『複製技術時代の芸術作品』(ヴァルター・ベンヤミン著)を読む
葉田 真也
このレジュメは、ベンヤミンの論文を狭く限られた視点で読んで、解釈したものであるが、研究会での主な議論の対象とはならず、アウラの解釈についての議論が行われた。その議論から私が考えた結果をこのレジュメの末尾に記しておく。なお、研究会で指摘をいただいたようにベンヤミンのこの論文をファシズム批判と受け止め、大衆の動員ということを考えると、大衆に関する明確な定義がわからず、プロレタリアートの幹部層というものが何を指すのかについても、私自身、よく分かっていなかった。従って、そのことについては、ベンヤミンの著作を読んでそれぞれで判断していただけるといいと思う。
芸術作品は、印刷技術などの複製技術の到来によって「大衆」というものを生み出した。そうした技術によって大衆を動員したのはファシズムであった。ベンヤミンはそうした技術を用いてファシズムに対抗するよう、暗に?プロレタリアートの幹部層に呼びかけているように私には思えた。
T複製技術はどのようにして「大衆」を生み出したか
@芸術作品を、礼拝的価値から展示的価値を表すものへと決定的に換える
礼拝的価値―呪術としての芸術作品の価値=人に見せるものではない
→少しずつ、展示的価値―人に見せるものとしての価値―をもつようになる=限られ
た人々(貴族など)が個人的に所有して見る
→複製技術により、あらゆる人々が芸術作品を所有し、見られる
Aその場、その時に自らの肉眼でものをみること―アウラ―を破壊する
芸術作品の永続性が失わせる→大量生産性=「その時」を失う
→アウラの破壊
持ち運び可能→何処でも見られる=「その場」を失う
@誰でも、A何処でも、何時でも、見ることが可能になった芸術作品が「大衆」を生み出す
*@、Aの減少は絡み合っている
U「大衆」とはどのようなものか
「大衆」=小市民、つまり、資本家階級でも労働者階級でもない、階級を超えて、或いは、階級から分離してできたもの
同じ“情報”―新聞、小説、写真集、映画―を共有すること
同じ話題を知り、共有し、評価することで生まれる連帯
←階級を超えた連帯の源泉
V「大衆」を動員するファシズムの魔術
ファシズムは、資本家―労働者間の搾取関係を変えることをなく、労働者からの支持をとりつけることに成功
→その要因
@小市民を作り出すこと
階級意識を持たせず曖昧にする
A情報操作を行う
B政治家の具像崇拝を作り出す⇒W
こうした、ファシズムの魔術に負けないように労働者階級の幹部もこうした技術を駆使して、逆に階級意識を目覚めさせ、資本家―労働者間の不平等を無くすよう努力せよ、というのがベンヤミンの主張の一つ
W芸術作品の真なるものと偽なるもの
@本物と偽物―芸術作品のアウラ

<いま―ここでしか>見ることができない=本物
<いつでも、どこでも>見ることのできるもの=複製可能品=偽物
複製技術の出現によって芸術の危機が訪れたという見方の出現、しかし、
否定
ベンヤミンはこうした見方が生まれるのは、芸術作品の礼拝的価値を守ろうとする動きの表れと見る
⇒芸術作品の危機は芸術作品の礼拝的価値の危機でもない、と見る
礼拝的価値は健在―例、俳優、歌手、アイドルのレコード、写真―展示的価値
コンサートなどでじかに見る、会う―礼拝的価値
ファンは、写真などを見ることによって、逆にその人に会いたくなる⇒
⇒展示的価値は逆に礼拝的価値を高める、とする
これのファシズムによる利用で政治家の具像崇拝的人気が作られる
Xベンヤミンによる評価、結論
《芸術の大衆化=展示的価値の台頭》を歓迎、プロレタリアートによる利用を期待
しかし、ファシズムによる利用←非難
《芸術の大衆化=展示的価値の台頭》を+、−の両面性があると評価
Y私の意見(私の理解、解釈が合っていればの話)
+、−の両面性があるという意見には賛成だが、ベンヤミンの言うようにプロレタリアートによる利用にもファシズムと同じ危険性が潜み、それはプロレタリアート幹部に予想もできない、彼ら自身にも制御不能の大衆の暴走を招きかねない、と思う(ベンヤミンはその暴走がファシズムに利用されていると言い、プロレタリアート幹部にもその利用を促す)。
研究会での議論の結果 次のページへ
Z研究会の議論から考えたこと
先ほど上げた議論は、ベンヤミンの論文を左翼的に見た場合である。しかし、主に議論の俎上に上ったのは、アウラについてである。
アウラとは何か? 私はこれについて議論しながら、もう一度、考えてみた。
アウラに対する、私の理解の一つ目は、レジュメにある通りである。私の考えるもう一つの理解の仕方はこうである。
複製技術は、多くの量産品を生み出した。既に述べてあるように、それは、芸術作品の展示的価値を高め、それによって礼拝的価値をある一面では高める。しかし、それが高められるのは特定の個人、芸術品だけであって、実は、他の平凡な大衆(個人)、量産できる芸術品などは、その価値をむしろ貶められる―ここで、人間までもその対象となっていることに注目していただきたい。絵画、写真などで崇拝の対象となっている個人は、芸術品の一部となっていき、人間が物と同じ領域で評価されるようになっていく。すると、一般の人々も、同じ次元において評価されるようになり、一般市民は複製可能なものとして、その命の価値までも失いかねなくなる。人間の命を物として見て、ゴミのように殺していく、これが近代の戦争、社会である、と考えてみる。
すると、アウラを物に含まれる価値そのもの、もっと分かりやすく言うと、物質そのものであること、と考えることもできる。例えば、人間は、山田太郎なら、山田太郎としてのアウラを持ち、彼がその人であることそのものに価値―アウラ―がある。そして、バナナなら、その個体?としてはこの時空に一つしかない。この時空に一つしかない、かけがえの無いバナナを食べてみよう。すると、バナナは噛み砕かれ、胃にはいり…と、姿を変えていく。バナナはそのアウラを失うのではなく変えていく、アウラの転換である。人間も同じく、死んでしまえば、物体としてのアウラとなる。その物体はこの時空で1つしかない! やがて、土に返っても、土に溶け込んだ原子(もっと小さいのかもしれない)1粒1粒のアウラとなる。
では、ここから、アウラの破壊をどういうこととして捉えるか。つまり、どこにでも、いつでも存在する、希少価値の少ないもの、となるということことである。もちろん、アウラは物体を破壊することによって破壊されるのではなく、希少価値を失うことによって破壊される。しかし、ここで注意されることは、本来なら、複製品でも、誰でも、アウラを持っている。つまり、希少価値はある。たくさんある同じものでも、いま、ここにあり、そして、手にしている、或いは、見ること、会うことのできる、もの人、その個体はこの時空でただ一つしかない。だから、アウラの破壊とは、その人、もののアウラから目をそむける、そむけさせること、そして、バナナのアウラの破壊とは、バナナのアウラから目をそむけること、バナナを何処にでもあるものの1つと見ることである。そして、これは、自然の成り行きとして、人間にたいしても行われるようになる。それは、人間個人のアウラの破壊からではなく、人間そのもののアウラの破壊―人とものを同じように考えること―からである。
ここから、現代の日本の社会に目を向けてみよう。アウラは破壊しつくされ、もはや、特定の個人のアウラでさえ危うい。特定の個人に対する礼拝的価値は減少してきていないだろうか。もの、個人に対する礼拝的価値の完全な喪失は、この世のすべてのアウラ完全なる破壊である。人類がアウラを失えば、この地上にもはや人類の生きる場所はなくなる。そして、我々の住むこの大地はアウラを失うことなく悠然と生き続ける。人間による自然の破壊など彼の気に止めるところではない、彼は、木っ端微塵隣に砕け散り、塵となっても、また別の存在として真空の一部となって生き続ける。しかし、ここまでくると、アウラはこの時空のどこにも存在しないかもしれない。なぜなら、それをアウラと呼ぶ人間はもう、存在しないのである。人間が消えるとき、アウラは消えるのか? この問いに対しては、お答えしないでおこう。