うすい耳殻とめざめのお話




 夜なお立ちこめる熱気も、交通法規の曖昧な道路を裂くブレーキの音も、全て、厚い壁の向こうにある。あるのは、静けさと冷たさとかすかな甘い香り。ホテルの夜は、殻の固いフルーツの中に入ったようだ。
 厚いカーテンを淡い光が縁取る頃、リーマスは目覚めた。昨夜寄り添って眠ったまっすぐ伸びた体は背を向けて、リーマスが枕にした腕は形を変えてふわふわした黒山の向こう側にある。今はリーマスの細い腕に小さな頭が乗っていて、リーマスの頬のすぐそばには三角の薄い耳。
 南の国のホテルの冷房は効きすぎている、夜中に犬に変身したな。そう考えて、リーマスは微笑んだ。
 自分の腹に当たる背骨が作る眠りのリズム、目の前にある三角の耳。愛しさがこみ上げて、リーマスは唇の先でキスするように、黒い耳をくわえた。すると耳は、ぴくりと動く。リーマスの唇がくすぐったいのだろう、羽ばたくように振れる。両耳を連動したいのだろうが、唇に押さえられたのとは反対側の耳だけが、はたはた揺れる。
 その様子があまりにかわいらしくて、リーマスは口を押さえて笑いをこらえた。笑いの震えが眠る犬に伝わらないよう、静かに呼吸する。
 また犬の後頭部を眺める。起こしたらいけないからやめよう。目をそらして天井を眺める。夜の気配を残す寝室の中で金の糸のように輝くカーテンを見、再び犬の耳を見る。リーマスは口を開いて、閉じる。もう少し寝かせてあげよう、と天井を見る。
 これを繰り返すこと3回目、気がつくとリーマスは、犬の耳に柔らかくキスしていた。唇の隙間を薄いものが叩き、反対の耳が羽根のように動く。
 パッドフット、なんて君はかわいいんだ。彼を撫でたいのを、そして笑いを、こらえてリーマスは震える。
 その時。腕の上にあった小さな黒い頭が形を変え、重みを増したかと思えば、すぐに軽くなる。その顔はリーマスの鼻先に現れ、リーマスの頭の横に彼が両手をついたために枕は少し沈んだ。
「どうして、人間の時にしないんだ?」
 おはようも言わずに真剣な表情をする恋人の頭をなでて、リーマスは言った。
「だって、人間の君の耳にキスしても、反対の耳がぱたぱた動いたりしないだろう?」
 シリウスの唇の両端が激しく下を向いた。真似してへの字口をしてみせるリーマスに、シリウスはきっぱりと言った。
「動く! やって見せるから、」
 と、シリウスは自分の耳を指で叩き、「リーマスもここに、さっきと同じようにすべきだ。」となんだか威張って言う。
「君、耳動かせるの?」
「したことはない。しかし試す価値はある。動かせたら、リーマスは俺の耳に何度も何度もキスしたくなるだろう?」
 いや、でも、人間の平たい耳は犬の耳ほど美しい動きをしないと思うよ?とリーマスは言いかけて口を閉じた。シリウスは仰向けに横たわり、真剣な表情で天井を見つめる。多分、耳に神経を集中させている。
 リーマスは笑い出したくなったが、こんなにも真剣な相手に失礼だ。手のひらで口元の笑いを抑え、同じように真顔になると、彼の耳に唇を近づけた。
 彼の形良い頭に添う白い耳に、キスをする。鼻先が彼の髪に触れて、かすかに、南国の果物の匂いがした。夜の部屋に漂う匂いと、彼の匂い。唇の間の冷たい感触。
 それはリーマスが想像したより、ずっと、五感が切なくなる行為だった。
 彼は目を閉じている。静かな額、大好きなその鼻のかたち。ひきむすばれた唇に口づけたい、とリーマスが願った時。静かだった唇と目がぱっと開き、リーマスは体を振るわせた。
「今、動いただろう!」
 シリウスが、主人の投げた木切れをくわえた犬のように目を輝かせる。キスしたかった唇で「え?」と言ってリーマスは、シリウスの顔の向こう側の耳を覗き込んだ。耳は静かで、代わりにシリウスの顔がぎゅっと集中して目を閉じる。彼は眉をしかめた。
「リーマス、もう一回してみろ。」
 リーマスは口のあたりを押さえる。今度は熱くなった頬を隠すためだった。
 もう一度、シリウスの耳に口づける。こんなにも別のことに集中している人の耳を、舌でなぞったり甘く噛んだりするのは、変態みたいだから止めよう。リーマスが我慢する間も、シリウスは反対側の耳を動かそうと眉をしかめて頑張っている。耳はぴくりとも動かない。
 息が上がるほどに集中した後、シリウスはまぶたを上げた。
 キュウンという声が聞こえそうな目で、リーマスを見上げ、
「…………続きをお楽しみ下さい、教授。」
 しょんぼり言うと、シリウスは犬に変身した。リーマスに三角の耳を向ける。尾は足の間に隠れて、本当に漏れた「クゥ」という声を抑えるためか、前足の下に鼻を沈めた。
 リーマスは微笑んだ。犬の細い両頬に手を添えて上を向かせると、キスをする。口のふちに見える牙に口づけると、彼の黒い瞳孔が開いてリーマスを見つめた。そのまぶたに口づける。犬の長い眉の毛がくすぐったそうに動く。リーマスが笑って鼻の上の薄い毛並みにキスする頃、尾は元気にシーツを叩いた。「ワゥ!」と吠えた口は、話しづらさに気づいたらしい、あわてて姿を変えた。
 変わらず輝く濡れた瞳で、彼はリーマスを見た。そしてむずむずする口元でわざとらしいほど難しい表情を作って、口を開く。
「今のはどうしたら、人の姿の時にしてもらえるんでしょうか、教授?」
「犬の時は盛大に尾が振っていたね。」
 シリウスの眉間がぐっと寄った。どこに神経を集中しているか気づいてリーマスは笑い出す。何とか笑いを収め、言葉を続ける。
「尾骨は見えないから、多分、今も振っているんじゃないかな?」
 シリウスが笑った。明るい、だけど夜を思わせる笑い方。それに引き寄せられるように彼の唇の端に口づけて、リーマスは笑みを浮かべた。
「だけど、君も僕がするのと同じキスをしてくれなくてはいけないよ。見えないかもしれないけど、僕の尾骨も振っているからね。」








BY  yukich

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