バビロニア数学
Babylonian mathematics あるいはメソポタミアの数学
バビロニア数学、あるいはメソポタミアの数学とは、古代イラクの数学のことです。古代イラクは文明発祥の地であり、数学発祥の地でもあります。つまり世界最古の数学です。メソポタミアの数学は紀元前18世紀に最盛期を迎え、2の平方根や円周率などを初め、様々な数値を知り、さらには三平方の定理も知っていました。これらを使って生活や軍事、行政に必要な面積や体積を計算しています。
また60倍ごとに桁が上がる60進法を使ったことが特徴です。これは巨大な数字を扱うことができるもので、現代のアラビア数字にも似た優れた表記方法を持っていました。バビロニアの数学は古代ギリシャの数学に影響を与えており、現代数学のルーツでもあります。しかし長い時代の中で衰退し、紀元前後には忘れ去られてしまいました。現代でも時間や角度の表記には60進法が使われますが、これはメソポタミア数学の数少ない名残です。
バビロニアとは?
バビロニアとは古代メソポタミアにあった国の名前で、都市バビロンを都とする国家です。バビロン市は、神マルドゥクをいただく宗教都市で、最初は都市国家として始まりました。後にはメソポタミア南部を象徴する都として、様々な民族がこの都に入城して王朝を築き、メソポタミアを統治しました。バビロニアとはバビロン市を都とする国家を意味することもありますし、バビロン市があるメソポタミア南部一帯を示す言葉としても使われます。
メソポタミアとは?
メソポタミアはチグリス・ユーフラテス川周辺の土地を指す言葉で、現在のイラクに該当します。もともとメソポタミアという言葉はギリシャ語で、μεσο-ποταμιοσ メソポタミオス すなわち川の間、という意味です。現在では古代イラクを指し示す言葉として用いられます。そしてこのメソポタミアで発達した数学がバビロニア数学です。メソポタミア数学と呼んでも良いでしょう。ただ、メソポタミアの数学は古代バビロニア帝国時代(紀元前18世紀頃)に発達、最盛期を迎え、それ以後は停滞、衰退。紀元前後に消滅しました。このためバビロニア数学と呼ばれることが多いようです。その一方で、バビロニア帝国以後の数学文書もバビロニア数学の本で紹介されていたりします。
古代バビロニア帝国とは?
メソポタミアでは、紀元前3500年ごろに都市が出現しました。世界最古の文明誕生です。その後、有力都市がいくつも現れ、覇を競う時代が続きました。有力都市のひとつがバビロン市です。これはもともとシュメール語でカ・ディンギル・ラ(ka.dingir.ra)と呼ばれていました。意味は”神のための門”。後に有力となったセム系の人々は神の門を自分たちの言葉に訳してバブイラニ(bab-ilani)と呼びました。これがさらにギリシャ語に入ってβαβλων。すなわちバビローンになります。これが英語に入ってバビロンです。都市バビロンは長い歴史の中で何度かメソポタミアの覇権を握りました。最初の覇権は紀元前18世紀、有名なハムラビ王によって達成されました。これが古代バビロニア帝国です。メソポタミアの数学はこの時代、最盛期を迎えます。
60進法
メソポタミアの数学は60進法です。メソポタミアの人々は楔形文字を使いました。文字だけでなく、数学の記号もまた楔(くさび)です。楔が1本で数字の1を、2本だと数字の2を示します。そうして楔が増えていって、10になるとひらがなの”く”のよう記号になります。この”く”が2つになると20となります。”く”が5つになると50。そして”く”が5つと縦の楔が9個並ぶと59です。そして次の60で再び楔1つに戻ります。
位取りの概念があるメソポタミアの数学
日本の漢数字は一、二、三・・・九、十、十一・・・九十八、九十九、百、となる。これだと一、十、百、と桁が上がるごとに別の記号を使わなくてはいけない。
アラビア数字だと1、2、3...9、10、11...99、100となる。アラビア数字は桁が上がると元の1に戻る。だから0と1から9までの記号を知っていればどんな大きな桁でも表記できる。このためアラビア数字には十や百を示す記号はありません。
メソポタミアの数字もアラビア数字と同じ性質を持っています。ただし60進法なので1、2、3、...59まで来てから記号は1に戻ります。それと0がありません。もしアラビア数字に0がなかったら9の次は1になり、99の次もまた1になるでしょう。メソポタミアの数字も59の次は1、3599の次は1となります
ちなみに、”メソポタミアの数字も59の次は1、3599の次は1”と言われて面食らう人もいるでしょう。この奇妙さもメソポタミアの数字が60進法だから。例えばアラビア数字は10進法なので1、10,100、1000と桁が増えるごとに10倍になります。しかしメソポタミアの数字は60進法なので、桁が上がるごとに60倍になります。つまり1、60、3600、216000
2の平方根と三平方の定理
この性質を考えると次の粘土板の意味が分かります。メソポタミアの人々は粘土の板に文字を書き、記録を残し、計算をしました。紀元前18世紀頃の粘土板 YBC 7289 には正方形の図と共に次のような数字が書かれていました。それは
1・24・51・10
これは一体何か? メソポタミアの数字は一桁ごとに60倍違う。つまりこれは
1
24/60=0.4
51/3600=0.0141666
10/216000=0.0000462
のことです。合計すると1.414213 つまり2の平方根です。以上の粘土板は正方形の辺に2の平方根を掛けて対角線の長さを出すという内容でした。
他にも三平方の定理を用いて計算をした粘土板など、メソポタミアからは様々な数学文書が出土しています。
古代メソポタミアの歴史概要
紀元前5000年から紀元前3500年 メソポタミア南部に人が定住するウバイド文化期 粘土製品トークンとブッラが現れる
紀元前3500年から紀元前3100年 都市文明が成立するウルク文化期
紀元前3200年頃 都市ウルクで、おそらくはトークンとブッラから古拙文字が作られ、使用される
紀元前2900年から紀元前2335年 シュメール人たちによる初期王朝時代 シュメール語による楔形文字
キシュ市のエンメバラゲシ(前2600年頃?)、ウルク市のギルガメッシュ(前2600年頃?)、ラガシュ市のウルカナギ(前2340年頃?)、ウンマ市のルガルザゲシ(2350年頃?)などなど。聞いたことあるけど誰が誰でしたっけ?な群雄割拠
紀元前2350年頃? セム語族アッカド人のサルゴンがウンマ市のルガルザゲシを撃破。覇権を握る。都は新都アッカド。アッカド帝国
紀元前2200年頃 サルゴンの孫ナラムシンの覇権。戦勝記念碑のナラムシンはおそらく合成弓を持つ。グティ人の侵入。アッカド帝国が解体へと向かう
紀元前2120年頃 ウルク市のウトヘガルがグティ人を撃破。覇権を握り、ウル第3王朝となる。これがシュメール人最後の王朝
紀元前2004年頃 エラム人の侵入でウル第3王朝が滅亡
以後はセム語族の人々(アラビア語系の言葉をしゃべる人々)が活躍する時代
アッシュール市、イシン市、バビロン市、マリ市、ラルサ市が覇権をめぐって争う。イシン・ラルサ時代
紀元前1764〜紀元前1750年頃 バビロン市がハムラビ王の元で覇権を握る。古バビロニア帝国 この頃メソポタミアの数学が最盛期
紀元前1595年 トルコのヒッタイト(インド・ヨーロッパ語族)がバビロンを劫掠する。古バビロニア帝国の滅亡
その後、カッシート人がバビロン市に入城 カッシート人によるバビロン王朝が建つ
紀元前1500年頃 インド・ヨーロッパ語族の人々がメソポタミア北部に侵入。ミタンニ王国を建てる。アッシュール市はその影響下
紀元前15世紀から13世紀 トルコのヒッタイト、メソポタミア北部のミタンニ、南部のバビロン、そしてエジプトによる同盟や争いの時代
紀元前1340年頃 ヒッタイトがミタンニを撃破。アッシュール市(アッシリア)が復権する。バビロン市との覇権争い
紀元前12世紀初頭 おそらくは海の民の侵入によってヒッタイトが滅亡
紀元前1160年から50年 東方よりエラム人の王シュトルクナフンテがメソポタミアへ侵寇。バビロン市を含め各都市を劫掠。ナラムシンの戦勝記念碑やハムラビ法典を都市スーサに持ち帰る。カッシート人のバビロニア王朝が滅亡
紀元前727年から紀元前633年頃 アッシリアが全メソポタミアを支配する アッシリア帝国
紀元前612年 バビロン市の知事ナボポラッサルが反乱を起こして、アッシリアの首都ニネヴェを陥落させる。新バビロニア帝国
トルコのリュディア王国、イランのメディア王国、メソポタミアの新バビロニア、そしてエジプトの四国が分立する
紀元前550年 アケメネス家のキュロス2世がメディアを滅ぼす。アケメネス朝ペルシャの始まり
紀元前550年頃? ギリシャ人ピタゴラスがバビロンを訪れる?
紀元前539年 キュロス2世によってバビロン陥落。新バビロニア帝国の滅亡
これ以後はインド・ヨーロッパ語族の人々(ペルシャ人やギリシャ人)が活躍する
紀元前334年 アレクサンドロスがアケメネス朝ペルシャに対して戦争を始める。
紀元前331年 ガウガメラの戦いでアレクサンドロスがペルシャを打ち破る
紀元前323年 アレクサンドロス バビロン市で死去
紀元前312年から紀元前63年 アレクサンドロスの部下であったセレウコスが建てた王朝、セレウコス朝がメソポタミアを支配する。首都は新都セレウキアとなりバビロン市は衰退。メソポタミアの数学も忘れ去られる