満月前夜


 復活祭の前日、シリウスは風邪を引いた。大したことはないと言い張る彼を、温厚な友人は有無を言わせずベッドに追い立てた。
 明日はもう満月なのに、と、看病されながらもぶつぶつ呟いていたシリウスだが、夜更けが近くなり熱が上がると流石に眠りに落ちた。
 真夜中、目を覚ました彼は酷い喉の乾きを覚えた。起き上がって水を飲みに行くか、友人を呼びたいと思ったが、すぐに両方叶いそうにないのを悟った。自分がなぜ突然目覚めたのかも。
 ベッドサイドのテーブルに置かれたランプのおかげで、枕元に腰掛ける友人の顔がよく見えた。友人は夢でも見ているような顔でシリウスの手を持ち上げ、その皮膚や骨の感触を確かめるようにゆっくりと噛んでいる。骨に当たる、硬い歯の感触。
 反射的にリーマス、と呼び掛けようとしたシリウスは、口をつぐみ、懐かしいような痛ましいような気持ちで目を閉じた。今、友人にいくら声をかけても無駄だと思い出したのだ。
 最近彼が二度目の再会を果たした、穏やかな風貌の元教師にはいくつか悪癖があった。お茶に小山のような砂糖を入れるというささやかなものから、癖と言うにはいささか重いものまで。
 初めてその癖を知ったのは学生時代のこと。通じるわけがないはずの思いが通じ、初めて二人で眠りに落ちた夜だった。夜中、動揺するシリウスも目に入らない様子でリーマスはシリウスの体を噛み始めた。ゆっくりと、無心に。指から始まって、手首、肘、肩。首筋に鎖骨。足も膝も。肉と骨と腱と。あらゆるところを。
 赤ん坊が母の乳房を求めるようにたどたどしく、未知の生き物の食事のような不可解な熱心で。シリウスは困惑しながらも、それでもされるがままでいた。
 リーマスが何事もなかったように眠りに落ちると、シリウスは杖を取り体についた痕を消した。そして、最大の思いやりとして、決してこの事を口にしないことに決めた。友人の奇行が、背負った「病」を素にしているのを、推測するのはたやすかったからだ。
 しかし、やはりリーマス自身も気付いていたのだ。ある朝シリウスが目を覚ますと、リーマスは凍えた瞳で彼を見下ろしていた。唇が静かに、謝罪の言葉を紡ぐ。
 なにが、と、シリウスは訊けなかった。笑い飛ばすことも。自分を酷く間抜けだと思いながら、彼は何も言えなかった。
 かけるべき言葉を失いながらも、シリウスは全てを許容するつもりでいた。しかし当のリーマスがそれを許さなかった。
 正確に言えば、リーマスは自分自身を許そうとしなかった。笑わなくなったし、誰とも、目を合わせようともしなくなった。身の内にある闇にひっそり隠れようとするような態度の前で、シリウスは必死の努力を重ねた。きつくて抜けなくなった指輪をなんとか抜こうとするように。しかし、説得も懇願も果ては恫喝さえも意味が無いと知ったシリウスは、ついに途方に暮れた。
 拒絶という指輪はもはや一生抜けないような気がし始めたシリウスに、しかしもう一人の友人、シリウス以上に意思の化け物である、人間の姿をした神のごとき友人は宣言した。
 その日はイースター休暇を間近に控えた、よく晴れた日だった。
 学校の下の湖のほとりというお気に入りの場所で、ジェームズは図書室の本を枕に昼寝の最中だった。シリウスが近付くとジェームズは起き上がり、煙草に火をつけた。
 ネクタイをゆるめた格好であぐらを組むジェームズの周囲で、光は柔らかく反射し、すべては鮮やかに輝いていた。
「迂闊な話だ」
 シリウスの、相談というよりは溺れるものの無益な祈りのような話を黙って聞き終えると、開口一番ジェームズはそう言って、煙草を挟んだ指で眼鏡を押し上げた。常にやる気のない様子で、しかしジェームズはあらゆることをやすやす成し遂げ、若き王のように無造作に君臨していた。常に。どんな場所でも。
「君は迂闊だ」
 もう一度言い、ジェームズは笑ったが、シリウスは彼の真意を計りかねた。
「連立方程式を解くより簡単な問題だよ。君は気付いていないだけだ。自分の迂闊さに」
「…わからない」
 途方に暮れたシリウスの呟きに、ジェームズは滅多にないくらい優しい笑みを浮かべた。
「もう行きな、シリウス。こんなところでなく、リーマスのところへ」
 それは非常に愛情のこもった命令で、すでにこれ以上にないというくらい混乱していたシリウスは素直にその命令に従い、立ち上がった。
 そんなシリウスを見上げて、ジェームズは無造作に宣言した。
「いいかい、愛するというのは、無期限無利子の借金を毎日支払い続けるようなものだ。我が友パッドフットよ、骨身を惜しむべからず。これが教訓だ。惜しむくらいなら、最初から何もするな」
 シリウスが困惑しながらも頷くと、ジェームズは笑い、また昼寝に戻った。
 中庭に面した回廊で、シリウスはリーマスを見つけた。だが、目の前に立ちはだかったシリウスを無視し、リーマスは脇を通り過ぎていく。
「リーマス!」
 慌てて肩を掴み引き止めると、リーマスは青ざめた顔で振り返った。
「…具合が悪いのか?」
 問うシリウスに、リーマスは一冊の本を差し出した。
「すまない。図書室に返しておいてくれないか」
 目も合わせずそういうと、リーマスは背を向けて行ってしまった。
 シリウスは困惑し、手の中で本を持て余していたが、ふと、挟まれた紙切れに気付いた。取り出してみると、見慣れた筆跡の、それは手紙だった。
"君の熱意と忍耐に最大の感謝を捧げる。しかし僕には、僕から君を守る義務がある"
 シリウスは少しの間、黙ってそれを見下ろしていた。
 我に返った彼の行動は素早かった。直感的行動は彼の最も得意とするものだ。すぐさまリーマスに追い着き、腕を掴み自分に向き直らせると力一杯叫んだ。
「お前が俺にすることで、俺が痛いと思うことなんか一つもないんだ」
 リーマスはシリウスの顔を見上げ呆然としていたが、やがて静かに涙を零し始めた。
 シリウスは震える友人を抱き締めた。ひっきりなしに人の通る回廊の真ん中で。外には雲一つない春の空が広がっていた。

 不意に噛み方が変わって、シリウスは意識を真夜中の寝室に呼び戻された。
 奥歯で挟み、優しく舐める。あきらかに技巧的な噛み方に、悪癖持ちの友人もやっと我にかえったことを知る。
「まだ熱があるね。手があつい」
 シリウスが目を開けると、リーマスが持ち上げた手を頬に当てて微笑んでいた。普段の、穏やかで明るい表情で。
「君はだいたい薄着なんだ。まだ寒い日もあるんだから、私より体温が高いからといって油断してはいけない」
 甘党で寒がりの友人はそう言って笑い、シリウスの額を撫でた。
「そうだ、コートを買おう。黒いトレンチコートなんか、きっとよく似合うよ」
 友人のささやかな計画を聞きながら、シリウスは掠れた声で訴えた。
「喉が乾いた。…水を飲んでくる」
 しかし起き上がろうとした体は押さえられ、額には優しいキスをされた。まるで子どものようだ、とむくれるシリウスに、リーマスは声を立てて笑った。
「何か持ってくる。君はじっとしていること」
「…ああ」
 狭い家だった。閉められたドアがすぐに開いて、ミネラルウォーターの瓶とグラスを持ってリーマスが戻ってきた。
「良い夢を見ていた?」
「ん?」
「さっき、眠りながら時々笑っていた」 
 シリウスはグラスを受け取りながら少し考え、そして答えた。
「ああ、良い夢だった」
「そう」
 シリウスはふいに、友人の痩せた体を抱き締めた。
「シリウス?」
「…教訓を思い出してたんだ」
「教訓?」
 当惑しながらもリーマスも抱き返してくれる。
「ああ、大事なことを」
 別々の場所で生まれた自分たちが真紅の汽車でホグワーツに辿り着き、出会ったように。
 呪いを汚濁を暗闇を走り抜け、未来へとかかる陸橋のように、今度こそ明るい場所へと大切な友人を導くこと。
 シリウスは過去に教訓をくれた人物に深い感謝を捧げ、翌晩までには風邪を治すことを決意した。そんな彼の耳に悪癖持ちの友人は低く囁く。
「シリウス、君は風邪を引いてはいけない。とくに満月の前には」
 目を丸くしてシリウスが顔を上げると、温厚な元教師は自身でも困惑したような笑みを浮かべていた。
「…病人相手に悪さをする気か?」
 シリウスが呆れた声を出すと、リーマスは顔を赤らめ目をそらし、肩をすくめた。
「ええと、…良い教訓になるだろう?」
 穏やかな、しかし逆らう気が起きない強さで囁かれ、シリウスは観念したようにベッドに沈んだ。
 ふと思う。ジェームズが今の自分たちを見たなら、なんと言うだろう?
 おそらく皮肉げに笑うのだろう。やれやれパッドフット、籠の中の小鳥なら可愛らしいだろうが、自ら檻に入った黒犬の滑稽さときたら、と。そして自分も笑いながら返すのだ。骨身を惜しむべからず、だ。
 そうだろう? 







あとがき
はじめまして。二匹のカピバラ(説明省略)が戯れる話を書いた者です。
ええと私は(略)なのですが今回(略)という経過でカピバラ話をアプして
頂いているという。人生って謎と不思議が多いですね!
…。
…あの、さるサイトマスター様(キーワード課題の御方)へ。
突然乱入してすいませんでした…。全力で謝罪する用意がございますので…(平伏)

word by 国枝 こはる様
挑戦者国枝様、そして掲載を(大きく)了承してくださったちほ様、ありがとうございました。


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