進化論が科学でないとはこれいかに?
これは科学ではない
そういう時、私たちは科学を定義している。
だが
その定義、それ自体の妥当性は検証されたのだろうか?
ミラ:進化論は科学ではないか、、、また、きたわねえ。
わらし:そうかあ? 簡単に証明できるぞ。
ミラ:そう?
わらし:科学とは物理学のことである、進化理論は生物学に含まれるものである。ゆえに科学ではない。
ミラ:お前、ぶっとばすぞ。
わらし:でも矛盾はねーだぞ。
ミラ:科学とは物理学、化学、生物学のことである。進化理論は生物学に含まれるものである。ゆえに科学である。これだって矛盾はねーだろうがよ。
わらし:ちっ。
ミラ:ちっ、じゃねーよ。
わらし:ではこうしよう。科学とは仮説を実験で検証するものである。進化は過去に起きたことである。ゆえに実験できない。ゆえに科学ではない。はい、証明終わり。
ミラ:そんな馬鹿な。
わらし:進化理論は歴史科学である。ゆえに科学ではない。そう主張する人間はいくらでもいるだよ。ぞろぞろいるからには、そんな馬鹿な、ではないな。実験できないものは科学にあらず!!
ミラ:むむむむ・・・・
わらし:実験こそは科学の花だ。さあ、これを否定することも、捨てることもできまい。
ミラ:ぬぬぬぬぬぬううううう・・・・・・・
わらし:うむ、勝利はかくのごとく簡単であった。さて、お茶をしながら饅頭でも・・・
ミラ:待った!! 実験できないと科学じゃないのよね?
わらし:そういう設定であるな。
ミラ:設定かよ!!
わらし:設定だよ。定義ってそんなもんだろ? 優しいことしか取り柄がないこのオレがなぜかモテモテ!! というありえない設定と同じくらい、すごく確実に設定だ。
ミラ:なんだその定義? まあ、いいわ。聞きなさい。実験できないのが非科学ならば、天文学は科学じゃないのよ。
わらし:そうかあ? 惑星の運行を予測した後、天体が実際にそう動くか確かめれば仮説を検証できるでねーか。
ミラ:それは実験じゃない!! 観測だー!!
わらし:ちっ、気づきやがったか。
ミラ:地質学も科学じゃないわ。実際に地層を作って見せた人なんかいないわ。山脈を隆起で作った人だっていないじゃない。全部、観測で確かめているだけよ。
わらし:まあそうなんだよな。人間が再現したりコピーしたりできないでっかいもの、複雑なもの、そもそも中身がどうなっているのか完全には分からないもの、数が多すぎるもの、時間がかかるもの、すでに起こったもの、そういうものは事実上、どれも実験不可能なんだよなあ。
ミラ:ほら見なさい。
わらし:だが、だからといっておかしなことではない。困りもしない。天文学は科学ではない。地質学は科学ではない。宇宙論や素粒子物理も科学ではない。
ミラ:そんなばかな
わらし:少なくとも再現するには人類には作り出せないエネルギーの使用を不可欠とする理論はもう科学ではない。原理上、実験ができないだろ?
ミラ:むむむむむっ
わらし:進化理論同様、これらも非科学である。はい、めでたしめでたし。
ミラ:いや・・・それ、おかしくないか?
わらし:おかしなことではない。少なくとも矛盾はないぞ。
ミラ:だからさ、それは最初にそう定義したからだろ? 定義は定義自身を正当化しないぞ。何の正当化だよ。
わらし:うんだな。つまりこうだ。定義したからこうなのだ、そういっても意味があるわけではない。というか普通に無意味なんだよ。矛盾はないけどね。
ミラ:最初にそう設定して組み上げたからよね、それ。
わらし:だから矛盾はないのだな。
ミラ:矛盾はないけどさあ。それは”この小説に設定と構成の矛盾はない”と言っているのと同じよね。
わらし:そーだなー。矛盾がないのはいいが現実を語っているわけでもない。あーこりゃこりゃ。
ミラ:安心したわ。
わらし:安心するのは早いな。天文学も地質学も進化理論も、否、素粒子物理も宇宙論でさえもある領域では実験不可能である。
ミラ:そりゃあそうだけどさ。
わらし:科学とは実験するものだ。そう考える人は多い。だとすると多くの人はこれらの学問や理論に疑いを持つだろう。本当に科学なのかと。というか持たなきゃおかしい。
ミラ:むう。どうしたものかしら。
わらし:受け入れたら?
ミラ:死ね。
わらし:やれやれ。ここで見方を変えてみよう。実験できる=科学。実験できない=非科学だという基準がある。これを信じる彼は、この基準によって学問を科学/非科学に一刀両断しようと試みる。
ミラ:はあ・・・
わらし:では問題。この試みにどんな意味があるだろう?
ミラ:意味?
わらし:あるいはこう。科学をこのように定義することでどんな利益が得られますかね?
ミラ:???
わらし:仮説Aは実験できない。定義に基づいて非科学にしちゃいます。それはいいとしよう。
ミラ:はあ、いいことにしちゃうんですか?
わらし:してしまうだ。取りあえずな。定義上、仮説Aは非科学にはなりましたのですよ。
ミラ:はいはい、それで?
わらし:では問題。非科学であるとしたのはいいのだが、そのことによって仮説Aが正しいかどうか、それを確かめること。それもまた不可能になったのだろうか?
ミラ:あー、いや、その、それは場合によりけりじゃないの? 仮説Aが天体の運行に関することだったら、例えば万有引力だったら観測すれば分かるわ。惑星や衛星が動く様子を見ればいいのよ。
わらし:実際、万有引力の妥当性はそれで確認されたよな。
ミラ:そうね。
わらし:次。あまりに巨大なエネルギーが必要で実験不可能な仮説Aがある。しかし高エネルギーの宇宙線が地球の大気と衝突することで仮説Aが予想する粒子Xが観測されるとする。仮説Aを確かめるにはどうすればよいか?
ミラ:そりゃあ粒子Xが出来るかどうか観測すればいいじゃない。
わらし:次、過去の出来事なので実験不可能な進化理論に基づく仮説Aがある。この理論に従うとある生物は次のような分布パターンXを示す。さて、これを確かめるにはどうすればよい?
ミラ:そりゃあ、その分布パターンを示すかどうか確認すればいいじゃない。
わらし:このように予測を観測することで妥当性を確認することができる仮説があるとする。まあ、実際にあるんだがな。
ミラ:あるわね。それで?
わらし:先の定義によって仮説の妥当性の検証は不可能になりましたか?
ミラ:なってませんね。
わらし:では、この場合における、非科学の定義は仮説の妥当性と関係ありますか?
ミラ:ありませんね。
わらし:あなたはどうするね? 定義をとる? それとも実益?
ミラ:実益です。
わらし:なぜに?
ミラ:そっちの方が分かることが多いでしょうが。
わらし:つまりこうなるな。実験できない=非科学である。これはあまり役に立つ考えではない。分かることも分からなくなるからな。
ミラ:そうね
わらし:そしてこうも言える。実験できない=非科学である。これは”仮説の妥当性が分かること”それ自体とはなんの関係もない。
ミラ:そうねえ、この定義に合致しようがしなかろうが、分かることは分かるわねえ。
わらし:つまり現実について大したことは語っていない。
ミラ:そうね、語っていないわね。
わらし:だから意味はない。実験できるものだけが科学である。これは無視してよろしい。
ミラ:そうねえ・・・・
わらし:うん? どうした?
ミラ:いや、分かることが多い方がいいんだけど、それが科学でいいのかなあ、、、と、いまちょっと心理的な不安が・・・・。
わらし:科学という言葉にもっと保証が欲しいわけかね?
ミラ:まあ、そう言う感じかしら。
わらし:科学という言葉それ自体にはなんの保証もないぞ。
ミラ:うーーん、確かに。科学は宗教ではないわけだし。
わらし:UFOは科学である。そういってもそれでUFOがエイリアンクラフトになるわけではない。
ミラ:なるわけではないわね。
わらし:科学は魔法の言葉ではない。
ミラ:科学は魔法の言葉ではないわね。
わらし:だが、それは当たり前の不安でもあるな。ミラちゃんの不安はつまりこうだ。科学という言葉の持つ妥当性とは、保証とはなんだろう。
ミラ:そうねえ、どうすればいいのかしら。
わらし:科学という言葉を保証するには、それ自体の妥当性を確認すればいい。。科学とは○○だ。この定義を仮説Aとする。科学とは△△だ。この定義を仮説Bとする。
ミラ:えーっと?
わらし:この2つの仮説、AとBのどちらが妥当か?
ミラ:科学の定義、それ自体の妥当性を検証するわけ?
わらし:そういうこっちゃ。定義それ自体では何も言えないのだからそうする他、識別できまいよ。
ミラ:なるほど。妥当性を検証すれば、その定義で結果的に何が保証されているか分かるわね。それで?
わらし:どうやって検証したらいい?
ミラ:あー、その、なんだ。それこそ実験するとか?
わらし:その手があるな。ではどういう実験結果が出たら肯定的と見なすべきかな?
ミラ:うーーーんんんん。成果が出るとか? 論文が書けるとか。
わらし:論文の成果とやらはどこで判断するべきかね?
ミラ:そうねえ、学術誌に載るかどうか、あるいは個人1人あたりの掲載された数とかかしら。
わらし:そうだな。こんなジョークがあるのは知っているか? 彼氏が和文雑誌に載ってた。別れたい。
ミラ:うっ、怖いわねえ。掲載された雑誌で論文が評価されること。日本国内だけでなく、世界中の人間と勝負できる英文雑誌の方がポイント高いことを露骨に示している冗談だわね。
わらし:掲載されること、そして掲載誌のポイント。他にも他の科学者からどれだけ評価されるかとか、引用されたかとか、そういうこともあるな。いずれにせよ、科学者はこのように評価される。
ミラ:そうみたいね。
わらし:では問題。実験できないものは科学にあらず。このような定義は実験によってどう評価されるだろうか?
ミラ:ううううーーん。困ったわね。
わらし:なぜ?
ミラ:実験してないので分かりません。
わらし:どうすっぺや?
ミラ:いや、どーすんだい。
わらし:実験以外の方法論で検証した場合はどうかね?
ミラ:その方法論においてなら検証可能ね・・・えーっとちょっと待ってね、そうね、その定義は評価できないと思います。
わらし:なぜに?
ミラ:えーっとですねえ、手持ちのnatureとかscienceを読んだら実験以外の方法論を用いた論文が掲載されていましたのでね。
わらし:つまり観察によって検証され、そして否定的な結果を得たと。
ミラ:少なくとも科学雑誌では実験以外の方法論に基づく検証が載っているので。”実験できないものは科学にあらず”という定義には否定的な結論を出さざるをえないわ。
わらし:つまりこの定義は現実と照らし合わせて肯定的でもないし、整合的でもない。
ミラ:整合的でも肯定的でもないわね。
わらし:つまり”実験できないものは科学にあらず”これは単独では意味がない。しかも現実的ではない。採用する必然性はない。この定義は何も保証してくれない。
ミラ:そうねえ。
わらし:反対に言えばだ。”実験でも観測でも検証できれば実用的だし、それは科学でいいんじゃね?”という定義はどうだろう。
ミラ:まあ実際の科学のあり方と整合的だわね。
わらし:そして肯定的である。つまりこう。実験でも観測でも検証できれば実用的だし、それは科学でいいんじゃねーの。
ミラ:それは保証になる?
わらし:こうした方法論がこれまで上げた成果を保証として担保しよう。お前さんはこの担保にどのくらい出資するかね?
ミラ:ふむ。それなりに出資するかな。
わらし:なら、それでオッケー。保証とは現実の裏付けがあって、始めて意味と価値を成すものだ。
ミラ:まあそういうことになるか。でもー、”実験できないものは非科学なり”派の人はこういう論証に納得するかしら?
わらし:しないんじゃない? そもそも実験していないわけだし。
ミラ:うーーーん、確かに。理屈の上では納得しないわよね。
わらし:納得しないだろうな。というか、納得しちゃ駄目だな。理屈に合わん。
ミラ:まあ、そうなるわね。あれ? 仮にそうだとすると、実験できないものは非科学であるという定義。これ自身もまた実験した後でないと彼らは採用できないことになるわよねえ?
わらし:結論としてはそういうことになるだろうなあ。
ミラ:実験した人はいるのかしら?
わらし:さーてね。
ミラ:歴史的に見てそこんところどうなのかしら?
わらし:歴史的にも否定的だな。だが歴史科学は科学にあらずと言った以上、彼らは歴史を無視するだろう。
ミラ:観測も無視することになるのかな?
わらし:理屈の上ではそうなるだな。学術誌や論文のあり方を観測して科学のあり方を検証しようとはしないだろうな。
ミラ:そうねえ、自動的にしないことになるわねえ。
わらし:それは現実の無視だとも言えるな。だからこそ現実と整合しないそういった信念を持ち続けてきたとも言える。
ミラ:むう、でもさ、おかしくない?
わらし:なにが?
ミラ:実験できないものは非科学なり。そう言った場合、その人が観測することや歴史科学を否定するのは、まあ当然ではあるわよね?
わらし:まあそうだな。
ミラ:でも、実験で実証されたわけでもないのに、実験できなければ非科学なりとどうして言えたわけ?
わらし:さあ?
*進化理論は科学ではない、なぜなら実験できないからである、このような主張に意味はない。その内容は保証されておらず、現実に関して特に何かを語っているわけではない。そしてこうした定義の性質上、この定義を採用した人は”実験以外の検証方法でも役に立ち、それもまた科学と呼ばれている”という現実を、およそ無視し続けるだろう。
というか、そうでないとおかしい。彼は経験的なデータで物事を検証することを拒否したのだから。
では問題。
実験は科学という営みに包含される行為であるのは確かだ。少なくとも経験的にはそうであると言える。だが、実験だけが科学全体を包含するのだろうか? そして実験科学だけが科学であるという定義の妥当性はどのように論証すればいいのだろう?
←ダーウィンの論証の過程をなんとなく知りたい人はこちらのコンテンツを
*注:以上のコンテンツは2009.02.22の時点で未完成