精霊
第一章 日常風景の中から
いつもの光景である。
「ハッ!」
気合一閃、振り抜かれた剣がまとった黄金の炎が妖魔を跡形もなく消し去り、周囲の淀んだ空気を一瞬にして浄化する。
それを成した少女は、己の仕事振りに満足するように小さく頷き、緊張を解いて息を吐き出す。
「――ふぅ」
神凪綾乃。
精霊王の祝福を受けし最強の炎術師一族、神凪家の次期宗主にして、始祖が精霊王より賜りし降魔の神剣、炎雷覇の継承者。
非の打ち所もない端整な容姿に、凛とした佇まい、身にまとった清浄な霊気と、まだ幼さは残るがそこは将来性に期待するとすればどこをどう取っても完璧な、よほどのひねくれ者でなければ誰でも素直にその姿を称えるであろう、光り輝くような美少女である。
その整った顔が、背後を振り返ると同時に激しく歪む。
「相変わらずいいご身分だことっ」
「んぁ、終わったか」
並の人間ならばその眼光だけで縮み上がりそうな殺気のこもった視線を向けられながら、男は欠伸を噛み殺した顔で振り返る。
「じゃあ、帰るか」
八神和麻。
綾乃の再従兄であり、神凪の直系に生まれながら炎術の才に恵まれず、一族から放逐された後に風術師として大成した男である。
今は神凪家宗主である綾乃の父、重悟の依頼で綾乃の護衛を務める身の上だが、だらしなく緩みきった様子からはとても勤労意欲があるようには見えなかった。それもそのはず、この男のモットーは楽して稼いで悠々自適に暮らす、というものなのだから。典型的なダメ男だが、それが許されてしまうだけの実力の持ち主ということだった。
ただし、護衛対象である綾乃は許していない。
「いやー、疲れた疲れた」
「さも仕事しましたなんて態度してんじゃないわよっ。例によって何もしてなかったくせに」
「だってもう夜中だぞ。眠ぃーっつの、残業手当出しやがれってんだ」
「だからそういう台詞はせめて料金分働いてから言えっ! あんたがほんの少しでも働いてればこんなに遅くならなかったでしょうが!」
今回の標的であった妖魔は大したことはなかった。
この二人にとって“大したことある”敵というのはとてつもなく、世界的に厄介な存在ということになるのだがそれはさておき、退治するのには何の問題もなかった。だが恐ろしく隠密性が高く、見付け出すのに苦労したのだった。
炎術師である綾乃は、戦闘力においては最強クラスの術者であるが、探査系の能力は皆無に等しかった。そこを補うのが風術師である和麻の役割だった。和麻が仕事をしていれば、何百倍も容易く妖魔の居場所を見付け出すことができたはずだったのだ。
戦闘に手を出さないのは、百万歩譲って良いとする。力比べで綾乃の手に負えない妖魔などそうそういるものではない。 そもそもこの程度の妖魔退治の依頼に、わざわざ和麻ほどの術者を護衛として雇う必要性などないのだ。だが重悟は何故か和麻の都合がつく時は常に彼を綾乃の仕事に同行させる。綾乃としては余計なことをと思うのだが、父が決めていることだから仕方がない。しかしそれならそれで、仮にも大金をもらって雇われた身の上であるのだから、せめて己の領分においてくらい仕事をしろというものだった。
「うー・・・お腹空いた・・・。こんな時間じゃまともなお店開いてないじゃないの・・・」
「お嬢様はジャンクフードはお気に召さないのか?」
「食べないわけじゃないけど、どうせ奢らせるなら少しでも高いものがいいじゃない」
「そりゃ残念だったな」
「・・・あんたまさか、あたしに奢るのが嫌で手抜いてたんじゃないでしょうね?」
「・・・・・・・・・そんなことはないぞ?」
「その間が思いっきり怪しいわよっ! 棒読みだし、しかも疑問形だし!!」
食いかかる綾乃を適当におちょくる和麻。ここまで含めて全て、いつも通りの光景だった。
普段は仕事の後、高級レストランにでも行って二人で食事をしてから帰るのが常だった。仕事もせずに、護衛という名目でそこにいるだけで多額の報酬を受け取っている和麻の稼ぎを少しでも減らしてやろうという綾乃の嫌がらせであるが、その実二人きりの夕食を楽しんでいる――というのは本人は頑なに否定している事柄だった。そして綾乃が不機嫌なのはあくまで和麻の仕事に対する姿勢を批難しているからであって、断じて一緒に食事ができないからではない。ないのだが、特にいつもと変わらないにもかかわらず、いつにも増して綾乃は不機嫌だった。
次の機会には絶対今日の分も含めて最高級の店で奢らせてやると心に誓いながら、除霊現場を後にする。
「あー、そうだ」
「何よ?」
「俺ちょっと別の用事があるっぽいから、しばらくそっちの依頼はパス、って宗主に伝えとけ」
「は? 何よそれ!? しかも、ある“っぽい”って・・・!」
「んじゃ、またその内な」
「あ、こらっ、ちょっと、和麻!?」
一瞬たりとも名残りを惜しむことなく、和麻は帰っていった。
「な・・・何よ、それ・・・・・・」
残された綾乃は、不機嫌さにわなわなと拳を震わせる。
仕事はしない、奢らせることもできない、しばらく依頼すら受けない、当分会う機会がない、そのくせいやにあっさりと別れていく。“何故かよくわからないが”それらの積み重ねが、綾乃の怒りをこの上なく高めていった。
「和麻の・・・・・・馬鹿ぁああああああ!!!!」
怒り心頭に達した綾乃が、火柱を立てながら夜空に向かって叫んだ。ちなみに比喩ではなく、本当に火柱が立っていた。
翌日、聖陵学園の校門を入った所。
「あーやーのーちゃんっ、おーはーよー♪」
「・・・・・・・・・おはよう」
学園において一、二を争う美少女二人は、実に対照的なテンションで挨拶を交わした。
その様子に、周囲を歩いていた他の生徒達は、自然とその場所から距離を取る。
元々ふわふわと明るく楽しげな雰囲気をまとっている篠宮由香里はそのふわふわ振りをさらに強め、今にも大空へ向かって羽ばたきそうなほどに上機嫌だった。
凛とした佇まいと清楚な雰囲気を併せ持った神凪綾乃はその美しさを歪め、今にも地面に穴を開けて沈んで行きそうなほどに不機嫌だった。
この学園において、決して敵に回してはいけない生徒としても一、二を争う二人の美少女の常ならぬ様子に、誰もが危険を感じ、近付かないように努める。
ただ一人、そんな危険性を気に留めることなく二人に近付いていく女生徒がいた。
「あんたら、みんな怯えてるからもう少し普通のテンションでいろ」
ショートカットに、中性的な雰囲気を漂わせているのは、二人の親友で久遠七瀬である。
綾乃が綺麗、由香里がかわいいという形容詞が似合うのに対し、七瀬は所謂かっこいいタイプの女子だった。他の二人、特に綾乃が男子生徒の間で絶大な人気を誇るのに対し、七瀬の方は同姓、つまり女生徒の間で強い人気を集めている。
指摘を受けた綾乃は周囲を見回して取り繕うように、しかしごく自然と微笑を浮かべた。
それだけで何人かの男子生徒は顔を赤らめ、舞い上がっていた。
神凪綾乃は完全無欠なお嬢様である。持って生まれた端麗な容姿に加え、仕草の一つ一つが洗練されていて、現代社会では絶滅危惧種と言っても過言ではない本物の大和撫子を体現している。彼女をよく知る者から見たら恐ろしく分厚い猫を被っているようにしか見えないのだが、大多数の人間が綾乃に抱くイメージというのは本来こういうものであった。あくまで自然に、人と接する時にはそうした態度を取るように、彼女の体がそれを覚え込んでいるのだ。彼女が『本性』を見せる時というのは、心底毛嫌いしているか、心底気を許している相手と接する時、あとはたまに箍が緩んだ時のみである。
――ちなみに今現在、綾乃が最も『本性』剥き出しで接する相手というのは和麻なのだが、その理由に関しては、本人と周囲との間で認識のズレがあったりする。
いずれにせよ、学園にいる間の綾乃は、才色兼備な学園一の美少女なのだ。
「で、綾乃が機嫌の悪い理由は聞くまでもないとして、由香里はどうしたんだ?」
「ちょっと待ちなさい、七瀬。何であたしには聞くまでもないのよ?」
周囲に対して笑顔を振り撒くことは絶やさずに、口調だけいつもの調子で綾乃は七瀬を問い詰める。
「どうせいつもと同じだろう」
「違うかもしれないじゃない」
「違うのか?」
「・・・・・・違わないけど・・・」
由香里と七瀬は、綾乃と和麻の関係を知っている。
ゆえに綾乃が普段のお嬢様振りを崩すほどに不機嫌になる理由と言えば、和麻との間で何かあったに違いないとすぐにわかるわけだった。
「なになに? 綾乃ちゃん、また和麻さんと喧嘩しちゃったのー?」
綾乃と七瀬が話している隣で「うふふ♪」だの「えへへ♪」だのと言いながら浮かれている由香里の姿は、親友である二人からしても――いやむしろそれゆえにこそ危険性を覚えずにはいられないものだった。
篠宮由香里という少女の持つ情報網は半端ではない。今現在はまだ生徒会において書記という立場だが、その実権は既に生徒会長を超えているのではないかとの噂まである。少なくとも、学園内の事柄で由香里の知らないことはないのではないか、というくらいの情報を武器にしている由香里は、全校生徒、さらには他校の生徒からさえ密かに恐れられている存在なのだ。その上最近、警視庁の“ある部署”とも繋がりができたことでその情報網はさらに強大なものになったとかどうとか。
そういう存在である由香里が異様なほど高いテンションでいる、という事実が何かとんでもないことの前触れのような予感がして、皆戦慄しているのである。そして綾乃は、以前由香里がこんなテンションだった時に、実際とんでもないことがあったのを知っていた。忘れもしない 『ケルベロス事件』の――と、それは余談として。
「別に喧嘩なんかしてないわよっ。あたしはただ、あいつの勤労意欲のなさに怒ってるだけなんだから。しかも、しばらく別の用があるから仕事しないとか言い出すし・・・」
「あ〜、なるほどー。しばらく和麻さんに会えないのが寂しいんだ♪」
「なっ!? あんたねっ、今の話のどこにそんな要素があったってのよ!?」
「えー、そのまんまだったじゃない。ねー、七瀬ちゃん?」
「ん、まー、そーだね」
「七瀬! あんたまでっ!」
「綾乃、周り周り」
「ぐぅ・・・」
激昂する綾乃は、しかし周囲の視線に辛うじて理性を保つ。
「もう、綾乃ちゃんたらっ。拗ねるのはいいけど周りに当たっちゃ、ダ・メ・よ♪」
「・・・由香里、いい加減にしないと本気で怒るわよ?」
聖女の如き優雅な微笑み――少なくとも傍目からはそう見える――の裏に、向けられた相手だけがわかる殺気を滲ませる。
普段の由香里ならば、よほど悪ノリしている時でなければ、身の危険を感じてこの辺りで引き下がる。だが、今日の由香里は手強かった。
殺気を受けてもどこ吹く風で「しょうがないなー、綾乃ちゃんは」などと言いながらにこにこしている。
尋常じゃないほど上機嫌な由香里の様子に、綾乃も怒りをぶつけきれず、眉をひそめて七瀬と顔を寄せ合う。
「どーなってんの、これ?」
「さぁ・・・さすがにここまでテンション高いのはそうそう見ないからね」
何かそうなる要素があれば、由香里は果てしなく、周囲を巻き込みながらテンションを高めていく。しかしそれならそれで、何かしらの理由があるはずだった。今回はまだその理由がわからないだけに、不気味さが倍増している。
とりあえずホームルームの時間が迫っていたので、その場ではそれ以上何かを問い質すということはしなかった。
そして昼休み――。
「実はねー、昨日ちょっとかっこいいかなーって感じの男の子に危ないところを助けてもらったの」
上機嫌の原因を尋ねた綾乃と七瀬に対し、由香里は普段と比べてもさらにネジが数本緩んだような笑顔でそう答えたのだった。
「――へぇ」
「ほー」
意外と言えば意外、らしいと言えばらしい理由に、二人は妙に感心してしまった。
由香里は控え目に見ても十分過ぎるほどの美少女で、しかも綾乃のように潔癖過ぎるほど身持ちが固いというわけではないが、今まで浮いた話一つ聞いたことがなかった。それでいて、気に入った男がいればその日の内に行くところまで行ってしまいそうな雰囲気もあった。
それでもこれまでは由香里の眼鏡に適うような男はいなかったようなのだが、ついにそういう男が出てきたということか。
しかも危ないところを助けられたとなれば、何かのフラグが立つ要素としては十分だった。本当に危ないところだったのかは、二人ともあえてつっこまないことにした。
「それで、どんな男だったのよ、由香里?」
一般的な女生徒と違って、綾乃は色恋沙汰の話で盛り上がる趣味はない。だが、“この”由香里が気に入った男というのがどんな奴なのかは、興味があった。七瀬も同じようで、素っ気無い振りで昼食を摂りながらもしっかり耳を傾けていた。
「こんな人ー」
差し出された携帯の液晶ディスプレイには、綾乃達と同い年くらいの少年が他校の生徒をのしているところが写し出されていた。
「へぇ・・・」
写真に写った少年を見て、綾乃は感心したように小さく声を上げた。
顔は美形というほどではないがそれなりに整っており、中肉中背で体つきも悪くなく、パッと見の印象は悪くない感じだった。
だが、綾乃が感心したのはそんなことではない。
静止画のためしかとはわからないが、綾乃の眼力は少年の動きが只者のそれでないことを瞬時に見抜いていた。最小限の、まったく無駄のない動きで相手を無力化している。ちょっと喧嘩が強い程度ではなく、歴とした武術をかなり高いレベルで修得している者の技だった。
「まー、綾乃ちゃんの和麻さんには及ばないかもしれないけどー」
「・・・・・・少なくとも、和麻なんかよりはよほどいい男ね」
「でもほんとにかっこよかったよ。相沢祐一さん、って言ってね、綾乃ちゃんの同業者みたいな人でね、『女の子に手を上げるのはやめとけ』・・・って感じに守ってくれたの♪」
「ふーん、そう・・・・・・・・・・・・」
適当に由香里の言葉を聞き流していた綾乃は、何か非常に聞き捨てならないことをさらりと言われたような気がした。
「はあ? 今、同業者、とか言った?」
「うん、言ったけど、それがどうかした?」
「どうかした? じゃないわよっ! どういうことよ!?」
「だから、綾乃ちゃんみたいな魔法使う人だったってこと。あ、祐一さんのは水みたいだったけど。それでね、一番かっこよかったのはやっぱり一番最初、お化けに襲われそうになってたところをその魔法で助けてくれた時だったの!」
「襲われ、って、ちょっ、大丈夫だったのあんた!?」
「もちろん、祐一さんが助けてくれたって言ったでしょー。だから今こうしてここにいるわけだし」
由香里は綾乃の友人ではあるが術者の類ではない、完全な一般人である(と断言するのは少々憚られるのだが)。
それが妖魔に襲われたというのにこうもあっけらかんとしていることに、綾乃は頭を抱える。この友人にはもう少し危機感というものを常備してほしいものだった。
だがそれはいつものことなので、ここでは深く追求しないことにする。
問題なのは、由香里を助けたその相沢祐一という術者のことだった。由香里の話から推察するに、おそらくは水術師である。しかし、この辺りで水術師がいるという話は聞いたことがなかった。
「水術師で、相沢・・・・・・聞いたことないわね?」
精霊魔術の力は血筋に宿り、それゆえにそれを伝える一族はいずれも家系の『名』を重んじる。姓を聞けば、大体の出自はわかるものなのだが。
「あ、それなら。本名は、水瀬祐一っていうみたい」
「水瀬ですって?」
それならば知っていた。東北の方を根城にする水術師の名門だった。
「で、水瀬家の今の宗主のお姉さんの旦那さんの旧姓が相沢で、祐一さんはその二人の子供みたい」
「ちょっと待て。あんた一体どうやってそんなもの調べたのよ?」
水瀬の名は、神凪ほどではないがこの業界においては知られている名前である。だがその家のことはもちろん、ましてやそんな裏事情まで、まかり間違っても一介の女生徒が普通に知り得るようなものではない。
一つだけ可能性として思い当たるものがあり、その通りの答えを由香里は返してきた。
「霧香さんのところの若い人に調べてもらったの」
「情報漏洩してんじゃないわよ公僕が・・・」
「大丈夫よ。綾乃ちゃんが知りたがってる、って言ったら快く承諾してくれたから」
「勝手に人の名前を使うなっ!!」
それにしても今の話が本当ならば、相沢祐一というのは水瀬家宗主の甥、即ち直系ということになる。それが何故、本姓を名乗らずにこんな場所にいるのか。
首都圏は神凪のお膝元である。その中で他の術者による活動を一切禁ずる、というほどに縄張りを主張する気などないが、それでもおかしな話だった。
一応、宗主に報告しておくべきかもしれない。
放課後、下校途中のことである。
生徒会の仕事と部活でそれぞれ学校に残った由香里と七瀬と別れて帰路についていた綾乃のすぐ隣で、一台の車が止まり、見知った人物が降りてきた。その人物の登場に、綾乃は思い切り顔をしかめる。
「はぁーい、綾乃ちゃん。丁度いいところで会ったわ」
「何か用かしら、橘警視?」
綾乃ほどの美少女がコンプレックスを抱かずにはいられないほどに『大人の女性』という雰囲気をまとっている美女は、警視庁特殊資料整理室の室長を勤める橘霧香である。由香里が近頃個人的に繋がりを持った“ある部署”でもある特殊資料整理室というのは、一言で言うなら警察内における、オカルト専門機関だった。しかし実戦能力はほとんどなく、妖魔等の退治そのものは神凪のような専門家に任せ、後方支援や事後処理を務めるのが主であった。
霧香にしても、陰陽師としては類稀なる実力者ではあるが、単純な戦闘能力では綾乃の足下にも及ばないどころか比較にすらならない。
しかし術者としての能力はさておき、『女』としては明らかに綾乃を凌駕する魅力を放つ霧香に対して綾乃はコンプレックスを抱いているわけであるが、綾乃が彼女に対して敵対心というか対抗意識のようなものを抱くのは、霧香が個人的に和麻と親しそうな態度を取っているからだった。
それはさておき――それももちろん理由の一つなのだが――綾乃が顔をしかめたのは、霧香が「丁度いいところで会った」などと言ったというのは、何かしらの厄介事を持ってきた、という可能性が高いためであった。
「和麻を探してるんだけど、どこにいるか知らない?」
しかも、今一番聞きたくない男の名前を出されて、綾乃は露骨に嫌な顔をした。
「知らないわ」
きっぱりと、それ以上のあらゆる追求を跳ね除ける冷たい声で綾乃は答えた。
しかし殺気すら孕んだ綾乃の視線を軽く流しながら、霧香はその場で考え込むように顎に手を当てた。
「そう・・・。いたら便利だと思ったんだけど、仕方ないか・・・」
「何かあったの?」
立場柄、事件の臭いがする話にはつい反応してしまう。
「まぁ・・・ね。大したことじゃないんだけど・・・・・・」
はっきりしなかった。
歯切れの良い物言いをする霧香にしては珍しい態度だった。口では大したことないと言っているが、和麻を必要としている辺り、実は厄介な事件を抱えているのかもしれない。
とはいえ、正式な依頼があったわけでもないのに綾乃が手伝う義理はなかった。ましてや綾乃の専門分野は、とにかく敵を倒す、というものであって、全容の掴めていない事件に首を突っ込んでもやることはない。
「何だか知らないけど大変そうね」
「ええ、なかなか悩みの種は尽きないわ。とりあえず、万魔殿の時みたいな事件じゃないことを祈るばかりよ」
「あんなのがしょっちゅうあったら堪らないわよ」
結果として都庁が崩落、死傷者も多数出した万魔殿事件はまだ記憶に新しい。実際に事件を解決したメンバーの一員だった綾乃も、後始末に奔走した霧香も、思い出すと苦い顔をせざるを得ない。ましてや、事件の首謀者は国外逃亡してしまったため捕まっていないのだ。後に憂いの残る『解決』であったのは否めない。
二人して難しい顔をしていると、車の助手席のドアが開いて小柄な人影が降りてきた。
誰かが乗っていたのは気付いていたが特に気にしていなかった綾乃がそちらに顔を向けると――。
ガッ バタンッ!
人影は車道と歩道の段差に躓いて盛大にコケた。
地面に向かって、それはもう清々しいくらい見事に顔面から突っ込んでいた。まるでコントの一シーンを見ているかのうようだった。
唖然とする綾乃の前で、霧香が同じく呆れながら、しかし慣れた様子で地面とキスしている少女を助け起こした。
「大丈夫、月宮さん?」
「うぐぅ・・・・・・大丈夫でふ・・・」
鼻の上を押さえながら立ち上がった少女は、綾乃よりいくらか年下に見えた。
肩の高さで切り揃えられた栗色の髪に赤いカチューシャをしており、愛くるしい顔立ちは転んだ痛みで僅かに歪んでいる。だが、思い切り地面に突っ込んだわりにダメージは少ないようだった。
(ん?)
少女の様子を観察した綾乃は、何か不思議な感覚を覚えた。思い起こせば、突然のことに驚いて唖然としていたためすぐには気付かなかったが、少女が転んだ時にも似たような感覚があった。
感覚の正体はすぐにわかった。
ごく僅かではあるが、精霊達が少女の周囲に集まっているのだ。
しかも、綾乃がはっきりと感知できるのは炎の精霊だけだが、それ以外に風、水、地、全ての精霊がそこにいるように思えた。
ひょっとすると精霊術師なのかと一瞬思ったが、四大の属性全てに通じる術者など聞いたこともなかった。何より、少女から感じる術者としての力は本当に微弱なもので、とても優れた精霊術師には見えない。
けれど少女が転んだ時、衝撃を最小限に抑えたのは精霊の力によるものだったように思えて、綾乃は首を傾げる。
「さすがに気付いたみたいね」
綾乃の疑念に答えるように霧香が声をかけながら、少女の肩に手を置いて綾乃の方に向けさせる。
「この子は月宮あゆさん。まだ正式にうちの人間、ってわけじゃないけど、将来有望な術者見習いといったところね」
「は、はじめまして! 月宮あゆです・・・」
「神凪綾乃です。よろしく、月宮さん」
緊張気味に挨拶するあゆに向かって、綾乃は完璧な余所行きの笑顔で対応する。ほとんどの初対面の人間は、この笑顔に騙される。いや、別に本人は騙している気など微塵もないのだが。
しかしあゆは、ビクビクした態度で会釈すると、素早く霧香の後ろに隠れるように後ろへ下がった。
少し心外だったが、そんな小動物のような雰囲気もかわいらしいと綾乃は思った。
「ちなみに、十八歳よ」
(なぬ!?)
思わず表情が崩れそうになった。
ともすれば中学生か、小学生といっても通りそうな少女が綾乃よりも年上とは。だが資料整理室には石動大樹という前例もいるので、そういうこともあるかと納得した。
霧香が背中に隠れているあゆを引っ張り出す。
「ほら月宮さん、綾乃ちゃんは噛み付いたりしないから大丈夫よ・・・・・・たぶん」
「たぶんって何よ、たぶんって・・・」
「えっと、その・・・それは、わかるんですけど・・・・・・ちょっと乱暴だったり、すぐ暴れたり、精霊使いが荒かったりって・・・」
「・・・橘警視? 新人さんに人のことをどう吹き込んでるわけ?」
「違う違う、私じゃないわよ」
笑顔で熱気を孕んだオーラを立ち上げる綾乃に向かって、霧香は顔の前で手を振ってみせる。
「じゃあ、月宮さんはそんな根も葉もない誹謗を誰から聞いたのかしら?」
「根も葉もないことはないと思うけど・・・」
「何か言った? 橘警視」
「・・・いいえ、何も」
「う、うぐぅ・・・・・・ごごご、ごめんなさいっ! ただ、精霊さん達が、そう言ってるから・・・」
「え?」
ガクガク震えているあゆの言葉に、綾乃が疑問符を浮かべる。
綾乃の耳が確かなら、今あゆは精霊達から綾乃のことを聞いたと言ったようだった。
「あなた、精霊術師なの?」
「正確には違うわ」
疑問に答えたのは霧香だった。
「彼女は精霊魔術は使えない。けど、精霊の声は聞くことができるの。それも、自分自身は一切術が使えない代わりに、四大全ての精霊と会話できるのよ」
「嘘・・・そんな能力聞いたことない・・・・・・」
精霊魔術は、世界に満ちる精霊達と交渉し、その力を借りることで行使する魔術である。
基本的に、一人の術者が持つ素養は四大の内のどれか一つである。それ以外の精霊に関しては、存在を感じ取ることはできるが、交渉を持つことはできない。
ゆえに、この月宮あゆという少女の能力は非常に特異なものだった。
「・・・・・・っていうか、精霊使いが荒いって、みんな普段そんなこと思ってたの!?」
周囲にいる炎の精霊達に問いかけると、精霊達は何も言わず、皆逃げるように散っていった。無言は肯定の証である。
思いがけない事実の判明に、綾乃は少しばかり落ち込んだ。
誰よりも炎の精霊に祝福されし神凪の姫巫女が、実はそんな風に精霊達に思われていたとは、ショックだった。
「精霊達も、実は苦労してるのね・・・」
「しみじみ言ってんじゃないわよ・・・・・・」
最近で一番ショックだったかもしれない事柄に、綾乃はどんよりとした顔になっていた。
「あ、あ、あのでもね! 炎の精霊さん達、みんな綾乃さんのこと大好きだって言ってるから! 怒りっぽくて、そそっかしくて、危なっかしくて、素直じゃなくて、だけどすごく優しくて、強い人だって!」
「月宮さん、微妙にフォローになってないわよ」
「う、うぐぅ・・・・・・」
「あはは・・・・・・ありがとう、月宮さん・・・」
あくまで悪意のない、普段由香里や七瀬が言っているような、親しみを込めたささやかな冗談であることはわかっている。自分がどれだけ精霊達から愛されているかは、綾乃自身がよくわかっているのだから。
それでも、内容的にちょっとだけ落ち込んでしまうのだった。
今後はもう少し、精霊達との接し方に気を使おうと反省する綾乃であった。
「あ・・・!」
不意に、あゆが弾かれたように一方向へ顔を向けた。
「祐一君、見付けた!」
「「え?」」
あゆの叫び声に、綾乃と霧香はそれぞれ別種の反応を示した。
祐一は前日に引き続いて、妖魔を追っていた。
神凪の術者を出し抜いて前の妖魔を退治してみせた祐一に対して気を良くした依頼主が、別の依頼を紹介してくれたのだ。どちらの依頼主も、所有する物件に妖魔が住み着いて困っていたのだという。
意気揚々と引き受けた祐一は、幾度かの攻防の末、ビルの裏に妖魔を追い詰めていっていた。
「さーて、観念しろよ、名声の種その二!」
二日連続で依頼を完遂すればかなり高い評判を得られるだろう。加えて、当面の足場を固めるための資金も十分に手に入る。
実はやっとの思いで都心まで出てきた祐一だったが、家出同然で出てきたために所持金は六ケタを切っていた。まずは何でもいいから稼がなくては、寝床の確保もままならない。ちなみに昨夜は公園で寝た。
昨日と今日の報酬合わせて百五十万。まず衣食住を確保するには十分な金額だった。
今日の敵は昨日のものよりほんの少しだけ大物だった。といっても、やはり祐一にとってみれば大した相手ではない。確実に行けば、何の問題もなく始末できる。
祐一の戦法は、まずほとんどの場合相手に先手を取らせる。
相手の攻撃を防御した際に、自分の気を込めた水を相手の体に付着させ、万が一にも取り逃がすことのないようマーキングするのだ。その上で相手の強さに応じて攻撃を加えていく。
周囲になるべく被害を出さないよう、最初は小技で攻め立てる。周りに物理的なダメージを与えることなく対象の妖魔だけを滅するなどという芸当は、優れた精霊術師といえど容易なことではないのだ。完璧にそれを可能にするのは神凪の宗家くらいのものではないかと思われる。
だが、仕留める時は一撃で決めるのが望ましい。だから攻撃をしつつ、相手の周囲に薄い結界を張っていくのだ。結界が完成した瞬間、内側に向かって一気に力を集中する。敵には逃げ場もなく、それで終わりだった。
昨日の敵も同じようにして倒した。今日も同様の手段で確実に仕留めに行く。
(そろそろだな)
すぐに逃げ出した昨日の敵と違って、今度の敵はこの場から立ち去る気はないようで、隠れながらも遠くへ移動しようとはしなかった。
罠を張りつつ祐一は、後の後を取る返し技で結界を形成していく。
そして次に敵が接近してくれば、結界は完成する。
今の状態で攻撃を繰り出しても十分に倒せるだろうが、やるならば確実に、である。
じっと相手の出方を待つ祐一。そこへ――。
「――ッ!?」
全身が総毛立つような感覚に襲われた。
(なっ、何だこりゃ!?)
桁外れな力を持った“何か”が、祐一の知覚範囲内に突入してきた。
冷静に感じ取れば、それが決して悪意の塊などではない、むしろこの上ないほど純粋で、清浄な力であることがわかったのだが、敵を仕留める直前で気を張り詰めていた祐一は、突然の出来事に動揺させられた。
「げっ!!」
そのため、妖魔の攻撃に対する反応が遅れた。
咄嗟に張った水の壁で攻撃そのものは防いだが、反撃には至らず、威力に押されて横へ転がった。
「にゃろうっ!」
遅れて攻撃に転じようとした瞬間、視界が黄金色に染まった。
黄金の炎に包まれた妖魔は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく消滅した。僅かな気配の残滓すら残さず、その禍々しい妖気すらも全て浄化され、異常な空気が正常に戻っていく。膨大な熱量を誇った炎も、周囲のものを一切燃やすことなく消え去った。
その向こう側に、一人の少女が立っていた。
息が止まるかと思った。
実際に、何秒か息をするということを忘れていた。
まるで太陽のように眩く光り輝くような美少女だった。腰まで届く艶やかな黒髪も、整った顔立ちも、凛とした佇まいも、全てが美しい。そして何より、付き従う炎の精霊の数が半端ではなかった。それだけで、彼女がどれほど精霊に愛されているかがわかった。
これほどまでに炎の精霊から祝福される少女の存在を、祐一は知識としてのみ知っていた。
脳裏にはっきりとその名が思い浮かぶ。
(神凪綾乃――)
神凪の次期宗主にして、神器炎雷覇の継承者。
日本にいる精霊術師で、その名を知らぬ者はいまい。神凪と炎雷覇の名声に至っては、世界中の魔術に精通した者達に知れ渡っている。そんな『力』の中心にいる存在である。
いまだ現宗主の重悟や、現役最強の厳馬には及ばないと聞いていたが、はじめて目の当たりにすると到底信じられなかった。目の前に立つ存在以上の力の持ち主がいるという事実が信じられないほどに、綾乃の力はあらゆる意味で次元が違っていた。
これが、真の神凪か。
祐一は己の思い違いをはっきりと認識した。
分家の実力から宗家の力を量るなど、愚かしいにも程がある。あまりにも力の隔絶が大きすぎる。水瀬家では、宗主は別格としても、宗家と分家の間でここまでの力の差はなかった。
まさしく神の領域。それが神凪の直系という存在だった。
その『力』と、何より神凪綾乃という少女の美しさに、祐一は一目で虜になった。
同時に、別の欲求も膨れ上がってきた。
(彼女と勝負したら、勝てるか――?)
純粋な力比べでは水術で炎術に敵うはずもないが、勝敗を分けるのは何も単純な力のみではない。あらゆる手段を駆使した際、果たしてどういう結果になるのか。
神凪と水瀬では、そもそも血筋の格が違う。だが、宗主に限ってはそうとも限らない。代々の水瀬家宗主は、水術の一つの極みに達している。その力は決して、神凪の直系に劣るものではない。そして祐一は、過信ではなく正確な分析から、己の力が現宗主である叔母の秋子に比肩していることを知っていた。
試したい。
分家相手では勝負にもならなかったが、今度こそ神凪の直系相手に、己の力を試してみたかった。
熱に浮かされたように、無意識の内に祐一が精霊を集めようと動きかけた時、思いもよらない声がした。
「祐一君っ!!」
「なっ!?」
あるまじき油断だった。
完全に綾乃に意識を囚われていたため、すぐ近くに接近されるまでその存在を察知することができなかった。
もしも敵の攻撃だったらここで死んだな、などと思いながら祐一は飛び込んできたよく知っている少女、あゆの体当たりを受けていた。
付近一帯で一番高いビルの屋上に、和麻はいた。
眼下に広がる景色を見ていると、思わず「人がゴミのようだ」とか言いたくなったが、アホらしいのでやめて、代わりに煙草を取り出して火を点ける。
軽く吸い込んでから、煙を吐き出す。
「・・・・・・せっかく人目のないところに来たんだ、いい加減出てこいよ」
和麻が声を発すると、いつの間にか屋上の中心辺りに、一人の少女が立っていた。
いつ、どうやってそこに現れたのか、仮に周囲に他に人がいたとしても、それを感知できたのは和麻以外にはいなかっただろう。
後ろを振り返ることなく、風を通じて和麻は少女の姿を克明に知ることができた。
白衣に緋袴という、所謂巫女姿。都心では一部を除いて滅多に見ることのできないいでたちだが、下手なコスプレでないのは着こなし振りを見れば一目瞭然だった。その装束に良く似合う長い黒髪も漆のような光沢を放っており、顔立ちも典型的な和風美人と言えるほどに整っていた。
肩に担いだ竹刀袋に入っているのは真剣、それも特殊な力を持った呪法具に違いなかった。
姿からも気配からも、真っ当な人間ではありえない。
正体は知れないが、術者の類なのは間違いない。それも、かなりの腕前の。何しろ、和麻が存在を察知していながら正確な位置を特定できず、こうして直接対面するしかなかったくらいなのだから。
「どこのどちら様でどのようなご用件でしょうかねぇ? 昨日は視線が気になって気になって仕事にも身が入らず大変迷惑したんですが?」
「お仕事の方ははじめからやる気があるようには見受けられませんでしたが」
最初に視線を感じたのは昨日、綾乃と組んでの仕事中のことだった。
やる気がなかったのは事実だが、標的の隠密性が高いことは聞いていたため、綾乃一人に任せてはいつ終わるかわからず、探す手伝い程度はするつもりだった。それをまったくしなかったのは、視線の主をずっと探していたためだった。
しかし妖魔の方も片手間で探しながらではまったく捕捉できず、そちらを完全に無視して集中してもアバウトな位置しか掴めなかった。
集中すれば半径十キロ以内の事象は風を通じて余すことなく探知できる和麻がである。
大体の位置はわかるのだが、正確に把握しようとすると何かに邪魔されて追い切れない。そんなやり取りを、綾乃が必死になって妖魔を探していた後ろでずっと和麻と視線の主は繰り広げていたのだ。
敵意はないので適当に放置しておいても良かったのだが、今日に入ってからの半日余りもずっと断続的に視線を感じていたため、とうとう痺れを切らしてこうして対面することにしたのである。
「で、何の用だ?」
手にした煙草を放り捨てながら問いかける。煙草は地面に落ちる前に風に打たれて粉微塵に吹き飛んだ。
和麻の口調は普通だが、返答次第では今捨てた煙草と同じ目に相手を合わせるという意志が込められていた。
数秒間の沈黙の末、巫女姿の少女が口を開いた。
「私は、津上雫と申します。八神和麻様、あなたに、仕事の依頼をしに参りました」
あとがき
予告したより少々更新が遅れてしまった・・・・・・いや、最初に言った今週中という条件は満たしている!
というわけで本編スタートの風の聖痕外伝、まずは本家本元の主役コンビ、和麻と綾乃の登場である。しつこいくらい綾乃を褒め称える言葉を並び立てているが、それだけ私は綾乃贔屓なので、この話でもたぶん一番目立つのは和麻でも祐一でもなく綾乃になると思われる。Kanonヒロインからはまずあゆが登場、彼女は祐一の力と密接な関係があるのだが、その秘密は次回以降に。
綾乃と祐一の出会い、和麻と雫の接触、その二つから次回以降の物語が展開されていくことになるのだが、次回はまずは祐一の素性について細かく語られることになるであろう。