ハッピー・エバー・アフター





 「結婚」という問題は、彼等2名の間にずっと横たわっていた。その雄大な様ときたら、まるで国家における山河のように、年月も人の気持ちにも全く影響を受けず泰然と在り続けた。
 もし彼等の間に「結婚推進委員会」なるものが設けられたとしたら、シリウス・ブラックはその会員にして書記にして会計にして副会長、兼会長であっただろう。つまりは熱烈な推進者だったという事だ。元々彼は世間に気を遣って2人の関係を隠しておくような、そういった消極的な(ルーピンが思うに穏健な)方針を何より嫌っていた。
 「自分達の関係を、誰と誰が知っていて、誰と誰が知らぬのかそろそろ不明瞭になってきた。面倒なのでここらで統一しないか?」シリウスは言った。「薔薇の名が薔薇でなくとも、花が美しい事に変わりはない。ハリーが知っているのだから私はもうそれで十分だ」ルーピンは答える。2人の義理の息子ハリーは聡い子だったので、告白云々で闘争が始まる前にシリウスとルーピンの関係を悟り、淡々と2人を祝福した。それは誰にとっても確実に幸いな事だったと言える。
 プロポーズは、ある時は冗談めかして行われ、ある時は真剣に告げられそしてまたある時は喧嘩になった。ルーピンはこれに関して様々な経験を持つ。レストランへ連れて行かれ愛の告白を受けた事もあるし、ブラック家の親族一同の前で関係を宣言された事もある。シリウスは進軍の手を一時たりとも緩めなかった。自分が当事者でなければ、まるで連載される恋愛小説のように先が読めずわくわくしていただろう。自嘲気味にルーピンはそう思った。元来シリウスは根気強い性質ではない。しかしこの件に関しては年単位の執念を見せた。
 話し合いは何十回、何百回に及んだ。そしてシリウスは議論に滅法強い。しかしルーピンは、どうすればシリウスを心理的に痛めつけられるか、その効果的な方法をよく心得ていた(もちろん良心の呵責なしにそれを行った事は一度もないし、痛みがすぐに去るよう出来る限りのケアをした)
 議論には幾つかのコツのようなものがある。相手の要望を一切受け入れるつもりがない時、その理由を明かしてはならない。何故ならその理由を論破された瞬間、要望を受け入れざるを得ない立場に立たされるからだ。
 シリウスも、そのセオリーに則ってルーピンに結婚を嫌う理由を幾度となく尋ねた。その度にルーピンは用心深く、嫌だから嫌なのだと繰り返す。彼らの会話には果てがなく、老境まで続くかと思われたある日、転機が訪れた。
 彼等は死にかけたのだ。
 どう楽観的に見積もっても2人揃って生きて帰れるとは思えなかった。特に失敗をした訳でもどじを踏んだ訳でもなかったが、その日はたまたま運が悪かった。迷路のような地下水路で退路を断たれ、そして水門が開け放たれた。侵入者である彼等を殺すために。杖はすでに砕かれていた。もはや溺れているのか逃げ道を探しているのか曖昧な状況で、ルーピンはシリウスの耳を掴んで引き寄せ怒鳴った。「ここから出られたら結婚しようダーリン!」それを聞いたシリウスは一瞬目を見開き、それから笑った。溺れ死ぬ寸前であったにもかかわらず快活な笑顔だった。ずぶ濡れで。しかし、ちょっと忘れられそうにないくらい印象的な表情。あの笑顔をルーピンは今も思い出す。
 結果を簡潔に記すと彼等はそこから生還した(無論ルーピンからプロポーズを受けたシリウスが歓喜のあまり超人的な力を発揮して脱出に至った訳ではないことは、くれぐれも明記しておく。両者の名誉の為に)。
 前髪や美しい形の鼻筋から海水を垂らしながらシリウスはルーピンを立たせるために手を差し伸べ、「式はどこでするのがいい?ハニー」と嬉しさを堪えきれぬ顔でそう尋ねる。ルーピンは「いや、あれは最後に君を喜ばせたかっただけで、嘘だよ」と言う訳にもいかず曖昧に笑ったまま「君に任せるよ。ただし式を挙げるのはヴォルデモートがいなくなってからにしないか」とその場しのぎにそう答えた。シリウスもさすがに納得し、ルーピンは中々悪くないアイディアだったと胸を撫で下ろした。
 しかし何の間違いかヴォルデモートもいなくなってしまった。「不甲斐ない」とルーピンは八つ当たりに近い感想を持った。「口ほどにもない奴だ」と。そんな訳でルーピンの最後の希望の砦は脆くも消え去り、彼の生活には採寸であるとか、料理の手配や招待客のリスト作りという、ある意味夢のような仕事がごく当たり前のような顔をして幅を利かすようになった。





 さて当日の事である。
 「取り乱さないこと・逃げ出さないこと・シリウスを虐待しないこと」を3つの誓いとし、昨晩は100回ほどぶつぶつと唱えていたルーピンは、その日も3つの誓いで頭が一杯だった。取り乱す機会はそれはもう数え切れないほどあったし、逃げるチャンスに心が動いたことも同じくらいあった。しかしおかしなもので、ルーピンはシリウスと今朝から顔を合わせていない。シリウスに虐待を加える機会だけはなかったという事になる。式に関する段取りを一手に引き受けた彼は、誰よりも忙しいのだ。
 会場にはルーピンが予想していた数の3倍ほどの招待客が来ており、懐かしい顔も見覚えのある顔も、みな心から2人を祝福しているようだった。ブラック家所有の古い洋館で催されたそのパーティは決して華美ではなかったが、シリウスらしい采配により上品で温かみのある集まりとなった。
 本気になったダンブルドアのスピーチは、後々まで語り草になる程の素晴らしいものだった。人々は飲み物のグラスを取り落としてしまうくらい笑い、そしてしんみりとし、最後には2人を祝福するという連帯感で満たされた。拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
 マクゴナガルはいつもよりは幾分体のラインにぴったりとしたシルバーグレイのローブドレスを身に着けていた。とても魅力的である旨をルーピンが告げると、「あなたも」と返事をされて、それが彼女のジョークであるのかどうなのかルーピンが悩んでいる間に、女教授は右の頬と左の頬に素早く微かなキスをくれた。「おめでとうリーマス」という囁きと共に。
 セブルス・スネイプがこちらに向かって一直線にやってこようとしているのを見て取ったとき、ルーピンはしばし固まって動けなくなった。何故なら彼は、この世で一番破廉恥な乱交パーティーに無理矢理出席させられた人のような顔をしていたからだ。おそらくは彼らしい要領の悪さで、ダンブルドアの誘いを上手に断れなかったのだろう。この会場でただ1人、ルーピンはスネイプの困惑と羞恥と怒りを理解していた。2人は無言で、若干俯いたまま向き合った。いたたまれず、ルーピンは「申し訳ない」と謝った。しかし、さすがのスネイプも今日この日に「くだらん」「汚らわしい」「正気を疑う」などといった彼の口癖を使えずにいるらしかった。そうすると、彼には喋る台詞がなくなり、ただ2、3度口を開閉させるに留まる。小声で「似合いの……」とつぶやき、彼は小走りに去っていった。スネイプが「似合いの2人だ」と言ったのか、「似合いの末路だ」と言ったのか、ルーピンには良く聞き取れなかった。まあおそらくは後者だったのだろう。
「先生、おめでとう」
 ハリーは彼らしい淡々とした調子で祝いの言葉を述べてルーピンを抱擁した。
「まあその、何と言うか……ありがとう」
 今ではちょっとした有名人となった元教え子と、どうにも目が合わせられなくてルーピンは斜め上方を見る。もう少しシャンパンを飲んでおけばよかったと彼は後悔をした。
 先生それじゃまるで借金のカタに無理やり助平な金持ち老人に嫁がされる生娘だよ、とハリーは少し笑ってルーピンの頬をつまむ。
「僕はずっと2人を見てきたから、やっとこの日が来て嬉しいんだよ」
 この会場ではシリウスの次くらいに、僕は喜んでハイになってる。と彼はそう付け加えた。
「そうよ、先生。今日くらいはシリウスのために馬鹿になってあげて!」
 かつての教え子ハーマイオニーが、その美しい装いとは酷くちぐはぐな事を大声で言ったので、ルーピンは誰かに聞かれてはいなかったかと廻りを見回す。
「ば、馬鹿?」
「世界で一番幸福だとか、シリウスを一生離さないとか、そういうノロケを聞くために私達は集まっているんです」
「いや、世界で一番幸福だとか、相手を一生離さないとか、この2人は毎日、フツーにそう考えている人達だから……」
「あら、そうなの」
 代わりにハリーが返答をし、ルーピンは口が挿めなくなって天井を仰ぐ。ハリーと2人の親友は赤と青と黄色の衣装を身に着けていて、後で何か披露してくれるらしい。自分の知らない流行のアーティストの物真似なのだろう、とルーピンは見当をつけた。
 庭のほうで弦楽四重奏が始まったらしく、軽快なワルツが聞こえてくる。全員が友人知人で構成されたカルテットであるとシリウスから知らされているが、よく集まったものだなと彼は感心する。ダンスが始まったようで人々の歓声が室内まで届いてきた。
 いいものだな、と思わなくもない。理由はさて置くとして人々が集まり、心置きなく笑いあい、音楽があり、飲み物が用意され、綺麗な食べ物があちらこちらに置かれて、花がその横に飾られている。何におびえる必要もない。紫色に、ただ暮れていく空。
「悪くない」
 ルーピンはつぶやいてみる。すると背後から肩をたたかれた。
「自分の結婚式での独り言が、なんで『悪くない』なの?」
 驚いて振り返ると、記憶より若干小さく感じられる男がその妻と共に微笑んでいた。
 ちょっと首をかしげて尋ねるように相手を見る独特の表情。笑顔。人をどきどきとさせる声。眼鏡。
「ジェー………………」
 ジェームズがそこにいた。ルーピンはあまりの出来事に絶句してただ立っていた。倒れなかった事だけでも彼は評価されるべきだった。
「煙草の煙に酔って幻覚を見ていると思っているね?さあ、これでも幻覚かな」
 ジェームズは「じゃーん」という擬音つきで両腕を広げ、ルーピンを抱擁した。あまりに情熱的だったので、抱擁なのかベアハックなのか区別が付きかねたが、それでも彼が幻覚ではないのは理解できた。
「ジェームズ?」
「そうだよ。君の親友のタフガイ。ジェームズだ」
「ジェームズ」
「おしゃべりインコみたいだ、ムーニー」
「本当にジェームズだ」
「あと40回くらい詠嘆するかい?」
「ジェームズ……」
「するらしいよ。カウントでもしようかリリー」
「リリーも。ああ……」
 隣で微笑んで立っていた、記憶と寸分たがわぬ彼の妻をルーピンは抱きしめた。
「忘れるな、ムーニー。3秒ルールだぞ」
 ジェームズはルーピンの襟をつまんで引っ張ったが、リリーは笑ってその手を払いのけ、ルーピンをしっかりと抱きしめた。
「あの、一応言っておくと、君が熱烈にハグしている美女は僕の奥さんなんだけど、ねえ、ムーニー」
「知ってるさ」
「それとも、もしかして泣いている?」
「泣いているとも!」
「男の子がそんな簡単に泣いたら駄目だよ君」
「男の子って歳じゃないけど。でも、一体どうして2人共……」
 ルーピンは泣き笑いのような表情になって2人を見た。もう体裁を構う気分にはなれなかった。
「ブラック家は妖精との縁が深い」
「何だって?」
「シリウスのご先祖様がその昔、妖精を助けたらしいよ。以来、ブラック家の人間が結婚する時には、誰でも好きなゲストを1人だけ呼ぶ事が出来るそうだ。どんな王様でも。どんな美女でも。歴史上の有名人、幻想の生き物、或いは死人」
 ほら、見て。とジェームズは背中をこちらに向ける。すると1対の可愛らしい妖精の羽が生えているのが見えた。
「僕は1人だったら出席しない。妻と一緒でないと行かないと妖精に駄々をこねて2人で来たんだ。シリウスも加勢してくれた」
「あいつめ、どうして私に黙っていたんだ。とっちめてやる」
「おいおい、あいつっていうのはもしかして君の旦那様の事かい?」
「旦那様……というかつまりはそういう感じの……。要するにシリウスだよジェームズ」
「ふふふ。君をびっくりさせようとしたんだよきっと。この数週間ワクワクしていたに違いない。想像付くだろう?彼のああいう憎めない馬鹿っぽさ…あいや子供っぽさは良いよね」
「……馬鹿で十分だ」
「まだおめでとうを言っていない。おめでとうリーマス!さすが僕の親友達だ。僕の予想のはるか上空を行くね。まさか君達の結婚式に出席することになろうとは!」
「うん。まあ、そのありがとう。いや、踊らなくていいから」
「どうして?踊らずにいられないよ」
「ツイストもしなくていいから。リリー、この変なダンス人形を止めてくれ」
「ジェームズ。あんまり騒ぐとハリーに見つかっちゃうわよ」
 突然ぴたりと動きを止めたジェームズに、ルーピンは目を丸くした。
「なんだって!まだ会ってないのかい!?」
「ええと、まあ、うん。そうだよ」
「どうして?びっくりさせるために?数週間先延ばしにするのか?」
「違うよ。僕達は今日1日しかここにいられないんだから」
「だったらどうして」
「この人ったらね、リーマス。背中の羽が恥ずかしいんですって」
「そんなくだらない理由で!?」
「くだらなくないよ!だってだって、初めて会う父親がこんな馬鹿みたいな羽を背中に生やしていたら、ハリーはがっかりするんじゃないかと思って……」
「ジェームズ……言っておくがハリーは君より大物なんだよ……」
「でも羽だよ」
「ハリーは君の尻からバオバブが生えていたって気にするもんか。行ってきたまえ」
「……そうかな……うん、そんな気がしてきた。ありがとうリーマス。それにしても『行ってきたまえ』なんて新鮮な喋り方だ」
「教授だったからね」
「あとでシリウスも入れて懐かしい面子で話そうじゃないか。君達に色々と聞きたいことが沢山あるんだ。どこの新婚家庭でもやるようにお互いにへんてこりんな愛称で呼び合っているのかい?とか、手をつないで散歩したりするのかい?とか、夜の―――」
「それはいいから早く行け」
 笑いながら夫婦は、雑踏にまぎれて行った。羽を揺らしながら。予想していなかった再会に、ルーピンは胸を押さえて息をつき手近にあった飲み物を取る。
「すみませんが、シリウスを見ませんでしたか?」
 と近くにいた紳士に尋ねると「午後には飲み物の給仕をされていたようですが、今はこの四重奏をされていらっしゃるそうですよ。ヴィオラを担当されているとか」と彼は答えた。
 ルーピンは額に手を当てる。飲み物の給仕は新郎のする仕事とも思えない。もちろん楽器の演奏も。ジェームズの件で一言いってやろうと彼の所在を確かめたのだが、シリウスの顔を見たいと思っている自分に彼は気づいた。
 今日の朝から休みなしに、これほど恥ずかしくかつ苦しい思いをしているにもかかわらず、シリウスの喜ぶ顔を一目も見ていない。それは非常に不公平であるとリーマス・ルーピンは考える。
 音楽はやんでいた。彼は頭をめぐらす。タキシードやカクテルドレスの間から、あの黒い髪を捜した。人々のおしゃべりの声や食器の鳴る音の中から、あの暖かい声を聞き分けようとした。ちらりと彼の手が、人垣の隙間から見えた気がした。「シリウスなら先ほど着ぐるみを着て、子供達に風船を配っているのを見たよ」と誰かが囁く。何だって?とルーピンは吹き出す。まさかそれは犬の着ぐるみじゃないだろうな、と。
 それにしてもシリウスの張り切りぶりは尋常ではないらしかった。自分のパーティーでそこまでの活躍をする新郎がいるだろうか?ルーピンはうつむいて笑う。きっと嬉しさのあまり何もかも自分でやりたくなった彼の気持ちが手に取るように分かったのだ。
「私だって嬉しくない訳じゃない」
 ルーピンはつぶやく。
「勿論その何百倍も恥ずかしいけれど、それでも嬉しくない訳ではない。自分が信じられないけれど。君には敵わないよシリウス。君こそまさに魔法使いだ」
 窓の外の色彩のパノラマは、静かに礼服のような黒へと塗り替えられていった。そして黒を飾る豪奢な星の光が撒かれるのを見て、ルーピンは彼の名を呼んだ。
 ざわめきの中に、確かに彼の声が自分へ返事をした。ルーピンはそれを聞いた。
 彼は微笑んで振り返る。




 息を呑む音で目が覚めた。5分程度そのまま自分の手を凝視し続けて漸くそれが夢だったのだとルーピンは悟った。ここは新婚旅行先のホテルではなく、自分のベッドの上であると。とても筋が通っていたので、彼はすっかり騙されてしまった。しかしどう考えてもおかしい箇所だって多々あった。羽の生えたポッター夫妻や着ぐるみをきたシリウス。
 ルーピンは吹き出す。こんなに面白い話を友人に教えられないのは残念だ、と彼は膝を抱えた。

 教えられないのはそう、この夢は話すと確実に正夢になってしまう種類の物だからである。

 しばらくの間、思い出し笑いをしたり顔をしかめたりしていたルーピンであるが、やがて溜息をつき、もう一度寝台に潜り込んだのだった。











この作品は、サークル「サボテンの方程式」様の本に
ゲストで書かせていただいたものを
シブさまの了承を得て再録したものです。
(素敵な花嫁と妖精の出てくる幸福な御本でした)

シブさんありがとう!

2005/08/05←4年前!ええー!?
2009/06/30再録