誕生日とプレゼント11












 路地裏の小さな食料品店で癖の強い蒸留酒と魚の酢漬けを買って、そして露店で干した果物と串肉とパンも買う。
 若干早足になってホテルの部屋に帰り、先程買った戦利品を広げて少し早目の夕飯にする。アルコールも食べ物も期待以上の味で、ついつい酒が進んで泥酔してしまわないように互いに監視する。しかしいつもの事ながら、それはかなり難しい。
 昼間は強い日差しの中で遺跡と宮殿と寺院を見て回り、疲れるとお茶を飲む。寺院の壁面を飾っていたタイルの模様や、柱の下にあったメデューサの顔を正確にシリウスは手帳に描いてみせる。
 歳を重ねるごとに段々と、旅行が好きになっている自分にルーピンは気付いていた。
 運よく見られた美しい光景に言葉もなく2人で立ち尽くしたり、酒の回った状態で路上の席に座りぼんやりと夕暮れを眺めたり、全く知らなかった異国の料理が信じ難いほど素晴らしい味だったりする経験も勿論得難いものなのだが、トラブルに継ぐトラブルで地獄のような思いをしたり、気温を見誤って凍え死にそうになったり、言い争いになって無言のままホテルの部屋で眠りについた経験なども、後になると会話に出てくる度に笑ってしまう、それはそれで味のある思い出になるのだった。


 明るい部屋で目覚めた彼は、毎朝の習慣である記憶の確認を始めた。自分は不治の人狼の病に罹った中年男で、現在は親友と旅行中、中近東にいる。シリウスの希望で洞窟のホテルという変った場所に泊まった。昨日は寝巻を着ようと努力して、しかし残念ながら適わず寝てしまった。おそらく今はあまり服を着ていない状態だが寒くはない。ルーピンは、シリウスのあんな声を聴いたのは久しぶりだなと昨夜を回想する。そして彼はどうしてあんなに性的に人を煽るのがうまいのだろうと考えるが、それを尋ねるとシリウスがかんかんになって怒るのは目に見えているので、その問いは彼の心の中にしまわれる。
 隣から体温が伝わってこないので、友人はもう起床しているのだろうとルーピンは見当をつけるが、できれば二度寝したかった彼は片目を開けて室内の様子を窺った。
 タイミングよく朝食を買って戻ってきた親友と目が合ったのだが、二度寝を願う気持ちが強く顔に現れていたらしく、シリウスはちょっと笑った。
「今、すごく人相が悪かった。おはよう」
 私は全然構わないが。ルーピンは考える。仮にも昨夜共寝をして、全裸と言っても差支えない状態で寝ている相手への第一声が人相が悪いとは、やたら雰囲気を重んじるムード原理主義だった過去の君と今の君で、その発言について討論してみてほしい、と。しかし彼に悪影響を与えたのが自分なのは明白だったのでルーピンは掠れた声で朝の挨拶を述べて下敷きになっていた上衣に袖を通した。
 この旅はルーピンの誕生日を祝うためのものだった。
 こういう普通の誕生日の祝い方も良いなと彼は思う。心臓の止まるような驚きはないが、その代り心穏やかでいられる。しかし旅行の残り日程で突然時間が逆行したり、道行く人々すべてが動物に変るアトラクションが突然始まったりしないという保証はどこにもないので、彼は油断していなかった。


 今日は絨毯を見る予定で、気に入ったものがあれば買おうという心積りにしていたが、残念ながら今のところ彼等の琴線に触れる品物は見つかっていない。
 昼食には道端で買ったシシカバブを揃って齧りながら、この肉を食べていると人は皆野犬のような顔になってしまうと2人は語った。滋味のある肉だったが相当にしっかりしていて、咀嚼するには力いっぱい噛まなければならないのだった。
 風の通る日陰の裏通りで小さな絨毯屋を見つけたシリウスは通りを進んだ。
「シリウス・ブラックさんではないですか?」
 前方からやってきた、痩せた初老の男性が英語で声を掛けてきた。
 シリウスは魔法界ではそれなりに有名な人物だったので、旅先でのこの手の出来事は時々あった。多くの人は握手を求め、何割かの人はサインを欲しがり、少数の人は泣きながら当時の体験を語った。
 男性はこの国の魔法族との商用でここに来たのだと説明をしながら握手を交わす。社交用の顔をしたシリウスは非の打ち所のない堂々とした態度で応対をしていた。赤の他人と天候の話をする習慣を生み出した奴は呪われろとまで言っていた彼が、鹿爪らしく快晴の話をしているのがおかしくて、ルーピンはそっと笑いをかみ殺した。
「あれから随分経って、何もかも変わりましたな」
 と、男性は呟いた。
「まったくです。誰も死なず、怯えずに暮らせる毎日は素晴らしい。受け継いだ若い世代が頑張ってくれている。誇らしい事です」
 シリウスは心からの笑顔で応じる。
「若い世代は頑張っている。しかしブラックさん、気になったことはありませんか?最近の魔法界はどうも、マグルとの境界が曖昧だ」
 境界が曖昧と言われれば、マグルの土地で暮らしている自分達などその最たるものだろうと考えながらシリウスは続きを促した。
「曖昧とはどういう意味ですか?」
「昔に比べるとマグルの製品の取り締まりは随分と甘くなった。当たり前に我々の生活の中で使われ始めている。製品を手に入れるための代償として魔法界の貴金属や工芸品が流出しつつある。少々危ういとは思いませんか」
「彼等の作りだす商品はどれも魅力的ですからね」
「そう、若者はああいった短絡的なものに弱い。マグルによる無残な魔法使い狩りの歴史も、碌に教育しないものだから知らない者が多くなってきた。マグルの街で暮らすのが流行しているとも聞いている。嘆かわしい事だ。これでは虐殺が再び起こった時、我々は成す術もなく血を流さなければならない」
 年配の人にありがちな、悲観的な考えの持ち主なのだろうかとルーピンは考えた。シリウスの声がやや硬くなり、するどく息を吐きだして口論を受けて立つ精神状態に切り替わりつつあって、なるべく穏便に済みますようにと彼は心の中で呟く。
「……何がおっしゃりたいのか分かりませんが、何百年も昔とは違ってマグルの倫理観も向上しています」
「そうかな?マグルの世界ではまだ奴隷制が有効で、戦争は相変わらず続いていると聞くが」
「あなたはどうなればいいと思うんですか?ミスター」
 遅まきながら、この見知らぬ男性がシリウスに対して好意を持っている訳ではない事にルーピンは気付いた。そして最初から妙な違和感を感じていたのは、相手が一度も笑顔を浮かべていないという理由によるものだったとも気付いた。
「魔法界とマグルの世界は厳格に分断されるべきだし、すぐに度を失って残虐行為を働く種族はきちんと管理されるべきだ」
「随分な極論ですな。1つ申し上げておきますが、近年侵略ともとられかねない行動を起こしたのは我々魔法界の側で、しかもマグルの世界はむしろ我々の世界にはない優れた社会システムが幾つもある。たとえば行政や福祉、保障。我々の世界はどうもハンデを背負って普通の社会生活を送れなくなった者に対して非道すぎる傾向に―――」
「口を閉じるがいい。魔法族の誇りを失ってマグル崇拝か嘆かわしい。このままいけば資産を吸い上げられて我々は衰退していくと何故分からない。あの時にあのお方が―――」
「あのお方というのは?死んだヴォルデモートの事ですか?」
 シリウスの声は平静だったが、彼が激怒に近い精神状態になりつつあるのをルーピンは察していた。しかし魔法族の人間ならば誰であっても同じような反応を示しただろう。公共の場であの虐殺者を称えるような発言をする事は、現在では重大なタブーとされている。
「死者を愚弄するのが勇敢だとでも?おめでたい」
「惨めに死んだ犯罪者を敬うのがご趣味ですか?変わっている」
「ブラック家でありながらなぜ碌でもない連中に味方した」
「我が一族がほぼ全員気の狂った犯罪者で、私がそうではなかったからですよ」
「今の魔法界の惨状はお前たちのせいだ……」
 初老の男性は、その骨ばった顔の中で異様に光る眼を一瞬も逸らさず、まばたきもせずにシリウスを注視し続けた。
 彼の右手は、ゆったりとした衣服の中にもぐった。杖。シリウスは一瞬で様々な事柄を考えた。
 まず彼は旅行トランクに杖を入れてはいたが、現在携帯はしていなかった。ルーピンがこの旅に杖を持ってきていたかは記憶にない。どの種類の魔法を使われるにしろ、走って距離をとるのは全くの無意味である。それよりは殴って呪文を妨害するほうが有効だろうというのが彼の判断だった。
 興奮のためか男性は肩で息をしていたが、ふとシリウスの隣を見て、次にまたシリウスを見た。狂気めいた瞳の熱はやや減退し、彼の視線はふらふらと彷徨った。
 不思議に思ったシリウスが自分の隣を見ると、そこには当然ながらルーピンが立っていて、しかし彼の右手にはすでに杖が握られていた。
 彼は全くの無表情で初老の男性を眺めていた。その容姿と気性には不似合いながら、ルーピンは不死鳥の騎士団創立メンバーとして何度も大規模な戦闘で生き残り、同族に対して致死の魔法を使う経験も覚悟も持ち合わせている。彼は今にも呪文を唱えそうに見えた。
 この度し難い大馬鹿者の年寄りを叩きのめしたいという激しい怒りと、ルーピンに怪我をさせたくはないし無関係のマグルを巻き込みたくはないという正義感、矛盾する2つの感情がシリウスの心の内で荒れ狂った。見知らぬ男性は相変わらずまばたきをせずにじっと押し黙っている。
 やがて時間が過ぎ、彼等の横を何人もの通行人が通り過ぎた後、男性は感情よりも計算が勝ったのかのろのろと右手を下した。
「いつか後悔するといい」
 そして何度も振り返りながら、彼は去って行った。


 喧騒が耳に戻ってきた。男の姿が見えなくなるまで無言で立ち尽くしていた彼等だったが、シリウスはその無事を確認するように右手でルーピンの手を握った。彼等は顔を見合わせる。
「久しぶりに、ぞっとした……」
「一瞬前まで、誕生日のプレゼントの企画かと思ってた」
「違う!いや、まあそう思われても仕方ないが……」
「うん、あまり面白くないから違うんだろうなって」
「すっかり油断して杖はホテルに忘れる、体力は落ちてる、自分に腹が立った。帰ったら体を鍛える」
「君は偉いね。私は戻ってもとくに体は鍛えないと思う。杖に至っては家に置いてきたし」
「え?今持ってるだろう」
「ああ……これね」
 ルーピンがそっと差し出したのは、それは食べ終えたシシカバブの串だった。


 しゃがみこんで笑うシリウスの横でルーピンは彼が笑い止むのを待っている。普段の彼等の慣習とは逆だった。
「この道全体がちょうど陰になっているのが幸いしたね」
「でも、お前、誰だってあんな真面目な顔で串を握ってるとは思わないじゃないか……」
「串だって顔に刺さったらきっと痛いよ」
「これ以上笑わせないでくれ!苦しい!」
「気持ちは分かる。好きなだけ笑うといいよ。それにしても我々の人生はあまりにも浮沈が激しすぎやしないか?」
「それはドラマチックすぎるという?」
「うん。小説だったら、きっともう20巻は越している」
「いや、せいぜい10巻くらいじゃないか?」
「展開が早そうだねその小説。……ハリーには連絡する?」
「戻ったら一応。そんな大変な事態とは思いたくないが」
「どうなるんだろうね」
「……分からない」
「でもまた情勢が悪い方向に変ったとして、君が義憤を感じて参加するというなら私も杖を握るし、もうそんな年齢でもないから若い人々に任せるというなら国外の人のいない場所に移住してもいい」
 もちろんハリーの助けにはなりたいけど、といつもの口調でゆっくり喋るルーピンにシリウスは目を細めた。
「お前といると……なんというか、大したことに感じられないな、何事も」
 ルーピンは何も言わず笑って手を差し出し、シリウスを立ち上がらせる。
 それからすっかり疲れてしまった彼等は絨毯を見て回るのを断念してレストランに入った。
 豆とヨーグルトの料理、それと勿論シシカバブを注文して、彼等の命の恩人の串肉とルーピンの誕生日に乾杯をする。蒸留酒が何杯か空く頃には気分も良くなって、彼等はテーブルの上でハリー宛の絵ハガキを書いた。
 「今日はシシカバブに命を助けられたので、帰ったら相談したい事があります」
 緊張が解けてやや頭のねじが飛んだ状態で書かれたそのシュールなメッセージは、受け取ったハリーを数日間恐れさせることになる。気の毒な義息はアルファベットを数字に置き換えてみたりハガキを逆さまにしたり炙ったり、あらゆる無駄な努力をしながら義父とそのパートナーの帰りを待つことになるのだが、それは後日の話である。
 彼等は硬めの肉を力いっぱいに噛んで、やや野犬じみた顔になりながら、何度目かの乾杯を交した。











なんか情勢が悪くなっていくんでしょうか、
ちょっと心配です。
でもべつに「呪いの子」と繋がっている訳ではないです。

ルーピン先生、お誕生日おめでとう!
2017.03.10