2:次々に新説が出て、定説がない

 この発言はさまざまな人から何度も、あらゆるメディアでくり返されてきました。類似した具体例を上げてみましょう。

 

 ”鳥の進化には議論がある。肉食恐竜から進化したという仮説と樹上生活をする小さな爬虫類から進化したという説だ。いま、科学者の間には百家争鳴の議論が展開されている”

 

 これは仮説の確からしさを確かめてみないままに、2つの主張を同じ価値を持つものとして取り扱ってしまっている例です。ですが、2つの仮説の確からしさはまるで違います。

 

 系統を推定すると、鳥と私達が呼ぶものが肉食恐竜であることが分かります。この仮説は非常に堅い仮説で、万有引力と同じぐらいには堅い仮説ではないでしょうか?(<おっと〜〜大胆な表現だ)。

 しかし、鳥がいわゆる肉食恐竜ではない、そういう仮説は根拠がほとんどないか、皆無です。根拠があると思う人はよ〜〜く考えてみて下さい。それは十分な根拠ですか?。例えば鳥は樹の上から飛び下りることで進化したに違いない、こんな根拠ではダメですよ(なんでダメか考えてみよう)。

 

     

 

 こうした誤解には正直いって食傷ぎみなのですが、考えてみましょう。

 これは単純にいうと、次々に提案される仮説の妥当性を彼が検討していない、ということを示しています。なぜなら、仮に彼が仮説をひとつひとつ検討したのなら、

 

 ”私は論文を読んだ。仮説Aは以下の根拠でかなり確からしい。仮説Bは用いたデーターが虫食い状態で、はたしてこの状態がどういう影響を結果に及ぼしたのかを考えると疑問が残る。仮説Cは仮定が大胆すぎる・・・・”

 

 とまあ、こういう風に確からしさの判断を下せる、あるいは比較できるはずです。実際、確からしいと判断された仮説がメインな仮説、いわば定説と呼ばれるものになります。アインシュタインの相対性理論は彼が権威があったから認められたのでしょうか?。違いますよね。彼の理論が受け入れられたのは、実験などで彼の理論/仮説の確からしさが確認されたからです。

 

 ”定説がない”という考え方は仮説それぞれの妥当性を検討していないし、またすべての仮説の価値を同じものと見なしていることになります。これは科学を理解していないということです。

 なぜか?。もし、すべての仮説が全部同じくらい確かである、そうした哲学に科学が基づいているのなら、実験や観察などによって検証をする必要はありません。

 

 また、それよりなにより、すべての仮説が同じくらい確かだという考え方は、はなはだまずいと思いませんか?。つまり安全装置なしの墜落とバンジージャンプが安全面では同じくらい確かだ、と言っていることになる。私にはそうは思えないのですけどね(^^;)。

 ようするに科学はすべての仮説が同じであるなどとは考えません。

 聞いた仮説をすべて鵜のみにして、さらには定説がないなどと考えるのは科学な態度でもありませんし、日常私達が行っている行動でもありません。あなたは腐ったものでも新鮮な果物でも同じだと思って呑み込みますか?。

 

 ここで、19世紀末から20世紀初頭に活躍した数学者ポアンカレの言葉を引用しましょう。

 科学の理論がどんなに寿命の短いものかを知って、世の人々は驚いた。何年か栄えては、次々に放棄されるのを人々は見ている。壊滅の上に壊滅が積み重ねられているのを見ている。今日流行の理論も間もなく打ち倒されるめぐり合わせになるはずだと予見し、そのことから理論は絶対的に空であると結論する。これがいわゆる科学の破産である。

 この人々の懐疑主義は皮相的である。この人々は科学の理論の目的およびその役割を少しも理解していない。そうでないならば、この壊滅がなお何かの役に立つことがあると理解するはずである。

 「科学と仮説 ポアンカレ 岩波文庫 青294 pp190」

 これは物理学の話ですが、系統学や分岐学においても同様です。例えば恐竜の系統仮説もただ仮説が提案されるだけではなく、以前の研究を踏まえて、さらにグレードアップ、あるいは比較検討されるものです。同じことは魚類でも、植物においても言えます。

 いや、科学全般に言えることなのです。

 

     

 

 恐竜に関して具体的に知りたい人は以下へどうぞ^^)

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