記事タイトル:オッカムの剃刀で切り落として残るものとは? 


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お名前: くまど    
 
今、わりとどこにでも書いてあることだけど、次のような文章を読みました。

社会がまだ巨大な欠落をかかえ、人々がその欠落を埋めるという共通の夢を抱くことができた「過度的な近代」においては、望ましき社会秩序のあり方に合意することは比較的容易だったけれど、<中略>ところが巨大な欠落が埋め合わされ、なにが幸いでなにが不幸なのか各人各様に異なるという意味で不透明さが増大する「成熟した近代」では特定の秩序を持ち出して望ましいと合意することは難しいことになっている。(性の自己決定・言論 宮台真司)

山で遭難した時、分かれ道があった。そこで右と左、どちらかの選択をした。間違っ
たら死ぬ(場合によっては)。あー自分は間違わなかった。皆さん、こっちですよ。さあ、一緒に進みましょう!!とはいえない時代。死ぬことは生きることでもあるので、逆にいえば「死ぬ方向に進む自分は一体なんだ?生きたいのか?」と、そんなことを考えることができる時代にやっとなれた。

同じくありきたりな一般論ですが、
幸せというカロリーが最初から十分にあるのが当たり前で育った世代、一般論的には「これが幸せ」ってことになってるけど、タテマエ、幸せもどきの幸せ。虚構の幸せ。親など他者の欲望であることは本能的に若者を中心として気がつき始めている。ヤラセ番組、プリクラ、感動には現実加工がつきものだ、当たり前じゃんそんなの、と自明視している。さあ、これからどうやって生きよう、

そんな「幸せ」の定義が無効になった今の時代、
「オッカムの剃刀」に書いてある、説明に最低限必要でない余計な存在は不必要なものとしてそぎ落としたあとの、説明するために、幾つかの事柄で十分というシンプルなもの。そのシンプルなもの自体、基準さえ無効になったのなら、同じくシンプルなものは無効になるのではないか?という疑問です。
それに、「幸せ」に対して議論などできない、あるいはする必要性すらないと北村さんもおっしゃっているようだし。
[2004/04/07 22:37:59]

お名前: 北村@   
 くまどさん>おっーと、改行をいれないとゾロゾロのびて読みにくいですよ^^;)

 さて、

 最初の引用文はこういう意味ですか?。
 昔、社会は人間が一日に必要とする十分なカロリーを与えることができなかった。
そこで多くの人間が十分なカロリーを供給することができるように努力した。
この時、多くの人が同じ目標にたずさわったのは皆、十分なカロリーが欲しかったからである。
しかり、人間はサルであるから生きていくためには十分なカロリーが必要なのだ。

 しかし、

 しかしながら

 おっとーここで電話がきたので、ちょいと中断しばしまて!!^^;)
[2004/04/07 22:54:59]

お名前: 北村@   
 さて、色々ありましたが戻ってまいりました^^)

 取りあえず、閑話休題

 そして再び本題へ

 人間はサルであるから一日生きるのに十分なカロリーを得なければいけない。さて、
皆が努力した結果、社会は人間が一日に必要とするカロリーを十分供給できるようになった^^)

 しかしそれでも満たされないものがある。ただ、今度欲しいものは皆が共通するものではない。
だってすでにもっとも必要なものは手に入れたから、後は人によって違うものが満たさ
れていないのだ。かくてみながバラバラになった。

 ↑くまどさんが引用いた文章はこういうことをいっているようです。ただ、北村が思うに
この文章は部分的に混乱的ですね。幸福って言葉を2種類使って、しかもそれを混同していませんかね?。

 ひとつは:すべての人類が祖先から受け継いだ要求、すなわち一日に必要なカロリー
(あるいはそれに類する”身体の維持に必要な”もの)が欲しい

 というもの、

 もうひとつは:各個人がそれぞれ欲しいもの。文化の影響や遺伝とか環境、生い立ち、
家庭などのせいで個人個人で違う、それぞれが欲しいもの

 引用された文章では、前半はひとつめの幸福を、後半はふたつめの幸福について話されていませんか?。

 前半では全人類が祖先から受け継いだ共通の要求について語り、後半は個人個人で違う、
それほど緊急でない要求について語っているようです。

 前半は身体が要求するもの(おそらく)で、後半は価値観の話をしている。違うものを語っているのに
同じ幸福とか不幸せという言葉で語る。だからまるで”同じ幸福”が変化したかのように語っている。

 これは混乱的ではありますまいか?。違うものをまるで同じものが変ぼうしたかのように
話している。これは奇妙ですね。

 北村が思うに、この文章はまるで言葉にしばられているようです。違うものなのに
同じ言葉で語る。でも”ある”のは言葉ではないですよね。

 幸福は存在しない。幸福などという言葉はあるが、言葉そのものは実体ではない。幸福も実体ではない。
幸福は台風のような現象ですらない(多分)。

 言葉は名前でしかない。

 結局のところ”ある”のは、あるいは観察できるのは”それぞれの動作”とか”それぞれの要求”では
ありますまいか??。

 一日に必要なカロリーが欲しい、より楽な生活をしたい、という事柄と女の子のフィギアが
欲しい、やすらぎが欲しい、もっと理解し合える友だちが欲しい、静かな職場にいきたい、
すてきな彼氏が欲しい、僕のところをお母さんのように見守ってくれる彼女が欲しい、
これらの事柄や要求はありますよね。すくなくともそのそぶりを見ることができる。
記録することもできる。食事の風景も風俗にいく人間も友だちを求める人間もそれらの
動作もすべて記録できる。

 そしてこれらの要求はそれぞれ別のものだし、それぞれの性質も違いますね。

 しかし、先に引用された文章はどうもこれらを同じ”幸福”という言葉でくくり、
同じものであるかのように語っているようです。これは解像度が粗い。

 
[2004/04/08 03:33:15]

お名前: 北村   
 おっと北村@はHNっぽいので@を抜いてと^^;)。でもあまり代わり映えしないなあ・・・。
変わらないから北村の代わりに北村@をついつい使ってしまうのですが・・・。

 閑話休題

 幸せの定義が無効>定義なんていくらでもしなおせばいいんですよ^^)。でもそれ以上に
北村が思うことは”幸せ”ってのは言葉でしかない。あるのはそれぞれの要求だけだろう?って
ことです。幸せを定義するがそもそもあまり意味がないってことなんでしょう。

 だって、一日に必要なカロリーが欲しいってのは人間すべてに共通することですが、
ママみたいな彼女が欲しいってのは北村には興味のない要求だし、人類に共通の望みでも
ないですしね。こういう性質も普遍性もさまざまに違うものを”幸福”という言葉で
一緒にすること自体、おかしいように思えます。

 あるいは一緒にくくって何の役に立つの?ってのが北村が思うことですね。少なくとも
幸せを語るにしては幸せという言葉はきめがあらすぎるように思えますですなあ。

 基準さえ無効になったなら、同じくシンプルなものは無効に>基準が幸せの基準ということなら
幸せって言葉に基準をもうけたこと自体がそもそも間違いなのだと思いますよ。

 ただ北村が思うに、人間のなかには最節約は無価値であると判断する人もいると思う次第。
それはたんなる価値観の話ですからね^^)。

 でも最節約は”経験からすると有効な方法論”じゃないのかってシロモノであって
価値観とは関係ないですよねえ。価値観が最節約を無価値と判断しても、それは最節約が
”使えそうだ”ってこととは何の関係もない話。
[2004/04/08 03:52:51]

お名前: 北村   
 ちなみに、

 北村が欲しいもの、一日に必要なカロリーが満たされた後に欲しいもの、個別なものは

 すべてにおいて果てしなく検証とテストが続く世界

 政治も裁判も家庭も生活もすべてが技術になった世界

 灰色で幸福という言葉がなくなった世界

 果てしなく永久に安定的に不安定になった生煮えの世界

 果てしなく永遠に不安定に続く完全に不完全なディストピア

 ↑まあ、これが北村の望みなのですが、望みは望み。これは単なる北村の価値観でしかありません。
他人に強制するべきことでも同意をもとめることでも論評されるものでもなんでもない。

 価値観ってやつはどうでもいいしろものって、そう北村は思っております。実際、価値観に
普遍性はないですから、他人にはどうでもいいことなんですよね。事実、北村のこの価値観は
他人にはどうでもいいものでしょう〜〜〜〜。だから北村はこれを他人には強制いたしません。

 だから価値観と有効さ、使えるかどうかってことは別ものだと思うわけですね。
実際、別だし。価値観は最節約の価値を判断するだろうけど、最節約が有効であるのか
ないのか?、それについては判断できないでしょう。

 ちなみに

 そもそも、一日に必要なカロリーを手に入れたいって、そういうことを幸福と呼んでいたら
人間はそれでよかったのではないですかね?。それは普遍的な要求なんだから。

 だのに価値観なんて個人で違うものに幸福だのなんだのって名称を与えた、それぞれ違うものに
共通の名前を与えてしまった、そのことがそもそもの間違いだと思う次第。

 違うものに同じ名前をあたえて、違うものであるのに同じものであると錯覚し、
違うものであるのに共通のものにならないか模索する。これは根本的におかしい。

 幸せっていうのは、中身のない、からっぽな音ですね。

 それはありもしないものに与えられたありもしない、ただの音ではありますまいか?。

 
 
[2004/04/08 04:29:27]

お名前: 北村   
 えーと、北村、ひとりで異常に書きすぎ↑、反省^^;)
[2004/04/08 06:39:36]

お名前: くまど   
え?で、けっきょく、オッカムの剃刀で切り落として残ったものとは、

中身のない、からっぽな音ですか。
[2004/04/08 12:16:33]

お名前: 北村   
 いやいや、オッカムの剃刀が落とすのは余計な仮定ですね^^)

 そして残ったものとは

 余計な仮定を削ぎ落とした仮説です。

 (ちなみに、科学ではこのままでは終わらなくて、今度はこうして作られた仮説(アイデア)
を検証することが始まるのですな。検証に耐えたならそれでよし、耐えられなかったら見直しが始まる。
そういうわけです。)

 北村のいう、中身のないからっぽな音、というのは”枠”とか”カテゴリー”のことですから
これはむしろオッカムの剃刀で削ぎ落とされちゃうものでしょう。
[2004/04/08 14:41:56]

お名前: 北村   
 一例:

 小学5年生の身長をはかった表をみたら、3組のA君の身長が156メートルと書いてあった。
これはどうしてだろう?。

 1:Aくんの身長は実際に156メートルである

 2:Aくんの身長を記入した時にcmと書くべきところをmと書いてしまった

 どちらも表に書かれている”Aくんの身長:156メートル”という事柄を説明しています。

 ではオッカムの剃刀/あるいは最節約ではどう考えるか?。

 アイデア1が成り立つには次ぎのことが必要です。
Aくんは人間の平均的な身長をはるかに越える体格の持ち主である
校舎よりも巨大なAくんが学校にきている/あるいは家庭で生活している
これはかなりセンセーショナルな話であるのに少なくとも表を見た人はそのことをそれまで
知らなかった(報道などされていない)

 一方、アイデア2が成り立つのには次ぎのことが必要ですね
書き込みをした人が間違った

 以上のことから明らかなように、アイデア1はアイデア2にくらべると仮定が多いですね。
そういうわけでオッカムの剃刀とか最節約っていう基準では、アイデア1はとりあえず考えないで
おこうということになります。

 まあ、身長156メートルの小学生がいてもいいんですが、実際に巨大な小学生を見るまでは
このアイデアをお蔵入りさせてもかまわないでしょうってことになる。

 後はアイデア2が正しいかどうか確かめればいいのです。Aくんを見ればそれは一目瞭然ですね。
[2004/04/08 14:58:49]

お名前: くまど   
えっと、うーんと、ぜんぜんわかりません・・・

幸せは中身のない、からっぽな音っていうのもわからないし、

幸せっていう、中身のない、からっぽな音というのは”枠”とか”カテゴリー”
のことですからこれはむしろオッカムの剃刀で削ぎ落とされちゃうものでしょう。

っていう文章も・・・

まあ、いいや・・・
どうもいろいろありがとうございました。

また、なにかあったら、書き込みしたいと思っています。
本当にいろいろありがとうございました。
[2004/04/08 16:51:53]

お名前: 北村   
 ちょっとネットサーフィン(の最中に溺れた)をして戻ってきた北村ですゲボゲボ^^;)。

 くまどさん>幸せってのは呼び名ですよね。呼び名であるからには呼ばれているものそのものではない。

例えば北村雄一というのはある人間の呼び名/名前なんですが、北村雄一=その本人ではない。
だって、北村雄一という名前を持つ人間は他にもいますから。名前と名前をつけられたものは
同じではない。

 名前

 と

 その名前をつけられた何か

 は

 同じではない。(<そうではありますまいか?)

 北村が上でいっていることは、”様々なそれぞれ違うこと”に”幸せ”という名前を
人間はつけた。ここで問題が生まれてしまうってことです。

 なぜ問題がうまれるのか?。

 AくんとBくんとCくんという人がいる。彼らに同じ”呼び名”をつけた。例えば
”落ちこぼれ”という呼び名を与えた。そして人は考える、

 同じ呼び名であるのなら、AくんもBくんもCくんも同じものであるはずだ。

 ↑これはおかしい。でも人間は平気でそういうことをする。では”落ちこぼれ”とは何か?。
それは単なる呼び名です。それは人間が勝手につくった”枠”でしかない(<そうではありますまいか?)。

 人間は自分で勝手につくった枠に縛られている。

 Aくんは努力しているのに授業についていけない、とか、Bくんはそもそも授業に興味がない、とか、
Cくんは別のことに夢中だ、とかそういう”それぞれの出来事”はあるけれども、
彼らを一括してくくっている”落ちこぼれ”というのは人間が勝手に作った”枠”です。

 そういうのを北村は”中身のない、からっぽな音”っていっております。

 幸せっていうのも同じ。

 もちろん、友だちが欲しい、とか、暖かい布団で寝たい^^)、とか、子猫を飼いたい、とか、
一日に必要なカロリーをぜがひでも手に入れたい、という”それぞれの欲しいもの/望むもの”はある
けれども、それを一括してくくる”幸せ”というものは人間が勝手に作った”枠”ですね。

 北村がいいたいことはそういうことなのであります。

 幸せとは、単なる名前、”中身のない、からっぽな音”です。

 でも、ネコと一緒にくらしている(<今日、真っ黒な子猫がモンシロチョウを眼でおっているのを
見たので・・・・^^;)ことでいい気分になる、とか、暖かい布団で寝た^^)、
とか、だれもいない海岸でガラスのように砕ける波を見て、妙に心が動いた、とか、
今日、一日に必要なカロリーを手にれた^^)?、とか、そういうそれぞれの事柄はあるのですね。

 オッカムの剃刀とか最節約は”心が動いた”とかそういうものを削ぎ落とすとはあまり
思いません。少なくとも北村はそう思いますけど、でも、”幸せ”だの”落ちこぼれ”だのといった
得体の知れない、そんな枠を目の前にした時、オッカムの剃刀はこれを削ぎ落としてしまいそうです。
 
 ↑ということを北村はいっているつもりであります^^)

 それと、

 落ちこぼれとか幸せって言葉は何かを理解するのに、AくんやBくんのことや、
ガラスのような波を見た、とか、真っ黒な子猫がモンシロチョウを見ているのをみたとか、
そういう時に何を感じたのか、どうするのか、何なのか、それらを理解する役にはまるで使えないのでは
ありますまいか?。

 だからいうのですね。

 先に引用された文章はまるで言葉に縛られているようだ、と。

 そして思うのです。これではまるで落ちこぼれって枠で子供を一括してくくるダメ教師のようだ。

 と、北村は思う次第。

 ちなみに、だからですね北村が幸せって言葉を嫌うのは。

 あれは役に立たないし、何か危険なものだ。そう思っているのでしょう。

 ちなみに恐竜に分類階級を使いたがる人に北村がいい気分にならないのも、そうなんでしょう。

 そうかそうか、そんなにお利口さんになりたいか?、この応用のきかないあたまでっかちの
役立たず!!って心の奥底では思ってますからね。


 こーんなこと、口に出しては言えないなあ〜〜〜〜〜〜。

 
[2004/04/08 17:46:59]

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