夕暮れを待つ







 シリウスは星の巡りのように規則的な美しい歩き方をする。足はまっすぐ前に動き、軽く着地して、バランス良く重心が移動される。上体は安定して、頭上に辞書を乗せても落とさないだろう。もっとも彼を良く知る恋人は「君は頭に林檎を乗せてダンスしても落とさない気がする」と笑う。シリウスはかたち良い歩き方にそのまま、感情を反映させる。怒る時は戦車のように激しく、嬉しい時は馬のギャロップのように軽やかに――つまりどちらも騒がしい――、気落ちした時は石像のように重く、恐怖を感じる時は豹のように静かに。
 今、シリウスの足は、軋む古い床に軽い音を立てる。平穏な美しい夏の日に相応しい穏やかな足取り。
 シリウスは窓辺へ行き、その向こうを杖で指す。庭で風をはらんでいたシーツが、洗濯ばさみを飛び散らし、はためいて飛んで来る。シリウスの横をすり抜け、寝台を包んでぴんと張った。
 強い風が通っても床が軋む古い家で、リーマスはほとんど足音を立てない。それを指摘すると「ここは僕の隠れ家で慣れているし、廃墟には住むコツはよく知っているからね」とリーマスは笑う。そんなリーマスの足音をシリウスが聞き取ることができるのは、牢番の足音に怯えた日々の名残よりは、犬としての習性が強い。リーマスが近づく気配がすると無条件で嬉しくなるのだ。
 今も尾を振る犬の気持ちになって、シリウスは振り向く。「部屋、とても綺麗になったね。君、掃除が本当に上達したね。」と教師の口調のリーマスが、寝室に入って来る。彼の足音のように、リーマスの感情は表面には出にくい。その時もリーマスは穏やかな笑顔を浮かべていた。
 シリウスがリーマスの方へ歩く、すると、にっこりしてリーマスは足先を伸ばした。足の甲がシリウスのつま先に当たるタイミングで。
 それをさけて駝鳥みたいな歩調になったシリウスは、面白いゲームを前にした子供みたいな笑顔になった。
「何がしたいんだ?」
 リーマスは、ふむ、と首をかしげた。シリウスに足をひっかけるために片足を延ばした格好は、バレリーナみたいだ。シリウスがそれを真似る。
「俺に捧げる愛のダンスを踊ってくれるのかな?」
「うん。そんなところかな。」
 リーマスはにっこりした。そして、片足立ちのシリウスの肩をつかんで力いっぱい押した。ベッドに腰を落とすシリウスの肩に更に力を入れて、あお向けに倒す。そして、生真面目な様子でシリウスの靴を脱がせた。
「なんだ? 俺の掃除をしたくなったのか?」
 笑うシリウスに、リーマスは笑みを返した。ベッドの下に靴を二足、律義にそろえると、リーマスはシリウスの腹の上にまたいで座る。そして、シリウスのシャツのボタンを外し始める。
「このさわやかな午後にどんな悪さをしたいんだ? 俺も何かお手伝いしたいのだが?」
 笑ってシリウスは、リーマスのシャツのボタンに手を伸ばす。リーマスは微笑みを浮かべてその指をつかんで、シーツに押しつけた。耳元に囁く。
「じっとしているんだ、シリウス。僕に任せて。」
 耳に、こめかみに、リーマスはやわらかくキスをして、シャツのボタンに指を戻す。口づけ、体をなぞる指、ボタンは不器用にはずされていく。シリウスは笑った。声は少し乾いていた。
「何を始めるんだ? 皮を剥がれる兎みたいな気分になってきた。」
「皮を剥ぐなんて。どんなひどい目に遭うと思っているんだい?」
 優しい声は甘い湿度を帯びて、シリウスの耳に囁かれた。
「君が夜ここで僕にすることを、君にしようとしているだけだよ。」
 「いつもしていることと同じだよ、ちょっとかんじが違うかもしれないけど。」と話す息と共にあたる唇の感触に、シリウスは一気に混乱した。
「待て! なんだってそんなことを思いついたんだ!?」
「それを話すのは少し恥ずかしいのだけど。」
「これ以上に恥ずかしいことなんてあるのか!」
 「いつも君がしてることなのに?」とリーマスは首を傾げる。面白がっているふうでもある。
 「全然違う!」と叫ぶシリウスは「待て、まずは俺の上から降りろ!」と暴れて、まるで冷静さがない。
 のしかかる人を押しのけようとする指は、再び握られてシーツに押しつけられる。シリウスは更に混乱した。殴り合いの喧嘩をする気になれば、この状況から逃れることができるが、リーマスに乱暴したくはない。
「ああ、こんな風に君を捕まえて見下ろすと、とても愛しくなるものなんだね。」
 と、楽しそうなリーマスを、シリウスはかわいいと思うのに、何故か額や首筋に嫌な汗が流れる。シリウスは催促する、まるで途方にくれた声が出た。
「早く、その恥ずかしい話を始めないか?」
 リーマスの声は笑みを含んだ。
「うん、そうだね。君、覚えているかな、ああ、こういう話をするのはなんだか恥ずかしいのだけれども。」
 リーマスははにかんだ様子で、手近にある、はだけられた胸の小さな色と肌の色の境界のあたりをなぞる。シリウスは真っ赤になった。
「照れるための仕草なら別のところでしてくれ。」
「ああ、ごめん、そんなつもりじゃないんだ。君のこの部分はかわいいと…」
「そんなつもりの方が良い。とにかくまずは手を離せ。よし、いいこだ。大丈夫だ、俺は今、すごく恥ずかしい。どんな話をされても、この恥ずかしさには匹敵しない。な。安心して、落ち着いて、話してみるといい。」
 シリウスはすっかり拳銃を持つマグルを説得する口調だ。リーマスは空いた手でシリウスの髪を撫でた。
「君はこんな風に僕に触れた。今日みたいによく晴れた夏の穏やかな午後で、同じように、君は部屋中を綺麗に掃除して、僕を招き入れてくれた。鼓膜の奥の部屋って僕らが呼んでいた、あの静かな部屋。」
 ためらいがちな口調のリーマスに対して、シリウスの表情は今や明るく、窓の外の夏の陽のようにさわやかだ。
「ああ! リーマスを初めて抱いた時だ!」
 小さくうなづくリーマスの頬は少し紅潮した。それに手を伸ばして、シリウスは言った。
「忘れられるはずがない! あの時のお前がどれほど可愛かったか!」
 リーマスがどんな風だったか、どんなことをしたらどんな反応をして、それがどんなに愛しかったか。熱く語り始めるシリウスの唇をリーマスはつまんで黙らせる。
「そろそろ話を続けても良いでしょうか、ミスターブラック? 話を省略して、行動の方を始めてもいいのだけれど。」
「…続きをどうぞ、ミスタールーピン。」
「君はあの時、何度も僕を愛しているといってくれたね。愛しているから触りたい、愛しているからそういう風にできるのが嬉しい、と。あのね。僕はとても君を愛しているんだよ。」
「俺もだ。愛しているよ、リーマス!」
 シリウスは目を輝かせた。身を起こすことは、上に乗る細い人のために叶わなかったが、腕を伸ばしてリーマスを抱きよせる。そうして、間近に恋人の目を覗き込むかたちになったリーマスは、引き寄せられて口づける直前に言った。
「だから僕も君を愛しているから、君と同じようにすべきだと思ったんだよ。」
 触れるはずの唇が激しく動いて、口づけは中止となった。
「待て! その理屈はおかしい!」
「君が言ったことなのに?」
「違う。心の底からわきあがる激情、つきあげる愛情によっての行動であるべきであって、理屈が先にくるのはおかしい。」
「僕は元々激するタイプではないし、君にはわからないかもしれないけれど、僕は君のことを愛しているよ。」
 伝わるかを不安に思う優しい口調に、シリウスは心動かされた。
「わからないわけないじゃないか。嬉しいよ、リーマス。俺も愛してる。」
 シリウスはリーマスを抱きしめたい衝動に駆られたが、その前に彼を説得しなければ、その後起こる事が、精神的にも物理的にも180度ほど違ってくる。
 今こうしている間にも、リーマスの雰囲気のある瞳がすぐ間近にあって、その指はシリウスの腰骨をなぞりながらズボンを脱がせようとしている。シリウスは確かに性的興奮を感じていたけれども、それは愛する人の体がそこにあるからだ、この状況に対しては叫んで逃げたいほど嫌だ。この性的興奮を心の底から体の奥から味わうためにも、この状況を打破しなければならない。シリウスは正直に口を開いた。
「待ってくれ。リーマスに、いや、もちろん誰に対してもだが、そういうことをされるのは嫌なんだ。」
「どうして?」
「思い出してくれ、あの時、俺たちはまだ少年だった。今とは違う。肉体的感覚的体験を初めて行うにはやや時間が経ちすぎている。」
「……この間、奇妙な体位での行為を強行した人の言葉とは思えない…」
「えっ、いや、でも、それは、……あれは、最終的には良かっただろう? あの時のリーマスがどんなにかわいかったか…」
「大丈夫、君もかわいいよ。」
「いや、かわいくなくていい、違うんだ、ええと、キャリアが違う。やりかたに工夫をするのはクィデッチ選手が新しい技に挑戦するようなものだ。初めて箒を乗るのとはわけが違う。」
「誰でも初めての時があるよ。君は新しい挑戦が好きな人だと思っていたけれど。」
「好きじゃない挑戦もある…待て! リーマス、やめろ! 手を頭の上にあげろ!」
 シリウスは拳銃を持つマグルのような声で言った。シリウスの下着の中深くすべらせていた指を、リーマスは質問する生徒のように上げ、優しく言った。
「シリウス。そんなに嫌かい?」
「嫌だ。」
「最初だけかもしれないよ。最初は僕もびっくりしたし、正直、怖かったよ。」
「確かにあの時のリーマスは本当に可愛かった。手が震えていて…」
「うん、今の君みたいにね。」
「ぜんぜん違う!」
 なんと言ったら説得できるのか。
 今や、シリウスはリーマスと同じことがしたかった。まったく同じこと、というのが問題だ。
 愛する人の、甘い期待に熱を帯びる体が、手を伸ばせば届くところにある。焦れるのはリーマスも同じはずだ、と思うと更に焦る。
「指先から血の気がひいてしまう。そろそろ手を下ろして良いかい?」
 下ろしてどこに置くつもりだ、とシリウスは睨みたくなったが、それでは問いではなく誘いになりそうだ。
 今日幾度目かの「待ってくれ。」をシリウスは口にした。
「あの時、どうして俺が部屋を綺麗にして飾り付けてお前を招いたか、リーマスは覚えてないか?」
 リーマスは微妙な笑顔になった。シリウスは食事の前の犬のように声になった。
「覚えてないのか!? 俺はあの後1週間も口をきいてもらえなかったのに!?」
「嫌なことは忘れる方だからかな?」
 そう笑って、リーマスは思い出す様子で目を細める。目を開けた時には目尻が赤くなっていた。
「思い出した。君が、寮の部屋、あんな廊下から生徒の話声が聞こえるような場所で、あんなことしたからだ。」
 軽く睨んで、それから、リーマスは懐かしむように笑う。鼻に視線を感じたので、シリウスは昔の痛みを思い出して、思わず鼻を押さえた。
「君の鼻を思い切りつまみあげて引っ張って突き飛ばしたね。あのあと、君の顔を見るたび恥ずかしくて、仲直りした後も、二人きりになるとどきどきするのがいやで、いつも逃げてたな。しかも君、しばらくトナカイみたいだったし。」
「ああ、鼻が赤くなってもハンサムだと確認できた貴重な機会だったよ。あの後、鼻とリーマスの様子を見計らって、誘ったんだ。二人きりでも気まずくならないよう、鼓膜の奥の部屋を魔法で飾り立てて、部屋では面白い魔法道具を次々見せて、リーマスの気をちらした。今度は失敗しないように。」
「君、隠れ部屋を面白くしたから見に来いって誘わなかったか? ちゃんと魂胆があったんだね。」
 リーマスはため息をついて、小さな声で言った。
「でも、夕暮だったね、君が僕に触れたの。昼の間中、僕と君との間をすこしだけ空けていてくれた。だから、逃げ出さずにすんだんだ。あの時、あの状況の何もかもが逃げ出したくていっぱいだったけど…」
「待て。それが今の俺の状態だ。俺はリーマスの下から逃げ出したくて仕方がない。」
「でも、僕達は学生じゃないし、お互いの体を見るのも触るのも初めてじゃないし、この部屋に突然誰かが駆け込んでくる可能性は非常に低いし、僕は君を変な風に椅子に押しつけてあざを作ったりシャツのボタンの糸を伸ばしたりしないし、廊下の向こうでクィデッチの優勝チームを賭けてる奴もいないよ?」
「…俺が悪かった。」
 シリウスは頭を下げる仕草をした。過去を懐かしむリーマスの目から視線をそらす。
 次の説得する手立ては思いつかない。昔の記憶に喚起されたのは自分の方で、恋人に触りたくて仕方がない。早く彼の体中にくちづけるために、もう、一旦は折れてしまおうかという気さえ起きる。そのとき、シリウスにかかる体重の全てが軽くなった。
「ああ、あの寮の部屋で、でも一番恥ずかしかったのは、太陽の光だったな。夏の強い光の差し込む中でそんなことをするのが恥ずかしくて仕方がなかった。こんな夏の日差しの下ですべきじゃないね。」
 リーマスが体を起こして、両腕の頭の上に上げる。シリウスは素早く起き上がって、自分の上から降りようとする人の腰と背中に腕を回す。抱き寄せて口づけようとした時、恋人は言った。
「だから、夕暮れまで待って、続きをしたいと思うんだけど、君はどう思う?」
 今度はシリウスの唇は発音のために激しく動くことはなかった。唇の端を上げただけで、リーマスに口づける。シリウスの膝の上に乗る形になった人のシャツの下に手を入れ、耳朶を甘く噛みながら囁く。
「リーマスがその時、まだそういう気分になったらな。」
 慣れた指がうやうやしく、やっと触れることのできる恋人のシャツを脱がせる。もう、ボタンの糸を引き伸ばすようなことはない。










WRITTEN BY ????
 

2006/夏
up2006/10/21