ササン朝ペルシャの成立
B.C.226
イラン・イラク・アフガニスタン・タジキスタン・インド(ガンジスまで)
背景:イランとメソポタミアの支配者
セレウコス王朝
紀元前331年、ギリシャの王国、マケドニアのアレクサンダー大王によってササン朝ペルシャは滅ぼされ、さらに大王の死後、彼の征服地は将軍たちによって分割させられました。そしてイラン・メソポタミア(現在のイラク)・シリアはセレウコス王朝の支配圏となりました。
パルティア王国
セレウコス王朝では、やがて王朝の領土であったイラン北東部、パルティア州で反乱が起き、パルティア王国が成立します(紀元前247年頃)。しばらく後になってパルティア王国は、セレウコス王朝に代わってイランとメソポタミアを支配する大国へと成長します。しかし王国は貴族の権力が大きくなるにつれて分裂状態となり、国王の権力は弱まっていきました。
ササン朝の始まり
紀元212年頃、イランのファールス地方からササン朝が勃興します。ファールス地方はすでに5世紀以上も昔に滅びたアケメネス朝の発祥地で、そこの神殿の司祭、ササンの息子であるパパクが王を称しました。やがてパパクが死に、さらにその後継者である息子シュプールが事故で死ぬと、パパクの(別の)息子であるアルダシール1世が即位します。
彼は226年、パルティアの都、クテシフォンを攻め落とし、パルティア国王アルタバノス5世を戦場で破り(227年ごろ?(デベボイス
93 pp206 ))、パルティアを滅ぼしました。ササン王朝の領土はその次のシャプール1世の時代にさらに拡大していきます。
イラストの説明
手前の人物はアルダシール1世です。このイラストでは、彼は城塞冠(つまり私たちが冠と聞いて連想する典型的な冠)をかぶっています。
彼は浮き彫りなどではボールのような飾り(?)のついた冠をかぶっています。ただしアケメネス朝のダレイオスやアルダシールの息子であるシャープール1世などは城塞冠をかぶっています。
後方の地図上に描かれているのは、緑がササン朝ペルシャ、その国土の中で白い点で示されているのは都クテシフォンです。黄色はローマ帝国、後に(330年以後)首都となるビザンティン(現在のコンスタンティノープル)が白い点で示されています。
王の後ろにいるのはササン朝の重装騎兵です。これと似た重装備の騎兵はこれより後の時代の中国やローマ帝国においても見ることができます(デベボイス
93. キーガン 97 pp321 )。アルダシール1世とその後継者が使った重装騎兵と、ササン朝の君主が戦ったローマ帝国の状況は以下で簡単に説明します。
ササン朝の軍隊
ササン朝の軍隊については文献が手元にないので、以下の事柄を参考にしました。
まず、ササン朝以前、パルティア王国の軍隊は歩兵と騎兵から成り立っていました。歩兵については資料が手元にありませんが、騎兵については合成弓を使う身軽な軽騎兵と、金属片を鱗状に縫い付けた鎧で馬も乗り手も身体を覆い、長い槍を使って戦う重装騎兵がいたことが分かっています(デベボイス
93 pp68 :画像はこの文献の表紙に載っています)。
ササン朝、アルダシール1世の戦場での姿は彼の戦勝を記念したレリーフで見ることができます(フィルザバードの騎馬戦闘図)。これを見る限りではアルダシール1世は人馬ともに鎧(馬は装飾が描かれた布のようにも見えますが・・)で覆われているようです。とりあえずこうした浮き彫りやパルティアの武装を参考にして、重装騎兵を描きました。
なお、デベボイスの著作には
”(パルティアの騎兵が使ったような)鱗状の鎧は最初イランで発達し、急速に東に広まって中国に伝わった(デベボイス 93
pp68 )”
とあります。少なくとも五胡十六国時代や南北朝時代といった3〜6世紀頃の中国には、このような人馬ともに鱗状の鎧で覆うという装備が見られます(時代は下りますが、隋の統一、唐の成立、唐の滅亡、宋の建国のカードを参考)。
少なくともササン朝よりも以前、パルティアの騎兵は弓を持った騎兵が敵の側面を攻撃し、重装騎兵が正面に立ちふさがったらしきことがうかがえます(デベボイス
93 pp70 )。
ササン朝の軍隊の参考として:パルティアの軍隊の戦闘隊形のひとつの例
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軽騎兵 軽騎兵 重装騎兵 重装騎兵 重装騎兵 軽騎兵 軽騎兵
ローマがまだ共和制であったときの戦闘の記述からするとパルティアはこのように戦っているように思えます。とはいえ、パルティア軍は歩兵が出払っているという状況だったので、これがパルティア、ましてやササン朝の軍隊の本来の戦闘隊形なのかはいささか不安が残ります。
またパルティア軽騎兵は退却するように見せ掛けて、振り向きざまに弓を射るという射撃を行ないました。同じ射撃がササン朝でもあったことが有名な帝王獅子狩り文銀製皿(馬に乗ったペルシャの王がライオンを射殺す図柄が打ち出されている)を見るとわかります。ササン朝の軍隊もこのように戦ったのでしょうか?。資料を集めるのが今後の課題です。