『ジェンダー/セクシャリティ』(田崎英明)にマゾヒズムを読む

報告者 西洋史学4回生 葉田 真也

 この本はセクシャリティやジェンダーを論じる上で、人間の個の前提となる議論として生物的、理論的、そして社会的な諸要素として人間の生とは何かを論じている。社会を論じるまでに前提として個人の性質について論じることは人類学のフィールドワークにもあるのだが、この場合は個人のおかれた環境により人間を分析する前提ではなしに普遍的に人間の生命を分断、縮小、そして過去への旅へと読者を「誘惑」する。

 


前提−生きることは受け入れ、「反応」すること。それは生物的な生存、語ること、仕事すること、人生を生きる諸要素である。受け入れはマゾヒズム、「反応」はサディズムである。

 

T理論的、マゾヒズム−セクシャリティを分類する為にA、B、Cの三つの生から

A理論的生

・理論とはマゾヒズム(受けることからはじまる)

テキスト ボックス: 事象テキスト ボックス: 見る者

               理論は本質的にマゾヒズム

                     +

 (ローラ・マルヴィの理論)全てサディズムは物語的である=他人に変化を起こす

                 物語ることで聞き手に作用を起こす−作用因たること

                    →同一化

                        →快楽を引き起こす=サディズム

 


 受身たることが前提であるために快楽を否定せざるを得ない

                         相手に作用すること

 

 

 

 B生物として理論的生とは別の次元

<図A>

テキスト ボックス: より深層 植物的生生きるための装置は自分の中にある

テキスト ボックス: 自己                   栄養的(植物的)生−「自己」を糧とし「自己」によって養われる

                    「自己」によって生きられる=受動

テキスト ボックス: 自我 動物的生=外部と関わる(器官を通じて)

 

    ・無意識はまた別の次元

    ・自分の意識として考えるなら動物的生を通じて「自我」を獲得する

    

 

C可視の生、不可視の生

  ・前近代の処刑=権力の可視化→「見ること」で受刑者の痛み(労苦)と同化

              触れて確かめるよりも確実=触発

非−可視的なものとして人々に伝達される

非−可視的な伝達の一つ=装置

  ・言説は装置を表現

      装置とは可視的な状態だけでなく不可視の意味も含むもの

   <セクシャリティはこの装置の中に現れる>−映画を例に

 図B

見る人=男性     見られる人=女性  

テキスト ボックス: 同一化
 


    見る

観客   =男性客−去勢への恐怖心(トラウマ)、男であるという意識

               触発−女性の身体のイメージ=ペニスがない=生物学的分類

    (一体化ではない)

      能動が男性であり、受動が女性であるという簡単な図式

           ⇒区別としては不

 

 

 

 

 

 

 

 

U性、生、公共性

・人間の生の曖昧化(発表者)

   ・技術、生物的なものの精神への侵食=ミクロレベル、<内在的生>

・社会の生への介入=マクロレベル−フーコー

物質と精神(社会と内在的生)の境界は不明瞭に

医学も社会の動きの中で発達−実はマクロなレベルが主導

 

 

・進化論の作成

   私は「今」考える、だから私は今において私である

    過去も同じく、「今」から見る−歴史=今の歴史=アナクロニズム

     数々の証拠から過去の可能性の提示−進化論はあった可能性がある=外在性

      ⇔潜在性の現実化(内在していたものが姿を現す)=遺伝情報の交換としてのセックス

       ⇒歴史性の放棄

        外在性は進化論⇔内在性は二つのものの融合

         生物としてのセクシャリティの概念は根底から崩れる

・社会から見たセクシャリティ

    性活動は社会の労働生産に取り入れられている⇒社会工場として労働者の生を支配

     家庭で力を蓄えて仕事へ−その中に妻とのセックスも含まれる

テキスト ボックス: 不明瞭になっている

公→私の侵食

 
     公共空間−「仕事」

     私的空間−「労働」

公共空間は私的空間=生、そして性を支配している

     性−性道徳という支配テクノロジーを用いる

 

・田崎氏は社会や生物学はセクシャリティを支配はできても定義することは不能と説く

しかし受動−マゾこそが全ての本質であるとの考察から、ジェンダーとセクシャリティ

の二つをリンクさせる(社会的、歴史的、文化的に形成されてきた性であるジェンダー

の定義を覆す)

 

・キャサリン・マッキノン−ジェンダーをセクシャリティ(欲望・快楽)によって規定

 主体的に相手に欲望を抱く者が男、客体は女

  サディズム実践者は男

  マゾヒズムは女

      その中の男性支配

  では欲望は見されられることによって起こる(誘惑される)−ポルノグラフィ

   生まれて生物的に男であれば男として欲望するように(生きるように)環境が規定する

    =言語の習得と同じ

 

・欲望させる社会もまた誘惑されてきた(=従属の連鎖)

  そして公共空間の私的空間への侵食

→これらは防ぎようがない、だから新たな社会関係の提案としての共同体

  図C

 

 

 

<図C>

社会−誘惑=学習             共同体−相互間で誘惑しあう

            個人

 

 

 

 

結論

つまり、社会がセクシャリティ、ジェンダーといった概念規定を個人に誘惑(=刷り込むこと)事体が問題であり、さらに、お前は男だから女の裸を見て欲情せよと誘惑することも個人の存在の自由を奪うことになりかねない。だが、それと同時に社会、そして個人はすでに誘惑の連鎖に取り込まれ、マゾ−サド−マゾの繰り返しは社会というまとまりの中で個人を支配している。だからこそ、個人が誘惑されていることを自覚し、社会全体が一つに染まること無しに相互に欲情を認め合い、または新たな欲情に目覚めていく個人として生きていくことが大切なのではないか。誘惑のベクトルを変化させるのである。人間は本質的にマゾであるから、誘惑され続けるのである。

 

<メモ>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補筆

P37〜

カントからドゥルーズに受け継がれた理論

    ・私は「今において」私である=私は考える→それは今→それゆえ今においてのみ私である

                      

   デカルト

    ・私は考える=私は考えて当然、いつでも考える→それゆえいつでも私である

      

   フーコー

    ・今私が見る=過去の歴史は今の歴史=アナクロニズム

     数々の化石等の証拠が過去の可能性を提示=現在を作り上げる

      それに則って作り上げられたのが進化論

  P45〜

・生物学的な生の定義−マーグリス「二つ以上の源泉に由来するDNAの組み換え」

    真核細胞生物−DNAが核膜で覆われている→細胞そのものはセックスしない

    原核細胞生物−DNAがむき出しなのでどの個体とも遺伝情報を交換=セックス

     外部からの染色体を分解しないことが条件=動物的生の中断 SからM

  P53〜

   ベルクソンからドゥルーズへ引き継がれた理論

→人間(真核細胞生物)は外在性の個体=ある条件からしか生まれない

細菌(原核細胞生物)は内在性の個体=可能性同士を結び合わせる

P61〜

 ハンナ・アーレント

  ・内省して得られる生=「何者性」−自分は男である、学生である・・・・

  ・他者の評価に依存=「誰性」−あなたは臆病である、小物である・・・・

  ・人間の複数性=動物は同じ刺激に対して同じ反応

            人間はそれぞれ違った反応をする

  ・「労働」=日々の糧を得る                      −私的空間で

  ・「行為」=社会のルールを守る、礼法など            −公的空間で

  ・「仕事」=建築、家具、芸術品、結果が人間の死後のこるもの−公的空間で

 〇田崎−アーレントは生を論じても性を論じてはいない(P72、l20〜)

P65〜69 )

   ヴィトゲンシュタイン

・幼児が「痛い」という言葉を覚えるのも周りの環境からの訴えかけ(誘惑)による

 =私的空間―動物的生から公的空間―人間的生への移行

  人間は誘惑されて人間になる、すべての存在はマゾである

  P70〜

フーコー

 ・権力テクノロジー=支配層が自らを規律化することで規律を道徳として自身や社会の感情

             へと刷り込む。そこからそれをあたかも元から存在した正義であるかのように振る舞い、それをもって自らを優れた人間集団として支配に正当性を持たせる装置、技術

 

   

 

総括

 著者である田崎氏ご本人をお招きしての発表であったが、「誰もわかってくれてないのね。哀しい。」とのこと。氏はローラ・マルヴィとキャサリン・マッキノンに関しては批判的に見ておられたということで、マルヴィへの批判はレジュメでは1ページにあたる図@の最後の「快楽を否定せざるを得ない」が批判に当たると思われるが、興味ある方は現物を読んで欲しい。ついでながら、物語のサディズムと図@、図Bは映画のヒーロー(行動主体)=男性とヒロイン(客体、見られる対象)=女性という例を想像して頂きたい。概ね哲学、心理学に精通していなくても想像して補えば個々の事項は読めると思われる。だが、個々の事項を全体としてみると、意図を掴むのには発表者は失敗していると言える。

 マゾヒズムの強調は社会的弱者を救うことのサディズム的要素、つまり弱者を弱者のままにしておくことに対する疑問と批判、さらに弱者に強者となれ、行動主体となれという強制に対する疑問、それら表明しているというのが田崎氏ご本人の弁である。

 立命館大学において2003年度には前期は木曜日、後期は火曜日と木曜日に教鞭を取っておられるそうなので、是非疑問点はご本人に直接お伺いすることをお勧めする。

                                               発表者