これがいわゆる循環論法

 

 ちょっと整理します。心霊現象の代表として心霊写真を使って考えてみましょう。

 1)この人がこの写真は心霊写真であると判定した

 2)この写真に心霊が写っていることが分かるこの人は霊能力者である

 3)霊能力者であるこの人が”心霊が写っている”と言っているこの写真は心霊写真である

 4)この心霊写真に写っている心霊を見破れるこの人は霊能力者である

 以下、1に戻ってくり返し。

 

 これはあまりよくない考え方です。ようするに文章1を根拠にして文章2は正しいと言っているのですが、最初の文章1の正しさの根拠がそもそも文章2それ自体なのです(文章3と4は1と2の焼き直し)。これでは話がぐるぐるまわり続けるだけで正しさについて実はなにも語っていません。

 

 以上の論法を言い換えるとこんな感じになるでしょう。

 

 1)この仕立て屋は愚か者には見えない洋服を仕立てると言っている

 2)愚か者には見えない洋服を仕立てるこの仕立て屋は魔法の仕立て屋である

 3)魔法の仕立て屋なのだから見えない洋服を仕立てられる

 4)見えない洋服を仕立てられるこの仕立て屋は魔法の仕立て屋である

 

 分かるでしょうか?。裸の王様に出てきた仕立て屋の主張は、その正しさがどこからやってきたのか分からないのです。これはいけません。

 ここで思い出してください。裸の王様では、なぜ魔法の仕立て屋(自称)の言っていることのおかしさがバレてしまったのでしょうか。それは子供が身もふたもないことを言ってしまったからです。”王様は裸だあ〜〜〜、”と。

 もちろん子供が愚か者であるから、王様の服が見えなかったのかもしれません。仕立て屋の言っていることが本当で、王様どころか国民全員が馬鹿だったのかもしれません。もっともこの仮定はあまり最節約であるとは思えませんが・・・。(それに愚か者の基準とは何なのでしょうね?)

 このように、王様、大臣をはじめ、国民全員が”愚か者には見えない服”を見ることができないという事実は、仕立て屋がうそをついている証拠には直接なりません(国民全員が馬鹿かもしれない)。ですが!!、仕立て屋が本当のことを言っている証拠にも、またならないのです。

 

 同じように、霊能力者の主張はそれだけでは、ある現象が心霊(人間の魂、あるいはそれに類似したもの)の仕業かどうか、それを判断する基準にはなりえないのです。あるものが心霊かどうか、さらに霊能力者の能力が本物かを判定するためには、別の基準や計測が必要でしょう。言ってみれば”愚か者には見えない服を着た王様”を見て、王様は裸だ〜〜〜!!と叫んだ子供のような、別の証拠と基準が必要なのです。

 

 

 そもそも、心霊とはなんなのだ?

 ところで心霊現象とはなんなのでしょう。私たちがそういう言葉を使うということは、その言葉が指し示す”何か”、つまりカテゴリーがあるはずです。それは実体がない、単なる概念であることもあります。例えば、多くの人はラブロマンスとかSFとか、ミステリーという言葉を使います。これらは”小説のジャンル”というものですが、少なくとも小説のジャンルに実体はありません。

 

 では心霊とはどんなカテゴリー、どんなジャンルなのでしょうか?。北村には分かりません。ただ、夜道に白い服を着た女の人が立っていて、ふと見ると彼女が消えていたら、幽霊とか心霊と呼ばれることが多いようです。

 おもしろいことに、ハワイでは夜中、白い服を着たペレの女神がヒッチハイクするのだそうです。彼女を車に乗せてあげないと、次回の噴火の時、家が溶岩で焼かれてしまうのだそうな(タクシーに乗っけたら途中で消えたとか、そんなレベルではないのです!!)。聞いただけなので噂としても事実なのかどうか、それは知りませんが、同じ白い服を着た女性でも地域によっては、幽霊ではなく、神様になるのかもしれません。

     

 

 このように、私たちが”心霊””幽霊”と呼ぶ事例をまとめていけば、何か私たちが心霊という言葉に対して持つイメージがはっきりしていくでしょう。これは例えば”速い”という言葉が何を指し示すかを調べるのと同じようなものです。

 

 ”速い”という言葉は不思議な言葉です。何が何に対して速いのか、あるいは”どのくらいの速さ”になったら速いのか?。たくさんの人にアンケートをとったら、皆が抱く”速い”がどんなものなのか分かるかも知れません。

 同じことが心霊についても言えそうです。たくさんの人にアンケートをとってみると、皆が何に対して心霊というラベルを貼るのか、それが分かるかもしれません。ですが、それで分かるのは、皆が持っている心霊という言葉の概念だけです。もちろん心霊の正体までは分かりません。私たちは、そもそも正体も分からないし概念さえも不明瞭なのに、霊とか心とか、意味ありげな名前を”何か”につけてしまったのかも知れません。

 

 これはよく考えてみれば非常に奇妙なことではないでしょうか?。

 私たちは心霊が実在するかどうかを知らず、その心霊なる概念が何なのかを知らず、しかしそれにもかかわらず多くの人は心霊や幽霊の存在を確信しているのです。

 心霊あるいは幽霊というラベルを貼るべき相手がよく分からないのは、単にちゃんと調べた人がいないか、あるいは少なかったからなのでしょう。なぜかというと、どうも経験からすると、多くの人が抱く心霊や幽霊のイメージはおおよそ一致するからです。

 ですから世間一般的に、心霊に関する何らかの了解、あるいは共通の認識とでも呼べそうなものがあるのではないでしょうか。さもなければ漠然とした恐怖を感じているように思えます。これはますます奇妙なことです。

 皆が見ることもできず、実在を確認したこともないのに、なぜ私たちは同じような概念を抱き、霊が実在すると確信しているのでしょうか?。

 もしかして心霊が実在するのだが、私たちはそれを普段、見ることも聞くことも、感じることもできない。しかし、それにもかかわらず私たちは心霊が”存在する”ことを知ってしまっているのでしょうか?。

 それとも私たちは”ある同じ恐怖”を共有するようになっていて、見ることも聞くこともできないのに”あるもの”が存在すると感じ、さらにはありもしないものを見たり聞いたりできるようになっているのでしょうか?。

 

 最初の話にもどれば李季さんはどうすればよいのでしょうか。少なくとも分かっていることは、

”私は何か見てしまった”

ということです。これは李季さんに限った話ではありません。非常に多くの人がなにやら得体の知れないものを見て、それを心霊とか幻覚とか、あるいは神とか妖怪とか、あるいは宇宙人とか妖精と呼んでいます。

 それらの正体が何かは実際のところ分かりません。そもそも今、上にあげた”呼び名”すなわちラベルがいかなる基準を持ち、いかなるカテゴリーで、いかなる存在なのかすら良く分かりません(幻覚や宇宙人の定義はあるでしょうが、ここでは取り上げません)。

 

 ですが確実なことがあります。それは李季さんのように、

”何だか知らないが、私が何か見たという体験は事実だ”

ということではないでしょうか。もちろん、”目撃した!!”という発言は、”何か分からないがとにかく何か見た!!”ということとイコールではありません。

 なぜなら、そんな目撃例にはウソもあるでしょうし、見た経験が無いのに本人が見たと思い込んでいるだけ、ということもあるはずだからです。しかし、さすがに世の中のすべての体験談がそんなものではないでしょう。ですからくり返しになりますが、確実に分かることは次ぎのようなこと、

 ”何だか知らないが、私は何か見たのだ”

これだけが確実なことなのです。

 

 まとめ

 心霊のなんたるかや心霊能力の有無の議論はそれらだけではどうにもなりません。何かより深いことを知りたかったら、単純に心霊と呼ばれる事例を集めて調べればいいのです。何ごともそうですが、標本や資料がなくてはどうにもなりません。まずはそこから始めるべきなのでしょう。前の例え話で北村は李季さんに証拠集めをさせました。李季さんと同じことを私たちもすればよいのです。

 実際、率直に体験談を集めているサイトがありますので、そんな話を見たい方は次ぎをクリックしてください。真世さんのサイト、Real 本当にあった怖い?話。へ飛びます。

 

 

 それにしても私たちは変なものを見た時には、素直にビビっていればいいのではないでしょうか?。第一、正体を解明できるほど資料が集まっているわけではないのですから・・・。(心理学の世界には別の見解があります:おいおい取り上げていきますが、一般向けには、例えば『怪談の科学 幽霊はなぜ現れる』中村希明 S.63 講談社 ブルーバックス B736 があります。この本ではそうした見解を見ることができるばかりか、かなりホラーな話を知ることもできます)

 そういうわけで、証明が難しい霊能力者のもっともらしい講釈に感心する必要はありません。私達はとりあえず恐怖を見つめるか、あるいは恐怖をひそかに語ればよいのではないでしょうか?。

 

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