西洋史研究会(立命館大学)「空間・公共・表象」部会 高橋秀寿

西洋の作られ方――サイード『オリエンタリズム』の読み方

 

()サイード個人史

35

イェルサレムで生誕(イギリス国教会徒)

48

イスラエル建国、第一次中東戦争

51

渡米

66

『ジョセフ・コンラッド』

67

第三次中東戦争(「六日戦争」)

75

『始まりの現象』(92年);ⓐ

77

パレスチナ民族評議会(PNC)の議員に

サダトのイスラエル訪問

78

『オリエンタリズム』(8693年);ⓑ

キャンプ・デービッド合意

81

『イスラム報道』(86年);ⓒ

83

『世界・テキスト・批評家』(95年);ⓓ

86

『パレスチナとは何か』(95年);ⓔ

91

白血病の診断、PNC辞任

『音楽のエラボレーション』(95年);ⓕ

湾岸戦争

92

イェルサレム再訪

『パレスチナへ帰る』(−99年/99年);ⓖ

93

『文化と帝国主義』(01年);ⓗ

オスロ合意

94

『ペンと剣』(98年);ⓘ

『知識人とは何か』(95年);ⓙ

99

『遠い場所の記憶 自伝』(01年);ⓚ

()パレスチナ体験 ☞資料1〜3

@ディアスポラ経験とアイデンティティ

a)「エドワード」という名前

b)<他者>経験

Aパレスチナ的発想 ☞資料4〜5

B方法としての「亡命」 資料6〜7

→アイデンティティからディアスポラへ

Cディアスポラと闘争

a)イスラエル体験 ☞資料8〜9

→犠牲者の加害者への転換

b)パレスチナ解放闘争体験 ☞資料10〜12

→ナショナリズムと「新しい共同体のモデルや存在様式」の探求

D「亡命」と知識人 ☞資料13〜16

→因習・権威主義からの自由

()「オリエンタリズム」とは?

@西洋人の知的構成物としてのオリエンタリズム=東洋人像−実態 ☞資料17〜18

a)テクストと現実

b)<他者>の創出

A言説 ☞資料19〜20

a)反本質主義的思考

→<現実→分析→本質・真理>から<分析・分節→現実→本質・真理>

b)知と権力――支配の様式としてのオリエンタリズム

→「規律=訓練(ディシプリン)」(フーコー)

B表象representation

a)反形而上学的思考 ☞資料21〜24

1)「真実・真理」の可視化=「再=現前」

2)言語・知・文化による「真実・真理」の形成・変形

3)用意されたコンテクストの中でのテクストの創造

4)西洋の、西洋による、西洋のための「表象の体系」としての「オリエント」

→オリエンタリズムの外在性

brepresentationの二義性――「表象=代弁・代表」 ☞資料24〜25

1)表示、描写、上演、想像

2)代表、代理、代表者、議員団

Cオリエンタリズムと西洋人の優越感(西川長夫『国境の越え方』1992年より)

われわれ

彼ら

正常

優性

強者

成人(人間)

成熟

有徳・誠実

真実・正確

合理的

異常(異質)

劣性

弱者

幼児/老衰

未発達/堕落

不徳・不誠実

虚偽・不正確

非合理的

規範・指導者

支配

文明

無能力

被支配・矯正

未開・野蛮/衰退・末期

不安・恐怖

やさしさ 献身・服従 性的魅力 神秘 再生

白人

黒人・有色人種

D知識人の役割 ☞資料26〜27

→「声なき人びと、代弁=表象されざる人びと、権力なき人びと」の表象=代弁

()『文化と帝国主義』へ

@自己批判 ☞資料28

→抵抗の論理の模索

Aフーコー/ポストモダン批判 ☞資料29〜30

a「規律=訓練社会」の不可避性と権力の絶対化

b)「抵抗」の無視=反解放の思想

c)ヨーロッパ中心主義

B方法としての対位法 ☞資料31〜34

a)音楽的形式への注目

b)自己のなかの他者

c)テクストの中に支配と抵抗の両プロセス、「他者の歴史」を読むこと

→「新しい物語」の創出

d)例としてのラシュモア山

 “Mount Rushmore is a memorial to the birth, growth, preservation and development of the United States of America.”(観光案内)

 

 

 

 

http://mountrushmore.areaparks.com/より)

 

 

 

 

 

 

西洋の作られ方――資料編 (ⓐ〜ⓚは「サイード個人史」における著作番号)

資料1

「多数の(しかもたいていは互いに相容れない)アイデンティティを持つという足場の定まらない感覚を、私は生涯持ちつづけてきた。それに付随して鮮明に記憶されているのは、わたしたちが完全なアラブであるか、さもなくば完全な欧米人であったらよかったのに、完全な正教会派キリスト教徒か、完全なムスリムか、完全なエジプト人であったらよかったのにという絶望的な願望を抱いていたことである。」

 

資料2ⓔ

「パレスチナ人の文化の場合、奇妙なことに、己れ自身のアイデンティティーは、しばしば「他者」として自覚されるのである。「パレスチナ」とは、他者たちにとっての意義を多分に帯びたものなので、パレスチナ人は、他者たちにとっての切迫した重要性というものをも同時に知覚することには、親密に自分のものとしてパレスチナを知覚することができないのだ。」

 

資料3ⓔ

「私たちは、非パレスチナ人にとって、ユダヤ人やイスラエル人にとって、単に<他者>、すなわち身分証明書の写真で代表されるような外来性や異物性の体現者にとどまりはしないのだ。私たちが世界に対して――また、自分に割り当てられた固定的な場所で徐々に落ち着きを失いつつある民族としての私たち自身に対してももちろん――突きつける要求が何であれ、実際、私たちの最も真正なる実情は、私たちがひとつの場所からまた他の場所へと移り住む有様において表現されているのである。私たちは移住者であり、またおそらくは混血児でもあるのだが、あくまでもそれは、たまたま居合わせることになった状況という場面の中でのことであって、その状況に帰属しているわけではないのだ。これこそ、亡命者になり不断に移動を続けている一個の民族としての私たちの生活に通底する最深の連続性にほかならない。」

 

資料4ⓘ

「パレスチナについておもしろいと思うところは、この土地には――いささかお国びいきになりますが――ある種の普遍性があるということです。実際、誰もがこの土地との関係性を主張できるような特異な力を持つことによって、エルサレムは世界の中心なのです。僕の生まれたエルサレムは、世界のなかで他にも類を見ない地位を持っています。少なくともその実存的な、また想像的な地位を考えれば、普遍の都市とは言えません。しかし、エルサレムを誰かひとりの人物だけに結びつけたり、キリスト教発祥の地としてだけ、あるいはギリシャ正教の総主教の権威の座としてだけとらえることは、その価値をおとしめるものです。この都市は、古い表層をつぎつぎと剥ぎ落としていく異様な力を持つ都市なのですが、この地を支配したいずれの政治構想も主権(イスラエルの場合)も、必ずといってよいほど、それを裏切ってきたのです。」

 

資料5ⓘ

「パレスチナは数千年にわたって存続し、悪魔や聖者や神々を産み出してきました。地理的な位置のおかげもあって、この土地は、宗教のみならず文化においてもメジャーなものの交錯点にあたっています。東と西の文化圏がここで交わります。ざっと見ても、ヘレニズム、ギリシャ、アルメニア、シリア、レヴァントなどの諸文化が交錯するうえに、ヨーロッパ人、キリスト教徒、アフリカ人、フェニキア人などの影響が重なり合い、夢のような錯綜を織り成しています。その意味で、パレスチナ自体は、どれかひとつのレッテルを貼られてしまうことを常にすり抜けてしまう存在なのです。これは、とても大切なポイントです。パレスチナ人は、このようなパレスチナの複合性、多重的共同体構造という側面を体現しているのですから。僕らの闘争の目標は、他の者たちを排除してパレスチナが意味するところを独占することではなく、パレスチナのなかにある数多くの共同体や文化の交錯によって形成されている豊饒性にパレスチナ人自身が参加することです。これまで僕たちが戦ってきた相手は、パレスチナは「イスラエル」という名でユダヤ民族だけに属し、現にそこに存在する他の民族には属していないのだと主張する人々とその思想です。これこそが、僕らのシオニズムに対する戦いの本質なのです。」

 

資料6ⓖ

「おそらくわたしがこの地に住むことは、たいそう難しいことに違いない。亡命というのが自分にとっても、もっとも自由な状態だからだが、認めなければならないのは、自分にとって亡命とは特権であって、重荷であるというよりも喜びだと感じることがあることだ。」

 

資料7ⓚ

「不眠は私にとって、どんな代償を払っても確保したいほど好ましい状態である。早朝、数時間前に失ったかもしれないものに再び接触し、回復する瞬間ほど、気分を引き立たせ、眠れぬ夜によってぼんやりした意識の混濁を即座に振り払ってくれるものはない。わたしはときおり自分は流れ続ける一まとまりの潮流ではないかと感じることがある。堅牢な固体としての自己という概念、多くの人々があれほど重要性を持たせているアイデンティティというよりも、わたしにはこちらのほうが好ましい。これらの潮流は人生におけるさまざまの主旋律のように、覚醒しているあいだは流れつづけ、至高の状態においては折り合いをつけることも調和させる努力も必要としない。それらは「離れて」いて、おそらくどこかにずれているのだろうが、少なくとも動きつづけている――時に合わせ、場所に合わせ、あらゆる類の意外な組み合せは変転していくというかたちを取りながら、必ずしも前進するわけでもなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心となる主旋律は不在のままに。これは自由の一つのかたちである、とわたしは考えたい――たとえ完全にそう確信しているとは言えないにせよ。この懐疑的傾向もまた、ずっと保持しつづけたいとわたしが特に強く望んでいる種旋律の一つである。これほど多くの不協和音を人生に抱え込んだ結果、かえってわたしは、どこかぴったりこない、何かずれているというあり方のほうを、あえて選ぶことを身につけたのである。」

 

資料8

「僕らにとって最大の謎のひとつは――これは深いミステリーといわねばなりませんが――これまで出会ったユダヤ人やイスラエル人のうち、パレスチナ人に対面することのバツの悪さや居心地の悪さといったものを超えて、自分たちの経験に多くの点で共通する災いを被っている者たちに対し良心の呵責や同情を感じている人が、いかに少ないか――相対的にですが――ということです。パレスチナ人をかつて自分たちと同じ目に遭わせているのが、ほかならぬ自分たちであること、イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対して行った仕打ちによって、パレスチナ人は以前にユダヤ人が被ったと同じ目に遭っているということにもかかわらずです。」

 

資料9

「従来、私たちにとって最悪の不幸は、どうしようもなくユダヤ人の敵と見なされることであった。いかなる道義的・政治的な宿命も、これほど悪くはない。まったく例外などないと私は思う。これ以上に悪いことなど絶対にないのだ。ホロコーストに関する議論が、近頃、盛んに行われているので、私は、ヨーロッパのユダヤ人が絶滅の危機に瀕したという事実については十二分に意識しているつもりである。まさしく忌まわしいことだ。しかしながら、これを他の現象から切り離して考えることは難しいと私は思う。イスラエルとホロコーストというと、常に両者を結びつけようとする動きがあり、どのようにしたら前者を後者の修復となし得るかという話になる。私は、図らずもこう言わざるを得ない。一世代後には、ホロコーストは、私たちにも犠牲を強いたのだ。ただ、ユダヤ人の場合と比べると、恐るべき規模や畏敬すべき冒瀆といったものに欠けているだけなのだ、と。」

 

資料10

「「パレスチナ人」であることには、現在、二つの側面があります。ひとつは独立運動で、これは抑圧に対する抵抗というナショナリズムに支えられたものです。その意味では、支持せずにはいられません。僕だってその一部なんですから。しかし、それは同時に、ナショナリズムというものの限界もひと通り備えています。要するに、僕らの誰もが感染するパレスチナ人中心の世界観から逃れられないということです。それと絡んで、ある種の、排外主義、抵抗のナショナリズムには避けがたく内在する国粋主義的な要素も存在します。これらは、すべてがと言うわけではありませんが、イスラエルの抑圧に対する反応です。

もう一つは、祖国を追われた者たちの運動だということです。僕には、こちらの方がずっと居心地がいいのです。(略)僕らの歴史で初めて、五五%ものパレスチナ人が歴史的にパレスチナと呼ばれた土地の外で暮らしています。この人たちのためには、祖国への郷愁や思慕や帰還の夢(僕らはみなそれを信じていますが)などに基盤を求めない、新しい共同体のモデルや存在様式を探求する必要があるような気がします。」

 

資料11ⓘ

「PLOは占領下におかれた西岸地区やガザ地区の産物ではありません。PLOは離散体験(ディアスポラ)の産物なのです。現在、僕たちにとって最も重要な課題は、民主主義の拡大です。(略)僕たちはナショナリズムの時代に終止符を打ち、新たな社会・政治変革の時代に進んでいく必要があるのです。その変革を通じて、指導者の気まぐれにすべてを委ねるのではなく、人々が直接かかわり自らの意志で積極的に動員されていくような段階に到達しなければなりません。」

 

資料12ⓘ

「僕らは、自分たちの民族形成のために彼らのナショナリズムに対抗するという従来のナショナリズムには、関心がなかったのです。彼らに対抗してそっくり同じものを形成しなければならない、彼らにシオニズムがあるというなら、僕らもそれに対抗してパレスチナのシオニズムを形成しよう、などという考えはありませんでした。そんなことよりも、僕らが関心を注いでいたのは違った道(オルターナティヴ)について語り合うことでした。人種や宗教や民族的な背景をもとに成立するような差別を、いわゆる「解放」によって乗り超える道を模索していたのです。パレスチナ解放機構という名前にも、それが反映されていたわけです。これこそが抵抗の本質なのだと思います。足をドアに突っ込んで強引に押し入ろうとするのではなく、窓を開こうとする発想です。」

 

資料13ⓙ

「いっぽう亡命知識人は、必然的に諧謔的で懐疑的で遊戯的ですらある――たとえ、冷笑的ではないにしても。」

 

資料14ⓙ

「知識人にとって、亡命者的移動は、通常の経歴からの解放を意味する。」

 

資料15ⓙ

「亡命者とは、知識人にとってのモデルである。なにしろ昨今では知識人を誘惑し、まどわし、抱き込もうと、さまざまな褒賞が用意され、さあとびこめ、さあゴマをすれ、さあ交われと、知識人は語りかけられるのだから。また、たとえほんとうに移民でなくても、故郷喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故郷喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像力をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威主義的体制からはなれて周辺へおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間には見えないものが、かならずやみえてくるはずである。」

 

資料16ⓙ

「漂泊の知識人が反応するのは、因習的なもののロジックではなくて、果敢に試みること、変化を代表すること、動きつづけること、けっして立ち止まらないことなのである。」

 

資料17ⓑ

「かりに我々がライオンは獰猛であると主張する本を読み、しかる後、実際に獰猛なライオンに出会ったとしよう。我々は多分、同じ著者の本をもっと読むという気になり、しかもその本の内容を信用するようになるだろう。しかし、もしそのうえに、そのライオンの本が獰猛なライオンの扱い方をも説明していて、その説明が実際にも完璧なまでにうまく役立ったとすれば、著者は絶大な信用を得るばかりでなく、別の種類の著作にも手を染めてみないわけにはいかない立場に追いこまれるであろう。そこにはかなり複雑な補強の弁証法が働いている。この弁証法によって、読んだ書物が読者の経験を規定すると、今度はその事実が書物の著者のほうに影響を与え、読者の経験によってあらかじめ規定されてしまった主題を著者に採用させることになるのである。…獰猛なライオンを扱うために推奨された方法が、実のところはライオンの獰猛さをますます強め、ライオンを必ず獰猛でなければならないものに仕立て上げることになるであろう。…何かある現実についての知識が一杯つまっていることを謳い文句としつつ、いま私が述べたのと似たような状況から生み出されたテクストは…現実的成功が保証する以上に大きな威信を担うことになる。そしてもっとも重要なことは、こうしたテクストが、単に知識だけではなく、そのテクストが叙述しているかに見える当の現実さえも想像することができるという点である。やがて、こうした知識と現実とは、一種の伝統を、つまりミシェル・フーコーが言説と呼ぶところのものを生み出すことになる。そして、個々の作家の独創性などではなく、実はそうした言説の実体的存在、ないしはその重みこそが、言説の内側から生み出されるテクストの内容を決定する本体なのである。(略)オリエントが、獰猛なライオンと同じように、出会い、そしてある程度まで御すべき対象であったとすれば、それはまさに、テクストがそのようなオリエントなるものの存在を可能にしたからである。そうしたオリエントは物言わぬ存在であり、ヨーロッパ人が思いのままに、さまざまのプロジェクトを実現できる場であった。そのプロジェクトは、現地人を巻き込んでいながら、彼らに対しては直接に責任を負うことが決してなかった。また、そのようなオリエントは、みずからに対してたくらまされたさまざまのプロジェクトとか、作られたイメージ、いやそもそもみずからが叙述されることそれ自体に対してさえ抵抗することができない存在なのであった。」

 

資料18ⓑ

「オリエントは、ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現われる他者のイメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定する上で役立った。もっともこのオリエントは、いかなる意味でも単なる想像上の存在にとどまるものではない。それは、ヨーロッパの実体的な文明・文化の一構成部分をなすものである。すなわちオリエンタリズムは、このうちなる構成部分としてのオリエントを、文化的にも、イデオロギー的にも一つの様態をもった言説として、しかも諸制度、語彙、学識、形象、信条、さらには植民地官僚制と植民地的様式とに支えられたものとして、表現し、表象する。」

 

資料19ⓑ

「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式なのである。この点に関し、私は、ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生――監視と処罰』になかで説明されている言説概念の慣用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った。つまり言説としてのオリエンタリズムを検討しないかぎり、啓蒙主義時代以降のヨーロッパ文化が、政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に、また想像力によって、オリエントを管理したり、むしろオリエントを生産することさえした場合の、その巨大な組織的規律=訓練というものを理解することは不可能なのである。」

 

資料20ⓑ

「オリエントは、まさしく、教室や刑事裁判所や監獄や図鑑というような枠組によって規定される存在として眺められた。つまりオリエンタリズムとは、オリエント的事物を、検索、研究、判決、訓練、統治の対象として、教室、法廷、監獄、図鑑のなかに配置するようなオリエント的知識のことなのである。」

 

資料21ⓑ

「私が外在性を強調するもうひとつの理由は、文化的言説と文化的交換とに関連して、それらが文化の内部に流通させているものはたいていの場合「真実」ではなくて表象なのだ、という事実が明らかにされなければならないと考えているところにある。あらためて説明するまでもないことだが、言語はそれ自体高度に組織化され記号化されたシステムであって、表現すること、指示すること、メッセージや情報を交換すること、表象すること等々のために多くの装置を用いている。少なくともかかれた言語の場合には決して、解き放たれた存在というものは存在しないのであって、あるのは再=現前represenceすなわち表象なのだ。すなわち、オリエントについて記述された陳述の価値、有効性、力強さ、真実らしさが、オリエント自身に依存することはほとんどなく、それを手段として利用することもできないのである。それどころか記述された陳述は、「オリエント」として実在する事物のことごとくを排除し、駆逐し、邪魔者扱いすることによってこそ、読者に対してひとつの現前となるのである。したがって、オリエンタリズムは総体的にオリエントから遠く離れたところに位置している。オリエンタリズムがともかく意味をなしえているのは、東洋のおかげではなく、むしろ西洋のおかげなのである。そしてその意味は、オリエントについての言説のなかで、東洋を可視的で明晰な「其処」なる存在に変えてしまう西洋の表象技術のあれこれもっぱら負うて成立しているのだ。すなわちこのような表象は、制度、伝統、慣習、あるいは表現効果を理解するための合意に基づいた暗号等に依拠しているのであって、彼方に模糊としてあるオリエントに依拠しているのではないのである。」

 

資料22ⓑ

「問題の核心は、ある事物の真の表象というものが実際に存在しうるものなのかどうか、また、およそあらゆる表象というものは、それが表象であるがゆえに、まず表象する者の使用する言語に、ついでその属する文化・制度・政治的環境に、しっかりとはめこまれているのではないか、という点なのである。もし後者が正しいとすれば(私は正しいと考えているのだが)、我々は、次の事実を認めなくてはならなくなる。すなわち、表象とは、それが表象であればこそ、「真理」以外の実に多くの事柄に結び合わされ、からみあわされ、埋めこまれ、織り込まれているのであり、「真理」とはそれ自体、ひとつの表象なのだということである。このことの方法論的帰結として、我々は表象(ないしは誤った表象――その差異はせいぜい程度の問題ではあるが)を、単に内在的な共通の主題によってのみならず、共通の共通の歴史・伝統・言説の世界によっても規定された、ある共通の活動領域に宿るものとみなさざるをえなくなる。この領域は、あるひとりの学者の力で創造しうるようなものではなく、各学者が受容し、しかるのちにそこに自分の場所を見出すものなのであって、その内部においては、個々の天才にとってさえも、その領域内の素材を再配置するための戦略にほかならない。いったん失われた写本を発掘する学者でさえ、実はすでに用意されたコンテクストのなかでその「発見された」テクストを創造しているのであり、それが新しいテクストを発見することの真の意味なのである。こうして、各個人の貢献がその領域内に変化を生じさせ、次いでそこに新たな安定性を促進させる。それはちょうど二十個の磁針が置かれた地表面に二十一個目が加わるとき、二十個すべての磁針がふれ、やがて静止して、そこに新たな調和のとれた配置が生ずるのと同じ様なものなのである。

ヨーロッパ文化のなかにオリエンタリズムが提示する諸表象は、最終的に、我々が言説的一貫性と呼ぶものを獲得する。それは、歴史のみならず物質的(制度的)存在性をも備えたものである。ルナンに関連して述べたように、こうした一貫性は文化的プラクシスの一形態であり、オリエントに関する陳述を行うための機会のシステムであった。このシステムについて私が力説したい点は、それがあるオリエント的本質――そのようなものの存在は、私は一瞬たりとも信じない――の誤った表象であるといったことではなく、通常表象というものがそうであるように、それが特定の歴史的・知的・経済的背景のなかで、ある傾向にしたがって、ある目的のために作用しているということである。言い換えれば、表象とは目的をもったものであり、たいていの場合に効力を発揮して、一つまたは多くの仕事をやり遂げるものなのである。表象とは形成された物(フォルマシオン)である。あるいは、ロラン・バルトがあらゆる言語作用について述べたように変形された物(デフォルマシオン)である。ヨーロッパにおける表象としてのオリエントは、「東洋」と呼ばれる地理的領域に向かってますます特殊化されてゆく、ひとつの感性から形成された物――あるいは変形された物なのである。言ってみれば、この領域の専門家がそれについての仕事を行うのも、やがてオリエンタリストとしての彼らの職業の要請によって、彼らが社会に対し、オリエントのイメージや知識、洞察力を提供することを余儀なくされるからである。そして、オリエンタリストが自分の社会に提供するオリエントの表象は、かなりの程度まで、(a)そのオリエンタリストの特徴的刻印を帯び、(b)ありうる、あるいはあるべきオリエントについての彼の考え方を説明し、(c)他人のオリエント観に意識的に対抗し、(d)オリエンタリズムの言説に、その時点でもっとも必要と思われるものを供給し、(e)その時代の一定の文化的・職業的・国家的・政治的・経済的要求に応ずるものである。実証的知識にもまったく役割がないわけではないが、それが絶対的なものから程遠いことは明白であろう。むしろ「知識」――なまのまま無媒介で、ただ客観的な知識などありえない――とは、オリエンタリズムの表象に備わる前述の五つの属性によって分配され、再配分されるものなのである。」

 

資料23ⓑ

「オリエンタリズムのなかに現われるオリエントは、西洋の学問、西洋人の意識、さらに時代が下がってからは西洋の帝国支配領域、これらのなかにオリエントを引きづり込んだ一連の力の組み合せの総体によって枠付けられた表象の体系なのである。」

 

資料24ⓑ

「詩人であれ学者であれオリエンタリストとは、オリエントに語らせ、オリエントについて記述し、オリエントの秘めたるものを西洋のために西洋に対してあばく人間だという事実、すなわち外在性こそがオリエンタリズムの前提条件なのである。オリエンタリストは自分の発言の第一因としてしかオリエントに関心をもたない。オリエンタリストによって語られた内容は、語られかかれたという事実によって、オリエンタリストが実生活と精神生活の両面で事実上オリエントの外側にあることを示すという役割を担っている。いうまでもなくこの外在性の主要な産物が表象である。(略)したがって私は、オリエンタリズムのテクストを分析するにあたって、オリエントの「あるがままの」描写としての表象ではなく、代替〔レプレセンテーション〕としての表象のけっして不可視的ではない形跡に力点を置いている。この形跡は明らかに芸術的な(つまり紛れもなく想像力が生み出した)テクストの場合と同様に、いわゆる真理を語るテクスト(歴史叙述、文献学的分析、政治論文)の場合にも顕著に見出される。注目すべきは、文体、修辞的表現法、背景設定、語り口の技巧、歴史的・社会的条件であって、表象の正確さでも、何らかの偉大な原典に対する忠実さでもない。表象の外在性をつねに支配しているのは、陳腐な決まり文句、すなわち、「もしオリエントがみずから表象できるものなら実際にそうしていることだろう。オリエントにはそれができないからこそ、表象という仕事が、西洋のために、やむをえずまた哀れな東洋のためになされるのだ」という決まり文句の言い換えなのである。『ルイ・ボナパルトのブルュメール十八日』のなかでマルクスが述べたように、「彼ら〔フランスの分割地農民のこと〕は、自分で自分を代表することができず、誰かに代表してもらわなければならない」のである。」

 

資料25ⓑ

「オリエントに声を与えるのはヨーロッパなのである。」

 

資料26ⓙ

「したがって、結局のところ、重要なのは、代表的〔=代弁する〕人物としての知識人のありかたである――なんらかの立場をはっきりと表象=代弁する人間、また、あらゆる障害をものともせず、聴衆に対して明確な言語表象をかたちづくる人間。わたしの論旨は、知識人が、表象=代弁する技能を使命としておびた個人であるということにつきる。」

 

資料27ⓙ

「講演のなかで何度も念をおしたように、理想的には、知識人たる者、解放と啓蒙を代弁=表象しなければいけないが、しかし、解放と啓蒙を抽象的なもの、つまり血のかよわない天上の神々のようなものとして扱ってはならない。知識人の表象――これは二つの意味をもつ、すなわち、知識人が表象=代弁する見解、ならびに、その見解を受容者に対して表象する行為である――は、社会のなかでおおくの人びとが経験しつつあることと有機的に結びつくか、もしくは、そうした経験の有機的な一部でありつづけなければならない。ここでいうおおくの人びととは、貧しき人びと、特権をもたぬ人びと、声なき人びと、代弁=表象されざる人びと、権力なき人びとのことである。知識人の表象は、どれもひとしく具体的で生々しい。しかし、そうした知識人の表象も、信条とか宗教的協議とか専門的方法に変質させられ凍結させられてしまうと、早晩、息の根をとめられ、のちの時代に伝わらなくなってしまう。」

 

資料28ⓗ

「わたしは『オリエンタリズム』のなかでは、西洋の支配に対する反応を省いてしまった。それらが、やがて第三世界全体を巻き込む大きな脱植民地戦争へと盛りあがりをみせたにもかかわらず。」

 

資料29ⓗ

「一九六〇年代にラディカリズムと学生反乱の伝道師として頭角をあらわしたフランスのすぐれた哲学者、ジャン=フランソワ=リオタールとミシェル・フーコーは、のちに、解放と啓蒙という大きな正当化物語(とリオタールが呼ぶもの)に対して、徹底して不信の念を表明して衝撃をあたえることになる。一九八〇年代にリオタールが語ったことによれば、わたしたちの時代は、ポストモダニズムの時代であり、それが関心をいだくのは、もっぱらローカルな問題であり、歴史ではなく解決可能な問題であり、堅固な現実ではなくゲームなのである。いっぽうフーコーもまた、それまでは、排除と監禁の対象となるがゆえに抵抗を余儀なくされた集団――犯罪者、詩人、追放者たち――によって体現された近代社会における対抗勢力について研究していたくせに、反体制的なものへの関心を捨て、権力はいたるところに存在するのである以上、個人をとりまく権力のローカルなミクロ物理学に集中したほうがよいとまで言いだすしまつである。この主張によれば、自己は、研究され、涵養され、必要とあらば、造型しなおされ、構成されることになる。リオタールにおいてもフーコーにおいても、わたしたちが見いだすのは、解放の政治学への幻滅を説明するときにもちだされるまったく同じ比喩である。すなわち物語への不信。足がかりとなる重要な点をまず定め、また正当なる目標をも定める物語は、社会における人間の軌跡をあとづけるにはもはや用をなさないということになった。」

 

資料30ⓕ

「フーコーの後期の著作は――たとえわたし自身、いろいろな点で恩恵をこうむっているとしても、――やはり欠陥がある。思い出してもいい。フーコーはその『監獄の誕生』のなかで、十九世紀初頭の近代西欧社会におけるさまざまな学問について従来にない斬新な説明をおこなった。フーコーは、そうした学問の台頭と、監獄や病院や感化院の誕生とを関連づけたのである。そしてその本の終わりも近くなると、、フーコーは君主の孤立した権力にとってかわったミクロな権力が、いかにして社会全体を支配するかを語りはじめ、そのような社会を規律=訓練社会と命名する。もちろん、この場合、フーコーはただ理論的説明をおこなっているだけで、その理論が現実に正しいか否かについては責任はないといえるかもしれないが、しかし、フーコーが政治活動について語っているものを読むと、彼が、長い間、そのような規律=訓練社会に対して、精力的に異議申し立てをおこなってきたことがわかる。彼はフランスにおける監獄制度改革を求めるデモに参加しているし、投獄者グループなどとも定期的に連絡をとりあっていた。ところが、フーコーが『監獄の誕生』のなかで記述したプロセスを中心に据えてみると、「規律=訓練社会」――これはまたアドルノのいう「全体的に管理化された社会」とじつによく似ている――が、すべてを席巻したことになる。すでに初期の段階でニコス・プーランツァスたちが着目していたように、この「規律=訓練社会」は、その社会に敵対する抵抗運動までも、みずからのなかに封じ込むものだったのである。

ここでの問題は、たとえフーコーが正しいとしても(もっとも、彼自身の政治活動から判断すると、フーコーの主張が正しいとはおおよそいえないのだが)、この現在の社会(すなわち、わたしたちの「規律=訓練社会」)から抽出され、また、そこに帰せられるであろう理論上のモデルが、なぜかくのごとく全体化され、それに抵抗できないようになっているのかを問いただすべきだということだ。さまざまな監獄暴動があることはたしかである。また革命家や改革者の活動もやむことはなかった――たとえば、18世紀の終わりにフランスのカリブ海植民地で勃発した奴隷反乱は、最終的には、植民地の奴隷制廃止と、奴隷制廃止運動そのものにつながっていった。こうした出来事は、規律=訓練社会のたゆまぬ進行にしか光をあてない物語のなかでも、それなりに重要な位置をしめる。けれどもフーコーによれば、逸脱とか非行とか犯罪行為、いってみればあらゆる侵犯形式はすべてふたつの目的に奉仕する。ひとつは、最後に制度に吸収されることで、権力のゆるがざるさまを確証すること。そしてもうひとつは、制度そのものを断罪することによって、制度の非人間性を証明するにはするが、結局、制度が不可避であることを証明することである。

ほとんどいうまでもないことだが、強力で黙示論的なヴィジョンの力によって、多大な影響を与えるこのような理論はすべて――トーマス・マンのものであれ、フーコー、あるいはアドルノなどのものであれ――、近代の西欧社会に存在するのがはっきりとみとめられるパターンを、あたかもそれがすべての本質であり、普遍的なものであるかのように祭り上げるはたらきをしている。それゆえ、こうした理論を、ヨーロッパ中心的で帝国主義的であると呼ぶのは、あながち誇張ではない。なにしろ、こうした理論は、詳細きわまりない分節化と、自己反省的自己中心性と、不可避主義と美的悲観主義との結合という点で、どれもが似たりよったりのものになり、西欧的なパターンからの脱出口や、それを変更する選択肢といったものをいっさい提示しないのである。」

 

資料31ⓕ

「ここで、揶揄されそうな単純化をあえて犯せば、最後に私が考えたいのは、西欧のクラシック音楽におけるふたつの主要な組織傾向が、主題や旋律や陳述に対するふたつの異なる見方に起因するということである。水平的にみると、陳述とは旋律である。まず高らかに宣言され、慎重に展開され、これを最後にときっぱりと終わること。これは直線的なモデルにしたがって時間を征服することである。素材を厳密な手続きにもとづいて徹底操作することである。けれども非物語的にながめると、音楽とはたんなる陳述ではない。それは陳述であるとともに無限に可能な変奏である。音楽は、たとえば、私がすでに論じたブラームスによって書かれた変奏曲(ウォルター・フリッシュがブラームスの発展する変奏と呼んだ形式の練り上げ)であるだけでなく、わたしの個人的な興味に端を発して利用したさまざまな変奏曲の総体でもあるのだ。こうした個人的な使用は、いつも内省的なものとはかぎらない。わたしがおおいに畏敬の念にかられる一連の現代の変奏曲の場合には、利用のしかたは、政治的であったり、開かれたものであったり、さらには騒々しいものであったりする。(略)わたしが音楽におけるオルターナティヴな編成と呼んだものの豊かさにも、わたしの心は動いている。このオルターナティヴな編成のなかでは、主題なり旋律なりが、非直線的に、非発展的に利用されて、音楽的時間――これは基本的に支配的であると同時に闘争的でもあるのだが――の統合と組織化が撹乱され遅延されるのだ。グレン・グールドは、音楽のこの本質的に対位法的な様式に対する大いなる可能性を理解していたと思う。対位法的な様式とはすなわち、ひとつの音楽の方向を、そこから派生しつつ、またそこに関連づけられる他のいくつもの方向と接続させて考えたりあつかうことであり、それは模倣や反復や装飾化によって可能になる。こうした対位法的な様式こそ、たとえばモーツァルト的あるいはベートーヴェン的なソナタ形式にふくまれる全体統括的かつ威圧的な権威に対する解毒剤となる。」

 

資料32ⓗ

「文化遺産の収蔵庫をふりかえりながら、わたしたちはそれを画一的に読みなおすのではなく、対位法的に読みなおしはじめる。つまり、物語られる宗主国の歴史のみならず、支配される他者の歴史――支配的ディスクールがそれに対して(またそれとともに)はたらきかける歴史――の双方を同時に認識するということである。西洋のクラシック音楽における対位法では、多様な主題が、つぎつぎと他をおしのけてしゃしゃりでるが、個々の主題に対する特権的なあつかいは、束の間のものにすぎず、すぐにつぎの主題が後釜にすわる。けれどもこのポリフォニーから調和と秩序が生まれでる。これは複数の主題の相互のせめぎあいを組織化したことからくる効果であって、作品の外部のなんらかの厳密な旋律の規則とか形式的規則にのっとって生ずる効果ではない。これと同じようにして、たとえばイギリス小説における西インド諸島とかインドとのかかわり(このかかわりは、通常、ほとんど表面化しないまま終わるのだが)を、植民地化と抵抗運動と最終的な原住民の民族主義にいたる特定の歴史によって造型され、あるいは決定づけられているものとして、読み、そして解釈することもできるのだ。めでたくこれを達成したあかつきには、オルターナティヴな、あるいは新しい物語が生まれ、やがてこの物語が制度化されるか、もしくはディスクールによって安定した項目と化すのである。」

 

資料33ⓗ

「国民性といったアイデンティティは、今日では、神によって与えられた本質としてではなく、たとえばかたやアフリカの歴史、かたやイギリスにおける歴史におけるアフリカ研究という両者の相互作用の結果生みだされるものとして、あるいはかたやフランス史の研究、かたや第一帝政下における知の組織替えという両者の相互作用の結果生みだされるものとして、分析されるのである。わたしたちが扱うのは、ある重要な意味において、文化的アイデンティティの形成なのだが、この文化的アイデンティティは、これこそが本質であるというようなかたちではなく(とはいえ、文化的アイデンティティがもつ魅力の一部は、それが本質として見られていたり考察されているからなのだが)、そうではなく対位法的に全体との関わりのなかで見いだされていくものなのである。なにしろ、いかなるアイデンティティといえども、孤立しては存在できず、敵対項や否定項の一群なくして存在しえないことは自明の理であるからだ。ギリシャ人はみずからのアイデンティティの確立のために、野蛮人をしょっちゅう必要としていたし、ヨーロッパ人もまた、アイデンティティ確立のために、アフリカ人やオリエント人を必要としていたことを思い出せばよい。同じことは逆の立場であってもいえる。しかもわたしたちの時代において、「イスラム」とか「西洋」とか「オリエント」とか「日本」とか「ヨーロッパ」を普遍の本質に固定しようとする大がかりな試みにおいても、他者の文化に関する、独自の知識、ならびに姿勢と言及の構造をたずさえている。このような構造こそ、慎重な分析と研究調査を要するのである。」

 

資料34ⓗ

「要は、対位法的読解は、両方のプロセス、つまり帝国主義のプロセスと、帝国主義への抵抗のプロセスを考慮すべきであるということだ。テクストを読むときに、視野を広げ、テクストから矯正的に排除されているものを含むようにすればいいのである。(略)それぞれのテクストは、せめぎあい重なり合う経験と相互に依存しあう諸々の歴史を引きずっている。(略)テクストを読むときに、わたしたちはテクストを、テクストに流れ込んでいるものと、作者がテクストから排除したものの両方に関連づけて読まなければならない。個々の文化的作品は、ある一瞬のヴィジョンであり、わたしたちがなすべきは、この一瞬のヴィジョンを、そのヴィジョンが喚起しうるさまざまな修正=再ヴィジョン――キプリングの場合、独立後のインドにおける民族主義者の経験――と対置することである。」