ニネヴェ図書館の科学史漫画その6 天動説 前編

なぜ星占いは発達し、天動説は地動説に勝利したか?

 紀元150年頃。ローマ帝国統治下のギリシャ人、プトレマイオスは三角関数を完成させた。その目的は天体観測であり、天体観測の目的とは星占いであった。星占いは古代メソポタミアで始まる。例えば前7世紀、アッシリア帝国最盛期を作り上げた人物、ニネヴェ図書館の建設者であるアッシュルバニパル王も配下の天文学者たちと星と運勢に関する手紙をやり取りして、書き残した。しかし、この時代の星占いは、その日の星空と惑星の配置を見て占うもの。つまり、他の文化圏である中国や日本の天体観測と変わらない。だが、アッシリア帝国滅亡後のどこかの時点で、占星術は未来と過去を占うものに変貌する。占いの手がかりとなる太陽、月、惑星の動きはある程度予想できる。予測できるのであれば未来を占うことが可能であった。あるいは過去に遡って出生時の天体配置を逆算し、誕生時に定まった運勢を占うこともできる。

 こうして未来と過去を占えるという思想が成立すると、占いに必要な緻密な天体観測が発達する。星占いはギリシャ、ローマに伝わり、こうして西方世界の天文学は緻密な性格を持つようになった。反対に、こうした占いが出現しなかった中国や日本のような東方世界では、厳密な天体観測や惑星の運行測定は行われなかったし、観測と計算に必要な幾何学や算術も発達しなかった。

 さて、精密な未来予測には精密な観測が必要となる。しかるに三角関数を使えば、直角定規のような道具を使って惑星の運行を角度変化として計測できる。だからプトレマイオスは三角関数を完成させた。しかしこれではまだ十分ではない。天体の運行は規則正しく見えて、実は複雑であった。こうした不規則な運行を正しく説明できるモデルがなければ運行計算など不可能で、占星術もまた不可能。もっとも単純に見える太陽でさえも、冬至、春分、夏至、秋分の間隔が違っている。つまり太陽はその運行速度を変化させるのだった。これを説明するために使われたのが離心円である。あるいは火星は逆行を行う。これを説明するために周転円が使われた。さらにプトレマイオスはここにエカントを導入し、天体の運行を説明し、計算するモデル作成に成功したのであった。

 さて、プトレマイオスは地球が静止していて、天が回転運動を行う天動説で計算モデルを作り上げた。現代人は地球が動くことを知っているので、プトレマイオスの天動説を頭からバカにする。さらに、間違っているのだから天動説は精度が低いに違いないと勘違いする。しかし実のところ天動説と地動説は回転軸が反転しているだけで数学的には同じものであった。だから天動説と地動説。両者の計算精度はどちらも同じなのである。

 さて、実のところ地動説と天動説は誕生がほぼ同時であり、いわば鏡合わせになった双子のような存在であった。プトレマイオスも地動説は知っていた。

 ではなぜ天動説が採用されたのか? それは地動説に致命的な欠点があったためである。地球が動いているという観測事実もなければ、地球が動くことで生じるだろう様々な問題。地動説論者はそれを解決できなかった。精度は同じでも問題山積み。そんな地動説に手を出す人間は、当たり前だが少数派にとどまった。要するに地動説は劣った理論であったために採用されなかったのである。

 

 

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 星占いは天体を観察する動機を与え、天文学を発達させた。これはよく言われる俗説であるし、このHPでも基本、この見解を採用している。しかしこの俗説を否定する意見もあるし、確かにそうと思われる節もある。メソポタミアから星占いが伝わってきたローマ帝国で当時書き残された文献(マニリウスによる「アストロノミカ」紀元後9〜15年頃)。それには、星座を十二等分して、そのどこに惑星がいるかで占え、という指示が書き残されているそうだ(ドーデカテーモリオンのこと。「西洋占星術の歴史」恒星社厚生閣 pp55)。これを聞いた時、眉をしかめる人も多いであろう。十二等分とは簡単なようでいて、実は無理難題であるから。なぜかというに十二等分とは要するに、ある角度を持つ星座を三等分して、それを二回等分せよ、ということに他ならない。そして角の三等分とは古代ギリシャで課題となった数学上の難題であった。なるほど、三角関数が手元にあれば、角度の三分割も星座の十二等分も容易であろう。しかしこの占星術書が書かれたのはプトレマイオス以前であり、つまりは三角関数も分度器も存在しないし、使えないのである。

 しかるに占星術書はそんな難題をさらっと前提していて、しかしそれ以上の指示を書いていない。これは星占い師が厳密な観測に無関心であり、無頓着であったことを示すように思われる。だとしたら占星術が天文学に緻密な観測をうながしたという俗説は、やはり嘘に違いない。

その一方で三角関数を完成させるほどの数学者であるプトレマイオスは、そもそも星占いのために三角関数を編み出した。そして彼は星占いのために周転円、離心円、エカント。この三つを組み込んだ運行の計算モデルを作り上げ、彼自身が星占いの古典「テトラビブロス」を書き上げたのであった。

 このことからすると星占いが西方世界の天文学発達を促進したのは本当でもあり、そして嘘でもあるのだろう。要するに星占い師には数学のできる星占い師と数学のできない星占い師がいる。数学のできる星占い師は天文学の発展に寄与した。反対に数学ができない星占い師は天文学に寄与しない、単なるイカサマ師にとどまった。そういうことらしい。実際、星占いの歴史を読むと、星が地上に影響を与えることは明白であり、それを調べるのが天文学者の使命である。しかるにこうした”科学的事実”を無視して占星術を単なる占いや詐欺に使う山師が山ほどいると言う批判が幾度も出てくるのであった。

 星占いは天文学に寄与し、そして寄与しなかった。時代が進むにつれて数学のできる星占い師は星占い要素を失って天文学者となり、数学のできない星占い師はそれまで通り、山師のまま現在まで存続した。そういうことに思われる。

 

 意外かもしれないが、天動説と地動説はほぼ同時に誕生した。ただ、最初の地動説はかなり奇妙なものであった。ピタゴラス教団のピロラオスは中心火の周りを地球が公転すると考えた(哲学者列伝 8巻 85)。地動説は人気のない理論だったので、断片的な伝承しか残っていないが、ピロラオスの考えは宇宙の中心に神聖なる火があり、その周りを地球が公転する。そしてそのさらに外側を月や太陽が回るというものであったことがうかがえる。地球が1日に1回公転すると、それは1回自転することと同じであり、それゆえ太陽と月が東から上り、西に沈む。つまり公転で自転を説明するものであった。アリストテレスは著作「天体論」 第2巻、第13章で、こうした考えは理論的すぎると否定的に評価している。どうもピロラオスはこの世で神聖なものは火であるから、宇宙の中心には火があるべきで、だから地球を神聖なる火の周囲で公転させる理論を考案したらしい。ちなみにこのアイデアだとギリシャの反対に位置する日本などは天空にずっと中心火が止まり続け、永久に明るく、そして太陽と月が運行する暑い場所になっているのだろう。ピロラオスの生没年などの直接資料は残っていない。しかし、プラトンはソクラテスが死んでからピロラオスのもとへいった、という哲学者列伝の記述(3巻 6)などから考えると、ピロラオスはソクラテスとほぼ同時代の人で、前440年頃の人物であった。

 かようにピタゴラス教団が地動説を考案する一方で、天動説も形を取り始めた。プラトン(前428〜348年)は著作「ティマイオス」の中で、宇宙は球体で回転しており、地球が宇宙の中心にある天動説を紹介している。この天動説はソクラテスの客であるティマイオスが語る形式で紹介されているが、天体に関して博識なる、このティマイオスなる人物、他の文献で存在が確認できないそうである。ティマイオスはプラトンの創作であり、ティマイオスの天動説もプラトンの創作なのかもしれない。そしてこの天動説は少し奇妙で、地球が軸の周りを旋回する、という記述がある。これゆえ、地球の自転を述べた最古の文章のひとつと紹介する人もいるが、どうもこれ、回転する宇宙の中で地球だけが回転しないために、回転軸に対して地球が回転するという意味と思われる。つまり、地球は回転していない。「ティマイオス」は静止した地球の周りで宇宙が回転することを語った、初期の天動説文献となる。

 なお、哲学者列伝を読むとプラトンがピタゴラス教団の教えをぱくった疑惑が書き残されている。「ティマイオス」に書かれた宇宙創生の記述は(ピタゴラス教団が夢中になった)数論に基づいており、これがその部分かもしれない。その一方で、地球が軸を旋回するという表現が、単なる文章的なものなのか、あるいはピタゴラス教団の地動説の影響をなんとなく残したものであるのか、少し心にひっかかる部分でもある。

 さて、天動説を語り始めたプラトンに続き、彼の学生であったアリストテレス(前384〜322年)は天動説をより整備した。彼はプラトンの「ティマイオス」にあったピタゴラス教団的な部分などを大部分削ぎ落とし、天動説体系を整えたのであった。アリストテレスはそれまでの宗教色が強い天動説を即物的にしたと言えば良いか。現代では批判が多いアリストテレスだが(事実、彼の理論はほとんど全部間違いであったのだが)、彼が理論から宗教色を削ぎ落としたおかげで、後世の人はだいぶ楽になったように思われる。そういう視点でアリストテレスの業績は解釈されるべきだろう。ただし、アリストテレスの時点では、天動説はいまだに惑星や太陽、月の複雑な運行を説明できるものではなかった。観測も理論も十分ではなかったこともわかる(ちなみにこの時点では星占いはギリシャに定着していない)。

 このように天動説がじょじょに整備される一方で、ピタゴラス教団では地動説がさらに前進した。ピタゴラス教団の一員であるヒケタス(イケタス Icetas)は地球が自転すると考えたと伝えられる(キケロの「アカデミカ」 II xxxix 123)。ヒケタスも生没年の直接資料がないが、キケロが「テオフラストスがヒケタスはこういった」と書き残していること、哲学者列伝ではテオフラストスがアリストテレスの後に学園を引き継いだ(5巻 37)と書いてあることからすると、ヒケタスはテオフラトスよりすこし前の人であり、つまりはアリストテレスとほぼ同時代の人(前4世紀前半〜中頃)らしいことがうかがえる。

 さて、地動説はこの時点では自転のみであったが、さらに進んだのが前3世紀のアリスタルコスだった。彼の著作は月と地球、太陽の距離とその比を求めるもののみが残っている。しかし、アルキメデスはおよそ次のように書き残した。地球が太陽を回ると考えたアリスタルコスは宇宙が極端に大きいと想定しましたが...、この記述から、アリスタルコスが地球の公転を組み込んだ地動説を唱えていたことがわかる(「砂粒を算えるもの」 5)。

 地球が自転すると1日1回起きる天体の回転が説明できる。地球が公転すると、惑星の逆行も説明できるようになる。

 文書が散逸して失われ、アリスタルコスが地動説でそこまで説明したのかはわからない。しかし、公転運動がそういうことを説明しうるものである以上、アリスタルコスによる公転の導入に、惑星の運行を解決する意図があったと考えるのは自然だろう。

 地動説の公転導入に対し、天動説では離心円、周転円の導入があった。プトレマイオスが「アルマゲスト」に書き残したことからすると、前3世紀のアポロニオスがそれを行っているし、(12巻 第1章)引き続くヒッパルコス(前2世紀)も離心円、周転円で運行を説明した(和訳だと第4巻 第10章 Heiberg 版だと11章)。

 離心円、周転円は天動説視点で見た時の惑星運行を説明するためのもの。つまり公転を導入したアリスタルコスの地動説とほぼ同時期に、離心円、周転円を組み込んだ精度の高い天動説もまた成立したことがうかがえる。

 このように天動説と地動説は時を同じくして成立した。精度の追求と達成もほとんど同じように思われる。しかし地動説はそれが引き起こす物理的困難を解決できず、少数派にとどまった。だから価値が少ないものとして文献が散逸してしまい、その詳細がわからないものとなった。一方、天動説は紀元後の2世紀。プトレマイオスが離心円、周転円に加え、エカントを導入することで、その精度を可能な限り引き揚げることに成功する。以後、プトレマイオスの天動説は、長く指導的な理論としての役割を果たすこととなった。

 

 参考文献

 アルマゲスト 恒星社

 ギリシア数学史 T.L.ヒース 共立出版

 ギリシア哲学者列伝

 アリストテレス全集4 天体論 生成消滅論 岩波書店

 プラトン全集12 ティマイオス クリティアス 岩波書店

 西洋占星術の歴史 「A History of Western Astrology」 S.J.Tester 恒星社厚生閣

 世界の名著 9 ギリシアの科学 砂粒を算えるもの アルキメデス

 

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