ユ ビ

 ページをめくる音がする。そして呼吸。
 呼吸。ページをめくる音。
 本の頁が擦れる音は雪が降る音とイメージが同じだね、と先刻不二は呟いた。しばらく考えてから「雪は音をたてない」と手塚が返事をすると「だからイメージだって言った」と彼は笑う。
 不二はいつも楽しそうに見えた。自分の受け答えを聞いて微笑む不二を見ると、時折不思議になる手塚だった。特に珍しい事を言う訳ではないし、ユーモアのセンスはない。人当たりに関するありとあらゆる努力は、ロケットが補助エンジンを切り捨てるが如くに捨て去った彼である。
 しかし気付くと不二は手塚の近くにいて、楽しそうにしている。慈悲、であるとか修練、その類のものだろうかと彼は考えていた。
 不二は眠っている。
 2,3度欠伸をしたなと思っていると、いつの間にか丸くなっていた。

 ページをめくる音がする。そして呼吸。
 呼吸。ページをめくる音。

 本の頁の擦れる音と雪の降る音のイメージが同じなら、この彼の寝息は何に似ているのだろう?と手塚は考える。
 しかし不二の寝息は不二の寝息だった。手塚は抽象概念があまり得意ではない。
 不二は眠っている。
 体を丸めて動かない。
 コートの中であれほど自在に動く体が、目の前で横たわって静止しているのは手塚には不思議に見えた。
 不二のプレイを見ていると、人間の体には無数の関節があって全てを同時に動かせる、そしてそれは機能的で美しい、という事に不意に気付く。
 初めて彼の姿をコートで見たとき、手塚は不本意ながら目を奪われた。その少年が試合に注ぎ込んでいる気概からして、そもそも他の誰とも比べ物にはならなかった。不二は相手の息の根を止めるのと同等の覚悟を持ってボールを打っているように見えた。阿るように柔らかい球も、拒絶するように強い球も、押し伏せるような技巧的な球も、応変に彼は打った。相手より高い点数を取って最後にコートに立っている為に、彼は圧倒的でいて緻密なテニスをしていた。
 手塚が3秒以上他人の姿に目を留めるのは珍しい事だった。
 不二はあの頃から変わっていない。どちらかと言えば、プレイスタイルはますます手におえなくなった感があるが、本人の気質は相変わらず執着がなく淡白だ。
 時計を見ると、随分と時間が経っていた。そろそろ夕食を食べに2人で近くへ出掛けるか、彼を帰らせるかしなければならない時刻だ。手塚は現国の課題図書を閉じて、不二の右手を軽く叩いた。
「不二。起きろ」
 ラケットを持つ右手は硬くも筋肉質でもない。あんな球を打つ人間が無防備に眠っているという事実に手塚は不安を覚える。第三者がその気になればこの指を折る事も出来るのだ。
「不二」
 とても返事とは思えない微かな声をあげて、不二は手塚の手を軽く握った。そしてますます丸くなろうとした。
 手の甲に、不二の髪と頬が触れ、そして唇が触れた。
 唇はそのまま滑って指先でとまった。
 不二は1つ大きな呼吸をして、また寝息が始まる。
 唇は小さく暖かく、そういうサイズの小動物が指に触れているように思えた。
 指先にあたる規則正しい吐息。
 体の中をまっすぐ突き抜けるような感覚があった。
 髪が長い、と初めて手塚は気付いた。そして眼が二つある。鼻は一つ。そして唇は……。そこで思考は遮断され、手塚はまた違う事を思い浮かべた。
 この唇は確かに、先ほどまで自分に笑いかけていた唇だった。「もしラケットの公式サイズが今の3倍だったら、難易度は上がったかな下がったかな?」と他愛ない冗談を言っていた唇だった。
 人の唇が自分の体に触れるというのは、記憶する限りでは初めての経験ではないかという気がしたが、あまり上手くない方向のような予感がしたので、それも手塚は遮断した。
 自分が硬直しているのを彼は知らなかった。その感情を開けるアプリケーションは彼の中には存在しなかったので、突然降って湧いた状態に手塚は戸惑っていた。そして空腹のせいだろうかと、真剣ではあるが頓珍漢な理解をしていた。
 不二の目が薄く開いて、眩しそうに手塚を見る。
「手塚……?」
 何か説明が必要な状況に自分置かれているような気が、彼はした。手はいまだ不二の唇に触れている。
 そんな男ではないと冷静に説いて聞かせればきっと分かってもらえるはずだと手塚は気を取り直した。
 そんな男とはどういう男だ?
 それはつまり眠っている部活仲間の―――
 妙な自問自答をしているうちに、取り返しのつかない不自然な間が空いてしまったようにも感じられる。
『そんな男ではない』と。『偶然こうなって戸惑っているのだ』と。言えば不二はいつものように笑うだろう。
「……男じゃないんだ俺は」
 ようやく搾り出した割には言い間違えた手塚の答に、真面目に不二は返事をする。
「……そうなんだ?」
「・・・・・・」
「じゃあ何なの?」
「……違う。『そんな』という形容詞が抜けた。そんな、男じゃない」
「どんな」
 ボールにスライスをかけて打つ自分を手塚は思い浮かべた。入射角に対して60度の方向へ。少し落ち着けた。
「今、頭の中でラケットを振った?」
「・・・・・・」
 打ったボールはラインを僅かにオーバーした。そしてそのままどこかへと転がっていった。
「手を……不二」
「何?」
「起きたのなら手を離せ」
「動揺が顔に出ないのは詰まらないね、手塚」
 もう一度目を閉じて、確かに不二はそう言った。言葉の全ては唇の動きになって手塚の指先に伝わる。
「ご飯を食べに行こうよ。それとも仕返しをする?」


 しばらくの間、手塚は瞬きを忘れて不二を見ていた。
 彼が、問い掛けに対してどうするのかを決定したのは、結局それから15分後の事だった。








2005/12/24 再録