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 ポートキーのある野原から、彼の自宅までの道のりは小一時間ほどだった。
 季節に似合わぬ暖かい日の光が、頭頂部を温める。かすかに風の音と鳥の声。湿り気を帯びた土を踏みしめる自分の足音。土地の匂い。白くなる吐息。ルーピンの好む散歩の環境、そのまったく完璧な条件が揃っていると言えた。しかし彼の顔色は優れない。
 ルーピンは左足を負傷していた。不注意から両足のアキレス腱を切られたのだ。否、切られたというよりも魔法で消されてしまった。治療者は右足の治癒は終えたが、もう片方の形成は明日来るようにとルーピンに告げた。彼は今、そんな訳で左足を木で固定され、松葉杖をついている。
 しかし彼の顔色が優れないのは、怪我のせいではなかった。正確には「怪我の痛みのせい」ではなかった。痛むか痛まないかでいえば勿論痛む。体重を掛けぬように注意深く進んではいるが、振動が伝わるたびに、だらりと垂れた足首から先が振れて鈍く痺れる。その術をかけた敵側の魔法使いは正確さを欠いたようで、アキレス腱の周囲の筋肉まで抜かれていた。だが、足よりも怪我よりも彼が思い悩むのは友人シリウスの事だった。
 同居しているシリウスは、ルーピンの怪我に対して毎回非常にナーバスになった。形の良い眉がぐっと寄せられて表情には見る見るうちに怒りが漲る、その変化の一部始終を為すすべもなく見守らなくてはならない、あの瞬間がルーピンはとてつもなく苦手なのだ。以前のシリウスはルーピンの不注意を責めた。自分の不安を解消するように必死に、次々と小言を並べた。しかし最近の彼は言葉を飲み込むことを覚えたらしく、唇は結ばれて口数が少なくなる。しかし介添えの為に伸ばされるシリウスの手は、時折震えている。
 シリウスの気持ちを、しかしルーピンはよく理解していた。火傷を負って、または呪いを受けて、運び込まれる彼に逆に付き添う立場に立たされたときに、自分の感情を抑える事が難しいからだ。生来の完璧な身の美しさを破損されて横たわる彼の生還に安堵を感じるのと同時に、彼を疑う気持ちが沸き起こる。この怪我を回避する事は、君ほどの魔法の遣い手でも無理だったのかと。身を守る努力を怠る瞬間が一瞬でもなかったのかと。そう尋ねたい欲求は年々強くなっているが、幸いにしてルーピンは一度も口にした事はない。少なくとも今のところは。
 一歩ごとにルーピンの歩幅は小さくなってゆき、自宅のシルエットが見え始めた頃にはとうとう歩みが止まってしまった。
 疲れていて、怪我をしていて、そして若干滅入ってもいる。そのうえ自分のせいで友人の気持ちを乱すのは嫌だな、とルーピンは考えながら空を仰いだ。気温のせいか綺麗な青だった。
 できれば何か楽しい話を1つ。それを語るシリウスの朗らかな声を聞きたいとルーピンは思った。この怪我が彼に見えなければいいのに、とも。もういっそ、家に入ると同時に玄関で倒れて眠ってしまったらどうだろう?と彼はろくでもないアイディアを思いつく。そうすればシリウスの怒りも悲しみも見ないで済む。しかしさすがのルーピンも自分の為にシリウスに更に余計な心配を掛ける作戦を真剣に検討していた訳ではなかった。
 それでは家に入ると同時に、魔法で彼に目隠しをしてしまうのはどうだろう。そうして椅子に掛けさせて「頼むから何も聞かずに、ひとつ楽しい話をしてくれ」と頼めば、友人は言う通りにして、気持ちを明るくするようなよくできた冗談を言ってくれるかもしれない。ルーピンにはそんな空想をした。少し気が楽になって再び彼は歩き始める。
 二階の自分の部屋の窓から侵入してみたらどうだろう。既に戻っている旨はフクロウ便を使って知らせればいい。あるいは物凄い勢いで謝りながら部屋に突入し、彼に一言も口を挟む隙を与えず喋り続けてみたらどうだろう。ルーピンの思案はどんどん現実から離れていった。
 そうこうするうちに、観賞用の植物と実用的な植物がまだらになって元気よく茂っている、彼の家の前庭に到着してルーピンは嘆息した。
 足が疼くのでここで休憩しよう。と彼は心の中で妙な言い訳をして、自宅の玄関脇に腰を下ろした。ルーピンは「怖くて家の中に入れない」という事実から断固として目をそらしていた。母に叱られるのを恐れる子供のように扉の前でもじもじしている自分など、認めるくらいなら書置きをしてこの場で家出をする方がましだと彼は考える性質だったので。
 幸いにして玄関は日当たりが良かった。彼は膝を抱えてささやかな庭を見渡す。足が治ったら雑草を引かなければならないようだった。そしてついでに春に植える野菜のための肥料も撒いてしまおう、彼はそう考える。
 ぼんやりと考え事をするのに関して、彼は素晴らしい才能と経験を持つプロフェッショナルだった。この分野においてはさすがのシリウスもルーピンには敵わなかっただろう。庭についての諸事を計画立てているだけで、瞬く間に1時間が消費される。正直彼は明日の朝までそこにいたかったのだが、時刻はまだ午後のお茶を楽しむ頃合であるというのに、冬の太陽は容赦なく色を変え、ノスタルジックな黄昏色が混ざり始める。いくら足が疼くという口実があるからといって、いつまでもここに座っている訳にはいかぬことくらいルーピンもよく承知していた。今日の帰宅時間を告げて出た以上、帰る時間が遅れては結局別の理由で彼を心配させてしまう。
 最初に何と言って謝るかを考え、そして500数えたら立ち上がろう、と尚もまだ玄関先での時間を引き延ばしていたルーピンの肝を

「どうして中に入らない?」

 という扉の内側からの声が嫌というほど冷やした。肩を震わせるほど驚いた彼は思わず背後の扉を振り返る。間違いようのない、聞き慣れた声だった。
「シリウス?」
 何と返事してよいものか図りかねて、彼は動揺した気を落ち着けるべく深呼吸を試みる。
「重い怪我をしているな。足か?」
 再度驚いた彼は、上や下を忙しく見回した。シリウスがどこからか見ていると考えたのだ。
「声の位置が低いから、玄関先で座り込んでいるだろう?お前の性格を考えると立っているのが難儀なほどの体調ということだ。それに、家に近付いてきた足音が普段と違った」
「……足音で?というかそもそも家の中にいて足音が聞こえるのかい君は」
「耳には自信があるのでね、教授。ところで俺の勘違いでなければお前の部屋は2階にあった筈なんだが、帰宅してから1時間と24分そこに座っている理由を教えてくれないか」
「・・・・・・」
「俺が怒り狂うのが恐い。そういう訳か?」
「ええと、その、ごめん」
「いや。確かに俺はこういう場合いつも、自分を制御できない。済まなかった。今度から堪えるようにする」
「その気持ちは理解できるから。気にしないでくれ」
「それでお前は何時頃に帰宅するつもりなんだ?」
「……250ほど数えたら、帰ろうかなと」
「……にひゃくごじゅうだと?」
「あ、その、25と言おうとして言い間違えたんだ。25を数えたら、帰る」
「25か……それなら常識的な数字だな」
「そうだろう?……ええと、1、」
 ルーピンが数を数え始めると同時に、呪文と聞き間違えるくらいの恐ろしい勢いで、扉の内側から25を数える声がした。そして詠唱が終わるか終わらないかのうちに音をたてて大きく扉が開かれる。
 何時間も前から暖めてあったのだろう家の中の空気が頬にあたり熱風の如く感じられて、ルーピンは自分の体が冷え切っているのを初めて知った。
 シリウスはその場に仁王立ちしていた。友人の怪我を一瞥して、無表情を保った。冷えた背中に汗がつたう気持ちで見上げるルーピンの目の前で、シリウスは、笑顔に、見えなくもない表情を浮かべた。
「凄みが、あるね」
「愛情、の間違いでは?」
「うん、そうかも」
「おかえり」
「ただいま、シリウス」
 シリウスはルーピンの前で膝をつき、外に出てはいけないよと咎める彼の言葉を無視してその体を抱え上げた。「ああ、しまった。君のこういう趣味は予想できたのに……」と絶句するルーピンに、今度は本当に笑って「俺は怪我人を抱えるのが趣味なのか!」と返事をする。
 家の中は完璧に整えられていた。室温は丁度良く、湿度も申し分ない。キッチンからは食べ物の匂いと、湯の沸く音がする。鉢植えの緑も色がよい。ルーピンは、足の怪我も沈んだ気分も、何もかもほどけて無くなるような心地だった。
 「我が家に勝るところなしだね」と彼が畏まって告げると、シリウスは鷹揚に頷いて廊下を歩き始める。
 そのとき、ふわりと彼の足元で毛が舞った。
 ルーピンは彼に抱えられていたので床の様子をよく見てとることができた。磨き上げられた床の上にこぼれている毛。パッドフットの。
 ルーピンは少し考えた。
 彼は自分の足音が普段と違うのを聞き分けたという。玄関に座り込んだのも最初から知っていた。果たして人間の耳にそれは可能なのだろうか。
 もしかすると君はここに座っていたのかな。掃除も料理も全部終えて、することがなくなってしまったんだね。玄関先は寒いから、毛皮を持った姿に変身したくなるのは当然のことだ。勿論、私の足音を2分でも1分でも早く聞きつける為なんかではないだろう。それでは、あまりにも、その、可愛らしすぎるからね。
 ルーピンはその問いを口にしなかった。その代わり、留守中にあった出来事の中で一番明るい話をしてほしいとシリウスに頼んだ。
 シリウスは少し考えた後に話し始めた。それは洗濯して干してある2人の下着と、車のセールスマンの話だった。程なく居間からはルーピンの忍び笑いが聞こえ、やがてその声はどんどん大きくなっていった。
 一旦天井近くまで舞い上がった玄関のパッドフットの毛は、ルーピンの笑い声に飛ばされたように(実際は家の中の暖気の対流に乗って)どこかに運ばれ、見えなくなった。









怒ったシリウスからは静電気が出ると思います。
紙吹雪を撒くとシリウスに集まります。
怒ったシリウスの横に実験用マウスを置くとマウスは暴れます。
ナマズも同様です。


2009.01.21 イベントのお礼としてUP
2009.08.05 再UP