新衛兵所――死者の記憶の変遷
シンケルの古典主義的傑作といわれる新衛兵所兵所は、第一次世界大戦から戦没者の追悼所として追悼のための建物となり、統治者によって政治利用されつづけた。93年、コール首相のイニシアティブで新衛兵所が「ドイツ連邦共和国の中央記念館」に改造されることが決定し、93年に落成した。
新衛兵所の歴史
1816−18年 |
旧砲兵隊主衛兵所にシンケル設計の新衛兵所が建築 |
1818年8/18 |
新衛兵所に国王近衛兵が入居 |
1914年 |
第一次大戦で、ドイツ軍の動員が新衛兵所から指令 |
1918年 |
ドイツ軍の武装解除が新衛兵所から指令 |
1918−1930年 |
新衛兵所の利用が論争(カフェ、銀行支店など) |
1924年 |
ミュンヘンに戦没者記念碑が建立 |
1924年 |
第一次大戦戦没兵士の帝国顕彰碑の設立をめぐる議論で新衛兵所が注目 |
1929年夏 |
プロイセン首相が新衛兵所の世界大戦戦没者記念館への改造を提案 |
1930年 |
ヒンデンブルク大統領が新衛兵所を第一次世界大戦の戦没者記念碑に定める |
1930年 |
プロイセン政府が新衛兵所の改造を決定 |
1930年春 |
コンペでテッセノウの(Heinrich
Tessenow)「1914−1918年」が受賞 |
1931年6/2 |
新衛兵所が記念館としての落成 |
1933年 |
正面の壁にオークの木の十字架、角櫓に二つの大きなオークワ飾りが設置 |
1934年 |
電灯による夜間照明設備の設置 |
1951年 |
新衛兵所の再建決定(1955年まで内容は未決定) |
1956年1月 |
「ファシズムと両大戦の犠牲者のための警告碑」にすることが決定 |
1960年 |
「ファシズムと軍国主義の犠牲者のため」にほぼ1931年のかたちで再建 |
1969年1/14 |
建国20周年を記念して新衛兵所の改造をSED政治局が決定 |
1969年 |
新衛兵所が6週間の建築期間で改造 |
1993年1/27 |
コールのイニシアティブで「ドイツ連邦共和国の中央記念館」への改造を決定 |
1993年11/14 |
国民哀悼の日に改造された新衛兵所が「ドイツ連邦共和国の中央記念館」として落成 |
その「記憶のかたち」の変化
1931年
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内部空間が立方体に改造/錬製の囲いの撤去/丸い天窓の設置/その下に黒いスウェーデン製の花崗岩のモノリス/その上にLudwig Geis作のオーク輪飾り(純金の案に代わって銀の核からなる235枚の葉に金とプラチナのメッキ、銀の核の上にネジで固定)/横に二つの燭台/前に「1914−1918年」:の碑銘のブロンズのプレート/床はラインの玄武岩溶岩石からなる複雑なモザイク/壁には貝殻石灰岩板が上塗りされ、温かい色調を出すために透明塗料が塗られる/横の窓がレンガでふさがれて窓形装飾に/正面は五つの軸のうち両脇が埋められ、三つの軸の高さが3/4に縮小、垂直の角材からなる格子戸が設置/鉄十字が三つの入り口の中央を強調/角櫓には鉄の盥(祝祭のときに火がともされる) |
1933年 | 新衛兵所の正面の壁にオークの木の十字架、角櫓に二つの大きなオークワ飾りが設置/二人の軍事的な歩哨が常置/日、火、金曜に「ベルリン守衛連隊」による大歩哨交代/正式名称は「顕彰碑」に |
1945年 | 空襲により激しく損傷 |
1960年 | 新衛兵所が「ファシズムと軍国主義の犠牲者のため」としてほど1931年のかたちで再建。十字架と碑銘プレートの撤去/蜀台は模造品/破壊されたままのモノリスが設置/オーク輪飾りを欠く |
1969年 | モノリスが撤去・分解/中央に正方形の沈み、緑の大理石が敷かれる/その上の台座の上にプリズム形につくられたガラスの立方体が永遠の火をともす/天窓は光を通すプレキシガラスの円屋根で閉じられる/炎の立方体の前に二つのブロンズ・プレートで示された無名兵士と無名抵抗闘士の墓が置かれる/無名兵士の骨壺が九つの戦場の土の入った壺で囲まれる/無名抵抗闘士の墓が九つの強制収容所の土が入った壺の中に埋め込まれる/東ドイツの国旗が正面の壁に設置/天窓、壁張り、入り口の状態は31年の状態 |
1993年 | 炎のガラスの立体形(ドイツ歴史博物館へ)に代わって、コルヴィッツのピエタ像の四倍レプリカが設置/その前の床に碑銘「戦争と暴力支配の犠牲者のために」/貝殻石灰岩プレートの新しい壁張り/玄武岩溶岩石による床のモザイクが復活/オリジナルの蜀台が設置/天窓が再開/無名兵士と無名抵抗闘士の墓は改造のなかに保持 |
「ドイツ連邦共和国の中央追悼所」としての新衛兵所の内装改築(1993年)
K. コルヴィッツの拡大されたピエタ像(「死んだ子供を抱く母親」像)
碑文
「戦争と暴力支配の犠牲者のために」
「新衛兵所は、1816年から1818年にカール・フリードリヒ・シンケルの計画にしたがって、プロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世のために建立された。1818年から1918年まで、ここは王立衛兵所として使用された。
1913年にプロイセン政府は新衛兵所を改築した。ハインリッヒ・テッセノウが「世界大戦戦没者のための記憶の場」を完成させた。回想を呼び起こす空間の中心には銀のオーク輪飾りをのせた花崗岩棺が置かれた。
第二次大戦の終戦直前に、新衛兵所は爆撃でひどく損傷した。
1960年から再建された建物を東ドイツは「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための警告碑」として使用した。1969年以後、室内の中央で永遠の火がともされた。
1969年、無名戦死と無名の強制収容所囚人の死亡した残りの者が埋葬された。彼らは第二次世界大戦の線上と強制収容所から運ばれた土で囲まれた。
1933年から、新衛兵所はドイツ連邦共和国の中央追悼所となった。
室内設計はワイマル共和国のものが引き続き再建された。追悼所の中央にはケーテ・コルヴィッツの拡大された彫刻、「死んだ息子を抱く母」が立っている。これはハラルト・ハーケによって完成された。」
「新衛兵所は戦争と暴力支配の犠牲者を記憶し、追悼する場である。
私たちは戦争で苦しんだ諸民族を追悼する。私たちは迫害され、生命を失ったその市民を追悼する。私たちは世界大戦の戦没者を追悼する。私たちは戦争とその結果によって故郷で、刑務所で、追放で命を失った罪なき人々を追悼する。
私たちは何百万もの殺害されたユダヤ人を追悼する。私たちは殺害されたシンティ・ロマを追悼する。私たちは、その出自、同性愛性向のために、あるいはその病気と弱さのために殺害されたすべてのものを追悼する。私たちは生きる権利を否定されたすべての殺害された人々を追悼する。
私たちは宗教、あるいは政治的信念のために死ななければならなかった人間を追悼する。私たちは暴力支配の犠牲者であり、罪なく命を落としたすべてのものを追悼する。
私たちは暴力支配に抵抗して命を失った男女を追悼する。私たちはその良心を曲げるよりも死を受け入れたすべてのものに敬意を表する。
私たちは、1945年以後の全体主義的独裁に抵抗したために迫害され、殺害された男女を追悼する。」
ここでは、ユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者、安楽死犠牲者から、市民犠牲者、ドイツ兵を含む戦没者、共産主義によって殺害された者まですべての戦没者が追悼されている。