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 「仕事」から戻ってきた彼の様子がおかしいとき、大抵俺はすぐにそれと気付く。
 リーマスはまったくもって完璧に隠している。いつもと同じ歩き方で玄関から部屋に入り、いつもと同じ笑顔で俺に話し掛ける。「長い距離を移動したから疲れたよ」とか何かそういう事を。顔色も悪くない。項垂れたりもしていない。
 しかし俺は彼の滅茶苦茶になった心の安定と、激しい疲労の匂いを嗅ぎ取る。彼が一歩部屋に入った途端、最初の一声を聞いたとき、表情を見た瞬間、俺には分かる。日常の彼をあまりに長い時間見過ぎた所為なのだろう。彼の隠そうとする事柄を、この俺が気取る日が来ようとは思わなかった。

 こういう場合のリーマスの笑顔は、俺には酷く痛々しいものに見える。そして子供の頃の彼を思い出す。眼も唇も普段の笑いの形をなぞるが、心がそこにない。瞳の動き方がいつもよりゆっくりとしている。そしていつまでも同じ形の笑顔を浮かべている。

 沢山の血が流れたのだろう。漠然と俺は思う。そう考えるのには根拠があって、リーマスの体から普段にはないくらいきつく石鹸の香りがするのがその一つだ。血の臭いを取るために彼は入念に洗い、石鹸はきちんと役目を果たしている。
 「何かあったのか?」と尋ねると彼は一瞬笑顔をやめて、こちらを見る。無垢なような、頼りないような、或いは保護者のようなあの目で。それからしばらく考えて「あったけれど、済んだことだパッドフット」と小さな声で言う。そして少し眠ると言い置いて部屋を去る。そういう場合彼は俺に決して触れようとしない。

「人と抱き合って泣くというのは一種魔法だよ」
 と昔ジェームズが独り言のように話してくれた。
「どんな苦しみも悲しみも悩みも罪悪感も劣等感も、必ず軽減してくれる。必ず。相手が自分をうんと心配してくれている人なら効果は確実だ。ものを抱きしめるポーズが効く上に、人間の幅や、温度や、呼吸や、脈拍や、他の色々な何かが複雑に影響するんだろうね」
 ジェームズは、きっとこの話をリーマスにも聞かせていただろう。仮に聞いていなかったとしても、俺達はもう知っている。気の狂うようなパニックや葛藤が、相手の体温に溶けていくようなあの感覚を。自分の顎のラインが、ぴったり相手の肩のラインに当てはまる安心感を。首元に小さな頭が収まり、胸と胸が合わさり、腕を曲げた面積に相手の両肩が丁度合ったときの充足感を。
 しかし、それを知っていてリーマスは俺に触れない。彼はそういう立ち方をする男だった。

 俺は怒鳴り出したくなるのをじっと堪える。
 血がどうだというのだろう。取り返しのつかない流血は、とうの昔に起こってしまい俺の杖と俺のローブは汚れ果てた。お前に触れるのを躊躇わなければならないのは俺の方だというのに。
 しかし俺も、彼に倣って何も言わない。「長い距離を移動したから疲れたよ」という彼の言葉に、「そうか」と返事をする。何かあったのかとも尋ねない。彼の様子に気付いた素振りすら見せない。

 ただ、その細い手首を握って引き寄せ抱きしめる。髪に顔をうずめ、深く呼吸をする。外の温度をしたリーマスの肌が、俺と同じ温度になるまでそうしている。
 どこかの宿の安い石鹸の匂いが飛んでしまうまでそうしている。
 ただ、じっと抱きしめている。
 色々と言葉を選ぶような間があって、「そんなに散歩が待ち遠しかったのかい?」と彼は耳元で囁く。









2005/06/15

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