焼き焦がされた者の見る夢








 考えてもみてほしい。人間の究極の理想像が、生きて隣で動いているという暮らしがどのようなものか。生まれたときにすでに一等輝く星がそこにあり、その輝きが烈し過ぎると人はどうなってしまうのかということを。
 僕は兄ほど苛烈な人を知らない。兄のように誇り高い人も、兄のようにありとあらゆる才能、あらゆる魅力、あらゆる身体的美しさに恵まれて生まれた人も知らない。繊細な外見に荒々しい性格、しかしそれには似合わぬ知性。何もかもが調節を忘れたボリュームのように滅茶苦茶だった。兄に比べれば他の人間は目鼻のない木偶の棒のように思えた。彼こそはブラック家の純血、ブラック家の栄光、ブラック家の高貴、ブラック家の呪い、それらすべてを濃縮した一滴の雫、そんな存在だった。シリウス・ブラック。僕の兄。

 幼い頃、僕は常に兄の後姿を見ながら歩いていた。どこに行くにも「あにうえ、あにうえ」と付きまとい、差し出される手を取ってどこまででも歩いた。若木のようにしなやかに振られる兄の手足。あの頃の僕はこの国の美しい夏の季節よりも更に完璧に美しい幸福の中にいた。彼は幼い僕に行動を制限される事を露骨に疎んじたが、必ず僕に手を差し出した。昔も今も、彼はひたむきに自分を頼ってくる存在に弱く、その手を振り払えない。僕は楽しんだ。独自に発明した奇妙な遊びで野原を転げまわって笑う兄、倒れて息をつく投げ出された手足、無造作に泉の水を飲む仕草を。道程にある勾配やぬかるみに、極自然にそして優雅に僕の体に回された兄の腕に、僕はある種の感情を抱いたが当時はそれが何であるか自分でも分からなかった。

 そして僕は夢を見るようになる。兄が死んでしまう夢だ。
 彼は溺れ死ぬ。彼は毒を飲まされて死ぬ。彼は首を絞められて死ぬ。どれも寝顔と見紛うばかりの静かな表情だ。なんと無邪気だったことだろう。「あにうえが死んでしまうゆめをみました」と、本人にそう告げてさめざめと泣いていた幼い頃の僕。兄は少し面倒そうに、それでも彼にしては丁寧に僕の背を撫でてくれた。
 しかしある日の夢の中で、僕はいつものように溺れた兄の死体を前にふと「首元が苦しそうだ。緩めて差し上げなければ」と思った。濡れたシャツの襟が、無残に兄の喉を締め付け、いかにも窮屈そうだったのだ。ぐっしょりと湿ったタイを抜き取り、シャツのボタンを1つ開けると、兄の首筋を水滴が滑った。ぴんと張った首のきめこまかな肌。植物の芳香のような兄の匂い。動かない睫毛の、見事な影。これから数え切れないくらい多くの凡人を魅了し、支配し、運命を狂わせるだろうこの人が、今は自分の物だ。と唐突に僕は思った。死は彼から肉体の自由を奪い、誇り高いこの人が今は何者をも拒絶できない。恐ろしい程の興奮に僕の手は震えた。そしてもう1つ、ボタンをはずした。
 そこで僕は絶叫と共に目覚めた。夢の中の自分が何を望み、自分の中で何が進行しているのかを悟って絶望のあまりもう一度叫んだ。幸福な夢の終わり。僕はあれ以来、兄の死ぬ夢を見ない。

 僕は兄の後ろを歩かなくなった。兄も僕に手を差し出さなくなった。
 「くだらない」兄は吐き捨てるようにそう言った。兄の美しい発音で発せられるとその言葉はまるで詩のように響いた。「くだらない」
「お前の言う理屈も誹謗も全部、奴等の言葉をオウムのように繰り返しているだけだ。反吐が出る。お前は自分の言葉で喋れないのか?」
 家を出る時、最後に兄が僕に言った言葉だ。怒りのせいで彼の目は、名前に相応しい冴え冴えとした光を放っていた。そう、僕は一族の言葉をそのままなぞっているだけだ。兄の言葉は正しい。僕の心も僕の魂も何もかも別の場所にあるのだから。
 なるほど、自分の言葉で語ってもいい。兄上、僕はあなたの手首や、髪や、鎖骨や、足の指、シャツの中身、そんなものにしか興味がない。あるいはあなたの髪をシーツの上に広げたらどんな具合だろう、とそんな事ばかりを考えている。そう正直に告げたら彼はどう答えるだろう。「くだらない」と言うのだろうか。この世の何よりも無慈悲に。それでもいい。近頃の僕は考えることすら面倒になってしまった。気力を失った人間に、我が家の家訓や規範は非常に優しい。何も考えずに済むからだ。心にもない言葉や活動を勝手にこなす身体を半分剥離したような精神状態で眺めながら、僕は夜毎望んでいる。終わりを、或いはもう一度だけ兄の夢を、と。








2007.01.23 犬受祭さんに掲載

2013.03.05 再録