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 初めのうちは確かにあった罪悪感が擦り切れてなくなるくらい回数を重ねて、それはとうとう当たり前の行為になった。被ったシーツの上から触れられるような、ぼんやりとした感触だったシリウスの手も、いまは少し違う風に感じる。
 数学やスポーツのように、こうすればこうなるというような確固たる手順と法則があるものだと思っていた。ところがそうではなかった。そこには柵も境界線も何もなく、すべてを私達2人が決めなければならないのだった。とりあえず他の誰かは何もしてはくれない。それだけは確実だ。
 どこか会話に似ている。
 相手の感情を動かしたい。しかし自分の気持ちも伝えたい。言ってはいけない言葉があり、心地よい言葉がある。彼にも、そして私にも。そういった事柄は時間をかけて話しているうちに徐々に分かってくる。始まりと終わりがある。が、生きている限り、何度でも思うままに楽しむことが出来る。誰を相手に話しても同じなのかもしれない、でも彼と話したいと何故かそう感じる。
 わざと声をあげたり、あげなかったり。わざと音をたてたり、たてなかったり。気付いたり気付かなかったり。無視したり、笑ったり、触れたり。その時間には私達だけの小さな決まり事がある。
 コミニケーションのひとつだったのだ。私はいま本気でそう思っている。
 髪の中に汗をかき、背が反ってシーツから離れる瞬間、いつも私はもう少しで何かが分かるような気がする。昔に経験した優しい記憶。母親の指が私の額に触れる瞬間に感じた暖かい気持ちに似た何か。生まれた意味、という程の大仰なものではない、けれどそれに近い大切な事。しかしあと少しというところで呼吸が足りなくなり、私は果てる。残念な気持ちと安堵する気持ち、両方を味わいながら。その私の顔を、彼はじっと見ている。不安に思うような事は何一つありはしない。
 苦しめられるばかりだったこの病んだ肉体に、私は時折感謝するようになった。この腕があるから私は抱き合える。この唇があるから私はキス出来る。また同時に、噛み裂きたいという衝動以外に、私がこんなにも人間の体を欲しいと思うようになるとは夢にも思わなかった。そして、少し夢のような気もする。
 人生の全てには、もしかしたら意味があるのかもしれない。
 ひとつひとつは一見出鱈目のような納得が行かない出来事でも、それぞれ細かくやがては繋がり連鎖し、どこかへ帰結する仕組みなのかもしれない。
 私は最近、そういう風に考えることもある。



先生、どんどん悟りに近付いている……どんどん迷っている
シリウスとは逆に。つーか先生、補完されてるのか?

余 談
明言は避けていましたが、ここの先生はどうも不感症気味です。
でも触感が伝える情報だけが愛撫ではないと開眼したみたいです。




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