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 初めて訪れる町の入口に立つ時の清清しさを、今も懐かしく思い出す。

 私は偽名を名乗り、極めて一般的な衣服を身につけ、できるだけ印象の良い笑顔で挨拶をする。「やあ、こんにちは」「いいお天気ですね」というような。そうして当たり障りのない会話を続けながら、「はたして私は一体どんな人物なんだろう」と考える。もしかすると少し強引で調子のいい男なのかもしれない。或いは無類のお人よしで、騙されやすい人なのかも。どんな人柄の誰でもよかった。特にこだわりはなかった。ただ、「少し要領が悪くて人付き合いの苦手な」リーマス・ルーピンという人物でさえなければ。その名とその人柄を知る人間はこの世からいなくなってしまったので、リーマス・ルーピンという人物も消えてしまった。だから私はその人物にだけはなれなかった。
 トーマスやアンドリュー、マシュー、ポール、マイケル。私は住む町を変えるたびに色々な人間になり、そして結局はその中の誰でもなかった。私はどんな悪事を働いても良かったし、どんな善行を施しても良かった。私を知る人間が一人もいない世界で、夕暮れの中ひとり立つあの気持ちこそが清清しさでなくて何だろう。自由で、それでいて身体が端からぱらぱらと消えていくような気持ち。


 今の私は1つしか名前を持たない。トーマスやアンドリュー、マシュー、ポール、マイケル、偽名を名乗っても良いのだけれど、おそらく同居人にジョークだと解釈されてひどく笑われてしまうだろう。そして今の私は行動を極端に制限されている。どんな悪事も、どんな善行も、イメージと違う事をすれば明らかに不審そうな目を彼がする。行動や言動のみならず感情まで彼の影響を受けている気すらする。「いま怒っただろう?」と自信に満ちた態度でそう言われると、不思議なことに腹が立ってきたりするのだ。昔に比べれば随分不自由だ。私は彼の知るリーマス・ルーピンという人物でいるしかない。他の誰かにはなれない。
 しかし私は、自分がどういう人物であるかについては、もう考えなくてもよくなった。私は「少し要領が悪くて人付き合いの苦手な、情緒未発達、愛情表現の貧弱な、眠ってばかりいて揚げ足を取るのが上手で健康管理に無頓着で貧乏性で無精者の犬好きな男」そういう人間であるらしい。考える必要がないと言うより、あまりに細かく決まっているので、私の考える余地などない。




今年の一月のイベントのお礼として書きました。
暗いような暗くないような。

2007.01.31 up
2007.06.05 再up