アレクサンダー大王東征

B.C.334

マケドニア・ギリシャ・イラン・インド

 アレキサンダーはギリシャ人の王国、マケドニア王国の国王です。父親のフィリッポス2世が紀元前336年に暗殺されたために20才の若さで王位につきました。イラストの手前にいる人物がそれで、ナポリ考古学博物館が所蔵する有名なポンペイのモザイクを参考にして描いています。

 大王は天才的な軍人でギリシャの諸都市を征服し、ペルシャ領内に侵入してペルシャ軍を破り(紀元前334年のグラニコスの戦い)以後、ペルシャと戦い続けることになりました。そして最終的に紀元前331年、”ガウガメラの戦い”でアケメネス朝の皇帝ダレイオス3世を敗北させ、事実上、アケメネス朝を滅ぼし、ペルシャを征服することになります。ちなみにダレイオス3世は戦場からは脱出できたものの、翌年の紀元前330年にペルシャ貴族によって殺されました。

 イラストに描かれている地図は、濃い紫の部分が、フィリッポス2世時代のマケドニア王国の領土。薄い紫がアレクサンダーが征服した地域を示しています。大王はダレイオス3世を破った後、さらに東へ進み、インダス川を渡ってインドにまで攻め込みました。

 大王が率いたマケドニアの軍隊はギリシャとペルシャの軍隊の特徴を合わせ持ったものと考えられています(フェリル 1998 )。まず、マケドニア王国は他のギリシャの国々と違って、もともと騎兵隊が軍隊の主力で2.7mの長さがある槍を使って戦いました。イラスト中、大王の後ろに描かれているのがそれで、彼らが用いる槍の両端にはそれぞれ穂先がついています。

 マケドニアの軍隊で特徴的なのがマケドニア密集軍と呼ばれるものでした。騎兵隊の後ろに描かれているのがそれで、彼らは普通のギリシャの装甲歩兵よりも重装備で、4mあまりの長い矛(ほこ)で武装しており、横列16人×縦列16人の方陣(シンタグマ)をつくり、ひとつの部隊を形成して戦いました。

 戦闘隊形になったマケドニア軍は単純化すると以下のような配置で戦闘を行なったようです。

                               
                               ↑
                              (突撃)
                                 
  騎兵隊 マケドニア密集軍 マケドニア密集軍 重装備歩兵 騎兵隊
                              騎兵隊
 
  左翼←    (この戦列の幅は2km 以上ある)     →右翼


 現在は火器の破壊力がおおきいために、軍隊は散開して戦うそうですが、昔はこのように密集して列になって戦うのが普通でした。なお、このような軍隊の配置はペルシャ軍もほとんど同じだったと考えられています(フェリル 1998 pp294)。

 アレクサンダー大王は紀元前323年、33才の時に熱病で死にました。アレクサンダー大王の征服地は大王の将軍たちによって分割させられ、幾つかの王国に分裂することになります。それらの王国の中で有名なのはエジプトを支配したプトレマイオス朝でしょう。この王朝の最後の君主は外交によって国を存続させようと1人奮戦したクレオパトラでした(青柳 1992 pp92 )。

 

 

背景説明

 古代ギリシャには、ひとつの都市(ポリスと呼ばれます)が周囲の比較的狭い地域を支配する、”都市国家”と呼ばれる小さな国が数多くありました。有名なポリスにはスパルタやアテナイ(アテネと言う方が通りが良いかも知れません)があり、いずれもギリシャの中では有力な国で、複数の都市国家とそれぞれ同盟を結んでいました。

 一方、エーゲ海をはさんだ対岸(現在のトルコ)はアケメネス朝ペルシャ帝国の勢力下にありました。アケメネス朝の発祥地は現在のイランの南西部の小さな地域、ファールス地方(ペルシャという呼び名はこれに由来する)ですが、3代目の皇帝ダレイオス1世の時代(在位:紀元前522〜486年)には、支配地域は現在のエジプトからシリア・イラク、さらにはウズベク、アフガニスタン、パキスタンにあたる地域にまで及ぶ大帝国になりました。(その版図はオリエント統一のカードを参考のこと)

 ギリシャ諸都市とペルシャはしばしば対立して、ギリシャを征服しようとペルシャが攻め込んだり(ペルシャ戦争のカードを参考)、あるいはギリシャを間接的に支配しようとペルシャがスパルタとアテナイの対立に介入したりするということが起きました(ペロポネソス戦争のカードを参考)。

 

 ギリシャとペルシャの軍隊

 最初、ギリシャとペルシャの武装はまったく違っていました。ギリシャ諸都市の戦力は、丸い盾と青銅製の兜、鎧、すねあてなどで全身を覆った重装備の歩兵が戦力の中心でした。市民から構成されるこれらの兵士は、装甲歩兵(ホプロン)と呼ばれていて、2m前後の長さがある槍で武装し、密集方陣を作って激しい白兵戦をおこなったのです。

 密集方陣というのは、例えば横列12人×縦列8人(+4人の士官)の計100名で方形に並んだ陣形のこと(文献:フェリル 1988 。ペロポネソス戦争のカードに密集方陣を作るギリシャの装甲歩兵の様子を描いてある)をいいます。

 一方、ペルシャの主力は騎兵と軽い鎧を身につけた歩兵だったと考えられています。騎兵は弓と投げ槍で武装し(オリエント統一カードを参考)、歩兵は軽い盾と槍、短剣、弓で武装していました(ペルシャ戦争のカードを参考)。また、帝国が多民族で構成されているので、色々と異なる装備をした兵士がいました。