わがまま























 ズズッ

 芳乃家の縁側で、お茶を啜る音がする。

「のどかだねぇ」
「・・・ああ」

 初夏の昼前、照りつける日差しは強いが、爽やかな風が吹いており、さほど蒸し暑さは感じられない。これが町中ならば既にかなりの暑さを感じる時期なのだろうが、この純日本家屋ではそんなことはなく、この時期でもクーラーもつけず、全ての窓を開け放って風通しを良くしておくだけで十分に涼しい。頭上でチリンチリンと鳴っている風鈴の音も、涼しさ感じさせる 一つの要素となっている。
 古き良き日本の伝統を残すこの家で過ごすのは彼、朝倉純一にとっても色々な意味で好ましいことであった。
 しかしどうせならもう少し、冷たいものの一つくらいはほしいと思うところでもある。傍らに置かれているのは、熱い緑茶だった。

「なぁ、さくらよ。麦茶とかはないのか? あとはスイカとかさ」
「夏のはじめから冷たいものばかり口にしてるとお腹壊すよ。このくらいの暑さなら、むしろこのあつーいお茶がいいんだよ」
「そういうもんか・・・」

 本当かよ、と思いつつ熱いお茶に口をつける。すると最初は熱さだけを感じるのだが、喉を通り過ぎてしばらくすると、程好い感じに渇きを潤していってくれる。なるほど、これもまた古き良き日本の伝統か、などと考えながら掌を差し出し、一度握ってから開く。
 開いた掌には、小さな和菓子が二つ載っていた。

「ほれ」
「ん、ありがと♪」

 その内の片方を隣に座る少女、芳乃さくらへ手渡し、残りを自分の口の中へ放り込む。口の中に広がる甘さが、お茶の苦さとの間で絶妙な調和を生み出し、美味しさが際立つ。
 手から和菓子を生み出す。現在純一が扱える唯一の魔法である。使うと自分が空腹になるため、あまりものの役には立たない能力だが、最近は生み出す和菓子の味も上がってきており、お茶請けに困らないというのは、少しは役に立つことかもしれない。
 日差しを避けつつ、心地よい風を受け、風鈴の音を聞いて、和菓子を食べ、お茶を飲んで、ゆっくりくつろぐ。

「のどかだな」
「うん」

 純一とさくらは、縁側に座ってのんびりとした気分に浸っていた。
 十代半ばの男女が、何とも年寄り臭い老夫婦のような雰囲気を醸し出しているものだと、他人が見たら思うことであろう。というか、本人達もそう思っていたが、二人でこの家にいると、どうしてもこのような雰囲気になってしまう。小さい頃、祖母がいつもそうしていたのを見て育った影響かもしれない。
 このまま日がな一日、こうしていても良い。そう思えるほど心地よい。
 うん、それが良い、と純一は悟りきった老人のような静かな顔でお茶を啜る。

「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだ〜?」
「そろそろ現実逃避はやめて、戻った方がいいんじゃないかな?」
「・・・・・・やっぱり、そうだよな・・・」

 悟りというよりは、諦めの境地に至ったような表情を純一は俯かせる。人間、そう簡単に世俗から離れて悟りに至れるものではない。純一は重たい頭を横に向けて隣、即ち自分の家を見やる。そして、その先で展開されている修羅場を思い浮かべて、大きなため息を吐いた。

「はぁ〜・・・・・・・・・かったりぃ」
「ほらほら、お茶飲み終わったら帰った帰った」
「ここは治外法権で唯一の逃げ場なのに・・・」

 修羅場から逃げて駆け込んだ場所は、結局十五分足らずで追い出されてしまった。







 家へ戻った純一は、居間に入るなり再びため息を吐いた。居間の奥、キッチンにおいては、あまりに予想通りで、できることなら見たくはない光景が繰り広げられていた。
 キッチンに立っている二人の人間は、白河ことりと朝倉音夢。純一の、恋人と妹である。
 ちょうど、二人の手が同時に同じ食材に向かって伸ばされたところで二人の動きは止まっていた。互いを牽制しあうように、それでいて表向きにはとても素敵な外行きの笑顔を浮かべている。

「音夢さん、こっちは私に任せてもらって結構ですよ」
「いえいえ、我が家の食卓のことですから、白河さんはお気遣いなく、あちらでお待ちになっていてくださいな」
「お邪魔しているのはこっちですから、これくらいはさせてください」
「ですけど、他所の家の台所では勝手もわかりませんでしょう? 例えば包丁の置き場所とか・・・あら?」
「あ、包丁ならこっちですよ。ここの方が便利なので、この間移しておいたんです」
「あらまぁ、ついこの前までこっちだったのに、一体いつの間に?」
「わりと頻繁に来させてもらってますし。毎日店屋物やコンビニのお弁当ばかりだって聞いてましたから、そればっかりじゃ栄養偏っちゃうんじゃないかと思いまして」
「そうなんですよ。私が作るって言ってるのに、兄さんたらなかなか私を台所に立たせてくれないんですよ。だからこの通り、包丁の置き場所まで曖昧になってしまって」
「かわいい妹さんが作るって言ってくれるのを拒むなんて、困った人ですね、朝倉君も」
「ええ。やっぱり口うるさい妹より、かわいい恋人さんの作った料理の方が食べたいんでしょうね〜」
「そんなことないですよ。きっと照れてるだけで、音夢さんの料理も食べたいと思ってるはずですよ?」
「じゃあ、代わってくれます?」
「いえ、これは私が頼まれたものですから」

 ことりと音夢、この二人はミス風見学園を二度に渡って争ってきた学園きっての美少女である。学園のアイドルと呼ばれ慕われることりはもちろんのこと、音夢の校内での人気も相当なものだった。
 そんな美少女達が、楽しげに談笑しながら料理をしている。今この瞬間を写真に収めたら、さぞ高値で売れるであろうと容易に想像できるほど、そこにあるのは極上の笑顔だった。そう、今現在の状況や、会話の内容をまったく知らなければ、ただ美少女達のツーショットを見て楽しむ気持ちになれるであろう。
 二人の話し声も和やかで、険悪な雰囲気など微塵もない。
 だが、笑顔の裏側や、言葉の端々には、明らかに相手に対する敵意がに見え隠れしていた。極上の笑顔と和やかな雰囲気の裏には、竜虎相打つの絵が浮かび上がっている。

「そういえば白河さん、お昼を食べたら午後はどうされるんですか?」
「今日は、二人でショッピングでもと思ってます」
「まぁ、お昼前から押しかけてきた上に午後も二人一緒だなんて、羨ましいですね。ほほほほ」
「そんな風に言われると照れちゃいますね、ふふふふ」

 神様、逃げてもいいですか、いやここで逃げても罪にはならんでしょう、だからお願いします、逃げさせてください。と、純一は神に祈ってみたものの、無意味な行為だったようだ。この世に神も仏もない。唯一味方になりえると思った お隣さんも、今し方追い出されてきたところである。
 それにしてもこの、和やかなのだけど重苦しい空気は何とかしてほしい。もう既に何度も経験していることだが、こんな空気の中でする食事など、たとえ愛する彼女の手料理であってもおいしくいただけるものではなかった。どうせ味もわからないならばいっそ音夢の手料理でも構わないか、と思ってみたものの、それでは立場が逆になるだけで何の解決にもなっていない。
 何故自分がこんな目に合わなければいけないのか。神様、俺が何か悪いことをしましたか。純一はそう問わずにはいられなかった。
 悪いというなら、これほど慕ってくれるかわいい妹と、かわいい恋人を持った時点でそれ自体が罪と言えるのかもしれない。世にはびこる彼女のいない男達からすれば、まさにその通りであろう。

「あ。朝倉君、そんなところに立ってないで、座って待っててください」
「もうすぐできますからね、兄さん」

 愛しい恋人と、裏モード全開の妹が呼んでいる。純一は観念して、テーブルへと向かった。
 気休め程度だが、少しでもこの空気から逃れようと窓の外を眺めながら待っていると、ドンという音を立てて目の前に青々とした野菜がたっぷりと盛られた大きなボール皿が置かれた。

「どうぞ、兄さん。サラダです」
「お、おう・・・いや、それはわかるが・・・」

 サラダなのは見ればわかる。これを肉だと言われて頷くなら眼科以前に精神科に行くべきであろう。どこからどう見ても、完璧な野菜盛りである。なるほど、火の元が全てことりに占拠されていたため、唯一音夢に作れたのはこれだけだったのか、と納得する。

「たんと召し上がれ」
「えーと、音夢・・・」

 何をどう言おうか迷っていると、さりげない仕草でボール皿を純一の目の前からテーブル中央へ押しやり、ことりが持ってきた皿を置く。

「今日はシンプルにしてみたから、ちょっと量が足りないかもしれませんけど」
「いや、十分だぞ。問題ない」
「ええ、問題ありませんよね。サラダならたっぷりありますから」
「・・・そうだな」

 和やかなれど重苦しい空気は、食事の間もずっと続いていた。

「お味の方はどうですか?」
「うん、いけるぞ。なぁ、音夢?」
「ええ。ですけどちょっと濃い目でしょうか・・・」
「音夢さんのサラダがたくさんありましたから、それと一緒に食べるならこれくらいがちょうどいいかな、と思いまして」
「なるほど。そこまでお考えだったとは、さすがは白河さんですね〜。私も見習いたいです」
「大したことじゃないですよ。音夢さんのサラダもとってもおいしいですよ」

 味付けも何もしていないでただ切って盛り付けただけのサラダなんて誰が作っても同じだろう、という言葉を純一は辛うじて呑み込んだ。これ以上状況を悪化させたくはない。鈍感だ鈍感だと言われている 純一だが、それくらいの分別はある。
 ここはただひたすら我慢である。緊張状態が解けるまでは、貝のようの閉じこもって波風を立てないようにする。それがこの場を乗り切る最善策だった。

「兄さん、この後はデートだそうですね?」

 だが、妹さまはそう易々と見逃してはくれないらしい。

「ま、まぁ、その・・・デートというほどのものでは・・・」
「そうなんですか? 白河さん」
「私はそのつもりですよ。ねぇ、朝倉君?」
「そ、そうだな・・・そうかもしれん」
「そうですか。ではお二人とも、心行くまで楽しんできてくださいね。あ、よければお夕飯も食べてきてらしたらどうですか? 私のことならお構いなく、家で一人寂しくコンビニ弁当でもつついていますから」
「んー、だそうですけど、どうします? 朝倉君」
「あー、えー・・・考えて、おくよ。夕方近くになったら一度電話するから」
「本当に、私のことは全然、まったく、これっぽっちも気にしなくていいんですよ、お二人さん?」

 どこまでも裏モードを貫きながら、言葉の端々に棘を感じさせる音夢。ことりと恋人同士になり、頻繁に二人で出掛けたり、さらにはことりが家に来るようになってから毎日この調子である。
 音夢のこの態度はある程度覚悟していたものの、ことりの方もことりの方で売り言葉に買い言葉なのか、負けじと言い返すものだから、二人が顔をつき合わせている間は気の休まる時がなかった。やっぱり逃げ出していいですか神様、とここ数 週間毎日のように願っていることを今もまた思い描く。だが神は無情であった。
 結局この空気は、食事が終わり、ことりと二人で家を出るまで続いたのだった。







「あんまりお兄ちゃんをいじめないでおいであげなよ、音夢ちゃん」
「別にいじめてるわけじゃありません」

 昼食が済んで二人が出掛けた後、音夢は庭で垣根越しに隣のさくらと話していた。
 互いに“兄”を挟んで様々な思いを抱き合う仲だったのも昔の話。間から純一がいなくなった今となっては全て詮無いことであった。そして、純一という要素がなければ、二人は良い友人同士という仲を築けていける仲なのだ。
 だから暇な時は、こんな風にして話すことがよくあった。

「ええ、わかってますよ。こんなのはただの私のわがままです」
「うん、そうだね」
「兄さんはもう選んじゃったのに、未練がましく嫉妬してるだけですから」

 傷の舐めあいと言えばそうかもしれない。音夢もさくらも、それだけ本気で純一のことが好きだったから、純一がことりと付き合うようになった時には、それなりにショックを受けた。けれど妹として、兄が本気で好きな相手との仲を応援したいという気持ちもある。ことり自身のことも決して嫌いではなく、むしろ好きな部類に入る。でもやはり、純一が自分の方へ振り向いてくれなかったことは悔しい。
 二つの気持ちがせめぎ合った結果、あんな態度を二人に対して取ってしまう。我ながらかわいくない妹だとは、音夢も自覚していた。

「さくらちゃんは、悔しくないの?」
「そりゃあ、ちょっとは悔しいけどね。でも、ボクとお兄ちゃんの関係が変わるわけじゃないし。プラスにはならなかったけど、マイナスにもなってない」
「大人ですね・・・。私は、そんな簡単には割り切れません」
「ゆっくり気持ちの整理をしていけばいいんじゃないかな? 時間はたくさんあるし。兄妹っていう絆は、一生切れないものなんだから」

 さくらの言うとおり、今以上の関係は築けなかったが、これから一生、兄妹の絆が切れるわけではない。ならばせいぜい、その消えない絆に縋り付いていてやろうと思う。

「まぁ、兄さんには当分、こんなかわいい妹にずっと慕っていてもらいながら見向きもしなかった罰として、わがままな妹に振り回されてもらうことにします。でないと、島に残った意味がありませんからね」
「うにゃ? 音夢ちゃん、島を出るつもりだったの?」
「本当は本校には進学しないで、看護学校に行くつもりだったんですけど、卒業まで延期です」
「そっか。ボクもその内アメリカに戻らないといけないけど、二人が卒業するまではこっちにいようかな」
「じゃあそれまでは、二人で兄さんの恋の行く末を見守るとしますか」

 こんなに慕ってくれているかわいい妹二人を放っておいて別の人を好きになったのだ、あっさり振られて捨てられでもしたら、こちらの面目が立たないというものだった。せいぜいそうならないように、あの朴念仁の世話をしていかなくてはなるまい。

「あーあ、かったるいな〜」
「ほんと、かったるいねぇ〜」






「ごめんね、朝倉君」

 家を出てしばらく歩いたところで、突然ことりが両手を合わせて苦笑いを浮かべてみせた。何故ことりが謝るのかわからず、純一は首を傾げる。
 だが、すぐに思い当たって手を振ってみせた。

「いや、いいって。あれは誰が悪いっていうもんでもないだろ・・・しいて言えば俺か」
「朝倉君が悪いんじゃ、そもそも朝倉君が私を選んでくれたこと自体が間違い、ってみたいに聞こえるよ?」
「へ? いや、それはない! 断じてないぞ!?」
「ふふっ、冗談です」
「・・・おーい」

 相変わらず、学園のアイドルと言われるほどのかわいい顔で笑えない冗談を言ってくれるものであった、この恋人さんは。そんなお茶目なところも、純一が惚れた要因の一つなのかもしれないが。

「よくないなぁ、と思いつつ、つい張り合ってしまうと言いますか・・・」
「どっちにしろ、先につっかかっていってるのは音夢だろ。ことりが悪いわけじゃない」
「でも、ああなるとわかってて押しかけていってるわけですし、私も」

 付き合うようになってから、ことりが朝倉家に来たことは何度もある。その度に、ことりと音夢の熾烈な争いは繰り広げられてきた。
 表面上はこの上なく親しげにしながら、水面下では激しい火花が散っており、間に挟まれた純一は著しく精神力を削らされることとなっているのだ。三角関係、というよりは、嫁姑問題に近いような気がする。

「朝倉君は、まさか音夢さんの気持ちに気付いてないなんてことはないですよね? あと、芳乃さんも・・・」
「ん・・・まぁ、な・・・」

 気付かないはずはない。音夢にしても、さくらにしても、口では「兄さん」「お兄ちゃん」と言いながら、実際にはそれ以上の想いを込めて呼んでいることくらい、鈍感な純一にもわかっていた。

「けどやっぱり、俺にとってあいつらは妹で、それ以上じゃないからな。それに何より、俺が好きになったのは、ことりなわけだし・・・」
「・・・うん」

 もう何度も言ってきたはずなのだが、いまだに「好き」という言葉を口にして言うと気恥ずかしさが浮かび上がってくる。
 ことりは顔を赤らめながら、それでも嬉しそうに頷く。だが、その表情に少しだけ陰が差した。

「でもね、時々不安になるの。心が読めなくなって、朝倉君の言葉は信じられるけど、だけどもしかしたら、音夢さんや芳乃さんの方で行ってしまうんじゃないか、って思うと・・・」
「ことり・・・」
「だから、少しでも繋ぎとめたくて・・・結構わがままみたいです、私」
「わかるよ。俺だって・・・ことりは人気あるからな、今でもほんとにこんな良い娘が俺なんかの彼女でいいのか、って思うことがある。だから、そうやって態度で示してくれてると、安心する」
「朝倉君・・・」

 道の真ん中で、二人は立ち止まる。幸いなことにというか、おあつらえ向きにというべきか、周囲には誰もいない。

「私、あんな風にしてていいんですか?」
「むしろ少しくらいわがままな方がかわいいだろ。行き過ぎると・・・かったるいんだが・・・」
「わかりました。じゃあ、程好くわがままにいかせてもらうッス」
「おう、それでこそ白河ことり、俺の彼女だ」
「じゃあ、私の彼氏さんは、もうちょっとかったるいは控えてくださいね」
「あら・・・」

 いい雰囲気になりそうだったのをかわすように、ことりは歩くのを再開する。

「お〜い、ことり〜」
「さっきもかったるいとか言って芳乃さんの家に行ってたよね」
「う、それはその・・・」

 それは仕方がない。ことりと音夢に挟まれた状態で長時間いたら寿命が縮まる。その点さくらの家は居心地が良くて心が休まるのだ。だがそんなことを堂々とことりの前で口にできるわけもない。
 どう言い訳したものかと思っていると、先を行くことりが振り返って悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「キスしてくれたらさっきの分はチャラにしてもいいよ?」
「ちょっと待て、こんな道のど真ん中でか?」

 キスすること自体はやぶさかではない。むしろ臨むところというべきだが、今は人通りがないとは言え、さすがにこの場でするというのは――。

「ちなみに、かったるいは禁止です」
「むぅ」
「私はわがままな女の子ですから。さぁ、どうぞ♪」

 ことりは両手を後ろで組んで立ち、顔を少し上向きにして目を閉じる。もうキスの仕方にも慣れたもので、首の傾け方の角度がちょうど純一の方から顔を寄せやすいようになっている。とはいえ、キスの仕方には慣れても、キスそのものにはなかなか慣れない。しかもこんな道のど真ん中で。これも一種の野外プレイというものか、などとくだらないことを考える。
 目の前に準備万端といった感じで待っている恋人。頬はほんのり赤く染まり、恥ずかしがりながらも期待感を滲ませた表情が読み取れる。
 愛しい人の顔の、特に唇に目がいって、純一は小さく息を呑む。当然純一にも、どこであろうとことりとキスをしたいという願望はある。少しどころかかなり恥ずかしいが、幸い誰もいないことであるし、ここは覚悟を決めるべきか。
 一歩近付き、両肩に手をかける。ことりは一瞬ビクッと震えたが、すぐに力を抜いて身を委ねる。
 純一はゆっくりとした動作で顔を近付けていく。どちらも顔も赤く、互いの距離が近付くと相手の心臓のドキドキまで聞こえてきて、自分の心音までさらに高まる。
 あと少しで、というところでふと気配を感じて軽く視線を上げて、純一は固まった。

「げっ」

 自分の顔から一気に血の気が抜けて青くなり、また一気に上って赤く熱くなるのがわかった。
 目が合ってしまった相手の方も同様のようで、真っ赤になりながらも立ち去ることなく、キス寸前の二人の姿をじっと凝視していた。

「ん?」

 異変に気付いたことりが目を開けて背後を振り返り、やはり固まって純一と同じように青くなって赤くなった。

「と、ともちゃんにみっくん!!?」

 見られたことりの慌てぶりも大したものだったが、見てしまった二人の慌てぶりも相当なものだった。ことりがともちゃん、みっくんと呼ぶ二人はことりの子供の頃からの親友で、純一とも面識がある。もちろん純一とことりが恋人同士だということも知っているが、だからといってこんな場面で出くわしてしまってどうすればよいのかはどちらもわからず、上手く頭が回らない。

「ど、どうしてここに!?」
「いやそのっ、たまたま通りかかったと言いますか・・・!」
「そ、そうそう、ただの偶然! なんだけど・・・」
「だから、えーと・・・お、お邪魔しました!」
「ど、どうぞ、続きをごゆっくりー!」
「ちょっ、続きって・・・待ってよ二人ともーっ!!」

 踵を返して一目散に駆け出す二人を、ことりが慌てて追い掛ける。
 だが途中、振り向くと――。

「あ、朝倉君! その、続きは、またあとで!!」
「って、あとでって、ことり!?」

 純一が手を伸ばしかけるが、それよりも早くことりは叫び声を上げながら、二人を追って再び駆け出していった。

「こらっ、待てー!!」

 取り残された純一は、伸ばした手のどう御したものかわからずに呆然と立ち尽くす。道の真ん中でキスする恥ずかしさは回避したものの、あそこまでやりかけたところを見られたのでは結局同じことで、結果として良かったのか悪かったのか、難しいところだった。
 考えるとかったるいが、心地よくもあった。
 つまるところ、純一達の周りは、あまり変わらなかった。純一とことりが恋人同士になっても、純一と音夢・さくら、ことりとともちゃん・みっくんの関係が変わることもなく、今まで通りの騒がしかったり、穏やかだったりする日々が続いている。
 恋人とより良い関係を築きつつ、それ以外の周囲とも良い関係を保っている。その何と素晴らしきことか。
 ならば、少しくらいかったるいことなどどうということはない。恋人のわがままも、妹のわがままも、甘んじて受け入れるとしよう。
 差し当たって考えるべきは、今の続きのことと、夕食を結局どうするか、ということであった。
 考えるとやはり――。

「・・・・・・かったりぃ・・・」



















あとがき
 裏タイトル「アニメ版ことりの逆襲」・・・って冗談じゃよ。短編集、ひさびさの新作短編は原点に帰る意味で、非常にありきたりであっさりしたお話。はっきり言って今さらな話ではあるが、やはりどんなに広がりを見せてもダ・カーポはさくら、音夢、ことりが三大ヒロインだから、書くなら彼女らであろう。今四月だけど、作中は六月から七月頃、原作エンド直後辺りの時間設定だの。
 一応リクエストにあった、ことりとの話というのに引っかかっているかな? あまりラブラブはしてないかもしれないけど・・・というかほのぼのならまだしもラブラブは苦手だ。アニメでの扱いが気に食わないという人のために、逆の立場でのことりvs音夢という構図を描いてみたわけだが、かく言う私自身の一番の贔屓はさくらである。アニメで一番好きなシーンは一期二期通じて一期第1話のさくらのキスだったりする。
 出来としては今ひとつだけど、まぁ久々ならこんなものかの。ではまた次の作品で。