心のままに


心の向くままに私の気持ちを書く場所を
新たに作成しようと思いこのページを作成しました。
介護生活が長いと自然に自分を見落としがちになってしまいます。

そんな私にこの17年を振り返らせてくれる
大きな出来事が今年起こった。
それは看護協会で一年に一回行われる
看護婦さんを対象にした介護体験談。
お話を持って来られたのは母の訪問看護スティーションに
勤務されているケアマネさんからでした。
所要時間は1時間、何でもOKと言うことで
その場で引き受けてしまいました。
普通だったら躊躇する所ですが私はネットの方からも
「やってみる派」と言われている。

私の人生の半分近くを占めている介護について
毎日を過ごしていると辛いこと、悲しいこと、楽しいこと
その全てが時と共に風化されようとしていた。
改めてHPに書いていることを読み返しているうちに
少しずつ思い出す。


                
                
体験談発表前編


母のケアマネさんから体験談の発表のお話を頂いたのは
今年4月、6月に看護婦さんを対象にした講習会があり、
その中に介護をしている方の講演を聴く場が設けられているそうだ。
今年は母のケアマネさんが講習会の段取りを仕切ることになり
私に白羽の屋がたったようだ。
母のケアマネさんとは訪問看護の時からのお付き合い。
かれこれ7年ぐらい経っているのではないだろうか?
最近はパソのデーターも「パワーポイント」と言うソフトを使用すると
この内容がスクリーンに映し出されると言われた。
病院にそのソフトがあるから便利ですよ・・・と。

まだ時間があると思いHPの更新も兼ねて写真を撮影した。
自分の持っているソフトを遣ってA4の用紙にも印刷を試みる。
自分なりに工夫していること、病院から買い求めている物
薬のように以前はそのまま手渡しだった物も最近は朝夕
服用する時間に合わせて全部の薬をホッチキスで止めて下さる。
とても便利、昔なら薬の仕分けに結構時間を掛けていたから。
写真の編集など簡単な物からHPにアップする。

5月末ケアマネさんが見え、6月4日のことですが・・・と言われ
目が点になる。
後日日程はお知らせします〜と言われていたが4日後は急であった。
色々考えたがネットに直接接続できたら資料作成の時間が省ける。
そう考えネットが出来るか確認して貰うことにした。
ケアマネさんが帰宅されてからすぐ資料作成に掛かる。
数枚のページを新たに作成しHPに上げる。

翌日メールでネットOKの返事を頂く。

発表前日看護協会から電話が掛かってくる。
「ネットが出来るパソは2台で、今回使用する講堂にはその設備が
設置されていないから資料を準備してほしい・・・」
資料???どうしょう (/_;。) ウッウッウッ
泣いている時間は無い !!
まずは新たに製作する時間は無いのでHP用に作成した物を
どうにかして印刷できないか考えた。
Wordにページをコピーして印刷を試みる。
表の部分、スペースの部分を考えながら一ページをコピー。
上手く言った  (~▽~@)♪♪♪
これで資料はどうにかなるだろう。
1枚、2枚、3枚・・・プリンターが止まる   (・・?)  
多分インク切れ・・・と思い交換する。
いくら動かしても用紙送りをしない。
心の中で「どうしよう・・・」
これ以上は私の手には負えない。
主人の帰宅を待つしか手段は無くなった。

主人を迎えに行き、プリンターが動かなくなったことを話す。
帰宅後見て貰うと、以前から一つインクが無くなっていた。
そのまま使用していたことが原因のようだ。
クリーニングを行ないプリンターは稼動した。
ヽ( ̄ ̄∇ ̄ ̄)ノ ランラン♪  これで大丈夫 !!
夕食後印刷に取り掛かる。

枚数にして17枚・・・こんなに印刷して大丈夫か?
まぁ〜何もないよりは良いだろう。
ようやく資料完成 !!

明日に胸を膨らませ就寝する。


体験談発表中編


いよいよ体験談発表当日〜♪
昨夜資料は全て準備をしているので午前中は
普段通りのお掃除、お洗濯をする。
発表をする会場は看護協会で場所は???
そんな私の為に訪問看護ステーショからお迎えがある。
自宅の方は私が留守をしている間ステーションから
別の看護婦さんが見える段取りがついている。
予定時間は講演と往復の交通時間をいれて約三時間
前日その時間に希望することを聴かれた。
「散髪を希望〜♪」と伝えた。
看護婦さんは系列のステーションから見えることになっていた。
以前訪問看護で見えていた看護婦さんなので安心。

予定では1時だったが早めにチャイムが鳴った。
いつも見えている看護婦さんともう一人若い方が一緒だった。
看護大学の学生さんで現在地域実習中と。
一緒に車に乗り一路会場へ向かう車中で色々聞かれた。
「どんな話をするのですか? 今日は仕事があるから聞けなくて残念」
「原稿は見ても多分その通りに読めないから作成していないの。
ただ年月が長い分悲しいこと、辛かったこと、そして楽しかった事
そのどれもを忘れてしまっているから自分のHPに書いていることを
触りの部分だけ読んで来たわ。」

それからの道のり、アルツハイマー病と診断された時、食事のこと
胃瘻をすることになった経緯などを話した。
「そんなに話していいんですか?」と看護大の学生さんが言った。
「これはねまだ断片的な話なのよ。」
「実際にはどうなるかは判らないけど自分の言葉で話すわ」
私はそう答えた。

道が空いていたので予定より早く会館に到着。
そこは「社団法人 宮崎県看護協会ナースセンター」だった
事務所に行くとセンター長の方に迎えられる。
暫く話をし資料を渡しコピーを依頼する。

会場は会館の中にあり、沢山の机と椅子が並べられていた。
きっと普段ここで講義があるのだろう。
担当のケアマネさんに導かれて前の方に進む。
簡単な紹介と担当ケアマネさんとの関わりの説明があった。
いよいよ私の体験談発表 !!


体験談発表後編


緊張しながらも会場前の演台に立つ。
会場には約40人の色んな病院や施設で働いている看護婦さんがいた。
マイクを使用するように言われたが恥ずかしいので断った。
二言三言話すと後ろの方から「聞こえませ〜〜ん」と声が掛かる。
マイクを持ち自己紹介をする。
見渡すと顔見知りの看護婦さんもいる。
母が17年前アルツハイマー病と言われた内科の看護婦さん
現在ホームドクターになっている病院の病棟の看護婦さん
何処の病院だったか???でも顔を知っている看護婦さん
私ってきっと上がっていなかったのでしょうね。

どのような切り口で話そうか悩む・・・
コピーの順序が狂い両親の病歴、入院歴が来ていない。
自分の段取りでは一つの流れを考えていた。



1  両親の病歴、入院歴

2  長年続けてきたこと
     音楽療法
     土曜日の外食
     主人の送迎
     夫婦で共通の趣味を持つこと
     仕事

3  その時の出会い
     先生、看護婦さん

4  家族は名ドクター
     入院中の風邪・・・
     脱水、肺炎の前触れ
     意思の疎通が無いと言われて
     発熱時の対処法
     痙攣

5  診察、検査より大切な問診
     私の体験

6  心のケア
     介護は悩みの尽きない世界
     介護を受ける側よりフォローが必要な介護者

7  介護保険は家族の支えになっているか?
     訪問看護とヘルパーさんの違い
     デイについて

8   介護の終わりは楽になるのか?
     燃え尽き症候群
     在宅介護と病院

9   インターネットと介護

10  自分の将来の夢
     オフ会参加
     介護と言う共通の体験が支えあう



持ち時間は約1時間、質疑応答に30分の予定。
両親の記録用紙が出来ていなかったので話の手順が狂った。
何処から話そうかと考え健在のことの生活のこと
インターネットと介護を最初の題目に決めた。

現在私はHPを持っています。
毎日介護をしている方と「おはよう〜」「今晩は〜」と
ネットを通して色んな会話をしています。
家に居ながら、そして介護を続けながら・・・
自分の体験していることや工夫していることを
HPを通して情報を提供していることを話す。
その一部に「私の工夫」していることを写真で紹介。
残念なことにカラーで印刷したがコピーが白黒だったので
写りが悪くよく見て頂けないので説明後回すことにした。
勿論先日作成した「ALS用唾液吸引器」の紹介も。

今の世の中は情報が溢れている。
でもその中で自分のほしい情報を得ようとすると見つからない。
母がアルツハイマー病と診断された当時は
書店にすら並んでいなかった。
退院指導の時に看護婦さんが購読する本を
書店で取り寄せするように言われた。
その中にごく一部「アルツハイマー病の対処法」と言う項目があり
何度も読んでみたがその時点では何のことだか理解に苦しんだ。
一年後「花いちもんめ」と言う映画の影響か
書店で三冊の本を見つけた。
その中に「音楽療法」が載っていた。
藁をもつかう思いで母の知っている童謡を掛けてみた。
反応なし・・・・・
それから7年後骨盤骨折で入院した時に「レベルの低下」と言う
段階に入り、食事をすると窒息状態を繰り返した。
毎日一日3回食事介助に行っていたが何もすることが無くなった。
そんなある日、看護婦さんが「音楽でも聴かせたら〜」
と言って下さった。
早速カセットテープに色んな音楽を吹き込んだ。
「コンドルは飛んでいく、オカリナ、宗次郎、童謡」
最初は反応が無かったが病棟に響き渡る高音の音楽は
とても心地よく聞こえた。
二週間後少しづつ反応が現れた。
音楽に合わせて鼻歌が聞こえてきた。
その後は病室で流して貰うために若い看護婦さんが好きそうな
J−POPをレンタルで借りてカセットにダビングした。
これは成功〜♪
私がいない時でも掛けて下さっていた。
数年前の新聞に前頭葉の病気には「J−POP」が血流を30%
多く流し、「セレナーデ」は痛みを和らげる血流を30%多く流すと
書かれていたことを伝えた。
看護婦さんの中にはその記事を読まれたようで頷く方もいた。

母が発病してから家の家事は私がすることになった。
炊事、掃除、洗濯・・・
それまでは母に全てを任せて仕事をしていたので大変。
特に父の食事には手を焼いた。
偏食、それに味付けにうるさい。
自分の味に合わないと箸も付けない。
中華、和食で出される前菜、素材も沢山嫌いな物がある。
仕事をしてから二種類の食事を作るのはとても嫌だった。
母は発病後両手が思うように効かないから全介助が必要だった。
自分の口に一口、次に母の口に一口
お茶などは飲みずらいのでストローを使用する。
左効きの私は箸を左手に、右手にコップを持ち指でストローを抑えた。
そういう生活が毎日続く中で週の終わり土曜日に
外食をすることにした。
その時間だけは献立に悩まず食べる事に専念した。

私が結婚した時既に母は発病していた。
どうしても家を出る事は考えられなかったので
私の祖父の家に住むことにした。
主人とは介護生活に入って3年目パソコンのオフ会で知り合った。
私の職場に入ったパソはコボルと言う言語で動いていた。
とても不便で「ここをこのように換えてください。」とお願いしても
「大変なのでできません〜〜」と返事が返ってくる。
その頃はパソはまだ高級でなおかつ難しいものと言われていた。
自分のこれからの将来を考えていた時にニュースで
パソコン通信が取り上げられていた。
思い切って仕事が終わってから3ヶ月間専門学校に通った。
色んなことが判り勿論仕事にも役立った。
その教室で主人と知り合うきっかりになった。
と言っても主人は学校が終わった教室を借りて開かれていた
パソコン通信のクラブに入っていたのです。
私はパソは買えなかったのでワープロで通信を始めた。

3年の交際期間後結婚を決めた。
主人は両親が40代で亡くなっていたので兄弟も快く
私の実家に住む事を許可してくれた。
自分で歩いていた母も結婚して6ヶ月後寝たきりになり
私の生活は全てが変わった。
東京にいる時に運転免許証は取ったのですが
帰郷後はず〜っとペーパードライバーだったので職場には
朝はバス亭まで、夜は職場まで迎えに行く事にした。
何処かに不満があると同居では無いが継続することは難しい。
私は運転は嫌いでは無かったので、両親が在宅、
入院に関係なく現在も毎日続けている。

2年前の2月、母が発病した後も続けていた仕事を止めた。
会社の経営が悪く、これ以上働き続けるには座り心地が悪かった。
そして厚生年金が20年過ぎたことが私を決心させた。
母が発病後自分の将来について考えた。
私は自分の人生は「介護の人生」で終わりたくなかった。
だからどんなに大変でも介護と仕事を両立させてきた。
私は現在二つの病気を抱えている。
勲章・・・いや私は「がむしゃらに生きてきた。」からだと思う。
これから介護を続ける方には楽しみながら
ゆとりのある介護生活を送ってほしい。

私は今月に入ってヘルパーの依頼を全部断った。
要介護5の母と要介護2の父の介護
普通だったら何処かに「手助け・・・をして」とお願いするはず。
介護保険も施行され世の中で在宅介護を推進している。
でも実際に現場ではどうなのか?
在宅介護をしている方はどれだけ助かっているのか?
私は大きく悩むところ。
資格・・・資格を持っていても実技がどれだけできるか?
現場である在宅は毎日が実技である。
介護保険は時間で支払う。
能力のある方はてきぱきできるが、時間内にできない方もいる。
そういう方が多いと追徴金を請求される。
私はこのことに納得がいかない。
どの人がしても同じようにできる・・・これが最低限の条件だと。
納得いかないところからどんどんプランを減らす。
一日3回が2回さらに1回に、そして今月0回にした。
私は10分でシーツから更衣の交換ができる。
でもヘルパーさんはシーツの交換でオタオタしている。
以前事業所から「介護のプロ」は「家族」と言われた事がある。
私はそれは間違っていると思う。
家族、看護婦さん、ヘルパーさん
そのどれもがパーフェクトにならないと在宅を続けることは難しい。

在宅を続けていると訪問をしている方は
依頼されている患者さんだけのことを考えます。
在宅を続けられる大きな要因は家族の協力。
そして一番介護をしている方の健康と精神面です。
病気のこと以外にも色んなことで悩んでいます。
本人も気づかないうちに病気になっていたり。
訪問の時は家族の顔色にも注意とねぎらいの言葉を掛けてほしい。
ほんの少しのねぎらいが明日への糧にと変わっていくから。
介護を通してインターネットで知り合い、交友を深めている方が
東京、大阪でオフ会を開いています。
逢った時は介護のことを忘れ、世間話に花が咲く。
そんな時間を持つためにショートスティや病院、ディに預け
その時間を思いっきり楽しむ。
毎日辛い介護をしていてもその日があるから頑張れる。
そう考えられる時、人は脱皮して大きくなると思う。

私もまだ人生の半分して生きていない。
残りの人生介護に埋もれて過ごすのは寂しい。
皆さんもそう思いませんか?
自分の人生は自分で掴んで歩いて行かないと。

私の将来の目標は・・・
何時かは介護生活には終わりが来ます。
その時ネットで知り合った方を訪ねて歩く〜♪
日本中北から南まで。

「燃え尽き症候群」
この言葉を聞いたことがありますか?
私は2年前父が肺癌と診断された時になりました。
初めての病気、いままでの介護とは違う !!
これからどうなるのか不安になり母を病院に預けた。
母が病気以外で入院したのは今回で2度目、以前は私の入院。
母が入院、父が放射線治療に入り1ヶ月後・・・
私は風邪を引いたことが始まりで起きる事が出来なくなった。
朝主人を送り、どうにか両親の病院には毎日行っていた。
主人を夜迎えに行き自宅に戻り夕食、入浴。
一日何もしていないのに体がだんだん重くなる。
そのうちにお昼も動けず、両親の病院も2日に1回に。
何故、何故、何故
寝ている私の頭はフル回転。
母の病院に話、母を退院させることにした。
ケアマネさんも婦長さんも驚かれた。
「まだ入院させていた方がよいのでは・・・」
訪問看護ステーションの看護婦さんも同じ事を言われた。
「考えられることは・・・私に取って介護は人生の一部であり
「また私の日常生活の一部でもある。」と伝えた。
一日24時間自由になっても楽しく無かった。
楽しみは大変な生活の中で行われるから
「楽しい」と感じるのだと思う。」そう付け加えた。

母はアルツハイマー病に見られる徘徊、幻覚、妄想は勿論あった。
車で何度も探し、時にはお財布を持たずにタクシーに乗車したことも。
その頃は母と二人で一日家にいるので
私はイライラ、イライラしていました。
ある日母が「私の娘は優しいから、貴方は違うと・・・」
その言葉はショックでした。
イライラしていた私の顔はとても怖かったのでしょう。
徘徊・・・それは母が自分の優しい家族を求めて
探しまわっていたからだと思います。

現在もこれからも医療はどんどん進歩していきます。
でも在宅介護を続けている間は決して押し着せではダメ。
ある年肺炎で入院、その年は5月と言うのに非常に暑かった。
担当医に聞くと、もう少し、もう少しと様子を見る先生。
抗生剤が三度目で効果が出た事、MRSAに感染したからか
どんどん退院を延ばされる。
私の体は食事介助に通う限界が来ていた。
自分で判断し、日程を決めて退院をさせた。
往診の先生にそのことを話したら、笑って黙っていた。
病院では患者さんしか見えていない。
でもその患者が在宅介護を続けられるのは家族があってこそ。

診察、検査より大切な問診。
これは私の体験から来る言葉です。
自覚症状この訴えに耳を傾けてください。
何も無いと言われて、私は5日後に発病しました。
母の往診の先生。
ある日熱があり往診を依頼、肺の下方に肺炎がある。
即入院手続き、そして検査。
入院後レントゲンに「何も無いので退院してください。」と言われた。
私は???肺炎はどうしたのか?
翌日退院の準備をし病院に行くと「CTで肺炎が見つかりました。
これから抗生剤で治療します。」と・・・
私は一瞬目が点になった。

この時私は初めて時計を見た。
講演時間を過ぎていた。
最後に病棟で仕事をしている看護婦さんにお願いをした。
「ネットの中には自分の求める情報を検索している方がいます。
退院指導を受けて在宅に入ると、不安が一杯です。
一人で悩み、苦しみます。
退院時に少しでも不安を取り除いてあげてください。」

そう私は言ってマイクを置いた。
ここまでが体験談でお話をしたことです。
まだ私なりに思うことは沢山、考えていた題目も残っています。
後日また「追加分と体験談を終えて」を書き込みたいと思います。

母からのラブレター
M先生

先生と初めてお会いしたのは在宅介護を家族が決めた時。
大学病院の精神科で働いていましたね。
先生は私が骨折をするまでの7年間お世話になりました。
思えば長いお付き合いでした。
発病後二年経ってオムツの医療費控除を依頼した時
先生は「年金を貰いましょう。今書くので市役所に提出してください。」
と言って、障害者年金の申請書を書いてくださいましたね。
今でもとても助かっています。
先生の考えどおり私は長生きすることができました。
「強い薬を使用して今現在を正常にするより、
弱い薬を長く使用することが長生きできる。」と娘に。

骨盤骨折で通院が出来なくなった時、
娘は通院は無理なので今お世話になっている病院に転院を・・」と
お願いにあがった時、先生は指示書をその場で
書いて下さいましたね。
あの指示書には「今までの状態、処方箋、そしてこれからの注意点」
等が記載されていました。
病棟に提出すると婦長さんが涙ながらに
「こんな暖かい言葉の篭った指示書は初めて・・・」と
娘は初めてのことなのでびっくりしていました。
これも先生に7年間診て頂いたお陰です。
ミ☆(*^-゚)v ありがとう!☆彡

N先生

先生には17年前と10年前にお世話になりました。
アルツハイマー病と診断くださいましたね。
そして骨折後外科病院に転院になったとき
転院する病院からお断りをされ困った一週間後
先生に再度アタックして頂き転院することが出来ました。
その後寝たきりの状態ですが現在も自宅にいます。
先生の粘りに感謝しています。

K先生

リュウマチの専門なのに母のことを受け入れて
くださった事にとても感謝しています。
現在も在宅を続けられるのは先生の一言があったからです。
入院後5ヶ月を過ぎ、私の骨盤は固まり骨が折れたままの
状態でしたがどうにか命を取りとめました。
「そろそろ退院をどうですか?」と婦長さんから
娘に話が合った時に先生が「この子が看るにはまだ無理」と
言って下さいましたね。
その頃娘は退院に戸惑いを感じ、これからの生活に不安を持ち
一人で介護をする自身が無かったようです。
先生のお陰で、4ヶ月間色んな手続きや勉強をし
寝たきりになった私の在宅介護ができるようになりました。
感謝してもし尽くせません。

I先生

先生とは退院後初めて肺炎と言う病気になった時に
大変お世話になりました。
この年は5月と言うのに非常に暑く嚥下不良と発熱。
抗生剤を点滴してもなかなか効果が現れず
三種類目で見つかった時は先生はホッとしていましたね。
でも時間が掛かったことと体力低下でMRSAに感染。
先生はその後用心に用心を重ねなかなか
判断してくださいませんでした。
娘は痺れを切らし、先生と何度か話し合いをしましたが
結局娘の判断で退院しました。
先生のプライドを大きく傷つけてしまったようです。

翌年5月の入院時に「またか・・・」と言う顔をされましたね。
でもその後先生には3年間お世話になりました。
ある年末娘が「急に嚥下がおかしいので風邪では・・・」と
ナースステーションに言いに行った時看護婦さんは
「熱も無く、異常はありませんよ。」と言われました。
先生も毎朝の回診で「喉も赤くないし、何も無し」と。
3日後38度以上の熱が出た時に、資料を見ながら
先生は素直に娘の言うことを認めて下さいましたね。
さらに1年後「胃瘻をお願いします。」と言う娘に
治療方針は「まだ点滴で乗り切りましょう。」と。
点滴が入らなくなるとIVH、私は痛い想いをせずに済みました。
2年後も夏が迎えられず、点滴を依頼し入院。
娘の意見を聞き、IVHを反対の肩に。
先生も諦められなかったようですが最後は
「もうこれ以上は無理だ。胃瘻しか方法が無い。」と。
涙ながらにお話くださいましたね。
私も娘も6年経った今も健在なのは先生の決断のお陰です。
2年後先生は既に別の病院に転勤に。
お礼も言えませんでした。
感謝しています。

T先生

先生に初めてお会いしたのは肺炎の時でしたね。
私はこの入院でヘルペスになり痛い思いをしました。
先生が「意思の疎通が無い。」と言われたので
私は先生の前で娘の声に反応してみせました。
大変驚かれましたね。

その後は家族に異変があったり、私が少し悪いと
すぐに入院許可を下さいます。
満室の時は大変助かりました。
早く抗生剤が効くと私の体は早く楽になるので。
ありがとうございます。

H先生

先生とは6年ぐらいのお付き合いでしたね。
往診で付き1回診て頂きました。
入院中は同じ部屋の患者さんの所に見える度に
横目で診て下さったのを覚えています。
先生の聴診器一本の腕前には大変驚きました。
娘は安心して先生にお任せしていたようです。
ただ残念なのは・・・
出身地が無医村になると言って帰郷されたことです。
後日先生が船を買って島々を往診していると聞き
先生だったらどんな病気でも見分けられると思いました。
これからも島の診療所の先生として頑張ってください。
あ( ̄○ ̄)り( ̄◇ ̄)が( ̄△ ̄)と( ̄0 ̄)う

W先生

先生には現在も往診して頂き感謝しています。
外科の先生なのに内科も良く理解していて
娘も的確な判断に安心しています。
娘の病気の相談にものって頂き不安無く過ごしています。
10年以上のお付き合いですが
いつまでも若々しい先生でいらしてくださいね。
これからもよろしく \(^^ ;)三(; ^^)/ よろしく

K婦長

リュウマチ病棟に初めて入院した時はびっくりしました。
私は動くことができずずっとICUにいました。
婦長さんに「退院」と言われて娘は悩んでいました。
でも娘にやる気があると知り、看護婦さんでチームを
組み指導書を作成してくださいましたね。
そのお陰で娘は不安を持ちながらも在宅介護をする
決心をしました。

昨年夫が癌治療で入院した時に8年ぶりにお会いできました。
勿論覚えていて下さいましたね。
娘が「燃え尽き症候群」になり私に退院の話が出た時
心配そうに病室に来てくださったことは忘れません。

リュウマチ病棟の看護婦さん

母の為にチームを組んで勉強してくださった看護婦さん
ありがとうございました。
あの頃は家族の吸引も認められず
苦しむ私を見て娘が吸引!!
病棟で問題になった時かばってくださったこと
今でも忘れることはありません。
吸引方法も丁寧に指導、優しく接してくれましたね。
そのお陰で在宅でも安心して吸引することができました。
今でも私は吸引無しには過ごせませんが
高い発熱も無く、在宅を続けています。
結婚後看護婦さんを止められたこと大変残念です。
何時かまた復帰してください。

訪問看護の看護婦さん

退院後から現在までお世話になっています。
ステーションの看護婦さんは入れ替わりますが
皆さんとても優しく接してくださいます。
娘が眼の病気に掛かり、在宅で入浴出来なくなったとき
車椅子でのシャワー浴は気持ちが良かったです。
特に夏場は汗をよくかくので嬉しかった。
ヘルパーさんを止めたので清拭は訪問だけです。
時間の許す限り部分浴もお願い致します。
これからも在宅を続ける限り★⌒(@^-゜@)v ヨロシクデス


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