昭和60年介護始まる
一年前からサイフを落としたり既製品が食卓に並んでも、仕事をしていた父と私は、母の変化はさほど気にならなかった。
父が交通事故で入院していたこの年数日前から体調不良を訴え近くの内科を受診する。
点滴をし帰宅したが夜8時過ぎ全身痙攣を起したので慌てて病院に連絡し即入院、その夜激しく暴れ意識が戻った三日後、
母は目の前の娘がわからなかった。
先生から「アルツハイマー症だと思うが、大学病院で精密検査を受けるように」と転院手続きをする。
検査が始まり、私はこの前を含めて約50日間病院に寝泊りすることとなった。
食事の時になかなか椅子に座らない。
手がうまく機能せず自分の口に食べ物を持っていけないとわかり、食べ物を口に運ぶ。
これが介護の始まりでした。
 
迷路の世界
簡単と思った介護は、迷路の世界への一歩だった。
働いていた私と父は、遠縁の人に食事の介助と
お掃除を頼んだのですが、これは失敗でした。
母は「父の彼女が家に入り込んだ」とか可笑しなことを
言い始め夜は騒ぎ、母の話を真に受けた遠縁の人は
変な噂話をするので、昼には帰って母と食事をしていた
のですが、度々お金も持たずタクシーであちこち
出かけたり、近所を歩き回り噂になってしまいました。
私のイライラがピークに達したある晩、騒いだ母は
「家の娘は優しい、あなたは娘と違う」と言ったのです。
きっと私の顔は凄かったのでしょう。
私はこの日を境にやさしく接し、父と二人三脚で
母を看ることにしました。
                    
徘徊
外に出るのを止められた母は、力一杯サッシを蹴った。
割られたガラスを見ていると悲しくなり、父に当たっている
自分がそこにはいた。
後から考えると母は自分の家族を探していたのでしょう。
そこで父は朝、私は夕方から仕事に出かけることにし母の傍にいることにしました。
 
入浴とトイレ
お風呂に連れて行き体を洗うのは私で、下着と寝巻きを着せるのは父の分担だった。
歩ける間はこれでうまくいった。
だがトイレには困ってしまった。
深夜、トイレに行こうとするのか廊下は濡れていた。
早くからオムツは良くないと思い、2年間辛抱して夜2回
寝具等全て交換していました。
梅雨の間洗濯は大変でしたが、行きたいと思う気持ちを
優先させた。
 
骨盤骨折
平成4年、父はすでに定年退社となり、私はお昼の仕事に替わり結婚をし同じ敷地内に住んでいた。
母は月1回の通院以外、何もなく7年が過ぎていった。
父が肺炎で入院中の5月、深夜母の意識が無くなった。
朝、救急車を呼び同じ内科病院に手配をお願いする。
退院予定後骨盤骨折をする。
転院先3ヶ所から今お世話になっている病院を選ぶ。
 
転院
最初福祉タクシーで看護婦さんが付き添って外来受診。
結果は、治療はとても出来ないので引き受けられない。
そのまま元の内科病院に戻る。
どうしたものか、途方にくれてしまう。
内科ではどうすることも出来ない。
一週間後主治医の先生から、引き受けて下さる先生を見つけたので再度準備するようにと呼ばれる。
転院し、即錘を吊るす棒が膝の処に入れられる。
錘は片足で5kg、この日より50日間ベットに固定された。
そこは、リウマチ病棟の集中治療室だった。
 
第二の介護
この日から、第二の介護が始まる。
父は入院中なので、朝昼夜三食の食事介助は全て私一人の役目になる。
朝7時主人を会社まで送り、そのまま病院に行き食事介助、8時30分仕事に向かう。
昼再度病院に行き14時まで介助し仕事に戻る。
夕方買い物を済ませ病院に、介助後主人を向かえに行く。
帰宅は9時、急いで食事の準備を始め入浴が終わると
そのまま一日が終わってしまう。
私のこの行動は、母の10ケ月間入院中7ケ月間続いた。
 
意識レベル
骨盤をこのままの状態で固定し、内臓を守る。この方法で順調に進んでいたが、ある日突然にそれは起こってしまった。
いつものように食事をしていたら突然窒息状態になり、チアノーゼがひどく吸引しても食べ物が取れず、先生多数の看護婦さんが駆けつけどうにかことなきをえた。
脳の状態は前と変化はなく、レベルが下がったと教えられる。
数回続き、鼻から流動食が入れられる。
早いもので外は暑さ真っ盛りの8月、流動食は続いていた。
食事介助は無かったが、音楽を聞かせる為にせっせとテープに入れ、運んでいた。部屋は集中治療室のままだった。
 
訓練
夏は終わろうとしていたがまだ暑い夜、私は初めて
自分でオムツを交換しようと思った。
カーテンを閉めオムツを用意し、体を動かそうとすると寝たきりの母はとても重かった。
片手で上半身を支え、汚れたオムツを取り、新しいものと取り替えることはむずかしかった。
カーテンを不信に思った婦長さんが入ってこられた。
これが訓練の一歩となった。
 
嚥下と吸引
三人の看護婦さんでチームが組まれた。
スプーンを氷に浸けて舌に何度も置き、序々に
小さな氷を口に含ませ、ゼリーを少し口の中に入れ、味覚を取り戻す訓練に替わった。
ついにまた口から食べられることになるが、吸引だけは必要だった。
今でも吸引は、医療行為になり誰でも出来ないのです。
食事の最中よくむせる母には、必要なこと。
看護婦さんを呼ぶより自分で出来ればと考え、
挑戦。
このことは後で問題に。
看護婦さんにはだいぶかばって頂きました。
 
退院と言われ
10月になると状態も落ち着き、私の訓練も進んでいた。
市役所に福祉のことで相談に行く。
障害者手帳の申請を勧められ、ベッド、エアマット、巡回入浴、部屋の改装、車イス等の話を聞く。
結果は、上腕下肢併の一級。
「退院」この言葉は、とても不安であった。
「本当に一人でやれるのか」でも退院の準備は着々と進んでいる。吸引器も購入、車イスの申請にも出かけ、月二回往診も決まった。外来の看護婦さんにも挨拶。
「大丈夫か?」不安が広がる。
受け入れて下さった先生の一言で、すべてが消えた。
「まだこの子が一人で看るのは無理」
  
いよいよ
平成5年2月退院する。
無我夢中とはこのことだったのだろう。
月二回巡回入浴、訪問看護、往診。
リクラインになる車イスに、主人と二人で母を乗せお風呂場近くまで、寝巻きを脱がせ二人で抱えてイスに座らせる。シャワーを使い頭から足まで洗う。
浴槽にイスから移し、入れる。
浴槽に腰掛けさせ、主人と二人で車イスに移す、そしてベッドに抱え挙げる。
 
え〜どうして
半年後、私は目の病気にかかる。
失明したり、また全身が侵されることもあるので即入院を勧められる。大変悩んだが母を病院にお願いし、治療を受ける。退院後母の入浴は、看護婦さんにお願いする。
二人で車イスに乗せ、そのまま浴室に入れる。
シャワーを使って洗髪と体を洗う。
その他に巡回入浴が月二回。
部屋を片付け浴槽そのものが部屋の中に持ち込まれ、網の目になった担架に乗せ、そのまま浴槽に浸かる。
まるでお風呂に浸かっているようです。
終わると担架ごとベットへ戻る、やはり気持ちいいのか、時々鼻歌がでる。
入院中からの音楽を聴くことは続いていた。
 
平成6年
一日8時間かけ母の食事は進む。
吸引も多く、水分を摂取することは難しくなっていく。
発熱、往診を依頼する。 肺炎を起こし即入院。
新しい先生との出会いの年になった。
この年は大変暑い日が続き、食事介助に疲れ治療中だが退院させる。
往診の先生は責めることはしなかった。 
ほんとに何もなくて良かった。
 
平成7年
5月脱水をおこす。
水分を取ることがだんだん難しく連休前に点滴を希望する。
結果は入院になる。
 
トロミアップ
この年夏は、とくに暑かった。
水分を摂取することが、大変難しかった。
往診の先生に胃ろうを勧められ、二度目の入院になる。
はじめての病棟だった。
院内の先生のお考えで、血管がなかなか見つからないのでアイブイエッチをし24時間点滴によって水分補給が行われた。
そして栄養士からトロミアップを紹介され、これで水分補給がしやすくなった。
この時は、なにもせず退院した。
 
肺炎
今年三度目の入院になる。
嚥下不良により肺炎になる。
抗生剤の点滴だが、血管を見つけるのがたいへんで看護婦さんは苦労していた。 
年末食事介助の私が風邪をひいて母に移してしまう。
栄養状態がいいので、大丈夫だと言われる。
春になり退院する。
 
胃ろう
平成8年6月、脱水状態になり入院する。
今年もアイブイエッチを依頼する。
7月昨年もお世話になった担当の先生から、ドクターストップがかかる。
指導の先生から「これ以上食事を口から摂取することは危険胃ろうにするよう家族を説き伏せなさい」と指導があったのでもう限界だからと話があった。
7月25日外科の先生による説明があり、レントゲン室へ入っていった。 15分後母は元気に出てきた。
病衣を捲ると、胃に1cmくらいの穴が開いておりその中から40cmくらいの透明のチューブが付けられていた。
これが胃ろうというものなのか。不思議であった。 
 
指導を受ける
胃ろうになって一週間たち、そろそろ指導の時期がきました。
まず注射器を引いて空気を入れる。
聴診器をお腹に当てながら出ているチューブに空気を入れ「ポコッ」と音がするのを確認する。
注射器にすりつぶした薬を全ていれ、白湯を吸い上げ溶かす。チューブの先には、三方活栓と呼ばれるものを付けルートを確保しているので、そのまま注射器を差し込み薬を注入する。
ボトルの中にエンシュアリキッドを一日四本1、000Kcalと白湯900ccを三回、朝昼夜に分けて入れます。
落とす速度に注意して二時間程かけてゆっくりと、終わると白湯を入れるのだが、濃度が違うので再度速度の調節が必要になる。チューブについてるクレンネを調節して速度を変えることが大切なのです。
慣れてくるとそう難しくは無かった。
8月末、点滴セットなど備品を揃えて退院する。
 
自宅にて
朝昼夜、一式を準備して食事の時間は始まる。
緊張したのは最初だけだった。
速度が速いと胃から口に上がり、吸引が必要になるが、ゆっくりすれば無事に終了。
今までの時間がうそのようだった。
母が寝たきりになってからの私の食事は、昼夜とも母のベッドのオーバーテーブルの上だった。食事と言うより母の口に食べ物を運び、合間に自分の口に、そしてむせて吸引の繰り返しを5年間続けていた。朝は主人の朝食の時間が早いので7時半から母の食事に取り掛かり8時半に仕事に出かける。
残りの食事は父にバトンタッチしていた。
これから考えると天と地、楽になった。
もっと早くから胃ろうにしていたらと思ってしまった。
 
あれ〜
順調に思えた胃ろう、どうしたのだろう。
一年過ぎて新しいものに取り替えた。
今度のは「ガタトロボタン」と呼ばれ、皮膚のところにビーチボールを膨らませる吸い口のような形のものが付いていたその穴に直接管を差し込み経管栄養を流します。
終了後はその穴に栓をするとお腹は平らになります。
長いチューブがないので、巡回入浴の時お腹を全て洗えるのでとても便利でした。
あれ〜夜オムツを替えようと寝巻きを捲ってびっくり。
お腹一面エンシュアリキッドが漏れてびしょぬれでした。
どうしてだろうと思い拭いていると、胃ろうのガストロボタンが取れて外れていた。今は23時、病院に電話をするとすぐ連れてくるように言われたが、ええ〜この時間にどうやって。タクシー会社に事情を話して福祉タクシーを出してもらう。
父と三人で病院に行き、当直の先生に膀胱に使う管を仮に入れてもらい応急処置後帰宅する。
 
三回
それから三回胃ろうの周りからエンシュアリキッドが漏れることがあり、訪問看護の時に伝える。
後日病院から呼ばれる。
サイズがなかなか合わず特注になるむね伝えられる。
その後しばらくは漏れることはなかった。
胃ろうのまわりはY字ガーゼで覆われていた。
 
父の入院
次の夏はなにごともなく迎えられた。
平成10年8月、父が交通事故に遭う。左足首骨折で二ヶ月入院する。
朝5時に母の食事を始めて終了後仕事に出かけ、昼には自宅に帰り昼食開始、3時までに職場に戻り7時に父の病院に新聞を届け、買い物をして帰宅する。
そして夕食開始母は熱もなく元気でしたが、私は体重計にのるたびに減っていった。どこまで減るの。
 
退院の日母入院
こうして夏が過ぎ秋の10月31日、父の退院の日をむかえた。
私の体は何とも無くなんだったのだろうか。
家に帰宅すると、午後から母の訪問看護の日なので、あわてて昼食の準備をする。午後3時看護婦さんが見え、検温。38度、え〜どうしてあわてて病院に連絡される。
すぐ往診の先生が見えられ聴診後「右下に肺炎、車を手配するからすぐ入院」と。
入院の準備を始める、慣れとは恐ろしいもの。
ラジカセ、CD、エアマット、衣類、タオル、バスタオル、オムツカバー、バケツ、シャンプー、石鹸、胃ろうチューブ、オムツ一袋、クッション四個、薬を入院用の袋に入れる。五分で完了。
 
退院とは?
今年の入院から、担当の先生が代わった。
入院後一週間下痢が続く、経管食が変わり合わなかったがなんともないから退院と・・・なんなのこれって。
肺炎はどこへ。 翌日病院に行くと事態は変わっていた。
レントゲンでは見つからなかったが、今日CT検査で発見したので抗生剤の点滴を始めますと。
長年の経験とはすごいとこの時初めて感じた。
聴診器一本で発見した先生のことを。
 
新たな病気
肺炎は順調に回復し安心していたが、日曜日オムツを交換していると足の太ももに広がったような水ぶくれ。
すぐに看護婦さんを呼ぶと、ヘルペスのようだ。
明日先生に看ていただくと言われたが、どうしてこうなるまで気が付かなかったの・・・看護婦さんの会話で、「湿疹の出方が多分ヘルペスかな」「引継ぎに書いてなかった」「夕べオムツの交換時に見てない」
 
ほんとはすごく痛がるのだか、母は感覚がないのか普通と変わらずベッドで寝ている。先生は「意思の疎通がむずかしいから」と言われた、私は母の名前を呼んだ。
母は声の聞こえた方に顔を向け目を開けた。
人にはわからない繋がりがあることを。
往診の先生に今はヘルペスによく効く薬があると言われた。
その通りに母は良くなっていったが、いまも太ももにはその時の痕が残っている。
 
私?
減っていた体重はそのままだが、ずっと発熱があり一日中解熱剤を服用する。39度下がらず、体がおかしい。
この感覚?  内科受診レントゲンを取ってもらう。なにもないが点滴を受ける。夜あまりの喉の渇きに度々起きる。
やはりおかしい。 眼科受診なにもないと言われたが、ツベルクリンの検査を希望し、ステロイド剤を出してもらうように先生に頼む。連休に入るのが心配。
薬を服用後随分体が楽になる。やはりそうかな。
連休明け受診、院長先生が診察したいと。
なんだろう。
 
私2?
紹介状を持って大学病院へ。
診察結果は・・・
介護とは別のところで書いていこうと思います。
 
元気には・・・
母はなんて元気なのだろう。
ヘルペスにも耐えて肺炎もよくなりニケ月後には退院できそう。
ただ父が今度は肺炎にかかり入院してしまった、まあ両親共の入院もこれで何度目だろうか。
私も風邪をひき抗生剤がみつからず、起き上がることができず両親の病院にも行けない。
母の病院からいつ退院できるか電話が掛かってきた。
とても受け入れられる状態でないと伝えたが看護婦さんから家族のことは別だと言われショック。
 
ヘルパーさん登場
在宅支援センターの方と病院のケースワーカーさん、病棟の看護婦さん、訪問看護ステーションの看護婦さんそして私。
この間での話し合いがもたれた。
私の一ヶ月の安静が必要と書かれた診断書と父の入院のことそして今度肺炎に掛かったら在宅酸素になることを伝えた。
ケースワーカーさんには詳しいことは伝わっておらず、また在宅支援センターの方も父がいつも大丈夫と言っていたのでいままでの私の生活状態は知らなかったようだ。
母の退院の話は流れ、自宅へのヘルパーさんの派遣が決まった。
 
ディケアとは?
平成10年2月父も退院できいよいよヘルパーさんを御願いするときがきた。
話し合いに見えたときディケアを進められた。
ええ・・・
仕事に出かけている間の清拭とオムツ交換を依頼する。
注意してほしいことや気をつけることを話す。
吸引は医療行為になるのでできないことそして胃ろうも触ることも管をはずすこともやはりできないと言われた。
翌日電話がかかり、重度心身障害者両腕下肢併一級とは知らなかった、ディケアは無理なのでヘルパーの派遣の計画をたてるので希望を聞かれた。
 
いよいよだが
いよいよ母の退院。
週5日午前、午後、深夜の三回の派遣が決まる。
訪問看護の日は除いてヘルパーさんがみえた。
いままでお昼に帰ってから掃除をしていたが、朝出勤前にしなくてはならず少し早く起床するようになる。
深夜は2時過ぎに二人でみえオムツの交換だが、吸引が必要な時は父が起こされた。
父はこの後夜寝れず朝方に変わってしまった。
 
肺炎に
11月発熱があり看護婦さんに連絡する。
やはり病院にと言われ、車の手配をしていただく。
結果は肺炎・・・
4年前に入院した病棟に移される。
びっくりされたが母は音楽を大きな音で聴かせてもらいルンルンの入院になった。
ある日病院から職場に電話が・・・
痙攣が止まらないすぐ病院に来るように。
駆けつけると治まっていた、きっと声を掛けずに体に触ったのだろう。
ひと安心 。
今回の抗生剤が効き、年末には退院できそう。
 
父の在宅酸素
母は退院し、家で平成12年新年を迎えた。
これで一年何もないようにと願ったが、父が4月に肺炎になる。
退院の為の準備に掛かったところ、血中酸素が足りないと判り在宅酸素をするようにと先生から呼ばれた。
市役所に身障者の手続きに行く。
呼吸器障害3級の手帳をいただく。
なかなか父は自覚にかけ、外出の時に酸素を持っていきたがらない、困ったものだ。
 
父の訪問看護
父の退院に際して病院に訪問看護を受けられるようにお願いをする。
父の部屋には酸素のボンベではなく、部屋の空気を取り込んで酸素に変える物が選ばれた。
酸素の量は0.5これ以上だと二酸化酸素が体の中に溜まってかえって害になるそうです。
外出時は背中に背負うタイプを選んだ。
これは今でもバイクに乗って出かける為、手に持つタイプでは不便だから・・・
2週間に一度の訪問看護に決定する。
聴診、血圧、血中酸素の測定、熱などである。
 
病院からの呼び出し
何事もなく今年もあと2ヶ月になろうとしていた10月28日父の病院から定期検査の結果を聞きに来るように呼び出しがあった。酸素欠乏から顔が腫れていたのだが原因が判らず利尿剤が処方されていた。
半年ぶりに撮影されたMRIの胸の映像に3センチ程の突起物が気管の中央動脈の傍に写っていると・・・
癌の可能性が大であるから、病理検査の必要があるので検査入院が必要との説明を受ける。
父は自分が呼ばれないことに不信感を覚え、帰宅すると家庭の医学の癌の項目を読んでいた。
そして私に自分は癌だろうと・・・・・
二日後検査に入るが、肺気腫が酷くていまにも肺が破れる恐れがあるのでこれ以上の検査は出来なかったと報告を受ける。
映された写真には癌細胞は無かった。
しかし99パーセント癌との宣告を受ける。
 
病院の選択
宣告は受けたものの手術は不可能だと・・・
治療は放射線治療だけとの説明を受け、大学病院、県立病院、古賀総合病院の3箇所しか出来ないと。
大学病院は私の通院している所ではあるが片道40分、県立病院は車で10分ではあるがもし母が入院した場合
逆方向になる、そして古賀病院は車で7分ではあるがこの病院から転移させたことが無いと言われた。
担当の医師に家庭の事情を話し、古賀病院に配属になっている友人の医師にお願いし、気管専門の内科医師を紹介していただくことになった。
5日後外来受診をする。初めての病院に少し不安を覚える。
紹介状を提出しMRIのフィルムを持参しての診察は、入院。
後日病棟より入院日の知らせがあると言われる。
 
不安の日々
父の病気のことが判った時、今回初めてケアマネさんに母の入院の依頼をする。
もし家族に何か合った時は母を預かって下さることにはなっていたが、まさかこんなに早くその時が来るとは思って
いなかった。ケースワーカーさんからすぐに電話があり、なんとかベッドを開けるがすぐ入院出来るかの確認だった。
明日病院からの救急車の手配がつき母は入院する事になったが父になんと説明しようか悩んでしまう。
母を入院させてから病院には行くものの、父の連絡が気になって毎日家を開けることが出来なくなった。
入院と言われてから2週間が過ぎ以前貰っていた薬も無くなるので土曜日に受診することにした。
担当の医師では無く、大学病院からの当直医師ではあったが私が一度看て頂いた先生でした。
私の方から催促しますからもう暫く待つようにとのことだった。
 
放射線治療開始
翌週月曜日夕方4時に電話が鳴る。
明日入院できるかとの確認であった。
簡単な検査の後4階内科病棟に入院する。
部屋は4人部屋で前は6人で使用していたので、隣のベッドとの間がかなりひらいていた。
全身を5日に分けてMRI撮影を行なう、骨の撮影もあり驚くが骨への転移もあるからあたりまえなのである。
父は疑わしいが病理検査が出来ていないのでとにかく放射線治療で焼くからとの言葉を今は信じている。
検査後60回の放射線回数と決まる。
 
副作用
放射線を当てる場所にもよるが、父の場合は気管から食道にかけてなのでその内食欲がなくなり、喉の痛みを訴えてくるとの説明がある。
父は入院するので普通食事の心配はしなくてもよいが、偏食が多いので入院する度に体重が減っていく。
今回は体力が勝負なので食べそうな物を見つけては毎日病院に通うこととなった。
治療の無い土、日曜日は外泊が出来ると先生から言われたが、最初の土曜は帰らなかった。
 
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