棺桶の中は寒い。夏でも十分に冷たいのだから、冬など言うまでもない。石床の地下であれに横たわると、私の体は呼吸や体温を放棄し、死体の状態に近くなる。冷たい場所の冷たい箱に入った冷えた自分。それを考えるとき私は少し悲しくなるのだが、しかし日の出直前の圧倒的な眠気には抗えない。私はくたくたと意識を失い、夜になるとまた再び生者に戻る。最初に目に入るのは棺桶の内貼りだ。古くなった絹の陰鬱な色合い。それをぼんやりと眺めながら、冷えて感覚のなくなった自分の手足を少しずつ動かす。
 しかし今日私が目を覚ました場所は暖かかった。私の手足も、痺れてはいなかった。夏の陽だまりの中にいるようだ。
 一瞬吸血鬼の天国にでも来てしまったのかと思ったが、そうではなく、ベッドの上のシリウスがこちらを見ていた。私は倒れた彼に付き添っていて、そのまま眠ってしまったのだ。やけに暖かく感じられるのは、シリウスの体温が部屋の空気を緩めているからだろう。
 闇の中、彼の健康そうな頬の色を確かめる。数時間前に倒れていた彼とは別人のような顔色だ。私は心から安堵した。
 倒れた彼は顔色と体温を失い、私は知人の誰かに助けを求めようかと何度も逡巡し、医学書を片端から開いては放り投げ、この世の色々なものに祈った。「彼を助けてくれるならチョコレートを1年食べません」であるとか「ワインを5年飲みません」であるとかそういったような誓いも立てた。(無論、誓いは今日からすべて実行しなくてはならない)友人は滅法頑強な男だったので、こういう事態に私は慣れていなかったのだ。彼の状態があれ以上悪くなるようなら、きっと私は「もう誰の血も飲まないので彼を助けてください」と、そう祈っていたことだろう。
 体調が良くなったようでよかった、というようなことを私は彼に言おうとした。
 しかし彼は「無用心だぞ」と低い声で告げ、私の両肩を捉えて揺さぶった。普段のシリウスは、決してそんな乱暴な振る舞いをしない。大声を出したりもしない。彼は怒っているのだろうか?と私は考える。「無謀な真似」「地下室とは違う」「お前は死ぬんだぞ」などといった叱責が断片的に聞き取れた。彼は陽のある時間をこの部屋で過ごした私の行動を責めているのだ。
「体調がまともなら殴ってやりたいくらいだ!お前は昔からそうだった。自分を大切にしない」
 と彼は言った。
 しかし、友人をこんなに怒らせてしまった事に対しては罪悪感を覚えもするが、自分の行為自体には特に反省する点を見出せない。同じ状況に陥ったなら何度でも私はこうするだろう。倒れて、動かなくなったシリウスを置いて、地下へ行くべきだったとは到底思えない。
 部屋に入ったら、君が倒れていて、私は君が死んでしまうと思った。説明すれば通じるだろうか?私は彼と違って、気持ちを整理して伝えるのが上手ではない。
 表情の動かなくなった君は、別人のように完璧に整った顔で、私は驚いた。君こそが吸血鬼に見えた。高貴で冷たくて美しくて。でも私はそんな顔は嫌だった。大口を開けて笑う君の方がよかった。いま怒られているのは私だけれど、でも怒っている君のほうがいい。動かなくなった手も足も、床に散った髪も、何もかも私を恐怖させた。このまま二度と君が目を開けなかったら、と考えただけで身が震えた。まだ話したい事は沢山あって、感謝も、とっておきのジョークも、何も言っていないのに。私は君に言いたい事があったのに。
 あの苦痛に比べたら、私が日に焼かれるくらい何だと言うのだろう。
 私はまず謝ったうえで、自分の感情をそのまま言葉にしてみた。
「君にもしものことがあったらと思ったら、なんだか他の事はどうでもよくなってしまって」
 シリウスの形相は険しくなった。もしかすると私の言い分は益々彼の感情を害してしまったのかもしれない。眦がぐっと吊りあがり、彼は口を開く。魔法でも喧嘩でも、相手を完膚なきまでに叩きのめしてきた、子供の頃のままの表情。そういえば私は君みたいな男の子になりたかったんだよシリウス。随分昔の話だけど。君は私にはちょっと眩しい存在だった。でも親切にしてもらえて、信じられなかった。それからずっと一緒に暮らしてきたけど、まだ少し嘘みたいに感じる。
 シリウスが私の話を聞いて納得できないのは当然だ。私は重要な部分を話していない。私にとって彼の存在がどれほど大きいか、私がシリウスをどのように思っているか、彼は知らない。私の執着を。彼の親切心と私の感情がすれ違っているのが、ただ悲しかった。
 初めての友達で、今も大切な友人。子供の頃の私の理想像、私のヒーローでもあった。恩人でもある。でもどうしてか、私は彼にキスをしたいと思っていた。
 彼の首筋の皮膚に牙を立てながら、彼の血流を感じながら、彼の髪の香りをかぎながら。私は彼の唇に触れたかった。勿論それは浅ましい吸血鬼の支配欲によるものだと知っていた。彼の純粋な友情と親切心を手酷く裏切る行為だとも。彼がどんなに傷付くかは想像もできなかった。だから私は自分の感情に蓋をしていた。ずっと隠して生きていけると思っていた。一生を彼のよき友人として過ごすのですら、自分には不相応な幸福だと、きちんと自覚をしていた。
 しかし、いま私は自分の狡さに気付いた。友情によって彼が与えてくれている血を、友情ではない感情を隠しながら受け取る私は果たして誠実だろうか?
 正直に自分の心を打ち明けて、そして永久に彼と会わないようにするのが一番正しい道なのでは?
 尚も何かを言いつのろうとする彼を見下ろしながら、私は彼の肩に手を置いた。何も知らず、ただ私を案じて叱責する彼。
 最後なら彼にキスをしても許されるだろうかと私は考えた。自然に体は傾いていた。かぎ慣れた彼の匂いがした。
 シリウスの言葉はぶつりと途切れ、彼はまばたきさえ止めて私を見ていた。怒るでもなく、警戒するでもなく、呆然と。彼は甘い。近しい人間に対する警戒心が全くない。そして自分より弱い人間、劣った人間に対して限りなく寛大であろうとする(世界に自分より劣った人間が何人いると彼が考えているのかは知らないけれど)。だから私のような人間は勘違いをしてしまう。今この瞬間にも、もう一度キスがしたいなどと望んでしまう。私は少し笑った。

「ごめん。私は君の事がこういう風に好きなんだ」













2008.12.24


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