その男はクリスマス前にやって来て、間もなく何処かへ行ってしまった。
彼は幾つも物語を話した。躯の中に真夜中の海を飼っていて、話す時はそれを世界に少しずつ放って行ったから、彼の裡から言葉が出て来る度に温度が数度下がる気がした。
たぶんこの男は他所ではこんな風には話さないだろう。スピノザは漠然とそのように想像した。もっとひかりや八月の匂いのする話し方や立ち様をするのだろう。けれどここでは彼は、もっと頼り無げに見えた。高い背と常に伸ばした背筋にも関わらず、十四歳の少年のように世界を見ていると感じる事がままあった。
たぶんこの場所がそうさせるのだ。長い事ここに居たスピノザはそれを知っていた。
その男はその年の十二月二十日から三十日迄この死体置き場で働いて、それきり姿を消した。パブリックスクール出だとばかでも判る国語を操る癖に、躯の中の感情をちゃんと言葉にする術が判らず苦しんでいた。中庭で壊れた自転車をずっと組み立てていた。掠れたバリトンで「イアン・オニールです」と偽名を名乗った。支給された薄緑のつなぎの作業着が少しも似合わなかった。長い黒髪を後ろで纏めて黙々と作業をした。
冬の朝白い息を吐いて、初めて朝を見た子供のように、一度だけ笑った。
1
まともに話したのはイアンがやって来て二日目の事だった。
彼は中庭の、誰のものでもない壊れた自転車を見つけると、休憩時間に分解し部品をきれいに黒い布の上に並べ、一つ一つ磨き始めた。初日は仕事とそれで終わってしまったからスピノザは彼と話す時間がなかったのだ。
「オニール」
呼ばれて一瞬、彼は誰の事だか判らない様だったが、すぐにはっとしたようにこちらを向くと「なんです」と返答して来た。
「何故自転車なんか直そうとして居るんだい」
「こういったものを弄るのが好きなんです」
「ここは二十年前に建てられたんだ」
「はい」
「当時、死因のはっきりしない、しかも身元不明の死者がこの辺りで急増し始めてね。それを収容する為だったのさ。
その自転車はその死者の一人が持っていたものだ。ここの中庭で死んだのさ。知っていたかい?」
イアンは右手の指を二本程スポークに掛けると、勢い良く下ろして回した。殆ど音をたてるようにして、それで砕かれたひかりが突然庭中にばらばらと散らばり跳ねた。彼は磨き終わった回るスポークを、殆ど睨み付けるように凝視した後、何かを抑えているような声で、言った。
「はい」
2
イアンには奥さんが居る(奥さん、という言い方を自分ではしなかったが結婚をして居るような事は匂わせた)。息子もひとり居て、遠くの学校に通っている。
イアンがこんな事を話したのは、彼の知りたい事と交換条件として彼自身について話す事をスピノザが提示したからだ。イアンは一度だけ訝しんだ。スピノザは肩を竦めた。
「私は物語を食べて生きているのさ。死体置き場に四十年もいれば誰だってそうなる」
イアンの知りたい事は、昔ここであった殺人事件についてだった。
「死因なんか判らない死者が毎日沢山運ばれて来て、それが十年近く続いたんだ。躯の水が一滴も無かったり、外傷なんか何も無いのに血が全く無くなっていたり、ひとの姿をしていないものもいた。大人も子供も居たよ。そして皆身元が知れなかったが、ごく時たま、かき消したように居なくなってしまう死者迄居てね。それからぱったり止んでしまった。どうしてなんだろうな。俺はここに来てから考えない癖が付いたけれど、これはその時に付いたんだと思う。
とにかくそれで皆気味悪がって、ここが付属していた病院は他所に移った。ここは死者がやって来て病院に移される迄の、仮の安置所になったって訳だ」
君の番だ、と、スピノザは、部品の一つに鑢を掛けるイアンに振った。彼は頷いて少し考えた後、話し出した。
「私の息子は黒い髪をして居ます」
「あんた似だな」
「……そうですね、彼と私は少し似ているようです。癇癪持ちだし」
「奥さんには似ている?」
「似て欲しいと思ってます」
「どんな所が」
「そうですね。
あの人は決して、こんな事をして何になるのだろう、と言った事を言いません。あの子にもやっぱり、例え最悪の時でも、そんな言葉は台詞は言わない大人に成長して欲しいと思います」
「あんたは奥さんの事を大切に思ってるんだな」
ギアを比べていた彼は、急にこちらを見て何か言おうとした。それから言葉を選んだが、結局、「その話には代価が必要です」といった事を言った。
スピノザは何も思い付かなかった。だからその日の会話はそれで終わった。
クリスマスが近付いていた。イアンはもう息子にはクリスマスプレゼントを送ってしまった、と言った。
3
その日は三件程死者がやって来た。
ここに来るものは皆そうだが、死因が知れず引き取り先もない。病院に回されて腹にチャックのような縫い目を付けて戻って来る。
イアンとスピノザはそういった死者を処理した。運ばれて来、冷蔵庫にしまわれる彼等を書類と照合するのだ。イアンは端整な貌を少し歪めて彼等を見ていた。
午前、彼等は余り話さなかった。
「蜥蜴の絵本があった」
その日の会話はスピノザから始まった。イアンは死体安置所をぼんやり見ながら身動きもしなかった。
「真夜中に住む黒い蜥蜴と、真昼に住むオレンジの蜥蜴が居て、互いにとても会いたいと思っていたのだけれど、世界が違うから、きっとずっと会えないままなのだ、というものだ。
これは死者が持っていたものじゃない。壊れて居た。犯人が捕まらない爆弾事件の跡地に落ちていたものだ」
イアンはごくゆっくりとこちらを見た。地平線から広がる野火のように、焦れったい程遅いスピードで、その眼球に、驚愕とも、何処か錆び付いた怒りともつかないひかりが、宿り始めた。
「いつの話です」
「犯人の持ち物かも知れないと、警察が持って行ったよ。最近脱獄したとニュースで言っていたあの男かも知れない。だから、十三、四年程前かな。
判らない話だ。ひとを何人も平気で殺すような男が、何だって子供に贈るような絵本を後生大事に抱えて居たんだろうな。俺は死者を迎えに行ってその本に気付いた。周りは血やら肉片やら叫び声やらで溢れ返っていたが、その周りだけ誰かが沈黙でも張り付けたみたいに静かだった。
オニール」
イアンは話半ばから立ち上がっていた。スピノザを見つめようとして止め、何か言いかけて止め、結局向きを変えると、縋りでもするように死者の見える硝子窓にふるえる掌と額を付け、そこでそのまま強張った肩で暫く黙り込んだ。
「オニール」
「大丈夫です」
「だが」
「続けて下さい」
「貌が青い」
「どうしてです」
「うん?」
「あなたはどうしてその本を拾ったんです」
「オニール」
「血が付いていたでしょう?汚れて、壊れても居た。あなたにとって価値なんか無かった筈だ。
だのにあなたは拾った、何故です?」
「俺の仕事だからかも知れないな」
「あなたの仕事は死体を運ぶ事だ」
「俺の仕事は『存在する』でも『存在しない』でもない、『存在した』ものを運ぶ事だ。三つの中で選べと言われたら気付く筈だが、これは一番、誰かに伝えられなかった言葉や、終わりを奪われた物語に近いんだよ」
イアンはこちらを見ようとしなかった。ただ俯き、硝子に肘を付けて両腕で耳を覆うような姿勢になり、くぐもったような声で静かに問うた。
「蜥蜴はどうなるんです」
「判らない。物語の終わりは焼けて破れていた」
「そうですか。
私はもう、そんな事も思い出せない」
最後の方は明らかに独り言だった。スピノザは彼の背が何かに耐えるように伸ばされている様を見、そして彼が話し出そうとしては声を飲み込む一連の様子を見、辛抱強く状況の変化を待った。
「私の番ですね」
「うん?」
「話です」
「ああ」
「私と、奥さん、はたぶん、上手く行って居ません」
彼はそれだけ言って黙った。へんに平板な声で、同情して欲しいのでも無く相談に乗って欲しいのでも無く、ただ事実を述べたのだと言った風だった。
「そうか」
「はい」
「好きじゃないのか」
「まさか」
「奥さんの方が君を好きじゃない?」
「それも違うと思います」
「じゃあどうして」
イアンは首を振った。そして「余りいい話題じゃありませんでしたね」と詫びとも付かない事を言った。スピノザは少し考えた後、クリスマスプレゼントをしてみる事を提案した。息子さんにもあげるのだから、そうするべきなのではないかと。
イアンの返答は、奇妙に低い温度の声で為された。
「そのつもりです」
スピノザは目を眇めた。
「この自転車?」
「まあ、そうです」
「クリスマスには間に合わないな」
「そうでもないと思います」
休憩時間は終わりかけていた。二人はそろそろ立ち上がり、イアンは自転車を片付けて上にビニールのシートを掛けた。
「君は?」
「はい」
「君はプレゼントに何が欲しいんだい?」
「ありません」
「君の知りたい情報を教えようか」
イアンは眉を顰めてスピノザを見た。何だか判らないと言った表情だ。スピノザは肩を彼のやり方で竦めると続けた。
「君が幾ら夜中に資料室を漁っても、自転車の持ち主のファイルはここにはないよ」
「何処だ」
驚く事も忘れてイアンは鋭い声で問うて来た。この男が自転車を組み直して居る様はもう老人のようだけれど、こうして怒りが火花のように躯の中を弾けると、まだ世界を碌に知らない若者のように見える。
「代価が要る」
「何です」
「君がはぐらかした話題の続きさ」
イアンは一瞬、何故それが代価になるのか再び尋ねたそうな貌をした。けれど飲み込んで、答えを考え始めた。
「理由は簡単です」
「うん」
「私はあの人に何もしてやれる事がない」
遠くでサイレンが鳴って居た。空気調節などなっていない冷たい廊下を、二人は黙って歩いた。
「私はあの人に言いたい言葉があるのに言い方を忘れてしまったし、悪夢からあのひとを救うには抱き締めさえずればいいと判って居るのに、腕が動かない。私のこころは、深い所では確かに忙しく動いて居るのに、その上はもうすっかり錆び付いて、動かなくなっている。
あの人はもう疾っくに気付いて居るのかも知れません。夜半あの人が目覚めた時傍らに居たのは、あの人の許に帰って来たとあの人が信じて居たのは私の抜け殻で、死者に近しいものに過ぎないのだと」
イアンはそれきり黙ったから、スピノザが言葉を継いだ。
「君はクリスマスに、腕と声が欲しい訳だ」
イアンは少し傾げた首で暫く黙った。それから、そうですね、と囁いた。セントジョンホスピタルの第二資料室だ、と、スピノザは言った。小さな病院だから、警備もそんなに厳重ではないだろう、と付け加えた。
「有難うございます」
イアンが死者の居る扉を開けた。引き出しの上には芝居に出て来るような長いローブを着た、一人の死者が乗っていた。
4
自転車はクリスマスには間に合わず、それでもイアンは組み立て続けた。中庭には雪が降りすっかり凍える気温だったが、イアンはそう言った事を感じもしない様だった。
あれきり彼等は自転車の男に付いて全く話さなかったが、スピノザはあの後のイアンの行動に付いて全く疑いを抱いていなかった。
その自転車は十年以上も中庭にあり、雨風に晒され続けた。それで当然土と埃にまみれていたから誰も気付かなかったのだが、少しも錆びていなかった。指でなぞるだけで新品のような銀色を放つのだ。
スピノザはそんな性質を持つ金属を、他に知らなかった。
「イアン・オニール」
十二月三十日、夜半、中庭でイアンは声にびくりと身を震わせた。突然懐中電灯で辺りが照らされ、思うより明るいひかりにイアンは手を翳しながら黙って相手を見極めようとした。
「俺だよ」
「スピノザ?」
「君の事をイアンと呼ぶのは、恐らく俺だけだろうからね」
貌に向けられていた懐中電灯が下ろされると、イアンは怒りと言うより困惑に満ちた目でこちらを見て来た。いつものつなぎではなく、きちんとした縫製の黒いコートで、すっかり完成した自転車に乗ろうとしていた。だが四方は壁で、漕いでも直ぐにぶつかってしまう状況だ。
「どうして」
掠れた声で言って来る彼に、スピノザは逆に質問した。
「この間の昼間に運ばれて来た三人、二十年前の死体とほぼ同じ損傷だった。俺の知る限り、この世界の武器でひとをあんな風に焼くものはない。そして君はその傷に驚いても居なかった。
彼等は、君の世界のひとなんだね?」
言葉もないと言った表情の彼を見られたのは一瞬だった。不意に懐中電灯を消すと、こちらに近付いて来る足音に耳をそばだてる。イアン共々それが再び遠ざかるのを息もせずに待ってから、スピノザは早口で囁いた。
「俺は四十年もここに居たんだ。そして心を持って居る。原因も判らずひとが何人も何人も死んで行くのを見てなんとも思わなかったとでも?俺は君たちの物語の一部なんだよ。はしっこではあるけれど確かに一部だ。そしてあの絵本みたいに、その終わりを奪われてしまった。
俺はずっと君が来るのを待っていた。教えてくれ、彼等は何者だ。どうして、死ななければならなかったんだ」
イアンが見開いた、痛みに満ちた目で何か言いかけた時、もう一度物音がした。「後ろに乗って下さい」最後迄言われるのを待たずスピノザはそうしていた。イアンはブロック塀に向かって自転車を漕いだけれど、次の瞬間やって来たのはぶつかった衝撃ではなかった。それはイアンが自転車の元の持ち主の名前を呼ぶ声と、耳もとで加速する風の高い音だった。
現在は青く砕けて耳の後ろへ流されて行く。永遠の真夜中の街の中を、真直ぐに自転車は走っていた。
私達は魔法使いなんです。
イアンは言った。スピノザはそんな事だろうと思っていたと呟いた。
二十年前に戦争があって、魔法使いどうしが殺し合った。魔法使いではない人間も随分巻き込んでしまった。一度終わったそれは、最近もう一度復活しつつある。
それに協力しようとして調べていたイアンは、或る情報を手に入れた。それはその一連の事件以後、禁止された魔法器の存在だった。過去に戻る力のあるそれは、だが、持ち主の死により強力な呪いがかけられ、人間の世界の何処かに封印されたのだと言う。
ああ、とスピノザは呻いた。だからあの自転車はその中庭から動かそうとしても出来なかったのか。イアンは前を向いたまま頷いた。これはあそこに留め置かれる強い魔法を掛けられていた。だから私はそこに留まり部品レベルに分解して、一つ一つ呪を解いて行かなければならなかった。
彼等の周囲でやがて町並みは歪み、現在である事を放棄し始めた。
どういう道具か判らないが、正確な過去の中へ行けるというよりは、漕いで居る人間の記憶に強く作用されるものである事は間違い様がなかった。ふと横を見ると、黒髪の少年が高く笑って走っている。ひとりぼっちの赤ん坊が居る。それから再び首を廻らすと、小さな部屋があった。中には茶色い髪の若者がこちらに背を向けて居て、何かが壊れて行く様をじっと見ている。
「スピノザ、あなたは自転車を漕げますね」
「なに?」
少し強張った彼の声に目を正面に向けると、そこには二人の若者の姿があった。
彼等を見たスピノザははっと息を飲んだ。二人の片方、黒髪の青年は手に蜥蜴の絵本を持っていた。
美しく少し傲慢な表情をして居る彼は、だが確かに、いま自転車を漕ぐ彼と同じ面差しをして世界を睨んで居る。
「この先の家で私が降りたら、この道をあの施設に戻る迄、決して降りずに漕ぎ続けて下さい」
「降りたら、君はどうなるんだ」
「いいですね」
イアンはそう言うと、すいと金髪の若者へ手を伸ばした。彼に触れた途端イアンの掌は黒く焼け、同時に蜥蜴の絵本を持った若者の右手が銀の火に包まれるのが見えた。
「駄目だ!」
無視して飛び下りようとしたイアンを、倒れ込むようにスピノザは止めた。彼迄落ちそうになったのに気付いたイアンは反射的に体勢を立て直した。
一瞬で若者達の争いは後方へ行ってしまった。
黙って、イアンは緩く自転車を漕いだ。現在が古いフィルムの亀裂のように、風景に時折混ざる世界を、彼等は暫くそうやって回った。
「私は何度でも行きますよ」
「オニール」
「私はリーマスとハリ-に、正しい世界を返してあげたいんです」
この二つが誰の名前か、わざわざスピノザは問わなかった。イアンは大切なものがもう殆どない人間に特有の空気を持っていたからだ。
「だが代価は何だ。過去に触れた罪で君の掌は爛れているし、過去の君も損なわれた。君は戻れないんじゃないのか。それだけじゃなく、君は最初から存在しなかったように、世界から消されてしまうんじゃないのか」
「そうでしょうね」
「君は非存在を選択すると?それが正しい世界だと?」
「私達は互いを殺す夢を見続けました。今だって見て、そして泣きながら目を覚ます。これより歪んだ世界があるとは思えません」
彼は一層強く自転車を漕ぎ始めた。世界の青は再び耐え難い程深くなり、現在が破損し意味を失い始める。
「聞きなさい、イアン」
風に大半が千切り取られるが、それでもスピノザは叫ぶ。この声が必ずこの、傷付いた子供の魂を持つ男に届く事を知って居たからだ。
「存在した、存在する、存在しない、この三つの話を覚えているかい?俺は死者に付いてしか知らない。他の事は何も知らないし、君の方がずっと詳しい事だって幾らもあるだろう。けれど何十年も死者を見て来た俺は断言出来るが、全ての死者に与えられる『存在した』という概念は、それがどんなに苦痛に満ちたものだろうと、そこに物語と闘いがあった事を示して居る。たとえ名も知れぬ死者のそれであろうと、それは必ず貴いものだし、無意味になる事は永遠にないと俺は信じている。君や奥さんが死んでも、それは必ずこの世界の何処かに残り、伝えられて行く。そうでなければならないものだ。
イアン。君たちの間に何があったか俺は知らない。けれど奥さんはそうした苦しみを超えて、今のひとになったんだろう?君の事を愛してくれるひとになったんだろう?君が奥さんに届く腕を今は持たなくとも、待ってくれているんだろう?君がしようとして居る事は、その人のそうした闘いをも全て非存在にし、無意味にしてしまう事だ。君は君の存在に対して奥さんに目隠しをしようとして居る。君にはそんな権利はない。奥さんや、過去の君の闘いを、踏みにじる権利はない」
「スピノザ」
「イアン、今君が俺に見せようとして居るのは、理由の判らない喪失よりもっと酷い、拒絶の物語だ」
「じゃあどうしろってあなたは言うんです」
自転車は加速して居る。風景は後ろへと流れて行く。彼の感情のように全ては酷く曖昧で、散る葉の一枚すら痛みに満ちて世界へと溶けて行った。
「私はあの人に何も出来ない。私は自分の掌を、あの人の心臓へ持って行く術すらもう失ってしまった。私に残された、何より大切な友人であり恋人であるあの人に、私の手は永遠に届かない」
突然全ての物音が沈黙した。
世界は闇に沈んだ。イアンの叫び声が全てを拒絶して全てを消してしまった様だった。そうなのかも知れない。彼はこの空っぽの世界から、出る気などないのかも知れない。スピノザがそう考えた時不意に頭上にひかりが満ち、貌をあげると、恐ろしく大きい満月があった。
地平線がある。満月を背に、十になるやならずやの細い背の子供が立っている。眇めた目で見ると、茶色の髪をして、けれどまるきり大人のような目で、こちらを微笑んで見ていた。
イアンが何か囁いた。子供は、たぶん彼の全ての物語が始まる前の子供は、大人の声をしてその世界で静かに囁く。
「パッドフット。君はもう、決めたの」
自転車は彼へと引き寄せられる。いつかタイヤの下は花で敷き詰められ、花びらを散らして自転車は走って行く。
「あのひと?」
スピノザは囁いた。
「はい」
「随分伸びた背筋をして居るね」
「あの人はいつだって背を曲げないんです」
子供の前に彼等は辿り着いた。子供は笑って、「こんばんは」と囁く。
「今晩は」
「私達は、どうしようか」
まるきり大人の目と表情で子供は言った。哀しみを極めて上手に抑え、これからやって来る全ての運命を静かに受入れ、彼は世界へと囁いた。
「届くさ」
スピノザは囁いた。イアンの肩が少しだけ揺れた。
「君の手は必ず届く」
イアンは一度だけ躊躇った。それから、彼へと少しずつ腕を伸ばした。
突然、花が忙しく散り始めた。スピノザは目を閉じる。花びらよけに貌をあげると、もう満月も見えない程に花が空を埋めていた。たぶん、これはイアンの心臓に流れる血の速度なのだとスピノザは思った。こころが流れないと告白した男の血ではもうなかった。彼の感情は真直ぐ行き先を決めて、水のように流れて居た。
子供の指先にイアンのそれが静かに触れた。先ほどのように他者の熱はイアンを焼かなかった。子供は大人の掌となり、大人のからだとなり、痩せた若者の姿となって、花びらの向こうから静かに微笑んだ。
突然、自転車が加速した。
漕いでもないのに、世界が熱を帯びて白く歪み出す。「シリウス」恐らく、彼の名前を呼ぶ、静かな声が一度だけ響く。
全て過去を背後に置いて、現在が目覚める音がする。
5
午前五時の施設の中庭は非常に散文的だった。
へんに温度の低い空気の中ですっかり錆び付いた自転車を支えて呆然として居る男二人は、その現在に慣れるのに暫く時間を要した。
「スピノザ」
何か言おうとするイアンを制して、スピノザは言葉を被せた。
「あの人に、いつか蜥蜴の物語の続きを聞いてくれないか」
イアンは一寸不思議そうにこちらを見た。それから生真面目な表情で考えると首を振り、申し訳無さそうに答えた。
「はい。でもリーマスはたぶん、その本を読んだ事はないと思います」
「うん。けれど俺は聞きたいんだよ。
あの過去の中で君の奥さんにまとわり付いていた寂しいひかりには名前が付いている。孤独だ。直ぐ判ったよ、君の奥さんは喪失を知っているんだね。だのに、あんなにも伸びた背で、こんな事をしても何もならないなんて言葉は言わないひとなんだろう?
俺はそんなひとの語る物語が聞きたいんだ。世界の違う寂しい生き物が、それでもいつかきっと自分の望むものになれる物語を、そういう薄やみの中でも必ず語るひとの声が聞きたいんだ」
「スピノザ」
「なんだ」
「あなたは何者なんです?」
「そうか、あんたは魔法使いだもんな。俺達ふつうの人間の読むクリスマスで一番有名な本を読めば誰でも知って居る事だが、この季節は、俺達が願いごとを抱えて彷徨うのが許される日なんだ」
イアンは眉を顰めて何か考えた。それから「やっぱり判らない」と言うと、もうそれは苦痛ではないと言うように、銀と氷で出来た朝の中、子供のように笑った。
6
少し後の話だ。
年明け、十年以上前から無人の死体置き場となっている施設へ、緑のローブを着た痩せた若者が迷い込んだ。方向を掴むのが丸きり苦手らしく、目的地と思しき中庭に辿り着くのに随分かかった。そしてやっとそこに辿り着くと、ほっとしたようにしゃがみ込み、古い、もう分解されかけた自転車にそっと触れた。
「きっと蜥蜴は会えたと思います。一歩一歩歩き続けて、そして必ず互いを見い出したと思うんです」
若者は囁いた。
「あなたも知ってるあの人が、確かにそれをやってのけたみたいに。
闇の中に居たとしても、何処か知らない場所にひかりが存在する事を知っているのなら、それは確かに希望なのだと、ずっと昔あの人は私に言ったんです」
不意に、何かの音に気付いたとでも言うように、若者は貌を上げた。それから立ち上がると、笑って後ろを振り返る。そして中庭へ続く毀れた窓から伸びた掌を自分のそれで掴んだ。
世界は血と祝福で溢れていた。その日も何処かで死者が運ばれた。毀れた絵本が何冊も道路に散らばった。
魔法使いはそうした雑踏を歩いて行く。手を繋いで、死者や幽霊と時折すれ違いながら、過去の夢などもう見ずに、現在の中で痛みと物語を抱えてただ真直ぐに、誤った世界の中を歩いて行く。