記事タイトル:むむむ? 


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お名前: 北村@   
 
 この書き込みは上の書き込み、逆転しないかもしれない歴史の続きです。どーも北村自身の
書き込みを見ていると混乱的なので・・・・。

 望月さんも北村本人も演繹して得た結論(<仮説)を実験/観測で確認する、あるいは
最初の仮定を確認するという話をしているわけで、別に考え方に相違がそれほどあるとは
思えない。

 つまるところ、”演繹があらゆる系で成り立つ”と聞くと、北村は”演繹で得た結論は正しい”
というように聞き取ってしまう、というとこを問題にしていたのでしょうか?。ようするに
北村の独り相撲?????。

 ちなみに、演繹が成り立つっていうのは私達が現実を観察して得た仮説なんでしょうね(多分、
そうではなかろうかと北村は思っているのですが・・・)。<この考え方が妥当なのか
どうなのかはこれから検討しないと。

 結局、北村は”演繹すれば実験など不必要である”と問題発言をした人と出会ったことが
あるので、過剰に勘違いしているということなんでしょうかねえ。どーなんでしょう??。

 望月さんは実験を否定していないし、北村も演繹を否定していないわけですから・・・。
 
[2003/05/06 20:52:51]

お名前: 北村@   
 ようするに対立点などないのではなかろーか?、ってことですね。もっともこれは
望月さんがすでに書いているようなことなんですが・・。
[2003/05/06 21:00:54]

お名前: 北村@   
 ぶっちゃけ、数学の演繹と物理学の演繹って同じなんですかねえ?。物理学は観測に
基づいた事柄から話(?)を展開するけど、数学はどうでしょう。数学では自然に観察できない
あるいはしなかった完全に架空の仮定から始めても成り立ちそうですが??。

 ↑うわ〜〜〜、北村の理解の混乱ここに極まれり?^^;)だいたい同じってなんですかい?。
まあ、相違点があった場合、それがどの程度、結論や影響に違いが生じるのかを見たいって
ことなんですけどね・・・。


 Aに基づいて演繹して得た予想が実験によって否定された場合、Aは間違いでありうる
 この考え方は演繹に基づいているのではないかい?、と言われたのですが・・・。
そうなんでしょうねえ、北村には少なくともそう思える(<より正確にいうと、そう言われたことが
正しいと思える)。

 望月さんが言ったことが、演繹という方法で考えることを色々な場面で使う、という
意味だとすると、それは↑以上のようなことを言っていることになる。つまり、Aという
観測に基づいて検証するべき仮説をどう探してくるか(<導き出すか)、それに演繹という
方法を用いるとする。そうして得られた仮説が実験なり、観測なりで検証されなかった
場合、それには原因がある。つまり、

 AであるならBである。にもかかわらずBが観察されなかったならば、Aは誤りである

 というのは演繹を前提にした考え方ですね。<このこと自体は望月さんがいっている。

 ただ、もし望月さんの言っていることが、演繹で得られた仮説があらゆる系で成り立つと
した場合、それは奇妙な考え方であるように思える(<もっともそんなこと望月さんが
言っているわけではない。やはり北村の勘違いか!!!?^^;)。

 そういうことなんでしょうか?。

 ところで、Aであることから演繹した仮説が確認できなかった場合、Aが誤りでありうる、
それはいいのだけれども、観察からもれていた事例Bの影響が実は効いていた、それで
仮説が現実とは違っていた(<だから実験でも観測でも確認できない)・・・、ということがありうる。

 そう北村は前に書いているけど、Aという事柄にBの要素が抜けていた、というのは
Aが正確ではなかった、つまりAが間違っていた、と考えることができる。すると
Aが正しいが別の要素Bが抜けていたので仮説が間違っていた、というのはAが間違っていたの
単なる北村による言い換えになるってことでしょうか?。

 さて?。


 
[2003/05/07 03:27:14]

お名前: MOCHIZUKI Sunao    URL
毎度お返事が遅くなって申し訳ありません。
消化するのになかなか時間がかかるもので…

> ようするに対立点などないのではなかろーか?

多分、あまり無いかと思います。
私の発言に色々と不足部分や突っ込みどころが満載なのを北村さんにご指摘いただいている、という感じですかね。
自分で言うのもなんですが、私の発言は最初の投稿を除けばかなり言い訳じみてます。

> 数学の演繹と物理学の演繹って同じなんですかねえ?

数学は自然科学ではないと言われますよね。
数学は決して自然現象から予想されることを公理・公準にしているのではないです。
「平行線が交わりうる」ことを公準にした非ユークリッド空間なんてまさにそれです。
演繹、というか帰納を含めた論理そのものさえも適当に定義し公理にしています。
一方、自然科学の法則はあくまでも予想(経験則)であり、仮説です。
ニュートンの万有引力の法則などがいい例でしょう。
反例が無いから認められているだけで、つまり反例があればその法則は破れてもいい。

その自然科学に数学を持ち込んでいるのは、実のところ数学の論理を借用している
というのが正確な表現ではないかと思っています。
自然を記述して仮説を立てても、論理が曖昧では話が一向に進まないので、
論理を厳密に(しかし勝手に)定義してしまう必要があると思うのです。
これが私が今まで「演繹は全ての系で正しい」と書いてきた理由です。
> Aに基づいて演繹して得た予想が実験によって否定された場合、Aは間違いでありうる
> この考え方は演繹に基づいているのではないかい?
という表現は、まさに私の言いたいことを表しています

と、以上のように勝手に解釈してしまったところ、
「勝手な出発点と勝手な論理で成り立っている数学と疑似科学はどこが違うのか」
という問題にぶちあたって思考が頓挫しているところです…
[2003/05/11 16:24:08]

お名前: 北村@   
 望月さん>まあ、対立点はないように思えますが、北村がそう思えるってことが
どれだけ妥当なのか?、それはまだ検討中ってとこでしょうか?^^)。現在、幾つかの
科学哲学の本を読んでいるので、まあ、そのうちになんらかの答え(<最終的な答えではないにしても)
だせると思います。

 数学と疑似科学>ああ、多くの疑似科学は全体(あるいは体系)に矛盾がありそうですね。
その点、神学なんかはどうなんでしょう?。あるいはデカルトは、我思う、ゆえに我あり
って事柄をまあ、なんだ、数学の定理のように、あるいは平行線は交わらない、という
事柄のように扱ってそこから神が実在することや世界のさまざまな事柄を導き出した
(演繹したらしい)ようですが、彼の体系には矛盾や問題(<あるとしたらどのような問題か?)
があったんでしょうか?。

 おおっ、デカルトの「哲学原理」岩波文庫 ちゃんと読まなくては!!。

 とはいえ、少なくとも一般的に疑似科学、と呼ばれているしろものはもっと稚拙なものでしょうねえ〜〜〜。

 演繹がすべての系で正しい>まあ、色々な系で成り立つと仮定して議論をすすめましょうか^^)、
って考えた方が具体的な作業としては正確であるか、あるいは現実であるか、あるいはよさげに
思えるのですよね、北村には。

 まあ、単純に考えると北村がこの言葉に妙にくってかかるのは前にも書きましたが、
科学が好き、とか、疑似科学が嫌い!!とか言っている人が、演繹で導かれた仮説が
すべからく数学のように正しい/成り立つ、と考えているケースをウンザリするくらい
見てきたからんでしょうね。つまり、表現としてちょっとナイーブであるか単純すぎる
ように感じるってわけです。
 
 ともあれ、科学哲学の歴史では演繹や帰納など、仮説を発見する手段をめぐって
どういう議論がなされたのか?、それを調べるのは面白そうです>今、読んでいるのは
「科学哲学の歴史」科学的認識とは何か ジョン・P・ロゼ 紀伊国屋書店 1974 。

 そういえばゲーデル、エッシャー、バッハ 白揚社も読まなくては・・・、ずーと昔に
買ってまだ読んでいない^^;)
[2003/05/11 17:43:33]

お名前: 北村@   
 いま、思い付いたのですが・・・・、

 演繹はあらゆる系でなりたつ

 この言葉は系と言っているので、まあ、色々な現象が起こっている時、そこでは演繹な
事柄が起こっているって考えているってことですよね。


 でも、議論したり仮説を考える時に使う演繹って、それは仮説を探し出す方法論であって
実際に議論している現象のことではない。

 演繹によって現象を説明できる仮説を探すという人間の動作と、実際の現象は別のもの。


 だから、

 演繹があらゆる系で成り立つと聞いて、それを

 演繹という方法が有効であると仮定して現象を説明できる仮説を演繹によって探す

 と受け取るのか、あるいは、

 実際の現象は演繹な(<なんか変な表現・・・)ものである

 と聞き取るかでかなり違いがありそうです。


 先の文章を、現実は演繹であると解釈すると、実験は必要ないですわなあ〜〜〜、だって演繹すれば結果が分かるのだから。現代を知ればすべからく未来も分かる(不確定な要素がないとした場合?)

 逆に、演繹という方法論が通用すると仮定した、そう先の文章を受け取るのなら実験はしなければ
いけない。


 
[2003/05/11 18:28:10]

お名前: MOCHIZUKI Sunao    URL
先の投稿の続きを考えている間に早くも投稿が(^^;

> 議論したり仮説を考える時に使う演繹って、それは仮説を探し出す方法論であって
> 実際に議論している現象のことではない。

はっ、ミスはそこにありましたか。読み返してみれば
> 物理法則は演繹的にあらゆる系で成立することになっています (05/01) 
> 演繹があらゆる系で成立する (05/05)
てな感じで、非常に不適切な言い換えですね。
つまり、自然の因果関係は、生物であってもそれを構成するのは分子やらなにやらだから、
例えば分子進化の話で確率論が用いられたり、そもそも化学反応って物理法則に支配されているものだから、
結局のところ、いかに生物といえど、それは所詮恐ろしく複雑ではあるものの物理的な系でしかなかろうと。
ここまではともかく、問題なのはその物理法則は数学的に記述できるものであって、
数学の論理展開、というか式変形って演繹の典型だよな。
というトンデモナイ論理の飛躍あっての表現だったかと。
我ながらお恥ずかしい。

> 数学と疑似科学>ああ、多くの疑似科学は全体(あるいは体系)に矛盾がありそうですね。

えぇ、おそらく勝手な定義やらに内部矛盾があるかが決め手なのだと予想しています。
[2003/05/11 19:31:06]

お名前: 北村@   
 望月さん>はっ、ミスはそこにありましたか>う〜〜〜〜ん、どうなんでしょう?。
ミスなのか、そうでないのか?。例えば北村のうがった見方でしかなかったのか、
望月さんの哲学のある部分が北村のと食い違いを起こしているのか、起こしているとして
それがどう問題になるのか???。どうも北村にはまだ全体の感じというか、自分の感じる
違和感(<北村の違和感がはたして間違っているのか妥当なのか?そもそもなにに対して
違和感を感じているのか?)の正体が掴みきれないのですよね^^;)


 物理法則は数学的に記述できる>う〜〜〜ん、自然界の現象の一部を数学で示してみせた、
ということは確かに言えそうなのですが、自然界に数字や数学が隠れているのか、それとも
数学は色々なものを”表現”できるのかどっちなんでしょうねえ???。


 う〜〜〜ん、考えてみれば0と1ですべての数字をあらわすことも色々な事柄を表現
することもできるようですけど・・・・、それをもって世界が0と1でできている、と
みなして、世界のすべての背景には陰と陽が存在する。ゆえに世界は究極的には陰子と
陽子(<僕らが物理学であつかう陽子ではない・・・・)でなりたっている、と考える
こともできるんでしょうねえ・・・。

 ピタゴラス学派って古代ギリシャの人たちは数が世界を構成していると考えたみたいで
(「科学の歴史 (上)」岩波書店 昭和30年 pp3 <この本は古本ででしかないのかな???)
数学が世界の背景にあるのか、それとも数学はかなり色々な事柄を(近似であろうがなんであろうが)
表現できるだけなのか?。どっちなんでしょうね?。


 トンデモナイ論理の飛躍あっての>う〜〜〜〜ん、どうなんでしょう?。飛躍があったのか、
それとも混乱しているのは北村なのか??。どうなんでしょうねえ??。


 疑似科学に関してですが、数学や神学は矛盾がないようにできている体系(お話?、構造??)
ってことなんでしょうかねえ?。論理学も矛盾がないらしい。そういえば「論理学 東京大学出版会」
はまだ読んでいない・・・・・、


 科学は現象を観察して、帰納して法則なり傾向なりを導いたり、あるいは演繹して予想したり、
そうしてだした仮説をテストしたり検証したり実験、観察したりする。

 疑似科学って呼ばれるからには”科学っぽい”あるいは”科学の装い”をまとっている
ということなんでしょう。


 矛盾があったらそもそも数学ではないし(多分)、科学でもない。

 実験や仮説の検証がなかったら科学ではない。

 ↑こんな感じ?
[2003/05/11 22:44:41]

お名前: 北村@   
 非ユークリッド幾何学・・・、あれがどういう視点から始まったのか?、それも
理解していないのですが(ぱっと数学の本を読んだ、ではいけませんので^^;)、
ともあれ、平行線が交わるって、質量が十分ある宇宙なら、閉じた宇宙ならありうるわけですよね。
というか、厳密に地球上で考えても交わる。すっごくでかいスケールなら。

 非ユークリッド幾何学が自然を反映しているか否か?、それは観測してみないと
分からないのかもしれません。そもそもの始まりはどうであれ。

 自然を反映しているというよりも、自然をどちらがより正しく記述できるか?、
と言った方がよいのでしょうか?。日常の話ではユークリッドでまあ十分だと思いますけど。

 後、演繹に関していうと、仮説を選ぶ上で演繹という方法を使うことは、現実世界が
演繹なものであるとしているわけではない、というようなことを北村は書いていますが↑、
でもそれである程度は確からしい仮説が選ばれている(らしい)ことから考えると、
世界は演繹に動くということなのかそーでないのか?。

 こういう議論、科学哲学の歴史ではとっくにやられているのでしょうねえ^^;)
探してみないといけません。

 
[2003/05/13 18:48:07]

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