ジョルジョ・アガンベン Giorgio Agamben
人権の彼方に
Mezzi
Senza Fine
1.「生存」と「政治」
・「生の形式」ゾーエとビオス
ギリシャ人の生(vita)の二つの用語
ゾーエー 生の一般的事実⇒動物、人間、神々の共通の生
ビオス 集団に固有の生⇒形式をもった生(市民の政治的権利の生)
生の型式とは=様々な生の様態(政治、社会的存在)から剥き出しの生を分離できない生
ポリス ビオスの存在する最高の共同体=国家共同体(アリストテレス「政治学」)
ゾーエとビオスは今日限りなく同一化されている。バイオ(ビオス)は単なる生を示す。
M・フーコーの指摘
古代⇒ゾーエとビオスは明確に分離。人間の特有のビオスが営まれる場がポリスであった。
近代⇒ゾーエがポリスに侵入する。政治がゾーエに直接関わる。★ 「生政治」
生は法的権利として死の権力を付随する。
生という権利 父権による法的権利…息子を殺す権利⇒生殺与奪権をもっている。
ローマの家父長の権 性の歴史「知への意志」c5 死に対する権利と性に対する権利
★@生かすことも死することも決定できる権利⇒非保護の状態「剥き出しの生」という生
★
政治が人間の「剥き出しの生」そのものに関与する。
ローマ法における(vita)⇒vita e nex (生と死)ともに属格〜の ⇒vitae necisque potestas +queによって〜及び〜となる =il potere di vita e di morte
現在の政治権力は剥き出しの生の圏域を生の型式から分離することに基礎をおいている。
父の生殺与奪権は主権権力にも当てはまる。
「剥き出しの生が保存され保護されるのは、主権者のもつ(あるいは法のもつ)生殺与奪権にこの生が従属する限りにおいてである。」人間の生に関係する「聖なるsacer」の意味
★A「例外状態」=社会的な数々の生の剥き出しの生が政治権力の究極の基礎として問いに付されるとき。
(個人的関心=都市から排除すると同時に包含することが問題となる究極の主体⇒剥き出しの生)
被抑圧者の伝統⇒「例外状態」は規範である…ベンヤミン
主権の隠れた基礎−剥き出しの生が(ベンヤミンの指摘から50年)支配的な生の形式となる
マルクスのいう人間と市民の分裂 単一の<生の形式>に凝縮することで分離する。
人間vs法的社会的な同一性(有権者、HIV陽性者、女性)
「今日問題になっているのは生」であり、したがって政治は生政治なものになった。とするフーコーに同意する。
@アガンベンのプロジェクト
★★アガンベンはフーコーが「性の歴史」3部作で完成し得なかった生政治の考察を受け継ごうとする。しかし、主権や国家というアプローチを否定するフーコーに対してアガンベンは権力の法制度的モデルと生政治的モデルの隠れた交点の存在を指摘する。ローマにおける「ホモ・サケル」という法的保護の外に放り出された剥き出しの生と法的政治的共同体の密接不可分な関係が政治権力の本源的な姿ではないかと指摘する。さらに、「剥き出しの生」の空間が政治の空間と一致するようになり、排除と包含、ビオスとゾーエーの区別が不分明地帯に突入したと近代政治の特徴…グレーゾーン。 |
「ホモ・サケル」=「聖なる人間」…ローマの古法に登場する。
古代のローマ人は親に危害を加えたり、境界石を掘り起こしたり、客に不正を働いた者を処罰するにあたり、それらを「ホモ・サケル」と呼んだという。この場合この者に法律が適用されるわけではなく「聖なる人間」として単純に法律の適用から除外される。つまり世俗の法秩序の外にある存在として、この者は誰が殺害しようとも殺人罪に問われることなく殺害することが出来る。また「聖なる人間」として神と同類とであるとみなされ神の犠牲として供されることも出来ない。このように主権者が「例外状態」を法律の宙刷り状態にしておいて、さらに剥き出しの生の置かれた者を父権の生殺与奪権のように権力を行使する「生政治」である。つまり「生政治」は政治的権力と密接不可分な関係をなしているという。
アウシュビッツ、移民、難民、在日朝鮮人、被差別部落、沖縄、ホームレス、HIV陽性者。
「生にとって、生きるということにおいて、問題となるような生が、すなわち潜勢力をもった生が可能だろうか?という問いである。」私は生きていると宣言する生!
生の理解=思考…生と人間の知性との潜在的な性格を対象とする経験
↓
思考によるある一つの生の形式が⇒固有の事実性と物性において⇒生の形式へ
↓
剥き出しの生を隔離できなくなる
思考の経験=共通の潜勢力の経験。(共同性の必然的に潜在的な性格の持つ機能)
潜勢力によって他者と交流可能性により交流。…ベンヤミンの直感
社会的潜勢力としての知性(マルクス−「一般知性」)⇒思考そのものに内在する数多性Multitudo
↓
数ある生の形式を<生の形式>へと構成する単一的な潜勢力
剥き出しの生を生の形式から分離する「生政治」によって自己肯定する国家主権に対し知性及び思考は、生を生の形式へと結び直す潜勢力
思考=剥き出しの生に暫定的に「法権利」という服を着せて剥き出しの生の代わりをしている「人間」と「市民」の手中に剥き出しの生を遺棄しながら、到来する政治の主導概念
★★「剥き出しの生」「例外状態」「聖なる人間」「生政治」
Aアガンベンのプロジェクト
アガンベンはフーコーの「生政治」を継承しながら、もう一方でハナ・アーレントの「全体主義における起源」における第五章「国民国家の没落と人権の終焉」で国民国家と人権のアポリアについて考察しながら、アーレントが思考しなかったフーコーの「生政治」との交点を探し出そうとしている |
国民国家と人権への懐疑
西川長夫氏は「新しい公共性」第3章4節「多文化主義の彼方にあるもの」でアガンベンの「人権の彼方に」を引用して、国民国家と人権の問題について考察している。
アーレント「全体主義の起源」
多義性a人権の擁護、公共圏の充実、拡大 b国民国家と人権への懐疑。
難民と無国籍者の歴史認識⇒「難民は、あらゆる権利を失いながら、新たな国民的同一性にぜひにも同化したいとはもはや望まず…。(ユダヤ人・典型的な少数民族)」「国から国へと追放された難民たちは、それらの人民の前衛をなしている。」
「人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときである。この足場によってのみ人間はそもそもの諸権利を持ち帰るのであり、この足場こそ人間の意見が重みを持ち、その行為が意味を持つための条件をなしている。自分が生まれ落ちた共同体への帰属がもはや自明ではなく絶縁がもはや選択の問題ではなくなったとき、あるいは、犯罪者になる覚悟をしない限り自分の行為もしくは怠慢とは全く関わりなく絶えず危難に襲われるという状況に置かれたとき、そのような人々にとっては市民権において保障される自由とか法の前での平等とかよりも遥かに根本的なものが危くされているのである。」
金大中前大統領は韓国における外国人の選挙権を認めない法律を成立させた。これにより在日朝鮮人の参政権要求は切り捨てられた。国家という境界が彼らを宙吊にする。
難民という観点から現代の政治哲学を再構築する。
国民解放の原理である民族自決権の拡大(1919〜1920) 国境⇒支配民族と少数民族
少数民族は民族自決の機会を失う…保護の対象。
大衆現象(移住)としての難民の出現。ロシア、トルコ、東欧、バルカン、スペイン内戦…etc。
難民⇒無国籍者を選択(生き延びの不可能性)。←新政府−国籍剥奪、帰化国籍剥奪法。
1915フランス「敵国」出身の帰化市民に関する法…ベルギー、ファッショ・イタリア。
無国籍者の第一の損失=故郷の喪失(自分の足場と空間の喪失)。
★日本の帝国支配=日韓併合による国境線の変更⇒少数民族化と国籍の剥奪をみよ。
国際連盟から国際連合⇒難民・人権問題解決にあって無力(政治から距離を置いて設置!)
無力さの理由 国民国家の法的秩序に生まれを記入「基礎的な観念自体の両義性」
・人民主権と人権の融合の問題、人権と国民国家を結合という不明確さ。人間⇔市民
「国民国家の政治秩序の中に、純然たるありのままの人間のための自立的空間がない。」
生まれが主権の直接の保持者…生まれがただちに国民となる。
人間に与えられる権利は市民の登場とともに即座に消滅する前提。人間は人間としては決して明るみに出ない。というパラドックス。
難民が起こす不安=人間と市民の同一性、生まれと国籍の同一性を破断⇒主権虚構の危機
難民の具現 =国家−国民−領土…古い三位一体を破壊
ヨーロッパに出現した難民生後の空間 ★監禁収容所−強制収容所−絶滅収容所
ナチの収容所−ユダヤ人、ジプシーの国籍を剥奪した上で「最終解決」⇒剥き出しの生
EUの非合法難民(アーレントにない視点)2000万人の移民を予測⇒市民ではない定住民からなる大衆=出身国の国籍をもつが保護を享受しない「事実上の無国籍者」=denizens
居留民の用語⇒市民という概念が近代国家の政治的−社会的現実を叙述するのに不適切
産業先進諸国の市民⇒市民でない定住民に変容⇒潜在的な不分明の地帯へと記入され
★ヨーロッパで再び絶滅収容所が開設されてしまう前に国家−国民−領土という問いにふす“勇気”を持たなければならない。 |
イェルサレム問題の解決にあったって考慮される可能性
「イェルサレムが、領土分割をしないまま同時に二つの異なる国家の首都となる。」二つの国民国家が境界の分断から⇒同一の地域に二つの政治的共同性=一連の外領土性(ただし中国の香港、台湾政策は政治的共同ではなく一つの国家への包含が前提となっている。)
「人民という古い概念が国民概念に決然と対立してふたたび政治的な意味を見出す…。」
「ヨーロッパの諸都市は相互的な外領土性という関係性に入りこみ、世界都市というかつての使命を再び見いだすわけである。」
★レバノンとイスラエルの中立地帯、アーレントの「それらの人民の前衛」
「私が最後の節でアガンベンを引用したのは、こうした目のくらむような歴史的変化を前にして引き返すことをしない強靭な思考をそこに認めたからであった。」「新しい公共性」の第三章の最後に西川氏は書いている。
日韓併合後の日本と朝鮮の関係は正に国家−国民−領土においてアガンベンの考察が新たな視点を与えている。 日本による植民地支配で朝鮮の農地所有構造が変容され、中国人労働者の朝鮮進出で大量の農民が難民化し日本に移民した。そして、強制連行は朝鮮人が剥き出しの生に置かれたという歴史の再認識を可能にする。日本人とされながらも生まれによって炭鉱労働者として収容されたことは、その空間が「例外状態」の収容所として剥き出しの生の中に朝鮮人を置いたということではないか。 |
収容所とは何か
「収容所で起こったことは、犯罪という法的概念を超えている。」
「例外状態」=社会的な数々の生の剥き出しの生が政治権力の究極の基礎として問いに付されるとき。
収容所の出現 植民地人の蜂起を鎮圧する為に1896年にスペイン人がキューバに作った。
ナチの収容所の法的基礎=普通法ではなく予防的な警察的措置
例外状態と強制収容所
「収容所とは、例外状態が規範そのものになりはじめる時に開かれる空間のことである。」
法が全面的に宙吊りされている例外的空間⇒一切が本当に可能…国籍剥奪、非市民
政治的立場を奪われ剥き出しの生へと還元された事実⇒収容所は絶対的な生政治的空間
・1991年アルバニアの非合法移民を閉じ込めた・イタリアのバーリの競技場
・ビシー政府がドイツ人に引き渡す前にユダヤ人を集めた冬季競技上
・難民申請中の外国人を留置しておくフランスの国際空港の待機地帯
・旧植民地の台湾人や朝鮮人を「第三国人」として、在日朝鮮人強制追放のために、日本政府が設置した長崎県大村収容所。
収容所は剥き出しの生と政治的な生が絶対的な不分明地帯
収容所の誕生と国民国家の構造=生まれ(国民)、秩序(国家)、局在化(領土)。
⇒剥き出しの生の記入(国民となる生まれ)
生まれ(剥き出しの生)と国民国家との間のますます拡がる隔たりは、現代政治の新事実
われわれが「収容所」と呼ぶのはこの隔たりのことである。
・旧ユーゴスラビアに極端な型式の民族強姦収容所の出現。
・旧ユーゴのオマルスカおよびケラテルム強制収容所での残虐行為
「全面的に新しいひび割れに沿ってなされる、古い規範(ノモス)の取り返しのつかない破断であり、住民と人間の生の数々との解体である。」
ナチはユダヤ人女性を妊娠させることで「最終解決」を行わなかった。
今や生が国民国家の中に記入される原則は解体と漂流の過程に入る。錯乱した規範的定義
「いまや都市の内部に自らを確固と捉えた収容所は、この惑星の新たな、生政治的な規範である。」
★ヨーロッパで再び絶滅収容所が開設されてしまう前に国家−国民−領土という問いにふす“勇気”を持たなければならない。
「アウシュヴィッツの残りもの」
強制収容所からの奇跡的生還者たちの証言・プリモ・レーヴィの証言から人間のすべてを剥奪された非人間と人間、生と死、の不分明にいた「回教徒」(回教徒のように腰を曲げたまま動くことも死ぬことも出来ない状態のガス室の寸前にいる収容者)という「近代的なものの生政治的な規範。」である極限的なケースに目を向けて、「生政治」の実態に注目している。 |
難民・無国籍者・「事実上の無国籍者」=denizens居留民、彼らが国家−国民−領土という古い三位一体を解体する前衛である可能性に注目する。強制収容所は難民という人間と市民の連関を断ち切る近代国民国家の危機を表象する。これらは近代の国家、政治、社会を定義付ける。そして、アガンベンは新たな収容所が設置される前に“勇気”を持って問いかけ警鐘を鳴らしている。
★ いくつかの躊躇
1. 生まれによって政治的身分を保証される側にとって、これほど都合よく機能する制度を否定しきれるだろうか。自助努力や競争にさらされることなく生政治によって保護されるならば、被保護の大多数にとって有利な権利ではないか。
2. イェルサレムが、領土分割をしないまま同時に二つの異なる国家の首都となるという、同一の地域に二つの政治的共同性の可能性を示している。しかし、民族アイデンティティによって剥き出しの生から市民性を繋ぎとめてきた人々に、民族性に代わる生をどのように定義し、また文化の多義性を超えてアイデンティティを共有することが出来るのか。
3. 現実に人々は生存の空間を共有しなければならない。生まれによる社会的既得権益に守られる者と「例外状態」の剥き出しの生を余儀なくされている者、これらの両者を衝突という解決なくして何が可能だろうか。
4. これらのことが、さび付いた「革命」という言葉をまた呼び起こすことにならないだろうか。日本共産党が在日朝鮮人との共闘に「労働者」「人民」というロジックを使ったように。
5. 近代市民としての社会が新たな規範にとって変わられるにせよ、外領土性に基づく居住空間の分配に対する何らかの規範を用意する必要があるのでないか。
6. 居住権の分配に連関する「生政治」のあり方は、人権と深く結び付けられた言説である。人権宣言にみる第二条、自由、所有、安全の権利が生まれと国民を結び付けている「生政治性」に対して、生まれと所有(感情としての国民⇔土地)の見直しをすることが出来るだろうか。
参考文献資料
・ジョルジョ・アガンベン 2000 「人権の彼方に」 以文社
・ジョルジョ・アガンベン 2001 「アウシュヴィッツの残りもの」 (有)月曜社
・ミシェル・フーコー 1986 「性の歴史 T 知への意志」 新潮社
・山口 定・西川長夫 2003 「新しい公共性」 蒲L斐閣
・ハナ・アーレント 1972 「全体主義の起源2」 鰍ンすず書房
・ヴァルター・ベンヤミン 1969 「暴力批判論」 鰹サ文社
・アリストテレス 2001 「政治学」 京都大学出版会
・西成田 豊 1997 「在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家」東大大学出版会
・ジャン・モランジュ 1990 「人権の誕生」 蒲L信堂高文社