星を追う少年






 ホグワーツへの入学は、僕にとっては神が通っている学校に入学するのと殆ど同じ意味があった。どういう気まぐれによるものか、神が人間共と同じ制服を着て、椅子に座って普通に授業を受け、そして人間共に混ざって食事などをしている場所だ。神による神ジョークなのかもしれない。神とはすなわち僕の兄なのだが。
 これに関しては特に説明するつもりはないし、誰に告げたこともない。しかし仮に誰かに打ち明けたとして、その相手がどんなに僕を変態扱いしたとしても、一目僕の兄を見れば沈黙するのではないか、と思う。
 僕の兄は特別な人だ。
 凡人を絶望させるために作られたものではないか?という気が時折する。僕のように生まれた時から彼を見ていれば諦めもつこうが、成長段階で彼に出会った人間はどう誤魔化せば自分のプライドと折り合いがつけられるのだろう。ちょっと想像ができない。まあ色々な葛藤があるのだろうが、結果的に女性は兄に恋をし、男性は兄を崇拝するか、或いは同じ勢いで憎むようになる。分かり易い話だ。

 この学校でも、兄を取り巻く人間の反応は変わらないようだった。残念ながら寮は離れてしまったが、その気になれば兄はすぐに見つけられた。兄は常に場の中心、座の中心にいて、これ以上ないというくらい目立っていたからだ。離れた所にいる者も遠くから兄を見ているくらいだった。兄は好きなように人を笑わせ、惜しみなく魅力を振りまいていた。
 僕がおや?と思ったのは入学してしばらく経った頃だった。兄の周囲にいる生徒がいつも同じ顔ぶれなのだ。
 ラクガキような単純な顔立ちの眼鏡。自制心のなさを全身で喧伝しているかのような脂肪デブ。学生か乞食か分かりかねるような酷いなりをした貧乏人。
 兄は人が周囲にいないと寂しい性分の癖に、それでも人を疎んじるようなところがあった。取り巻きであろうと、同じ者をずっと側に置くとは考えにくかった。友人などという可能性は、僕は微塵も考えなかった。
 しかし兄は確かに彼等と行動を共にしているようだった。城の中を全部引っくり返す大騒ぎになる悪戯を兄は何度もやってのけたが、それは信じられないことに兄一人の仕業ではなかった。なんとか言う、口にするのも馬鹿馬鹿しいような名前のチームを作って兄は活動をしている。
 他の寮の者と喧嘩をしている彼等を見た。兄は眼鏡男の背中を守り、眼鏡男は兄の補助をした。眼鏡男の格闘は兄と同じくらい優れており、手馴れていると僕も認めないわけにはいかなかった。何より彼の魔法は巧妙で底意地が悪く、しかしとびきり優秀だった。校内の誰もが、兄にするように眼鏡男に一目置いていることが徐々に分かってきた。兄と眼鏡の男が双子のようだという人々の批評を聞いた時の僕の驚きを、想像できるだろうか? 
 殴り合いの喧嘩が済んだ後、大抵兄は貧乏人に預けていたローブを受け取るのだが、そこに尊大な調子はなく、相手の感情を窺うような空気があった。まるで誇るような。まるで褒められるのを待つ子供のような。あの兄が。他人などまるで意に介しなかった彼が。
 兄の表情が、家にいた頃のものとは違う。その事実から、僕は必死で目を逸らせていた。
 しかし彼は笑っていた。自分がおかしいから手前勝手に笑うのとは違う。共有するための笑顔。心から楽しそうな。その表情を目の当たりにして、僕も認めないわけにはいかなくなった。


 僕は昔から、兄は人間を愛することが出来ないひとなのではないか?と漠然と考えていた。もちろん女性と交際をする事はあるだろう。相手の容貌や気質や能力を愛でることも出来ると思う。執着も、ひょっとしたらするのかもしれない。しかし彼は本当の愛情を持つことはないのだと感じていた。兄は能力の高いひとだ。大抵の人間は彼にとって薄っぺらい本のようなもの。性質や思想は瞬時に読み取られ、ごく短い時間の退屈しのぎの相手にしかならないに違いない。そう予想していた。
 人は永遠に流れる星を追うことはできない。
 今から十年後か、何十年後かは知らないが、いつかきっと兄は1人になる日がくると僕は思っていた。どんなに美しく素晴らしい存在であっても、永久に手に入らないものを人は追えはしない。1人になった兄との暮らしは、幼い頃からの僕の夢だった。僕は生まれた時から、星は手に入らぬものだと知っている。手の届かない星を見上げて暮らすのは不幸などではなかった。それどころか無上の幸福、僕の人生でただ1つだけの夢だった。


 けれど、もしかしたら兄は誰かを愛することが出来るのかもしれない。
 やがて星は誰かの手の中に落ちるのかもしれない。

 そう考えた時、僕の両の目から静かに静かに涙が流れ始めた。止まらなかった。待つことが僕の祈りだった。ずっとただ1つだけを祈ってきた。僕は誰も傷つけなかった。不平を言わなかった。誰のことも恨まなかった。欲深くもなかった。望みはただ1つ。ただ1つだけだったのに。


 どうか、誰か。

 僕は声もなく涙をこぼしながら、初めて兄以外のことを願った。

 この恋をやめさせてください。
 このままでは僕はきっと、この思慕に殺されてしまう。
 誰かこれをやめさせてください。


 星も夜も、僕を慰めなかった。そこにあるのは破れた夢と、惨めな僕と、沈黙。それだけだった。










2008.01.06 犬受祭さん掲載

2013.03.05 再録