153




 私達はとある式典に参加していた。その日は妙に予定が詰まっていて、我々は知人のスピーチが終わると同時に退出して次の目的地に向かわなければならなかった。そういう訳で私は混み合うホールの中でシリウスを探していたのだが、ざわざわと挨拶を交わす人々の群れの向こう、廊下の入口に彼を見つけたとき、シリウスは一人の女性と会話中だった。我々と同年輩のその女性はシリウスの腕に触れ、シリウスは頷き、2人は廊下の傍にある控室のようなところに入って行った。私は部屋の前で10分待った。しかし次の予定に間に合わなくなりそうだと気付いて、ドアをノックした。まったくなにも考えずに。何故かロックされていたドアを、杖で開けた私の見たものは、事務机に押し倒されているシリウスと、彼に馬乗りになっている女性だった。
 重ねて言うが、私は何も考えていなかった。なのでまさか部屋の中がそんな事態になっているとは思いもよらなかった。あまりの事に何秒か放心していたと思う。
 女性の口の端から顎にかけて真っ赤な色が付いていて、それがシリウスのシャツの襟や首筋にも付着しているのを見たとき、私は彼が噛まれてしまったのかと思った。しかしよく見ればそれは口紅だった。それ以外にも、金色をしている女性の髪の生え際が黒いことや、片方脱げたヒールが転がらずにきちんと床の上に立っていること、おかしな細部ばかりがやたらに目についた。
 組み敷かれたシリウス、というのは私にとって非常に見慣れた状態だった。それは大抵私の下にあって、苦笑しながら或いは時々不満そうに私の背に腕を回す。しかし間近に見慣れたものが離れた所にあって、傍観者の立場で見てみるというのはどうにもおかしな気分のするものだった。まるで私が幽体離脱でもしているかのような。
 それにしてもシリウスは動揺していた。あんな目をした彼を見るのは何年振りだろう。彼のズボンは、2匹の恐竜が控えめな引っ張り合いをしたかのように裂けていた。机の上に投げ出された長い脚。そういえばシリウスは足が長く踵が細いので安定が悪い。これまた長く出来ている足の指で前後は踏み堪えるが、横からの圧には弱い。彼を押して倒すのは実は簡単だ。私は知っている。シリウスは知らないだろう。
 考察していた私は突然、自分は何か言うべきなのでは?もしくはなにかするべきなのでは?という可能性に思い至った。私とシリウスは所謂恋人同士で、世間にもそう認識されている。女性はシリウスに馬乗りになっているが、金品目的や病気の発作等といった事情ではなさそうだ。そして私はそれを目撃してしまった。
 彼等が何も言わずこちらを見るばかりなので、仕方なく私は
「すみませんが彼を放してやってください。怯えている」
 と言った。
 女性は一拍置いて泣き始めた。始めは静かに、やがては荒々しく。私の言葉の何かがいけなかったのかもしれないが私には分からなかった……否、丁寧に考えれば分かったと思うのだが、その時は考える気力がなかった。さすがに私もシリウスも、その女性を慰めるほどのフェミニストではなかったので、彼の衣服に簡単な補修の魔法をかけて部屋から退出した。

 次の予定をキャンセルしようかと私が尋ねた時には、彼は表面上の平静を取り戻していて「いや、平気だ」と返事をした。笑顔の一歩手前の穏やかな表情。近年物事の取り繕い方が私に似てきたように感じる。正直に言えばあまり面白くはないが、長年にわたって私が短気を諫め続けた結果なので文句も言えない。
「俺は怯えてはいなかった」
 我々はなにか違う話をするべきだと私は思ったのだが彼は静かに言った。
「ああ、うん」
「驚きはしたが」
「うん。そうだろうね」
 彼は怯えたような目をする事が時々ある。私に助けを求めるような目をする事もある。私はそれを見る機会がある。夜に。さっきは丁度同じ目をして私を見ていたんだよ、とは言わなかった。彼がまだ動揺しているのは声で分かるので、表情を見るのは避けて前を向いたまま私はなるべくゆっくりと喋った。
「私もびっくりして、思わず言ってしまった」
 何度遭遇しても慣れないものだね、と続けそうになって慌てて口を閉じた。いくら関連のある話題でも、以前シリウスが私の目の前で女性の部屋に引っ張り込まれそうになった件は口にしない方がいいのだろう。当然ながら似たような出来事の何件かも。
「君の方が余程」
 隙だらけだ、と言おうとしてこれも思い留まる。シリウスは日頃私に「隙だらけだ」と指摘し心配するのだが、どう考えてもそれは彼の方だと私には思える。少なくとも私には事務机の上に押し倒されるという経験はない。
「なんだ?」
「いや、ええと……」
 視界に入ったシリウスの喉に口紅の赤が残っていた。言いにくい事だが言わねばならないだろう。彼の喉に口付けた彼女は、子供のような体温の高さにびっくりしたのではないだろうか。
 それにしてもチェスの終盤のように打てる手がない。どの話題も不適切だし、直視も出来ない。読書しながら歩ければいいのにと思う。
「お前は冷たい」
「え?」
 ひどく脈絡がないように聞こえて、私はシリウスを見た。少し髪が乱れている。
「もう少し怒るとか……」
 本当にびっくりしたので、私はぽかんとした。怒る?誰を。シリウスに?彼女に?式典の主催者に?事務机に?それとも私に?可能性は全く等分に思える。
「まあお前には無理か、そういうのは」
 一人でがっかりして一人で諦めている。シリウスの感情は早く、私は追いつけない。この場合、私が怒ればシリウスはがっかりしないのだろうか。しかし怒らなかったが故に人に落胆されるというのも妙な話だ。シリウスのために腹立たしくもないのに怒るというのも妙に思える。シリウスは時々不可解な話をする。そして私はこういう場合釈然としない気持ちになる。いや釈然としない、は正確ではないかもしれない。
「首筋に口紅が付いているよ」
 私は言った。もはやどんな顔をしていいのか分からなかった。









以前日記にも書きましたが、
オフ会の議題だった「ルーピン先生の嫉妬」についてずっと考えていて
ちょっと書いてみたのですが、嫉妬の「し」の字までも行かなかった…。
強いて言うなら、少し様子がおかしい、程度……。
考えてみればあの完璧超人のシリウス・ブラックさんが
一生をかけて戦った相手を、たかが数十行でどうにかしようだなんて無理に決まってた。
ながーい文章の序文、という気持ちで読んでください…。



2009.12.10