影響下に生育している植物群落である。代償植生は2次林で
あっていわゆる雑木林がほとんどである。その代表的なものは、こならークヌギ林である。この林相は、こなら、クヌギが
主要構成要素の樹種であるが、これにまじって、クリ、ガマズミ、エゴノキ、ウシコロシ、オオシマザクラ、ヤマザクラなどが
生えていていずれも落葉樹である。三浦半島の最南端は三浦市城ヶ島安房崎北緯 35度 7分44秒であり、城ヶ島は海岸庭園
として整備されていてガクアジサイの大集落がみられる。
*:図録横須賀の文化財 横須賀文化財協会 (昭和47年2月26日発行)
pp1〜 ― 横須賀の史跡 高橋恭一 ―
pp9〜14 ― 横須賀の埋蔵文化財 小山義治 ―
pp21〜22 ― 横須賀の天然記念物 大谷茂 ―