MEETING NEIL 男が幽霊を見たのは夕暮れのハノイだった。 染め物のような、鮮やかな紫とオレンジの夕日が差す交差点で青年はマイペースに道路を横断していた。バイクの洪水も、クラクションの轟音も全く意に介さず、少し眠り足りないと言いたげな見慣れたあの表情で彼は歩いていた。 幽霊は男が数年前に失った友人で、名をニールと言った。 彼はそのまま書店に入り、のんびりと書籍の背を眺めており、とても死んだ人間のようには見えなかった。 一般的な幽霊について興味や知識のあるタイプではなかった男は、ごく普通に近付いて幽霊の手首を握る。そうすると、易々と掴めてしまったので、「そういうものか」と彼は納得した。幽霊はこんな風に外国の夕暮れを徘徊して、質量があるものなのかと。気の毒なほど動揺したのは幽霊のほうで、青年は自分の腕を掴んだ相手が誰かを認識すると、まず青白くなり、次に汗を垂らし始め、その顔はつやつやと光った。 幽霊の青年は弱弱しく拘束を振りほどこうとしてみたようだったが、それは揺れる洗濯物ほどの勢いしかなかったので、男はまったく頓着せずにその幽霊を引っ張って大通りに面したカフェに連れ込み椅子に座らせた。 窓の向こうに行き交う夥しいバイクの男女と、あまり意味をなしていない信号機、空のピンクとアスファルトの青が混ざる風景にちらりと目をやって男は真っすぐ正面を向いて座り直した。幽霊が、ぐんにゃりと座って頭を掻き、メニューを無気力にめくってビールを注文するのを、やはり「幽霊も夕暮れにビールを飲むのか」と眺めていた。 「アイヴスに殺される」 幽霊はそう呟き、繊細な指でグラスを持ちあげ、水の入った男のグラスにかちりと淵を合わせて金色の酒を飲みほした。 「死んでいるのに?それとも比喩的な意味で?」 男は思わずそう尋ねていた。 「ええっ!?」 「えっ?」 「僕は死ぬ?」 「君は生きている?」 ちょっとした哲学問答のようだった。 理解力の高い2人だったので、彼等は互いの顔色からおおよその出来事を理解する。 「つまり君は、僕が超自然的な存在だと考えたんだね」 「……君は逆行中、なのか」 「そう、これから数年後にオペラハウスに寄って、それからムンバイへ行く予定」 ニールの簡潔な説明によると、省電力のために薄暗くした部屋で何年も逆行して過ごすと、多くの人間は精神を狂わせるとのことだった。それで彼等は数箇月に一週間ほどの割合で巡行に戻り、たっぷりと日差しを浴びて生鮮食品を腹に詰め込み、情報と娯楽を持ち帰って再び逆行に耐えるのだと彼は語った。 「明日空港に集合なんだけど、アイヴスに吊るされる気がする。もし未来で若いアイヴスに会ったら、同僚を吊るすなと言ってほしい」 饒舌なニールに、男は手のひらをあげ少し待てという仕草をする。ぴたりと彼は黙った。 「どうして君はあんな……君に益はあるのか?」 男はニールの献身を、朝に目覚めるたび、夜に眠る都度、繰り返し思い出していた。友好的な態度とは到底言えない自分の振る舞いに対し、ニールは一度も腹を立てず、ずっと親切だった。ついにはあっさりと命まで投げだした。彼は最後まで楽しそうに笑っていた。その表情は男にとって永遠の謎になった。 「君は僕の親であり兄であり、親友で、憧れで、神様か、それ以上だった」 ニールはそう言うと、少し首を傾げて男の顔を眺める。記憶に残る、あの嬉しくてたまらないという風な独特の笑みが浮かんだ。 「初めて君と出会ったときの僕は、どうしようもない泥沼にいて、もう間もなく死ぬところだった。君は見過ごせなかったのだと思う。僕を助け、衣食住、教育を与えてくれた。一般常識も、音楽や美術やファッション、文学、この世の中の色々な楽しい事もすべて君から教わった。どうしてこんなに良くしてくれるんだろう?君に益はあるのか?と不思議だったよ。今の君と同じに。君は何も見返りを求めなかったから、何か恩返しがしたくて君の組織に入った」 「そんなことすべきじゃなかった」 「同じことを100回は言われたけど、また聞けるなんて嘘みたいだ」 ニールは弱弱しく息を吐いた。 「ニール、君は分かってない。このまま過去に行くと―――」 「僕は死ぬ。さっき君は僕を幽霊だと認識したから、おそらくそうなんだろう。でもそれは僕にとって全然問題じゃないんだ。君のために生きて死ぬ。随分前にそう決めたから。僕だけじゃない。君のために死んでもいいってやつは組織に沢山いた」 「常軌を逸しているように聞こえる」 「そうかな?僕には自然なことに思えた。君はタフだった。蛇より狡猾で、忍耐強かった。どんな組織を相手にしても、必ず読み勝って完璧に叩き潰した。この人は判断を絶対に間違わないって信頼させるなにかを持ってた。夜みたいに寡黙で、感情が見えなかった。部下に対しては、凄腕のドッグトレーナのように優しくて、崇拝されていた。いや、崇拝なんて言葉では足りないね」 落ち着いた声でニールは滔々と語る。煌びやかな褒め言葉を受け流し、男は首を振った。自分の話とは到底思えなかった。 「僕は君の秘書……というよりはサブの記憶媒体のような仕事をしていて、時々は物凄い嫉妬をされた。男の嫉妬は実力行使を伴うことが多いから、随分鍛えられた。まあ僕だってそれなりには有能なので、君に心配をかけるようなことはなかったけど。嫉妬されるのは光栄だったな。お門違いにしても」 「どういう意味だ?」 「君には忘れられない人がいて、その人以外は眼中にないって、何人かは気付いてた。1年に1度、特定の日の夜に、君はわざわざ時間を空けて1人で飲む習慣があった。ずっと昔から」 「俺が飲んでいたのはウォッカトニック?」 「うん。影響されて僕も愛飲するようになった」 「……そうか」 「どうしてそんな悩ましい顔を?」 「なんでもない。おっと」 考え事をしながら水を飲もうとして目測を誤った男が傾けたグラスから胸へと中身を滴らせ、ニールは慌ててハンカチを取り出した。 「ボスが飲み物をこぼすところなんか初めて見た」 いかにも彼らしく、ポケットからはモバイルや丸めたメモ、小さな木ネジなどが一緒に飛び出てきた。その中にあった見覚えのある護符に男は表情を曇らせる。紐付きの硬貨。 「そのタリスマンは君を守らない。捨ててしまえ」 そう言うと、ニールはしばらく言葉もなくまばたきを繰り返した。 「ニール?」 「君はいつも冷静で、心を乱すなんてことのない人だったけど、このタリスマンだけは別だった。「捨ててしまえ」と何十回も僕を怒った。正直言って、君が僕のために本気で怒るのを何度も味わいたくて、それでずっとこれを持ち歩いていた。あの護符に嫌な思い出があるんだろうと思い込んでいたけど、違うんだね。いま分かった」 そう、護符は役立たずで、少しも彼を守りはしなかったのを男は知っている。 「俺にも分かったことがある」 「へえ、何?」 「俺は、未来の自分が、君を、今よりも若くて可能性の多い、信じやすい者を利用して死に追いやるようなそんな非情な人間になったのかと思っていた。でも違う。その無力なタリスマンに怒った未来の俺に君を死なせる意思はない。にもかかわらず君は逆行している。君が俺を出し抜けるようには思えない。つまり未来の俺は」 もういない。おそらく意図しない死。 男は最後まで言わなかったがニールには通じたようだった。 「それについては思い出したくない」 「教えてくれニール。俺の死は回避できないのか」 「できない。あれは偶然や故意によるものじやなかった。何千人の命と引き換えの、選択だった。身代わりになれたらよかったのに。そうしたら真っ先に僕が逆行して君を救ったのに」 「そうか」 「君は、自分のやっていた仕事を3つのパートに分け、3人の優れた人物に引き継いだ。その他資産について、大規模逆行計画について、細かく遺言を残していたけど、最後に僕の大規模逆行への参加を禁じる文章が付け加えてあった」 「じゃあ君はそもそも過去に来る資格がなかった?」 「なかった。だから腹にダイナマイトを巻いて君の後継者達と交渉した」 さすがの冷静沈着な男も、ぽかんと口を開けてニールを見つめるしかなかった。 「今の君に言っても仕方ないけど、僕に謝ってほしいよ。組織をやめて何もかも忘れろって、犬や3歳児じゃないんだから。はいそうですかってスキップして出て行けるとでも?君はひどい男だ」 「今の俺はまだ遺言状を書く意思もないが、その、すまなかった……」 「すまないと思うなら遺言状には「過去の時間で君を待っている」くらい書いてほしいよまったく……」 「過去の俺は君を警戒して酷い態度をとるが、それ以降はずっと君のことを考えている。ニール」 「そんな甘言には騙されない」 「1年に1度飲むウォッカトニック、君の飲んでいた酒だ。俺はたぶんずっと君を偲んでる」 「そこまで厚かましいことは……さすがに空想すらしてない。いくら何でも。それに僕は君の想い人について目星はついてるんだ。だって誰よりも君の近くにいたから」 どうしてこの男は俺の感情について、俺よりも自信たっぷりに断言するんだ?と男は少し呆れてニールを見たが、段々面白くなってきたのもまた事実だった。 「ふむ?それは後学のために聞いておきたいな」 「英国貴族の夫人。過去にボスに窮地を救われ、今は強力な組織の守護者にしてパトロン。かつてはロシアの富豪の妻だったという噂があるから、それでウォッカトニック」 「なるほど」 親しい女性の、未来の暮らしぶりを知って目を細めた男の表情を称賛と受け取ったのかニールは満面の笑顔を浮かべた。 「……頭がいいくせに妙なところが抜けている」 「なんだって?」 「一緒に仕事をした君は有能だったって言ったんだ。適切な教育を受け、大切に才能を伸ばされた人物だと思った」 「僕を教育したのは君だ」 「そうか、なら俺がこれまで教育した何人かのエージェントのなかでは間違いなく君が一番優秀だ」 「ありがとう……」 「客観的合理的判断もできるが根の善良な部分もちゃんと残されている。ただ……」 「ただ?」 「さっきも言ったように時々ものすごく雑で無頓着だ」 「そこは僕の性分で……直らなかったんだ」 「きっと俺がそのままでいいと思ったんだ。ああいう部分があったほうが信頼できるし、何より好ましいと思っていたから」 ニールが俯いてしまったので、機嫌が悪くなったのかと男はちらりと覗き込んだが彼は照れている最中だった。 「君を行かせてしまったのを後悔している。これからも後悔し続けるだろう」 3杯目に注文したウォッカトニックのグラスを持ち上げようとしたニールの手首を男は強い力で握った。 「今ここで全部捨てて、一緒に逃げようと言ったら君はどうする?」 「行く」 一秒も間を置かず彼は答えた。人間の瞳がこんな風に輝くところを男は初めて見た。 「どこへでも行きます。地獄でも。君が望む限りは側にいる。ああ―――」 ニールの目の輝きは夕暮れのように一層鮮やかになり、彼は幸福そうに笑いながら続けた。 「……まさか本当に僕だった?君は冗談や思い付きでそんなことを言う人じゃない。君が僕を思っているというのは本当なのか……」 ニールは乱暴に自分の顔を覆った。彼の指は激しく震えていて、怯えているようにも見えた。「まさか」と彼は何度も繰り返した。 「あれは僕への言葉だったのか」 すっかり狂乱にとりつかれて独り言を言っているニールを見て、本来はこんな風に激しやすい気性の子だったのかもしれないと男は考えた。冷静であれ忍耐強くあれと、ほかならぬ自分が矯正してしまったのかもと。しかし妙にアンバランスなニールの性質は、魅力的だと言えなくもなかった。 「さっきからそう言っている。失った君の事を考えていると」 男を真っすぐに見た彼の瞳の光が、雫になって溢れ落ちた。しかし表情は変わりなく優しかった。 「今どんなに僕が幸せか、君には分からないかもしれない。世界で一番幸せだ。夢みたいだ。一緒には行けないけど、そんなのどうだっていい」 「行けない?どうして」 「君にはそんなことできないから。強く生まれた者が、そうでない者を捨てて、自分と自分の友達の幸福を優先するなんて一分一秒も耐えられない人だから」 「・・・・・・」 ニールは本人よりも確信をもって男の意志を語る。その言葉は結局大抵は正しいのだった。男は否定のための言葉を何一つ思いつけなかった。 「僕が君を好きになったのは、君が強いからでも賢いからでもない。当たり前みたいに大勢の人を庇って矢面に立って、でも誇らず、奢りを持たない人だからだ。 君の生き方はとても不自由そうに見えた。僕はとてもあんな風には生きられないって。でもその不思議で、理解できないところに惹かれた」 流れる涙をそのままにして、ニールは笑った。 「俺も君が理解できなかった。あんな献身を体験したことがなかったから。君を忘れることができない。今後ずっと君を思うだろう。君と同じだ」 「騙されてる。僕なんか君の靴磨きにすら値しない、つまらない男なのに」 「つまらない男はダイナマイトを腹に巻かないと思う」 「……確かに。ボスはダイナマイトを腹に巻く人がタイプ?」 「そうかもな」 「過去で会うときはせいぜい格好をつけて登場する。黙って立ってればハンサムだっていつも君に言われてた」 夕暮れの時間はとうとう終わり、窓の外の豊かな色彩は失われた。 「ああ。君はハンサムなうえにミステリアスだった」 男が誉めると、ニールは照れるあまりテーブルの下で足を蹴ってきた。といっても花びらが触れるほどの微かな接触だったので、男は感情を鎮めるために深く息を吸った。男の内心を知らず、ニールは照れながらも心の声をすべて言葉にして続けた。 「僕は過去へ、君は未来に、互いを、人々を助けに行く。何か見返りがある訳じゃなく、助けたいからそうするんだ 。そしてこれはメビウスの輪になって、永久に終わらない。なんて素敵なんだろう。その為なら、外の空気も吸えず、暗がりで何年も蹲っていることなんか何でもない。僕の忠誠は永遠に君のものだ」 涙を流すという機能は長い間、男から失われていたが、自分はどうやらこの青年の言葉に弱いらしいと彼は認めないわけにはいかなかった。 過去へ戻る男と未来へ進む男はそうして静かに乾杯した。ただ1人で死に向かう友人の魂に、ただ1人で死に向かう自分の魂に。しかし彼等は孤独ではなかった。どちらも看取る相手がこれから行く世界で待っているのだから。確かにそれは、永久に終わりのないメビウスの輪だった。自分は何度も彼と出会う。そしてこの途中の地点で再会をする。 彼等は無言のまま、それぞれの杯を飲み干した。 2021.06.16 |